FASE64-3@deflag.utina3103#小禄金城公園,がじゃんびら公園\赤い珊瑚の波散る島を

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

小禄 豊見城 垣花 三村

▲1017,A&W那覇金城店の喫煙所から交差点方向。後述の金城公園はこの右手すぐです。

958 A&W那覇金城店
ハムエッグサラダサンドセット370
 森口公園の威力に打ちのめされたのはむしろ全く意外で,小禄と言えばCoccoも唄う※現代沖縄の典型的な街の一つ。
※ Cocco:三村エレジー/歌詞
 金城まで来てエンダーに入ったりしてると,内地以上にアメリカンな気分になる街です。
 ルートビア,旨め~!
 ところがその店頭でタバコを吹かしてると目に入ってきたのは──この西隣の丘,これは何じゃ?

禄金城公園
〔日本名〕沖縄県那覇市金城3丁目(金城中学校隣)(沖縄戦時:小禄西部高地)
〔沖縄名〕金城の御嶽?
〔米軍名〕57高地(俗称:リトルシュガーローフ)-62高地稜線付近

方形の園地を登れば壁の有り


※ 日本1000公園/303/1000 小禄金城公園(沖縄県那覇市)「終戦直後は小禄村の総面積の83%が米軍に接収されており、返還される度に少しずつ区画整理が入り、今の街の姿になってきたといいます。このため、区画整理が入った時期によって街の雰囲気が異なっており、公園についてもバラエティに富んだ時代の匂いが感じられます。
小禄金城(おろくかなぐすく)公園は、その中で1980~84年にかけて返還された金城地区の中心にある公園で、開園は1990年。」

▲1020小禄金城公園の麓の祠

015,小禄金城公園に入る。
 綺麗な方形のブロックの公園──通常は絶対立ち止まらない場所です。勘も全く働かないけど……南西辺の道から登ろう。
 まず小さな祠。記名なし。ただ,移転を逃れてるからには由緒あるものっぽい。
「参拝される皆さんへ」という看板は字金城郷友会・字金城自治会名。祭壇に線香の燃え跡があり,この地元の拝みが実際にあると見える。
 道は奥の森に続く。それを抜けると木陰の暗い広場に出た。「金城の御嶽」とかすれた文字の石の標識。そして──

▲1025壁

面する壁。赤屋根に白壁です。
 結界?御願所であると同時に,ここから先はイベ(聖域)だよ,という──
 表に祠5つ。右から
「高良の裏山/アジシ」
「赤嶺山/フジシー」
「大屋加那志」
「井の神」
「東赤嶺小屋敷/マジシー」
──全く分からない。
 左斜めにもう1基祠,名前なし。左90度にも名のない祠。祭壇にはそれぞれ燃えかす。
 後方に箒一本。

▲1034壁の右手の道と背後の藪

手から回り込めた。
 さらに暗く小さな広場に出る。最高所らしい。金城御嶽神とある丸石。
 やはり壁はこれを隠す位置にあたる。

返還地に戻ってきた金城嶽

▲1032金城御嶽

禄金城公園はどの情報も「小禄の楽しい公園」としてしか書かれないけれど,那覇市観光資源DBには次の記事がありました。貴重だと思う。全文を転載してみます。

 沖縄戦後に土地を徴収され、御嶽は基地の中となってしまったが聖地として保護されてきた。
 金城の人々は御嶽が望める方向に拝所をつくり祈りをささげていた。返還後もとあった場所に戻され、現在の金城ノ嶽となっている。

※ 那覇市観光資源データベース/金城ノ嶽(金城嶽)
 形状から察せられる通り,ここは米軍接収地で,金城嶽は返還後に「戻され」た。つまり,接収時に集落側が大急ぎで退避させた神体を,改めて置き直した,という苦労をされてる。
 もう一つ,接収後,この御嶽の方向を拝んでいた人々がいたということ。神体は退避できていたのだから,拝みの対象はこの「場」だったわけです。それと,その場が失われた後は,今度はその「方角」が拝みの対象になったということ。具体の場所が分からないけれど,今帰仁や瀬長島への拝みと同じような信仰に変化していたわけです。

覇の新市街に忽然と現れる御嶽。この不思議な感覚に惹かれて──別に公園マニアではないんだけど──第三の公園に向かってます。
 金城北西辺をまっすぐ北へ。やはり新市街の整然たる道路の向こうに1050,がじゃんびら公園。

じゃんびら公園
〔日本名〕沖縄県那覇市金城1丁目
〔沖縄名〕同(蚊坂)
〔米軍名〕57高地(俗称:リトルシュガーローフ)-62高地稜線付近

かりやすい尾根上の立地です。
 方形ではない。金城町と山下町の境の崖地に出来た余剰地が緑地になってる,という公園です。
 下の写真は公園半ば,崖が金城町北辺に最も迫っている辺りです。なかなか希有な景観です。

蚊の発祥地に美空ひばり

▲1051公園地の最もくびれた部分

地は特に見つからないまま西北の端へ。
 港が一望できる。
 ちなみにこの「がじゃんびら」という名称,中国で蚊を初めて見た沖縄人が「珍しい昆虫だ!」と採集して帰ってきた後,この坂で転んだのでそれが逃げてしまい,沖縄に蚊が広がってしまった,ああ何て迷惑なことだ,ということで蚊(がじゃん)坂(びら)になった──という解釈不能かつ意味不明な由来だという。
※ 沖縄方言辞典/蚊坂 ※……ってそれ方言なのか?

▲がじゃんびら公園から北西

稚園の遠足がわやわや通り過ぎ……てくれよ,何かもろに巻き込まれてしまって,ええい助けてくれえ。
 あれ?下りに入った?複雑な稜線になってます。
 美空ひばりの「花風の港」歌碑がある。──赤い珊瑚の波散る島をなんであなたは捨ててゆく……

▲フン禁止看板なのか?とにかく,ウ○チ像が描かれた看板って珍しいぞ。

あまりにもなロープはどこへ?

高所はどこだろう,とうろついてたら,ほぼそれとおぼしき場所の北側の塀外に,イシガントウの碑からロープで降りていくようになった道を見つけた。
 何かの聖地への入口のようにも見えますけど,ただこれはあまりにも…で断念してます。

▲1102北西崖下へのあまりにもな「道」

側にも,明らかに神域っぽい円形の場もあります。内地なら相撲場かもしれんけど,これは違うだろ?何だろう?
 小さな前田高地みたいな地形です。金城公園から南は激戦地になったわけで,この地形を両軍とも見逃してはいないはずですけど……特段の記述は見つけられませんでした。

▲1106奇妙な円地

臓物好きを狂わせるソーキB

じゃんびら公園手前に良さそうな飯屋を見つけて,つい立ち寄ってしまいました。
1115すば家うるかそば
軟骨煮付定食550
 まだこの開店すぐの時間は,6人連れ団体様の青少年のみ。
 出てきた肉を一口頬張って驚く。この軟骨ソーキという肉は何だ?軟骨好きを狂わせる肉だぞ?

▲1119軟骨煮付定食

ーキからグニュッと軟骨の筋が飛び出してる…のは軟骨好きじゃなけりゃ不気味以外の何でもなかろう。
 しかしその見栄えのグロさ以上に!
──肉肉しいソーキの中に意外に太い軟骨がムキュッと異質な歯ごたえをもたらす。
 出汁は至極素直で技巧を感じない。毎日の味覚と言っていい。

▲どアップ

最強のフーチキナーに微かなチースガー

いうわけで大層大回りしてしまい,特に読んでる方はもう忘れてると思いますけど……本来朝飯を食べるはずだった沖宮南の向かいに戻ってきました。
1145最強食堂
フーチキナー550
 おお~!この時間には超満員ってか?駐車場はほぼ止める場所なし。これをよく5人程度で回してるもんです。
 さて,久しぶりのこの一食。
 フー(麩)という食材,これはまた凄いもんです。卵が染み入ってるのは前回分かったけど,この口内に揺れるフルフル感と,逆にシコシコした歯触りのジョイントはちょっとない。味覚としても卵黄の甘味に,辛菜の独特の苦辛さが合わさってくる。
 こりゃあやはり──あり得ない味覚です。

▲最強のフーチキナー

に合わさってる食材は何だろう?島豆腐とポークと……チースガー(塩漬け豚肉)か?
 なるほど,ポークもだけど,このチースガーがおそらく味覚の背景色としてかなり有効に機能してる。ポークとチースガーのそれぞれの微妙に音程の異なる塩味が,合唱のように絡まって魂を揺さぶるような面白さになってる。

ヒコーキの窓に雨粒

230,旭橋のNPOに自転車を返却。
 お兄さんが断言するように警告する。「今から雨だから気をつけて!」いや……空は晴れ間がギンギンで,お陰でしっかり日焼けしてる位ですけど……。
 1238,荷物をピックアップ。
 1244,旭橋駅ホーム。
 1249,ゆいレール乗車。
 改めて奥武山から小禄をレール上から味わう。南北とも小さな丘だらけです。それは大まかには,2つのライン状に並んでるらしい。特に小禄御嶽のラインははっきりした高低差。ただ,東西に連なる丘はこれらの他にも飛び地状に幾つもある。
 この地区の分かりやすさは,新興住宅地区だからこそ意図的に残されてる場所はすぐ想像がつくことです。これまで,小禄~空港にはそういう場所はないと思い込んでただけで,その予断さえなく素直に見ていれば。
 1300那覇空港──って早すぎた?
 すると……という思いが起こってきた。那覇空港辺りのエリアも元々は御嶽だったのではないか?

すぎ,はしなかった。やはり凄い行列!手荷物預けは諦めて機械で発券。確認番号→予約番号なら発券できました。
 ゲートも混みそうだからとっとと入ろう。
 1335予想通り…というかリュックのハサミを探しまくられてパッキングを一からやり直した。けれど搭乗口すぐのカウンターでリュックは預けれたし(何かキレまくってる男がいたけど)喫煙所の入口のアメリカンクリームソーダは頂けたし。
 ANAのフライトは機内Wifi有り。機内でもスマホが開けるのは大変有難い。今回も全く写真整理してなかったから…。
 離陸に向け動き始めたヒコーキの窓に,NPOのお兄さんがあれほど心配してた雨粒がやっと跡を付けはじめました。

▲謎のケーキ。忙しない最終日だったからか,「アガラサー」という名前しか記録を残してない。「あがらす」は沖縄語で「蒸し上げる」という意味で,蒸しパンのようなものらしく,見た目のグロさとは異なり旨かった記憶はあるんだけれど……。

▲(沖縄戦史より)小禄半島地図 地形名称と米軍進出図

■小レポ:リトルシュガーローフの戦い

 1945年6月4日早朝5時,小禄飛行場北部から米軍2個連隊が上陸,漫湖東の真玉橋から上陸した1個連隊と呼応し,計3個連隊で海軍指令部の攻略にかかった。うち,小禄へ北西から進んだのが29連隊だった。
 百両の戦車を有するこの連隊は,日本軍が小禄西部高地と呼んだエリア,現在の金城に構築された丘陵陣地で,地下陣地攻略までを含めると1週間近く一進一退しています。

沖根聯合陸戦隊戦闘概報第56号(抜粋)
2 朝来赤嶺、金城、小禄部落に対する重圧加わり一部兵力小禄西部高地に侵入、一応撃退せるも夕刻更に兵力増加し約100侵入せり。此の敵に対し2200より邀撃を敢行、7日0230奪回せり。
3 赤嶺陣地に対し約300攻撃し来たり、一時馬乗りとなられ危険に瀕したるも友軍迫撃砲機銃の連繋よく直ちに撃退せり
4 當間西方に約200迫撃砲陣地を構築中にして一部戦車の動きを見るも戦況活発ならず

 つまり日本軍は,6日深夜から7日早朝にかけては逆襲反撃までやってる。
 ここを守った部隊名すら定かでない。陸軍側は小禄陣地を見捨てており,海軍側指揮下の総兵数は陸軍残存部隊を含め83百だったというから,この稜線には多くて2千余しかいなかったでしょう。
 それが,戦車と艦砲を有する米軍連隊を1週間食い止めてる。米軍はここをリトルシュガーローフと呼んでいます。

第4連隊第1大隊は「リトルシュガーローフ」の惨状を呈した。戦車の援護射撃は得られず、第4連隊第1大隊の左翼(B中隊)赤嶺郊外で停止状態となっていた。右のA中隊はあらゆる火器を使用して敵の翼端を奪取しようと試みた。1個小隊が6時間にわたり身動きできない状況の後、105mm自走砲の直接射撃の支援下にリトルシュガーローフ上に到達した。

 戦後,小禄一帯は米軍に接収され,この時代に丘陵部分は整地されたらしく,今見る小禄地区のような平坦地になり,どこがリトルシュガーローフと呼ばれた米軍名称57高地なのか,沖縄戦史の著者も確定できてません。
 首里陥落後の掃討戦に入った段階でのこれだけの抵抗は,米軍には相当のストレスを与えたでしょう。
 この小禄に籠った8千の名を残さない日本兵と沖縄県民は,何を想ってここまでの激戦をしていたのでしょうか。

米軍資料では57高地南東に62高地があり、一連の嶺を形成していたようである。現在はショッピングセンターや新興住宅地でその痕跡は全くない

※ 沖縄戦史/小禄の戦闘(小禄海軍部隊の戦闘)

■小レポ:Bソーキが生まれた時代

 この日に酔いしれた「軟骨煮付」は,実はソーキそばに入ってるソーキを煮付けにした,それだけのものだったらしい。
 沖縄そば以外で出されると意外な旨さでした,というだけだったのです。
 でも逆に,なぜそばの具以外は見かけないのか?
 食文化の事象としては興味深いので,まとめてみました。

1 ソーキA・Bとは何か?

 沖縄で,この軟骨ソーキはBソーキと呼ばれる。Bに対してAソーキとは,沖縄で「本ソーキ」と称される,アメリカのスペアリブです。つまり
(沖縄)ソーキ
⊃(沖縄)本ソーキ
 =Aソーキ
  =(米)スペアリブ
⊃(沖縄)軟骨ソーキ
 =Bソーキ

「ソーキそば」に用いる豚あばら肉は、軟骨を含む肉(軟骨ソーキ)を使う場合が多いが、本来は固い骨を含む肉(本ソーキ、いわゆるスペアリブ)を用いる。本ソーキのことをAソーキ、軟骨ソーキをBソーキと呼ぶこともある。本ソーキの骨は食べられないが、長時間煮込まれた軟骨は柔らかく、肉と一緒に食べることができる。

※ wiki/ソーキ

2 Bソーキに激怒するうちなんちゅ

地元の年配ソーキファンの中には、ソーキそばを頼んで軟骨ソーキが出てくると、激怒して帰ってしまう人もいた

※ TRAVELER MAP/沖縄そばの軟骨ソーキと本ソーキの違いとは?/地元では有名な軟骨ソーキにまつわる都市伝説
──という時代があったらしい。
 上記サイトに詳しく解説してあったけれど,戦後,Bソーキは実は食用ネズミだ,いや犬だ,はたまたカンガルーだという噂が立って,この肉は徹底的に貶められてたみたい。
 上記の図式でもご理解頂けるように,
(沖縄)ソーキ>(米)スペアリブ
という部位の範囲の差異が根底にある。
 正確には内地で採用された部位の定義との差のようですけど,内地の肉食文化は欧米由来であまり固有のものはないから,ここではアメリカのものと単純化します。
 沖縄の(おそらく中国由来の)「ソーキ」の指す肉の部位は,あばら骨部分の軟骨を含む全ての肉だったらしい。それに対し,「スペアリブ」は軟骨を除く部分でした。白人はドイツ系を除き,あまり軟骨やスジ肉などの「ゲテモノ」肉を好まない。
 なので,それまでソーキとして総称されて売られてた肉が,本ソーキと軟骨ソーキに分けて販売され始めた。
 これに対して,「『本』じゃないソーキって何だ?」という疑念がうちなんちゅの頭に起こったものらしいのです。
 おそらくアメリカ文化下では,AソーキはBソーキより高値で販売されたのでしょう。
「B」は「A」より一段低い,という意味でしょう。意味不明な差異が,ランク付けに転じた後で,低ランクの方に「それがなぜ低いか?」という由来が後付けで語られ始める。

3 Bソーキの復権

 けれど現在,「軟骨ソーキ」でググると相当数のヒットがあり,これこそが沖縄伝統食,と記述されてます。
 正確には,スペアリブは内地でもアメリカでも有難がられるから,沖縄でしか常食されないBソーキの方が「沖縄的」と見られる,ということだと思われます。
 沖縄でも,実は軟骨ソーキの方が旨い!という感覚が生まれてきてるようです。この日のそば屋のお膳はその一つだったわけです。
 差別化されて一旦低ランクに位置付けられたものが,「再発見」され復権していく。文化が他文化によって細分化されていく過程として,ソーキのA・B分化は興味深い物語でした。

■リンク集:沖縄史 自己流ポイント集

 今回はなぜか,沖縄史を掘る機会がやたら多かった。
 その繋ぎ合わせをしてみると,何となく自己流の沖縄史像に近付けたような気がしてきてます。
 総じて思う。沖縄の歴史は,それなりに強力な陸上勢力を有した内地とは全く色彩の異なる「海民の邦」のそれです。また,それ故の強かさが歴史の随所に見受けられます。


■F60-64 沖縄史レポ集
[BC40C]→データ:藪地島
・藪地島に住居形成
~13C 伝説王統時代→沖縄の伝説王統
[14C]
1390 宮古の與那覇勢頭豊見親が尚王朝に帰順入貢→那覇から宮古を望む台場・タカマサイ
・沖縄三山発祥→未だに影を落とす沖縄三山の謎
沖縄本島三国鼎立時代
山川二丁目バス停すぐのガジュマルについての推定
[15C]→尚氏政権より前の聞得大君
1405 武寧王,佐敷小按司尚巴志により滅ぼされる。
1406 第一尚氏起こる
1416 北山王国滅亡
1429 南山王国滅亡
1469 第一尚氏滅亡,第二尚氏起こる→ヲーサーレー!!(その通り!)
・幸地グスク形成→幸地グスクの歴史と特色
[16C]
1522 真珠道(⊃金城石畳道)建設開始→「金城の石畳道」から思うこと
[17C]
1607 毛国鼎,琉球王朝に出仕→毛国鼎を祀るということ
1609 薩摩藩,琉球侵攻→北森の最近のトレンド
1672 王朝による那覇港の仲島宅地化を久米村が阻止→仲島の大石とカフーナ旭橋は新沖縄の舳先である。
・座喜味村形成→座喜味及び伊良皆集落に関する記述
・普天間街道形成→さやけき風の吹(な)くところ:普天間街道
・土地公・ビジュル沖縄移入(想定)→土地公の沖縄的受容からのビンジュル再考
・内地で琉球ブーム
[18C]
・運玉ギルー伝説形成
[19C]
1853 ペリー艦隊のウィリアム・ボード転落死→意外と高名なウィリアム・ボードさん
1879 廃藩置県により第二尚氏華族となる。
[20C]
1948 ハワイから沖縄に豚が輸送→海から豚が来た日
1948「みなと村」設置(50那覇市に合併)→戦後の松尾一丁目
1951-61 遊園地「新世界」稼働→御嶽の戻ってきた城岳
1953 具志の土地収用反対デモを米軍流血鎮圧→具志の土地収用
1987 チビチリガマの「世代を結ぶ平和の像」破壊
2017 チビチリガマ,地元高校生荒らす
遺族会によるチビチリガマ石碑文全文と各種立場のHP集
2018 カフーナ旭橋オープン→久米の龍頭,その新旧

▲層の図式

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