絵付日単位要約箱
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八里台に立つ。 天津の道は 見つかったか? そしてまた巡る 天津の美しい夜。 |
本編の行程:Googleマップ(経路)
支出1500/収入1770
負債 270/
[前日累計]
/負債 499
§
→九月二十二日(六)
[91八里台回顧行]
0931津味 張記包子舗
猪肉包
高湯雲呑8.5元370⇒
1119包子津味水餃
猪肉三鮮包
鶏蛋湯18元370
[92天津駅,鞍山路]⇒[93鞍山路からハルビン路まで]⇒
1228津五福西点
紅豆酥,掌破仑蛋糕300
[64四平東道を南行]⇒
1728老津味・牛肉飯
紅焼牛肉餐550
[95万全路黄昏行]⇒
[前日日計]
支出1500/収入1590
負債 90/
[前日累計]
/負債 409
§
→九月二十三日(天)
目録
払暁,モバイク登録に破れバスに乗る
朝起きて,ふと思い出す。
そう言えば,中国SIMを使えるようにした本来の動機は,中国街中の自転車を使うことでした。
今となっては歩く方が楽しいんだけど…モノは試しというか──モバイクを登録してみた。
──中国の身分証がないワシら外国人には,結構面倒でした。電話登録に加え顔写真とパスポート画面の写真を送付して,2時間以内に出るという審査を待たないといけない。
ただ,百度地図を開くと,あの街角の自転車群のどれかを借りれるように,自分の位置から近くの自転車が地図にマッピングされてる。この状況は凄い!
でも結局ダメでした。この時点では,APN接続が完成してなかったからです。→表示画面等:金盾編9
→(参考)巻末小レポ :18年4月モバイク消滅
山東路站から医科大学までバスに乗ってみることに。
医科大学は,昨日見つけた八里台に近いバス停。見つけたからにはやはり四半世紀ぶりに訪れたい。
それに百度でヒットしたこの山東路というバス停名も,これまた今回,縁起がいい。
901路が来たのでこれにする。0831乗車。
車は赤峰路を西南行。
0834,营口道。え?右折した?これは南京路か?片側4車線の広い道。
鞍山路を左折南西行。そう行くのか?
この通り,庶民的な賑わいがある。住院站。大きな医院建物。特にここの北辺りまでが華やいでました。
新兴路に入る。四平西道站。
朝天,学校と病院を抜けて歩く
0850,さらに気象台路に入って医科大学で下車。バスは35,901のほか862,878,879が停車する。
片側4車線の交通量の通りですが,落ち着いた道です。なぜかインド人が数名通りすぎる。留学生?
※ 統計的なものはないけれど,政治的事情の面倒な国からは,大陸中国あるいは台湾への留学生は昔からかなり多い。
南から時計周りに回ろう。
今日も日差しはきつそうです。風はないのでバックの底に長袖を丸めて沈め,Tシャツ姿になってます。
0857,天津医科大学口腔医院前を右折して同安路を西行。
天津医科大学代謝病医院前を通過。どんな病気を指すんだろ?
※ 高脂血症症のほかは,あまり聞かないカタカナの病気を指すらしい。データはヒットしないけれど,中国で増えてるんだろうか?→中国中央病院/脂質代謝異常(高脂血症)ってどんな病気?
病院や学校の多い界隈だな,と思ってたら,突然,住居っぽい空気に転じます。
南に呉家窯四号路。──由来がヒットしませんけど,文字通りなら呉という姓の陶器工房があったのでしょうか。
南の少し向こうに京都タワーみたいな塔(真相→小レポ:天塔)が見えてる。天津師範大学の方向です。
どちらも普通っぽいいい通りです。
通りの軒先に,ずらりと4段ほどの階段が並ぶ。この造り,济南でもそうだったな。
青島,济南の経験からすると,これは歴史的建築というほどじゃないけれど,建物の土台が欧風ということです。
※ 仮説紹介→小レポ:租界の半地下構造
今確認すると,この辺りはイギリス租界の最南端角辺りになる。
※ y!プログ/天津の日本租界(再掲)
欧風建築の残る租界域と,その外縁の開発が容易なエリアに作られた公共施設群,という構図でしょう。
秋暁,変転せし八里台に驚嘆す
1980年,西安留学の年にここへ来たのは,大学が多かったからどこかの留学生楼に安く泊まれるかな?という企図だけでした。
当時はトラムが走ってて,天津駅から向かった車内にほとんど客がいなくなって,不安になるほどの界隈でした。
▲同安路から衛津路に出る辺りになると,またゴミゴミした雑踏になる。
衛津路に出る。
二十数年前の南開大学留学生楼からはこの道に出るのが一番近かったんだけど,店は何もないから,学内の学食・売店か,この道に出る屋台で買い物した記憶があります。屋台では焼き芋が旨かった…。
それが!道に出る前から既に賑わいの気配があり──
こんなになってました!
0915,衛津路の八里台バス停。
西大校門前並みには大変なことになってます。東側には商店が並び,小吃街まで出来とる。それもかなり小洒落た店ばかり!西側には白い眼鏡橋みたいなものまで。何と何と,よくもまあ!
バスの路線を見る。そう,四半世紀前に乗ったのは確かこの8路という天津站と結ぶ線です。今はそのほか計22路線が運行してます。
ええっ?物美という名のコンビニまであるの?
朝餉,亦も津味の深みに落つ
衛津路沿いがあまりにハイセンスなんで,同安道に戻って「津味」を掲げる小店へ入る。
「全市連鎖同安道店」とあるから天津市内のチェーン店らしい。
0931津味 張記包子舗
猪肉包
高湯雲呑8.5元370
子どもがレジをしててどうも話が通じない。ちゃんと注文できとる?
けれどこれが──
素晴らしかった…
と言っても包子も湯も何と言っていいか分からない。
包子は灌湯に近いけどこのスープがじーんと香り立つ。どうなってるんだろう?と思うほどに酔うような香りです。
ワンタンも同じ類いのふわっと広がる誇り高い香気。
湯も海苔とシェンツァイの香りだけと思いきや,軽快な,出汁とも言えない軽妙な香がふわふわっと立つ。
何なんだこの旨さ?全く分からない。
遅き朝,天津駅への北帰行
丁度いい。8路で天津站を目指そう。1003。8駅で着くはず。
歩くのを止めると,やはりTシャツでは少し肌寒さを感じる。
1008。832路が来た。これも天津站が終点らしい。上車。11駅。
1012,衛津路を北上。新兴路と合流した。次は海光寺,地鉄接続站。
バス停西対面に巨大な家楽福(スーパー)。南京路との交差点。
南門外大街に名が変わってる。オフィス街になった。陧安大街站。次は南門前大街。
あれ?福安大街にまた名が変わってる?
天津駅へ,反時計回りに回り込むように走ってる模様。百貨大楼站。この工場中の区域です。西にマンション群。
福安大街に再合流。車窓は百貨店だらけです。
海河を渡る。橋桁に古めかしい装飾(→小レポ:北安橋)。西に時計塔。
进歩道を右折。洋館並ぶ。えらい人ごみ。
1028,天津站との車内アナウンスを聞く。ロータリーを反時計回りに回って到着。古めかしい発着所です。
1031,到着。
■小レポ:18年4月,モバイク消滅
モバイク「摩拜単車」のブランド名は,同社が美団点評に吸収されることで消滅し,ブランド名は「美団単車」に変わる,という発表が2018年1月に行われた。
見た目にもはっきり分かる過当競争で,最近は新規業者の倒産と保証金の返還不能などが相次いでいただけに,とうとう来たか,という状況ではあるけれど──個人的には,SIMと口座まで作ったけれど,結局モバイクできずに終わったことになる。
ただ,ここからのシェア自転車のシステムがどう推移していくのかは,相変わらず興味深い。
また「中国バブル崩壊の兆しの一つ?」みたいな報道もあるけれど,個人的な感覚ではどうもそんな安直な流れは予想しにくいんであります。平成初めの日本人みたいな虚無感と,今の中国人の空気はまだまだかけ離れたものを感じるからです。
※ 朝日新聞/中国「モバイク」消滅へ シェア自転車ブームに幕 2019年1月23日
※ ciclist/中国、シェア自転車苦境に 大手モバイクが名称変更へ 2019/01/25
■小レポ:天塔(天津広播電視塔,Tianjin Radio and Television Tower)
我が初回の天津から10年後,1991年に建造された塔でした。
415.2mのテレビ塔(天津放送使用)。
JTBプログ曰く「湖の中に立つ独特の姿で知られ」るそうで,展望台や回転ホールがある…となるとほとんど東京タワーです。ただこちらの展望台には200人収容の回転レストランが設けられてます。夜景も有名らしい。
よく見ると,京都タワーよりは少しだけ洗練されたフォルムです。
何より,GM.アースで見ていくと場所が凄い。三角形の湖の只中に突っ立ってるんである。ポスト現代アート的というか…。→GM.
※ JTB/天塔
※ wiki/天津テレビ塔
■小レポ:租界の半地下構造
どうしても気になるのに,なかなかピンと来る説明がヒットしない。この構造自体は一般に「半地下」と呼ぶらしいけれど,なぜそれが租界域だけにあるのか分からない。
英語では「Semi basement」という語がある。でも特に自覚的なものじゃないのか,固有名詞はないようです。
それで見つけたのが下記プログ。イギリスでの生活実感から書かれているので,証明は難しいにせよ,納得のいく仮説になってると思います。
ポイントをノートする。
①半地下構造は,発生熱量に対し重い石炭系燃料の時代に,その搬入・貯蔵を容易にする構造として普及した。
②「半地下」階は元々路面レベルの階。道路整備時に,路面側の盛り土により路面レベルより低位置になった。
③以上の利用形態では,路面レベルを一階と数える感覚はナンセンスなので,建築当初の構造上の路面レベルをGL(グラウンドレベル)と呼び,その上を1F,2Fと数える感覚の方が一般化した。
──①は石炭時代に産業革命を経たイギリス特有の傾向で,だから③の「GL」感覚が独自に発達したのでしょう。ただ,②の現象は,イギリスほどの急激さはなかったにせよ,おそらく西安などで見た条里制主要道からの傾斜の形成理由にも当てはまるだろうと思えます。つまり,アスファルトで固める以前の時代,長く主要道であった道の整備は「盛り土」だっただろうということです。
※ blog/イギリスの家の謎
「昔、地下室は暖房用のボイラー室などに使われていたらしいのです。ボイラーには燃料のコークスや石炭が必要ですが、各家の前の道にマンホールがあり、そこからスロープで地下室に流し込めるようになっていたのだそうです。配達の便宜のために高低差を利用する仕掛けになっていたのですね。あるいは写真のように直接地下に降りる階段がある場合もあるので、家の中を通らずに地下室に石炭を届けるという理由もあったかもですね。」
「実はここで地下室と言っている部分は、地下ではなく元々のグランドレベルつまり本来の地面の高さなのだそうです。驚くべきことに街づくりの時に表通りを盛り土して高くしているのですね。掘り下げて地下室を作るのではなく道路の方を盛り上げていたという訳です。」
「イギリスの建物は日本で言う二階をfirst floorつまり一階と呼び、通常の一階をGround floorと言いますよね。
これも同じ理由かもしれませんね。通常、玄関のあるfirst floorは地面レベルからすれば二階になりますので、地下室があろうがなかろうが地面レベルにある階はGround floor と呼び、その上から一階二階と数えるようになったのではないでしょうか。」
■小レポ:日本橋→勝利橋→北安橋
天津の駅側と中心市街地の間,旧市街北東にある蛇行した河は,海河と呼ばれる。黄河より北の支流を集める大河です。
海河にかかる橋は,それ自体が観光名所になってる。天津駅のすぐ南にある解放橋が最もメジャーですけれど,イタリア風情区と一体的に整備されたらしいこの北安橋もぼつぼつプログに上がってる。
バスからチラ見した印象と異なり,実際は1975年建築,その後2004年に装飾が施されたもの。洋風にあしらわれているけれど,モチーフは,橋頭には中国伝統の青龍,白虎,朱雀,玄武が使われてる。欄干に金色の女神像が立ってて,これが記憶にも残ってるしプログなどにも使われることが多いようですけれど,よく見ると持ってる楽器が阮,排簫,琵琶と笙です。
よく見ると,かなり斬新なアートになってるわけです。
それと,来歴も面白い。
現在の北安橋は第三世に当たる。初代の橋は1939年にかかってて,名前は「日本橋」。この年はまだ英仏と開戦してないわけだけど,事実上日本がインフラ整備に着手してしまったんでしょう。
これが1945年に「勝利橋」としてかけ変えられてる。橋の北側に地名の残る勝利路とセットです。抗日戦の「勝利」で日帝本拠の一つだった天津に入った中国軍は,日本橋を事実上破壊したのでしょう。
この橋がたった30年でかけ変わった理由に,どのプログも触れてない。ちなみに橋の標準的な耐用年数は50年。
おそらく,感情的に壊して代わりにかけた橋は,あまり上出来ではなかった。現北安橋の作られた1975年には,もう危険な状態になってしまったのでしょう。
日本橋,勝利橋とも,往時の写真は確認できませんでした。
※百度百科/北安橋
※新浪博客/天津•北安桥
(中国語だけど写真多数)
※每日頭條/最繁華的一段海河水,最壯美的九座海河橋!(下)
「北安橋始建於1939年,原是座木橋,被稱為「新橋」、「日本橋」; 1945年」抗戰勝利後該橋進行了重新拆建,更名為「勝利橋」;1973年改建為鋼筋水泥橋。」
「2004年海河綜合開發改造時對其進行了抬升加寬等改造,在建築裝飾設計上既考慮海河兩岸深厚的歷史文化背景,又結合原有橋樑的結構型式,同時借鑑法國巴黎亞歷山大三世橋,為西洋古典式的建築風格。」
「橋頭雕塑採用西洋古典表現形式,吸取中國傳統文化中的青龍、白虎、朱雀、玄武分別寓意東南西北四方平安;橋墩雕像為2條青銅正面裝飾的盤龍,其龍頭、龍身、龍爪均為金色,它們分別盤踞在海河上下游的橋兩側,仿佛從水中升騰而出,栩栩如生;橋欄杆為寶瓶式石材,欄柱基上為四尊舞姿各異的樂女、金光閃閃,造型高貴典雅,手中分別抱著不同的樂器:阮、排簫、琵琶和笙,突出了中國的古典韻味。」