m17cm第十七波余波m妈祖の笑みぶあつく隠す冬の峰m国分姫城withCOVID/鹿児島県

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

往路:国分の風景

布志行きの往路で立ち寄った時の国分の光景から,再掲させて頂きます。
──1月2日0710,国分着。やっと夜が明けた。
 まず山形屋前へ。バス停の時刻表で1004志布志行きの存在を確認。赤茶の車体の鹿児島交通。
 その後,北へ。国分温泉まで歩く。線路を越えるルート──どうも,国分の街中はえらく寂しい。繁華街らしきものがない。明日の予約を入れたAPA周辺なぞまるで埋め立て地です。

陸橋より南東方向

島温泉系に初めて入ったけど──いい湯ですね。適度なとろみある肌触りだけでなく,じっくり染み込む感じがある。
 国分温泉前でタバコを吹かしながら眺めると──対面に岩山?稲荷神社とあります。
 9時になった。駅に帰る。

国分温泉から北方向

930,駅。
 やはり志布志行きらしき時刻の便はない。念のためバス停にあった鹿児島交通の電話番号にかけて駅にバスが来るか確認すると,山形屋前にしか着かないとのこと。
 ……危なかった。山形屋まで移動し待つ。
 1004に乗車して……わかった!国分駅入口というバス停は,山形屋から駅と逆側に折れた,つまり駅から結構離れたMaxValue前にあるのでした。──分かるか!

最初に居た桂姫

日,空港行きバスにて志布志から国分へ。
「空港行き」つまりリムジンバスには普通は,空港へ行かない乗客は乗れないもんですけど,なぜかこの便は明らかに生活の足として使われてます。補助金制度か何かの建前なんでしょうか。まあ有り難いけど。
 その車内で,初めて国分について調べました。昨日の町の手触りがどうも気になったのです。

比売之城(ひめのき)、比売奴城、比売妓城、熊襲城とも呼ばれる。〔後掲Wiki/姫木城〕

「ひめき」姫城という地名は国分温泉すぐ北側に残っています。というか,温泉から煙草を指に眺めた山(→前掲画像)がまさに姫城なる山城跡だったようなのです。※以下の表記は「姫城」で統一します。
 なお,この姫城という地名は都城市内にも残っています。それが何と都城島津邸跡にすぐ隣接した区域です。

都城市姫城町→GM.
──がそこを穿つと果てしない話になるので……国分・姫城に今は集中します。

(中世)南北朝期~戦国期に見える城名。(略)熊襲や大隅隼人の拠点といわれ,あるいは桂姫や大隅国司大中臣阿曽麿・伊賀麿が居館としたという伝説がある(国分郷土誌)。中世には大隅国在庁官人で曽於(曽野)郡司であった税所氏一族の姫木氏が居城とした。〔角川日本地名大辞典/姫木城〕

 大隅国司の居館──ということは国府機能が置かれた時期もある訳です。
 ここで姫城の主として名が記される桂姫は,何と神功皇后の妹ともされます。伝承上は姫城に入ったのは三韓征伐の後だとされる。

神功皇后が新羅を攻めたとき、桂姫も従軍して武功があり、勝浦姫の名を賜り、その妹を姫木城に迎えたという。〔国分郷土史下巻←後掲追跡アマミキヨ〕

 今でも登れるらしい。GM./ふるさと歴史探索に「南西に徒歩で進入できる経路があり、虎口城の地形や石を削って作った階段などを経て城内へ至る。」とあり,実際登った人もいるようです。wikiにも──

山塊の北面にあたる高地(写真中央やや左)に本丸が置かれ、北東側に大手門、西側に搦手門を配していた。城の北側にある貫抜瀬戸と呼ばれる尾根を介して橘木城と隣接していた。本丸の裏手に年間を通じて涸れることのない水源があり、城内に田畑も保有していたため長期にわたる籠城が可能であった。山裾を流れる松永用水と重久溝を内堀、天降川と手籠川を外堀としていた。〔後掲Wiki/姫木城〕

島津が陥とすに三年を要す

姫城山頂付近の切通し〔GM.〕
 1km北北東の橘木城(→GM.)と連携した,中世薩摩型の強固な山城です。出典史料が定かでないけれど,最初の築城者は8C初に反乱者・隼人とする疑いが濃い。

古代から山城として利用され、奈良時代の720年(養老4年)に勃発した「隼人の反乱」の際、律令政府に対抗した隼人側が立て籠った場所とされる[1]。〔後掲Wiki/姫木城〕

※原注[1]中村明蔵『南九州古代ロマン ハヤトの原像』丸山学芸図書 1991年。

1377年(天授3年、永和3年): 税所氏と相良氏の連合軍が島津氏を攻撃した際、税所氏側がここに篭もった。島津側がこれを攻め落とすまでに三年を要した。島津氏久は城の南西にある咲隈(えみくま、笑隈とも書く)に布陣し兵糧攻めを試みた。(略)戦いの後、城は本田氏に与えられた。〔後掲Wiki/姫木城〕

「笑隈」城跡(→GM.)もやはり伝わっています。姫城から天降川をまたいで西1km。

1447年(文安4年): 島津忠国がここに篭もり、本田重恒と税所氏の連合軍を退けた。
1548年(天文17年): 付近の領主であった本田董親の施政に抗議するため同族の本田実親がここに立て籠もった。〔後掲Wiki/姫木城〕

 隼人の反乱期だけ,南北朝期だけというのではないようです。室町期末まで延々と要地であり続けてる。
 しかも錦江湾最奥です。島津義久※が本拠を置いたのも,極めて合理的な事です。例えば──秀吉の四国征伐時のように十万単位の兵団を侵入させようとも,西南戦争時のような近代兵器の火力なしには泥沼の戦役に化したでしょう。

※島津家16代当主。四兄弟長兄。法号・龍伯。

北に一点張り

530,山形屋より少し北,霧島市役所前で下車すると本日のお宿APAは目の前でした。
 目の前だけど結構歩く。この付近は郊外地っぽいというかほとんど工業団地みたいな風情で,何もない。建物は見えるけど歩くのでした。
 16時ジャスト。APAで借りた自転車にてスタート。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※国分温泉まで

駅陸橋より東

路を挟んで東には城山が見えてます。こちらが島津義久の「隠居城」で,唐人町を形成したとされる場所です。国分新城とも呼ばれるけれど,伝承と考古学知見から古代隼人代からの城とも目されています(巻末参照)。
 だからそちらにも惹かれるんだけど……実際眺めると頂上に展望台と観覧車が見える。
城山公園の観覧車と眺望〔後掲かごしまの旅〕

在は国分城山公園になってて,現在確認できるものはあまり無いように感じました。──一日ほど時間があるならですけど,今回は冬日が沈むまで間がありません。やはり北に一点張りしよう。
 1606,向花五差路から北東斜道に入る。昨朝に歩いた道です。

鉄橋にて川原道尽く

鏡橋

箸に出ました。1610。
 この手篭川は今は流れは幅数m,船には細過ぎるけれど,昔はどうだったのか(巻末参照)。
 川に沿って北東へ。
 1616,奈良田橋を渡り左岸へ。
手篭川北岸

岸,街とも見るべきものなし。1619。
 そのまま線路の鉄橋にて川原道終わる。
河原道の尽きる辺りから西方向

岩崖の地図記号

鉄橋にぶつかる地点

妙なことに北側の岩山もその辺りで尽きてる。
 集落内へ。
線路で河原道の尽きる地点から姫城(位置図)
線路で河原道の尽きる地点から姫城の尾根を見上げる

下から見上げると尾根はかなり切り立ってます。
 上記地図でもそれは分かります。上記画像でも確認できるように,地図に岩崖の地図記号が並びます。温泉から見た以上に防御力は高い。
手篭川の一方北の集落道

妙見→天御中→稲荷

西への水路に沿い800mほど進み,1628。鳥居下に自転車停める。
 温泉から見えてた神社は──稲荷神社です(→GM.)。「旧村社」と表示されてます。
 犬吠える。幸先よし。登ろう。

稲荷神社入口より残照の階段を仰ぐ

段。
 由緒にいわく──

祭神は天御中主神ほか二座を祀る。例祭は十一月中申日。旧社格は村社。
 もともとは妙見神社と呼ばれていたが,明治になって天御中主神と改名した。「神社誌」「神社明細帳」などによると,明治四十年六月十三日,姫城竹下鎮座の貴船神社を合祀,明治四十五年二月十七日,姫城西瓜川鎮座の稲荷神社を合祀,同年五月三十日,神社名を稲荷神社に改めたという。 霧島市教育委員会〔案内板〕

「姫城竹下」も「西瓜川」も位置が分かりません。ただ妙見は北極星や北斗七星を祭り,航海神の色彩を帯びる。貴船はまさに船の着岸を示唆します。

水神

段二祠は左に「天之道合命 天之□性命」。榊と紙の供えあり。
 右に「稲荷神社□宮本」。同じく供えあり。
 いや?階段左脇のは手洗いじゃなく水神か?朱文字で丸い枠に薄く書かれている。茶碗の供えあり。
登る。

段脇に「黄金の蛇出現地」?──この話は「現在の社殿をつくる際に、階段下の広場になっている場所にあった社務所付近で工事関係者が黄金の蛇を見たということで話題になった」〔後掲きよみず〕ということでした。へえ〜。
 1641,さらに登る。
ようやく本殿……。

下界より17時の時報

り切った辺り,本殿の平地部直下の両側の石積は,相当古いようです。樹根が食い込んでる。
 1648,本殿。真上の岩塊が本尊のような位置です。
 この岩塊は溶結凝灰岩で「妙」の文字が刻まれているそうです。ここが妙見神社だったことを示すために大正末に向花地区の石工が刻んだ,と伝わってます〔後掲きよみず〕。

稲荷神社本殿。真上に大岩。

脇の巌下に赤い鳥居を構える祠。石柱に「宇□□□神」とある。宇賀でしょうか?
「宇□□□神」の祠

数個が二ヶ所に供えてある。その間の人物像は,薩摩らしく首のより上が壊されていますけど──どうも沖縄めいた昏い神域です。
祭壇部
右の祠全体

手の神域の樹木は,手つかずの原生っぽい。
 鳥のこえが陰陰と響きます。
 ふと,下界より17時の時報。
 下山する。
右手祠から本堂前広場の方向に残照

に貴船神社の旧地名として由緒にあった「姫城竹下」とは,先ほど線路で河原道の途切れた地点の北側辺りの可能性があります。GM.で「竹下公園」(→GM.)という場所がヒットしたからです。ad.国分姫城2888-5。地図上は国分姫城南なる地名があります。
 奇妙な地形です。小規模な川の三日月湖にも見える弧状の水路があります。今も川筋が分岐し交差ししている地点の真北すぐ。元の手篭川はこの地点で,相当に暴れていたのでしょうか?それとも,これら残留域を包含するほどの大きな流れだったのでしょうか?

国分竹下に夕暮迫る

竹下公園付近地図

りあえず向かってみましたけど──えらく,反時計回りに大回りする道行きしかありませんでした。
 1720。住宅地の行き止まりのような場所に行き着きました。
道が柵で仕切られ途絶えた地点

こにも何らかの痕跡は,無い。
 ただこの川側の土手は──元々ここに尾根が降りてきていて,住宅開発のために掘削した跡のように思えます。
南側(手篭川側)の土手

ぐ下には石積はないけれどがっちりした水路が流れてる。くねり方からして古いと思う。」と当時メモしてますけど──自信は全くありません。
 どこまでが自然現象で,どこまでが人工なのか読み取れないのです。
弧状水路

から山肌を見ても,ここは緩く尾根が川筋に突き出るように降りてきてます。つまり川原からの登り口,あるいは姫城の郭のような場所の直下だったのでしょうか?
 混乱してるうちに夕闇が迫ってきてしまいました。まるでこの薩摩滞在を総括するような情景ですけども,まあとりあえず……国分温泉再投。

2020.12-21.01薩摩編
ぐぶり
さびら

■レポ:龍伯様の国分城

 この日の歩きでは捨てた江戸初期の島津の城・新城(国分城)について,概要を見ておきます。
 最初は先入観から,島津義久の隠居城,あるいは個人的思い込みで国分が選ばれたかと思ってたんですけど──

薩摩国、大隅国の境に位置する絶好の立地条件から藩主自体が鹿児島城から国分城に移転する計画が幾度も立てられ、島津斉彬は国分城下の測量まで行ったが、斉彬の死去により頓挫しこの計画は実行されなかった。
 明治十年(1877年)の西南戦争の時には山縣有朋がこの城に駐屯した。〔後掲古城盛衰記〕

 出典や時期は不明なんですけど,とにかく島津藩主城に公式認定する見込も現実的なものだったらしいのです。
 けれど──ここへ?という率直な疑念もあります。国分には古い武家屋敷とか商家がズラッと並んでるわけじゃない。ただ中世・近代の国分を考える基礎的知識として,まず地形,特に水流を頭に入れておく必要がありそうです。

旧天降川の流路(国分高,2019)原図〔後掲かだいおうち〕

資料転記:国分高校地学班による天降川旧流域復元

 文章で色々書いてあるものはあるんだけど,図示したものは鹿児島県立国分高等学校の地学班(学校サイトではサイエンス部)が作成された上図が存在しました。
 推定手法を同部サイトで確認する限り,マクロの既存公表データをミクロの実測データで補完した相当に精度の高いものと思われました。

(上)地理院メッシュデータ (下)歩測傾斜確認による流域推定〔後掲鹿児島県立国分高校〕

 ただこの大河の河口風景は──現存地形とあまりに違い過ぎて,三時間ずつ2回歩いただけの観光客には難易度が高過ぎましたので──次の画像を国分高校サイトで見つけて,やっと見当がついたのでした。
上図に国分高校位置を書き入れたもの〔後掲鹿児島県立国分高校〕

 国分駅から山形屋辺りの中心市街地が「キレイ過ぎる」印象だったのも,頷けます。駅からの東西1kmほどのベルト地帯は全て,天降川の旧河川敷から水が枯れた跡だったわけです。
「枯れた」というのは,中国の廃黄河のような結果的な自然現象ではなく,人為です。

霧島市の中心市街地は、寛文2(1662)~6(1666)年に行われた「天降川川筋直し」により現河道へ付け替えられるまでは、旧天降川(当時の名称は広瀬川)は市街地周辺で蛇行を繰り返していたからです。また、江戸時代から現在に至るまで埋立が行われているからです。実際、1993年の水害では国分市街地は浸水しましたし、1914年の桜島地震では、江戸時代の埋立地「小村新田」は地盤沈下により水没しました。〔後掲かだいおうち〕

 ワシと同程度に土地勘の無い人のために,現代の地図に国分高校を書き入れ,さらに本文で拘った姫城を見つけてみたのが下記図です。国分駅は左下の辺りです。

(右下)国分高校 (左上)姫城 (左下)JR国分駅〔地理院地図〕

 この位置関係を参照して国分高マップに関係箇所をプロットしますと,下記のようになりました。
旧天降川の流路(国分高,2019)原図+現代地図対照プロット〔後掲かだいおうち〕

 北から降る天降川と北東からの手篭川は,現・JR国分駅付近で大合流し短い大河──というかこうなるとほとんど湾を形成していました。おそらく遠浅の広い氾濫原が広がっていたと思われます。

内部リンク→015-7仁保島\安芸郡四町\広島県/残る,というか全然分からない諸点
(上)「この世界の片隅に」序盤で江波から草津へ浜を歩く三兄妹 (下)昭和初期の古写真

 ただしシラス土壌の扇状地というのがどんな光景なのか,厳密には想像がつきません。ここでは,陸地部と同じく海流によっても深く穿たれた高低差を持ち,従って少なくとも湾入部までは底を擦らずに船が行き来できた,と想定して話を進めます。

国分城跡の案内板にある復元図〔GM.〕

国分城下の短い賑わい

 上図は奥手が国分城山,手前がその南西直下の江戸期の町を描いています。
 条里の明らかな碁盤状の町は城山直下の館を,京の内裏や中国系城市での内城のような形で構えてます。これが国分城で,国分新城,国分御屋形,舞鶴城とも呼ばれたという。〔wiki/国分城〕。位置は現在の霧島市立国分小学校(GM.)及び前掲サイエンス部の属する鹿児島県立国分高校(GM.)といいます〔後掲歴史文化の旅〕。
 上記復元図は下記の二点,元禄と明和の図面を元ネタにしているようです。確かに家臣団の屋敷らしき記載はあります。でも客観的に見ると,碁盤目の整然たる町割りがあった,としか分からない。ここはどの程度「町」だったのでしょうか?

「国分衆中屋敷配置図」国分資料館蔵,1698(元禄11)年〔後掲鹿児島県立国分高校〕
「国分郷絵図 国分郷土誌付録図」1765(明和2)年〔後掲歴史文化の旅〕

 居城者数についての記述が,国分諸古記※にあります。

※国分諸古記:国分郷の郷士年寄家の野村家に伝えられてきた同郷の名勝志的な古記録史料〔日本歴史地名大系 「国分諸古記」←コトバンク/国分諸古記〕。「鹿児島県史料集『旧記雑録後編4』」に所収されるほか,「国分郷土誌」に資料編として掲載あり。なお後掲歴史文化の旅の原文は「国分諸国記」と記すが誤字と解した。
1605(慶長10)年 564家部【100.0%】
(1611(慶長16)年 島津義久死没)
1615(慶長20・元和元)年 国府諸士222人【39.4%】
〔後掲歴史文化の旅〕

 数値の単純比較でも義久没後に4割に減じてる。でもこれは,同じ記録中で単位をわざわざ違えた数値です。国分の衆中とはおそらく家臣団の一族数,諸士の数は人数でしょう。一族から仮に二人奉公していたとすると,義久没の僅か四年後に八割が国分を去った勘定になります。
「国分薩摩府」構想は,それを強引に進めた義久の,一代限りの未完のプロジェクトだった。──そう捉えるのが妥当だと思います。
 義久没年は奇しくも1615年。大阪夏の陣での豊臣氏滅亡の翌々月(改元した元和元年閏6月)から一国一城令,正しくは自国城塞破壊による徳川氏への恭順明示ブームの中です。

内部リンク→m19Q@1m第三十六波mm鞆 /【特論1】存城と廃城/一国一城令という諸侯による城の自主的損壊

城の破壊は徳川家康だけではなく、豊臣秀吉や織田信長、それ以外の戦国大名も出していました。
 それは、敗北し軍門に下った敵将が「二度と城に籠って抗戦しない」という意思表示の儀式であり(略)〔後掲ほのぼの日本史〕

 これも偶然ですけど上記222諸士データの時点・1619年に,鬼島津・義弘も没しています。島津17代忠恒は1602(慶長7)年──おそらく江戸幕府への印象を考慮し九州征伐期の世代の義久や義弘※が表に出ない体制にするため──既に当主になってますけど,以後13年間という長期に渡って忠恒-義久-義弘の「三殿体制」と呼ばれる三派閥鼎立状態が続いたと言われます。

※九州を実質制覇したいわゆる島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)中,歳久は1592(天正20)年,家久は1587(天正15)年に既に没。

 この政争の文脈から言えば,「国分薩摩府」は鹿児島中央でおそらく劣勢となった義久勢力が最末期に全勢力を賭した徒花で,結果的に「徳川家の平和」へ向う全国状況に逆行したために以後の世代からは「無かったこと」にされたプロジェクト,と捉えることができそうです。

龍伯様の国際新都構想

 ただそれにしても,琉球侵略に反対したとされる義久が,どんな構想で国分に「新都」を造ろうとしたものでしょうか?
 結論から書くと,はっきりとはしません。

慶長9年(1604年)頃、島津義久はそれまで住んでいた富隈城から、新しい城を新設して移り住んだ。なお縄張りは、帰化した明人で加治木衆中の江夏友賢が担当。義久は寒村であった場所に京都風の碁盤の目をしき、明より商人を招いて「唐人町」を作るなど国分城下の町を整備した〔Wiki/国分城 (大隅国)

「加治木衆中」ですから加治木(現・姶良市)の島津家臣団中に,既に中国人がいた訳です。

1538-1610 明(みん)(中国)の儒者。
嘉靖17年生まれ。易学にくわしかった。永禄(えいろく)3年(1560)来日。のち薩摩(さつま)(鹿児島県)の島津義弘にまねかれ,その師となる。鹿児島城(鶴丸城),加治木屋形の造営にかかわり,占いや縄張りをおこなった。慶長15年7月23日薩摩で死去。73歳。福建出身。中国名は黄友賢。〔デジタル版 日本人名大辞典+Plus『江夏友賢』← コトバンク/江夏友賢〕

 wiki/江夏友賢によるとこの出自記述の出典は本藩人物誌(伝・福崎正澄著作,年代不詳。ただし鹿児島大学附属図書館蔵の写本は島津久光が1839(天保10)年から翌年書写)。合わせて「『江夏』の姓は祠堂を同じくする江夏黄氏[2]に由来するものか。」とします。
※原注2 江夏黄氏_百度百科
 既に江夏黄氏について何度か触れました。福建・厦門を拠点に海岸移住を組織的に行った「天下黄姓出江夏 万派朝宗江夏黄」の一族です。

内部リンク①→m081m第八波m(厦門)m江夏堂/■小レポ:私設・イミグレーションとしての江夏堂
厦門江夏堂〔GM.〕

内部リンク②→m103m第十波m(台北編)m啓天宮/黄氏祠に便所作って 頼むから
(再掲)1053黄氏大宗祠の門脇より河南路を見る。

 友賢の墓の碑文には「永禄3年(1560年)に薩摩国の川内あたりの倭寇に捕えられ、薩摩国へ連れてこられて入来院に居住」〔wiki/江夏友賢〕と記すというけれど,この時代の江夏黄氏自体が同族渡海植民事業の主体なのですから,海民のネットワークで薩摩入りしたということに変わりはありません。
なお,下記展開内の二史料中,姜沆「看羊録」には
友賢が「府学の生員」,つまり科挙(郷試)受験資格者を指します。同資格者は府学と県学等の予備教育機関に配属される仕組みで〔wiki/生員〕,黄友賢はこの「府学」に属するけれどまだ官吏ではない,地方の秀才の一人だったことは間違いありません。伊集院「漢学紀源」で清遊撃・沈惟敬と知己だったというのもそれを裏付けます。
「漢学紀源」の記事も詳しい。中国外交の第一線に従事し,太閤秀吉からも士官要請があったと伝わります。二君に仕えず,なる倫理で本当に身を処すとは思えませんから,友賢は島津外交の方に利を見出していたのでしょうか。



 国分山形屋の700m南東に「唐仁町」(→GM.)というバス停名が残っています。新城の町割りには「唐人町」「高麗町」が特設されてます。

舞鶴城は城下町として整然とした碁盤通りの町並みをつくり、武家屋敷街、加治木町、商人街、唐人町、高麗町を設けたのです。〔後掲歴史文化の旅〕

「400年前の国分城下町の様子」〔後掲ダイワハウス〕

唐人町の林鳳山

 唐人町(唐仁町)の方の顔役として林鳳山という人物がいた,と記録されます。

霧島市の中心地である国分は、1604年に島津義久が舞鶴城を築城したことから発展しました。明国の高官である林鳳山が唐人町をつくり職人を招き入れ、商人町の原点が舞鶴城下に出来ました。このころから、国分の町で葉煙草の生産が始まりました。〔後掲まちかつ〕

 林の誘致した居留者はピーク時に469名に上ったといいます〔後掲ダイワハウス〕。ただ林鳳山の名は他の記録に無く,自称「高官」だった可能性もあります。
 なお,この家には媽祖像が安置されていたと,後掲藤田は見ています。残念ながら原図は入手できませんでしたけど,肝付町の媽祖を下記に掲げます。

媽祖像 肝付町高山(個人蔵)【原典図版6】〔後掲藤田〕

国分の唐人町には明の官吏だった林鳳山を祖先とする林家があった。同家では孔子と伝える神像を祀っていたが、「国分郷土誌」(63) に掲載された写真を見ると媽祖であることが分かる。また、肝付の唐人町(高山本町)にも古い媽祖像が残っている(【図版6】)〔後掲藤田〕
※原注63 国分郷土誌編纂委員会「国分郷土誌」国分市,1970

 林鳳山の一族墓は国分に現存しています。ということは,世代数は明確ではないけれど,相当長くこの一族は国分に住んだわけです。

正覚寺跡(国分市福島。唐仁町に隣接):林家の墓群がある[写真]。正覚寺は1658年に創建された浄土宗の寺院。(写真撮影日2008)〔後掲渡辺〕

「国分諸古記」によると往古唐船が通航していた時、同所に唐人が居住していたことが町名の由来という。唐人の子孫は林氏を名乗った。同氏の祖・林鳳山は明の高官であったが国乱を避けて日本に渡り、初め浜之市に住み、のち島津義久に召出されて唐仁町に移ったという。寛延末年には惣人数469、うち名頭97、ただし元禄11年の竈数は73であった(同書)。唐仁町は国分地方の商業揺籃の地で、製菓業も江戸時代に同町で始まった。これは琉球との交易による砂糖の流入、明人系の製菓技術という二つの条件が重なって発達したものである(国分郷土誌)。〔後掲渡辺〕

 先の469人は国分諸古記の出典で,「寛延末年」(1748~1751)の「惣人数」とあります。ただし元禄11(1698)年の「竈数」(≒世帯?)は73と書かれる。一の竈に対し平均7人というのはやや多過ぎますから,国分唐人町は17C末にはまだ未成熟で18C半ばになって興隆したことになり──義久没とともに衰えた,という説明では不突合です。
 国分唐人町は,義久とは別に栄えた時代があったかもしれないのです。

琉球からの渡来の痕跡

 史書はあまり語らないけれど,国分市内には琉球僧の銘を記すものが複数残るらしい。

国分湊の中福良の集落にある墓地の中(端の方)。墓碑銘「文化八年三月十五日/富寺前住大慈端堂恵發西[癸要?]堂和尚/琉球國中山府那覇邑/龍翔院我翁従」〈如来座像・首なし〉(写真撮影日2008)〔後掲渡辺〕※近世の「湊村」は敷根郷に属し、同郷の飛地であった。国分広瀬隣接。

 文化八年は1811年。これまたえらく義久から離れた年代です。琉球侵攻の1609年とも隔絶してます。志布志の密貿易華やかなりし頃です。

覚書◇昔この所に龍朔院(龍翔院の誤記)というお寺があったので寺墓と云われるようになりました。◇この墓碑銘には「富寺前住大慈端堂恵癸要堂和尚/琉球国中山府那覇邑/文化八(1811)年三月十五日」とあり住職の墓です。お寺の建立の年次は不詳です。琉球からは要堂和尚の渡来以前にも、市内に幾人かの僧侶が渡来しているようです。(後略)〔案内板←後掲渡辺〕

 
「大慈」の名があるので志布志の大慈寺との関連も疑われますけど──にしても国分の位置に琉球人が住す理由が想像できません。
 ただ,相当人数のウチナンチュが渡来して──おそらくは仲間うちでの踊りに興じる光景が見られて──いないと,次のような民俗はありえないはずです。

川尻※琉球人踊り「琉球風の髪型を紫の布で飾り、琉球かすりに青の手甲に脚絆・白の腰巻・青の前掛けにわらじを履いて、道行き・琉球人踊りやんばる・大和人(ヤマトンチュウ)奴踊り・伊予節、そして最後にまた道行きの五部構成で、鉦・太鼓・三味線に合わせて四つ竹を鳴らして踊ります。」〔後掲扇寿堂〕※川尻は国分駅から西約2.5km

川尻琉球人踊り[無形]
見次川尻地区
島津義久が富隈城に居城していた文禄・慶長の頃に、往来する琉球人を見た川尻の人々が、その道中の様子を真似て芸能化したといわれる。〔後掲渡辺〕


 以上,「国際都市」国分の片鱗を幾つか掲げましたけど──島津家の政治に関わらず,一度形成された国際マーケットは江戸期を通じある程度回転し続けた,と見るべきなのでしょうか?
 ただそれにしては,国分・隼人近辺に薩摩の他地に勃興したような豪商の名は聞きません。それどころか藩政下の抑えが和らいだ大正期以降は小作農争議(リーダー:浜田仁左衛門と冨吉栄二)が絶えなかったのが国分地方で〔後掲中村〕,坊津や志布志とはどうも経済格差があったように思えます。
 江戸初期に国際色ある新都を造ろうとしたことは確かなのに,その後がどうにも霧に包まれているのがこの地域なのです。

中世水城・姫城

 では,以上の前提に立脚して,中世の姫城域を再現することはどの程度可能でしょうか?
 まず国分高校の流域再現図を,もう一度振り返ります。

(再掲)旧天降川の流路(国分高,2019)原図+現代地図対照プロット〔後掲かだいおうち〕

 古「国分湾」の最奥には現・天降川と現・手篭川が姫城の東西から流れこみ,姫城の南:現・国分駅付近で混ざり合っています。
 水深が不明ですけど,船からの荷揚げが可能だったとも思えます。また,この高地は自然,湾奥に向う船の目標になったでしょうから船乗りの感覚からして何らかの祠が置かれても不思議ではありません。
 外海からの攻撃を想定すると,姫城の断崖上に避難しかつ抗戦できる好立地です。
 おそらく近代船舶が横付けできる水深からの問題と,決定的には河川改変により,「水城」としての姫城は完全にその様相を変えたのでしょう。

■データ:中間的総括としての薩摩マクロ経済試算

 薩摩が裏の対外交易で溜め込んだ財源を,倒幕運動に注ぎ込んだ──とする文脈が正しいならば,以下のような軍備拡充度がその出力だったことになります。

保有艦船量

幕府と薩摩藩が他を圧倒する艦船数です。砲を備えた艦船が目立ちますので幕府海軍と薩摩海軍、その勢力が拮抗しているように見えます(詳細には確認しておりません)。
但し、艦船とくに戦艦の運用・戦闘方法に関しては幕府側が優っている印象です。〔後掲幕末千夜一夜物語/No78〕

 確かに国家を代表する立場の幕府の方が,欧米列強の軍事教育使節を受け入れ易かったでしょう。まして薩長のように戦争をしていないのですから。
 でも以下の軍艦の購入費用を見ると,薩摩は幕府の25%増しです。数値をひとまず信ずるなら,高価な,おそらく最新式の海軍力を有したということになります。

輸入艦船購入費用〔後掲幕末千夜一夜物語/No78〕

マクロ試算:3%の財源で1割の給与支払

 当時の諸藩の財政感覚からは桁外れなこの収支状況は,長期的な簿記資料でも発見されない限り確定的なものになることはないでしょう。
 それでも敢えて,マクロ経済を再現してみると──まず米経済の尺度で全国に占める薩摩の財源割合は,いかに全国第二の雄藩とは言え──3%程度です。

全国石高①3235万石
〔東京大学史料編纂所所蔵『郡村石高帳』:地租改正直前の1872(明治5)年末石高←後掲yahoo知恵袋〕
(共武政表 3212万石
地理局雑報3230万石)
  ②2243万【α】
〔川村博忠『寛永十年巡見使国絵図日本六十余州図』:1633(寛永10)年提出の巡見使国絵図の石高←後掲yahoo知恵袋〕
※以上,万石以下四捨五入

うち徳川氏①680万石
     ②706万石
〔①享保 ②明治初年←後掲長柄町〕
うち島津氏 73万石【β】
〔後掲江戸の藩の石高ランキング〕

【β】/【α】≒3%

 江戸期の武士は基本的に何も生産しません。薩摩の武士の場合は麓で農業労働に従事したとは言え,専従の農民以上に収穫を得たとは思えず,算定をリカバリーするほどではない。
 この層が薩摩の人口中25%。集計の確認はしてませんけど,この規模は全国武士数の10%というのです。

薩摩藩の人口のおよそ4分の1が武士です (ちなみに、全国の武士のおよそ1割が薩摩藩士でした)。彼らは、城下町に収容しきれないという名目で、麓と呼ばれるミニ城下町に置かれていました。〔後掲ニコニコニュース〕

 つまり薩摩藩は10%相当の労働しない階級への給与を,3%の財源から三百年充当し果せたことになる。それでなおかつ幕府に多大な献金をし,幕末には幕府に匹敵する艦船を保有した──となれば,表の米経済に少なくとも三倍する別(裏)財源の存在を想定せざるを得ないのです。
 後掲ニコニコが面白い表現を用いています。──(薩摩は)「藩とは別に、新たな会社『島津家』を設立します。」

島津商社を構想したのは誰か?

 根本的に分からないのは,この「島津商社」がいつ創設●●●●されたかです。
 だって江戸期薩摩藩の成立時点から武士=無生産階級の過多は続いていたわけですから,定説のように,一人,調所広郷(1776生-1849没)が仕掛けたもののはずはないのです。絞って言えば,調所失脚後の前掲のような艦船購入費は,ではどこから出たというのでしょう?広郷はある意味,密貿易の科をただ一人背負わされてる感じで,江戸期に他にもいた「広郷」の隠れ蓑になってるように感じられるのです。
 では,それは誰が企画したものか?──江戸期より前に既に薩摩に富が蓄積されていたことも,既に見ました。財政的に言えば,琉球出兵時辺りの江戸期初めの段階で何らかのデッサンを描いた方がおられるはずなのですけど……。
 会計的に言えば,これだけのマクロの収支を誰かかどこかの部署が勘や一子相伝で動かしていたとは考えにくい。帳簿が存在したはずです。

■資料転記:茶わんむしのうたで唄われるもの

 鹿児島の唄として愛唱される「茶わんむしのうた」という……何だかよく分からないけれど楽しい童うたは,現・霧島市立宮内小学校(→GM.)に由緒を持つらしい。
 霧島神宮参道付近というから山奥かと思ってたら,この日と前日にうろついたJR国分駅から西北西3kmほどの場所でした。
 何かの伝承ではなくて,大正代の創作のようです。作者も分かっています。

「茶わんむしのうた」は,今からおよそ100年前の大正10年(1921年)に宮内小学校に勤務されていた故・石黒ひで先生が,学校対抗の学芸 会で披露した劇「行きくれし旅の子」の劇中歌として作詞・作曲されました。戦後になって,鹿児島の民謡の発掘・収集・普及活動に努めた故・久保けんお先生が天保山中学校在職中に採譜されました。
 ≪「行きくれし旅の子」の内容≫
 劇は不幸な生い立ちの少女が主人公。境遇の似た旅の三姉妹と共に,吹雪の森から春の野山へ抜け出て希望を見出すストーリー。森を出た 先の峠で少女らは茶店に立ち寄る。そこで「茶わん蒸し」を注文したところ,料理名を知らなかった店の女性が「茶わん虫」と勘違いし,「あらよー,茶わんむしごわすか」と言って歌いだす。〔後掲「茶わんむしのうた」について〕

 そこで歌詞です。茶わん蒸しを「虫がついてる」と勘違いして騒ぎになる,というただそれだけの唄なんですけど──

歌詞
 うんだもこら いけなもんな
 あたいげんどん ちゃわんなんだ
 日に日に三度もあるもんせば
 きれいなもんごわんさー
 ちゃわんについた虫じゃろかい
 めごなどけあるく虫じゃろかい
 まこてげんねこっじゃ
 わっはっは

意味
 まったくそれは どんな物なのですか?
 私の家の茶碗は
 毎日,日に3回も洗っているため
 清潔なものです
 茶碗についた虫のことでしょうか
 洗い物かごなどをけちらして歩く虫のことでしょうか
 まったく恥ずかしいことです
 わっはっは
解説
ある茶店で客が「茶わん蒸し」を注文しましたが,主人・店員とも「茶わん蒸し」の料理を知りませんでした。
主人は,客に出したお茶に虫がいたと勘違い。店員を呼びつけ「お前は茶わんを洗ったのか?茶わんに虫がついているとお客さんが言っているぞ。」と言います。
店員は「日に日に三度も洗っているんです。いったいその虫は茶わんにひっついていた虫でしょうか。それとも洗い物かごなどをはね歩く虫でしょうか。茶わんについている虫なら私の責任ですが。」と息巻くのにお客さんが大笑いするという場面。

〔後掲「茶わんむしのうた」について〕

「茶わん虫」(宮内小学校案内板)

 要するに俺じゃねーよ!と言ってるんですけど──責められた店員が主人の前で萎むでもなく,いわゆるキレるでもなく,淡々として単純な理屈で,自分の範疇の虫かどうか問い直す。降って湧いた絶対的ピンチに,スットボケてる。このパーソナリティが薩摩隼人らしいから,愛唱されてきたのでしょう。

 うんだもそんた いけな虫な
 あたいがへん 茶わんなんだ
 日に日に三度も あれもんせば
 きれいなもんぐわんさ
 茶碗にでける 虫ぢゃろかい
 めごなんどへあるく 虫ぢゃろかい
 ほんにげんねこっぢゃー

 原曲は現在歌われているものとは多少違います。
 出だしの「うんだもそんた」は「うんどもこら」に,「あたいがへん」は「あたいげんどん」に,「茶碗にでける」が「茶わんについた」と変わっています。
 最後の「わっはっは」はなく,「ほんにげんねこっぢゃ」と歌い切り,怒った女性を(ママ)店主が出てきて勘違いを指摘して幕となる展開だったそうです。
〔後掲「茶わんむしのうた」について〕

 石黒原曲で店員さんは誤解が解けて一安心,というストーリーなのが,「わっはっは」との笑いで終る展開,つまり判決・結末が語られない流布版に自然転移したわけです。
 描写のスポットライトが,堂々と反論して切り抜ける店員さん,ではなくて,スットボケる店員の豪胆さそのものに転位しているからでしょう。
 このトーンが面白いので2・3番も採取してみると──これはもう「茶わん虫」は一切関係なくなり,「スットボケ」だけが共通項になってる。
 一種の連歌です。イメージだけの連鎖です。

化粧に付いた顔(宮内小学校案内板)

2番
 うんだもこら いけなもんな
 あたいげんどん嫁じょなんだ
 日に日に三度もちけんせぇば
 きれいなもんごわんさー
 顔についたけしょじゃろかい
 化粧についた顔じゃろかい
 まこてげんねこっじゃ
 わっはっは

意味
まったくそれは どんな物なのですか?
私の家のお嫁さんは
毎日3度も化粧しているから
綺麗なもんですよ
顔についた化粧なんだか
化粧についた顔なんだか
まったく恥ずかしいことです
わっはっは
〔後掲「茶わんむしのうた」について〕

 化粧に付いた顔女と,六膳お替り息子が唄われます。
 2番は「毎日3度」と「綺麗」(きれいなもんごわんさー),「付いた」などが,1番をなぞっていますから,一種の替歌として生まれた可能性が高い。
 対して3番には,「茶わん」が復活して来る以外は1番と全く関係ない内容が唄われます。ただし茶わんのメイン度は,1〜3番中最も高い。「茶わんむしのうた」という題名が流布してからの追加ではないでしょうか?

日に日に六度もお替り(宮内小学校案内板)

3番
 うんだもこら いけなもんな
 あたいげんどんむひこぉなんだ
 日に日にろっどもくろもんせぇば
 たまげたもんごわんさー
 あたいがちかたがすねたろかい
 あてごた茶わんがこめたろかい
 まこてげんねこっじゃ
 わっはっは

意味
まったくそれは どんな物なのですか?
私の家の息子は
毎日6度もおかわりするから
驚いてしまいます
私のよそい方が少ないのか
あてがった茶碗が小さいのか
まったく恥ずかしいことです
わっはっは

〔後掲「茶わんむしのうた」について〕

 いや?もう一つ,これは1〜3番に共通する「まこてげんねこっじゃ」──まったく恥ずかしいこと,という語です。
「げんね」に,大阪弁の「あほ」と同じ一種の微妙な被虐的な「おいしい」感があるのかと思って調べてみましたけれど,鹿児島弁のこれは純粋な羞恥のようです。

例文1:わっぜげんなか。
大変恥ずかしいです。
例文2:あいは、げんねかなぁ。
あれって恥ずかしいよね。
例文3:おいげぇん子がこげんんこっしてまこてげんねか。
自分の子がこんなことをして、本当に恥ずかしくて申し訳ないです。〔後掲旅GO〕


 茶わん蒸しを虫と間違える,厚化粧,大喰らい。なぜこれらが「まこてげんねこつ」(本当に恥ずかしいこと)なのでしょう?なぜ唄になるほどの愛すべきキャラクターを,讃えるでも滑稽がるでもなく「げんね」(恥ずかしい)と斬って捨てるのでしょう。
 この辺りの言語感覚がおそらく鹿児島弁独自なんではないかと想像するんですけど──分からない。