m19Hm第二十七波m千度目の宮は蒼色獅子頭m4蘆洲

🚈🚈 🚈🚈
(再掲)中和新盧線の淡水河西側エリアの分岐路線

文武大衆廟が見えたはずの道

水河の西側を,恥ずかしながら全く無知であることに気付いた台湾最後の160分でした。
 本来の目的地・三民高中は「蘆洲宮」を目指す。
 1337,大橋頭。ここには同じホームに二方向の列車が交互に着くみたい。電光表示と,あと確実なところでは着く列車の頭をよく見てないと──怖い。
 1346,三民高中へ着く。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

▲蘆洲復興路の,本当に何でもない駅前通り
の地図を見て呆然とする。宮が……書かれてない?
 けどとにかく時間がない。1号出口から南東へ歩く。復興路。文徳公廟。
 少し町がごちゃごちゃしてきたか?
「何だろうこの丸まった道だらけの行程は?」と背筋の凍るような違和感もメモしてます。
▲騎楼の名残らしい構造もある。
357。続いて忠孝路。
「左手湧蓮寺。──大きい!」とメモしてる。この印象は記憶にも残ってます。全く調べてなかったから,GM.(グーグルマップ)でこの寺がヒットしたのです。ところがこれが──

文武大衆廟onGoogleEarth

章で食い漁った新荘のと同じ(蘆洲)文武大衆廟だったはずなのです!湧蓮寺の西側に,ちょうど東から見ると,寺の後方建物が盛り上がってるように見えたのでしょう……。
▲1404光華路

集善宮,護民宮,そして天后宮

華路。1401。
「龍山寺界隈に似てる?」とメモしてます。上の写真を見ても確かに萬華の,昏い場末の空気が漂います。
▲1408光華路46巷の細道

集善宮とある門構え。
 1405,全くの勘で右折西行。見た感じはアパートの間道に過ぎません。でも集善宮,護民宮と宮が続く。こんな古建築の全くない路地に?
──今GM.を見ると,光華路46巷だろうと思う。この二つの宮は確かに現存が確認できるからです。
※集善宮→GM.∶地点
※蘆洲護民宮 Facebook URL:https://x.gd/YtWtU(短縮)

Facebook上の蘆洲護民宮

409,ファミマの通りにでた。左折南行。
 飯屋街です。時間があれば一食してみたいけれど……。──ただ確かにこの界隈には,妙に多分野の飲食店が集まってるらしい。あえて言えば早飯ストリートのような店が多そう。
※愛食記/新北市『蘆洲光華路美食餐廳』 | 精選TOP 15間熱門店家 URL:https://x.gd/SmIwf(短縮)
▲1411光華路186巷の独特な陰鬱さ。
天上帝廟。ad.(住所表示)光華路186巷。
──この廟は事後,未確認。蘆洲受玄宮という玄天上帝廟は有名だけど,これではない。
※この宮は「アジアの地獄と霊魂」(亞洲的地獄與幽魂)展に参加して,少し議論を呼んでます。〔南美館「殭屍展」 玄天上帝降落參戰啦!蘆洲受玄宮「神諭」網友讚爆跪了,2022年6月〕URL:https://x.gd/TlDhp(短縮)
 さてさて,これだけ宮はあるのに目的の媽祖様が──あれ?ここか?

彼らは後で掃除されます

▲1416シャッターの閉まった消防団倉庫みたいな媽祖宮

1415到了!トラック止まってシャッター閉まっとるけど着いた!
 GM.で何度確認しても,ここのはずです。
 貼ってある貼り紙を見ると……どうも道路交通管理罰例というのに違反だから,と立ち退きを命じられてるらしい。
▲新北市工務課の貼り紙

──の媽祖宮のこの土岐状況は,未だに解せません。
というのは,少なくとも次の二つの痕跡がGM.上にはあり,2021年までは何らかの活動があったはずだからです(訪問2020年)。
【2021年・Alice Chang】

【2018年・黄橘子】

北港奉天宮を訪問したらしい「蘆洲天后」ベストの集団【2018年・黄橘子】

非もない。1418,折り返し。
──ということは蘆洲(芦洲)李宅古蹟(→GM.∶地点)の西側を通ったはずですけど,この時は気付きもしてません。
 アパートのバイク溜まりに邵公廟。「邵」と書かれた石を祀ってます(→同名バス停∶GM.∶地点)。adは中華路22巷らしい。この辺りの道もうねりにうねってる。
▲1423邵公廟の祭壇
※ 邵公廟の祭神は後漢の儒学者・何休(129-182年,字・邵公)と考えられるけれど,後掲蘆洲市志第13編人物中に次の文章があり,蘆洲李氏に縁のあるこの邵友濂のことかもしれない。「光緒19年(1893)正月受巡撫部院兼提督學政邵友濂委任安平縣儒學正堂,升授教諭。同年秋天兼理鳳山縣儒學正堂。福建秋闈,受委差事兩科。光緒21年(1895)正月辭篆卸任,上元抵家,當時蘆洲父老紳士到大稻埕遠迎,彩輿音樂多達數十隊以上,造成臺北城極大的轟動。一時之間譽滿臺北,門前車馬若市令人應接不暇,因而使得蘆洲文風大振。溯及族譜,李樹華為兌山李氏首先出仕者,也是蘆洲地區較早出任政府職務的鄉賢。」

最後に嗅いだ冥い島

アパートの中に忽然とある邵公廟
〔邵公廟 | 蘆洲好像很多這種小廟 這是一路走來經過的第二個 | reptilemonk | Flickr〕※URL:https://www.flickr.com/photos/reptile/6916678485
南宮。關聖帝君を祀る。五体同じ背格好のものが並んでる。
──ここはもう,全く分かりません。有意なものがない情報の手触りは,どうも新興宗教めいた感触なんですけど,台湾のこの状況の中で何が「新興」なのかはよく分かりません。

謎の清南宮

和街へ。1428。
 この街で初めてまっすぐな道に出た気がします。
 西の学校との間に古い煉瓦壁?と思ったら,赤茶けた鉄筋でした。古く朽ちたものと,本当に古い珠玉とが同じ佇まいで混ざってる。実は両者に差はないのかもしれないけれど。
 1433,三民路。蘆洲での,ある意味恐怖の45分を終えました。

──后はシャッターの宮だったわけで,それには顔を背けられた訳だけど,あのエリアは街そのものが諸神の宮のようなものでした。初見の神もあった。これが元々の台湾の土地なのか,それともこのエリアが特に重い土地なのか?
 初めて匂いを嗅げたと思う。異星としての台湾の獣臭。これは,今回の西海岸に通底していたけれど,最後の最後でやっとそれに気付かされたという感じです。
 沖縄と似たものを感じました。台湾は,冥い島なのです。
1438,三民高中プラットホーム。松江南京で松山新店乗換で西門へ帰ろう。8駅休める。
 車内に老夫婦。その車椅子を,東南アジアの出身らしき厚着の女の子が押して降りて行く。介護兼メイドということでしょうか。

臺灣を撫で従える洋館


バンを買ってなかったことに気付く。士林かどこかの市場で買って帰る気でいたのですが……。
 今回はそういう「お買い物」タイムを取れなかったので,まあやむを得ない。
 1459,松江南京から新店線に乗換。ああもう3駅か。中山,北門,西門。
 西門の階段を登った先の天空に,飛行機雲が3本,交差してる。
 そこから西門までの間で,何とカバンは買えました。高くはあったけど,この品質なら問題なし。1530,ピックアップしたリュックの底に押し込む。
Walking qi-yue
間は押しに押してるけれど,やはり歩きたくなりました。台北站へ。
 27巷から西門繁華街に出て,ゆっくり横切……りたいけど足早に雑踏をすり抜ける。幸福堂に凄い行列。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

 1542,中華路を渡り撫臺街を東行。延北路へ左折北行。
 ここに撫臺街洋館という建物がありました。──1910年に合資会社高石組の社屋として竣工,佐土原商事㈱に移って光復を迎え,中医(漢方)診療所になっていたものが市の歴史資料館として残る。建材には旧台北城壁からの流用が疑われているという〔後掲wiki/撫台街洋楼〕。
 一つ東が前回の郵政博物館。
 これら表の台湾史の足元に蠢く魑魅魍魎を後目に,整然と建つ石木複合建築です。
▲1546撫臺街洋館

来訪者 Tayouan ダイオワン

556の空港直達に乗れました。離陸は1820。ギリギリだけど何とか許してもらえる時間。
──と言っても沖縄着なんだけどね。
 17時ジャスト,イミグレ突破。新e-Gateという自動システムになってる。台北でコレで,日本の那覇空港が手動というのは面白い。
 機械音声から日本語で「好い旅を」と別れを告げて頂きました。
 ええっ!タックスフリーに獺祭が置いてあるよ!いつからこの地酒,インターナショナルになったんじゃ?

うして2056,那覇空港の喫煙所。
 このルートは……行き以上に奇妙な国境越えだと思い知る。あの中国であって中国でないタイオワン島から,やまとであってやまとでは断じてないレキオ(琉球)島へ,これほどさくっと渡る。パスポートを使ってるのに,全然「帰国」感がない。
 この感覚が,戦後の第三次倭寇の気分だったと思う。「台湾」の語源は定説のないままですけど,一説に原住民シラヤ族の「来訪者(Tayouan∶ダイオワン)」というのがあります。二つの島はともに「ニライ」に浮かぶ。
 これまた奇妙なことに──この夜の宿は小禄にしてました。この沖縄であって沖縄ではない奇妙なエリアから,いま一度の沖縄歩きを始めて参りたいと思います。

■レポ:蘆洲南港仔の地図をひたすら眺める

 蘆洲のことは,未だに何も理解できません。断片的な情報を以下蓄積しておくに留めざるを得ない。

〔後掲wiki/鷺洲庄役場「鷺洲庄略圖」『鷺洲庄要覽』,1936年〕

地名情報の整理∶蘆洲≒鷺洲≒南港仔,もう一つの南端

 蘆洲は北京語読みで「lu2zhou1」。台湾語で「Lo-chiu」,客家語「Lu-chu」。
 ただし「蘆洲区」は台湾新北市の市轄区名で,光復後1947年に改称されたもの(市制施行は1997年,現人口20万人(2016年))。
 別称:鷺洲はそれ以前,日治代の1920年からの名称。台北州新荘郡鷺洲庄として再編されたものです。
 このころ和尚洲という地名も使われる。これは全く意味不明です。
 蘆洲区の行政区は渓墘・中路・南港子・水湳・楼厝の5つ。この日に訪れたMRT三民高中駅東側地区,蘆洲天后から文武大眾爺廟のエリアは,上記1936年地図を見る限り南港子(中路の北隣辺り)に当たるらしい※。
〔以上,後掲wiki/蘆洲区〕
※ただし,下記1904台灣堡圖には天后宮付近に「中路」の文字があり,そうなると当然,文武大眾爺廟も中路に含まれたことになる。
 一方,後掲・新舊對照管轄便覽(1921年刊)によると蘆洲は「興直堡」と「芝蘭二堡」※に分かれる。前者は二重埔庄と三重埔庄,後者は溪墘庄,中路庄,南港仔庄,水湳庄,樓仔厝庄から成るとされる。整合が完全でないけれど,二重・三重と中路・南港仔の名前だけは重なる。これらは,気紛れに変転する地名の中でも固定的で,おそらく古名として定着したものと推定されます。
※士林側にある芝蘭(→GM.∶地点(芝蘭新村))地名との関連も疑われます。
 ただ,南港仔で検索すると現・松山駅側の南港ばかりがヒットします。知名度は松山側のそれの方が高いと思われるけれど,逆に言えば蘆洲の南港仔も史料の記載するものである可能性もあります。
 先に挙げた「極北台湾島の南端」仮説を敷衍すると,北の基隆に対する南の港,ということになるのは同じでしょう。けれどそう仮定すると──現・蘆洲相当地域は,基隆に比肩するほどの重要港だったことになるのです。

【1904台灣堡圖】天后宮〜文武大眾爺廟エリアの大中小観察

 台湾百年歴史地図から抜いて来ようとすると,この地域の地図にはそう古いものはありませんでした。下記は20Cに入ってから,日帝統治時期のものです。

蘆洲南港仔付近∶大〔後掲台湾百年歴史地図/台北/日治二萬分之一台灣堡圖(1904),透過度35%〕

 左の指差しが天后宮,右が文武大眾爺廟の位置です。「中路」の文字があり,この図だけからすると中路の中心地区だったとも思えます。
 文武大眾爺廟の地区には既に街区があります。不明瞭ですが地図記号も書かれており,湧蓮寺か文武大眾爺廟の可能性があります。ちなみにこの東500mほどに受玄宮という廟があり,ここに鷺江街(→GM.∶地点)という地名が残るから,文武大眾爺廟から受玄宮辺りが最も街区として発達していた可能性があります。
 これに対し,天后宮付近は閑散としています。地図記号は,単なる荒れ地ではなく沼地(Yみたいな噴水マーク)と思われるものになっているから,この辺りに明瞭でない海岸線があったと思われます。
 次に少し視線を引いて広域を見ます。
同1904台灣堡圖・中

 中州を北北西から南南東に割る黄色いラインは現代地図を透過させたものですけど,三民路です。街区の配置と先の噴水マークを見ると,このラインが元々低地で,中州を縦断する水脈と推定されます。
 その北東(樓厝)と南西(中路・南港仔)が,現・川岸より離れている(各々民族路・長榮路までで街区が途絶えてる)のも,この中州が現在より小さく,かつ分断されていたことを物語ります。
 天后宮・文武大眾爺廟の位置は,この中州の裂け目の中。つまり十分な水深さえあれば最良の寄港地となったであろう立地なのです。
 さらに視線を引きます。
同1904台灣堡圖・小(透過度無)

 淡水から關渡を抜けた船は,康熙台北湖があろうとなかろうと,まず進行方向南方正面に蘆洲のこの二つの中州,小さめの州(樓厝)と大きめの州(中路・南港仔)を目にしたはずです。
 關渡がドアマンとすれば,中路・南港仔はチェックインカウンターのような位置,でもおかしくはないのです。
 古い,謂れも分からぬ諸神が疎らにかつ濃密に根を下ろしても不思議はないのです。
 なのに,これらの町は正史には書かれず,役所が置かれた形跡もない。最大の謎はそこだと思うのです。

「文案」に当たる蘆洲南港仔

 特に最後の図の地形を見て,ふと連想したことかあります。おそらく妄想ですけど,付記しておきますと──

 表の神・媽祖の鎮座する關渡に対し,水塊を隔ててある蘆洲南港仔。これは,那覇の表のエリート層が天妃を祀る久米村に対する,地元神の怨念渦巻く現・奥武山(当時の奥島)に類似していないでしょうか?
 台北が康熙代に水に浸かったように,那覇の西はごく最近まで現・漫湖の元になった水域でした。
 那覇のこの時代の奥島と同じく,蘆洲の中州は,何らかの意味で忌むべき場所,陰・裏の土地だった可能性はないでしょうか。

【1970基本地形圖】蘆洲李宅地点の大中小観察

 この地域で一番の観光地は「蘆洲李宅」だったと後で知りました。
 乾隆年間(18C末)に11歳で渡台してきた初代・李正一は,極貧のまま41歳で死んだ。軌道に乗ってきたのは二代・李清水の時で,この人は1860年に蘆洲湧蓮寺の執事になっています。いわゆる郷士だったと思われる。
 三代目で繁栄を極める。七人の子息が競うように農産から貿易に事業を拡大,清末には李家が蘆洲の土地の1/3を所有し,一族は千名を超えたという。特に李樹華(士實公,諱・祐真)が1893年に安平・鳳山両県の「儒學正堂」(儒学の顧問?)として名を馳せる。〔後掲李友邦將軍紀念館〕
 ただ,現代最も著名なのは五代・李友邦。抗日活動に加担した上で大陸に渡り,国民党の将軍として台湾に凱旋した。1952年に共産党のスパイの嫌疑で処刑されていますが,現代は抗日活動の部分だけが独り歩きしてる〔後掲維基百科/李友邦〕。

往時の蘆洲李宅

 国民党的な宣伝を差し引いて李氏の軌跡を見ると,おそらく三代集団が交易で利をあげたところに一族の繁栄の実があるようです。
 そこでこの地点を1970基本地形圖で見てみます。
蘆洲李宅付近・大〔後掲台湾百年歴史地図/台北/臺灣一萬分一基本地形圖(1970)/透過度35%〕

 指差しが蘆洲李宅,ということはその南西隣が天后宮,図右下辺りが文武大眾爺廟です。
 やはり街区に飲み込まれている文武大眾爺廟に対し,蘆洲李宅付近はこの1970年代でも閑散としています。
 この間の「L」のような地図記号のエリアに,けれど縦横に点線が引かれています。野道でしょう。この日に見た諸神の祠は70年代には存在したはずですから,これら野道の傍にぽつりぽつりと建っていたことになります。
 もう一つ,蘆洲李宅の北に池のようなものがある。何でしょう?その周囲にも沢のような水色がある。
蘆洲李宅付近・中〔後掲同図〕
 蘆洲李宅北の池からは,さらに北の中州最北へ水路が続いています。
 これ単独では明らかにおかしい水流です。前に見た現・三民路の位置にあった中州縦断水域の名残りと見るべきでしょう。
 70年代のこの細さでは無理ですけど,従来そこにあった水域に蘆洲李宅が面していたのは,彼らが第三代を中心とする交易をここで営んでいたからだと推定されます。
 さらに視点を引いてみると,たった半世紀前のこの地図には驚くべきラインが浮かんでます。
蘆洲李宅付近・小〔後掲同図〕

 蘆洲を囲む縦長い,長径2kmほどの楕円が見えます。この街区の形は,かつての,おそらく李氏三代目が栄えた19C以前の中州居住可能域のそれでしょう。
 ただ,北西角の街区が薄いように見えます。正確には蘆洲街区は逆C字のような形の湾を成していて,その最奥の船着場が古くは文武大眾爺廟,少し後には天后宮や蘆洲李宅付近にあったと推測します。
 また,蘆洲の楕円より南東にもう一つ,こちらは横に傾いだような楕円が見えます。これは,前章で触れた新荘・頭前の次の時代に栄えた二重の付近です。これも同様に中州の同時代の形だと考えられます。

「短冊」のない中正路〜光華路の路地群

 以上を前提に,もう一度,文武大眾爺廟方面から天后宮方面へ続いていた路地群の生成について考えてみます。
 これが北港や新荘で見えた短冊状敷地の部類なのか,というと,おそらく違う。一つには,そういう形状はこの地域の航空写真では見えてきません。

蘆洲中心部航空写真〔後掲台湾百年歴史地図/台北/正射影像【農航所】,透過度50%〕
 二つ目に,先の70年代地図で確認したように,この逆C字内の湾状地域は,ここ半世紀で市街化したエリアです。
 ただ,これらだけでは短冊状地籍が蘆洲にはないことを説明しきれません。天后宮エリアでも明らかに古いことが実証されている蘆洲李宅付近にも,短冊は確認できないからです。
蘆洲李宅付近(宅西側)〔地籍図〕

 例によって文化部HPからのダウンロードです。
 北港や鹿港であれほど一般的だった,そして新荘でも確認できた特徴的な細長い地籍が全くない。途中で千切れて分筆された形跡も見いだせません。
 この違いは何を意味するのでしょう?
蘆洲李宅付近(宅東側)〔地籍図〕

 即ち,蘆洲という土地は,台湾西海岸で見たどんな土地にも似ない,独自の形成過程を経ているように思えるのです。
 三張犁や松山・南港と同じく,ごく短期間だけ港湾として有用で,その間だけの短い繁栄を経た土地なのではないでしょうか。新荘ほどに世代間で受け継がれていくような歴史はなく,18C頃の街の形がそこで止まったように,ガイドブックに決して書かれないような微妙な痕跡を残している。
 その意味で,歩きとしては大失敗または破茶滅茶だったこの地域,最も台湾らしい土地の香りを嗅げたとも言えるわけです。遺憾ながら。

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