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南部を一巡り。 ハズレ多し。 牧志裏道。 闇深し。 |
支出1300/収入1200
▼13.0[364]
/負債 100
[前日累計]
利益 -/負債 314
九月二十三日(五祝)
1100そば処たから家
骨汁500
2200(糸満市・ミナミ㈱in軽便かりゆし)ゆし豆腐250
タルト屋
アップルカスタード250
[前日日計]
支出1300/収入1000
▼13.0[365]
/負債 300
[前日累計]
利益 -/負債 614
九月二十四日(六)
目録
ななち 七日目

ココンドミニオマキシはいわゆる桜坂社交街の真ん中。
場末の、とはいえ眠らない町です。
四時にふと窓外を見ると……まだまだ営業中でした。

◯940、秀のサンドを堪能してから出発。
旭橋(駅)から明治橋を渡り(ややこし!)、沖縄セルラースタジアムの向こうで山下交差点を左折。

おおっ!昔懐かしき軍桟橋バス停!
ここもなぜか対面のバス停は「軍桟橋前」。
野球場の駐輪場にバイクを停めて……車道を違法横断……するしかないな。

1002。
やっぱりホントにありました。
乱積みの石垣から水が噴いてます。その横に小さな社。神体,供物なし。
「落平(ウティンダ)」と看板。
屋良座森城の築造は,4世真孟が儀間地頭となった翌年の嘉靖30年から始まった。(略)同32年屋良座森城は完成し,翌年の「やらさもりくすくの碑」では「やらさもりくすくのかくこ,又ねたてひかわのミつのかくこハ,三人おろくの大やくもい,きまの大やくもい,かなくすくの大やくもい,いつきやめむちよくかたくかくこすへし」と,屋良座森城と音立て樋川(落平)の格護を命じている(県文化財調査報告書69)。落平などの湧水は,この頃からすでに船舶用の給水源として重要な存在であった。〔(再掲)後掲角川地名大事典「儀間村(近世)」〕※マーカーは引用者。嘉靖33年=1564年
落平(ウティンダ)
この地にあった樋川(ヒージャー)跡。樋川とは,丘陵の岩間から流れ落ちる湧水を,樋を設けて取水する井泉のこと。
落平は,那覇港湾内の奥武山に向かい合う垣花村(かきはなむら)にあり,崖の中腹からの湧水は,小滝のように崖下の漫湖の水面に注いでいた。また,落平とその背後の丘陵の松林は,漢詩や琉歌で詠まれるなど那覇の名勝で,楊文鳳(嘉味田親雲上光祥(かみだペーチンこうしょう))は,「落平瀑布」(うてぃんだばくふ)と題する漢詩を読んでいる。
那覇港に出入りする船は,朝から夕方まで落平に集まり,取水のため,先を争って口論が絶えなかったという。中国からの冊封使一行の来琉を控え,落平を調べると,樋が壊れ,水量が減っていたため,1807年に落平の樋を修理し,さらに60間(約108m)程東に,新しい樋を設け,新旧2本の樋で給水に供したという(「落平樋碑記」)。
浮島と呼ばれた那覇は,周りを海に囲まれているため,井戸水は塩分が多く,飲料には適さなかったという。1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後,県庁所在地として人口が増加した那覇では,水問題が一層深刻となっていた。そのため,大きな水桶2〜3個に注いだ落平の水を,伝馬船で那覇に運び,それを,女性がてんびん棒にかついで売り歩く水商売が繁盛したという。名時期以来,水道敷設計画は何度も持ち上がっていたが,1933年(昭和8)に至って念願の水道が敷かれ,水道普及により,水商売も姿を消していった。 時代不詳。大桶で「水商売」をした明治・大正期のものと推測されます。〔案内板掲示画像〕
終戦後,米軍の軍港整備にともない,那覇港南岸の垣花が敷き直されたが,そこから出た土砂や,那覇港浚渫の土砂を用いて,1957年(昭和32)頃,落平と奥武山の間約4,000坪が埋め立てられ,陸続きとなった。水が湧き出る落平の岩肌は残されたものの,一帯は宅地化が進んだため,落平の水量も減少した。現在では,岩肌からしみ出る程度となっており,1807年に新たに造られた樋川は,拝所となっている。〔案内板〕

拝所がどちらなのかよく分からないけれど……先の小社のことでしょうか。
南側にも石積みは残ってます。両者の距離は40mほどしかありません。この距離で併設したのは、よほど客が多かったことを意味します。

ふう。この気温で全文転写しとると──時間以上に茹だってしまいました。
落平レプリカ
それでという訳ではないけど忘れてしまっていたのが、落平現物の南東にある沖縄県住宅供給公社(住宅課入去・退去係→GM.)前のレプリカです。これを見ると、道後温泉とかの古い石造の湯口のような構造だったようです※。

あと、なぜ住宅供給公社にこれを設置してるのかは謎。
レプリカの形態は近代のものと考えられますけど、早くとも那覇に水道が設置される昭和8(1933)年頃まではここの水が航海者のみならず那覇市民の喉を潤していたとすると、落平からは水を那覇各所に運ぶ伝馬船が糸を引くように往復していたと想像されます。
なお、先述の1807年の落平樋の修理は落平樋碑記に記されますが、樋の存在そのものは冊封使にも記録されてます(徐葆光「中山伝信録」巻四:「楽平泉」、周煌「琉球国志略」:「供諸村茗飲」)〔日本歴史地名大系 「落平」←コトバンク/落平(読み)うていんだ〕。
通りすがりのたから家の骨
開店時間だけは逃さず、通りすがりました。今日も骨です。

1100 そば処たから家
骨汁500
ブタコレラ事件中だった前回以来、やや味は変わってきたように思う。いや「落ちた」と不遜な事を感じるのではなく、コンソメ手法とのタイアップの仕方が、少し洋風に傾いたような気がする。微妙なとこなんでワシ側の舌の変化かもしれないし、古いタイプの「まつもと食堂」の後だからかもしれないけれど──骨の「オールドウェーブ」がどういうものか、ようやく理解できてきた感じがあります。
とはいえサブカルチャーは所詮固まることはない。常に転がっていきます。
それも含めてたから家の「ポップ」骨汁スープは……やはり素晴らしいのです。

1208、瀬長のアカサチ森(→GM.)は、豊見城道路が怖いので左折。

1213、ドレミ保育園先、ビータモーター前、名嘉地(北)三叉路を右折……いやここは直進しよう。えらく混んでる。さっさと抜けとこう。

1218、字名嘉地のシーサー。昨日の喜友名の後遺症で、つい停まってしまいました。
(略)このシーサーの建造年はわかっていないが、クィンジャームイ、ギラギ付近、現在地と集落の場所が移り変わる中、明治期には集落北端にあるシーシヌメーと呼ばれる広場にすでにシーサーがあったと具体的な伝承が残されている。シーシヌメーは、現在の集落北端であり、クィンジャームイの南端でもある。
その後にシーサーが現在地に移った経緯としては、明治期になって集落西側に幹線道路(現県道231号線)が通る事になったことに合わせて、字の常会においてシーサーの移設を決定し、現在に至ったと伝えられている。(略)〔案内板〕 字名嘉地シーサーの移動沿革図〔同案内板掲示〕
色々と忙しく動いた獅子らしい。ちゃんと字会で議決するんですね。
座りタイプ。目と鼻の穴が異様に大きい。台座あり。下部に雑草。
対面にも小さい石垣があります。

豊見城市も、「うちの地域にシーザー多くね?」と自認し始めた地域らしい。2021年に地元青年会が編んだ冊子(幼保小中学校配布用絵本)には、11か所12体のシーサーが掲載されてます。
〔後掲新田2021〕-181x300.jpg)
〔後掲新田2021〕-253x300.jpg)
この冊子のあとがき内で代表・新田さんは、「私の知らなかった、そして、多くの人が見ていても気づかない、知らないであろう」シーサーを指して「ムラシーサー」という語を用いています。この語は東村HP(慶佐次)などでも用いられ、誰が発明者ということはないでしょうけど──多分「ムラシーサー」はローカルフードのように現在「発見」されつつある文化財です。「魔除け」と言われるだけでビッグデータにした時、統計的に何が言えるのか分かりませんけど、漬物石にされる前に、出来るだけ多くが発見されるようを祈ります。
だって考えてみて頂きたい。いかに琉球石灰岩とは言え──ニッポン内地で、あんなになるまで拝み継いでいる狛犬がどこにあるでしょうか?
1232、タカラ住建向かいの十字を左折。
1235、豊見城市役所前の豊見城交差点を右折。ここまでは自転車で走ったな。
R7にのる。
この辺りは……見かけ以上にかなりボコボコに丘と谷が乱立します。大坂の谷町筋みたいです。

1248、糸満市に入る。走ってないと暑すぎる!
1258。スゴくラッキーな、道路表示。

1305、右手に水辺。「うびー川」という変な表示があります。
あれ?とするとここが嘉手志川(カデシガー、恵泉の龍→GM.)?

!ということはこの対面が南山城!通り過ぎかけました……。
つまり、その位にこの「丘」は、さりげなかったのです。

1311。南沙城跡前バス停側からは入れない。ただ──ここの石垣は切込積の精緻なもの。
換言すれば、様式的には新しいものに見えます。

──スマホに「本体温度の上昇のため……」エラー。スマホを再起動。
不思議です。他の面、特に正面が切込積。正面の鳥居といい……少なくとも近代に、日本の文化素地を持つ者が改変してます。つまり、その時代から既に文化財でも不可侵の拝所でもなかったことになります。



解し難い。
社もコンクリート製でさほどの供物もありません。周囲に祠も見当たりません※。ただ、ガジュマルは古いのです。
※※より公式には糸満市文化財保護委員会による南山城跡調査報告書参照 PDF URL:https://okimu.jp/sp/userfiles/files/page/museum/issue/bulletin/kiyou4/4-7.pdf
(略)1984年,発掘調査が市教育委員会によって行われ,中国製陶磁器やグスク系土器の他,備前焼きスリ鉢,鉄鏃,ガラス製勾玉などが出土しています。これらの遺物から南山城は13世紀に築かれ,14〜15世紀前半が特に栄えていたことが分かりました。
南山の東方には水量豊かな「カデシガー」,北方には源為朝と王の妹の逢引場所だと伝わる「和解森」(わだきなー)があります。〔案内板〕
つまり、考古学の出土及び民俗上も、かなり量感のある場所のはずなのです。少なくとも何か重要な場所だった雰囲気は残る。
なのに何とも解し難い。
日照下、知念へ
1338、新垣交差点を左折。
R250。沖縄県道、糸満から東南東、仲座で国道507に交わる道です。

ダイドー・シークァーサーソーダ500mlを一気飲み。
自販機横のゴミ箱の上に風除けのサンゴ石。見ればどこもかしこもサンゴ石。

南の丘へ鶴が飛ぶ。
その視界の先で、飛行機が旋回して降りてきてる。
1354、パトカーに煽られて道を空ける。

1356、仲座変則交差点。R250からR17。
さて、二食目の山羊は食えるか??

■レポ:ぐだぐだな南山城の論点
南山城を実見したかった理由は、この実感を得たかったから、というのにほとんど尽きます。南山城は、直感的に首里城・今帰仁城と並ぶような権力中枢だったと感じられません。後掲Nishieさんは、①規模と②立地の2観点で、南山城が南山の都ではないと主張しています。
私が訪れての感想としては、島尻大里城が南山王の居城だった可能性はかなり低いのではないかと思われます。
第一に、琉球を三分した王国の居城としてはあまりに貧弱すぎます。たとえ今に残る遺構が全体のごく一部だったとしても、石垣は低く曲輪は狭く、王宮すら満足に建てられるような規模ではありません。今帰仁城や島添大里城はおろか、南山王国に包摂ないし隣接していたとみられる有力勢力糸数按司の糸数城に比べてもかなり貧相です。
そして第二に、地形上ある程度目立つ場所を選ぶという琉球の築城セオリーにまったく当てはまっていません。島尻大里城は脇に沢が流れる扇状地の縁にあり、川に面していない三方から見れば、斜面続きの高台という程度の印象です。防衛上はもちろん権威付けという面からも、王の城とするには大いに疑問です。〔後掲Nishie/南山城跡〕
というよりも、そもそもここの「南山グスク」という三山の雄の都という呼称そのものが、下記のように後付け又は「一呼称」でしかありません。結論を先取りすると、Nishieさんは南山が早い時期に「半従属」だったと見ていますけど、本稿では「半琉球・半朝鮮」の一種の自由都市群があったのではないか、と仮想してみます。

1 具体的に誰が南山王か?
南山グスクは南山王の居城と云われ、「高嶺グスク」「高嶺大里グスク」「島尻大里グスク」とも呼ばれています。
南山グスクの衛星グスクとして大城グスク、国吉グスク、与座グスク、真栄里グスクが配されています。
沖縄の歴史書である「中山世譜」には南山は南山王大里―承察度―汪応祖―他魯毎の四代続いたと書かれていますが、
明実録では承察度、汪応祖、他魯毎の三名が南山王として書かれています。
歴史家の和田氏の説では汪応祖、他魯毎は尚巴志の一族ではないかと説いています。
汪応祖は実は尚巴志であり、他魯毎は巴志の長子ではないかと説いています。
歴史家によってはでは巴志の長子は幼くして亡くなったとありますが実は南山を治めていたと説いています(和田久徳)。
南山グスクを築いたのは大里中都金天孫氏と云われ、承察度王の時代よりもはるかに古い時代でその頃は大里グスクと呼ばれていたようです。
大里中都金天孫氏の子、大里按司の時代に源氏の勇将源為朝が琉球に漂着、今帰仁の運天港から上陸、住民を平定しながら南下し島尻大里に入ったと云われ和解森の伝説が残ります。
和解森で大里按司の妹と源為朝は夫婦の契りを交わし尊敦(瞬天)の他に三女をもうけ長女は首里の大神、次女が那覇大阿護母志良礼、三女が泊大阿護母志良礼になったと云われています。
英祖王統四代玉城王の時代の大里グスク(南山)は大成王(英祖王の子)の次男が治め独立の気配が強くなっていき、そして次の承察度の時代に独立を宣言したと云われています。 古い記録では承察度の前にすでに南山王は存在したとなっていますが、その名の記録がなく単に南山王と伝わりその子の承察度が名前の残る南山王として記録されています。〔後掲Nishie/南山城跡〕
誰が実際に存在したのか、全く実感がありません。北山三王に比べてもより薄い。それどころか学説としては、これらの王の名は北山と同じく地名なのではないか、とも言われています。
南山の初代王は承察度、北山の初代王は怕尼芝とされていますが、両者とも記録上の治世期間が数世代分に及んでいることから、どちらも個人名ではなく、承察度は「うふさと(大里)」、怕尼芝は「はにじ(羽地)」の当て字と考えられています。(略)李氏朝鮮の記録『李朝実録』には、1394年に中山王察度の使者が「山南王子承察度」の送還を求め、1398年に「山南王温沙道」が中山王に追われ亡命してきた旨が記述されているそうです。この「温沙道」についても「うふさと」の当て字とみられ、大里按司の系統が王位を簒奪されたことの傍証と考えられています。〔後掲梅鉢〕
北山の攀安知(はんあんち)と同じく、滅んだ時の王・他魯毎(たるみい)しか実在性はないように感じられるのです。これは中山側の史料製作者の立場に立てば意図は明らかで、要するに首里王権による三山統一ストーリーの必要上は、南山は統一戦争で滅んだことが明確ならそれでよいわけです。その際の王名は、実態はどうあれ、きちんと記述されたのでしょう。逆に言えば、それ以外の南山史は、特に記述される必要のないマターでした。
ところが、中山の史料製作者がこれだけ関心の薄い南山について、朝鮮に関する妙な記録が、傍流筋からのみ出てきます。
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2 朝鮮系の色彩?
承察度王については不明な点が多いのですが朝鮮王朝実録には朝鮮へ逃亡した承察度王を還すよう中山察度王から朝鮮王に対し請願しています。
承察度王を朝鮮へ亡命させるに至ったのは誰なのか様々な説があります。
叔父である汪英紫と南山の覇権を争いついには朝鮮へ亡命したとか、中山察度王に追われ朝鮮へ亡命した等の説があります。
また朝鮮王朝実録には亡命した承察度王を還すよう請願した4年後に山南王温沙道が家臣を率いて亡命してきたと記録されています。
そのことから承察度王をを朝鮮へ亡命させた者はこの温沙道ではないかと説く研究者もいます。(上里グスクの項を参照)
〔後掲Nishie/南山城跡〕
朝鮮の実録史である李朝実録には南山王(子)承察度の送還と温沙道なる人物が朝鮮へ亡命したことが記載されています。
沖縄学の先駆者である伊波普猷氏によるとこの温沙道なる人物はこの上里グスクの城主ではないかと説いています。
近隣にある4つのグスク(当間・束辺名・佐慶・山城)がすべてこの上里(ヰーザト)グスクの出城、支城であるとすれば大きな勢力を有していたと推測でき伊波氏の説も納得できます。
伊波氏の説によると温沙道は南山承察度を抑え南山国に君臨したがわずか2,3年で 中山武寧王に攻められ上里グスクに逃げ込んだ。
その4年後に中山と南山の連合軍に攻められ家臣15名を率いて朝鮮へ亡命したと説いています。
〔後掲Nishie/上里城跡〕
自国の亡命者の返還を要求する場合、通常はその亡命者は、要求者の統制下にある者、又はその敵対者でしょう。いずれにせよ、この時朝鮮は、「貴国朝鮮は、新琉球王として中山を認めるのか、認めないのか」と問われていたはずです。これに対し、朝鮮史料は返還を認めていません。つまり、新琉球王・中山王ではなく、南山亡命者に与しています。
明清帝国の成立後、朝鮮と琉球はその交易国として、互いに平和に交流した方が利が大きい。それでも南山亡命者側に立った理由として考えられるのは、南山亡命者が朝鮮系だった可能性が高いと思います。
琉球正史上、朝鮮はあまり語られません。多分、史料製作者が、琉球の政治・経済上の独立性を強調したかったからでしょう。下記は、やはり出典は朝鮮側史料のようなのですが、第一尚氏初代の尚巴志が親朝鮮であったことを示す内容です。
15世紀に李朝朝鮮と日本の外交に活躍した李芸(りげい)という人物がいる。李芸は、倭寇に捕らわれて売られた朝鮮人を連れ戻すため、尚巴志が北山を滅ぼした1416年に琉球にもきており、44人を連れ帰った。尚巴志がこれに協力したと考えられている。尚巴志はこのように人情に厚く、当時の国際政治をよく理解し、多忙な中でも何を行うべきかを決断できた人物であった。〔後掲南城市〕

琉球王国の国際性を示すものとして名高い「万国津梁」銘は、前後の漢文の一節を挙げると次のものになります。
琉球国者南海勝地,而鍾三韓之秀。以大明為輔車,以日域為脣歯在,此二中間湧出之蓬莱嶋也,以舟楫為万国之津梁,異産至宝充満十方刹。
琉球国は南海の勝地にして,三韓の秀を鍾(あつ)む。大明を以て輔車となし,日域を以て脣歯となす。此の二者の中間に在りて湧出する所の蓬莱島なり(以下略)〔後掲佐藤/1枚目p333 万国津梁の鐘 銘文〕
つまり、「万国之津梁」たる要因の一つとして「三韓の才能を集約した土地」であることが挙げられています。この「三韓」とは、中世の新羅・百済・任那以外に考えられず、多分、中国に発した文明がまず朝鮮に吸収され、二次的にそれを引き継いだのが琉球である、ということを「誇った」内容です。こう書くと朝鮮半島の反日主義者は喜ぶのでしょうけど、それは本稿ではどちらでもよく、要するに朝鮮と琉球が、当時日本の政治勢力が感じていた以上に親密な、つまり互いに顔を伺うような「兄弟国」だったことを示します。

もう一例。世祖が日本や対馬に送った仏典はよく知られています。ただし、後掲佐藤さんがカウントしたところ、その数も回数も、琉球が圧倒的に多い。
うち日本 22点
対馬 12点
琉球 90点
というか、1462(天順6)年以降は琉球にしか送っていない。具体的には、第一尚氏6代王・尚泰久(在位1454-1460)と同7代・尚徳(在位1461-1469)に送ったのです。
〔後掲佐藤/8枚目p340〕-300x82.jpg)
翻って考えると、海賊対策を考えても、琉球と朝鮮は相互に交流関係を強く有すべき朝貢国同士であり、その関係は多分最初に対明交易を開始していた南山都市国家群がより強く有していたのではないでしょうか?

3 中山臣従ならあり得ない出土品
後掲Nishieさんの「南山は既に下っていた」説は、概ね次の2点を根拠にしています。
佐敷按司尚巴志は、1402年ごろに島添大里城を奪い、1406年に浦添城を攻略して中山王を簒奪しました。この間の経緯については、にわか集めの私の知識では確たる推論はまとめきれません。ただ、ひとつだけ確実にいえるのは、この中山王国の下克上劇に際して、南山王国がなんらのアクションも起こしていないようにみえることです。もし定説のように三山が鼎立していたのなら、どちらも至近距離にいる佐敷按司と中山王の争いに南山王が無関心でいられるとは思えません。
もう1つ、南山王と尚氏との関係で気になるのが、1416年の尚巴志による北山遠征です。この戦いで北山王国は滅びたわけなので、それ相応の大掛かりな出征であったと推察されます。首里城から北山王国の都今帰仁までは、少なくとも3日はかかる道程です。それに対し、島尻大里城から首里までは半日弱、国境の国場川からなら1時間程度で歩けてしまうほどの距離です。もし三山が鼎立して覇を競っているような状況であったとすれば、南山を放っておいて先に北山を討つなどというのはとても現実的には思えません。
この2点からも、尚氏と南山王国は従属関係にあったか、最低でも同盟を結んでいたと考えられるのです。(略)1429年あるいはそれ以降に何があったのかは分かりませんが、個人的には尚巴志が南山王国を攻め滅ぼしたというより、単に南山王を「廃した」というような流れだったのではないかと推察しています。〔後掲Nishie/南山城跡〕
しかしです。明実録にある南山の朝貢記事は確かに記されていますし、考古学的出土も「それなりに」あります。
考古資料:南山グスクは小学校建設の際をはじめ何度か発掘調査がおこなわれています。
南山グスク保存状況を確認する目的で2010年にも調査が実施されています。
出土品として、土器(グスク系:深鉢・壺形・鍋型)、青磁(碗・皿・盤)、白磁(碗・小碗)
褐釉陶器、青花皿、黒釉陶器(壺・天目茶碗)、本土産陶器、中国産染付等が出土しています。
また銭貨で1066年初鋳造の煕寧元寶や初鋳造1636年の寛永通寶が多数出土しています。〔後掲Nishie/南山城跡〕
考古資料:グスク入り口横の畑地からグスク系土器や輸入陶磁器が採集されています。
青磁、国産陶器、貝錘、雷文碗も採集されています。
〔後掲Nishie/上里城跡〕
だから、南山は中山にとって敵対勢力ではなく、いつでも潰せる自由都市群だった、という程度に想定するのが一番近い気がするのです。いわば、信長にとっての津島、秀吉にとっての博多・長崎のようなものだったろう、という想像が本稿の立場です。
大里南山城は、その自由都市群の砦の一つだったのではないでしょうか?──ただ、南山を巡る定説のなさから、後世何となく南山の都を仮定されることが多かった、というだけの。

断章)「南山拝」の存続
本来なら、もう1点、南中部沖縄人の精神風土上の「南山拝み」の存在に触れなければならない、と感じています。琉球神道にはっきりと影を落としている「北山拝み」「北山上り」の存続は、精神風土上の北山の存在の確固たることを示しています。本章「南山神社」の信仰対象物のほか、ちょうどこの翌日に訪れる金満御嶽の「南山拝所」(→FASE90-2@deflag.utinaR409withCoV-2_BA5#沢岻・金満御嶽)など、北山と同じように、「南山拝み」も無視出来ない規模で存続しているのはワシ自身複数個所で実見できるのです。その際の崇拝対象の中に、南山城に位置する南山神社も含まれます※。
「南山」エリア、うちなんちゅの言う「南部」(なんぶ)の中心が、中世に全く中山から独立した段階がなかったのであれば、そういう文化・宗教風土は残存しないと想像します。換言すれば、いずこかの時空には「南山王国」は存在したような手応えを感じるのです。
大里按司は単なる世俗的な支配者にとどまらず、地域の祭祀を司る神聖な存在でもあった。彼らが信仰したとされる御嶽(うたき)や拝所は、現在の南山地域の人々によって大切に守られており、旧暦の行事の際には多くの参拝者が訪れる。これは、大里按司が築いた政治体制が崩壊した後も、地域共同体の精神的支柱としてその影響力が残り続けたことを示している。〔後掲Hitopedia/地域社会における信仰〕

具体的に実働する民俗としては、例えば、糸満ハーレーでの旗振りがあります。最初に行われるウガン(御願)バーレーが最も宗教性が強いけれど、その出発の合図としてデーフィ(旗振り)を司るのは、南山王からその役目と屋号を授かったと伝えられる「徳屋」子孫に限定されてます〔後掲南出、2枚目p125〕。
(ハーレーのルーツはほぼ糸満に限られるようです。他の類似行事のうち、那覇ハーリーのみ、競技前の神事が那覇市内ではなく豊見城城下で行われたとされていますが、その実施年や詳細は既に不明になっています。なお、ハーリー起源譚は、「俗諺によれば那覇の長浜大夫が南京で見たのをまねたこと、南山王の弟の汪応祖が南京で見たのを、帰国後に豊見城を築いて城下の漫湖で行ったことなどの諸説」があり〔後掲南出〕、南山の一勢力中心で汪応祖の築城とされる豊見城に由来するとする傾向が強い。)

従って、南山拝みの実態は非常に朧です。ワシの観察不足かもしれないけれど、今のところこの論点は断章とさせて頂かざるを得ません。

作業仮説)汪応祖=尚巴志 説(和田久徳説)
上記事実--南山「王国」は半独立の自治都市国家群で、独立して明交易をしたけれど1429年に中山に統合された--に照らして、第一尚氏初代・尚巴志の立ち位置として、最も整合性のある形を仮定してみると、下記和田説にかなり近くなります。
(2)他魯毎
『明実録』永楽十三年三月丁巳の条の山南王汪応祖の世子他魯毎の遣使請封の記事中に、汪応祖が兄の達勃期に殺され、各寨官が達勃期を誅して他魯毎を推挙したことが記されている。『明実録』には、同年五月の他魯毎に対する山南王冊封の記事の他、永楽十四年、十五年、二十二年、宣徳二年、四年に山南王他魯毎の入貢の記事があるが、それ以後山南王の名は見られない。
『世譜』は他魯毎を汪応祖の長子とし、即位の事情について記すところは『明実録』に同じで、宣徳四年(一四二九)中山王尚巴志によって滅ぼされた、とする。
一方、『蔡鐸本中山世譜』その他によって、汪応祖は尚巴志のことであり、他魯毎はその長子であるとする和田久徳「琉球国の三山統一についての新考察」(『お茶の水女子大学人文科学紀要』二八、昭和五〇年)があり、同論文は中山の外交文書集である『歴代宝案』に山南の文書が含まれる事情についても論じている。〔後掲沖縄県教委〕
尚巴志=小按司※説がある一方で、汪応祖=大按司※※説も出ています。このどちらもを仮に信じてみると、尚巴志と汪応祖はともに南山交易都市群の一「市長」のような存在だったと仮定できます。両者が同一者であってもなくても、南山が明交易していた時代の彼らはそのような「どんぐり」だったということです。
※※漢文学者石井望は、福建漢字音で汪英紫氏が「おんあんじすい」(大按司添)、汪応祖が「おんあんず」(大按司)、英祖が「あんず」(按司)であるとして、古琉球の諸王について新解釈を試みている[1][2][3]。:石井望「小チャイナと大世界」『八重山日報』2022年2月27日及び2022年3月6日。〔wiki/汪応祖〕
尚巴志は最初は汪応祖に比べて「小」王であったところから勢力を伸長し、経済力で重きを成し、実力で主権者にのし上がった後、1429年に正規の王となる。この経緯は、尾張統一までの織田信長の半生をイメージすると分かりやすいでしょう。信長は、尾張から敵対勢力を一応駆逐した後、完全制圧するより前に、隣国美濃に出て新首都・岐阜を拠点とします。林や佐久間といった旧勢力は、ずっと後になって思いついたように駆逐したのです。この例えで比定するなら、(尚巴志以前の)中山が岐阜城・斎藤氏、北山が京都・足利公方、さらに南山は適当に用いた挙句に突然の無理難題の折檻で追放した林秀貞・佐久間信盛といったところです。

暴走ついでに。これと本章で以前に記した「北山征服」(→FASE85-5@deflag.utinaR409withCoV-2_BA5#\ 【作業仮説】今帰仁へ上るJ-2/1422年)北山王国ぐだぐだ滅亡)と合わせると、尚巴志のやったことは、南山都市群の雄となった後は北山統合の経済謀略戦だけだったのではないでしょうか?でも、それでは明朝洪武・永楽帝らのスーパーカリスマ権力に対し「我が王国も明同様の実力での国家統一者である」と到底言いにくいので、沖縄の文人を総動員して創作したのが三山統一戦争時代の物語だったと想像するのです。
〉〉〉〉〉参考資料
(うるく)うるくローカルプレス編集部 2024年5月2日 戦前までは、漫湖に浮かぶ小島の一つだった『ガーナー森(ムイ)』|那覇市鏡原町
URL=https://uruku.daikyo-k.net/gaanamui/
(おかも)岡本弘道 1999「明朝における朝貢國琉球の位置附けとその變化 一四・一五世紀を中心に」東洋史研究
※京都大学研究情報レポジトリ Kyoto University Research Information Repository URL:https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/155232
(おきなわけんき)沖縄県教育委員会 琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ 琉球王国交流史/資料詳細/歴代宝案訳注本 1-43-01 山南王他魯毎の、洪煕帝の即位を慶賀する表(一四二五、一二、一七・洪煕元年)
URL=https://ryuoki-archive.jp/ryu-detail/?kid=2614
(おきなわて)沖縄てくてく歩記・88歳の雑録帳/南山神社(なんざんじんじゃ) ・歴代南山王の霊が祀られている。
URL:https://okinawanouganju.seesaa.net/article/201610article_4.html
(さとう)佐藤厚 2016「15世紀、朝鮮が琉球に送った仏典-世祖の刊経事業との関連-」『専修人文論集』98号, p. 333-363
※専修大学学術機関リポジトリ URL=https://senshu-u.repo.nii.ac.jp/records/2102
(しゆう)周煌(清)「琉球國志略」維基文字版:開放共同編輯的資料 『中国哲学書電子化計画』
URL=https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=707072
(じよほ)徐葆光(清)「中山伝信録」維基文字版:開放共同編輯的資料 『中国哲学書電子化計画』
URL=https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=378406
(ちぢい)千々岩健児 1954「研究速報 : 鋳物の湯口と湯流れについて」『生産研究』6巻3号, p.72-72, 発行日 1954-03-01(著者所属 東京大学生産技術研究所 鋳造)
※東京大学学術機関リポジトリ URL=https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/24238
(なんじ)南城市「第3章 尚巴志とは誰か?の整理」「3-1.尚巴志の人物像・功績の整理」3枚目p35
PDF URL=https://www.city.nanjo.okinawa.jp/userfiles/files/kanko_bunka/375/03.pdf
(にしえ)Nishie.M
/上里城 URL=https://legendofgusuku.web.fc2.com/itomann2/uezato/uezato.html
/南山城跡 URL=https://legendofgusuku.web.fc2.com/itomann1/nannzann/nannzannjyousi.html
(につた)新田宗市(代表:地元の歴史・文化広め隊(豊見城市商工会青年部有志の会))2021「シーサー由来記 豊見城シーサー探訪記」いろは総合印刷
※豊見城市HP 組織から探す 教育部 文化課 業務案内 歴史・文化財 豊見城市の民話 URL=https://www.city.tomigusuku.lg.jp/soshiki/8/1035/gyomuannai/3/383.html
/シーサー由来記 豊見城シーサー探訪記(2021年作成)
PDF URL=
(はいほ)ハイホーの沖縄散歩=那覇地区= 落平(うてぃんだ:那覇市)2015
URL=http://sanpo.ifdef.jp/naha/uthinda.html
(ひとぺ)Hitopedia/大里按司|南山王国の礎を築いた伝説の按司
URL=https://hitopedia.net/%e5%a4%a7%e9%87%8c%e6%8c%89%e5%8f%b8/
(まつぷ)まっぷる/カルチャー>東海>織田信長の戦略地図② 上洛戦~金ヶ崎撤退戦 URL=https://articles.mapple.net/bk/894/?pg=2
(みなみ)南出眞助 2003「沖縄爬龍船競漕(ハーリー)の祭事空間」『アジア観光学年報』4巻p124-128
※追手門学院大学機関レポジトリ URL=https://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000145OTEMON_204030407
(みなみ)南の島旅/糸満ハーレー 2017
URL:https://www.okinawan-lyrics.com/2017/05/dragon-boat-races-at-itoman.html
(めいじ)明治大学/生田情報メディアサービス おもろさうし原文 URL=https://www.isc.meiji.ac.jp/~meikodai/datebasa/omorosaushi.txt




〔後掲うるくローカルプレス〕-300x199.jpg)


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