外伝17-041 魯の道や紆余曲折の果ての青/青島駅

※本歌:秋の虹紆余曲折の清らかさ (徳山)
日単位要約箱

足が動かなくなるまで歩きたい。一番期待の薄かった青島が,まさかここまで…

[前日日計]
支出1500/収入1100
     /負債 400
[前日累計]
     /負債1319
§
→九月十七日(一)

[41青島駅] [42海水浴場][43金口路][44龍華路]
1053金麦園快餐
トマトと卵のスープ
餡入り焼餅,漬物(筍塩辛,昆布の塩辛)370
[45平原路]
1203沂蒙山全羊湯
全羊湯,餅(1)21元300
[46黄島路]
1556姐一家特色鍋貼
牛肉鍋貼(小)20元500
[47観海山][48中山路]
1758生活林
月餅,桃ス400
[49河北路]
[前日日計]
支出1500/収入1570
負債 70/
[前日累計]
     /負債1249
§
→九月十八日(二)


目的地:東の方・双象山


▲青島中心部の地図。Googleマップ。

島を選んだのは,元々は単に「おまけ」でした。
 山東の地域を回る。济南以外の町も回っておきたい。位置と規模からして青島かな。
 でも青島ってビールの町で,つまりドイツ領経営拠点で,街が古くて薫陶があるとは思えないけど──と及び腰だった街に入るや俄然歩く気に充満してしまったのも,初見の印象だけが理由です。
 朝は6時前に起きてる。
 0550,宿の窓から見下ろすと──北側から東側に煉瓦色のくすんだ屋根が眼下を埋めている。東の尖り帽子の洋館は信号山公園,その北の山が双象山公園でしょう。


▲払暁,宿の部屋から昨夜と同じく北西を見る。何と0547の写真です。

島市街の東側にあたるこの2つの山は,春秋期から城塞が置かれ,ドイツ時代の洋館もこの山麓に並んだらしい。
 坂道マニアとしてもここは捨てがたい。市街を中心に反時計回りにこの山麓を目指すルートが,荒く浮かびました。
「齐国的咽喉」(斉国の喉仏)という表現に納得する。確かにここに海路奇襲上陸されたら,山東は危うくなる。地勢的に要害の地です。

※リアル中国大陸記/中国にあるドイツ観光。青島のドイツ租界時代建築~「信号山公園エリア」編~
「ドイツそして日本の占領下だった時代のある青島。ドイツのモデル植民地として整備された街の景観は100年以上経った今でも大切に守られている。」
※百度/信号山公園
「信号山公园位于山东省青岛市市南区中部,海拔98米。德国侵占青岛后,为指挥进出胶州湾的船只,在山顶部建信号发布台1处,每天悬挂各类信号标志及气象、风力标志,命名为“华兹马克山”,市民称“挂旗山”或“旗台山”,1923年胶澳商埠督办公署在整理青岛区划及地名时更正为“信号山”。」
※百度百科/齐长城遗址
「齐长城遗址横亘于齐鲁大地,始建于春秋时期,距今已2500余年。西起黄河,东至黄海;东西蜿蜒千余里,几乎把整个山东南北分为两半。经实地测量齐长城全长618.893公里,共翻越1518座山峰。」
「易守难攻,正是中原诸国进攻齐国的咽喉之地,是齐国需要重点防范的要塞,必需设防。」

始動:南行開始,既に垂涎の坂

▲河南路を南へ。やたらとアップダウンを繰り返す。

沽路バス停でまず路線を確認しとく。停まるバスは2電(電線付),2,5,6,221,412と多い。それほど太い道ではないけれど,交通の節にはなってる通りらしい。うち下々站(2駅先)が青島火車站なのは2電と5。
 南西角,J1の対面には联群幼儿園がありました。警察が3人も立ってる。登下校対策にしてはものものしいけど,何だ?
 この五叉路は,どうも縁が丸まり過ぎてる。角地が鋭角になってない。おそらく単なる交差点じゃなくパティオがあったのではないか。
 
▲ふと振り向いた路地裏のパティオ。既にこの街の懐の広さに圧倒されてる。

 叉路だけで十分興味深く歩が進まない。そろそろ心を鬼にして河南路を南へ進もう。0738。
 夜通った肥城路との交差点を過ぎる。
 南東角に洋館。社区衛生服務中心と看板がある。自治会の医療センターというところか。

▲坂の途中。傾斜した基盤からまっすぐ抜けるアーチの先の私道。

」のマークが目についてました。この辺りの洋館は古くて,保護の対象にもなっておらず,近く再開発が行われる気配です。
 この時は知りませんでしたけど,このマークは「征収」(強制収用)を意味するらしい。この語でググるとかなり評論や論文がヒットします。法的にも社会的にも問題化しつつあるようです。

▲当たり前にこんな洋館が現れて来る。しかもステンドグラスまで付いてる。

阜路の交差点でそろそろ西に曲がることに。0755。
 が,この道はすぐに新泰路に突き当たる。0757。
 左折南行へ。正確には南南西方向の変な傾きの道。で,これも湖北路にぶつかる。計画都市にしてはどうもT字の多い界隈だなあ。右折して西へ。
 青島市公安局の前を過ぐ。
 
▲曲阜路に折れて進む。

画都市だからこそ,この変なT字の連続には理由がありました。
 後から見つけた江本硯さん,藤川昌樹さんの論文(→巻末参照)の図面(→概観)を見ると,曲阜路の西突き当たりに警察署,つまり植民地治安拠点があった。おそらく威厳を保つべく,従来の4ブロックを強引に埋めて造った六角形の敷地(→GM.)に建ってたらしい。
 建物は消えても(同じ公安のオフィスに使われてます※けど)筆は残りやすい。この六角形,現在も肥城路-新泰路-湖北路-泗水路が未だ描いてます。
 曲阜路は細い車道です。けれど,この六角形から曲阜路を経た東端には浙江路天主教堂(聖ミカエル大聖堂)への階段。つまり聖と俗を結ぶドイツの都市計画上の背骨と言えるラインです。
 ──というところまでは当時推測しきれてません。未熟未熟。
 ちなみに,Googleマップでは六角形の中心に丸い輪が描かれてます。まず間違いなく建物のパティオの噴水でしょう。いかにもドイツ官庁建物です。
※ 日帝時代には憲兵本部(写真→巻末)だったそうです。(巻末:青島物語続編参照)

▲曲阜路から新泰路へのT字

安路。0806,左手の駅舎へ向かう。
 湖北路へ出てからは,そこまでの中世ヨーロッパめいた湿った空気が,からりと乾燥して広々とのびやかな都市景観に変わります。
 江本硯さんも書くように,このコントラストが青島です。
 この青島駅東正面は,ドイツ統治時代には駅前の公園があった場所。位置が確認できませんけど,桟橋までの海軍用鉄道もあったそうです。これらを新しい宗主国・日本が撤去して都市化した地域。つまり公共エリアで在地のしがらみが薄いわけです。

休止:青島駅で早くも悶絶

▲青島駅見ゆ!

▲石畳のいい駅前広場です。

い駅舎です。ヨーロッパ並みの巨大洋館。施設はほとんどを地下に入れてある。」
とこの時は結構感激したりしてるんですけど──ドイツ統治時代の青島駅舎は2006年11月,青島が北京五輪のウィンドサーフィン会場となるに当たって交通量を確保するため,105年ぶりの大改修,というかほぼ撤去されてます。今あるこれは大半がその後に作られたレプリカ。


▲南側正面より。

だ,切符を買って出てきた際に「やっぱり凄い!」と撮った上の建物部分は,日帝時代の駅舎(→写真:巻末)に似ています。
 現青島駅の最南部の建物です。南隣には尖塔も残ってます。この2つが当初の青島駅で,2006年改修の際にこの北側を増築する形をとったらしい。→傍証:巻末記録(2007.8段階の青島駅画像とその運用)

▲青島駅舎と対面する高層ビル

▲南側正面から北を見る。やはり観光地らしく皆さんも写真撮りまくってます。

符は明日の0912発青州市行きがとれた。北站発ではなくこの青島站発らしい。0820。
 で,移動費を払うと元の手持ちが寂しくなってきた。地上にはATMどころか商店らしきものが見あたらない。JCBの使えるATMを求めて,駅前地下街へ潜る。
 さてその間に──山東省の近代史をもう一度おさらいして,第一編をひとまず閉じます。

■年表:日本に係る山東近代史(日本軍はなぜ青島にいたのか?)

・簡単に言うと,WW1での棚ボタ狙いで始めた山東侵略が,ずるずると続き,漢民族から最初の激しい怒りを買うことになった。
・反自虐史観論者のよく持ち出す济南事件も,この経緯の中で発生していることは,看過すべきではない。
1898年 ドイツ膠州湾を租借
1914年 第一次世界大戦始まる。日本,日英同盟を理由に対ドイツ宣戦,青島に出兵
1915年 日本,中華民国に二十一カ条の要求。山東省については,ドイツ権益の継承その他の権益拡大を要求。袁世凱政府がその大半を承認した後,国民的な反対運動発生
1917年 石井・ランシング協定締結。 アメリカは日本の山東省権益を認め,日本はアメリカの門戸開放などの要求を認める。
1919年 パリ講和会議においてヴェルサイユ条約締結。日本の山東省権益継承が認証される。これに対し中国民衆が強く反発し,五・四運動発生。中国政府もヴェルサイユ条約の調印を拒否
1922年 九カ国条約締結。中国の主権尊重・機会均等が認められ,それに伴い石井・ランシング協定は破棄。日中間では「山東懸案に関する条約」締結,山東省権益の中国返還が決まる。
1927-8年 田中義一内閣,北伐に伴う混乱からの日本人居留民保護を名目に三度にわたり山東出兵
1928年 国民東軍との武力衝突(済南事件)発生
1929年 日中間の和平交渉により日本軍撤退
※ 世界史の窓/山東省/山東問題

■参照論文:江本硯・藤川昌樹「中国青島市における並木道空間の形成(1891-1945)」

日本建築学会計画系論文集第78巻,2013\J-STAGE
「青島市はドイツ,日本,中華民国に相次いで支配されたため,並木道はきわめて複雑な歴史を持っている。その影響は青島市の旧市街に植えられているニセアカシア,アカシア,黒松,プラタナス,
イチョウなどの並木の樹種に見られる。一方、現在では青島市の市樹であるヒマラヤスギが徐々に植えられ,前からあった並木道とのコントラストが形成されている。」

▲青島市中心街の通り名の対照表

▲同じく日帝時代の通り名による住宅地図

▲同じくドイツ時代の通り名による住宅地図

■参照プログ:青島物語続編

/日本が建設・維持した主要な青島の建物 ほか
※ 原典:国立国会図書館デジタルコレクション/陸軍省「青島軍政史青島軍政史 : 自大正3年11月至大正6年9月」第1-2巻,3,4,5各巻,1927
「軍務記録が大半であろうかと思いつつ目を通したところ,何と軍務記録はごく一部であって,大部分は青島復興のための行政記録,経済・社会活記録及び関連諸統計であり」
※写真は三船写真館発行「青島名勝写真帖」より

▲台西鎮地区 主要道路建物地図(青島市地図 久松閣 大正8年発行)
① 憲兵隊本部庁舎
② 青島駅舎
③ 守備軍民政部鉄道部庁舎
④ 中華人住宅地区(ドイツ統治時代建設)
⑤ 中華人住宅地区(日帝時代建設)
⑥ 避病院(伝染病専門医)
⑦ 屠獣場
⑧ 発電所

▲日帝時代の憲兵本部庁舎(場所:①)

▲日帝時代の青島駅舎(場所:②)

■記録:わんずの部屋

/中国旅行記2007夏
 現青島駅工事中の青島駅画像がネット上にあった。この時,四方火車站が臨時の青島駅として運用されていたらしい。
 この時期の写真が上記サイト内にあった。貴重な記録として転載させて頂く。形状から,ドイツ・日帝時代の駅舎で,現在の南側部分とほぼ確実に推測できる。
 なお,現在の四方火車站は貨物専用駅になっていて,旅客業務は行ってない。
「見事に閉鎖中で乗車券売場も営業している とは思えない。
 青島火車站で乗車券を買う事は諦め、暫定的な始発駅として営業している四方火車站 (四方駅)へ向かう。」

▲2007.8「わんず」さん撮影の青島駅舎

[前日日計]
支出1500/収入1100
     /負債 400
[前日累計]
     /負債1319
§
→九月十七日(一)
[41青島駅]
[42海水浴場][43金口路][44龍華路]
1053金麦園快餐
トマトと卵のスープ
餡入り焼餅,漬物(筍塩辛,昆布の塩辛)370
[45平原路]
1203沂蒙山全羊湯
全羊湯,餅(1)21元300
[46黄島路]
1556姐一家特色鍋貼
牛肉鍋貼(小)20元500
[47観海山][48中山路]
1758生活林
月餅,桃ス400
[49河北路]
[前日日計]
支出1500/収入1570
負債 70/
[前日累計]
     /負債1249
§
→九月十八日(二)

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