FASE89-1@deflag.utinaR409withCoV-2_BA5#やんばるコーヒー九月が泡立つ\落平瀑布

原句∶イエメンコーヒー七月が崩れゆく 松山東

[前日日計]
支出1300/収入1200
    ▼13.0[364]
    /負債 100
[前日累計]
利益 -/負債 314
九月二十三日(五祝)
1100そば処たから家
骨汁500
2200(糸満市・ミナミ㈱in軽便かりゆし)ゆし豆腐250
タルト屋
アップルカスタード250
[前日日計]
支出1300/収入1000
    ▼13.0[365]
    /負債 300
[前日累計]
利益 -/負債 614
九月二十四日(六)
▼▲

0416コンドミオの窓外の桜坂社交街のお店

コンドミニオマキシは桜坂の真ん中。四時にふと窓外を見るとまだまだ営業中です。
「秀のパン工房 窯」のサンドイッチは今回も素晴らしい!

0940出発。旭橋から明治橋を渡り(ややこし!)沖縄セルラースタジアムの向こうを山下交差点を左折。
「軍桟橋」バス停。まだゆいレールのない初・沖縄の頃,最も記憶に残ったバス停名

おおっ昔懐かしき軍桟橋バス停。ここもなぜか対面のバス停は「軍桟橋前」
野球場の駐輪場にバイクを停めて車道を違法横断。
岩壁から噴く水と小社

1002
乱積みの石垣から水が噴いてます。その横に小さな社。神体,供物なし。
落平(ウティンダ)看板。

落平(ウティンダ)
この地にあった樋川(ヒージャー)跡。樋川とは,丘陵の岩間から流れ落ちる湧水を,樋を設けて取水する井泉のこと。
 落平は,那覇港湾内の奥武山に向かい合う垣花村(かきはなむら)にあり,崖の中腹からの湧水は,小滝のように崖下の漫湖の水面に注いでいた。また,落平とその背後の丘陵の松林は,漢詩や琉歌で詠まれるなど那覇の名勝で,楊文鳳(嘉味田親雲上光祥(かみだペーチンこうしょう))は,「落平瀑布」(うてぃんだばくふ)と題する漢詩を読んでいる。
 那覇港に出入りする船は,朝から夕方まで落平に集まり,取水のため,先を争って口論が絶えなかったという。中国からの冊封使一行の来琉を控え,落平を調べると,樋が壊れ,水量が減っていたため,1807年に落平の樋を修理し,さらに60間(約108m)程東に,新しい樋を設け,新旧2本の樋で給水に供したという(「落平樋碑記」)。

時代不詳。大桶で「水商売」をした明治・大正期のものと推測されます。〔案内板掲示画像〕
 浮島と呼ばれた那覇は,周りを海に囲まれているため,井戸水は塩分が多く,飲料には適さなかったという。1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)後,県庁所在地として人口が増加した那覇では,水問題が一層深刻となっていた。そのため,大きな水桶2〜3個に注いだ落平の水を,伝馬船で那覇に運び,それを,女性がてんびん棒にかついで売り歩く水商売が繁盛したという。名時期以来,水道敷設計画は何度も持ち上がっていたが,1933年(昭和8)に至って念願の水道が敷かれ,水道普及により,水商売も姿を消していった。
 終戦後,米軍の軍港整備にともない,那覇港南岸の垣花が敷き直されたが,そこから出た土砂や,那覇港浚渫の土砂を用いて,1957年(昭和32)頃,落平と奥武山の間約4,000坪が埋め立てられ,陸続きとなった。水が湧き出る落平の岩肌は残されたものの,一帯は宅地化が進んだため,落平の水量も減少した。現在では,岩肌からしみ出る程度となっており,1807年に新たに造られた樋川は,拝所となっている。〔案内板〕

岩下の祠らしきもの

拝所がどちらなのかよく分からないけれど,先の小社のあことでしょうか。南側にも石積みは残ってます。両者の距離は40mほどで百mには満たない。
現在水が出ている二箇所以外にも小社らしいものが藪中に見える。

この気温で全文転写しとると時間以上に茹だってしまった。
たから家の骨!

1100そば処たから家
骨汁500
 ブタコレラ事件中だった前回以来,やや味は変わってきたように思う。「落ちた」と不遜な事を感じるのではなく,コンソメ手法とのタイアップの仕方が,少し洋風に傾いたような気がする。ワシ側の舌の変化かもしれないけれど──古いタイプの「まつもと食堂」の後だからか,骨のオールドウェーブがどういうものかようやく理解できてきた感じがあります。
 サブカルチャーは所詮固まることはない。常に転がっていきます。
 それも含めてこのスープは,やはり素晴らしいのです。
同スープどアップ

1208瀬長のアカサチ森を左折。
名嘉地(北)三叉路。ブレてしまった上部看板には「求む軍建物」とある。

1213ドレミ保育園先,ビータモーター前,名嘉地(北)三叉路を右折……いやここは直進。えらく混んでる。
字名嘉地のシーサー

1218字名嘉地のシーサー

(略)このシーサーの建造年はわかっていないが,クィンジャームイ,ギラギ付近,現在地と集落の場所が移り変わる中,明治期には集落北端にあるシーシヌメーと呼ばれる広場にすでにシーサーがあったと具体的な伝承が残されている。シーシヌメーは,現在の集落北端であり,クィンジャームイの南端でもある。

字名嘉地シーサーの移動沿革図〔同案内板掲示〕
その後にシーサーが現在地に移った経緯としては,明治期になって集落西側に幹線道路(現県道231号線)が通る事になったことに合わせて,字の常会においてシーサーの移設を決定し,現在に至ったと伝えられている。(略)〔案内板〕

座りタイプ。目と鼻の穴が異様に大きい。台座あり。下部に雑草。
対面にも小さい石垣。

字名嘉地のシーサー対面(名嘉地(北)三叉路東側)の小さな石垣
▼▲
1232タカラ住建向かいの十字を左折。
1235豊見城市役所前の豊見城交差点を右折。ここまでは自転車で走った。
R7にのる。
この辺りは見かけ以上にかなりボコボコに丘と谷が乱立する。
R7。コザのように坂だらけにせずにこの道路配置を設計したであろう米国人でない誰かの苦労が忍ばれる。

1248糸満市に入る。走ってないと暑すぎる!
1258スゴくラッキーな,道路表示。
直進は「7」,左右折は「77」,どっちを行ってもラッキーセブン!

カデシガーと南山城東方(糸満市大里)の光景

1305右手に水辺。「うびー川」という。ということはこの対面が南山城!通り過ぎかけた……。

※この糸満市域の「大里」は佐敷北西の大里と共通します。「城下町」とでも言うべき語感でしょうか?

南沙城跡前バス停側の石垣入口部(通れない)

1311南沙城跡前バス停側からは入れない。ただここの石垣は切込積の精緻なもの。同時に新しいと見える。
切込積主体の西側石垣

──スマホに「本体温度の上昇のため……」エラー。スマホを再起動。
不思議です。他の面,特に正面が切込積。正面の鳥居といい……少なくとも近代に日本の文化素地を持つ者が改変してます。
西側入口の階段。セメントブロックが使われてる。

南山城本殿
石垣に食い込んだガジュマルの根

(略)1984年,発掘調査が市教育委員会によって行われ,中国製陶磁器やグスク系土器の他,備前焼きスリ鉢,鉄鏃,ガラス製勾玉などが出土しています。これらの遺物から南山城は13世紀に築かれ,14〜15世紀前半が特に栄えていたことが分かりました。
 南山の東方には水量豊かな「カデシガー」,北方には源為朝と王の妹の逢引場所だと伝わる「和解森」(わだきなー)があります。〔案内板〕

 社もコンクリート製でさほどの供物もない。周囲に祠も見当たらない。ただガジュマルは古い。何とも解し難い。

1338新垣交差点を左折,R250。

自販機ゴミ箱の押さえ石もサンゴ岩

ダイドー・シークァーサーソーダ500mlを一気飲み。自販機横のゴミ箱の上に風除けのサンゴ石。見ればどこもかしこもサンゴ石。
南の丘へ鶴が飛ぶ。その視界の先で飛行機が旋回して降りてきてる。
1354パトカーに煽られて道を空ける。
R250ののどかな道──に見えるけど,とにかく暑いのじゃ!

R331に入る。知念半島の台地が見えてきた。

▼▲1356仲座変則交差点。R250からR17。▼▲

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