諏訪神社
ただ単に 諏訪神社へお詣り しました。 それだけです。 |
目録
諏訪幼稚園崖下道
〇936,長崎秋前から蛍茶屋行に乗車。
諏訪神社で降りる。地下道をくぐって北西側へ出ると,勇壮な階段が山手へ登ってます。
本稿では諏訪神社を,ゆっくり歩いてみようと思いました。実は,それだけです。計画や狙い目は特にありませんでした。
▲諏訪神社配置図
GM.(地点)
※ 長崎の神宮寺の謎: 仮称リアス式
祓戸神社。0948。
諏訪神社登り口に向かって右手東側(→GM.:地点)。長崎くんちの「踊馬場」下に当たります。
正面左手に立ち上がった狛犬。──俗に,これが立ち狛犬で,右手のが逆立ち狛犬と呼ぶらしい〔後掲JAFナビ〕。
この日,なぜここが気になったのか自分でもよく分からない。祓戸大神というカミは記紀にもほぼ記載されない,おそらく非常に原初の八百万神と言われます〔wiki/祓戸大神〕。
やはり諏訪幼稚園南崖下から抜けれる。
──前回までに何度か通った,参道東の小径を辿ってみると,本堂の東裏手に出ることができました。
この道も,元の何かを意味してるような意味ありげなジグザグですけど……分かりません。
文久元年の千分の五
年を経て廣がるのみの夏木哉
神社敷地に入ってすぐ,高浜虚子句碑の向こうに──五釐金之碑(→GM.:地点)?
「釐」の漢字をいい加減に記録したもんだから,後の調べでもなかなかヒットしませんでしたけど──この漢字はこの場合,結局割合の単位「厘」(0.1%)と同じ意味でした。ここから当用漢字で書きます。
五五厘金之碑
開国に当たって,文久元年(1861)貿易商人の願いによって貿易額の千分の五を積み立てる貿易五厘金の制が成立し三厘を身許備[ふりがな:みともそなえ]に,二厘を市街整備費に当てたが,明治維新によって,いったん官に没収された。(略)最後に明治24年(1891)に完成した長崎最初の本河内水源地の工事達成のため,その全額を投入して解体した。〔案内板〕
──何の話じゃ?まるで分からない?(巻末参照)
▲1002恵比寿さんの賽銭表示
カエル岩の御嶽の如く
真っ赤な鳥居の通路を進むと,1023,玉園稲荷神社。
左手に「厄難除け蛙岩」という大岩。注連縄を巡らせてあります。
「当神社ご鎮座当時の古図には,この岩に〆縄を張り,柵を廻らしてあり,古くから信仰されていたことが判ります。」
長崎大水害(1982(昭和57)年)に崩れた諏訪神社の裏山からの土砂を,この蛙岩が食い止めた〔後掲ご朱印さんぽ道〕という功績が書かれるけれど,それ以前からの素朴な信仰だったとすれば──まるで御嶽の巌です。
▲1026蛙岩
そのさらに後方にも山道が続いてます。明らかな階段が登っているんだけれど……その向こうに柵がある。ちょっとした山歩きになりそうなので,本日の「何気なく諏訪神社」のテーマにそぐわない。止めとこう。
右手にも「○○塚」とある石柱。二文字目は「神」か。完全に回りを覆ってある。下の蛭子社と同じです。
何となく……この辺が古神なのではないだろうか。要するに……皆目理解出来ない神体ばかりです。
例えば……下の狐のくわえた鍵のようなものは何だろう?
▲1033狐さん
川おじさんの井戸
帰路に,これらの配置構成を確認する。
間違いありません。この蛭子社が本殿の奥,つまり正面まっすぐの上段に当たる。そしてそれは,カバーで覆って拝ませない。
案内板には,祭神は少彦名神ではあるけれど通常の蛭子ではなく「水上安全」など「水に係わる願事成就の神として信仰され」たと紹介されている。
海神なのである。
入口脇に「川伯の井戸」。カッパの棲家にしては狭いけれど……蛭子社との関連があるのか?
▲1042井戸
「新帝陛下御即位記念」として「雅桜(プリンセス雅)」を植樹してる。1044。
木材の新しさからして,多分令和の「新帝陛下」。しかしここまでの表記は珍しいでしょう?
▲1045「新帝陛下御即位記念」
観光客はちょっと新しい道を見つけると得意げになるけど,それだけじゃなくて……西山に登り降りする時,この道はやはり重宝するのです。
やはり幼稚園下から出て東へ。
三十職種の職人さん
ad上西山町18。三叉路右折。
上西山3。松の森通りに出てしまったけれど──あれ?何だこの左手の神社は?
1054。これが松ノ森神社でした。
1625年に今博多町創建,1656年現在地に遷宮とある。
額は天満宮。──この神社の公式名は「松森天満宮」でした。
陸軍大臣寺内正毅が明治40に「是レ明治三十七八年役※戦利品ノ一」として大砲の弾を納めてる。※日露戦争の別称
1102。後方職人尽に「造船の図」あり。──公式HPによると1713(正徳3)年奉納。御用指物師の喜平衛と藤右衛門が彫ったものを,1831(天保2)年ににあたる石崎融思(川原慶賀の師匠筋)が塗り直す。30職種の職人が彫り込まれてるという。〔後掲松森天満宮〕
分からないのは──なぜそれだけの労力をかけ,ここに奉納されてるのか?
▲1103造船の図
迷った迷った!新店舗!
1126喜助うどん
ごぼう天うどん400
五島うどんというのは,時折無性に食べたくなる。そばとうどんの間みたいな微妙な細さ(太さ)が,ここでしか食べれないのです。
何で見たのか,一休さんのこんな狂歌をメモしてました。
「さとりなば坊主になるな魚食へ地獄に行って鬼に負けるな 一休宗純」
■レポ:おすわさんの財源論
この神社の「諏訪」という漢字は,他地に迎合した用字らしい。明治以前は「諏方」。
長野の諏訪神社・上社大祝(おおほうり)もやはり,古代には「諏方」と書いていたものを,江戸期に政教分離して「藩主諏訪家」と「大祝諏方家」に分かれた〔後掲諏訪市〕段階でも,祭祀家系のみが諏「方」の字を用いてます。──つまり長崎独特ではなく,多分,タケミナカタ※信仰として正統な用字なのです。
別称: 諏訪神、諏訪明神、南宮法性大明神、お諏訪さま、藤島明神 等
神格: 蛇神(龍神)、水神、風神、狩猟神、農耕神、軍神、開拓の神〔wiki/タケミナカタ 日本神話の神、諏訪大社の祭神〕
明治以前は「諏方」の字を用い諏方明神・諏方大明神などと呼ばれた。「おすわさん」として親しまれる。〔後掲角川日本地名大辞典/諏訪神社〕
17C初 長崎大破却
けれどその割に,直接の創建は新しい。1648(慶安元)年,江戸時代に入ってからです。
これは長崎市内がキリシタンの原理主義的専制下にあった時代,寺社のほとんどが棄却されたからで,長崎ではどの寺社もほぼ同じ歴史を持ちます。
後掲社伝はその破壊期を慶長年間(1596-1615)年と記します。その後の歴史を知る現代人からは,豊織・江戸の太平下,まさに秀吉や家康の時代にそんな宗教闘争があったとは信じがたいけれど──どうも次の元和年間(1615-1624)辺りがむしろキリシタンが最も激しい抵抗を行ったらしい。その直前の慶長年間を通じて長崎がキリシタン全盛期にあったのはほぼ確かです。
1614年5月 中旬に行なわれたキリシタンの行進は、長崎代官村山等安夫妻を先頭に数千人が町を巡り、数万の信徒が沿道にたって祈った。
これに危機を感じた幕府は、1619年、有名な『大追放』を行ない、宣教師62名と信徒53名がポルトガル船でマカオに追放され、また宣教師31名と信徒多数がマニラヘ送られた。このマニラ行には高山右近らも含まれた。
さらに1622年9月、後世『大殉教』とよばれる迫害があった。火刑25名、斬首30名で、これは二十六聖人と異り、ほとんどが長崎在住の信者であった。〔後掲石橋〕
家康がいわゆる禁教令を発布したのは1612年4月(慶長17年3月)21日。これは直轄地に限られ,以心崇伝による理論武装(以下展開参照)を経て,1614(慶長19)年1月にいよいよ全国に展開されます。
既に予期されていたのか,年が改まると全国の信者はバテレンと共に長崎へ移動したらしい。長崎で彼らが協議を重ねた結果,行われたのが4月の苦行と5月の祈りの行進だったようです。代官村山等安の夫人・ジェスタが茨の冠を被り,荒縄で自らを拘束し裸足で歩いたと伝わる※〔後掲長崎年表〕。凄まじいけれど,そのパフォーマンスで現実に何を勝ち取ろうとしたのか,よく分からない。──この「暴動」を口実にしたのか,この年のうちに長崎の教会は次々と破壊されたようです。
※「贖罪の大行列」と呼ぶ史料もある。〔アビラ・ヒロン『日本王国記』←後掲大航海時代のおと〕
確からしいのは,1614年段階でこれだけの無茶をするキリシタンが長崎市内には溢れており,それまで20年間市内を牛耳っていたであろうことです。
スワの立ち上がった時空
長崎の歴史は,かくも灰の上に建ってます。
上記の16C末と1945年,ほぼ壊滅した状態からビルドされてます。
まず押さえておきたいのは,その17Cビルドの基本フレームは江戸城が強く主導してそのデッサンを描こうとしていることです。ここで見ていく諏訪神社は,その宗教・文化的な中心として現在地に据えられているのです。──これが本稿の結論の前半。
さて「諏訪神社」という文化装置の前史としては,キリシタン弾圧がいよいよ本格化した1630年代に登場した「早水」氏に触れなくてはなりません。
元和の頃(1615~)から延宝(1673~1680)の頃まで、代々興行ものの取り締まりをしていたのは、長崎代官末次氏だった。末次氏が密貿易で失脚した後は、町年寄で寺社方を兼ねた代官高木氏が取り締まった。寛永11年(1634)、長崎奉行に着任したのは出島築造、鎖国令の実施にあたった榊原飛騨守職直(さかきばら ひだのかみ もとなお)。同時に能太夫を命じられたのが早水治部という人物で、その稽古場として、多くの敷地を拝領している。そしてこの時よりすべての芝居、相撲、手踊などは早水氏の拝領地に限って興行が許された。しかし、年代は不詳だが、早水氏拝領地以外でも興行が行われていたことを示す「歌舞伎役者控」の記録が残っている。その場所は、小島村正覚寺付近「梅園芝居所」、馬込「聖徳寺下浜辺」、銅座、大浦辺りとある。〔後掲ナガジン〕
──ということは,従来市内各所で営まれていた興行は,早水氏を提灯に掲げた榊原から始まる奉行職によって強引に一元化されていった可能性があるわけです。
この榊原という人は,何と名にし負う徳川三傑の榊原康政の子です!!……けれど,実は血縁はありません(下記展開部参照)。ないんだけど,宗門改めとキリシタン国外追放の実施者で,かつ島原の乱に鍋島直茂の軍監史として参戦してジェノサイド,つまり「鎖国」の実質的な遂行者となる人です。
こんな人がパトロンに憑いた早水さんは,もう長崎で踊り狂うしかなかったでしょう。その狂いぶりが「くんち」と諏訪神社信仰の基盤となっていったと観ます。
②諏訪社に先立つ「スワ」と神宮寺
ということで,ようやく話は現・諏訪神社に辿り着きます。
「スワ」は現・諏訪神社以前から存在しました。後掲角川(社伝②)からも後掲くんち(諏訪神社以前にあった「諏訪大明神」柱)・神楽等の記述からも,少なくとも俗に,ここが「諏訪(方)」と呼ばれた神域であったことは疑いようがない。
なのに,下記にあるように1648(慶安元)年の公式号は玉園山神宮寺なのです。さらにこの後も,神社庁〔後掲長崎県神社庁〕の時代まで,この神社は「諏訪」ではないのです。
つまり,どうやら長崎の統治側にとって,「スワ」は忌語だった可能性があります。──感性的な問題かもしれない。でもここまで明確に避けてるのです。
「神宮寺」という古代からの由緒を持つ号も,なぜか1683(天和3)年に廃されています。「安永末年頃まで毎年豊前国彦山の修験者4~5名が滞在した」というのですから,1781(安永末)年まで約百年,玉園山神宮寺の再興者の宗派らしき修験者たちは居座り続けた,要は神宮寺号を廃した勢力に抵抗し続けたわけです。
これら「スワ」と「神宮寺」に纏わる因縁は,全く分からない。とにかくキリシタンが破壊する前,それどころか現・諏訪神社と跛行して,その場所には「長崎奉行立」の諏訪神社以前のものが渦巻いていた,としか捉えようがない。
諏訪神社社伝に書かれたこと
諏訪神社社伝原文を見つけられなかったけれど,そこに書かれた事象を概ね角川日本地名大辞典が転記していました。
社伝によると,慶長年間,長崎の地はキリシタン全盛で,神社仏閣はキリシタン教徒によりことごとく破壊されていた。この頃唐津出身の修験者,金重院青木賢清が長崎に来てこれを憂い,寛永2年市内の諏方・森崎・住吉の3社を円山(現松ノ森神社の地)に合祀①した。さらに慶安元年,玉園山中腹の現社地に遷座し,賢清が初代宮司となったという。同年玉園山神宮寺②という山寺号を受けた。(略)天和3年神宮寺の寺号を廃したが,安永末年頃まで毎年豊前国彦山の修験者4~5名が滞在したという。(略)安政4年火災にあい焼失。文久3年2月孝明天皇より再建の勅命が出された。それには「長崎表鎮座有之候敵国降伏社③」とあり(長崎市史神社教会部),嘉永6年のペリーの浦賀来航以後現実化した諸外国からの圧力に対する攘夷論の高まりの中で当社は軍神として崇拝されていたと思われる。明治2年社殿復興。(略)昭和20年の原爆で社殿も少なからず損傷を受けた。入母屋造の荘厳な現社殿は同59年に行われた昭和の大造営によるもの。〔後掲角川日本地名大辞典/諏訪神社〕※下線・丸付数字は引用者
①諏訪神社創始までの陣取りゲーム
諏訪神社の元は,1625(寛永2)年に3社を当時の円山,現・松ノ森神社の場所に合祀したものです。合祀した元は市内の諏方・森崎・住吉にあった。「諏方」というのは元の諏訪神社,6Cに創建され広大な神域を有したとされる「圓山神宮寺」(内部リンク:006-1立山下り道\旧六町編\長崎県
/■小レポ:長崎金比羅山の掘れば掘るほど深い闇)でしょう。これらは全て破壊され,17C前半にやっとその,おそらく御神体の欠片をかき集め始めたのです。
本文中で松森天満宮についての案内板を転記してました。この年代と併せ,時系列と位置のクロス表にするとこんな感じになります。
今博多 | 松森 | 上西山 | |
---|---|---|---|
1625(寛永2) | [天満] | [諏訪] | _ |
1648(慶安元) | ▽ | _ | [諏訪] |
1656(承応5) | _ | [天満] | ▽ |
これらの段階での社は,おそらくごく小規模なものでしょう。でなければあっちやこっちへ移動できるもんじゃない。
また,こんなパズルめいた動かし方が出来たのは,唐津の修験者が登場してきてるけれど,実質は一定の資本を蓄積した町衆の合議が主導したでしょう。
ただし,この修験者・青木賢清さんの奔走ぶりには目を見張るものがあります。なぜこれほど,おそらく半生を賭して,この人は神社を造りたかったのでしょう?
こうした時に、独力で反キリシタンに立ちあがり、奔走したのが唐津の人で役行者でもある青木賢清であった。彼は1623年に長崎に入り、威福院高順をたずねた。
二人はお互いに神道の立場が異ることに気づき、高順は先の諏訪社のことを語って、その再建を勧めた。
賢清は、長照寺の門わきで『諏訪大明神』の柱を見つけ、また寺の和尚のすすめで、西山在住の田川二右衛門という篤信家をたずねたのである。ここで山留孫左衛門という篤志家とも出会い、大村に公文氏をたずねて、祠祭の役を譲りうけることとなる。
賢清はさらに京に上り吉田神社の卜部氏にすがり『長崎総社』という神階を受けることに成功した。これには、長崎奉行も驚き、この男を対キリシタン対策に利用できるともふんで、援助することとなり、現在地に新社を造営した。
1632年になると、京の卜部氏から『鎮西大社』の神階を許された。賢清は、大迫害により転びの者が氏子として参加することを歓迎し、ねんごろに保護を加え、神道のゆるやかな宗教性ゆえに、信者達をやわらかに包みこんでいったのである。1634年になって、長崎奉行のたっての勧めもあって、大祭を催すこととなり、摂津住吉大社の祭をまねて、初めて「おくんち」がとりおこなわれた。〔後掲石橋〕
「大迫害により転びの者が氏子として参加することを歓迎」する思想性が,転んだキリシタンにマッチした,という根拠や規模は確認できません。でも集団でキリシタンに属していた一般市民には,一神教との親和性とかいうことでなく,おそらく過去20年間キリスト信徒に憎悪を蓄積した既存宗教集団以外の新設集団に属する必要があったのかもしれません。要するに集団防衛上の最適化を図ると,諏訪神社の宮子というのが唯一解だったのではないでしょうか?
③諏訪の明神は敵国降伏の霊神にして
諏訪は,神功皇后に由来する軍神たる性格も持ちます。でもそれが書面化されたのは,やはり諏訪神社が創始された17Cであるらしい。
長崎くんちの前月,毎年9月13日に「翁」の脇能として謡曲「諏訪」の上演が習わしとなっています。
「敵国降伏」の文字がこの序文部分にあります。
[本文]底本 井上傳三奉納六行本「諏訪」翻刻。
諏訪
[名ノリ]〜[道行]
ツヲ 君の恵みもいやましに\/行衛や
久しかるらん。ワキ「抑是は当今に仕へ奉る
臣下也。扨も九州肥前国彼杵郡。長崎
諏訪の明神は。敵国降伏の霊神にして。
神秘さま\/神事取行はる丶由君聞召
及ばせ給ひ。(以下略)
(あらすじ)都から君の宣旨をこうむった勅使が登場し名乗りをする。長崎の諏訪明神で神事が執り行われるので参詣せよとの仰せであった。勅使ははるばるとやって来たその諏訪の社頭で宮居を清めている老翁と男に出会う。勅使は「敵国降伏の霊神」としてきこえる神社の神秘と由来を尋ねる。〔後掲若木〕
伝承によるとこの謡の作者は諏訪神社の能役者・早水治部。1672(寛文12)年に「官命」による制作とされます。
なぜ謡の制作を公が発注するのでしょう?──同時期の長崎奉行は牛込忠左衛門勝登※。末次平蔵一族を密貿易で廃絶したのはこの奉行です(内部リンク:m142m第十四波mm唐館(出)薬草園の創始者=末次平蔵)。犯罪者への厳罰主義も徹底しつつ,市法貨物商法※※を発し貿易統制を強化しますけど──この奉行が,「官命」まで下した証拠はないけれど,主導した可能性は高い。
寛宝日記※には,牛込奉行の能楽など芸能好きを示す記事がある。牛込の長崎入りした1671(寛文11)年9月13日は「おくんち」の時期と推定されてますけど,翌々日の15日には先任奉行とともに奉納の能を堪能したと寛宝日記は記します。この状況から,牛込はこの観能後ほどなく早水治部に諏訪制作を命じたと推察されています〔後掲若木〕。
この対海外防衛専門の軍神という性格が,上記の1863年:文久3年2月孝明天皇より再建の勅命に繋がり,少なくとも戦前までの諏訪社崇拝の背景にはあったと考えられます。
ただ,これだけの推移を見ても,長崎奉行主導の諏訪神社興隆と長崎人の信仰が微妙に噛み合いません。──奉行主導,唯一の長崎独自能たる諏訪が、脇能として,何となく「義務的」に舞われてます。1857(安政4)年火災からは7年放置されてきて,幕末の長崎ですから誰かが工作したかもしれないけれど……孝明帝の命という形をとってやっと再建されてる。おそらくその間も「くんち」は挙行されてきたはずです。
長崎人は官の尻馬に乗りつつ,官の動きが止めばかなり薄情に自分たちで踊り続けるようなところがあります。諏訪社と「くんち」の関係は,まさにそれのように思えるのです。
絵踏みの後賑やかしと「くんち」
また少し,イメージ的な寄り道をしておく。現代,コロナを疑われる人だけPCR検査を受けてたのが,毎朝全員一斉の体温チェックに転じたように,踏み絵というのは長崎では恒例行事化していたといいます。
長崎年中暦(旧暦)
◆絵踏み
一月三日(町年寄)
四~七日(町民)
八日(丸山遊女)
この絵踏みは鎖国の直前からはじまったが、このマリア像の製作を命ぜられた古川町の萩原祐佐は作品のあまりの見事さにかえって切支丹と疑われて斬罪となったという哀史がある。この制度も江戸中期より形式化された年中行事となり、遊女達は「絵踏衣装」といわれる華美な衣装を競いあい、また見物人もそのはだしの嬌姿を見ようと群集したという。そして町民も遊女も絵踏がすむと「後賑やかし」とよぶ厄払いの盛大な祝宴をもよおした。明治に入ってこの絵踏みが廃止になった時、娘たちが「おやつし」をすることができなくなったのは外国人のせいだと、逆に恨んだほどであった。〔後掲石橋〕
遊女は「絵踏衣装」を競い,大衆はそれにたむろする。ムスリムのラマダーン明けのイド・アル=フィトルよろしく,絵踏み後の「後賑やかし」の宴を祝う。昏い政治的強制を祭りに変えてしまう。
「くんち」は,由緒から言うとまさにそのような「強いられたイベント」でした。
長崎くんちで奉納踊りを演じるのは長崎町人の義務となりました。つまり複数の宗教がせめぎ合う長崎ならではの政治的な思惑が濃厚です。だから衣装の披露をする庭見せは「うちはキリシタンにあらず」と家の奥まで見せる意味もあるんだし、ある年にキリシタンから石を投げられて妨害されたことから、神輿はキリシタンのいない安全ルートを通ることが決められたなんて話もあります。〔後掲ながさきプレス〕
長崎人の祭り「おくんち」
さて。「くんち」に賭ける長崎人の労力は,博多の山笠並みにもの凄いらしい。四ヶ月前から「小屋入り」して踊りの練習を始めるのだという。元々は市民全員が諏訪神社の氏子でした。
──と素人げに書いてますけど,自慢じゃないけど「くんち」を実地に観たことはないので仕方ない。
くんち奉納踊は国の重要無形民俗文化財,くんち奉納音曲(シャギリ)は県の無形民俗文化財。この奉納踊・奉納音曲の練習開始の神事を「小屋入り」と呼び,くんちより4か月前の6月1日に執行される。小屋掛けした中で別火を以て奉納の練習に励むことからこのように称されたのであろう。長崎くんちの起こりは,旧記によると寛永11年,丸山町・寄合町の遊女が踊りを奉納したことに始まったとされる。〔後掲角川日本地名大辞典/諏訪神社〕
「丸山町・寄合町の遊女が踊りを奉納」した初回たる1634(寛永11)年は,榊原職直の長崎奉行就任の年です。
この重複の意味は分からないけれど──少なくとも遊女らの顔役が新任奉行に話を通してた,例えば宴席の冗談で言ってみたら奉行ウケが良かったので,というような事は想像しうるのではないでしょうか?
ただ,なかなかこの奔放※な踊りから由緒を探るのは難しい。──何より,この1634年というのは,遊女屋を丸山・寄合2町が出来る1642(寛永19)年※より前ですし──比較的伝統を重んじた能に視点を狭めてみます。
※寛永長崎港図に後の桶屋町周辺に「寄合町通り」と記されている。寄合町は,今博多町・大井手町・八幡町などにあった遊女屋を移転させて形成されたと考えられている〔角川日本地名大辞典/寄合町〕。
神事能も盛んで,例祭のみならず吉慶あればこれを奉仕し,能役者も十数人を雇い入れていた記録が見える。中でも謡曲「諏方」は,当社楽師・早水治部の撰と伝える。能衣装数十点を現存。特殊神事に毎月15日の湯立神事,12月の百手神事,1月の和歌会などがあるが,以前には松囃子・御日待・御能組極・観花宴(唐人客)・御位階祭などもあった。〔後掲角川日本地名大辞典/諏訪神社〕
早水氏(初代治部)の関与がここでも書かれます。ではこの人は,くんち創始者とされる榊原奉行が江戸や上方から連れてきたのかというと,どうも違う。長崎地場,それも遊女たちに近い人間だったと伝わります。
初代治部が遊里と深いつながりを持っていたらしいことは、長崎県立長崎図書館蔵「丸山寄合町由緒書」からも知られる。これは寄合町乙名の芦苅善太夫が享保十九年(一七三四)に記した由緒書を天保七年(一八三六)に松島重左衛門が写したもので、遊女町である丸山町•寄合町の先祖が切支丹の召し捕りに協力したこと、大音寺造営や諏訪神社建立に助力したこと、諏訪神社の祭礼に踊りを出したことなどが記されており、その中に次のような記事がある。
一 諏方大明神御祭礼之御能、百廿年以前二而始り申候、其節も両町先祖之者共諸役者を出シ相勤申候、其時当所之楽頭早水主馬与申者、是も両町先祖ゟ(より)諸事取立申候、只今之主馬者其孫二て御座候、然者九拾年以前ゟ御祭礼之御能諸役者両町言合、同前二相勤申候、夫ゟ只今二至り町屋ゟ段々諸役者出申候御事。〔後掲表〕※下線は引用者
「両町先祖之者共諸役者を出シ」た中に早水氏がいた,ということは,それ以前は丸山•寄合両町のお抱え役者──幇間(太鼓持ち)のような務めをしていた人だったということになります。
遊廓の構成員は雑多な地域から流れ歩き,長崎の場合は先行する平戸の丸山遊廓{内部リンク:m131m第十三波mm川内観音(序)/元祖丸山遊郭から成功への道}からの移転者が多かったはずですけど,この中から早水氏が祭事能を,遊女たちが奉納踊りを担った形が,諏訪神社の祭りと「くんち」の原型だったことになります。
以下は表さんの力作ですけど,記録に残る諏訪神社祭事能10回分についてです。幕末までの能は全て早水氏が努めてきています。
なお,奉納踊りでの丸山・寄合町の別格扱い(古くは両町とも毎年,直近は両町が隔年で踊る)は,1958(昭和33)年の両町不参加まで継続されます。
統治側の意図や計算はともかく,長崎最大の祭事を稼働させてきたのは彼ら遊廓町民たちでした。
1 宝永5年(一七〇八)
能大夫・早水治部、同・早水一学
長崎市立博物館「諸役人役料高并発端年号等」
2 享保6年(一七ニ一)
能大夫・早水治部、同新之助
長崎県立図書館渡辺文庫「長崎地役人分限帳」
3 寛政3年(一七九一)
能大夫・早水朝次郎
内閣文庫「寛政辛亥長崎地役分限」
4 文政3年(一八二〇)
能大夫・早水浅次郎,早水助之進
長崎県立図書館渡辺文庫「長崎地役人分限帳」
5 文政11年(一八二八)頃
能大夫・早水助之進
長崎市立博物館「分限帳」
6 天保3年(一八三二)頃
能大夫・早水助之進
長崎県立博物館「分限帳」
7 天保12年(一八四一)頃
能大夫・早水一学、見習・早水助之進
長崎県立博物館渡辺文庫「分限帳」
8 安政元年(一八五四)
能大夫・早水一学、見習・早水主馬
長崎県立博物館渡辺文庫「分限帳」
9 安政5年(一八五八)頃
能大夫・早水主馬
長崎県立博物館渡辺文庫「分限帳」
10 慶応元年(一八六五)
能大夫・早水主馬
長崎市立博物館「明細分限帳」〔後掲表〕
長崎貿易の自治体経営化
文化5年の長崎市中明細帳によれば,坪数4,664坪余,箇所数52,竈数71,戸数76・人数838(男145・女693)〔角川日本地名大辞典/寄合町〕。
丸山・寄合両町は長崎市民の顔役のような役柄を担っていたでしょう。
牛込奉行による市法貨物商法以降,長崎会所に流れ込んだ貿易利潤が,長崎市中にどのように還元されていったか具体的な数字がありません。ただ巨大な一般財源を有するに至った長崎が,歳入事業としての貿易と歳出事業としての「くんち」ほか祭事を「自治体営」で稼働させていったことは間違いありません。
さて,では長崎衆が諏訪神社と「くんち」に流しこんだ具体のマネーはどのようなものだったでしょう?
唐船からの貨物賜与・口銭銀・置銀
後掲黄は唐船から諏訪神社への半強制「寄進」を三種記しています。①貨物賜与が金銭化して②口銭銀,さらにワイロが追加されて③置銀です。
「長崎古今集覧』「諏方社」の条に「寛永十二年、大猶公特下鈞旨頒贈唐船一隻銭貨以充廟資、今仍其例」(3)。「長崎名勝図絵」にも「寛永十二年より年々唐船一艘だけの貨物を賜ふ、明暦元年改て船毎に銀おのおの若干宛を寄付し、今又社用銀を賜ふ」(4)との記載がある。寛永十二年から唐船一艘の貨物を祭礼と修理の費用に当て、残りを社人に賜るよう幕府から命令がくだされたのである。〔後掲黄/21唐船貨物の賜与と口銭銀,置銀〕
(3)松浦東渓「長崎古今集覽 上巻」長崎文献社,1976 p404
(4)饒田喩義「長崎名勝図絵」,長崎史談会,1931 p.387.
※※寛永10年≒1635年
※※※大猶公=(三代将軍)徳川家光
一艘の貨物はモノなので換金価値は多様ですけど,黄は5〜15貫(現65〜195万円:換金率1貫≒現13万円は後掲manabow)と試算しています。将軍の命でこの「寄進」が諏訪社へ毎年入ったわけですけど──諏訪神社は生糸とか硫黄とかの貿易用物資を貰っても困るので,実質的には長崎会所が換金したでしょう。
これに加えて「明暦元年改て船毎に銀おのおの若干宛を寄付し」たのが,下記「口銭銀」でしょう。さらに「今又社用銀を賜ふ」とある部分が「置銀」相当でしょうか。
口銭銀というのは、船一艘の交易取引高の内、一定の率を決め、関係者や地元に配分するという仕組みである。〔後掲黄/同〕
「母数✕定率=納付額
→関係者・地元」
と上記は書きますけど,史料上書きやすい,又は伝わりやすいからか,下記では
「1艘✕定額/艘=納付額」
で,定額は3〜5貫(≒現39〜65万円)と記されます。
馬場三郎左衛門様山崎権八郎様御代、寛永十五年寅年より御祭礼為入目唐船一艘口銭銀有次第に被遺候、右の銀当人(5)町内外八町二而支配仕候処二、寛文元年丑年より口銭の内二而三貫目ヅツ被遺候、年二より多少有之候、…寛永十一亥(年)より七貰目宛被遣候得共、御祭礼修理方等之入用仕候二付、延宝八申ノ年より口銭之外二附町一町前宛被仰付、三ケーの増被下候
寛文九酉年御奉行松平甚三郎様川野権左衛門様御代、神職役料寛水十二年より神職三人江唐船一艘の口銭銀有次第二被下候、承応二巳ノ年迄毎年一艘分被下候、明暦元未年より唐船口銭之内三貫目三人に被下候、寛文十二子ノ年より神臓四人被仰付候、右口銭の内四貫目被下候(6)
上記資料によって、寛永十五年(1638)に、神社祭礼のため、唐船一艘の口銭銀を諏訪社に配って神社祭事の時に手伝ってくれた各町の役人たちに支配を任せたことが分かる。口銭銀の金額は年によって違うが、寛文元年(1661)からは年に三貫ずつである。祭礼や修理の場合には、口銭のほかに更に支援金を配分することもあった。また、寛永十二年(1635)から神臓たちへも毎年のように唐船一艘の口銭銀が配分され、金額は三貫か四貫ほどであった。上記資料から見ると、幕府は入港した唐船に口銭銀を課し、その一部分を神職役料、祭礼費用、社殿修復料などとして諏訪神社へ配分したことがわかる。上記のほか、寛文九年(1669)、幕府から朱印状が下されたのを機に諏訪社が大規模な修復を行った。その時長崎奉行が修復料として十五貫目の経費を諏訪社に配ったこともある。〔後掲黄〕
(5) 当人とは、祭事に奉仕する内町外町から選ばれた数名の町乙名のことである。
(6) 松浦東渓「長崎古今集覧」上巻,長崎文献社,1976 p.408
長崎への唐船入港数は1688年の193隻が最大〔後掲ナガジン特集/唐人屋敷の生活〕。この数を3〜5貫/艘に乗ずると579〜965貫(現7,527〜12,545万円)。
口銭銀のほか、置銀の配分も制度化されていた。置銀とは唐船商人が世話になる官民に贈る礼銀のことである。昔唐人が得意先や世話人に私的に贈っていたが、貞享二年(1685)以後制度化され、毎年関税の一種として船別にあるいは貿易額によって徴収されるようになった。置銀は地役人や寺社に配分するのが定例である。元禄15年の唐船置銀内訳表によれば、長崎の神社十九社に置銀合わせて十二貫七二八匁を配分したが、諏訪社に配分したのは一貫七二〇匁である。(7)〔後掲黄/同〕
状況が進んで来るに従い,長崎会所が実質的な関税徴収権を有するようになり,それが固定額でなくしばしば変動していたことが伺われます。会所の恣意で運用されてしまえば,賜与・口銭銀・置銀などの区別はあまり意味がなくなる。要するに「会所関税」です。正確を期して以下「置銀等」と総称しますけど──これらは利潤外の,いわば営業外費用(長崎側にとっては収益)です。営業内にも諏訪神社への金の流れはあります。いわゆる「地下配分金」(地下配分銀)で,一般にはこちらの方が著名です。
「七万両」財源(地下配分金)
この自治体営会計の特別会計的な位置付けになるでしょうけど,祭事能の部分については,1708(宝永五)年の数字が残っています。
貿易業務の大半を住民が担っていただけに、貿易利澗の一部は長崎地下に配分され、地役人の役料もここから支出された。能大夫の受用高は分限帳によって知ることができる。宝永五年の『諸役人役料高并勤方発端年号等』(長崎市立博物館蔵)には次のようにある。
一 銀 三貫四拾目 早水治部
/内/弐貫八拾目 七万両之内ゟ(より)
/九百六拾目 諏方社雑用銀ゟ
一 銀 四百七拾目 七万両之内ゟ 同 早水一学
三代能大夫早水治部の受用高の内訳に見える「七万両」とは、貿易業務を中心的に行う役所として長崎会所が元禄十二年(一六九九)に設立されたのを機に定められた毎年定額の地下配分金である。銀四千二百貫目にあたり、このうち二千二百貫目余が地役人の役料に充てられた。能大夫へは諏訪社雑用銀からも九百六十目が支給されているが、「七万両」のうち銀三十五貫目が諏訪社入用銀とされているから、いずれにしても能大夫の受用銀は貿易利潤によっていたのである。なお、受用高四百七十目の早水一学は三代治部の子で、当時は能大夫見習の立場にあった(二の5で述べるように治部より先に没したため能大夫にはならなかったらしい)。〔後掲表〕
ここで「七万両」は金額ではなく,財源名又は繰出元特別会計名と考えた方が読みやすい。長崎会所の地下配分金,現代貨幣価値で百億円弱の財源です〔後掲man@bow:1両≒13万円〕。
牛込奉行の市法貨物商法※は(当然ながら)破綻したけれど,彼が,おそらく長崎町衆との協議を経て企画した長崎会所という「自治体営」市場システムは,長崎の経済を良くも悪くも,永く規定するものになったと考えられます。
※詳細は前掲展開部参照。公売価格を市価(競争価格)ではなく長崎側の官定とする方式。不承諾の場合,売手は商品を持ち帰る。
上記記録の早水氏へ長崎地下配分金から流れたのは計四貫弱。銀一貫≒銭一両と単純計算すると四貫は50万円余相当。配分金総額ならすれば一万分の一以下ですけど,この財源が次のようにハード(公共)事業にも充てられていたとすれば,ソフトへのこの支出はそれほどケチったものではなかったかもしれません。
貿易五厘金をダムに注ぎ込む
お話は諏訪神社で見かけた五厘金之碑に戻ります。
この積み立ては「五厘金」といって、文久元年(1861)に成立した制度で、貿易額の千分の五(つまり五厘)を積み立てて、港や道路の補修など公共事業に使用するというものです。〔後掲ナガジン〕
諏訪神社碑にあった「長崎最初の本河内水源地の工事」というのは,横浜に続き日本で二番目に建設された長崎の上水道のことらしい。
長崎には外国船が頻繁に出入りしましたので、これまでも赤痢、腸チフスなどの被害がありました。明治十八年にはコレラが大流行し長崎区内で八百人が感染、七割以上の六百人が死亡します。コレラ流行の最大の原因は「水」。長崎は飲料水に恵まれない土地です。(略)長崎の飲料水の三分の二は「井戸」から供給していましたが、その内で飲料可能な井戸は約半分しかありませんでした。残り三分の一の飲料水を供給していたのは「倉田水樋」(くらたすいひ)です。中島川中流部を水源に、木でつくった四角い筒を水道管として地中に埋めて、長崎六十六町のうち五十五町に水を通しました。〔後掲ナガジン〕
この前近代的な水道──「梅雨の季節や豪雨のあと井戸水は濁り、炊いた米が黄色になる」〔西道仙(長崎区議会議長)「長崎水道論」←後掲ナガジン〕に対し,三菱社員や居留地外国人からの苦情もあり,1886(明治19)年,36歳の最年少県令・日下義雄が水道敷設をミッションとして赴任します。日下は吉村長策(工部大学(現・東京大学)助教授)を招聘。日下・吉村はフレデリック・リンガー(ホーム・リンガー商会)の協力でイギリス人技師J.W.ハートに設計調査を依頼した結果──一之瀬川上流の本河内にダムを建造する構想が作られます。日本初のダム方式の上水道でした。
問題となったのは吉村が算出したその経費三十万円。経済学に通じた日下は,長崎区年間予算の7.5倍のこの財源を,新会社・長崎水道会社を設立し,これを財源の受け皿にする方法を案出します。
財源の原資として当初は全額を国庫補助目当てだったところ,日下の懸命の中央への運動に関わらず確保額は5万円。そこで残額を公債対応(52年償還)する方針に転じたけれど,この財政負担に対し激しい反対運動が起こります。
賛成派の集会があると聞けば道で待ち伏せして、町印の入った提灯で威嚇。あるいは知事官邸に押寄せて「知事、区長を殺せ」という暴言をはく者もあらわれます。知事官邸と区長宅には警戒網がひかれました。長崎区には八十八ヶの町がありましたが、反対派の五十四ヶ町が「同盟町」を、賛成派の三十四ヶ町が「連合町」を結成。町単位で対立していきます。こうなると困るのは「長崎くんち」。宮日に争いがおこりケガ人も出ました。〔後掲ナガジン〕
同盟vs連合で二分対立した「くんち」──離れた場所からなら見てみたいものです。
市制施行に伴う市議選挙が迫っていたことで,反対派への転向に歯止めが効かなくなったといいます。
日下はかなりほじくるように財源を探したのでしょう。着目したのが最初に挙げた貿易五厘金で,おそらく当時の残高全額でしょう,六万円を水道工事に充て,水道会社案から切り替えた「区立水道施設」案で1889(明治22)年1月臨時区会※の可決を得ます。
こう見てくると,沿革の節目は明瞭に五厘金です。この財源充当決定時に会社営案を区営に切り替える必要があったのは,五厘金の出資対象を直営事業に限る,とする何かの規約か前列が存在したとしか考えられない。また,下記の例とも併せて考えると,その充当対象はかなりの競争の結果選ばれてます。
長崎商法会議所と長崎商業学校
額は小さいけれど,水道工事6万円に先行して1883(明治16)年に五厘金助成を受けた事例が記録されます。長崎商法会議所(1879(明治12)年創設)の運営資金五百円/年です。
※当時の商法会議所としては,商務局からの毎年500円(国庫補助?),会員の拠出金(毎月1円)及び有志商工業者の寄付があった〔後掲長崎商工会議所〕。
長崎商法会議所は、創立2年目にして早くも存亡の岐路に立たされることになった。松田会頭ら幹部は善後策について協議したが、長崎貿易会所が積み立てている貿易5厘金から、毎年500円の補助金を下付するよう懇請することになった。この補助金の下付については、異論が起こって難儀したが、明治16年からようやく実現をみるに至り、商法会議所はかろうじて余命を保つ状態を続けていったのである。〔後掲長崎商工会議所〕
「異論が起こって難儀した」のは,ソフト事業だったからと想像できますけど,そこは会議所構成員が政治力で押し切ったのでしょう。
その二年後,1885(明治18)年にも助成実績がありました。これは純然たるハード支援ですけど額は不明。
当時の石田英吉長崎県令(県知事)は、(略)松田源太郎ら県下の貿易商に商業学校の設立を勧めた。そこで商業学校設立委員会が組織され、市民から寄付金を募り、経費を貿易五厘金(貿易額の千分の五を積み立てる団体)から補助を受けて学校を創立した。〔wiki/長崎市立長崎商業高等学校〕
長崎商業高校への助成の件は,1883(明治16)年から6年半,長崎県学務課長兼長崎師範学校長を務めた小山健三の記述にもあり,事実性が高いようです。
商業教育の重要性を説き、消滅していた長崎の商業学校を1886年(明治19年)に復活させる(現長崎市立長崎商業高等学校)。商業学校を復活させる上での一番の問題は予算であったが、小山は「五厘金」に目をつける。五厘金とは、開国以来長崎の貿易商人が利益の1,000分の5を積み立てていたものを明治政府から没収されていたものであり、管理していた貿易会所は商業学校設立への支出を承諾し復活が実現した。〔wiki/小山健三〕
この学校も設立当初は「長崎区立」長崎商業学校と名付けられてます。区直営が助成要件とされたからでしょう。でも上の引用,少し引っ掛かりませんでしたか?
貿易五厘金の帳簿はない
長崎会所の会計帳簿の一部は現存しており,「長崎会所五冊物」と呼ばれ,長崎県史にも収録されています(史料編4)〔後掲中村〕。
この中に五厘金と見られる勘定科目や金銭の流れは,ありません。
長崎会所五冊物の史料的な漏れでないと仮定するなら,幕府向けと推測される公の帳簿に五厘金は含まれていないことになります。
このことは,中村論文で現代簿記風に整理された数字からも傍証できます。
1813年の黒字額5028貫の5厘では,1889年に繰り出された6万円の積立てに7百年を要します。幕末開国前段階で如何に長崎貿易が低調だったとしても,これは不整合です。従って五厘を乗じる母数は,会所の正規利潤ではありません。
∴5028貫 ✕ 5厘(0.005)=2.514貫≒現326千円(a)
〔後掲manabow:江戸1貫≒現13万円〕
(明治)6万円≒現228百万円(b)
〔後掲manabow:明治1円≒現3800円〕
b/a=699.4年
多くの史料は「五厘金」を特別会計のようなものとして記述し,ここまで本稿でもそのように記してきました。けれどそれは上記中村の分析とは矛盾します。それに対し前掲wiki(商業高校)引用には既にご覧の通り「貿易五厘金(貿易額の千分の五を積み立てる団体)」と書かれていました。──誤記でなければ,「五厘金」とは財団のような法人的組織名ということになります。
もう一つ,五厘金の創設年代は1861年,つまり開国後,維新の7年前として案内板その他は記してます。この点も既にご覧頂きました。──(再掲)諏訪神社の案内板:「開国に当たって文久元年(1861)貿易商人の願いによって貿易額の千分の五の制が成立し、三厘を身許備(みもとそなえ)に、二厘を市街整備費に当てたが、明治維新によって、いったん官に没収された。」
「身許備」は海事保険,つまり難破・遭難時の損害保険のようなものでしょう。すると市街整備費積立は0.2%。上記試算から考えても原資が1861年以降の利潤であったはずがありません。
よって,貿易利潤が母数であるなら,開国前のそれによる剰余金が相当額含まれています。けれども,開国前の幕府向け帳簿に該当資産項目がない。
すると,五厘金の積立額は開国以前の営業外収益に由来しているとしか考えられません。──水道への助成金6万円※と重なる規模の金流は,ここまで想定した中では,口銭銀※※など置銀等しかない。他では桁が上下してしまう。
※※置銀等に関する先の試算579〜965貫(現7,527〜12,545万円)
明治の6万円の規模(前掲試算)(明治)6万円≒現228百万円
そもそもですけど──五厘金が開国以後に新設されるなら,その理由って何でしょう?……ちょっと考え辛い。案内板によると創設理由は「貿易商人の願いによって」でした。負担する側の貿易商人が「創設」を願ったとすれば──自由貿易下でそんな理不尽な,他国の市街整備費や祭礼費を負担したがるはずはない。考えられる理由は,それまでの置銀等の営業外費用があまりに複雑で恣意的で理不尽で重かったから,普通の関税並に単純化と負担軽減を求めた,ということです。
その場合,五厘金積立額には旧制度の置銀等の残高が含まれたでしょう。
五厘金之碑の記述までの30年間に,その原資に対する認知として,営業外収益の置銀等が忘れられ,表の金流だった地下配分金に「類する」1861年創(改)設の五厘金だけが正史に記録されても,記載者の咎ではないでしょう。置銀等は元々「袖の下」に近い金流で,そのストックは長崎会所の裏会計に類するものになっていたのではないでしょうか?要するに,あまり記憶したくない金流と認知されていた。
だからこそ五厘金財源を,維新後に長崎会所を引き継いだ長崎税関(明治政府)は対処に困った末に「没収」(→前掲案内板)したのでしょう。その後,水道助成6万円の実現までの間,長崎市民側は税関に歯切れの悪い抗議を続けたと推測されます。「その財源は,会所管理だったけれど実は市中の特別財源で……」「使途からすると民に帰属していて……」と。税関(国)側もそんな暗い金を精算することを望んだでしょうから,水道助成で原資自体をゼロクリアする案に同意した,と考えると──日下の経済屋としての手腕は,市(区)民と国の双方の弱味を計算の上,この裏金解消を実現することにこそ真価が発揮されたのではないでしょうか?
▲(再掲) 官営貿易の輸入品販売・輸出品調達価格原表〔田代和生「近世後期日朝貿易史研究序説:『御出入積写』の分析を通じて」三田学会雑誌,1986・表5〕
※「判事へ」「通訳官へ」等は中間マージンの金流
長崎人の長崎の始まり
江戸期の官営貿易にはしばしば中間官庁への「袖の下」が記されます(上記対馬口事例参照)。それら中間官庁の経費は「自前で確保」することが求められていたと思われ,当時の倫理観からは真っ黒な「贈収賄」ではありません。
長崎口からの運上金を宛てにしていた幕府からしても,地元協力を得るための相応の飴として,少なくとも黙認されていたのでしょう。事実,長崎は市民を挙げて「鎖国」体制を維持し続けたのですから。
営業内利益──地下配分金7万両(≒現90億円)/年は,幕府公認事業にしか充当できなかったけれど,関係従事者の給与の他,幕府公認の諏訪社祭祀,そのソフト事業たる祭事能や「おくんち」には堂々と充てられ,その実配分は地役人など市民の手に委ねられました。
それに対し営業外収益──置銀等は,前者の百分の一規模ではあれ,徴収から使途まで会所地役人の自由裁量に相当委ねられていたのではないでしょうか?会計帳簿に記される営業内利益は,残高があれば幕府に吸い上げられる運上金を増やす口実にされたでしょうけれど,置銀等財源は相応にストックできた。
このようにして,長崎貿易に由来する大小,運用自由度の異なる特別財源を我が物として,インフラ整備と町の賑わいを創出してきたのが,長崎の都市史だったのではないでしょうか?
その工程の中で,幕府公認の諏訪社は「集金」の旗印であり,また一度それが翳れば「俺らはまた何を仕出かすか分からんぞ」という恫喝でもあり続けたのでしょう。