(小原猛「沖縄怪異譚大全」掲載 同著者による聞き取り)
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北山
〔日本名〕本部半島 国頭郡 (沖縄戦時:清末隊、護郷隊など遊撃戦域) 〔沖縄名〕ほくざん かみ くんちゃん やんばる(山原) 〔米軍名〕(不詳) |
支出1300/収入1050
▼13.0[141]
/負債 250
[前日累計]
利益 -/負債 393
十ニ月ニ十六日(天)
1013我部祖河食堂本店
てびち汁550
1323前田食堂名護店
焼き肉おかず 650
1530パイ工房おしゃれ
アップルパイ200
1545caramel cafe
マスタードビーンズのクッキー200
1600(城一丁目4-11市営市場内)なかむら製菓Nakamura Seika
マドレーヌ200
[前日日計]
支出1300/収入1800
▼13.0[142]
負債 393/
利益107/
[前日累計]
利益 107/負債 –
十ニ月ニ十七日(一)
目録

名護城へ向かうと雨は本降り
「はっきりしない天気」とサキハマの親父が言ったとおり、今朝は小雨もちらついてます。0910。
キタボウリングセンターから川沿いを上流へ。名護城へ向かいます。
道を上がりきったところでバイクを止めると、あらら。雨が本降りになりました。
名護城(ナングシク)。
正面に階段と右手に石灯籠の道。右手に進んでみる。
二段構えの社。標識はないけれど……これが名護神社でしょうか。正面参道からは名護市内が一望。雨で霞んでるけれど。
さて。社は三角錐のような不思議な構造。
右手にコンクリブロックの山道があるけれど、荒縄で封じてある。旧道でしょうか。
元の階段に戻ってから、登りましょう。
名護の始原に連なる拝所
このグシクに、いつの頃から人が住みはじめたのか定かではありませんが、これまでに採集された中国製磁器類・カムィヤキ・高麗系瓦・土器などのさまざまな遺物からすると、少なくとも今から約600年前(14世紀)のことだと考えられ、名護按司の居城として伝えられています。〔案内板〕
山中に道が続き、すぐに拝所があるけれど「この拝所は○○門中だけの拝所です。他人の拝みはご遠慮ください」とハッキリと排除の意思表示。
こういう場所は、本気で門中の祈りの場です。一礼して辞す。
それ以外の拝所はない。光からして鞍部と思われるんですけど……眺望はなくハッキリしません。
0939。撤退。
すぐ下、道の分岐に「氏神 フスミ屋」。その下にも社あり。
ここも敢えて見つけませんでした。この付近にはフスミ屋のほか、祝女殿内(ヌルドゥンチ)、根神屋(ニガミヤー)、掟神屋(ウチガミヤー)など、名護の始原に連なる拝所があるという〔案内板(平成23年(2011)3月 名護市教育委員会)←後掲沖縄放浪日記〕。
なんぐすくから名護のまち

名護城は、名護人発祥の地である。十四世紀の始めごろ、北山(今帰仁城)統の名護按司(領主)は、今帰仁から分れてこの山上に城を構え、周辺の丘陵には、按司の統治をする領民が住んでいた。
それから約二百年の後、尚真王の中央集権によって、名護按司とその一統が首里へ引上げたので、残された城村の住民は、思い思いに平地へ移住した。
名護人は、それ以来、この地に氏神を祭って尊崇し、今日に至っている。(略)
昭和五十六年一月 名護城燈籠建設委員会〔案内板『名護城の由来』←後掲沖縄放浪日記〕
上記地図から朧に想像できます。北山・今帰仁の支所たる「按司の統治をする領民」は、14C当時、名護城の丘の麓に住む集団のみ。彼らは現・名護市内である浅海を見下ろして起居していたのでしょう。
とにかく、ご挨拶は済まさせて頂きました。まずは朝飯求めて北へ向かう。
GM.(経路)
〇949市内、なかぐすく桜市場。これを右折。
商工会の十字をさらに右折、坂を登る。右手に紅白の鉄塔。バス停•県立北部病院前。
しばらく台地が続きます。この辺が新市街めいた場所らしい。
1002。島ドーナツの三叉路を左へ入る。バス停•伊差川。
我部祖河のテビチ
おおっ!!まさにバス停•我部祖河!
──何をしてるかと言うと、朝飯に向かってるんでありました。でも……ありゃ?もう開いてる?
地元の人は実の開店時間をご存知らしくて、もう家族が訪れてきておられました。
「トイレはどこですか」とおじいに問うと「そっちよ。ウンコ?シッコ?」──確かに二箇所あったけど、その附属質問には答えねばならんかったのか?
それはそうと……今や沖縄本島を網羅するチェーンの、流石は本店!(?)
いかにも食堂です。あえててびちに拘って注文しましたけど──
1013我部祖河食堂本店
てびち汁550
普通は元祖ソーキそばの店として尊ばれとるらしい。今のおじいの載った「ソーキそば」関連記事の新聞が、ばんばん、窓ガラスにまで貼ってあります。
──喜び過ぎじゃね?
綺麗なてびちです。
雑味なくとろりと煮付けたてびちです。コラーゲンはもちろん……タピタピなんだけど、なぜか肉汁は至極淡麗。当然にスープもまた美しい。
我部祖河の神の日
食後。
店の正面の道をまっすぐ入り、右折。工場のある先を左折。
「神社」とだけ書いてある場所へ。──ご確認頂きたいけれど、何とGM.上も名前はありません(→GM.)。
1057、神社。
本殿一棟。中は二段、下段が4区画に仕切られ、それぞれに一柱ずつ石が祀ってある。焼香壇にはそれぞれウチカビの跡。
ぬめるような樹皮の大木。
※※なお、この「神社」のGM.クチコミには「廃神社。避難場所」と記載があります。ただ明らかに管理はされており、やはり部外者に近寄ってほしくない場所だったと思われます。即ちホントの意味で沖縄Xだから、名護城と併せ「X」として紹介するのは控えます。その意味では、北山に本格的に触れた本章は丸ごとXでした。
風が吹くように、小雨が舞ってはまた止む。
神の日らしい。天の気紛れに怯え、掌で転がされてます。
食堂前から北東、運天方向へ。
あのトンネルをくぐると運天
運天港8.7km標識。1114。
海に出た。左折。海上正面が屋我地島になる。
1120。今帰仁村に入る。
ワルミ入口でR505から右折。1127。
閑散として来ました。でも家はポツポツと続く。起伏を帯びた地勢です。
運天港3kmと標識もありました。間違いない。
1131、十字(→GM.)。
なるほど。ここから右折するとワルミ大橋から古宇利島か。
──後に知ったところ、この場所の字名は「天底」、読みは「あみすく」。多分、読みの方が古いので漢字の用字に拘るべきではないけど……凄い用字です。なお、「わるみ」は「割れ目」。
直進。
1138、右へ運天港と指す十字。でもここは直進です。
上運天農村公園とある鬼の看板。この辺りだけど……おそらくこの高台裏が東屋でしょう。
もう少し先へ進んでみる。──結果的にはここで左折した辺りが御嶽だったらしいけど、バイク部外者が入れそうな場所では到底ありませんでした。
1143、運天トンネル。切通しじゃなくホントにトンネルです。
あれをくぐると運天らしい。

■地名レポ①:くんちゃん 国頭 本島の2/3
三山時代の北山は、その実体そのものが定かでないのですから、もちろんその領域も、上記(出典・根拠不詳)のようにハッキリ記されるものではありません。ただ、この領域はほぼかつて──つまり名護市分離以前の国頭郡に相当します。
1896(明治29)年(沖繩縣ノ郡編制ニ關スル件※)段階での沖縄県の郡制は、那覇と首里を除き王朝時代の間切がそのまま引き継がれます。中国郡ほかの地方ではこれが特に米軍占領時に離合集散していきますけど、国頭郡は「國頭各間切及伊江島」の11地区がほぼそのまま引き継がれます。
名護・恩納・金武・久志・国頭・大宜味・羽地・今帰仁・本部・伊江の各村(明治41(1908)年島嶼町村制施行時)、計10村です。現在(2024年)までの異動は以下3点のみ(再合併及び村→町移行(本部・金武)除く)。
②1946(昭和21)年 金武村→金武村(米軍基地多設部)+宜野座村
③1970(昭和45)年 名護町+羽地村+久志村(+屋部村・屋我地村(1946(昭和21)年分離))→名護市
2村分離増で2村合併減したので、エリア数は王朝時代の10のまま。各エリアにかなり求心力を感じます。北山が強固な集権政体に支配されていた、という想像はどうも無理がある手触りです。
興味深いのは国頭エリアが地学的にも、中頭以南の南半と全く異質であることです。南半が現在地に堆積した地質であるのに対し、北半は日本列島と同じ付加体、アジア大陸から切り離されプレート上を運ばれてきた地質。その差はサンゴ礁に顕著で、サンゴを纏う南半に対し北半にはそれが無い〔後掲永野〕。
でようやく次の角川の記述を読みますけど──この表現を借りると、本島の2/3を占める巨大な領域です。本稿の想像で言えば、つまり尚王朝までの沖縄とは国頭≒北山だったのです。なお、中頭との境界線は前述のとおり異民族たるヤマトンチュが明治の琉球処分後に引いたものですから、ウチナンチュの地域認識と本当に一致してるかどうかは不確かです。
沖縄県,沖縄島(本島)の北部地方の総称。沖縄島の2/3を占める。もともと最北端の国頭村の地名であったが,1896年の勅令による郡制の施行で,恩納村,金武(きん)村から北方の地域を国頭郡とした。沖縄島の頭部にあたるので国頭(国上)と呼称したわけである。《おもろさうし》では〈かみ〉と呼び,《明史》などの古文書で〈くにかみ〉とあるのが文献上の初見である。《沖縄県国頭郡志》によって音の転訛を見ると,クニカミ→クニガミ→クンギャミ→クンヂャミ→クンヂャン→クンチャンと変化している。したがってクンヂャンの名称は中国音に似ているがそうではなく,クニカミの変化であることがわかる。また俗に沖縄島南部をさす島尻を下方(しもかた),中部をさす中頭を田舎と呼ぶのに対して,国頭を山原(やんばる)という。これは国頭地方が山林原野に富み,交通不便で僻村が多かったからである。現行の行政区画では,名護市と国頭村,東村,大宜味(おおぎみ)村,今帰仁(なきじん)村,本部(もとぶ)町,宜野座村,金武町,恩納村からなる。〔改訂新版 世界大百科事典 「国頭」(執筆者:田里 友哲)←コトバンク/国頭〕
原典に当たれてませんけど……「クニカミ→クニガミ→クンギャミ→クンヂャミ→クンヂャン→クンチャン」という呼称変化は重要だと思う。古地名「くんちゃん」に漢字を無理にはめた訳ではないらしい。つまり漢字が先立った地名で、最古の名称ではない。
「かみ」と呼んでいたという説も読みます。これに「国」を付けたという感覚は、南山エリアを「島尻」と呼ぶのと比較すると、日本で本来の街区を「元町」や「本町」と名付けるセンスに近いものを感じます。つまり「原沖縄」とでもいうような。──と考えると、北山≒国頭の人々は、自身の地域に特段の自称を持ってなかった可能性があります。北山の周囲に隣接する同等他者がなかったなら、自称は生まれません。北山≒国頭は、後から勃興したその他者たる中山・南山が名付けた他称なのではないでしょうか?
これに対し「山原」は、「古いかもしれないけど開けてない」と劣等感を裏返した感じの蔑称ではないでしょうか?
明史中の「くにかみ」というのは、非常に興味深いけれど……どんな漢字でもヒットしませんでした。ただ「おもろ」には次の古謡が残ります。
愛し国頭ぎや おもろ/こそてはた 御肝/だりじよ 下司に 思われゝ/又愛し国頭が 宣るむ
かなしくにかみきや おもろ/こそてはた おきも/たりしよ けすに をもわれゝ/又かねしくにかみか せるむ〔後掲wikisource/おもろそうし/5-261(50)おもろねやがりがあまゑわちへからいみやどよわまさりが節〕
ナイチャーには細かいニュアンスが捉えきれませんけど……持ち上げている、それこそ「上」に見ている感覚は感じられます。
一説には、江戸期に「ヤマト登り」と言った感覚から連想し、日本本土に近い方向を「上」と捉えるセンスがあったのでは?とも言う。けれど個人的には、北山の方向を「上」と捉えるから、その同方向のヤマトも同じ言い方をするとも考えられます。もちろん、両者の意味を包含して、中山から見て近隣の先進地たる北山及びヤマトをそう呼んだのかもしれません。
愛し国頭が 宣るむ/良かる国頭ぎや/天が下/だりじよ 鳴響みよわれ/又首里杜 ちよわる/おぎやか思い加那志/又居ちゑ おわれば 清らや/頂 おわれば 清らや
かねしくにかみか せるむ/よかるくにかみきや/天かした/たりしよ とよみよわれ/又しよりもり ちよわる/おきやかもいかなし/又ゐちゑ おわれは きよらや/つちへ おわれは きよらや〔後掲wikisource/おもろそうし/5-262(51)あんのあかみねまが節〕
■地名レポ②:がぶしか 我部祖河 からの眺望
対しまして、こちらは確実に読みだけが先行した地名です。四文字使わないと漢字に出来ない地名音は、流石に珍しい。ほぼ万葉仮名感覚です。
「河」とついてますけど、これも単に音を現す漢字。我部祖河川という川が別にあります。その流れで地形を先に見ますと──
地理
沖縄本島北部,本部(もとぶ)半島南部を北流する河川。方言ではガブシカガーという。河川延長6.30km・流域面積13.66k㎡。河口から3.7kmは2級河川に指定されている。名護岳に源を発し,本部半島の基部,名護市北部を北流,名護岳の北麓に位置する伊差川の東を流れる上流部はハニガー(金川)と呼ばれ,西側を流れるキチルガー(喜知留川)を伊差川集落の北方で合流して中流域の振慶名(ぶりきな)・我部祖河付近に広大なハニジターブックヮ(羽地田圃)を形成,古我知(こがち)西方の嵐山北麓から流れる奈佐田川を古我知東方で合流して呉我で羽地内海に注ぐ。なお,5万分の1地形図では奈佐田川が本流と見える。もとは羽地平野を貫流する羽地大川の流路で,我部祖河川の上流金川がその一支流であった。明治43年の大水害後,仲尾次に河川敷の大改修を行い,河口を呉我湊から仲尾次に移した。金川上流域には銅の産地があり,古くから金川銅山の名で知られ,明治末期まで採鉱されたようである。〔角川日本地名大辞典/我部祖河川〕
短いけれども暴れ川。流路を見ても、全域で河岸改修されてる形状に見えます。だから元の流域を想定しにくいけれど、「明治43年の大水害後(略)河口を呉我湊から仲尾次に移した」とあるので、旧下流域はもっと西(呉我→GM.)、多分現在北東に折れてる箇所を直進したのでしょう。
中流氾濫原がハニジターブックヮ(羽地田圃)※。西隣の羽地大川と河口を穫ったり穫られたりしながら、沃野を形成したのでしょう。この西端がこの日の朝食地・我部祖河食堂と「神社」付近になります。東端は田井等、ここは米軍が巨大な収容所を設けた場所です。──郡になる前の国頭地方役所は1880(明治13)年から二年ほど羽地間切親川村に設けられており〔wiki/国頭〕、国頭随一の政治的中心地だった可能性があります。
それにしてもこの地名の多彩さは凄い。がぶしかがー、はにがー、きちるがー。関連や類想はナイチャーにはしにくいけれど、音の響きだけで楽しい。
※たーぶっくゎ 田圃 田袋
ハニジターブックヮ(羽地田圃)同様に「ターブックヮ」(田圃 wiki:田袋)と呼ばれた主な周辺稲作地域には、他に真喜屋田袋(マギャーターブックヮ:真喜屋→GM.)、源河田袋(ギンカターブックヮ∶源河→GM.)があります。つまり羽地-真喜屋-源河の3田袋が並ぶ現・名護市北岸(羽地内海側)付近は北部随一の米所だったことになります〔wiki/羽地村〕。地図からはどうもそれがピンと来ないんですけど……低地の平地でかつ水利の整った土地、となるとこの辺りしかなかったのでしょうか?
はにがー 金山 銅山
金山銅山、これも「はにがー」銅山と読むらしい(下記Nagopedia/金川銅山跡のURLから推測)。
はっきりした史料はないらしい。ただ、古いと伝わる。具体的に推定し得るのは、1609年の薩摩侵攻よりは前の時代という程度です。
採掘は王府時代にさかのぼるだろうといわれています。口碑によると、首里円覚寺の大鐘はここの銅で鋳造したもので、薩摩に持ち去られた折り、向こうで鐘を撞くと「金川どんどん伊差川珍らさ、元の沖縄に帰地うや-ひゃ-」と響いたという伝説もあります。〔Nagopedia/金山銅山〕
鐘が略奪された時期として最もそれらしいのは、琉球王家菩提寺で首里王権の象徴の一つだった円覚寺の破壊時、と推定すればの話です。ただ「口碑」は他に記述がない。おもろそうしに一首のみ円覚寺の語を含む歌謡があるけれど(5-283(72)あおりやへが節・二首目)、銅に関する語句はない。
後掲沖縄県立美術館は伝1496年鋳造とします。1416年の北山滅亡80年後です。形式は典型的な和鐘で、同時期の円覚寺現存鐘は多くが周防国防府鋳物師・大和相秀作。兵庫県円照寺鐘との類似も指摘される〔後掲文化庁など〕。
「金川どんどん伊差川珍らさ」と鳴っても薩摩隼人がそれを解したはずもなく、原料を産した、というだけのこの誇らしい口伝は多分、怨念にも似た我部祖河ローカルのそれです。
同時期の銅製琉球風鑪など沖縄鋳物の歴史に、金山銅山がどれほど重きを成したかは推し難い。けれど琉球処分後の尚王家はこの銅山を、生き残りを賭けた投資の一つとして行っています。
明治にはいって、採掘は明治20年に尚家が試掘許可をとり、同22年借区許可も得ています。同25年には金川、ナシヤ-川をあわせて44,000坪余を借地にして採掘を進め、投資総額は43,000円余、銅の生産高は、明治22~26年間に264,000斤余で、同23年には、98,658斤を産出したという記録があります。明治30年代半ばまで採掘は続きますが休山し、その後、大正2年に四国の渡辺氏によって再開され、14,5名の工夫を使い、日に約70斤製銅しました。当時ここを見学した人は、「一時間もたつとフイゴの音が止んだ。熔けた銅が炉から酌みとられ型に入れられ、三個の製銅が出来上がった。長さ一尺五寸、幅五寸、厚さ一寸五分の大きさである」と報告しています(大正3年1月9日、琉球新報)。大正5年には、鹿児島の玉利盛彦氏が7万坪余りの区域を買収し、工夫12名、雑役夫30名を使い、月に約1万斤の銅を生産しています。〔Nagopedia/金山銅山〕
明治中期の43千円は現代の約1.6億円〔後掲野村・日経:明治1円≒現代3800円〕。没落の尚家には冒険だったでしょうけど、歴史の因果か10年ほどで閉山。
ただその後も二事業者がチャレンジしてるから、確かに銅は経営レベルに出たようです。
もう一つ、尚家の明治の挑戦からは、この銅山が王朝内で語られ続けてきた可能性を匂わせます。
おもろそうしの唄う我部祖河
地学的には、名護は「細かな谷」で特徴づけられ、これを流れる川が谷を埋めたなら沃野が形成されるようです。前掲ハニジターブックヮ(羽地田圃)はその典型という。
方言ではガブシカという。隣接する古我知(こがち)とガブシカ・フガチと併称される。沖縄本島北部,本部(もとぶ)半島の基部に位置する。名護地溝帯特有の細かな谷に刻まれた第三紀層の丘陵があり,その間の広大な沖積地には,我部祖河川が流れ,かつてはハニジターブックヮ(羽地田圃)と称する水田地帯であった。古島に関する伝承はないが,草分けの3軒が現在地に移住して始まった集落という。「おもろさうし」に「かふすか」と見える。〔角川日本地名大辞典/我部祖河〕
我部祖河(がぶしか)が古我知(こがち→GM.)との併称:ガブシカ・フガチで呼ばれるのは、両地域が何らかの一つのまとまりを持ったことを裏付けます。
その延長で言うと、北の海側、現・呉我は我部祖河の墓地だったという。呉我は、1736年には旧地・呉我山から現・呉我に移住したと伝えられます。つまり、ガブシカ・フガチの非居住地に開かれた新地が呉我で、この三集落が一体を成していたと考えられるのです。
呉我の地は、呉我が移動してくる前は我部祖河の区域で、海岸一帯は風葬場所であった。一帯の遺骨を一カ所に集めたのがナガハマシンジュで、呉我でいう屋墓である。その古墓は、我部祖河のムラバカ(村墓)として戦後まで残されていた。昭和22年、呉我の区事務所をそこに移転することになり、遺骨は我部祖河墓地に移し葬ったという(呉我誌)。〔後掲Nagopedia/呉我〕
喜瀬の子や 我が弟者/今 有る 庭 居たる/今日から 屡々 見らに/又きちり 越いて 名護の浦
伊差川の庭に/又我部祖河庭に
きせのしや わかおとちや/いみや ある みや おたる/けよから しはく\ みらに/又きちり こいて なこのうら
ゑさしかのみやに/又かふすかみやに
〔wikisource/おもろそうし/第十七 17-1181(7)及び17-1182(8) かねぐすくのろのまぶりよわるおとまり節〕
この第十七の続きには、北山の地名が頻出します。そもそも第十七は「恩納より上のおもろ御さうし」と銘があります。
全く分からん。ただ「名護」の浦→「伊差川」の庭→「我部祖河」の庭へ越えて(「越いて」)行った、つまりこの日のバイク行と同経路を詠ったものとは理解できます。
ハニジターブックヮの近世農業振興
ハニジターブックヮ(羽地田圃)の沃野と書いたけれど、これも自然に形成された天賦の良田というわけではないらしい。血と汗はもちろん、知恵と金が投入された結果生まれた耕地です。
後掲Nagopedia〔/呉我〕は、1858年にここに用水路を引いた旨を記します。呉我・仲尾・古我知の田は水利が悪く、干ばつの被害を受けやすかったという。
王府時代~明治41年の村名。国頭【くにがみ】方羽地間切のうち。「高究帳」では,かぶそか村と見え,高頭182石余うち田180石余・畑1石余。かつてこの地を流れていた羽地大川の改修とともに開田が進み,沖縄本島北部有数の米どころとなる。咸豊5年(1855)羽地間切潰地川原捌方の奉行となった麻姓16世為錦は,伊差川・我部祖河両村の潰地7万2,057坪余のうち3万5,000坪余の田に,1,828間の用水路を引いた(麻姓小宗家譜/那覇市史資料1‐7)。(続a)〔角川日本地名大辞典/我部祖河村(近世)〕
Nagopedia〔/呉我〕の記す1858年竣工用水路は、上記麻姓16世為錦の用水路と同じものでしょう。
この麻姓16世為錦は首里の麻姓の役人らしい〔後掲かげまるくん〕。次の状況から考えて、同時期に域内で起こった自助活動の際、たまたま奉行だった人ではないでしょうか。出典が麻姓家譜ですから、つまり麻姓の事績記録にしか記述が残っていないからこの人の名が出てくると思われます。
そのバイアスを考慮すべると、羽地間切ないし我部祖河が自発的な農業の合理化を成し遂げていた様が見えてきます。
(続a)域内の有志が王府に願い出て,自己資金で仕明地を造成し,これに成功して莫大な利益を得,ウェーキと呼ばれる富農が現われるようになった。王府時代末には,羽地間切の三大ウェーキの1人が我部祖河村にいた。仕明地の一部は地主手作りで,大部分は小作地であったが,明治期には地主が使役していたインジャクヮ(負債農民)を解放した例が多い(羽地村誌)。(続b)
(続c)明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。明治16年の調査によれば,地割は年齢に関係なく人頭割であった(県文化財調査報告書6)。〔角川日本地名大辞典/我部祖河村(近世)〕
サラッと書いてあります。
仕明地(しあけち)は、琉球の土地制度の専門用語です。農民らが自主開墾して認められた私有地を指します(詳細後掲)。「域内の有志が王府に願い出て、自己資金で仕明地を造成」した果実を、累積させたのが資本金と思われます。先の用水路整備もその再投資事業だった可能性は高い。
してみると、地域を法人的主体とした原始共産制から地域ぐるみの合理化農業へは、案外にスルリと移行しうるような気もしてきます。それは奥など北部国頭集落での共同売店制度の形成とも、底通します。
なお、次章■レポ:琉台パイン興亡紀で触れる、戦後に台湾からパイナップルを持ち込み特産に育てあげた玉井亀次郎も、羽地(田井等)出身です〔後掲松井〕。名護人の「パイナップルタウン」たる名乗りを誇る気分に、訪れる我々ナイチャーもしばし刮目すべきだと思います。
パイナップルは、南国だから生る作物ではないのです。
かぶそかのごく 我部祖河之嶽 と勘手納港
さて角川の記述はあと一つ、御嶽についてのものです。他に記述のない「我部祖河之嶽」が、この日訪れた「神社」だったのではないかと個人的には観じています。
(続b)拝所のうち我部祖河之嶽は仲尾ノロの崇べ所,神アシャギは伊差川ノロの祭祀(由来記)。かつては,伊差川ノロは馬に乗って祭祀に来ていたという。(続c)〔角川日本地名大辞典/我部祖河村(近世)〕
由来記(琉球国由来記)の記す祭祀に係るこの記述は、我部祖河に祭祀主催権がないままであると語っています。要するに、祭祀の世界では伊差川や仲尾の権威が健在。
土地勘が追いつかないので、そろそろ地図上で整理します。
先ほどサラッと羽地内海という語を使いましたけど、南を名護市北岸、西を本部(もとぶ)半島、北を屋我地島、東を奥武(おう)島で囲まれた水域です。その最奥の、呉我や我部祖河よりいずれも高地にある古集落が南の伊差川・北の仲尾です。北の我部祖河も南の現・名護市街も浅海又は沼地だった時代を想定すると、伊差川・仲尾は島状の乾地だったと想像されます。
羽地内海はまた屋我地内海とも呼ぶけれど、いずれも琉球語らしくなく古称ではないでしょう。ただ今でも避難港として用いられる水域です。
台風接近の際には避難港として利用される。面積は約10k㎡,水深は深いところで10m。海岸一帯には干潟が広く発達する。羽地内海には,羽地大川・真喜屋大川・我部祖河(がぶそか)川などの河川が流入する。潮は,北西側の運天水道,東側の奥武島で出入りし,東シナ海に通じる。(続)〔角川日本地名大辞典/羽地内海〕
後述の如く、羽地内海南奥は北山征服時に中山が軍勢を集結させた地とも伝わる。次のように勘手納港として薩摩航路の積出港としても用いられました。
ふと思うのは、北山王国が実体として存在したなら、なぜ本部半島の逆側と言っていい北側の今帰仁城を根拠にしたのだろう?ということです。これだけの良港が琉球史を通じて地域政治の中心地になってこなかったのがどうも不思議です。
(続)南岸の仲尾次・仲尾・呉我の海岸は勘手納港として,王府時代を通して薩摩への仕上世米など,羽地・今帰仁(なきじん)・大宜味(おおぎみ)・国頭(くにがみ)諸間切の産物を積み出す重要津口であった。運天水道の出入口には古くから自然の良港として利用された運天港がある。また,内海の北岸,特に屋我地島の我部(がぶ),今帰仁村の湧川の砂浜は王府時代以降塩田として開発され,北部最大の塩の産出地であった。(続)〔角川日本地名大辞典/羽地内海〕
もう一つ、勘手納港と運天港の使い分けも想像しにくい。次章で見るように墓地や御嶽の集中する運天港と、それが希薄な勘手納港とその周辺とが、どういう趣旨で差別化されてきたのでしょう?
いずれにせよ生業の場としてのこの水域は、非常に良好な環境です。次引用末尾にあるように、現在の状況はやや悪くなったものであり、かつてはより一層美しい海だったようなのです。
(続)魚介類が豊富で,チン(メイチダイ・クロダイ)・タマン(ハマフエフキダイ)・アシチン(ニシン目コノシロ科)・キス・ボラ・ガザミなどのほか,干潟を中心に貝類が多い。南岸に,内海・近海漁業の基地として第1種漁港仲尾次漁港がある。釣客も一年を通して多く,屋我地大橋での釣りのほか,小舟を出してのキス釣りでもにぎわう。昭和40年代後半以降の大規模土地改良事業による赤土流入,また沿岸地域の豚舎汚水の流入などにより一時期内海の汚染・汚濁が進んだが,近年はややおさまる傾向にある。〔角川日本地名大辞典/羽地内海〕
やれやれ終われなくなりました。以下、さらに伊差川・仲尾両集落の情報を確認しておきます。
周辺①:いじゃしきゃ ゑざしか 伊差川 百按司墓木棺銘
「古島」という語が両集落の記述とも出ます。沖縄にあっては、かつてその集落があった場所、という意味の普通名詞でもあるらしい。
方言ではイジャシキャ・イザシチャという。沖縄本島北部,本部(もとぶ)半島基部に位置し,南部は名護岳に連なる山地,北部は喜知留川・深田川の形成する沖積地からなる。古島は現在の集落北部にあった。今帰仁(なきじん)村運天(うんてん)にあるモモジャナ(百按司)墓にあった木棺に「えさしきやのあし(伊差川の按司)」とあり,弘治13年(1500)のものとみられる。「おもろさうし」には「ゑざしか」と謡われている。伊差川古島遺跡は,グスク時代中期から近世にかけての遺物散布地で,グスク系土器・類須恵器・沖縄製陶器などが採集された(名護市の遺跡)。〔角川日本地名大辞典/伊差川〕
「ゑざしか」のおもろは前掲(ゑさしかのにわ)の通り。
弘治13(1500)年記銘は中山世譜(1697年成立)に「有字云。弘治十三年九月某日。」と記されます。伊差川については、島袋源一郎「沖縄県国頭郡志」(1919)が「えさしきやのあし(伊差川の按司ならん)の墨痕を認め得べし」と記す。これは3つの木棺のうち第3号棺とされます〔沖縄県・今帰仁村教委〕。木棺群は2004年に修復され、現在は今帰仁村歴史文化センターに展示されてます。
ただどこを探しても、戦後に「弘治13年」又は「えさしきやのあし」銘を視認した記録や画像は見つからない。つまり厳密には戦前の視認記録があるだけです。──銘そのものにケチを付けたい訳ではないです。むしろこの現状は、木棺銘の形では15C末当時の文字の保存年限が20C初でギリギリだったこと。
運天・百按司墓の被葬者を巡る議論の重要な論点となっているこの銘は、少なくとも埋葬年代について、15C以前に遡る可能性を示していると言えます。伊差川に関して言えば、「遅くとも1500年には按司がいた集落である」という程に捉えるべきだと思います。
なこー 仲尾 or かんてぃなー 勘手納
羽地内海に面する。大部分が丘陵地で,集落は丘陵麓の海岸低地に立地。方言ではナコー,あるいはノホー・ヌホーといい,別名カンティナーともいう。地名の由来について,ノホウ・ヌホウには野生・奴生をあて,安らかな地,作物がよく育つ地の意という(かんてな誌)。(略)カンティナーには勘手納をあてるのが一般的だが,勘定納もあり,「球陽」には寒汀那と見える。〔角川日本地名大辞典/仲尾〕
球陽(1745年成立)の時代にすら勘定納or勘手納の用字の揺らぎがあった、つまり書かれない音しかなかった土地です。ゆえに音のブレも幅があるけれど、概ねN子音で始まりO母音で終わる。多分半ばにH子音が入る、という求心力は有している、という地名の状況です。
仲尾の古島は,丘陵上の仲間原で,同地には,ノロ殿内・神アシャギ・根神屋・大屋子屋の拝所が並んでいる。拝所の南の丘陵地に仲尾古村遺跡があり,サトウキビ畑にかわっているが,ヌルガー・ニガミガー・ウペーフガーの拝泉が残り,近世の古我知(こがち)焼の陶器や青磁・染付・土器・白磁などが出土する。(続)〔角川日本地名大辞典/仲尾〕
土地勘がなく全くついていけませんけど、仲尾古村遺跡はGM.にデータがあります→GM.。地理院地図の該当位置に卍がありますから(記号本来の意味と不整合ながら)、多分この辺りが根神屋(集落の発祥地)でしょう。
現在の仲尾は、パンダ(半田)にある仲尾古村遺跡から移動してきた集落である。丘陵の麓部分の上バーリと下バーリの屋敷はやや不規則に並び、中央部の中バーリの方は碁盤目状の集落となっている。屋敷の回りには、防護林として植えられた福木が目につく。
マダハー(真高)やパンタ(半田)には丘陵地が多く、その小さな谷間は以前水田に利用されていた。〔Nagopedia/仲尾〕
小地名では上・中・下バーリと呼ばれるらしい。意味不明。
中バーリの碁盤目状というのは、沖縄の古集落にしては珍しい。ただし、仲尾は戦時に住民が避難した間に約3,500人収容の米軍収容所に使われたといい〔Nagopedia/仲尾〕、形状も糸満や屋嘉の街区に似るので米軍の整地によるものとも考えられます。
グスク時代の終末頃から,丘陵の南斜面に住みつき,谷間の迫田を耕作して生活を立てたが,勘手納港の発展とともに海岸に移り住んだのではないかという(名護市の遺跡)。(続)〔角川日本地名大辞典/仲尾
1416年尚巴志in仲尾
角川とNagopediaはともに、北山攻略戦時に第一尚氏軍が仲尾≒勘手納港に入ったという中山世譜・球陽の記事を紹介してます。
(続)勘手納港は,永楽14年(1416)尚巴志が,北山王攀安知を討つにあたって国頭(くにがみ)地方の諸按司を集めた場所という(球陽尚思紹王11年条)。〔角川日本地名大辞典/仲尾〕
この記事の異様さが、ご理解頂けるでしょうか?
「中山世譜」や「球陽」は、北山攻略(1416年)の時、浦添按司・越来按司・読谷山按司・名護按司・羽地按司・国頭按司が先に進み官軍は後から行き勘手納港に集結して江を渡って北山を攻め入ったと記している。〔Nagopedia/仲尾〕
勘手納港に入ったということは、尚氏軍は海路を採ったでしょう。首里、もしかするとプロト那覇港を出港した尚氏軍が、
仮に中山世譜の創作だったとしても、そんな行程を記述することで誰が何の利を得たのでしょう?
■補論レポ:沖縄史を底流する地割と仕明地
羽地の革新農業の法的インフラとなった仕明地とは、端的に言えば私有地です。諸士および農民によって開墾された土地を指す〔後掲weblio辞書〕。
そういう農業経営行動は、内地でも起こりました。「勤勉革命」の機動力になったと言われる新田開発です。
ただ、沖縄の場合はそれ以前の状態が異なっています。かなり徹底的な地割制が実施されていた状態での「私有地」で、つまり周囲の状態と比較して特異点だったわけです。
琉球と内地の地割制
一定の基準のもとで耕地の割替えを行う琉球(りゅうきゅう)(沖縄)独特の土地共有制度。起源はいまだ不明で、古琉球(中世)起源説と近世起源説が対立しているが、18世紀初頭にはその存在が史料的に確認される。1899~1903年(明治32~36)に実施された沖縄県の土地整理事業により廃止された。(続a)〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「地割制」高良倉吉 原典:『安良城盛昭著『新・沖縄史論』(1980・沖縄タイムス社←コトバンク/地割制)、以下同〕
ヤマト内地各地にもこの慣習──江戸期の土地の定期割替制〔改訂新版 世界大百科事典 「割地地割」←コトバンク/割地地割〕は存在しました。
その成立と性格には諸説あり、断じる決め手がありません。大まかには、太古の原始共産制の単なる残滓という考えは捨てられ、中世〜近世の封建勢力が支配の都合から古習俗を利用したものと見る説が有力です。沖縄のものも、17Cの征服者・島津の農村支配の特色である門割制の影響で再構築されたとする説は有力です〔後掲奥田〕。
けれども、内地との比較を細かく当たる以前に、沖縄の地割制度がより根深い社会的根源に通じていて、現代に尾を引いているのは間違いない。具体的に最も遅くまで残存した事例として、1975年(県総合土地改良事業)までの津堅島、1988年(県農村基盤総合整備事業)までの渡名喜島、さらに現在も継続する久高島が挙げられます〔後掲奥田〕。
久高島土地憲章
島面積の2/3相当のリゾート開発が計画された際の法的対抗措置として、字久高は次の憲章を策定しました。
久高島の土地は、固有地などの一部を除いて、従来字久高の総有に属し、字民はこれらの父祖伝来の土地について使用収益の権利を享有して現在に至っている。字はこの慣行を基本的に維持しつつ、良好な自然環境や集落景観の保持と、土地の公正かつ適切な利用、管理との両立を目指すものである。
第一条 土地の利用権を享受できる字民とは、以下の者である。
①先祖代々字民として認められた者およびその配偶者。
②字外出身の者で現在字に定住し、土地管現委員会および字会が利用権を承認する者。
第二条 字民は次の各種の土地について、次のような権利を有する。
①宅地
字民は従来の屋敷地を利用することができる。字民は世帯主として屋敷を築造するときは、土地管理委員会の決定および字会の承認を得て宅地を利用することができる。但し土地使用貸借契約から二年以内に着工しなければ、土地を返還しなければならない。また土地管理委員会は子孫不明または家祭祀の途絶えた屋敷地についてはこれを回収しなければならない。
②農地
字民は従来の割当地を利用することができる。字民は土地管理委員会の決定および字会の承認を得て新たに農地を利用することができる。但し、農地を三年以上放棄した者はこれを字に返還しなければならない。
③墓地
字民は従来の割当地を利用することができる。字民は土地管理委員会の決定および字会の承認を得て新たな墓地を利用することができる。
④その他
字民は従来の利用地についてば利用を継続することができる。字民は土地管理委員会の決定および字会の承認を得て新たに土地を利用することができる。但し、利用が済みしだい土地を現状に復して、字に返還しなければならない。
第三条 憲章にもとづいて土地の利用と管理を担当する組織として、土地管理委員会を久高島離島振興総合センター内に置く。
第四条 土地管理委員会は区長、書記、字選出の村会議員、農業委員、郷友会代表者を含む十三名で構成し、委員は区長(二回目からは土地管理委員会の長)の推薦をうけて字会が選出する。委員の任期は二年とし、再任をさまたげない。委員長は委員の互選による。土地管理委員会の庶務は字の書記を充てる。
第五条 土地管理委員会は次の事項に関して審議および決定を行なう但し、決定は委員の三分の二以上の賛成を要する。
①土地の利用権の付与や回収等土地利用をめぐる一切の事項
②憲章等の違反に対する制裁に開する事項
③土地の改良・整備および植林・関墾に関する事項
④憲章の目的遠成に必要または適当な事項
第六条 土地管理委員会は委員長がこれを主宰する。委員長は定例会を一月と六月に召集しなければならない。また委員長は必要と認めたときは臨時会を招集することができる。
第七条 委員長は土地管理委員会管の業務状況について適宜字会に報告し、その決定については速やかに字会の承認を得なければならない。
第八条 字は土地管理委員会の運営費として、毎年度予算を計上しなければならない。
第九条 憲章の基本原則を変更するには字会の総意を要する。但し、その他の規則については、字会の定足数の三分の二以上の同意を得て改正することができる。
第十条 憲章を施行するための細則を別に定めるものとする。
附 則 この憲章は昭和六十三年十二月三日から施行する。
字久高は法的には住所表示単位の自治会なので、法規性はありません。一応確認してみると、南城市例規集(→https://krr374.legal-square.com/HAS-Shohin/page/SJSrbLogin.jsf)にも記載されていませんでした。ただし、字久高は島面積の七割余の登記上の所有者なので、法的には所有者内部の財産管理方針を外部に公表したものに当たります。
字有地71% 国有地(海岸線等)13% 個人有地(宅地、ノロ・根人の畑)8% 村有地7% 私有地(沖縄電力発電所等)0.04%[495㎡] [計約1,252千㎡]〔後掲山口他〕
ただし後掲浮田は、昭和三五年七月現在の土地台帳によって集計したものとして
ノロ地 一町〇反八畝ーニ歩(3.5%)
ニーチェ地 三反八畝〇二歩(1.2%)
ワク地 二九町三反七畝二三歩(93.9%)
その他 四反四畝〇四歩(1.4%)
※その他は旧ウッチ地、およびごく僅かの私有地
※※引用者注 ニーチェ:根人。外間ノロ・久高ノロ・外間ニーチェの世襲私有地 ウッチ地:地頭の役俸地。後に各戸配分。 ワク地:百姓地
としており、この数字の揺れは、ワク地として分配される対象により細かなルールがあり、明確に区分されてはいないことを推定させます。
外国による土地買収を安保上規制する2021(令和3)年制定の土地規制法※が、久高島南半を注視区域に指定したことが「事前の議論を欠いた」等として一部で問題視されています。
確かに役人又はインテリジェンスの目から先の憲章を読むと──誰か相当の頭脳が関与したらしく非常によく出来た規定なんですけど──外部出身の居住者でも字会承認を得れば土地利用権を享有できます(第二条第二号)。また委員の要件(被選挙権)の規定がなく、多分第二条該当者なら委員就任可能なので、政治活動に長けた悪意者の委員会支配及び不動産所有を完全に排除できる規定ではありません。何より、民法その他根拠法を欠くので、外部への対抗力を有さない規定です。
内閣府(伊藤大政策統括官・重要土地担当)の説明では「字久高は国や地方公共団体と同等とは考えられず、機能阻害行為の兆候の把握が容易な地域とは考えていない」〔後掲東京新聞〕。資本主義の根幹となる私有財産制の根拠法・民法の「特区」扱いは、憲章をもってしても法理上不可能……という点は納得せざるを得ません。やはり地方自治体として南城市か沖縄県が、都市計画区域か自然保護条規かで工夫しないと、久高島の地割を現代法規に位置付けるのは困難でしょう。
本題に戻ります。こんな特殊な、つまり「私有財産制特区」的な暴走が問題になるほどに、沖縄の地割がその深淵に持つソウルは──内地の論理で「総有観念」と片付けられないほどの重力で存在しているわけです。
「田畠之儀、時々割直為指究、主付無之模合持ノ筋二仕置候二付テ、地方ノ格護、致大形地位斬々薄ク相成 不宜候。依之、地割申付、永々授固候条、堅得其意。此心得専大切二存、格護可有之事」
田畑について、時々農地の割直しをし、耕作者の指定をする。農地に耕作者がいなくなって共有のままにしておくと、農地の保全が粗略になって地力が次第に減退してくる。それは好ましくない。だから地割することを申し付ける。それ以後お上は百姓に対し、永久にその農地を授けるというし、お上の堅い御意志を体し、土壌保全の大切なことを十分に汲取り、地力保全をしなければならないこと」〔後掲奥田〕

各論)琉球地割制の諸相
経済地理学の第一人者たる浮田さんが、1962年に久高島で調査した地割制要約から見ていきます。
耕地(田は無く、畑のみ)の九四%は島民の共有地であり、それらは、一〇の「組」に配属され、さらにそれぞれ一五等分される。これを「一地」といい、「一地」の平均面積は二反弱である。太平洋戦前には、一六歳から六〇歳までの男子に「一地」づつ給されたが戦後は家毎に「一地」(家族の多い家は「一地半」または「二地」)給されている。各組に所属する畑は、島内各処に分散し、平均一九・四筆から成り、一筆毎に一五等分される。従って畑は、極めて狭小な地条をなしている。組のメンバーは集落の一ケ所にまとまつて居住しているのではなく、また「二地」の家は、二つの組にまたがつて所属するのであり、組にはあまり大きな社会的機能が認められない。畑の作物は、夏作甘藷、冬作小麦が主である。農耕は専ら女の仕事であり、男は漁業に従事している。〔後掲浮田〕
民俗学のフィールドワーク手法を採ったと思われ、そこから次のような話を収録されています。
台無しな言い方をすると──久高島の地割はかなり柔軟性がある。上記の要約は、その中から浮田さんがかろうじて抽出したルールらしきもの、ということです。
島の人はこれを、「褌のような」と形容している。かつて、このような畑に西瓜を栽培したところ、蔓が互に隣の畑に延びて行って、どの西瓜が誰のものであるか、判別に苦労したという。畑の境界に、こぶし大の石を適当な間隔に置き並べているところもある。
ところで、畑の配分方法は、戦前までは一六歳から六〇歳までの男子に「一地」ずつ与えることになっており、毎年正月五日に、六〇歳になった人の分を、新しく一六歳になった人に譲るのが原則であった。ところが、実際にはなかなか原則通りにはゆかなかったようである。例えば、男の子ばかりが三人あって、それぞれ一六、一八、二〇歳となれば、父親の分と合わせて「四地」分の権利があるが、それを「二地」だけで遠慮してもらうとか、また父親が六〇歳になったのに、男の子がまだ一四歳であるというような場合には、便宜的に二年延長するとか、種々の融通が行なわれたようである。また、本来、畑の耕作は女の仕事であるのに、男を基準にして配分するのは不合理な話で、そこで、夫が死亡して女子供ばかり残った家など、権利がなくても引き続き土地を与えられていた。〔後掲浮田〕
浮田さんははっきり言ってないけれど──一地の面積を平均一反九畝一八歩と算定した上で「これでは、到底、農業だけで一家を支えることは不可能である」と評してます。
また「農業は専ら女が従事し、男は全然関与しない。男は自家の畑がどこにあるかさえ知らない。」〔後掲浮田〕 つまり、地割制が経済構造の根幹であるかのように過度に注視される傾向に、やや警笛を鳴らすスタンスです。
その前提で、以下各論に入ります。
(続b)地割の実態はかなり複雑で、まず対象となる全耕地を測量して1筆ごとに所在・面積を確定し、そのうえで地味や遠近を考慮して評価を行い、それぞれの耕地にかかる租税(叶米(かなえまい)という)を指示する。次に、これらによって得られた耕地の現況によって「地」とよばれる独特の地割配当単位に置き換える。「地」の設定は村によってまちまちであるが、たとえば、ある村で全耕地を144地と把握したとすると、この144地の1地ずつに現実に存在する耕地との対応関係を決め、くじ引きで選べるようにした。(続c)〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「地割制」←コトバンク/地割制)〕
角川のこの書き方だと「くじ引きで抽選できるように単純分割した」ような捉えもできるけれど、どうも見ていくと、あくまで話し合いで分配しているように思えます。
もしかすると、この合議制分配の機能自体が、文化人類学的な、例えば村統合の象徴だったようにも思えるのです。
(続c)一方、地割の主体となる村の成員は、地人(じにん)(方音ジーンチュ)とよばれ、彼らは地与(じぐみ)とよばれるいくつかのグループを編成、各地与に代表者として地与頭(かしら)を置いた。各地与頭は村役人立ち会いのもとでくじを引き、くじに明記された田畑をさらに自己の地与内で配分するという方式をとった。地与内の各戸への配分は単純な頭割りか、または貧富の程度、耕うん力のぐあいなどを勘案してなされた。そのため各戸への配分率はまちまちなものとなり、3地を得る家もあれば0.25地を得る家もあった。このようにして取得した田畑は次の地割まで耕作権が保障されるとともに、その田畑にかかる租税負担義務も負うことになった。(続c’)〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「地割制」←コトバンク/地割制)〕
この地人は、大まかには村成員だけれど、例外もあったらしい。居住(居留)人の士族にも配当される場合があった。これは首里・那覇の市街地に住んだ者が生活難で農村に移住した例を指すという〔後掲奥田〕。※原注42 仲吉朝助「琉球の地割割度(第一回)」『史學雑誌」39巻5號(1928)p458
これはまさに、久高島土地憲章第一条で村民以外の居住者に分配を許している感覚です。
分配形式に地域別の特性を見ようとした、次のような見解もなくはない。
国頭郡では人頭割で、中頭郡では貧富の差を加味した、面積による地割の方法が採用されていたが、島尻郡では耕地の良否に重点を置き、叶米(小作料)を甚準とした割替が大部分であったという(45)。〔後掲奥田〕
※原注45 田村浩「琉球共産村落の研究」(至言社,1977) 285-286頁。
ただ、共同体とその定めた内部ルール、という近代自治体の感覚で理解しない方が、実情に近いように感じられます。地域特性もあくまで緩い傾向であって、率直に合議で決められていた、というだけではないでしょうか?
「組にはあまり大きな社会的機能が認められない。」
〔後掲浮田〕という点から、浮田さんは次のデータを整理されています。
※凡例:▦川上組の畑
▨屋部家組の畑
・川上組に一地を持つ家
久高島10組のうち2組の地理的分布を、マップ上に落としたものです。うち1組については、その居住地をドットにしています。
バラバラです。
例えば博多山笠の「流」など、地域割した組織とは、地割の「組」は全く異なる。では何なのか、というと、単なる分配のための装置に思えます。むしろ、島内が分立して対立しないよう「シャッフル」することを機能の一つにしている、という感じも受けるのです。
各論)地割制解体の様相
琉球地割制の多様性が最も語られるのは、割替えの頻度です。
(続c’)割替えの時期は村によってあるいは田畑などの地目によってもまちまちで、田を2年ごとに割り替える村もあれば30年で割り替える村もあり、さらにはとくに周期を定めない不定期の村もあった。(続d)〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「地割制」←コトバンク/地割制)〕
2年毎の割替えと30年のそれでは、利用者の感覚は全く異なるはずです。30年だとほぼ一世代、子孫は別の田畑を耕すけれど、自分の農耕できる間は割替えはない、ということになる。
この年限について奥田は──
地割年限については、田は最短期2年•最長期30年、畑は最短期2年•最長期35年、雑種地は最短期2年•最長期50年で、この範囲内で3年、4年、5年あるいは9年、10年、12年、15年、20年、25年等種々の定めがあり各村各様であった。また、全く年限を定めていない村もあり、地割を必要とする時は村民多数の意見により一同集会の上決める村もあった。地割年限については、1855年8月に王府が地割期限を10年以内に定めて割替えを行うべきことを指示(39)しているが、実際の地割期限は、当該村の自治に一任しており、村によってかなりの差があった(40)。〔後掲奥田〕※原注39:原文「田畑之儀十ヵ年振ニハ厚薄段々出来致シ、其上混乱之儀モ有之ベク候間、其心得ヲ以テ田方ハ四、五年、畑方ハ八、九年振、時節見合無親疎割直セ候事」(引用者追記:出典不詳)
40:坂本忠次「沖縄県『旧慣温存』時代の祖税構造(1)-人頭税を中心として」『岡山大学経済学会誌』第23巻第4号(1992)11-12頁。なお.島尻・小頭地方では10年を超える長期のものがあるが、これは土地の私有財産化への可能性を有しているとの指摘もなされている。
1855年の王府通達は、地力の保全(「厚薄段々出来致シ」≒蔡温:「地位斬々薄ク相成」→前掲)の観点からですけど、つまり江戸期末のこの時期までに地割制運用に「混乱之儀」が生じていたことを意味します。原注40で坂本が指摘するように、割替え頻度の長期化トレンドが次第に色濃くなった、即ち私有財産化へ向かっていたという実情があるのではないでしょうか?
ただ、地割の対象地は次のように性格別に細分され、全体的な動向は至極見えにくい。
(続a) 地割の対象となる耕地は原則として百姓地であるが、なかには百姓模合仕明地(もあいしあけち)(共有開墾地のこと)や地頭地(じとうち)(地頭とよばれるエリート層に与えられた耕地)、オエカ地(オエカ人とよばれる地方役人に与えられた役地)が含まれるケースもある。(続b)〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「地割制」←コトバンク/地割制)〕
所有者別地目にはほかに、巫女等の宗教者に与えられたノロクモイ地があったという。〔後掲奥田〕※原典:仲吉朝助「琉球の地割割度(第一回)」『史學雑誌」39巻5號(1928)p458
けれど奥田さんの紹介するところでは、既に地割地の売買や借銭質も行なわれていたとの上野説も取り上げています。──割替え時にはどうしていたものか、想像できませんけど……恒久的な原始共産制的分配が、近世にも安定的に営まれていたとはどうも思えないのです。
地割地の売買・質入れについては、豊見城間切・間切内法では「百姓地質入れ禁止」とされ、違反すれば本人ならびに村役人に科金が課される(46)が、実態としては、村落の了承の下でつぎの地割期限まで、百姓地占有者による売買・質人れが行われていたとされる(47)。〔後掲奥田〕
※原注46 上野重義「沖縄における旧慣間切内法・村内法の類型的考察」『九大農学芸誌』第44巻第1•2号(1989) 26頁,上地一郎「共同体と土地の利用─沖細の地割制度への法社会学的アプローチ」『沖縄法政研究』第8号(2005)88頁。
47 仲吉朝助「琉球の地割制度(第三回)」『史學雑誌』39巻8號(1928)808頁。
琉球の地割の終焉を、角川は次のように明治初期と記しています。これも、久高島・津堅島・渡名喜島の残存例から明らかなように、一律に全廃されたものとは考えられません。ただ前記のような崩壊・私有化へのトレンドの延長に起こった事象、と推測するのが妥当でしょう。
(続d)このように、地割制は共同体的な共有制度に根強く支えられ、その成員間の公平と階層分化の阻止を理念としたものの、農業経営意欲の停滞と地力の低下を生むものとしてしばしば問題にされた。明治期の土地整理事業の過程で最後の地割が実施され、取得した配当地をそのまま取得者の私的所有とすることにより消滅した。〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「地割制」←コトバンク/地割制)〕
琉球の地割は、内地のそれと同様に近世統治者の行政施策の一環であったとしても、蔡温が「地割申付、永々授固候条、堅得其意」といわば追認しているように、集落が自律的に運用してきた色彩が強いようです。それを原始共産制的に過度に理想化せずに捉えると──近代を迎えて集落が私有化にギアを入れ替えていく過程も、同様に自律的に行なわれていったのでしょう。
琉球の文化は、旧態を維持するフェーズでよりも、変動に即応するフェーズでより本質を発揮する。──これは、ウチナンチュはもちろん沖縄ホリックのナイチャーには感覚的に同意される点だと思います。
我部祖河など羽地エリアの「域内の有志」が起こし仕明地≒脱地割の土地所有革命への流れも、厳しい経済変動を集落が生き抜くために叡智を結集し、近代沖縄が辿っていったトレンドの先端を切っていたものでしょう。その意味では、「革命」でも「突然変異」でもなかったのだと考え得るのです。