※(再掲:むんにむたり)沖縄語→和訳:神隠し
目録
ビーガンマリネサンド&エチオピア
西の空は暗澹。でも日が差してはいる、という奇妙な空の下、最終日の半日行へと出発。
〇920ブラウズマンズ・ランチ・ベーカリー
煮野菜のビーガンマリネサンド、エチオピア370
やっぱり、ここでの朝ごはんはちょっと代え難い。──ただ飛び石祝日なのにえらい客足です。店内は予約で一杯なので野外テラスでならokという。次回は予約だな。
ブラウマンズから南東へ
テラスの席もなかなかのもの。寒くはないし、海が見えるしね。
本日の曇天下、海は群青とエメラルドの二色にくっきりと分離され、雲に接続しております。
さて本日は、ブラウマンズに行くならば、とそのもう少し先を設定してみました。
荻道と書いて「おぎどう」と読みます(→GM.)。「萩」(はぎ)ではない。行政的には北中城村。平成の名水百選に選ばれた荻道・大城湧水群の里。
住所区画東端にある荻道貝塚は、1904(明治37)年にかの鳥居龍蔵が発見、1919(大正8)年(年)に松村瞭ら東京帝国大学によって発掘調査。考古学的にら沖縄の貝塚で最も著名、かつ年代推定上、内地の繩文時代後期に並行する重要性を持ち、その出土品は南島先史時代研究の標準資料となっています。史跡名勝天然記念物〔後掲文化庁〕。
GM.(経路)
ブラウマンズの北車道から東行。高みを越え、十字路を過ぎた先で右折。荻道に入る。
〔日本名〕北中城村荻道(荻道・大城湧水群)
(沖縄戦時:北北西1kmの喜舎場国民学校=現・北中城小学校が拠点化。米軍上陸時の配置部隊は師団独立歩兵第12大隊(賀谷中佐))
〔沖縄名〕ウンジョーとも〔日本歴史地名大系 「荻道村」←コトバンク/荻道村〕
〔米軍名〕- (1945.4.3久場先・荻道占領。4.4島袋・安谷屋と並び喜舎場収容所仮設)〔後掲総務省・北長崎村〕
奇跡の村のイリヌカー
大里の立地に似て、山の西麓の里です。大里と違うのは、その立地なのに造成したかのように平坦地であること。
もう一つ顕著なのは、奇跡的に残った居住区であること。南に世界遺産中城城、北に大城グスクの文化財エリア。東に大西テェラスゴルフクラブ、西に沖縄自動車道の走る谷。その向こうは普天間基地ですから、沖縄行政が渋っても米軍が少し血迷えば更地になっていても不思議はない。
1005、イリヌカー到達。
イリヌカーは荻道集落の共同井泉の一つでいつ頃築造されたのかは詳らかではない。(略)戦前は旧正月2日、現在は元日に区の役員有志が水の恵みに感謝してハチウビー(初御水)の祈願をしている。〔案内板〕
上方に祭壇2基。傾いている。供え物なし。
「西井泉」という漢字が、他の集落の同名井戸に当てられてるからその語義でしょう。「イリ」(西)「ヌ」(の)「カー」(井戸)です。
ハチウビー(初御水)は他のイリヌカー、のみならずカー(井戸)一般に実施してるらしい。
荻道の集落そのものは、出来かけの郊外一戸建て住宅群の風情です。
仮の目標として三つのガー(井戸)を設定して集落を回るつもりでしたけど、どうやらガー以外の手掛かりはなさそうです。
けど、ガー以外の拝所や祠がなぜないのでしょう?
メーヌガーとバスケットボール
次に向かったメーヌガーは、イリヌカーから約百m、2ブロック東。
このメーヌガーという名称も、「ガー」が濁る濁らないの僅かな違いはあるけれどあちこちにあり、いわば普通名詞です(後掲「軽くは訳せない……用語集」参照)。「前の井戸」、集落の一番身近な井戸という語感らしい。
祭壇一つ。やはり燃えかすなし。
井戸の金網にバスケットボール一つ。昨日とかにたむろした子どもの忘れ物でしょうか。
汲み上げ用の機器が取り付けられてて、実用度の高さを感じさせます。
十のガーが湧き集落が生まれた
メーヌガーから右折して進む。集落は緩い丘陵の上を縫うように続いてる。──多分この尾根地形が、曖昧に分かれてるという東隣の大城との境でしょう。
なお、荻道メーヌカーの東北ブロックには、イーヌカー(上の井泉)とヒージャーガー(樋川井)があります。この日はなぜか見逃してます。画像で構造を見る限り、文化財としてはヒージャーガーの造りは精緻に見える。
環境省の名水百選に登録された荻道大城湧水群を目安にしてみると──
②アガリヌカー
③チブガー
④イリヌカー(大城)
⑤イーヌカー
⑥メーヌカー
⑦タチガー
⑧イリヌカー(荻堂)
⑨アガリカー
⑩アカタガー 計10箇所〔後掲結/荻道大城湧水群〕
水質・水量 1日の湧水量:30トン
由来・歴史 湧水が集まる大城地区が集落化したのは約700年前。荻道は17世紀半ば「琉球国高究帳」に、18世紀には「琉球国由来記」「琉球国旧記」に登場します。湧水利用は集落形成時からと思われ、近くの中城城跡の石積みとほぼ同様の琉球石灰岩の布積みであることから、これら湧水群は1440年頃にできたと考えられる。〔後掲環境省〕
ガーの布積みの形態までは流石にワシには読めません。でもこれでもって中城城同年代と断言できるほどの材料なのだとすれば──飲料水に苦労が絶えない島にあって、荻道はまず水の出る地として選ばれ、集落形成から中城城に拠る政治拠点を形成した、と考えられないでしょうか。
荻堂福樹之迷路
前方に丘を見てT字路。右折。──この丘は、中城ダムを挟んで中城城(167m)に続く山塊の手前部(153m)です。
この日訪れた3つの井戸を上の図に書き込むと、イリヌカーやメーヌガーが地下水を堰き止める樋川の技術を要した平地の凹みに立地するのに対し、アカタガーは谷間地形の、おそらく技術的に未熟な時代に選択した井戸です。
大城にある国重文・中村家住宅の「中村家の先祖は石工技術のプロで、護佐丸が中城グスクを築城した際に、指導的な役割を担っていたことが明らかになっています。」〔後掲沖縄の風景〕 アカタガーは「中村家以前」を物語る井戸の可能性があるのです。
尚、このルート途中から「荻道のフクギ並木」と記される場所があります。
国頭郡、特に謝敷(→後掲FASE99-2:福樹之迷路)まではこの光景がうちなんちゅにとって如何に愛すべきもので、かつ美しいか理解に至らず、目にしたはずですけどスルーしてます。──このフクギ(福樹)への愛着も北山に普遍的で、中山にあまり見ないものだったかもしれません。中城城直下の古い集落が、初期の北山からの入植によるものならそれは整合します。
アカタガー 名を知らぬ道 オスプレイ
原チャを停める。
ここまでの街なか生活井戸と全く違う空気です。亀甲墓の並びに新しい一軒家が建つ。畑で作業してたお爺さまが、エンジン音に驚き露骨な視線で射てきます。
案内板などないので、道の配置から推定して探すと──多分こっちだろう、という道に「安里ガー(アカタガー)」と書かれた白杭が見つかりました。
藪の谷間に下る道です。
つと、左手南東側に姿を現しました。
アカタガーです。地元の呼称は「安里ガー」(アサトガー)だというけれど〔後掲沖縄放浪日記〕、どちらも原義は分かりません。でも他集落にあるネーミングの他の井戸と、異種のものと考えられます。周りは墓地と畑のこの場所に……何が違うのでしょう。
これは古い。1026。
水量はあまりなさそうです。井戸奥の石垣が黄色く滑り光る。元は野積みの垣が、歳月に喰われてる感じ。
祭壇はない。
井戸の前は橋状になってました。そこから先、井戸に向かって右手は、道ではなく水路が伸びてるようです。
名を知らない神霊の出入り道でしょうか。
頭上にまたオスプレイの爆音。
Xmas大婚活祭
タイムアップ。1034退去。
ベーカリーから東、谷を渡った先は急に亀甲墓だらけになる。対して西側にはそれがない。ただし若松公園のような遺物は残る。
普天間を過ぎ喜友名のローソン。隣にジローベーカリーというパン屋。えらく客足がある。
沖縄の小さいパン屋は捨てたもんじゃない。変な進化を遂げた店が、こもごもありそうです。
国場から長田へ。やんばる食堂に着くも……ああッ火曜定休かあ!!
沖縄大からまっすぐの道を降りて右折すると──あれれ?識名トンネル?
これは違うだろ?と左手の路地に入ると、全然抜けられなくなった。どの道も行き止まり。どこが抜けられるんだ?
識名小学校からは勘だけで路地を進んでいきました。
行けども行けども見知った辺りに全然出ない……三原?松川西?──と思ってたらふいに──あれおもろまちに出てる?
やっぱり識名から三原付近は、よく頭に入ってないようです。今後もまだまだ楽しめそうです。ガソリン入れてバイク返したけど……まだもうろうとしてました。
この度もまたゆいレールから
1256まきし食堂(名護そば)
天ぷら定食650
快活クラブまで出来てる国際通りのど真ん中、ここはなぜか全く変わらない。水槽の中にいるような赤暗い部屋の窓から三越前を見下ろしてます。
ただここの天ぷらは、沖縄天ぷらという感じではなく、内地の天ぷらに近かった。要は空振りでしたね。
1331。美栄橋ゆいレールホーム。──近年の大開発でもこの南東側、北面する古墓は残さたようです。前面には15階ほどのマンションが建ったんですけど、結局それが建っただけに終わったらしい。
ゆいレール発車。1334、県庁前。パレットくもじには今回はとうとう行かなかったけれど、とにかくビルだらけになってきました。左右とも眺望がほとんどない。だから──
1336。旭橋まで列車が出て川と海が見えると開放感がある。
壺川。1338。ここにもドンキがあったっけ?沖縄には那覇にこの二店、さらに宜野湾と豊見城に出店してます。今回は国際通り店で手荷物カバンを買い換えました。
1340、奥武山公園。この北側辺りのアパート群は割りと古いままです。外資の選り好みは露骨で、要するに公式通りで鮮明です。
1342、小禄。やはりここは左右とも広く見ると起伏が織りなす美しい地形。
1345、赤嶺。右側の高みに森がある。橙と白のタンクが置かれてるけど、よく考えたらなぜここに森が残るんだろう?
1347、那覇空港。出発まで78分。
■レポ:荻堂 ファイリング
荻堂という土地のデータは、ぶちまけられたままで全然有機構造を作ってくれません。基本、分類だけしておきます。
なお、史料等の表記と違和がないよう、本レポでは引用を除き歴史的名称の「荻堂」に統一して記します。
自然地理と地名
方言ではウンジョウといい、古くは荻堂とも記した。沖縄本島中部、普天間(ふてんま)川支流のヌーリ川右岸に位置する。大部分は、標高100~150mの丘陵で、この丘陵は第三紀の島尻層とこれを被覆する琉球石灰岩からなる。比較的起伏の少ない緩やかな地形で、川岸には低平な沖積地が広く開けている。(続)〔角川日本地名大辞典/荻道〕
「ウンジョウ」は現・発音「おぎどう」又は古称「おぎたう」とほとんど類似がない。「雲上」を想起するけど根拠はありません。
地形的には、なぜ周囲が起伏に富む中でこの緩やかな地勢があるのか、奇跡的に思えます。ただ琉球石灰岩が起伏を埋めた、つまり古い海底面が浮上して形成されたものと理解されます。
絵図郷村帳に「おぎたう村」とみえる。琉球国高究帳にも「おぎたう村」とあり、高頭七三石余、うち田五五石余・畠一七石余。〔日本歴史地名大系(以下同じ)「荻道村」←コトバンク/荻道村〕
可能性としてですけど──沖縄地方ではサトウキビをではウージと呼ぶ(沖縄方言。種子島:「オウギ」 奄美群島(徳之島):「ウギ」) 。全く違う植物だけど、これに「荻」字を当てるらしい。音もオギ(荻)が訛ったものとも言われる[2]。〔wiki/サトウキビ〕※原注[2]ヲゥージ:沖縄言語研究センター首里・那覇方言音声データベース
「荻」は中国語では甘蔗(拼音: gānzhè ガンジョー)と呼びます。これは現代北京語ですけど、呉語では koe1tso、閩南語はkam-chia。かなり「ウンジョー」に近い音です。つまり、「荻」堂は最も古くは漢音で読んでいたのではないでしょうか?
(続)地名のオギはオーギ(サトウキビ)、ドウは原と同じく土地を意味するという説もある。(続)〔角川日本地名大辞典/荻道〕
王府時代~明治41年の村名。中頭【なかがみ】方中城【なかぐすく】間切のうち。「高究帳」では、おぎたう村と見え、高頭73石余うち田55石余・畑17石余。「旧記」に荻堂村と見える。(続)〔角川日本地名大辞典/荻道村(近世)〕
高究帳は1635年成立、旧記(琉球国旧記)は1731年。先述の「絵図郷村帳」は1736(享保21)年成立ですから、「おぎたう」読みの初出は高究帳、17C初め頃らしい。
荻堂先史の考古学的知見
沖縄の先史代の編年記述は、「現行編年」(多和田真淳氏考案)、高宮編年(高宮廣衞氏提案)、「沖縄県史考古編年」が並立、かつ先島の編年はさらに独立している状況です。2024年更新の沖縄県HP記述でも、県埋文が中心になって統合を進めるも「沖縄諸島における先史時代の編年はいまだ確立していない状況」〔後掲沖縄県〕です。
(続)沖縄考古編年前Ⅳ期の荻堂貝塚(国史跡)、前Ⅴ期の荻道遺跡がある。(続)〔角川日本地名大辞典/荻道〕
上の記述も、従って専門外のワシらには分からんけど、後掲北中城村の「翻訳」では3,000〜3,500年前、日本の縄文後期に当たるらしい。
荻堂出土の土器が沖縄最古という説も、前世紀中に既に定説ではなくなっています(後掲仲里は1994年)。
伊波式土器・荻堂式土器・大山式土器の時代の位置づけと器形・施文・貝塚の把握。
渡具知東原遺跡で爪形文土器、曽畑式土器が発見される1975(昭和50)年まで沖縄最古の土器は本土の縄文後期相当(4000年ー3000年前)に位置づけられる上記3型式の土器であると考えられ古い順に荻堂式ー伊波式ー大山式土器とされて来た。しかし1976年沖縄市室川貝塚の発掘謂査によって荻堂式土器出土層の下層から伊波式土器が出土するに及んでその位置関係は逆転し、むしろその事によって伊波式一荻堂式ー大山式土器の流れがスムーズに説明出来るようになったと高宮廣衛氏は言う。なお、室川貝塚最下層から発見された新種の土器は室川下層式土器と標式名を与えられ曽畑式土器に先行する初の南島土器ではないかと期待がもたれている。〔後掲仲里〕
室川貝塚は何と現・沖縄市役所内にあります(→GM.)。1974年に沖縄市立コザ中学校の生徒が発見した遺跡です〔wiki/室川貝塚〕。
第2層だけで213点の出土がありましたけど、これほどの豊富さに関わらず沖縄市域を含む中城湾沿岸と同様に弥生〜古墳代の遺物が皆無である点が未だに謎です。ただ縄文後期の土器の層順には前掲のように相当の成果が見られました〔wiki/室川貝塚、後掲沖縄市教育委員会〕。
現代の標式としては、荻堂式土器※は伊波式と類型化され、九州の曽畑式土器や千葉県興津貝塚の土器との類似性が注目されるものとなっています。冷静な議論によれば、この一見縄文とは見えない南海の土器は、その技術を携え海を幾つも越えた人々が創リだした変種の縄文土器だと考えられます。
荻堂の共同社会の空気感
沖縄にどのくらいこういう集落があるか定かでないけれど、荻堂には「根所」家が確固としてあるらしい。単なる「旧家」ではありません。「集落発祥にかかわる家」と書かれることが多いけれど、ないちゃーにはちょっとイメージしにくい概念です。
(続)荻堂貝塚の東に根所仲元家があり、ムラ祭祀と行事はすべて同家を中心に行われてきた(北中城村史)。集落は東隣の大城の集落とほとんど一体となっている。集落内に梵字碑があり、一字文殊の種子シロキエンを刻んだものだが、特に信仰はない(県文化財調査報告書69)。(続)〔角川日本地名大辞典/荻道〕
下記の「御神家」も同じ内容だと思われます。上記でこの根所家が貝塚東にあり、かつ東隣の大城とほとんど一体だったということは、ある時点で荻堂が分離独立したことを意味します。下記のとおり、祭祀上は依存関係のままです。
(続)後原のイーヌモー(上の森)に火の神を祀った御神家がある。年中祭祀では、大城【おおぐすく】村の拝所を拝むことがあり、かつては従属的な小村であったともいわれる(沖縄の集落研究)。メーヌカー(前の井戸)・イーヌカー(上の井戸)・イリヌカー(西の井戸)・ヒザーガー(樋川)などを、旧正月初ウビーに拝する。(続)〔角川日本地名大辞典/荻道村(近世)〕
上記「旧正月初ウビー」は前掲ハチウビー(初御水)と同じでしょう。下記で間切「北東部」に樋川が記されるとありますけど、確かに大城・荻堂全体域で見ると北東側に偏っており、それは人口が集中したが故とも仮定できますけど、その割にはこの日に確認したように南西側にも平地は広がっています。
南西の井戸がアカタガーです。既存集落・大城の南西部に食い込んだ新移民集団──あるいはむしろ大城側が新移民で既存住民が南東に追いやられていたのかもしれません──が、徐々に東北部=集落中央にも進出し、脱権ではなく独立を果たした、と想定できるかもしれません。
一八世紀末の作製と考えられる間切集成図には、当村北東部に「樋川」と記される。脇地頭の任職は確認できない。「琉球国由来記」「琉球国旧記」では当村内の拝所は記されないが、伊舎堂いしやどー村(現中城村)の上伊舎堂之殿に麦穂祭・稲二祭のとき大城・荻堂両村の百姓中が神酒を供えているので(琉球国由来記)、あるいは当村は大城村の祭祀にかかわっていたのかもしれない。〔後掲日本歴史地名大系〕
この日の歩きでは見のがしてますけど──二集落の境界に公園があり、そこに「兄弟棒の場所」という案内板があるという。各地の喧嘩祭りがそうだと予想されるように──分離独立時の紛糾を文化的に昇華して、共存を図った痕跡だと思われます。
兄弟棒って、棒を使った格闘です。つまり、荻道と大城の代表が、この場所で勝負していたのですね。その勝負が本気だったかどうかは、よくわかっていません。もし、荻道が大城から独立した理由が喧嘩別れならば、この勝負は本気で、怪我人や死者が出ていたかもしれませんね。
今も、旧暦七夕に、この場所で兄弟棒が行われています。もちろん本気ではなく演舞です。〔後掲沖縄の風景〕
挽物口説の唄う「荻道大城ぬ坂」
まだ原書に当たれてないんで手抜きではありますけど……「沖縄『歴史の道』を行く」という書籍に次のような内容が記されてるらしい。
中頭・国頭方東海道 《薩摩藩調製図の描くもう一つのルート》 野嵩・萩堂への道 (●野嵩石畳道より亀甲坂(カミグービラ) p.150 ●熱田クィージビラを見ながら和仁屋集落へ p.151 ●旧道そのままの畦道より渡口集落へ p.153)〔座間味栄議/著 新城俊昭/監修「沖縄『歴史の道』を行く 新歴史ロマン」むぎ社,2001←後掲岡山県立図書館〕
「中頭・国頭方東海道」という官道の側道、または民間道として、萩堂ルートが存在した。それは野嵩石畳道から「亀甲坂」経由で熱田・和仁屋方面へ抜けた、という書き方です。その典拠は、どうやら民謡に求めている。
(続)宜野湾【ぎのわん】方面から東宿【あがりじゆく】(官道)が、村落西側のカミグービラ(亀甲坂)を通り、和仁屋間門【わにやまじよう】に至る。組踊「大城崩」に「聞けば兄思子乳母や中城間切荻堂生れてやりあれば」とある。明治中頃の「挽物口説」に「あの坂何で言ゆる坂だのやべるが、あれややう荻堂大城の坂んで言ゆんてんど」と謡われた。〔角川日本地名大辞典/荻道村(近世)〕
上記挽物口説という掛合歌劇は、現代にまで唄い継がれてます。この中に、荻道と大城が、途中の「荻道大城ぬ坂」として登場します。亀甲坂(カミグービラ)は同義と思われます。
名物の坂「カミグービラ」(亀甲坂)が一節で歌われている。「カミグー」とは急勾配の亀の甲状を表し、「ビラ」とは坂のことをいう〔後掲沖縄音楽旅行/掘内歌奈子の歌碑探訪記〕
といった語源説もあります。「亀の甲状」は道がウネウネと蛇行した様を言うのでしょうか。
男B あんせーな道具取てぃ来わ添うてぃめんそーり
あぬ坂何んでぃ云ゆる坂だやびるが
男A ありやよー津覇 津覇よ 荻道大城ぬ坂んでぃ云んど
男B あんしん高さる坂んあやびかや 彼方居てぃ鳴ちゅる牛ぇー何牛だやびるが
男A ありやよー津覇 津覇よ 地頭代ぬ御祝儀喰ぇーやてぃ殺する牛てぃんど〔後掲たるーの島唄まじめな研究〕[読み]あぬふぃらぬーんでぃいゆるふぃらだやびるが
【和訳】男B あの坂はなんという坂でございますか?[読み]ありやよーちーふぁー ちーふぁーよ うんじょーうふぐしくんでぃいゆんどー
【和訳】男A あれはよ 津覇 津覇よ 荻道大城の坂というんだよ[読み]あんしんたかさるたかさるふぃらんあやびかや あまうてぃなちゅるうしぇーぬーうしだやびるが
【和訳】男B あのように高い坂もあるのでしょうか? あそこで鳴いている牛はなんという牛でございますか?[読み]ありやよーちーふぁー ちーふぁーよ じとぅでーぬぐすーじくぇーやてぃくるするうしてぃんどー
【和訳】男A あれはね津覇 津覇よ 地頭代のお祝い料理で殺す牛なのだよ男Aは主。住まう若狭(那覇)から(冒頭)「我んどぅ挽物細工やしが 田場天願かい行ちゅる」──現・うるま市までの商務に、男B=津覇を従者として伴います。
※田場:方言ではタァバ〔角川日本地名大辞典/田場〕。中頭【なかがみ】方具志川間切のうち。「高究帳」では田波村〔同/田場村(近世)〕。現・うるま市(→GM.)。
※天順:田場の隣村。地名は隣同士の二つの地名を繋げていうことが多い〔後掲たるー〕。GM.だと28km、徒歩で6時間半。小旅行です。用務の内容は語られない。掛け合いは、物を知らない津覇が主に道中の風物をいちいち尋ねるのが主な内容。
「あの坂は何という坂?」
「荻道大城ぬ坂だよ」
この問答しか、荻堂の地名の出る部分はありません。ただ、この語られ方は主は何度も「荻道大城ぬ坂」を往来したことを示唆します。
続く記述も面白い。
「あれに鳴く牛は何という牛ですか?」
「地頭代のお祝い料理で殺す牛なのだよ」
中村家住宅(→前掲)の中村氏は、同案内板によると、大城安里(ウフグシクアサト)と称し、地頭代(役職名)を勤めた家柄という〔中村家住宅案内板←後掲結/アガリヌカー〕。
挽物口説に現れる牛の供される先は、地頭代だった中村家だったと思われます。坂を登り切って大城村が近づくと、その牛が引かれていくのが見えた。それは中村家の権勢を現す光景として、主の目には映ったでしょう。
してみると中村家の号した「大城安里」も気になります。大城荻堂でなぜその名が?と分からなかった「安里ガー」の名は、沖縄で随一の石工技術を誇った中村家が、分離独立に動く荻堂側を懐柔するために旧井戸を補修した際に付けられた別称だったかもしれません。
なお──これは全然分からんけど──口説の類型としては、荻堂のものは専門的にはかなり特殊で、ここにしかないものだそうです。荻堂口説のように上吟で始まり下吟で終わる3のタイプだけのもの、大浦節のように声出し・声切れの全てが上吟という4のタイプも見受けられる。〔後掲仲村〕
※「上吟は発声音を普通より呼気をやや強めに強調して歌っている。低い音から高い音へ節が変わるときに強調して歌うのである。又、下吟は上吟とは逆に呼気をやや抑えて歌い、高い音から低い音へ節が変わるときに気持ちをやや抑えて歌うのである。」
※1-4は仲村が上吟・下吟による口説の類型■事例:昭和20年真栄里集落拝所配置
下記は2021年段階で糸満市教委がアップしていた図です(平27作成)。大里、荻道と、観光的にはマイナーな集落の拝所──と言っても当初沖縄Xにイメージしていたような黒滔々たる場所ではなく、当たり前に生活の中にある沖縄の聖地の風景に惹かれるうち、見つけたものでした。
集落全体図 うち東側集落 うち西側集落 凡例(拝所名称)
当時どうだったか記憶してないけれど、糸満市曰くのこの「屋号地図」は、少なくともワシの興味を鷲掴みにしました。
真栄里には次回、歩きで訪問いたします。ただ、糸満市教委の問題意識は、鮮明かつ組織共有されてるらしい。
糸満市の各集落の風景は、時の流れとともに大きく変わりつつあります。
しかし、地域で大切にされてきた拝所、カー(井泉)などは、今もかつての面影をとどめています。
糸満市域が1町5村だったころの様子を再現した「1945(昭和20)年ごろの屋号地図」を片手に、集落を歩いてみませんか。〔後掲糸満市〕合併市町の行政は、普通こういう事は書きません。「吸収」された町村のアピールに、吸収した側が労力を費やすインセンティブが通常は生じないからです。
糸満市は非常に稀有なことに──ガーや集落拝所や屋号そのものの配置に、今の沖縄が語り継ぐべき大切な価値を見出し、凄まじい労力を費やしてるわけですけど……それにしてもこの屋号マップの数は迷惑です。こんなに掲げられたら、一生かけても周り切れんじゃないか!!もうよだれが垂れてしまいそうじゃ!!!
■用語集:沖縄X探訪のための「軽くは訳せない沖縄語」集(用水等生活関係編) 逐次追記版
■ウブミジ:「産水」。お産の時の水を特に汲む井泉
■ウブガー:「産井戸」「産井」。集落の井戸の中で最も神聖なもの。
・正月の若水汲みなど儀式を伴う。
・ウブエジを汲むことと関連している模様
■エーガー:「親井」
・「村のもとになる井泉」と解説されるが、具体にどういう意味かは分からない。
■カー:「井戸」。垂直に掘られた底辺に周囲から水が湧き出る形式
・音の類似からか、漢字の当て字に「川」が使われることもある。
■語りガー:発見説話のある井泉
■カーヌナー:井戸前広場
■カ-ラ:川(自然河川)
■クラガー:「暗川」。鍾乳洞穴下の井泉
■ジャ-:「カー」と同義
■ヌルガー:「祝女井」。神女、特にノロ専用の井泉
■ハチウビー:初御水。年の初めに井戸を使う際の儀礼
■ハミガー:神泉 (名護の用例?)
■ビーガー:堤泉。意味不詳。(名護の用例?)
■ヒージャー:「樋川」。水源が遠くにあって、水源から水路が導き、樋より水が流れ出る形式
■ヒージャーガー:「樋川井」。ヒージャーと同義。ヒザーガーとの表記又は発音もある。
■ブージガー:「精進井」。みそぎ専用の井泉
■村ガー:(仮)集落の共同井戸
■メーヌカー(メーヌガー):「前の井戸」。通常、ある集落の手前、あるいは最も身近な生活用水(だった)井戸を指す。「FASE76@deflag.utinaR311withCOVID#荻道アカタガー\いひぐわー むんにむたりーん with軽訳逐語版」への1件のフィードバック
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