019-3旧中島川河口・未解決編(長崎)\長崎withCoV-19_KP.3\長崎県

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実地体験ではトリガーと実感をひたすら拾うことだと思う。今の時代、情報そのものは、自分が世界で初めて行く場所でなければまあ太らせることはできる。現地に皮膚で触れて感じたコトと、その中で突出してきたキーワードを、可能な限りメモすることです。
0835中央橋交差点。
あじ盛が満席??

0841万橋西から「よろずや通り」

よろずや通り。この地点の電鉄の交差は高知の郊外ならともかく市街地では貴重です。
0843よろずや通り北から南方向、路面電車軌道の中島越地点前
長崎電気鉄道の中島川渡河地点(浜町アーケード駅〜めがね橋間)

まだ観光客のいない川沿いを歩く。ここ結構フナムシがいるんだな。歩くとゾロゾロ逃げてきます。
常盤橋南東口から本古川通り方向

0846サン・アウグスティン教会跡。万屋町調剤薬局対面、常盤橋東南詰。

 サン・アウグスティン教会は、慶長17年(1612)にエルナンド・アヤラ神父がアウグスチノ会本部教会として、中島川沿い、常磐橋のたもとのこの地に建てたとされています。ここから現在の観光通りあたりまでが、ほぼ教会司牧地(司祭が管理する地)でしたが、慶長19年(1614)11月9日、禁教令により破壊されました。〔案内板〕

東西では現在のツーブロック。150m、これが四方に広がっていれば2ha強。大きい。

サン・アウグスティン教会跡碑(常盤橋)から観光通り付近地図

 集落地図を見ると、概ね南西-東北方向の短冊型敷地が目立つこのエリアで、やや不確かながら……その傾向が途切れている空白地がある……ようにも見えます。
 観光通り北西のエリア一帯が、村上等安を擁した「スペイン領長崎」の中心部だったのです。ただ1614年、即ちキリシタン大行進に続く長崎大破却の年に、建造後2年で破却されて「構想」は潰えてます。

内部リンク→010-4諏訪神社\長崎\長崎県/■レポ:おすわさんの財源論/17C初 長崎大破却/【長崎の創造者Ⅰ】村山等安 ▼展開

  村山等安 末次平蔵
拠点 外町 内町
教会 托鉢修道会 イエズス会
帰属国 スペイン ポルトガル
友好
国内勢力
豊臣 徳川

 フィリピン唯一の世界遺産(「フィリピンのバロック様式教会群」)の代表的建築・サンアグスティン教会 San Agustin Churchは、長崎の僅かに前の1599~1606年竣工とされます〔後掲フィリピン政府観光省〕。フィリピン初のスペイン建築様式の教会、石造りの教会としてはフィリピン最古。マニラ中心部〔デジタル大辞泉 「サンアグスティン教会」←コトバンク/サンアグスティン教会〕。
 スペイン統治の拠点・城塞イントラムロス内に位置し、1898年にスペインがアメリカに降伏を宣言した部屋があります。
 エルナンド・アヤラ(1575生-1617没)は1613(慶長18)年に聖アウグスチノ修道会日本管区長に就任。1617(元和3)年ドミニコ会宣教師のアルフォンソ・ナバレテ・ベニトと共に斬首。長崎のサン・アウグスティン教会の竣工年が1612(慶長17)年なので、長崎での強硬な布教を買われて困難な局面の日本方面を任されたのでしょう。斜陽のスペイン本国からは「引かば地獄」めいた営業成績の監視下にあったのではないでしょうか?▼▲

常盤橋北西口から中島川越しにサン・アウグスティン教会跡碑と古川通り方向

1859賑町の事代主神社(現・幟表示は恵美須神社)

旧材木町がまだ町家もなく、材木の陸揚げ場だったころに勧請され、その後……(剥がれてて読みにくい)〔案内板〕

0905賑町の事代主神社

線路が中島川を渡る地点のすぐ南。河岸他に何の痕跡もない。
供え物はきちんとされてて掃除も行き届いてます。川側には数本傘が備えてある。おみくじまでワンセット揃ってる。
幟は匠寛堂のものでした。
0906賑町の事代主神社 南からの遠景

カウンター席が1席だけ空いてました。
0910あじ盛
ちゃんぽん、あじ刺 510
あじ盛のあじ刺

 ここのちゃんぽんの総合的な旨さは、何度も書いた──つもりだったけど、確認すると書いてませんでした。びっくりする味覚ではないんですけど、出汁・唐アク・麺・野菜と全てが丁度良い。店内で誰かが頼むと「こっちも」「ワシも」と声が重なります。
 プラス、ここでは魚を頼むようになりました。ガラスケースにあれば煮魚、なければ刺身、何れもなければ生アジフライ。フライが観光ガイド的にはお勧めらしいけど、ガラスケースの偶然に委ねる方が個人的に好きです。
 で今回はアジ刺になったんですけど──旬のサンマやイワシの刺身みたいな生々しい味覚は、長崎のアジを隣の築町市場から(多分)直に入れてるこの店ならではでしょう。
 長崎の旬の魚を評価できるほど、ワシの舌は魚喰いの修行を積めてません。今回も涙目で、静かに箸を置いたのでした。
0939坂上天満宮の稲荷-エビス-開かずの祠の三柱

0938坂上天満宮
左横手に稲荷とエビス様。もう一つ最奥のは扉を閉ざしてる。
0941坂上天満宮の左手エビス神神像

天満坂登る

坂を登る。
天満坂(大音寺坂)長崎喧嘩騒動発端の地の碑の先。
0944ミゼリコルディア本部跡。長崎地方法務局南路地。ここの四段の階段はその折の物を敢えて残してるのでしょう。
ミゼリコルディア本部跡碑の階段四段

 天正11年(1583)、日本人キリシタンのジュスティーノが建てました。ここにはキリスト教思想による病院と孤児・老人施設がありました。
 慶長19年(1614)のキリシタン弾圧後もこの施設だけは残されていましたが、元和5年(1619)に姿を消しました。
「慈悲屋」と呼ばれ、後世まで語り継がれました。今日の社会福祉施設の先駆けです。〔案内板〕

ここも全く史料は残ってないらしい。伝承の他は階段だけです。
 ちなみに長崎市文教町の純心中学校・純心女子高等学校(→GM.)には「ミゼリコルディア部」というボランティア部活があるらしい〔後掲純心中学校・純心女子高等学校〕。ラテン語。Misericordia et Caritasで「いつくしみと愛」というカトリックの精神を表し、国内関係者間ではかなり標準語みたいです。

ミゼリコルディア部ポスター〔後掲純心中高〕

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法務局西は小曽根邸の跡、龍馬ファンなら萌える場所らしい。スルー
島原まぜ飯!ここにもあるんだ!

長崎東京間郵便線路開通起点の跡と島原まぜ飯

0955長崎東京間郵便線路開通起点の跡。興善町交差点南東角。郵便線路は明治4年(1871)年3月1日に東京大阪間で開通、これが12月5日に長崎まで延伸されたとある。そこでここに明治5年長崎郵便局、同8年(1875)に本博多郵便局と改称。分からなかった延伸当座の状況は碑文に

ここはその起点となった長崎郵便役所の跡であり 九州における郵便事業発祥の地である。〔案内板〕

長崎郵便役所消印切手〔後掲タカハシスタンプ〕

 ただし、郵便役所の前々年「長崎郵便取扱所」だった二年間があるらしく、確認できる範囲では長崎での初めての郵便局、かつ鉄道郵便を受取ったのはこの組織のはずですけど──この創始期の事情はどうも明確ではありません。

1872年1月14日(明治4年12月5日)本大工町に長崎郵便取扱所として開設。のちに本博多町に移転[2][3]。
1873年(明治6年)長崎郵便役所となる[2]。
1875年(明治8年)1月1日 梅香崎町へ移転[4]。長崎郵便局(一等)となる。翌日から為替取扱を開始[2]。
1878年(明治11年)貯金取扱を開始[2]。
1884年(明治17年)赤れんが造りの新局舎完成。
〔wiki/長崎中央郵便局〕
※原典[2] 山口修監修 『全国郵便局沿革録 明治編』P386 日本郵趣出版 1980年12月28日発行
[3]一人の郵便数日本一-マイタウン長崎
[4] 本博多町の跡地には本博多町郵便取扱所(後の長崎北郵便局)が設置された。

長崎郵便局 手彩色絵葉書(1910(明治43)年)〔wiki/長崎郵便局〕

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「長崎郵便役所の跡」説明記述

と記されるから、郵便制度前の名称は「長崎郵便役所」だったようです。
興善町交差点渡る。この地名はアルファベットでは「Kozenmachi」と「Kou」ではない。
北西角活版伝習所碑の本木昌造さん画像が撮れない

北西角、唐通事会所跡と活版伝習所
唐通事会所は、興善町(1762年移転)の前代は今町(現・金屋町)に1751年に設けられたもの。つまり時代は長崎貿易が下り坂になった江戸中期です。それも金屋町からは11年で移動してる。
活版伝習所

 わが国近代活版印刷術の祖・本木昌造は、安政4年(1857)に長崎製鉄所付属の活版伝習所をこの地に設立しました。そして、上海美華書院の活版技師ウィリアム・ガンブルから学んだ「電胎法」を取り入れ、日本文字の活字鋳造に成功、これがわが国の活字印刷技術を大きく進歩させることになりました。
 明治3年(1870)以降は新町(現在の自治会館付近)で私塾と活版所を経営し、後進の指導にあたりました。〔案内板〕

肖像は長崎歴史文化博物館所属。案内板のは逆光で撮れない。
碑文総説は平成11年と新しい。長崎県印刷工業組合本木昌造顕彰会による。

本木昌造(1824-1875)肖像。撮影日時等不明、1874(明治7)年夏頃の最後の上京時に内田九一が撮影したものと推定される。〔wiki/本木昌造〕

唐通事会所の碑文には、会所廃止後の跡地に明治二年(1869)にはいったのが本木の活版印刷所だったとある。
唐通事会所碑内の「会所廃止後……」記述

 本木家は平戸のポルトガル通詞に連なるオランダ通詞の家系という。語学センスのある後継者を確保するためか、昌造以前にも3代良永を養子に入れており、6代昌造も11歳(1834(天保5)年)に本木家に入った養子。襲名後の1853(嘉永6)年のロシア使節プチャーチン来航時、翌1854(安政元)年に下田での条約交渉の通詞を担当〔wiki/本木昌造〕。
 ただ出世までは曲折があり、まず下田交渉の同年幕府により投獄、釈放後も謹慎。1860(万延元)年飽浦・長崎製鉄所の御用係に任命さる。この翌年から何の流れか英蒸気船を購入、船長として江戸ほかへ航海している。上記の1869年活版伝習所開業に先立つ10年前の逡巡の光景です。
図21-2 御用活版所の設立認可

《『公文類聚』、明治4年、国立公文書館蔵》
この公文書によって本木昌造は、大学・大学東校・大学南校の活版御用を申し付けられ、御用活版所の用地拝借を願い出た結果、大学東校区域内にある長屋と接続地に御用活版所を設置する政府からの許可を明治4年6月15日に得たことが分かる。この大学東校区域は現在の千代田区神田和泉町1番地に当たる。〔後掲平野〕

新興善小学校校門跡

市立図書館ブロック北東角。新興善小学校校門跡。ここの奥が新興善メモリアルという平和学習用施設になってる。メモリアルって何やねん。
新興善メモリアル

金屋町を抜けて帰路へ。ここに唐通事会所があったというのはやはりおかしい。ここで何を調整しようというのでしょう?
刀勉会は女性を募集しているらしいけれど……このポスターでは多分、女性は来ない。

中島教会

信号通り何となく歩いてるとCATHOLIC NAKAMACHI CHURCH。
「フランス人女性の寄付をもとに、1891年(明治24年)8月から建築に着手」と案内してあるから、江戸期に何かがあった場所では公式にはないらしい。
この北に「大村藩蔵屋敷跡」。なぜこの位置でしょう?
1053遅くなった。長崎駅のニッキーには七人待ち。やだね。
1100ニッキー・アースティン長崎駅前店
No.1004 辛い辛いシリーズ ポークカツがメインのトルコライス750
ニッキー・アースティン長崎駅前店
No.1004 辛い辛いシリーズ ポークカツがメインのトルコライス

でも観光客ばかりなので注文は一番に通りました!
本日は1314発予約済なのでのんびり食べれます。
ただ……この辛い辛いドライカレーを噛み締めて味わうと──当たり前だけどホントに辛い!この鋭い辛味はどう出してるんでしょうか?
上の甘い甘い卵焼きと濃ゆい濃ゆいポークカツが、これまた辛い辛いを引き立て過ぎてくれます。
ニッキー・アースティン長崎駅前店
No.1004 辛い辛いシリーズ ポークカツがメインのトルコライス の辛い辛いドライカレー!!

ここのシアトルズベストコーヒー(SBC)には初めて入りました。元の駅口にあったチャチいSBCのイメージがあったんだけど──ここのは、特に奥が広くて外界と隔絶された静かな空間です。
長崎駅構内SBCにてエスプレッソ

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