外伝17-046 魯の道や紆余曲折の果ての青/黄島路

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黄島路:城砦に入っていく時の感覚

▲黄島路と芝罘路の交差点を東側から

然現れた石畳の道,黄島路は,細く西へと伸びてました。
 途切れるのか?と思うほど狭くなった先で,芝罘路という道と交差し,そこから先がはっきり市場になってました。路面もそこからアスファルト。
 気のせいだろうか?この感じ,城砦に入っていく時のような感覚なんですけど。
 だから,この道で一番印象に残ったのがこの交差点でした。

▲同じく西側から。出直し後に茶を求めた茶荘も対面に見えてます。

島の町を語ったプログはそれなりにヒットするんですけど,この界隈を語ったものは妙に,ない。
 道の置かれ方を見てみる。旧総督府を中心とするドイツ人の造った町は,地形に沿って道が置かれてる。金口路付近の近代の住居街は,家の方が先に出来てそれをなぞったような蛇行の道。
 目を転じて北側の平地部には格子状の道路網が広がる。これは日本人が造った町です。
 これらに対し,この黄島路,そして南の平度路,徳県路は斜めに伸びる。ドイツでも日本でもない町,つまり──

▲青島物語掲載の青島地図。

島物語の作者が引いた線が上の画像ですけど,黄島路界隈は旧ドイツ人街の北外縁に当たる。
 青枠内が旧欧米人居住区,赤枠内が日本人居住区とされている。
 つまり──黄島路界隈は,ドイツ人街外縁に出来た,その北に広がっていた中国人街の人々による市場域でしょう。

「⑬ 青島病院新町分院  (写真未入手)
 日本人居住区の人口増に対応して、軍政部は新町に『青島病院新町分院』を設置した。この病院は一般診療科の他に、この地区における酌婦・遊女の検疫を行う専門診察科も設置されていた。
 新町分院は日本人とともに中華人の受診を受け付けていたが、中華人受診者の増加に対応して、分院構内の一角に中華人専門病院を設立した。この病院は『普済病院』と呼ばれた。」

全羊湯:白濁のモツだらけ汁

▲昼御飯は沂蒙山全羊湯の全羊湯

貼(焼き餃子)は辛いけどこれならまあ…と,賑わいを見て思ってしまった。
 市場近くの小店です。この界隈にやたらこの名前の看板を見かけるので,気になったんである。
1203沂蒙山全羊湯
全羊湯,餅(1)21元300
 うおおっ!白濁汁に浮かぶモツだらけ汁じゃ!しかもその肉質は,一口毎に千種万別,一体何の汁なんだ?
 今調べる限り,山東のものでなく内蒙古料理でした。「全羊湯,是蒙古族的一道特色美食,就是將新鮮的羊肉配以羊的心肝肺肚腸等下貨,切成條狀,一起放入水中煮熟,然後再放上各種佐料,進行食用。」
※ 每日頭條/內蒙風味湯菜——全羊湯
 内臓肉の愛好者にはたまらない一碗です。「新鮮的羊肉配以羊的心肝肺肚腸等」,つまり殺したての羊の内臓一切合切を,千切りにして煮立てる。
 つまり,かつては遊牧民の,ここ青島黄島路では市場の皆様のパワーフードです。
 白く煙るような汁には,羊肉の脂,胡椒の他にも西域系のスパイスがまったりと効いてます。臭みは薄く,淡い層で湯,スパイスと絡んでる。韓国のソルロンタンのようなクオリティを,漢民族版の羊肉湯は獲得しつつあるらしい。

▲黄島路の場末。ほぼ露店街になってる。

四方路:ニイハオ後の中国トイレ考

方路に出る。1222。
 昨日の下車地点で見えた謎の四方火車站を思い出し,少し頭が混乱する。──今調べると,四方火車站は北区海岸路にあり四方路とは関係がないらしい。→※維基百科/四方站(中国語)
 混乱したからか,はてまたさっきの羊が当たったのか,この道に出た途端に腹が下り始めた。幸い公共厠所50mの標識が目に入り──
 1235,出る。
 出たことでもあるし,博山路を左折し北へ。──でも公共厠所前で飯を食うのは,あまり美味くないと思う。

▲何故公衆トイレ前で?

だまあ,よく考えたら,中国のトイレによくいる番人は,食事もそこで食べるしかないわけで──彼にしたら職場環境なのかもしれないよな。
 ──四半世紀前の初中国接触段階では,卒倒するほど衝撃を受けてた中国トイレ事情。今や慣れてしまいましたけど,最近の「ニイハオトイレ」全力レポートを見つけたので以下ついでにご紹介。(注:未体験者は食事後1時間以上空けてご覧になることをお薦めします。)
※ decorbte my trip/パターン別で徹底解説!中国のトイレ事情とその対処法
 とか感慨に浸りつつ振り替えると,おおっ何だ?あの二本の尖塔は!
 蒼天を突く二個の十字架。
 その美しさに,疲れが吹き飛んだ。
 発作的に引き返す。博山路を南へ。

浙江路天主教堂:歴史滲む広場は婚紗撮影基地だらけ

▲双頭の尖塔が坂の向こうに!

県路を左折南行。1242。
 すると尖塔の下部が姿を見せました。
 浙江路天主教堂──
 調べたところ,この建物はドイツ統治時代のものではなく,1934年の建設。日帝時代です。青島教区の初の司教ゲオルク・ヴェイクが音頭をとって建てたとされる。
 正式名は聖ミヒャエル大聖堂。ゴチック・ロマネスク折衷様式。中国最大のカトリック聖堂。

▲正面は記念写真の撮影者だらけ

国で唯一の「祝圣教堂」だと中国語サイトにあるけど意味が分からない。
 文革で破壊されたという記述がwikiのみにある。出典不明。ミサや讃美歌斉唱などの宗教活動が再開されたのは,1981年復活祭だとある。
 この経緯から考えて,この聖堂はドイツが政治的に建てたものでは一切なくて,この地のキリスト教徒が日本支配下で民意により建設してる。しかも,資本主義化してない共産主義下で徹底的に迫害された約35年ほどの間,まさに「隠れキリシタン」として密かに信仰を守ってきた一団があるようです。
※ 2017-02-15 14:11:44 青报网/实拍中国唯一的祝圣教堂 青岛天主教堂(组图)
※ wiki/聖ミカエル大聖堂_(青島)

▲挙式後の記念撮影らしい。

いういじましくも逞しい歴史が垣間見える聖ミカエル大聖堂なんですが──
 現在の聖堂前広場は婚紗撮影基地と表示の店だらけ。バカ嫁の餌付け用の借景としてしか使われてない。
 何でこうなった?
 ──いや,何でかと言えば漢民族だからで,そこの淡白さが彼らの逞しさなんだけど。
 ここからの石畳の下り道が何と肥城路でした。

▲斜めからの坂道も撮影ポイントらしいけど…なかなか皆さん恥ずかしい気取りよう!

島物語」には次の絵葉書が紹介されてます。
「馬関町・静岡町の交差点」,つまり現在の中山路と肥城路,ドイツ時代のフリードリヒ街とブレーメン街です。
「馬関町は静岡町(山東路南段)と交叉し,独逸統治時代にはこの坂を上がった所に獨逸カトリック教会があった事などから,馬関町は獨逸市街の中心地であったようだ。」
──「独逸統治時代には」?「物語」作者の付した③の建物注記を見る。
「 ③獨逸カトリック教会
 この教会は独逸統治時代に建設された。
 第1次日本統治時代中もこの教会は存続していたにもかかわらず,その活動に触れる記録はなく,かつその写真もこの絵はがきを除いて全く見られなかった。(略)
 1930年代にこの教会は撤去され、2塔屋根を持つカトリック教会聖堂が新設された」

 ──撤去された旧教会の場所は,現在の地図に,「聖心修道院旧址」(→GM.)とある場所でしょう。
 その手前西側の②の建物の記述も面白いけど,長くなった。巻末に譲る。巻末小レポ)

▲(青島物語より)馬関町・静岡町の交差点

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午後3時の再出撃!

▲宿の部屋から直下。方形の赤い屋根が広がる。

いた!
 1時間強,宿でお昼寝とした。かなり熟睡でしたけど,このままダウンするには,この町はまだ歩きたい場所が多すぎる。
 15時には再出撃してます。
 歩きたい場所と言えば,まず昨夜一発でマイッた宿の界隈。部屋の窓から見ると凄い住居がある。でも見る限り,ブロック内には道がなくめ住んでる人しか侵入できそうにない。でも日のあるうちに少し注意して歩いてみよう。

▲方形の家屋を利用した安宿らしい。保定路にて。残念ながら完全に内地人専用っぽいけど,この方形の家屋は,例えば京都の町屋みたいに「価値あるもの」とは捉えられてるらしい。

保定路の途中,石畳の脇道を見つけました。1513。河北路とプレートが出てます。
 迷わず左折北行。
 好い道です。やや寂れた感じですけど,まだまだ現役の洋館風の建物が連なります。
 それと,北側に「糕点 生活林」という菓子屋を発見。帰りに開いてればいいけど。

▲河北路の風景

から見かけるこの『征収区域 REBUILD AREA』とはなんのことだろう?」
と当時不思議がってますけど,これは前述の通り「征収」(強制収用)の意味。青島のこの四方房の多い地区も「不良居住区」として当局から狙われてる。おそらくもう数年で再開発されるのでしょう。
 
▲取り壊し予定らしい表示

里院にちょっとだけ家宅侵入

から皆さんはそんなことしちゃ駄目だお,ですけど…たまたま人の気配がない場所があったんで,ふらりと入りこんでみました。
 ちょっとした家宅侵入です。
 次の写真のような感じで,もろ打ち捨てられてます。でもこんな構造で,中庭を囲む二階建てが何重にも織りなされてるらしい。

▲侵入してみたら中はこんな感じ。

行から半年経た今,4枚前の「里院客桟」という文字を初めて気にしてみてます。
 というのは,部屋からの写真,侵入写真を見ても,どうも北京で有名な四合院とは違う。
 上海老街とも,香港の围とも違う。
 で,「里院」を調べてやっと分かってきました。──里院。これは青島独自の住居形態でした。
 あまりに不明瞭な部分が多いけれど,それはおそらくドイツから日帝へ,宗主国を目まぐるしく変えた時代を契機に生まれたものです。→巻末小レポ
 正直,半年も経た今になって慌ててます。日本のあの時代とともに,ここまで独自の歴史を歩いたこの土地に,何と無知だったんだろう,という事実に。
 山東,とは言わずとも青島は,現代史を日本とともに流転したもうひとつの「沖縄」と言ってもいい。

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■小レポ:吉利平次郎

 日中親善の英雄のような扇情的な書き方もされてるけれど,大陸に雄飛した傑物の一人らしい。家系的に陸軍その他有力筋に顔が効き,結果的に中国人対象の本格的な高等教育機関を初めて軌道に乗せた人である。ただし,その後の中国側の対日宣伝色と,そもそも山東を日帝が実効支配した史実が認識されてない現状から,あまり周知されてない模様。
1 文中の青島物語画像②の建物では,どうやら青島教区に隣接して(おそらく協力して)日本のキリスト教団体が活動していたらしい。
「②この建物について獨逸統治下の記録はない。
  日独戦役後間もなく,ここに日本基督教会,日本基督教青年会が設立された。
 吉利平次郎氏は,その教会牧師との協議で教会礼拝堂を使用して,大正5年4月(1916)「青島英学院」(夜学のみ)を設立した。
 この英学院は ”青島学院商業学校” の前身であった。」
2 吉利平次郎とはどういう人か?近年,孫の米村 秀司さんが伝記を出されてるけれど,これを除けばやはり青島物語の別項が最も客観的にまとめられてた。
「鹿児島県出身の吉利(よしとし)平次郎氏は、日本人と中華人の共学実現の念から私立青島学院を設立、昭和20年の敗戦までの30年の間に少なくとも1万人以上の卒業生を送り出した。この中で中華人の卒業生総人数は不詳であるが、彼等が戦時中も戦後においても民間レベルにおける日華関係の友好維持向上に及ぼした功績は少なくない。」
※青島物語/続編(その17)【 平成25年10月 】日本統治下の青島における教育行政
※ 米村 秀司「消えた学院―日中共学を実践した『青島学院』の三十年を追う」,ラグーナ出版,2011
3 吉利平次郎氏の名前は,島津家臣団の吉利家の家譜内にある模様
「私の母は、吉利家の初代秀久から始まる系図を持っていた。巻物で長さ約20メートルほどの系図には、(略)皇室(高松宮)と陸軍の支援により中国の青島市で終戦まで運営された青島学院の創設者、吉利平次郎の名前が書かれている。」(下記サイト内の前掲米村秀司氏推薦文)
※ 南方新社/島津家家臣団系図集 上下巻
4 青島以前について書かれたものが少ないけれど,前掲書内にあるらしい吉利平次郎の前史は次のとおりで,有閑知識人のまま壮年を迎えた人物らしい。
「吉利が48歳のとき6人の家族を連れて青島に移住してくる。1916年のことだが,彼はコロンビア大学を出て日本の中高校の教諭をしており,ある面安定した生活を放擲し,わずか20名の生徒で英語塾を始める。」
※ 月刊青島/浮山情的書評 -(その15)-
5 吉利家祖の秀久とは,(島津薩州家)島津国久の子。つまり吉利家は島津支流を祖とする一族。
「薩州家・島津国久の子・秀久が(引用者注:桜之城)城主となりました。
 (略)島津国久は1498年に没しているので、1476~98年の間に築かれたのは間違いなさそうです。
 (略)島津秀久は後に吉利(南郷の北西)に移り、吉利姓を名乗るようになりました。」
※ ameba blog/桜之城/鹿児島県枕崎市
6 中国語プログにもこの人の名前はヒットする。青島での他地域より早い高等教育の開始が,この人の業績に起因する点はさすがに誰も否定していない。
「1916年(日本大正五年)4月(日本学校为4月始业),日本人吉利平次郎在青岛馆陶路8号创办“私立青岛英学院”。学院设本科、高等科、专修科3科,夜间本科学习相当于甲种商业学校程度之学科,高等科学习专门学校(专科)之单科,专修科学习英语、日语、汉英等科目。各科之修业年限为本科3年,高等科1年,专修科1—2年。 」
※ 高嵩/为了忘却的纪念——青岛十中校史

■小レポ:青島里院

 断片的な記録が多く,かつ原則部外者に見えない部分だから本当に分からない状況が多いけれど,事実と思われるのは次の点。
1 1920~30年代に急速に発達した。
2 欧米的手法と中国的構造(四合院類似)を持つ青島独自の建築様式
3 破壊が進み,ごく一部に保存の動きがある。
 推測できるのは次のような観点。
1→ドイツ時代に考案され,日帝時代に普及した,あるいはもしかすると奨励された様式。構造上,増築が容易だった。
2→「希姆森公司(中文名祥福洋行)」の「建筑设计师阿尔弗莱德·希姆森」が設計したという説(百度)があり,このためにドイツの影響範囲に普及が限定された。これが民間で一般的になり,日帝は土地だけを提供した結果,自然発生的に拡大した。つまり,意図せずして日帝時代が生んだ独自の住居形態である。
3→内部に閉じた構造のため,行政側が治安管理を行いにくい。また,発生過程から多様な増築形態により,老朽による危険度が高く,住居形式の改善上は一旦取り壊すしか方法がない。
 このように,その独自性があまり認識されないまま,撤去が急速に進んでいるという青島限定の状況が生まれていると言える。

※ Y!プログ/青島満帆/青島の庶民住宅「里院」2008/11/9
──近い将来歴史的な画像となる可能性が強く,記録上,転載させて頂きました。

▲「徐君」提供の里院内部の写真

▲同

※ 同/空から見た長屋式住宅「里院」

▲里院の2階にめぐらされた通路

▲上の里院と隣接したもう一つの里院

▲二つの里院を上から見た構造図 

※ 青島物語/続編(その14)【 平成25年7月 】日本統治下の青島都市開発-2
「第1次日本統治下(1915~1922)の青島都市開発に関して(略)この期間の都市開発で、浮かび上がる疑問点は次の通りである。(略)
・誰が建物を建造したのであろうか。新しく開発された地区での建物は4~8所帯が共同生活できる里院構造のものが多かった。となると、誰かがこれらの建物を建造し、それを賃貸したものと考えられるが、その誰かとは一体誰だったのであろうか。
(略)
(略)
③ 誰が建物を建てたのか。
  埠頭区の建物は里院式構造、或いはアパート式構造のものが多く、それらは比較的集中して建造されている。これらの建物は、恐らく、資力を持った日本人又は中華人のディベロッパーが土地を取得し建物を建造した後、それを一般に賃貸したのではないだろうか。」

▲(小港地区)「図のグーグル写真は2000年5月に撮影されたもので、この地区が整然と区割りされており、四囲を住居部で囲み中央部に空地がある里院構造の住居が建ち並んでいることが判る。」

※ 百度百科/里院
「里院是青岛颇具特色的地域性传统民居建筑形式,相比北京的四合院、上海的弄堂、福建的土楼,它是由西式洋楼与四合院巧妙结合而来的。在上世纪二三十年代,里院曾作为青岛中下层市民的民居形式而普遍存在着。」
「里院最早诞生于20世纪初的大鲍岛中国城内,是由当时青岛著名的德国建筑公司之一的希姆森公司(中文名祥福洋行)的建筑设计师阿尔弗莱德·希姆森设计的,后来随着不断改进逐渐演化成了最具青岛本土特色的民居形式。」
※ 香港の研究者がまとめたものらしい「青島的民居建築」という文献がネット上にある。内部の写真はこれが一番充実している。
PDFpersonal.cityu.edu.hk › qingdao_life
※北京へようこそ/四合院とは

[前日日計]
支出1500/収入1100
     /負債 400
[前日累計]
     /負債1319
§
→九月十七日(一)
[41青島駅] [42海水浴場][43金口路][44龍華路]
1053金麦園快餐
トマトと卵のスープ
餡入り焼餅,漬物(筍塩辛,昆布の塩辛)370
[45平原路]
1203沂蒙山全羊湯
全羊湯,餅(1)21元300
[46黄島路]

1556姐一家特色鍋貼
牛肉鍋貼(小)20元500
[47観海山][48中山路]
1758生活林
月餅,桃ス400
[49河北路]
[前日日計]
支出1500/収入1570
負債 70/
[前日累計]
     /負債1249
§
→九月十八日(二)