外伝17-093 木を伐れど影の遺るか津の小路/鞍山路からハルビン路まで

~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m本編の行程:Googleマップ(経路)~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m

天津観光名所・清園をスルー

▲自転車の背を追う路地道

京路を北へまたいだのが1240。天津はまどろむような昼下がりを迎えつつあります。
 1250,西に威厳ある門構えが現れました。「静園」とある。
 ──お気づきとは思いますけど,ワシ,観光知識はほとんどインプットしてません。
 看板を読んでくと,1929~31年に満州国皇帝になる前に溥儀さんがいた場所なんですね。この観光客の多さはそーゆーことなのね。
 東には鞍山道小学。

▲静園(右手に写ってる門)前の観光客とそれ目当ての屋台群

園に溥儀がいた時代というのは,後で調べると思った以上に面白かったんですけど,そこは巻末の小レポ(:溥儀のいた天津と冀東防共自治政府)に委ねます。
 その時は,むしろすぐ北から東に入る寧夏路に惹かれました。
 入る。

静寂の煉瓦塀の道:寧夏路

津のちょっと好い道コレクション
1 三徳里〔和平区唐山道〕GM.
2 寧夏路〔和平区同名〕GM.

▲寧夏路から見る二本タワー。正面やや左手の,やや尖ったビルが…今となっては特定できませんが。

はり所々に,こういう道はあるんである。
 煉瓦の美しい道です。けれど煉瓦でない箇所も,異様にいい味出してる。

▲北側の建物の古めかしさが目を引く。

の寧夏路,地図で見ても奇妙な位置にあります。→GM.
 北西は,包頭道の向こうで袋小路になってる。対して南東は,哈密路にぶつかってT字に終わる。全長8百mほどの短い道。
 都市開発に取り残された隘路のような位置に見えます。

▲塀から零れ出したような草木が道に落ちてる。

山西路に響く讃美歌,河南路のどやどや市場

てT字に行き着いたけど,ここは…どこだろう?
 北東へ何となく進む。
 1306,陝西路との交点に出てました。今の道は哈密道。うーん。北上
 1311,大餡鍋貼という店をたまたま見かける。けど──誰も鍋貼食べてないぞ?どうも宴会場のような雰囲気がある。スルー。

▲陝西路の昼下がりの光景

西路ライン。讃美歌を高らかに歌う声に振り返る。アフリカ系の人がたくさん集うパティオのような場所がある。ランチを食べながら歌ってるらしい。昔の和製映画の歌声喫茶を彷彿とさせる。
 今該当場所を調べると,天津基督教会山西路堂 Shanxi Road Christian Church Tianjin(場所:GM.)というブロックでした。

▲河南路の猥雑な市場界隈

斯理堂」が元の教会名。1872年に达吉瑞(ダージルイ?)という牧師が創建。新教会としては天津最大。宗派はメソジストでした。道理で歌好きな訳です。──「維斯理」は宗派の創始者John Wesleyの「ウェズリー」(约翰·卫斯理)から取られてる。
 他例に漏れず,ここも文革でぶち壊されたらしい。今の施設は1979年に修復されたもの。随分早い時期の復興で,地域の信者の思いが偲ばれる。
※維基百科/山西路堂(中国語)
 1319,河南路。右折東行。
 1322,錦州道。ここまでの辺りが市場チックな場所になってる。結構大きな賑わいなんですけど,この市場のプログは皆無。ということは,本当に自然発生的な庶民の市場みたいです。

天津鍋貼!天津鍋貼!

南路との交差点て南東角を選ぶ。1341。
 いや?その交差点にあるみすぼらしい庶民的な店は?
1341清真鍋貼
四両10元400
 覗きこむ。大餡その他の有名店と異なり,ちゃんとギョーザだけ食わしてるらしき正しい鍋貼店…と見た!入店。
 しかしだよ?頼み方がよく分からんぞ?壁には32元とか貼ってあって,それじゃあ高そうだけど…どーゆー単位なの?
 店頭で焼いてる頑固そうなオヤジに「弐両大概几个?」(二両が大体何個なの?)と聞く。オヤジ,「八個!」と怒鳴る。大体じゃなく個数換算してるみたいなので「那,四両把!」(じゃあ16個ね)と席につく。──日本的には多いけど餃子だけ食べるなら,中国人の餃子はそんなもん。イタリア人のピザと同じで,元気な男の子は六両の人もザラです。
「还不来牛肉鍋貼?」と他の客から声。どうもわしの頼み方は正解だったらしく,店はローテで四種ほどの餃子を焼いてて,今上がってるのから選べばすぐだけど,種類を特定しちゃうと運が悪けりゃかなり待つ。常連客も「現在有韮菜吗?」と覗きこんで上がった二種ほどから好きな方を採ってる。
 さて!来た!

▲ついに天津鍋貼!

菜だったらしい。肉の気配はあまりない。考えてみれば当たり前,清真なんだから,少なくとも本来豚肉はありえない。
 調味料は酢のほか,粒唐辛子と生ニンニク。酢は全卓に備えてあるけど,他はどちらも店の4卓ほどに一箱しかない。「お好きならどうぞ」という程度で本来ではないんだろう。
 食す。
 いや──旨い!日本的に美味い!
 ニンニクは青島ほどじゃないけど効いてる。辛味より香りを保つ目的だからだろう。韮も同じ発想で,どうしてるのか香菜として立ってる。噛んだ途端に香りの爆弾が破裂するような餃子です。

▲他からの転載ですけど…天津鍋貼,どアップ!

りの充填度と関わりがあるのか,青島ほどにはカリカリに焼いてない。入れる水の量が多く,蒸しをする時間が長いのだろう,カリカリのクレープ状で連結されてもいない。ただし,南京のよりは連結度は高い。日本のと同じ程度には,最初に切り離しておかないと後で二つ一緒に食べることになる。
 それはともかく,このじんわり感。これが天津鍋貼の特徴みたいです。日本との違いという意味では刺激的ではないけれど,日本人的にも美味い餃子というのなら天津のコレでしょう。
 そう考えて思い付く。焼き餃子,卵スープ──日本のいわゆるジャパニーズ中華って,実は中華の中では天津料理を原型にしてる度合いが高くないか?

▲その近くの店にて。なぜ小さく「うさぎ」?

後にお勘定の際,30元を握りしめてオヤジに問う。するとオヤジ「ん~10元」
 あっけにとられる。なら壁の値段表示は何だったの?不服そうに見えたのか,オヤジ,不安そうに一言。
「貴吗?」(高い?)
 え?え?…てことはこれでもボッてるのか?と混乱しつつ,オヤジの表情につい噴き出してしまった。…噴いちゃったからには仕方ない。十元札を潔く渡して立ち去ったんでした。→巻末:資料集 天津鍋貼

345,長春路。
 南東角に「老電車食府」という不思議な表示。
 北行。
 1349,河北路。東行。この辺りの高架のような構造物は,どうもモールらしいんだけど…内部はどうなってるんだろう?

▲河北路で大量の客が押し寄せてた店を。ヒットがなくて分かりませんでした…。後ろの建物もいい味出してます。

かに,今日の人出は昨日の5割増しです。
 1357,ハルビン道まで帰りつく。人はさらに増え,どっと疲れが出てきました。
 .wifi-tianjinというのに接続できた。モバイクはまだ審査中かあ──。
 とボヤきながら歩いてると,ふいに!

繁華街の密かな裏道:恒和西里

津のちょっと好い道コレクション
1 三徳里〔和平区唐山道〕GM.
2 寧夏路〔和平区同名〕GM.
3 恒和西里〔和平区同名〕GM.

▲こんな繁華街にも路地裏が?

きこんだ雰囲気はいい。
 でも?ここって賑わうハルビン路と,天津一の繁華街・浜江道との間のブロックだぞ?
 でも勘は囁く。行こう。

▲途中,北に折れてみた。袋小路でした。でもこの美しさ!

和西里という名前らしい。
 一本道です。ただ途中でわやわやとさらに路地が伸びてます。
 Googleマップで見ると,建物の間にしか見えない場所。ホントに建物の隙間なのかもしれません。
 出たのは何と,昨日写真を撮った十八街麻花の看板の場所でした。

▲浜江路への出口

宿の対面の寺じみた麻花屋が大音量で流してるBGM。痺れた頭で聞いてるとチベットの「オンマニベメフム」に聞こえてきた。…って,これホントにオンマニベメフムだぞ?何でよ?
 宿にビバーグ。
 部屋にも微かに聞こえて来るその音楽の歌詞?が分かってしまった途端,もうオンマニベメフムにしか聞こえなくなりました。かくしてその日の午睡は,何千もの密教仏語にうなされてしまったんでした。

[前日日計]
支出1500/収入1770
負債 270/
[前日累計]
     /負債 499
§
→九月二十二日(六)
[91八里台回顧行]
0931津味 張記包子舗
猪肉包
高湯雲呑8.5元370
1119包子津味水餃
猪肉三鮮包
鶏蛋湯18元370
[92天津駅,鞍山路][93鞍山路からハルビン路まで]
1228津五福西点
紅豆酥,掌破仑蛋糕300

[64四平東道を南行]
1728老津味・牛肉飯
紅焼牛肉餐550
[95万全路黄昏行]
[前日日計]
支出1500/収入1590
負債 90/
[前日累計]
     /負債 409
§
→九月二十三日(天)

■小レポ:溥儀のいた天津と冀東防共自治政府

 天津での溥儀さんのデータを調べてみたけど,まあ普通に軟禁されてたらしく,あまり面白いのがなかった。
 でも,溥儀というコマをこの天津に備えた日帝の大状況,これは知らない刺激に満ちた情報でした。
「冀東防共自治政府」というのは,国共両勢力と満州国との干渉地帯として,河北の中国人に作らせた第二の傀儡政権だったらしい。首都は通州でしたけど,経済的な中心あるいは収奪目標は完全に天津とその海関管理権だったようです。
 通州──この,史上最も明確な中国による日本人虐殺も,この政権の内部クーデターだった…という点も,複雑過ぎて分かりにくいけれど,確かに面白い。
 ただ,さらに面白いのは,この日中戦争前史の時代のハチャメチャな諸勢力の乱立と,その間を縫ってジリジリと軍隊を進めて行った日本の面の厚さ。
 無茶苦茶だ。謀略しかない。
 感覚的に,通州虐殺論も「南京虐殺は大中小?ゼロ?」論議も,その多くが視野が狭隘なものにしか見えなくなります。謀略の応酬の中で,素朴な野心だけを持った日帝が,領土的には勝利を重ねつつ,ズルズルと本格戦争に引き込まれていく。その大状況の中でスポットの事象を語らないと「正論なだけの正論」に終わってしまう。
 溥儀の天津での安逸な日々も,その暴風の最中にあった。
 もう一つ,この混沌の中に,エンペラーを戴く国づくりを疑わない当時の日本人が,満州に楽土を築こうとした時,皇帝溥儀の担ぎ出しの構想が生まれた。この発想の,いじましいほど純粋で,中国人センスから見れば溶けるほどの甘さが浮き彫りになる気がします。

※ wiki/冀東防共自治政府
「政務長官
1935年 – 1937年殷汝耕
1937年 – 1938年池宗墨
面積
1937年8,200km²
人口
1937年7,000,000人
変遷
1935年11月25日:冀東防共自治委員会成立
1935年12月25日:冀東防共自治政府に改称
1937年7月29日:通州事件
1938年2月1日:中華民国臨時政府に合流」
「11月25日殷汝耕は中央政府と分離した自治政権冀東防共自治委員会を通州に樹立し、自治宣言を中外に発表して地域内民衆の自治を開始した[」
※ ROSSさんの大阪ハクナマタタ/天津日本租界の静園
「1931年(昭和6年)、満州事変(柳条湖事件)が発生、日本軍(関東軍)土肥原賢二大佐(1883~1948年)は、抗日ゲリラを手引きして天津市に攻撃をしかけ、義和団事件以来30年ぶりに日本租界が戦場となったといいます。」
「1933年(昭和8年)に日中の停戦協定が成立すると、日本軍の中国への強硬姿勢はさらに強まり、1935年(昭和10年)に天津から中国政府機関が撤退、冀東防共自治政府が設置されています。」
「この日本軍の傀儡政権は、国民党政府の関税よりも大幅に低い関税を定めたことで、正規の関税を払わない日本商品(密輸品)が天津に殺到、天津日本租界の景気が一挙に跳ね上がったといいます。」
※ 世界史の窓/冀東防共自治政府
※ Hatena blog/【冀東防共自治政府】冀東政権を(ちょっとだけ)知ろう【通州事件】
「「保守」ってる方々によって鬼の首をとったような勢いで語られることが多く、彼らは殺害の残虐性*3を無理やり民族性と結びつけてアピールしてくるのですが、なぜか、死亡者の半数が朝鮮人であったことには触れてこない傾向があります。不思議不思議。
さらに、もう一点不思議なのは、保守ってる方々が通州事件を語る際、冀東政権のことにはほとんど触れないことです。
反乱を起こした保安隊は冀東防共自治政府の軍隊ですので、通州事件を語るのであれば、当然、この冀東政権についても触れざるをえないはずです。ところが、あれだけ通州事件について熱く語っていながら、冀東政権のことは「冀東防共自治政府」という名前が出てくれば良い方で、まったく触れられないことも少なくありません。もちろん、冀東政権が傀儡政権であったことに触れられることは稀です*4。」
※ 同/【冀東防共自治政府】冴えない政権の作りかた【通州事件】
「熱河作戦では満州事変を収束させることができず中国側の抵抗が続いたため、5月3日に再び河北省に侵攻します(関内作戦)。
5月下旬には、関東軍は北京(北平)から数十キロの地点に迫り、5月25日に中国国民政府はついに日本に停戦を求めました。
このとき、国民政府は中国共産党との戦いを優先していたため、関東軍の侵攻への対処が困難だったのです。」
「関東軍は共産勢力が華北に侵入して満洲国を包囲するのを防ぐため、華北を関東軍の支配下に置くべきだと考えるようになりました。そこで、関東軍は支那駐屯軍と協力して、華北5省(河北、山西、山東、察哈爾、綏遠)を国民政府の支配から切り離すことを画策します(華北分離工作)。」
「土肥原は協力的な殷汝耕にまず自治委員会を作らせ、それから宋哲元らを取り込むという方針に改めます。
1935年11月25日、土肥原の要請に応じて殷汝耕は「冀東防共自治委員会」を設立しました。
なお、殷汝耕は、宋哲元らが政権を作り次第、冀東政権はそれに合流すると宣言しています。」
※ 産経新聞/邦人多数虐殺「通州事件」 中国共産党の扇動判明 蜂起部隊に工作員接触
「共産党の関与を示す研究は、党史や地方史に関する報告として、河北省唐山市の機構が運営する研究サイト「政協唐山文史網」や、歴史専門誌「国家人文歴史」などで、近年相次ぎ公表された。」
「河北省周辺での地下活動を統括した共産党北方局(劉少奇書記)の下で、「黎巨峰(れい・きょほう)」「王自悟(おう・じご)」という工作員が、35年の冀東防共自治政府の成立直後から、保安隊の張慶余(ちょう・けいよ)・第1総隊長、張硯田(ちょう・けんでん)・第2総隊長と関係を構築した。」
「通州事件で、保安隊は7月28日の深夜から行動に移り、第1総隊が日本軍守備隊の攻撃、第2総隊が外部との連絡切断、教導総隊が駅の制圧と日本軍増援部隊の阻止を担当した。」
※ 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 税関(4-019)大阪朝日新聞 1937.12.17 (昭和12)/民国臨時政府関税改正に着手
「民国臨時政府が十六日接収を完了した天津、秦皇島両海関のうち秦皇軍島海関は冀東防共自治政府の麾下にあり同政府が正式に臨時政府に合流するに先立ち新臨時政府の管下に入ったものである」
「天津海関収入は事変前は平年約四千五百万円程度であったが事情が一変した今日、平年度以上の海関収入を挙げるものと予期され」

■資料集:天津鍋貼

 毎日頭条が有名店をものすごくたくさん紹介してます。ただ,ワシが今回見つけたような「餃子だけ!文句あるか!」的な店とはどうも思えないところが多い。じゃあそーゆー庶民店をどう見つけたらいいのかは…あまり参考になる情報ありません。
 あと,頭条は「焼き」以外の餃子もかなり紹介してます。むしろそっちの方が庶民派の探索にはいいのかも?
・毎日頭条/天津最好吃的6家锅贴都在这了!汤汁浓郁,底脆皮香!2017-04-06
・同/天津最好吃的鍋貼大全!2014-07-23
・同/周一冬至吃饺子,盘点天津那些薄皮大馅的美味饺子2014-12-22 ※天津の鍋貼じゃない餃子の紹介
・華人百科/天津鍋貼 ※レシピが詳しい。

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