※鍬初め∶一月十一日。「百姓の正月」。山からカシ・クリ・タズなどの木を切って帰り苗田に運び,明(あ)き方(ほ)に向かっておぶく米(神に供える米)をまき,しめ飾りを付けた新しい鍬で田を三回打ち起こす。
いはれほのめく∶言はれ仄めく(連語)。言われもし,それらしいそぶりが見えもする。
§同音 いわれ 磐余 (日本書紀)神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)=神武天皇
海馬∶タツノオトシゴ,とど,あしか,又は架空の動物の異称
(海馬(脳)∶短期記憶を司る脳の部位)
(復路)
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沖縄本島に再び バイクを駆りまして たどりついたあの 至高の御嶽は── |
支出1400/収入1220
▼14[210]
/負債 140
/利益 30
[前日累計]
利益 -/負債 140
§
→一月四日(六)
0905名護そば(松山)
ポーク卵450
1053まんぷく食堂
牛汁(ぎゅうじる)550
1900パティスリージョーギ
新都心ロール370
[前日日計]
支出1400/収入1370
▼14[211]
/負債 30
[前日累計]
利益 -/負債 170
§
→一月五日(天)
目録
正解∶米軍住宅の丸っこい敷地
尋常ならぬ私事により,自失モードで小禄駅。0840,ゆいレールにて美栄橋へ。
台湾の地勢を凝視してきた眼には,何度も眺めてきた沖縄のそれが新鮮でした。
駅から見下ろす小禄の街は,何となく包囲されてる感覚があります。地図で見ると,まさに金城公園を中心にした円環を成しているように見える。やはりこの城邑の中心はこの公園だったのではないか(正解∶米軍住宅の敷地配置。巻末参照)。
小高い丘が連なる。往時の航海者はこの小禄の丘陵と首里のそれとの間に港を見出だしたわけだけど,沖縄南中部にこんな地形はここと東側の与那原しかない。いずれも東西に連なる二つの丘陵群の間,という立地。そのうちなぜ那覇だったのかというと──西向きだったからだろうか。それとも首里に近く政治的に管理しやすかったからか。
あまりにも沖縄的なポーク卵
正月の沖縄の店がほとんど開いてないのは,もう承知してる。なお,県立図書館も今日までは休み。ということは必然,遠出に使うべきは……今日しかないのです。
なので,松山交差点のホテルエアウェイに入る途中,24H年中無休の名護そば(松山)へ。困った時の店で──「すみません業者が…材料切れで……」と自販機の7割がたのメニューに「✕」がついてましたけど,それでも……
▲ポーク卵
0905名護そば(松山)
ポーク卵370
これも久しぶりです。前回食べたのは──忘れたけど名護のどこかだった記憶。
──やはり記憶通り,このメニューの卵焼きにはほとんど調理料の痕跡がない。
これに対し,ポークの側はきっちりクリスピーに焼きこんである。胡椒も施してある。
だからこの両者を適量ずつ食べていくことで,色々な「ポーク卵」が味わえる。この変化……がポーク卵なんではないだろうか。沖縄でこんなシンプルな「料理」がこれほど定着してる理由は。
あと,やはり米が違う。台湾とも内地とも違うんである。粒がおこわのように立ってるというか。沖縄JAルートを追ってみたこともあるけど,これは品種より炊き方の違いに思えてきました。
琉球de牛腩清湯
GM.(経路)
0937,エアウェイに荷を置く。東隣に、VGという珈琲屋が出来てる。エスプレッソもある。
牧志へ急ぐ。
1018,レンタル出来ました!サキハマの原付のエンジンをスタート。姫百合橋を右折。
メーターは6200。今日は何km走るだろう?1025,古波蔵左折。大里を目指す。
雲なし。
風は冷たいけれど陽光の注ぐ県道82号。
1044,上与那原から県道77へ右折すると──あらら?やってるよ!朝食後半戦になっちゃうけど……今回はこの時点で食べないと,ここにはこれない。心を鬼にして(?)入店。
▲牛汁
1053まんぷく食堂
牛汁(ぎゅうじる)550
こんなだったっけ?一時よりさらに上質になった気がするぞ?
──これはまさに広東の牛腩清湯です。少し脂が強いのと鰹節らしき出汁の複合があるのが,まあ沖縄らしさか。
あと人参と大根の根菜を煮てあるのが素晴らしい味覚になってます。
さてと。ここの交差点を,来た方向からは左折して南東へ進んでみよう。県道86。
〔日本名〕沖縄県南城市大里大城951・船舶工兵第23大隊陣地
〔沖縄名〕うふぐしくぐすく
〔米軍名〕Hill 145(145高地)※次章巻末参照
大城城は誤記ではないがどこなんだ?
途中大城で左折,1137。標識に沿って山道を登ると──すぐにあった!大城城跡。
通い慣れた「まんぷく」から直線距離なら1kmちょい。いつもの食堂の裏山が異世界だから,沖縄は恐い。
標高130㍍を最頂部とする琉球石灰岩の丘陵上に形成されている。四方は急峻な崖上になっており自然の地形を巧みに取り込んで作られている別称『ウフグシクグスク』とも呼ばれている古城の一つである。
築城主とその年代については定かではないが、口碑・伝承の中では14世紀の初め頃に大城按司(麻真武)によって築かれたと伝えられている。場内には平らな面が広がり、南側に城門を開き、本丸と二の郭から築かれている。城壁は崖上に沿って野面の石積みで取り囲んでいる。1990年に村の分布調査の結果からはグスク土器、中国製の磁器、褐袖陶器、刀子、鉄釘等が出土した。おおよそ14世紀から16世紀までの資料となっている。〔案内板〕
年代的には,(研究原典に行き着けていないけれど)発掘されたこれら土器・磁器から14〜16Cと,やや長いスパンが判明しているらしい。伝承としては,巻末の通り尚巴志の発祥にまつわる経緯から相当数のものが伝わり,どれも滑稽無稽で像を結ばない〔後掲城郭放浪記〕。
▲案内板の附属マップ
「大城城」は誤植ではありません。「うふぐしく-ぐすく」です。
あと,GM.(グーグルマップ)には心霊スポットに数えられる,といったコメントもありますけど,沖縄でそれ気にしてたらどこもかしこもです。ただ,今思えばごもっとも,という写真を撮ってます。
▲1148「上の六ヶ所」への入る道
陰鬱な場所ではありません。時間的にも朝の清々しい空気に満ちてました。
ただ,沖縄にはよくあるんですけど……陽光が差して暗みがないからこそコワい,という場所。ここはまさにソレでした。
ろっかじゅーが から うふいーひ へ
拝所は「上の六ヶ所」(ろっかじゅーが)。
ノロが馬の乗り降りに使ったという石以外は何もない。ただ,門中碑が取り巻く広場から各方向の藪に道のような形跡があり,うち2本に細い縄が渡してある(上写真)。うち1本の先にだけ樹木の根元に祠らしき石積み(下写真)が見えてる。
▲1150「上の六ヶ所」からの石積みの見える道
大城城の標高は147.5m。大城集落の北に盛り上がった丘です。
最高所の御嶽に着きました。案内板に「ウフイーヒ」とある場所のはずですけど──まさに単なる原っぱ。山上にあるこの不自然な平地がどの程度自然地形なのかは判然としないけれど,概ね大きく3区画。その北西部分がやや高い。ここが政治的中心となった大広間のような場所だったと伝わるけれど,地勢以外に根拠はないように思えます。
何も分からない。沖縄の本物の聖域です。
※この際に迂闊ながら気付いていないけれど,この広場周辺を取り囲む「津波古門中」「城間門中」等門中の名を記す石柱がある。→巻末画像
ぬんどぅんち から たまがはるがー
下には「のろ殿内」(ぬんどぅんち)という場所もある。「大城の殿」(とぅん)というのも同じものらしい。
実際に前に立つと,これも,本物っぽい。
▲1211のろ殿内」(ぬんどぅんち)
案内板には「大城ノロの屋敷跡」とある。
左奥側の香炉はヌルヒヌカンで,ロッカジューガに御通し(うとぅーし)の祈願をします。右側の香炉は糸満のタマターグシクへの御通しの祈願をします。〔案内板〕
──とあるのは,祭壇の拝所の対象を記してあるらしい。ヌルヒヌカンは「祝女火神」。通常,瀬底島を拝みの方向とするから,大城ノロは糸満と瀬底島,いずれも東を志向していたらしい。
▲1212 ヌルガー
ヌルガー。これも大城ノロの関連です。
大城ノロが使用したといわれる井泉です。区においては旧正月や五月、六月ウマチーの際に拝みを行っています。また、ノロが匂玉や髪を洗い清めたのがタマガハルガーといわれています。〔平成27年(2015年)3月南城市教育委員会案内板〕
上のヘーリからローソンまで
「上のヘーリ」という場所を探してる途中,何というか,近寄り難い空間を見つける。表示はない。樹木と岩の根元なんだけど,何というか──。
上のヘーリの「ヘーリ」というのが何なのか分からない。すぐ北の稲福集落に「稲福イリ」という場所があり,「根所」(にどころ,にーどぅくる)と言われ,村長管理だった拝所があるという〔後掲フィールドワーク録〕。根所は漢字のとおりだけど,集落発祥地,通常は最初の開拓民の家屋跡が神格化したような場所のようです。
こんな濃い空気の土地の霊的震源地なら,そりゃ如何に霊感なくともピリピリ来るわな。
1224,ローソンで一服して意識を現世に戻す。県道86をさらに南東へ。
■レポ:小禄金城地区のなめらかな湾曲
上掲写真の下側が現在で,縦にゆいレール,中央に小禄駅,その右手にAEONが写っているので位置が分かりやすい。
上半分が,概ね1982(昭和57)年※の民間返還前の光景です。主に米軍住宅として使用されていました。
従って,小禄駅とAEON周辺の微妙に特徴的な町割りは米軍住宅のそれの名残りです。
※ 1945(昭和20)年に米軍が元空港施設とともに強制接収。その返還は,正確には1965(昭和40)〜1983(昭和58)年まで十数回に渡り行われたが,「那覇海軍・空軍補助施設」名の3,787㎡のうち2,278㎡(≒60%)が1982(昭和57)年に返還された〔後掲沖縄県〕。
現在の街区は,ほとんどの返還が終わった1982(昭和57)年に実施された同地区の都市区画整理事業により設計されたものです
〔後掲那覇市〕。
なぜ重なり なぜ残るか?
個人的な関心としては,この純・軍事施設化の半世紀を経て,それ以前の集落構造が残存しているものかどうかですけれど──現実に小禄金城公園に御嶽は存続しています。
この時にも不思議だったのですけど──なぜこの位置に御嶽が在り続けていられるのでしょうか?
(再掲) 沖縄戦後に土地を徴収され、御嶽は基地の中となってしまったが聖地として保護されてきた。
金城の人々は御嶽が望める方向に拝所をつくり祈りをささげていた。返還後もとあった場所に戻され、現在の金城ノ嶽となっている。
※ 那覇市観光資源データベース/金城ノ嶽(金城嶽)
この類の話は真藤順丈「宝島」にも嘉手納基地の中の「紫さんの御嶽」(チチェーン御嶽?)として登場します。
従って分からないのは次の二点です。
①なぜ重なるか?∶沖縄の御嶽はしばしば沖縄戦の激戦地に重なり,結果軍用地として接収されている(された)ケースが多い。──最近,これは霊地とグスクの重複にも原因するかもしれないと仮想してもいます。
②なぜ護られる?∶にも関わらず,例えば小禄金城御嶽に重要施設を建てて地盤からブルドーザーを入れる,というようなことはせず,現在でも公園地に使える状態に保たれてる。──これもグスクとの重複,つまり平地建物の敷地として不適切,ということがあるかもしれません。
小禄航空基地から那覇空港へ
上記1945年画像でも一目瞭然ですけど,小禄金城地区が空港に附属する軍用地扱いされるのは米軍占領以降です。米軍も金城地区を滑走路にはしなかったけれど,関係軍人の住宅に使用します。
日帝はここに「空軍」を置く発想はあまりなかったのか,あるいは単に兵站(ロジスティクス)軽視の結果なのか,とにかくアメリカ世より前にはこの軍人住宅はありませんでした。
1935(昭和10)年 逓信省管理の「那覇飛行場」に変更
1940(昭和15)年 滑走路を1500mに拡張(日中戦争による輸送便増に対応)
1943(昭和18)年 逓信省→旧海軍に所管変更,「小禄航空基地」に戻る(併せて大規模拡張,翌19年9月頃竣工)。南西諸島方面航空隊の本部設置,第二十五航空戦隊偵察第三飛行隊小禄派遣隊が常駐。
1944(昭和19)年 10月空襲で航空基地機能喪失

1947(昭和22)年 パン・アメリカン航空の国際線乗入れ開始(東京~那覇~香港~マニラ)
1952(昭和27)年 米軍による大規模再整備
1959(昭和34)年 旅客ターミナル完成(現・第2ターミナル位置)
1962(昭和37)年 エア・アメリカ,南西航空の民間機就航

1972(昭和47)年 沖縄返還後,日本の第二種空港。管理権は米軍
1982(昭和57)年 管理権が航空自衛隊に全面移管
※小禄金城地区の大部分が返還完了
1986(昭和61)年 滑走路3000mの供用開始,新国際線ターミナルビル完成
2003(平成15)年 沖縄都市モノレール(ゆいレール)開通(那覇空港駅起点)
2014(平成26)年 那覇空港滑走路増設事業着工,那覇空港新国際線旅客ターミナルビル供用開始
〔後掲桜と錨,那覇港湾・空港整備事務所より作成〕
小禄金城地区には約37年間,米兵とその家族が住んでいたわけです。この間,現・金城公園地がどういう用途に用いられていたかが分かれば上記の疑念点を考える上では面白いのですけど……そこまでは発掘できませんでした。
〔後掲琉球新報〕
小禄バス停で誰が降りたか?
考えてみると,現在のこの小禄の位置は(沖縄にしては)大規模ベットタウンであるだけでなく,南部への交通の要地です。
例えば那覇から糸満に移動する時,返還前のバスは現・小禄駅位置(小禄金城)を通らずに,どこを通っていたのでしょうか?
確かに,戦前の鉄道路線は那覇から東風平経由で糸満を結んでいました。だから戦後の県民はこちらを幹線にしてたのか?と思いきや,そうではないらしい。
※戦後,志喜屋孝信・沖縄民政府知事はウィリアム・H・クレイグ軍政府副長官宛の鉄道再建要請をしている。これに対しクレイグは「沖縄本島の運輸機関の欠乏は深刻で,軍政府も鉄道再建に必要な資材を獲得する特別な努力を続けている」と前向きにも取れる発言をしているが,実際は実現していない〔後掲琉球新報〕。
「小禄」というバス停が,路線図,ルート順ともに確認できます。
つまり,遅くとも1949年には小禄(おそらく現・小禄駅=小禄金城地区)にバスで乗降でき,そのバスはほぼ現・ゆいレールのルートを通っていたと考えられるのです。
この時代にも,コザルートの嘉手納基地内には路線が入ってない。当時,一般県民はバス利用しにくかったと考えると,おそらく,小禄は米兵の乗降を想定したバス停だったのでしょうけど,それでも一般人の通過は許されたエリアだったのでしょう。
けれど,バスの車窓から見える場所に帰れなかった小禄の元の住人たちの心地も察せられます。
■レポ:大城按司真武と琉球王祖尚巴志のいた風景
14C後半,大城城の主・大城按司真武は大里城主・島添大里按司に滅ぼされました。この大里城主を攻めたのが,佐敷に根拠を置いた尚巴志。
琉球王朝第一尚氏の実質の祖(第2代)は,まず大里城を陥とし,その後,首里を征して王朝を立てます。
1393年 (21歳)佐敷按司となる。直後,島添大里按司(しまぞえうふざとうあじ)※を攻撃
※先年に巴志一族の大城按司(うふぐすくあじ∶大里村稲福に墓有)を滅ぼす。
1402年 大里城落城
1405年 尚巴志,諸按司の要請によりを武寧(察度王∶中山)征討軍を編成,首里城を攻撃
同年 尚巴志,父・思紹を中山王とする第一尚氏王統を立てる。
同年 明成祖帝に進貢使派遣。明の成祖皇帝に冊封使派遣を要請。思紹を武寧の子として冊封使派遣を要請。
1429年 中山,南山を滅ぼし三山統一〔後掲kazu〕
9年で大里 1年で首里を陥とす
矛盾に満ちている琉球史の中でも,このストーリーは,時空の実感を持って見れば明らかにおかしい。
繰り返しますけど大城城は標高147m。独立峰状の地形と南風原から海への出口という位置から確かに軍事的要地とは言えますけど,随一というほどじゃない。
大城城を滅ぼした大里城も標高は同程度(150m),その他の条件もあまり変わらない〔後掲南城市/島添大里城跡〕。
佐敷城から大里城までたった5km。この局所的抗争に9年もかけてようやく辛勝した尚巴志が,そのたった3年後に,今度は一年で首里を陥落させる。
何だか太平記の北畠顕家の陸奥からの進軍とか足利尊氏の九州からの再上洛のくだりを読むようです。軍事のスケールが,あまりにも飛躍し過ぎてます。
(下)佐敷〜那覇・首里
〔地理院地図〕
琉球の正史に則ったこのストーリーを一応信頼するとするならば,背景に尚巴志の軍事行動以外の何か大きなうねりを想定せざるをえません。
試論∶大城と尚巴志の伝から偽を除去する
B 南山王国は朝貢を行っていた。
C 大里城勢力が大城城勢力を滅ぼした。
(以下「大里城勢力≫≫✕大城城」)
D 佐敷城勢力(尚巴志)≫≫✕大里城勢力(≠南山王国)
E 佐敷城勢力(尚巴志)≫≫✕首里城勢力(中山王国)
F 尚≫≫✕北山
G 尚≫≫✕南山,琉球(三山)を統一
実に多数の琉球史論がこの点で史料の蓄積に沈没しています。そこで本稿では,前記ストーリーを構成するA〜Gのいずれか(単数又は複数)が偽であると見て,偽でない要素が矛盾なく並立するまで,要素を削っていく戦略を取ります。
まず,琉球正史の記述についてです。初期の「中山世鑑」(1650年編纂∶以下「世鑑」)と,後期に蔡温編纂の「中山世譜」(18世紀前半成立∶以下「世譜」)とで,前記ストーリー中の重要ポイントが異なっている点を確認します。
A 南山王国の都・大里の位置
島添大里(佐敷北西5km)
≫島尻大里(現・糸満市立高嶺小学校(→GM.∶地点),俗に「南山城」)
D 尚巴志が滅ぼした(島添)大里の主
南山国王≫(あくまで部下の)大里按司
この転換は,当然にして次のポイントEに概念的な変化を及ぼします。
【世鑑】南山王国(尚巴志)≫≫✕首里城勢力(中山王国)
【世譜】佐敷城勢力(尚巴志)≫≫✕首里城勢力(中山王国)
つまり,第一尚氏(実質∶尚巴志)が継いだのは南山だったのか,それとも中山だったのか,という違いです。
この記述変更の本質は
18世紀前半に琉球王国の名宰相蔡温(さいおん)が編纂した『中山世譜』では、大里按司の居城は島添大里城ではなく、初めから島尻大里城であったと変更が加えられました。これは、蔡温が1429年に南山王が明に朝貢した記録を発見したことによる修正とされています。すなわち、浦添城を襲える時点で島添大里城は尚巴志の城であり、その後も南山の朝貢が確認されていることから、南山王こと大里按司の大里城は島添大里城とは別のものでなければならないというわけです。〔後掲綺陽堂〕
という評があります。本稿もこれを支持します。つまり──
尚氏三山統一史は朝貢記録と矛盾してはならない
からです。蔡温の政治的問題意識が対大陸関係維持の一点にあったことは既に確認しました。
このバイアスを計算に入れると,蔡温が史実のどの部分を世譜で「修正」したのかは容易に想像できます。
A・D・E・Gです。
【✕】A 古くから大里を都とする南山王国が存在した。
【◯】A 古くからの(島添)大里を都とする南山王国は弱体化していたが,前期倭寇残党勢力はこれを「神輿」として対明交易を行っていた。つまり交易主体としての「南山」はかつてない隆盛を誇っていた。
【✕】D 佐敷城勢力(尚巴志)≫≫✕大里城勢力(≠南山王国)
【◯】D 佐敷城勢力(尚巴志)≫≫南山王国 ∶第一尚氏はまず南山国王の地位を簒奪した。対大陸交易の神輿としての「南山」もそのまま前期倭寇残党に使用させ,彼らとの連合により政軍面してともに強力化した。
【✕】E 佐敷城勢力(尚巴志)≫≫✕首里城勢力(中山王国)
【◯】E 南山王国(尚巴志(南山王国)≫≫✕首里城勢力(中山王国) ∶(この点は単純に世鑑通りに)南山が北山を併呑した。この時点(1405年)で,一の政治権力が複数の朝貢主体を持つ,大陸・明からすると不当な(=蔡温が絶対に隠蔽したい),スポンサーたる前期倭寇集団からすると有利な状況が1429年まで14年間続く。
【✕】G 尚≫≫✕南山,琉球(三山)を統一
【◯】G「南山」名義での朝貢が中国側記録に残る最後の回。従って蔡温は,この時点まで南山王国が存続し,以後は北山が滅ぼした,と世譜に記述した。
──1429年の南山朝貢最終回後は,琉球全体の朝貢回数が減少に転じています(下図参照)。つまり,中山への一元化を尚氏が政治的に進めたからではなく,単に朝貢自体の旨味が減ったので「南山」牌が使われなくなった,要するに自然消滅した,と推測されます。
「三山統一」≒倭寇残党による南・中山王権簒奪劇
最後に,以上を踏まえて,14C前半に尚巴志が辿った現実の軌跡を整理しましょう。
14C初めの「南山王国」牌は,南山王権が事実上の政治的に瓦解していたからこそ,前期倭寇残党にとって利用価値が拡大した。残党群にとって朝貢の名目で大陸との交易が出来れば利益が出たし,「王国」側にもリベートが還元されました(大城・大里・佐敷に出土する中国磁器はその結果と思われる)。
ただ,利潤が蓄積されると利権を争う内部抗争も激しさを増し,内部統制の元からない「王国」内に大城・大里・佐敷間の小競り合いが恒常化しました。
「治安」の悪化は商業環境として良くないので,残党側に政治的安定への志向が生じ,たまたま優勢で何とか大里を陥とせた尚巴志に,鮫川親方(佐銘川大主)ら残党勢が合力する。すると弱小軍閥が並列した当時の琉球では傑出した軍事勢力が構成されたので,首里に進軍して本島南部(中山+南山)を支配下に入れました。──中山王国も南山同様に形骸化していたと考えれば,ここまでは,ほぼ無血の行軍だったのではないでしょうか。
さてその結果として,全島の治安維持が可能な軍事力が形成されたけれど,それで一個の「王国」を構成する,というプランニングは尚巴志も鮫川親方も持っていなかったのではないでしょうか?少なくとも十数年,明へは「中山」「南山」の両看板を使って朝貢してしまう。
「琉球王国」プランが誰の立案又は必要から生まれたかは想像しにくいけれど,明側の「指導」があった可能性はあります。尚巴志は,どちらかというと渋々,王国の形を整えた。自身が初代王に就かなかったのもその現れかもしれません。
──という,要するに「『南山』看板で朝貢して旨味を覚えた元海賊集団が『中山』看板にも触手を伸ばした上,ライバルの『北山』看板を破壊した」という実態を,蔡温までの久米の王国事務方が苦労して大陸風の「王国統一譚」に加工したのが,中山世鑑・世譜であり,今我々が通説として読む琉球王国史なのではないか,と考えるのです。
■断片集:大城城にまつわる刺激的な闇
以上に部分的に近い想定は幾つかのHP等論考にあります。ただ,それでもなお漏れている矛盾点は幾つかあるようです。以下ではこれを列挙しつつ,大城城のデータ集を兼ねていこうと思います。
【琉球国由来記】大城の祭祀がなぜ独自か?
琉球国由来記は大城城を次のように記述します。
※1713(正徳3)「旧記座」編集。中山王府の歴史・祭祀等に関する資料収集命令に基づく。
城内ノヤラザ嶽 神名 火鉢ノ御セジ
地頭所火神
大城之嶽 神名 ヨナフシノ御イベ
同嶽 神名 コバヅカサノ御イベ〔後掲琉球国由来記/巻十三〕
城内の神は火の神(ヒヌカン)の類らしい。城以前の嶽と思われる大城嶽には二神,「コバヅカサノ御イベ」は場天御嶽や北中城村の上の御嶽などに例があるけれど,「ヨナフシノ御イベ」はあまり他に見ない。「世直し」でしょうか?
無形の祭祀も独自性が強いらしい。
稲二祭之時、花米九合完、五水一沸二合完、神酒一完(地頭)、神酒三完(百姓)供之。同巫祭祀也。〔後掲琉球国由来記/巻十三〕
稲に関する二度の祭り(稲穂の祭りと収穫時)の時には、花米(塩か?)を九合まるまる、五か所で採った水を一回煮沸したもの二合まるまる、地頭(村長)からお神酒一本まるまる、ほかの村民から三本まるまるをお供えする。大城ノロが祭祀を司る。〔後掲フィールドワーク録〕
属人的には大城ノロという人(役職)に由来するみたいです。
大城城から500m北北東の稲福の殿(→GM.)にも類似点のある儀式があり,これも同ノロの祭祀圏だったと推定できます。
稲福之殿 稲穂祭之時、花米九合、五水一沸六合、神酒一(地頭)、神酒三(百姓)供之。大城巫祭祀也。大祭之時、百姓より巫・掟阿武、両度賄仕也。〔後掲琉球由来記〕
稲福の殿(とぅん)では、稲の穂が出たときの祭りの際に、花米を九合、五か所で採った水を一回煮沸したもの六合、地頭(村長)からお神酒一本、ほかの村民から三本お供えする。大城ノロが祭祀を司る。また、収穫時の大祭りの時には、村民からノロとウッチアム(ノロの助手をする女祭司)にもう一度準備する。〔後掲フィールドワーク録〕
これが南山本拠と疑われる大里城であれば「祭祀も南山独自の形態があった」と考えていいでしょう。でも独自性(≒中山系と異なる)という点では,大里城より大城城の方が強いようです。
大城城が大里城と争っていたということは,大城は南山本流的な存在ではない。南山とも異なる独自の文化が大城にあったのでしょうか?
【おもろそうし】大城はなぜ「根」か?
おもろそうし※には,大城を含むものが三つ確認できます。
※首里王府編纂の沖縄最古の歌謡集。琉球王国第4代尚清王代(1805(在位1526年〜)〜同尚豊王代(在位1621年〜)にかけ成立。全22巻
きこへ 大ぐすく みあがる ぢやうたてゝ しげち もちよせて
又とよむ 大ぐすく
訳文と解説
聞え大城 見揚がる城門を建てて 神酒を持ち寄せて
又鳴響む大城
大城の繁栄を予祝・讃美したオモロである。大城の見事な城門を建てて、神酒を持ち寄せて。酒は、しばしば富や繁栄を代表するものとして謡われる。〔後掲レキオ島唄アッチャー〕
※後掲Wikisource及び「おもろさうし」テキストデータベースの17-1225(51)に「あおりやへ節」,18-1255(7)に「あおりやへが節」として掲載
「とよむ」は沖縄語で「富む」の意味はなく,「鳴り響く」でいいらしい。いずれにせよ権勢を誇った様子を表しています。
大ぐすく おやいくさ ぢやくに とよみいくさ みちへど みあぐも
又くにのねの おやいくさ
訳文と解説
大城の御軍 大国鳴響み軍 見てこそいっそう見たがる
又国の根の御軍
大城の御軍を讃美したオモロである。大城の御軍は大国に名高い軍である。その御軍は、見てこそいっそう見たいと思う素晴らしい御軍である。〔後掲レキオ島唄アッチャー〕※後掲Wikisource及び「おもろさうし」テキストデータベースの17-1224(50)に
あおりやへ節)の17-1224(50)に「あおりやへ節」,18-1254(6)に「あおりやへが節」として掲載
又より前は,大城の軍勢の見事さを表します。ここにも「とよむ」が出てくるので,大城の権勢はその軍事的優越を主としていた可能性があります。
けれど「くにのねのおやいくさ」は明らかに質的な内容です。「根」は字義通りの「根本」でしょうか,神道的な「地獄」を含意するのでしょうか。沖縄だから前者,と仮定すると,なおさら「おやいくさ」が気になります。「主軍」のような語彙を連想します。
その上で是非知りたいのが中段の「ぢやくに とよみいくさ」(大国に名高い軍)の,特に「ぢやくに」の語です。──倭寇が大陸中国の王朝に恐れられた様を表すように思えるのですけど,内地人には感覚しにくい。
最後のおもろが,本稿にとっては致命的な意味を持ちます。
大城 おわる/世掛けにせ按司の/御駄連れが 見物/又国根 おわる/又糸数 使い/根国の 使い
大くすく おわる/よかけにせあちの/みちやつれか みもの/又くにね おわる/又いとかす つかい/ねくにの つかい〔後掲Wikisource,「おもろさうし」テキストデータベース〕
※後掲Wikisource及び「おもろさうし」テキストデータベースの17-1223(49)に
に「きこへきみがなしおかててよろいわとくが節」,18-1253(5)に「きこへきみがなしおそてそろへわちへが節」として掲載
まず,大城の「おわ」りを歌っています。大里按司による滅亡の光景でしょうか?
「よかけにせあちの みちやつれか みもの」の細かいニュアンスが分かりにくい。「にせ」は「偽」なのかどうか。そうでなくても「みちやつれか みもの」は有象無象が無責任に見物してる,という悲惨で非情な情景に思えます。
最後部では「国根」の終焉を歌った上で,「いとかす つかい ねくにの つかい」と結ぶ。この「いとかす」が「糸数」とすれば,島尻大里を指すと思われ,さらにその地域が「根国」だということになります。
つまり,「国根」は島添大里と歌いながら「根国」は島尻大里と揺らぎがあります。なぜここで「いとかす」が登場するのでしょう?
【大里村史】14Cの大城築城
島添大里城が国指定史跡(2012年)であるのに対し大城城は市指定史跡で,行政による公式情報源は少ないけれど,大里村(2006年に南城市に統合)の地誌に次の文章があります。
玉城按司の次男が大城グスクの按司(大城按司)になったと伝えられているが、この伝説に従えば、大城グスクは14世紀頃の築城ということになる。
このグスクはグシク時代の遺跡でもあり、採集される遺物からみると、14世紀頃の集落的性格をもっている。おそらく、稲福上御願遺跡のように、防禦集落として出発し、しだいに本格的な城塞へと発達していったものと思われる。城壁石積みがところどころに残っている。…
城内からは多量の土器・輸入陶磁器のほか、鉄刃子・鉄釘などが多く採集されており、注目される。…
大里グスクと大城グスクとの間には緊張関係があったものと思われる。
右の土器分布状況と符合するかのように、大里グスクと大城グスクとの間に戦争が行われたという伝説がある。〔後掲大里村史〕
①考古学的かつ伝承上,14C築城と推定
②考古学的な形態からして,防禦集落(≒稲福上御願遺跡)から城塞に発展したと推定
③考古学的かつ伝承上,島添大里城との緊張関係が推定
この③が難点ですけど,そもそもなぜ大里城側は,大城城と争っていたのでしょう。出典不詳ながら後掲レキオ島唄アッチャーは「海へのルート」から説明しています。
大城グスクから少し北に位置する島添大里グスク(東大里城)を拠点としていた島添大里按司、汪英紫(おうえいし)は、大城按司に妹を嫁がせ第二夫人とし、親戚関係を楯に領地問題をもちかけた。大城按司の嫡妻は垣花城の出自であり、大城按司の所領は遠く佐敷の地まで及んでいた。汪英紫が明貿易を行なうためにはその領地を往還する必要があり、ことあるごとに相争うようになった。〔後掲レキオ島唄アッチャー/(4)〕
大里から大城が邪魔になる海へのルートと言えば,出口は佐敷のはずです。けれど,仮に大里城から単に海に出るなら,やや山道なら東の馬天が自然だし,北の与那原の方が近い。
※GM.∶行程
レキオ島唄アッチャーは,大城城勢力の除去について伊敷賢の唱える異説も併記しています。尚巴志による真武・真宗排除の可能性です。
真武の幼い子の真宗(しんそう)は小禄儀間村に子孫が広がり、真武は麻氏門中の祖となった。
1416年(応永23)年、尚巴志の北山攻めに従軍した真宗は、読谷山陣中で自殺したといわれている。真宗の墓は読谷山間切久良波村に造られ、『麻氏 大城若按司真宗之墓』の石碑が建てられている。(略) 大城按司真武の父である先代大城按司は、玉城王の長男で本来中山を継ぐべき人であったが、門閥関係で大城按司三代目となった。それ以前の大城には尚巴志の祖父・鮫皮大主を婿にした大城按司二代目がいたが、カヌシー(真武の父)に立ち退かされた。(略)
若按司真宗が不可解な死を遂げたので、その息子の平良親方と孫の儀間子は難を避けて慶良間島へ逃げた。渡嘉敷島阿波連村の儀間家は、子孫と称して先祖の故地を参拝している〔後掲レキオ島唄アッチャー/(7),原文∶伊敷賢「琉球王国の真実~琉球三山戦国時代の謎を解く」琉球歴史伝承研究所,沖縄ブックサービス出版,2013〕
また,伝承でも大城城は籠城の末に陥ちたのでも,大里軍に敗北したのでもなく,むしろ野戦で大里勢に勝利したという。ただしその勝利後に大城軍の旗手が軍旗を倒したのを,大城城内組が「敗北」と捉えて城に火を放った〔後掲沖縄拝所巡礼〕──という有り得ない顛末が伝わります。これは大里・大城の両当事者以外の第三者が,謀略又は奇襲で大城城を陥れたと想定すると辻褄が合います。
【島添大里城】南山王家としての第一尚氏
大里城は,沖縄戦で城内陣地が置かれた上にその建築資材に城壁が転用,米軍の攻撃も激しかった。戦後も復興資材に使われて,大半の遺跡は消失。1961年には米軍の資材供与で展望台やコンクリート道が整備,「島尻地域唯一のレクリエーション施設」として賑わいます〔後掲wiki/島添大里城〕。
なので国史跡ではありながら,中世の名残りはほとんどないらしい。
ただ,
①尚氏王権下では離宮として少なくとも15世紀中ごろまで使用された。「首里城と並ぶ壮麗な宮殿」であったという(史料出典不明)。
②1683年,清・冊封使が廃城した大里城を訪問。〔同wiki。ただし①については文化庁など,②も平井ほか日本城郭体系などが複数記載有〕
②の詳細としては,平井ほか(後掲日本城郭大系)によると,尚氏の琉球統一後,島添大里城は「旧宮」と称されたという。けれども,1683年の清冊封使の記録(具体の史料名不詳)には「旧王城」が「廃城」「遺跡」になっている。ここから17C後半には確実に廃城になっていたことは事実らしく,定説の15C半ばまでの使用説は首里中心の行政実態からの推測です。
つまり,大里は第一尚氏代を通じ琉球の「第二の都」だった可能性は否定されていません。それほどのポテンシャルを南山の都だった大里は有していたかもしれないのです。
さらに単純化して言うならば──第一尚氏は統一後もなお実質的に南山王国だった,と言えるのではないでしょうか?
三山統一劇を軍事・政治的に語ると矛盾が消えないのは,それがあくまでも経済利益優先で,つまりより正当で,それ故に回数を増やせる朝貢の「神輿」目的だったからなのではないでしょうか?
【角川日本地名大辞典/儀間村】那覇近郊に新・大城城を建設
さて,大城按司の子息・真宗の死後,慶良間島へ逃げたその子孫とは別に,どういう間違いなのか,玉城の垣花から那覇近郊へ移住してきた一団があるらしい。以下は後掲角川日本地名大辞典又は角川地名大事典の「儀間村(近世)」の記述です。
島添大里按司に攻められ自刎した麻姓1世大城按司真武の子真宗が、玉城間切垣花から当地の下田原に逃げ、やがて垣花村の住民が移り住んで、一体を垣花と称するようになり、「かきのはなち」とも呼ばれた。〔後掲角川日本地名大辞典「儀間村」 ※後掲沖縄拝所巡礼より〕
これが何と小禄です。以前から行きそびれている「垣花食堂」という老舗食堂があるけれど,まさにその場所辺りらしい。
当地に初めて移り住んだ麻姓2世真宗については未詳だが、3世真福、4世真孟、5世真命は、遣明使節の一員として2~3回ずつ渡航したことが「歴代宝案」「麻姓大宗家譜」などに見え,田名家文書1・3号にその辞令書が残り,同5・6号には「きまのかなくすく」「きま」と見える(県文化財調査報告書18)。〔後掲角川地名大事典「儀間村(近世)」〕
え?栄えとるじゃないか?
子孫が続いてるだけじゃなく,朝貢船に乗って大陸雄飛してるのです。
この点とどう関係するのか,国場川河口の重要防衛施設・屋良座森城を委ねられもしているようです。
屋良座森城の築造は,4世真孟が儀間地頭となった翌年の嘉靖30年から始まった。①真孟の母は,儀間大あむしられの神職にあり,屋良座森城の巨石は彼女の怪力で運ばれたと伝える。同32年屋良座森城は完成し,翌年の「やらさもりくすくの碑」では「②やらさもりくすくのかくこ,又ねたてひかわのミつのかくこハ,三人おろくの大やくもい,きまの大やくもい,かなくすくの大やくもい,いつきやめむちよくかたくかくこすへし」と,屋良座森城と音立て樋川(落平)の格護を命じている(県文化財調査報告書69)。③落平などの湧水は,この頃からすでに船舶用の給水源として重要な存在であった。5世真命は,那覇江口の鏡地にある洞穴の聖所に,正観音像を奉安したという(麻氏玉城大城由来記)。〔後掲角川地名大事典「儀間村(近世)」〕※下線及び丸付数字は引用者
ここでまたぞろ新たな論点が浮上してきます。①儀間大あむしられ,②大城遥拝地,③船舶補給機能の三側面です。
①高位ノロの根拠地としての儀間
「儀間大あむしられ」とあるのは,角川の何かの誤記の可能性があるとは思う。
「大あむしられ」(うふあんしたり)はノロの最高位・聞得大君(ちふぃじんがなし)の直下に3名だけ置かれる大臣級のノロで,首里・真壁・儀保ノロに固定しています。直接にはこの3名の配下に各地方を統括する大阿母(うふあむ),祝女(ぬーる)がいて,形式的にはこの3人(=三平等の大あむしられ)が全圏域を分担している……というのが上から見た階層です。
角川の書き方からすると儀間ローカルの伝承のようなのですけど,首里・真壁・儀保の3職への固定化前,おそらく第一尚氏時代に大城-儀間ノロがそうした高位と扱われた可能性も否めない気がするのです。
この点については,角川から転記したと思われる文体は相当あちこちに見られるけれど,他史料からと思われる記述にはついに当たりませんでした。
②大城遥拝地としての儀間
由緒の語源として,「屋良座=やらざ=やら森」という伝があちこちの記述に見えます。「やら森」(牙浪森∶後掲由来記要約)は元は大城及び玉城にあった御嶽らしい。
「屋良座」は大城城の守護神「ヤラザ獄」から名付けられたと伝わっている〔後掲沖縄拝所巡礼 参考∶琉球国由来記〕
この伝えの出典は,次の文章からすると「麻氏玉城大城由来記」という(後掲)。
玉城城内には雨粒天次【あまつづてんつぎ】という御嶽があり,とがった岩が拝まれていて,これを玉城やら森ともいう所伝では大城城内にも同様の岩が拝まれていて大城やら森といった麻氏の伝承に,「那覇やらざ森は,大城やら森の移り名大城やら森は玉城やら森の移り名なりと伝えこれあり候天城やら森は天辻の旧名なり」という(麻氏玉城大城由来記)。〔後掲角川地名大事典「儀間村(近世)」〕
後掲安達も評しているけれど麻氏玉城大城由来記は,書面のごとく玉城と麻氏を結ぶことで,玉城以前の琉球天孫系統と自家を結ぶことを目的としているので,ひとまず玉城は置く。
その途中に大城という中継点を挟んでいるのは,近世以降の琉球王朝の祖・尚巴志と自家の血縁関係のアピールとも解せないことはないけれど,玉城一辺倒でなく大城を無理して挟んでいるのは,玉城との関係よりも大城が記憶に残る直近の故地だから,という捉え方も可能です。──沖縄人が昔を懐かしむに,現実の王国・尚氏時代と並び,架空の故国・舜天時代を思うのに似た意識構造でしょう。
当地の御嶽は,筆架山の東の頂にあり,神名をコセラノ御イベという(由来記)。これを伝承では儀間の殿といい,落平の近くに当たる。この拝所は,北側から拝むように仕立ててある。また,「由来記」によれば辻森があり,儀間の海岸の住吉森にある。頂毛という御嶽に当たり,住民は海を背にして南東方を拝んだ頂毛は尖頭の岩であったらしい。これらはすべて祖先の地である大城村を遥拝する形をとっている。〔後掲角川地名大事典「儀間村(近世)」〕
儀間の地形の詳細が分かれば,住吉森から大城の直線を地図上に引いてみるところです。北山の故地・今帰仁を拝むというのはまま聞くけれど,大城拝みとでもいうべき風習又は志向が儀間には残るのです。
ただ,そこまで考えても「儀間」という地名には大城を連想させるものは考えつきません。この土地は一体何でしょう?
なお,以下では大城への志向性の論拠となっているらしい麻氏玉城大城由来記の,原文にはたどり着けなかったので要約を掲げておきます。
筆致そのものは証明問題の解法のようで,一族の名誉を賭けたひどく切実なものです。
「大城牙浪森」というのが角川の「大城やら森」のことらしい。沖縄語の読みが先行するとすれば,恐ろしい漢字を当てるものです。大城側を畏れた尚巴志などの表勢力の蔑称としての当て字かもしれません。

船舶補給基地としての儀間の風景
角川の3点目についてですけど,ここは,うっすらと残る儀間の港湾機能の痕跡です。
次の記述は,飲用水の補給をしたと伝わる落平(ウティンダ。現・那覇市山下町18→GM.∶地点)に立つ看板のものです。
那覇港に出入りする船は,朝から夕方まで落平に集まり,取水のため,先を争って口論が絶えなかったという。〔落平案内板〕

「高究帳」では真和志間切儀間村と見え,高頭108石余うち田52石余・畑56石余地形は,小禄台地北縁の標高50m以下の丘陵を含み,台地下の海岸低地に村落が形成された。この丘陵は小禄台地の端の石灰岩堤で,ほぼ東西2kmにわたり,その形から中国人や久米村の人々は筆架山ととなえ,地元では殿ノ山またはガジャンビラと呼ぶ。ガジャンビラは本来は,小禄台地へ登る坂道の名である。石灰岩堤下の崖の東にはウティンダ(落平)という湧泉がある。山下町第1洞穴遺跡があり,洪積世時代の人骨が発見された。中世以降,台地下の海岸低地の陸化が進行すると,そこを開いて農村が形成された。〔後掲角川地名大事典「儀間村(近世)」〕
断片的な事実が多く全体像が掴めない。だからこそ掲載するんですけど──中国人や久米村の人々がガジャンビラを「筆架山」と呼称した,という由緒は分かる。久米への曲り角,かつ補給地の目印にしたのでしょう。
那覇のやらざ森は大城やらざ森に,それはまた玉城城内のやらざ森(雨粒天次)に結びつくこういった縁由のある住吉森の小丘を腰当にして,垣花が生まれ,儀間村が形成されていったと考えられる「儀間」の字は,順治17年(1660)の田名家文書16号に「儀間し」と見え……〔後掲角川地名大事典「儀間村(近世)」〕
「腰当」は集落の要地とか軸とかランドマークのような意味。この海側に広がる集落を垣花と呼び,後に儀間と呼んだ。その集落は,背後の海での補給業務とおそらく余剰の交易を行いつつ,住吉森をその彼方の故地・大城に見立てた拝みを捧げられる位置にある,という位置構造です。
異国船が立ち寄るこの補給地に置いた観音(→前掲角川引用※)というのも媽祖を連想させ,ならば「ぎま」の「ま」とは……とも唱えたいですけど,さすがにとりとめが無さすぎます。
※再掲「5世真命は,那覇江口の鏡地にある洞穴の聖所に,正観音像を奉安したという(麻氏玉城大城由来記)。」
儀間の当主では,麻氏6世儀間真常が殖産家として著名です。この人の行動を垣花に移った大城を故地とする人々の生活パターンと見ると,やはり海民としての逞しさがうっすら見える気がしますので,この引用で本章を打ち止めにいたします。
儀間真常は,野国総官のもたらしたサツマイモを広め,後世の全琉球の食糧事情を安定させた。野国総官への報恩祭を,儀間村赤平で行っていた(麻姓大宗家譜/那覇市史資料1‐7)。さらに万暦37年(1609)には尚寧王とともに薩摩にのぼって木綿種子を持ち帰り,小禄・豊見城【とみぐすく】・垣花三村といわれるほどの琉球絣の一大産地とした。また天啓3年には,儀間村民を中国福建省に遣わして製糖法を学ばせ,糖業を国中第一の産業にまで発展させた。住吉森の住吉神社も儀間真常が薩摩から勧請したといわれる。〔後掲角川地名大事典「儀間村(近世)」〕
