唐人町編

目録
ブレッド・ア→とれとれ→唐人屋敷
〇614,おお~15分前で既に10人か!
連休初日とはいえ……さらに絶好調だな。
0646ブレッド・ア・エスプレッソ
アールグレイ,ゆず胡椒ハーブソーセージ
ロングブラック370
〇936,旬屋のマーケット軒先に,久しぶりに嬉野茶のコーナーが来てて──何年ぶりだろうか,うれしの茶石鹸を買えた!
三個千円。
ついでに訊くと……嬉野温泉に行かないとなかなか販売店はないとのこと。「だからここへ来て!」とのこと……でした。
〇953,唐人屋敷を再訪したくなって,また来てしまいました。
▲唐人屋敷ジオラマ[長崎大学の調査 転載元 mikio.world/唐人屋敷~江戸時代の平和な経済・文化交流]
まずは,前回調べに頻出したけどきちんと見た記憶のない土神堂へ。
土神堂は、1691年に唐人屋敷に滞在していた船主たちの願いにより、唐人屋敷に建てられたお堂の中で、一番最初に建てられました。【→巻末史料原典】1784年におこった大火で焼失し、唐3か寺(※)により復旧されました。その後も火災や老朽のための改修を経て、現在の建物は、1977年に復元されました。〔後掲長崎市〕※興福・福済・崇福寺(広東系の聖福寺以外)
つまり,唐人屋敷竣工(1689年)の2年後に建った,最も古い由緒を誇るはずの中国寺社なのです。
印象通り──やはりピンと来ない。
一部工事中でシンナー臭。
ここにも向かって右手に金爐がある。ただし燃えカスなし。本殿の「寶」と書かれた線香入れには12本ほどが立ってました。
──この手応えのなさは,何故なんでしょう?
ランタンフェスの小さい媽祖様
▲1009福建会館星聚堂。この会館と正門以外は原爆で一度焼失しています。
あれ?この東すぐが福建会館なの?こりゃ前回スルーしてるぞ。10時ジャスト。
二段の階段の一段目に──銅像?どこかで見た造形です。
▲1010中山銅像を背後から
孫中山銅像と書かれてました。
2001年に上海電視台が寄贈。長崎が「日本における革命活動の重要地」だからだそうな。そうなのか?(巻末参照)
▲1012金爐
本堂の額は「星聚堂」(2つ前の画像参照)。建物名はやはり「天后堂」です。──「星聚」は群星という程の意味だけど,媽祖信仰との関係は分からない。
平29築,外壁煉瓦造,架構法基調と案内板。ネットで見た奴です。
正面向かって左手は行き止まりの金網,その先は駐車場。右手は爐,使いこまれてる。
壇の天井には扁額「桑梓萬里」。縦書き小文字で「大清光緒丁酉桐月吉旦/福建會館敬立」と文字。勅額とは読めない。
※光緒丁酉:1897(光緒23,明治30)年,日清戦争終戦(1895年)の2年後。
壇には扁額「天上聖母」。
対聯は右「聖★★涯絹登覚岸」,そして左は……えっ?──全文字読めない。清代の何とか※という筆記法です。 ※多分「篆書」
▲1016全文字とも読めない左聯
さて媽祖様です。
前後に全二柱。タスキによると,前方の媽祖は湄洲媽祖を分霊してるらしい。でも日の丸の指物?どういう信仰のされ方でしょうか?
現在のランタンフェスの媽祖行列で巡行するのは,この前の小さい媽祖という。この際は寺町・興福寺までお運びします〔後掲長崎市→引用〕。
▲中央前後に座する媽祖
十善会病院高架下と暖かい眼差しのお願い
下段左右に隠れるように,順風耳と千里眼もおわしました。
都合6柱安置。
役者が揃ってはいるんだけれど……どうも,例えば台湾での媽祖信仰と感覚が違います。
▲龍柱の陰に隠れて順風耳
堂脇には「長崎市まちづくり推進室」の紅白の三角ポール5本。
振り返ると入口の屋根瓦上に徳利形の突起。これもどこかで読みました。
うーん。分かるのはこんなものかな?退出。
1034,天后堂は工事中。
1038,観音堂も工事中……なのに隣の園児が入ってきて庭先で走り回ってる。
▲本日の観音堂
時間が押してきたので,西へ強引に抜けようとしてみると──1044,館内町12から籠町8へ抜けられた!
出たのは十善会病院の二階を結ぶ高架下。ここは,なぜか道に迷った時に出てくる場所です。
▲館内町から北への脱出中,小島の丘方向の高みを見上げて
実のところこの日も,最早どこをどう歩いたかはもう分からなくなってましたけど……とにかく,これまでの経験上は段差があって抜けられない記憶の方面だったのです。
※この章から読み始めた方へ:大体の所,この長崎シリーズではこんなことをやってます。簡単に言えば……マニア向けですので,暖かい目で見守ってくだされ。
ニッキーアースティン1004番
▲1045──ということは籠町に入った辺りの階段ですけど──おそらく十善会病院の東側裏道だったのではないかと……。
いかんいかん,開店時間に少し遅刻してしまいました。
1107 ニッキーアースティン万屋町店
1004辛い辛い……ポークカツメイン 750
ここのドライカレーは,ほぼおかずのメインです。密かにファンの多いニッキーのコーンスローに,この辛い米粒を絡めて食すのも,この店ならではなのです。
とはいえ時代はコロナ禍中。それにかまけてモバスペ→WP次元間移行の作業に,午後はかかりっきりで──今次長崎は噛み締めるが如く一日一章分ずつ参ります。
▲1335「外からパンは見えません」

■レポ:土神堂から福徳正神まで 長崎「土神」の多層性
長崎で土神と言えば,お墓の隣にある丸い石。
長崎の墓制の大きな特徴として著名ですけど,なぜこれを,墓地面積をかなり広げるのにわざわざ併設してるのか,詳しいことは全然分かってません。
後掲・詹佩瑜(台湾師範大学)のカウントによると,長崎の墓に数多見られる素朴な「土神」の信仰は古い形態で,主に16C以前のもの。それが18C後半以降に土神堂の形で,祠に祀るように移行していくらしい。
長崎の土神は中国の土地公(土地神・土地爺・福徳爺・土地公伯・土地伯公・福徳公・伯公・地主公・土地・土伯・土正・地主・社神・社公・社官・后土,最も正規には「福徳正神」)と同根と伝わります。この神は,さらに城隍廟と同類とされますけど,城隍廟が城郭都市の地霊神であるのに対し,土地公は農村で素朴に地霊を祀る神サマ。これは通常,簡素ながら祠になってます。
18Cに土地社・祠・堂が増えたのは,長崎で土着化していた「土神」信仰が,本家の中国の人々が大挙上陸することで「先祖返り」した結果と思えます。
これは,外来文化の土着化形態としてはかなり珍しい。その稀有な文化潮流の中で建てられた唐人屋敷・土神堂は,相当数の史料に記述されていました。
土神堂 建つ!!
先述のとおり(→土神堂由緒),土神堂竣工は1691年。唐人屋敷設置(1689年)の2年後です。
この原典は,何と建設許可レベルでの記録でした。
同(1691(元禄4)年)九月十一日,秋船之船頭共ゟ先頃願申候ハ,構之内ニ土神之石殿立申度由願申候ニ付,高木彦右衛門殿迄年番方申人置候所ニ,彦右衛門殿方御伺被成候ヘハ,彌唐人共願之通御赦免被成候段被仰出候由ニて,彦右衛門殿方年番雨人(林仁兵衛,彭城藤治右衛門)御呼被成被仰渡候二付,此段唐人共へ申度候,」〔唐通事会所日録一,頁269←後掲詹佩瑜 注95 ※括弧書は引用者〕
※「ゟ」:旧仮名。「より」
当初の申請では土神堂は「石殿」だったわけです。次の同土神堂の竣工記述にはその辺りが書かれてないので,実際に建ったのが本当に石造だったのか,今日のような木製だったのかは不明です。
同(1696(元禄9)年)十日,廣善庵大頂儀昨日彦右衛門殿ゟ方被仰聞,今日水野小左衛門同道仕,構之内土神を引渡し有之候。〔唐通事会所日録二,頁197←後掲詹佩瑜 注96 ※括弧書は引用者〕
ここに「引渡し」とあるのは,建設は日本人側がやってあげてから,中国人に「どうぞお使い下さい」と渡した,ということに読めます。不思議な力関係です。
土神堂に詣る!!
17C末,土神堂に船頭たちが先を争って参拝をした記録があります。
(1699(元禄12)年)……八平次次兵衛不残唐人屋敷[江]相詰申候,唐人屋敷[江]御出被成,直ニ二ノ門[江]御人被遊候,諸船頭共不残土神之前へ罷出,禮拝仕候,土神[江]御立寄,……〔唐通事会所日録三,頁17←後掲詹佩瑜 注97 ※括弧書は引用者〕
「諸々の船頭共,残らず土神の前へ罷り出て禮拝(礼拝)仕り候」というのは,大層な状況です。その時に「八平次次兵衛(ら?),残らず唐人屋敷へ相詰め申し候」──つまり日本人側も大挙して船頭どもの礼拝を見守ったわけで……時勢柄,キリシタンの監視とかを兼ねていたのでしょうか?
何にせよ,この時期までは結構本気の信仰対象として機能していたことになります。土神ですから長崎の地霊サマなんですけど,どういう意味で船乗りの崇拝対象になり得たのでしょう?
土神堂広場に集う!!
ところが,詹佩瑜さんも指摘してますけど,この後頃から,「土神堂」という名称がお堂前のパティオを指すようになっていったことが窺えます。
次の史料は,目付・町方(乙名・組頭)が船頭たちとの会議を土神堂前で行った事例です。この場合は,いわば団交会場になってます。
同(1701(元禄14)年)十四日,唐人屋敷[江]道榮、目付、中間不殘、乙名、組頭中立合候而,船頭共二此度之商賣何とそ方便を以相遂候檬二相談可仕ため呼出し申候所二,客中土神之前二寄合罷在,船頭中構之外[江]出不申候二付,……〔唐通事会所日録三,頁114←後掲詹佩瑜 注98 ※括弧書は引用者〕
時点は唐人屋敷稼働から10年を経てます。
「船頭共に此の度の商売に何とぞ方便を」と要求されたのに「船頭中は構(唐人屋敷)の外へ出ず申し候」,つまり「お前たちは外へ出るな」と言い渡しています。これは,唐人屋敷へとじ込められた後,唐人屋敷の外へ出てはいけない,唐人屋敷とはそういう隔離施設なのだ,ということを中国人船乗りたちが
あるいは大陸人特有の無理押しの交渉手法かもしれませんけど──もし本当に知らなかったのなら,(別章で既述※のとおり)唐人屋敷の隔離システムは,通説とは異なり
次のものは唐人屋敷稼働後15年目の史料です。土神堂前広場に水主百人が集まり,騒動に及んでいます。
黄一官という船頭が水手の何らかの恨み(意趣)を買って,「土神之前廣馬場」(土神の前の馬場の広場)で私刑を行ったらしい。
(1705(宝永2)年8月24日)今日唐人屋敷構之内七拾三番南京船頭黄一官[江],構之水手中意趣有之由[二而],數百人之水手共催し,ー官部屋[江]仕かけ申候二付,相驚キ隠シ申候を一官部屋さかし,無難さかし出し,二階[二而]打擲仕,はしこ方引落,土神之前廣馬場[江]引出し……〔唐通事会所日録四,頁70←後掲詹佩瑜 注103 ※括弧書は引用者〕
▲斎藤秋圃「梅園天満宮縁起絵巻」レプリカ(部分)。梅野五郎左衛門による丸山町乙名・安田治右衛門襲撃事件は同時代の1693(元禄6)年。
※秋月藩(福岡藩の支藩)御用絵師の斎藤秋圃(1768年~1859年)
[内部リンク]m153m第十五波mm梅園/① 乙名・安田治右衛門襲撃事件
部屋を探し当てて「二階[二而]打擲仕 はしこ方引落」(二階で殴打(打擲)した上で梯子から引落し)というのですから,相当に暴力的な様子です。
落ちた場所が土神前だったわけではないでしょう。つまりこの広場は,公開裁判所としても用いられていたのです。
なお,ここで「広馬場」と書かれているのも気にかかります。日本の神社に馬場があるのは例がなくもなく,流鏑馬を奉納する古式は本来一般的だった節もありますけど──中国でそんな事例があるでしょうか?
(例→①堀八幡神社(広島県安芸太田町下殿)の流鏑馬神事〔後掲あきおおたから〕
②末吉住吉神社(鹿児島県曽於市末吉町)の流鏑馬〔後掲かごしま文化財事典〕)
穿って見るなら,もしかすると,幕末に向けて激しさを増す唐人屋敷の中国人たちの武力行動※の,最初期のもの,あるいはその示威行動だったのかもしれません。

土神 変態す!?
通説による唐人屋敷完成から15年を過ぎた1706年,「土神造營萬」という意味不明な建築申請が出されてます。
(1706(宝永3)年5月)同十九日,春夏三拾一艘之船頭共,今度構之内土神造營萬[ト云]存立被申候由承及ひ,兼而船頭共御願申上,建立仕度奉存候處二……〔唐通事会所日録四,頁122←後掲詹佩瑜 注104 ※括弧書は引用者〕
「まあ色々と土神について造営いたします」といった感じの,まさに役所向きに作られた申請名義っぽい。そこまで誤魔化しておきながら,既存の土神堂の「改修」とも「増築」とも違う「造営」というのは一体何でしょう?
さて,上記と繋がるかどうか,詹佩瑜さんも不思議がっている唐人屋敷・福徳正神です。
土神?福徳正神?
ここまでも掲げたとおり,唐人屋敷を描いた絵画は多い。そのうち18Cの絵画には,「福徳」が「土神」と併記しているものが少なくないのです。
結論を先に記します。日本側が「和風に」,その意味で適当に造った土神堂は,1706年に中国庶民的に正統な「福徳正神」として建て替えられた,あるいは併設された。そう考えないと,これらの図絵と整合しないのです。
ここまでも見た通り,なべて唐人屋敷の図絵の目的は異国情緒を強調するものであって,正確さを欠きます。歴史記録として実直に,精度を求めたものとは言い難いようですけど──。
それにしても上の18C早期の善養寺絵は奇妙です。
土神堂は祠のように小さく,北面しています。場所は間違いなく現・土神堂の位置です。それに対し,その北西側に大きな建物の「福徳宮」が,これは西面して在ります。
この福徳宮とはどこでしょう?
土神・分身の消失痕を追う(岩永市場)
建物そのものが消えても,その(地)筆の形は永く残ります。福徳宮に該当すると推測される筆が,地図上も確認出来ます。
現・岩永(大牟田)市場の建物(岩永ビル)の筆です。周囲の,概ね二倍の大きさがあり一目瞭然です。
唐人屋敷には市場っぽい一角があります。記憶には残ってましたけど,位置を再確認するとまさに土神堂北西。細かくは館内市場・岩永牟田口市場・富士市場の集合体らしい〔後掲ナガジン〕けれども,GM.上の表記に従い「岩永市場」と簡易に書いていきます。
上記は関学(社会学部)の卒論ですけど,非常にまとまった内容の唐人屋敷の市場のフィールドワークの一部で,地元の方の書いた略図です。土神堂の北が「館内市場」,南が「ふじ市場」と認識されてます。
残る「岩永市場」が,ビルの名になってもいる岩永ビルに当たると推測されます。──なお,ビル名はオーナーの姓。ここが岩永牟田口市場とも呼ばれる「牟田口」は,現在の隣接店舗「牟田口鮮魚店」から来ているようで,この名前自体は後世のものと思われます。
上記二点の写真は岩永市場とその南の銭湯跡のものです。
前掲渡辺の聞取りによると,1957(昭和32)年に現在・岩永市場近くからの出火で大火があったという。岩永ビルはその後に建ったと思われます。
ただ,隣の銭湯にはなぜか対聯があります。右「福禄寿三星在戸」,左「萬年善徳為良範」。宗教性は読めないけれど,対聯を掲げる風習が伝わったものかもしれません。ついでに書くと,両句は「福徳」の文字を含んでいます。
土神堂傍の「霊魂堂」
後掲李・永井によると,長崎名勝圖絵に次のような一節があります。
文政元年の史料ですから,時点は1818年です。
唐人の部屋は二階造りにして一部屋凡三間に九間或は四間に七間廿餘あり。また市店百餘有て唐客の小商等店を開き牌を掛け酒菜及び雑砕の品物を陳ね設けてこれを市る。土公祠關帝堂観音堂涼み所溜池需魂堂等あり。
霊魂堂 土神祠の前より右に轉じてゆく路の右傍牆壁の前にあり。板を以て外屏をなし柵門より出入す。俗に幽霊堂という。乃ち船商死亡する者の神主を列ね置虞なり。〔後掲李・永井〕※文章毎の読点を引用者が追記した。
※長崎名勝圖絵(原注)文政元年,長崎史談会,1931(昭和6)年 p205-207
「市店百餘有て」というのですから,19C初めのこの時期には,土神堂を含む社前に,既に市場があったようです。
問題はそこに在った「幽霊堂」ですけど──「土神祠の前より右に轉じてゆく路の右傍牆壁の前」(※轉じる:曲がる)というと,まさに福徳正神,後の岩永市場の位置になります。
「船商死亡する者の神主を列ね置虞」──墓地は別にあったのですから,仮安置場,あるいは墓地を設ける財力のない水夫とかの無縁墓地的なところだったのでしょうか?福徳正神の跡のような祠が,市場に転じた後もなお宗教的に機能していたとすれば極めて興味深いのです。
また,特定の神を祀らず「霊魂」としているのは,福建の土着的,素朴な感性を感じさせます。(→内部リンク:m154m第十五波mm福州寺/中国福建(泉州)での普度)
新・土神はいつしか福徳正神に
さて「福徳正神」の文字は,現・土地公石壇に確かに彫り込んであります。
この文字は,GM.の掲載写真中にも確認できますから間違いありません。現・土神堂はいわば「日本人向け称号」を掲げており,宗教的には福徳正神の廟を自認しています。
残る疑問点は,17C早期に広場の南に土神堂,西に福徳正神を祀った位置関係が,なぜ土神堂一箇所になったか,という点です。
上記1820年の図絵では,「福徳正神」旗が土神堂参道に掲げられてます。手前・パティオ西側には建物がありません。
伝承された年代を信じるなら,17C早期に存在した土神堂より大きな福徳正神廟が,1820年までに消失したことになります。
土神を奪い取りたる唐人たち
原爆倒壊前の土神堂の「造営」経緯は,同堂の「重新土神祠碑記」に記されているらしい。ただこの文字を起こしたものが見つかりません(実見時には,残念ながら重要視せず読んでませんでした)。三福寺(興福寺・崇福寺・福済寺)の共同出資で修復されたようです〔後掲長崎年表,1784(天明4)年〕。
この間の時代,「天明大火」という災害が伝えられます。1784(天明4)年とされるこの火災は,考古学的にも「天明大火層」として唐人屋敷の発掘上の技術的指標にもされてます〔後掲NPO法人文化遺産の世界〕。
1784年(天明4年)の大火により{唐人屋敷は}関帝堂を残して全焼し、構造もかなり変わりましたが、この
大火以後唐人自前 の建築を許される ようになりました。重要文化財旧唐人屋敷門(現:興福寺境内所在)はこの大火の後に建てられた住宅門と思われます。〔後掲長崎市〕※{}・傍点は引用者追記
つまり,天明大火で焼失した旧・土神堂と福徳宮は,建築計画の自由化に伴い,土神堂の位置に福徳正神が覆いかぶさる形で一棟に統合された。旧・福徳宮の筆は土神堂前の市場になり,主に現・岩永市場に繋がった,と考えられます。
前後の建築許可が記録されるのに旧・福徳宮のそれがないのは,土神堂の附属建築と称しての「無許可増築」だったからではないでしょうか?
土神堂建替の経緯は単に災害への対応と見れなくもないけれど,未だ和風名「土神堂」と呼ばれるこの建物は,中国人たちが約百年の年月をかけて純・中国風に変態させた,と考えられなくもないのです。
行政的に言えば,当時の長崎奉行等管理側の苦労が偲ばれます。日本の民衆とは全く違う強かさで立ち向かってくる中国水夫群を,幕府の厳しい監視下で「ハイ!徹底的に管理してマス!」と報告しなくてはならなかったわけですから。──建築許可の自由化も,根拠はないけれどおそらく,かねてからの中国人側の要求を,大火を理由に実現させてしまったものだろうと推測します。
下の写真は,昭和初期(∴原爆による倒壊前)のものです。その篇額は,庇で一文字目が隠れているけれど(福)「徳正堂」と読めるようです。
■レポ:福建会館と深夜秘密の猛特訓
福建会館の設置は,意外に新しい。唐人屋敷のシステムが無くなった後,明治初年です。
つまり,土神・天后・観音と並置すべきものではない(李・永井によると,江戸期に並置されていたのは前述霊魂堂)。
福建会館は、唐人屋敷が解体されたのち、1868年に福建省南部出身の貿易商たちの会所として建設されました。唐人屋敷のあった時代、この場所には聖人堂というお堂が建っており、その基盤の上に福建会館を改築したという記録が残っています。1888年の火災で焼失し、1897年に現在の会館が再建されましたが、会館本館の建物は原子爆弾により倒壊し、正門と天后堂が現存しています。
このお堂には、2体の媽祖さまがまつられており、ランタンフェスティバルの「媽祖行列」では、小さい方の媽祖さまを、寺町の興福寺までお運びします。〔後掲長崎市〕
福建会館の前身・聖人堂
ここでの「聖人」堂とは孔子廟のことらしい。
現在,長崎の孔子廟と言えば長崎孔子廟中国歴代博物館(大浦町→GM.)です。1893(明治26)年,中国清朝政府と華僑により建造。
福建会館(星聚堂ともいう)は、1868年(明治元)に福建省泉州出身者により聖人堂(孔子廟)の跡に創設された「旧八閩(はちびん)会所」で、媽姐(まそ)神を祀る唐寺。1888年(明治21)焼失。その後、1897年(明治30)再建され、福建会館と改称された。〔後掲長崎んことばかたらんば〕
「聖人堂の跡」と書いてます。唐人屋敷後の時代,孔子廟は無くなっていたらしい。かと言って大浦町に移転した,というには四半世紀の時を経ています。
唐人屋敷の孔子廟は,なぜ,いつ頃に廃されたのでしょう?
▲(再掲)福建会館の媽祖像二体
長崎唯一の巡行媽祖
福建会館の媽祖のうち「ランタンフェスティバルの『媽祖行列』」で巡行媽祖になるのは「小さい方の媽祖さま」で,それを「寺町の興福寺までお運び」するという。
長崎に媽祖像は複数あります。興福寺にもある。それなのに,わざわざ福建会館の媽祖像を選んで運んでくる。これは,長崎の巡行媽祖は福建会館のしかない,ということだと思われます。
そもそも,江戸期の長崎に寺社の媽祖を巡行させる慣習は,
媽祖行列の元と言われる「菩薩卸し」「菩薩乗せ」は,次を見ると多くて十数人のものですし,第一,ここでの媽祖は船中安置のものです。
「長崎名勝図絵」によると、香江(ヒヤンコン:菩薩役の唐人)が2箇の燈籠を先に立て左右に並び、次に銅鑼(ドラ)や直庫(てっこ)と呼ばれる赤い布を結んだ棒を持つ唐人が並び、その次に媽姐の像を安置した輿がつづく。輿の両側には旗を持つ唐人やその後には蓋傘(かさ)を掲げる唐人らがおり、その後には唐人や唐通事や唐人番などの役人がつづく。道中、十字路に至るごとに銅鑼が鳴らされ、その進行方向に向って盛んに直庫が振られる。唐寺に到着しても同様で、山門や関帝堂(かんていどう)、媽姐堂の前などで銅鑼が鳴らされ、盛んに直庫が振られ、その後、媽姐や直庫を媽姐堂に納めて、唐人たちは唐人屋敷に帰る。なお、菩薩卸し(菩薩乗せ)の行列の様子も、この菩薩揚げの行列の様子とほぼ同様であったが、直庫の振り方などが少し違っていたといわれている。〔後掲長崎んことばかたらんば/2011長崎ランタンフェスティバル〕
ランタンフェスティバルは,1982年の長崎大水害後の町おこしとして,長崎ネットワーク市民の会が(朝日新聞の記述を借りると「行き当たりばったりの大ばくち」で)始めたものです。
寄付などで資金を集め、中国福建省の造船会社に木造船を発注。(略)船にのせる
媽祖像は 、福建省の本山から譲り受けた 。〔後掲朝日新聞デジタル〕※傍点は引用者
福建会館の巡行媽祖が,上記記述の媽祖だとすると,最近になって大陸から譲渡されたものです。巡行形式の方は,台湾のものを習ったのではないでしょうか。
つまり,長崎の巡行媽祖に唐人屋敷に連なる伝統はない。
窓際に居ようとしても直庫さん
本稿は,栄えある長崎ランタンフェスのメインイベント・媽祖行列に,伝統がないと言っているのではない。
──言うとるがな!!!
いや,本当に違うのである。信じてほしい。信じてもらえないと,長崎に入れてもらえなくなる。
以上の利己的に切実な課題意識のもと,ここまで書いてしまった絶望的な視点から,長崎媽祖行列を無理やり(無理なんかい!!)持ち上げて参ります。
どうやら,長崎ネットワーク市民の会は,長崎学と呼ばれるレベルに達した世界屈指の港湾都市史の蓄積から,強引とはいえ実直に「媽祖揚げ卸ろし」(往復全体でこう呼ぶらしい)に係る上記史料を探してきてるらしい。だから,その「再現」たる媽祖行列に極力,史料の記す姿を現出させようとしてると窺われます。
その中で,注目したいのは上記引用中の「直庫」(てっこ)です。
ミーハーは嫌なので媽祖行列を見たことは無いけど(無いんかい!!),長崎媽祖行列では純・媽祖信仰のサブキャラたる順風耳・千里眼と同じかそれ以上に目立っちゃってるのが,「直庫振り」(てっこふり)と呼ばれる役です。
船上で何をしてたの直庫さん
……おやおや,どうやら長崎媽祖行列のメインキャラ・直庫さんまで敵に回してしまった。このまま終わると全国百七十万のランタンフェスファンから命を狙われる。──これは危険だ!ここは一発,逆転サヨナラだ!
(注 こういう発想が人生をさらに立ち直りの効かないものにします。)
えー,では本腰を入れるとしよう。「直庫」ワードでググると(今からググるんかいっ!?)長崎媽祖行列以外にほぼヒットはありません。「直庫_-長崎」だとほぼノーヒットノーラン。
「直」と「庫」を簡体字([十+且]と「库」)にしてみてもダメです。──これ,ホントに中国語か?
維基(中国wiki)の「舟师」項目がヒットしました。ここに記された以下の文章にゾッとします。
舟师组织
每艘船舶设
・舶主 一人。属下有
○ 财长
○ 总管
○ 直库掌管兵器库
○ 阿班 掌管风帆、上船桅杆。
○ 舵工 二人轮班
○ 火长 掌握罗盘〔維基/舟师/舟师组织〕
──直库 : 兵器庫を所掌する(人・役)
「舟师」とは元々,水先案内人のような意味の職名だったらしい。航行に資する人文・天文・航海術を身に着けた人,といった意味。※广州海船的舟师用地文、天文和指南针导航:“舟师识地理,夜则观星,昼则观日,阴晦观指南针”〔朱彧撰「萍洲可谈」宋徽宗宣和元年(1119年)←維基/舟师〕 これが明代には「船員」一般を指す言葉になり,それでは困るので細かい分類名が出来ました。「直庫」もその一つである,と維基は記すのです。※本来の水先案内人の役は「火长」
──眼鏡橋で鉄の棒※を振り回してパフォーマンスをするあの黥面の人と,全くかけ離れた語義です。
ところが,「直庫」ワードは中國哲學書電子化計劃で横断検索しても完全にノーヒットノーラン(もういいって)。つまり,同webの擁する膨大な中国史書に全く見当たらない二字なのです。
その他の中国語ネット記事の中ではどうか?──僅かに,「蓬莱(美洲)纪事」〔後掲「临高启明」〕という同人作品(2020)の中に次の一節がありました。
明代大商船上的船员可以达到百人左右。
其中,一般由以下人员组成,但这些职位并不严格。(都是漳州方言 发音)
(略)
直库:管大鼓
大撩:管帆索
一仟:管大帆
二仟:管第二帆
三仟:管第三帆〔「蓬莱(美洲)纪事」2020←後掲「临高启明」〕
──直库:大鼓を担当する(役・人)
維基とはかなり意味が異なります。ただ重要なのは,直庫は「漳州方言」なのだという点です。
もう一つ,中国の民間史家の論文らしい。ここに元代の「市舶抽分则例」(広州の市舶司相当職の規則らしい※)の一部が掲げられています。──注目度の低い史料なのか,ネット上では上海税関の史料(注記参照)以外に引用が見当たりませんでした。
※後掲中国上海海关HPは「即元世祖至元三十年(1293年)颁布的《至元市舶则例》(又称《整治市舶司勾当》)」として同文を掲げる。
(一)舶商请给公验,依旧例召保舶牙人,保明某人招集到人伴几名下船,收买物货往某处经纪。公验开具本船财主某人,纲首某人,
直库某人 ,梢工某人,杂事等某人,部领等某人,人伴某人,船只力胜若干,樯高若干,船身长若干。每大船一只,止许带小船一只,名曰柴水船。合给公凭,如大小船所给公验公凭。各仰在船随行。如有公验或无公凭,即是私贩,许诸人告捕给赏断罪。〔元代《市舶抽分则例》二十二条(照录《元典章》原文)←後掲馬光〕
上下のいずれも,この規則の規定の一部らしい。上記は保険適用に関するもの,下記は海商の募集のようです。
(一)海商每船募纲首、
直库 、杂事、部领、梢工、碇手,各从便具名呈市舶司中给文凭。船诣公印为记,人结五名为保。〔元代《市舶抽分则例》同上←後掲馬光〕
なお,同文の解説に後掲中国上海海关は「管理武器等设备之人」と括弧書きを付しています。こちら自体の史料出典は見つかりませんけど和訳すると──「武器などを管理し,備え付ける人」です。
備え付ける「设备」とは──金銭取引で調達・購入することでしょうか?それとも分捕ってきたものを蓄積すること?
直庫さんとは,一体何を象徴したパフォーマーなのでしょう?
海上アジアに冠たる長崎媽祖行列
海域アジアの廟で媽祖の両側を固める正規サブキャラ・順風耳&千里眼は,元は乱立する海神だったのを,媽祖(信仰)が吸収して配下に入れたものです。同じ運命を辿った海神は多数あるらしく──
妈祖的水阙仙班至少有十八位神仙,分别是:海晏公、千里眼将军、顺风耳将军、嘉应将军、嘉佑将军(嘉应将军、嘉佑将军在有些地方被视为千里眼及顺风耳,有些地方认为不是)、黄蜂兵帅、白马尊王、丁壬使者、柽香大圣、青衣童子、水部判官、巡海仙官、百花仙子、凌波仙子、四海龙王[39] 。〔維基/妈祖/相关传说〕※原典:[39] 保庇NOW 媽祖婆的小內閣 水闕仙班
──媽祖の「水阙仙班」(≒媽祖とその仲間の海神サマたち)は少なくとも18おわす。
伝承によっては「二十四司辅助神」とか「三十六仙官」というのもあるというけれど,いずれもヒットせず,その一覧が入手できません。ただ「18柱編成」の上記一覧を見る限り,その中に「直庫」又はそれに重なる象徴は見当たりません。
何が言いたいかと言うと,直庫さんは,どの海域においても神サマになった形跡がない人的存在だということです。
前掲直庫さんダンスでも見るように,この人の定位置は本来媽祖サマの横の隅っこです。──おそらく江戸時代,菩薩揚げ卸ろしに武器を手に随行していたのでしょう。長崎の見物人は,この人が「てっこ」と呼ばれているので,その手にする武器の名前だと誤認した。結果として,現代・媽祖行列に列する直庫さんは「直庫振り」と呼ばれるに至ったのでしょうけど──要するに,菩薩揚げ卸ろしの警備員だったのでしょう。
ただし,この警備員さんが,船上の日常下で如何なる職責を帯びていたのか考えると,漳州人がわざわざ直庫という職をなぜ特設してきたか,その実情が想像できます。
先述の土神堂の史料(→土神堂広場に集う!!参照)での「1705年73番船頭私刑事件」としても記されますけど,スティーヴンソン「宝島」を想像して貰っても構いません。なべて船上は反乱の起こりやすい世界らしくて,江戸期当時の福建南部はその本場です。
武器は倉庫に集め,厳重に施錠して一元管理されたでしょう。ただ,武器の数量は,港の闇の武器市場での購入,時には他船や陸人からの略奪でプラスされ,彼らを含む小競合いの都度に使用あるいはマイナスされなければならなかったわけです。武器庫の鍵は,施錠の要だけでなく,危機に応じた速やかな開錠も要求されたでしょう。それは即ち,船員の武装許可です。時によっては,船内反乱を起こすスイッチでもあったでしょう。
そうした海域世界において,直庫さんは実質的に大きな責任と権限を有したと想像できるのです。
なお,では長崎風に言う「直庫」(てっこ)とは何かとさらに想像すれば,こうした棒を使う武術はアジアからアフリカにまで存在し※,中国や琉球では棍術
〔wiki/棒術〕。途中で折れるのが三節棍や四節棍,鎖などで繋がれていればヌンチャクです。
反乱を企む船乗りは武器庫の制圧を狙うでしょうから,直庫さんは本格的な武器に準じた武器の携帯を唯一許された存在だったのでしょう。防衛施設庁(又は戦時中の軍需省)の責に加え治安用の常備警察力を有する職──。
そんな人は,一度戦時(海賊からの守備はもちろん,海賊としての攻撃時)にも,部隊の指揮を取らなくても副官ほどの役には就いたでしょう。
よって,長崎媽祖行列は,中世福建海商の荒々しき残滓たる直庫さんを,おそらく海域アジアで唯一登場させるイベントだと考えられるのです。
──とまとめておきますので,また長崎に入れて下さいね。
■レポ:孫文 梅屋庄吉 他千人の大アジア
(梅屋庄吉の)孫文に対する革命への資金援助額については、現在(2010年時点)の貨幣価値で1兆円に及ぶとされる。〔wiki/梅屋庄吉/その他〕
この史料根拠を明示していないwikiの金額が,かなり独り歩きして,物語を構成してます。
孫文との出会いは1895年、孫文29歳、庄吉27歳の時だった。香港で実業家の道を歩み始めていた庄吉は、中国の近代化を熱く語る革命家孫文に初対面で意気投合し、彼に対し「君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」と、その決意を述べている。この言葉は孫文が死ぬまで守られ、二人の友情も終生続いた。その間に庄吉がつぎ込んだ革命への援助資金は現在の貨幣価値に直すと一兆円とも二兆円とも言われている。〔後掲しょうちゃんの繰り言〕
近世の終わり切らない時代の貨幣価値は算出しにくいらしく,後掲三菱UFJ信託銀行では明治後半の1円を1500〜2万円とします。つまり,令和・1兆円は明治・5千〜6億円。──日露開戦の1904(明治37)年の国家歳出2.8億が翌年3億代を飛び越し4.2億,それで壊れた経済下で1908(明治41)年には6.4億まで膨張した〔後掲プチモンテ/明治から平成の歳入、歳出の年間推移〕という時代に,確かに考え難い金額です。
長崎には,貧乏とは言え国家の少なくとも1割ほどの財力を持つ資産家がいたことになります。
力を貸してくれたのが、シンガポール在住の「興中会(孫文が結成した革命的秘密結社)」の華僑たちである。彼らは故国を離れた中国人で、孫文の革命運動に夢を託していた。孫文に支援を惜しまない庄吉を助けることに彼らは躊躇しなかった。土地の提供、必要な資材の調達、映画の宣伝など、彼らは庄吉の映画興行のため奔走した。
これが当たりに当たった。庄吉は莫大な金を手にすることになる。映画人梅屋庄吉の誕生である。1905年6月、庄吉は50万円(現在では約4億円)という莫大な資金を持って、日本に帰国した。〔後掲国際留学生協会〕
上下の記述は,やはり出典を記しませんけど,50万と17万──桁が2つは違うようです。
この辺りまで見て,出典史料はもちろん,学術論文が全然姿を見せないことに気付かされます。「美談」しか出てこない。これはどうも,淡々と事実か否かの次元以外のところで話が回ってる感じです。
武昌蜂起成功の電報が庄吉のもとに届いた時、庄吉は躍り上がって喜び、すぐ撮影技師を呼び寄せ、中国行きを命じた。孫文の革命をフィルムに収めるためである。そして武昌攻防戦を戦う同志に17万円(現在では1億以上)を惜しげもなく寄付した。〔後掲国際留学生協会〕

中国革命百年・現代史再評価運動
時系列として単純に考えましょう。辛亥革命百周年(1911年+100=2011年)に中国共産党は辛亥革命に一定の再評価を加え,その中で「あまり知られていない」孫文を支援した「日本の庶民たち」の存在をアピールしています。その前提,「既に知られている政財力ある」孫文支援者の一人に挙がったのが,日本人のあまり知らなかった梅屋庄吉です。
中国共産党の新・辛亥革命革命評価は,大まかに三文節です。一つ,辛亥革命以降の百年は「革命の時代」であったこと。
1911年の辛亥革命から1921年までの10年間、中国の歴史舞台では迫真的で想像を絶するような悲喜劇が演じられた。
この激動の10年の間に、2000年以上続いてきた封建帝制が瓦解し、民主共和の民国が誕生した。しかし、その後、二人の皇帝が出現し、五人の総統が誕生し、それぞれ革命を主張し、改良を主張し、帝制を主張し、復古を主張する政治潮流が激突した。銃声と流血の中で、屈辱と憤怒の中で、雄叫びと反抗の中で、中華民族は覚醒し始めた。そうした状況下、マルクス主義が中国に伝わり、中国共産党が成立し、中国の運命を根底から変える偉大な革命の幕を開けた。〔後掲人民中国〕
二つ,「革命の百年」の中で3つの飛躍がなされたこと。曰く,辛亥革命→新中国成立→解放経済。
──辛亥革命をそれまで十分に位置付けられなかった共産中国の,画期的な新レトリックです。上記三者を「左右のブレ」ではなく連続した飛躍,いわばホップ・ステップ・ジャンプの関係に捉え直したのです。
革命時代、孫文氏は民主革命の先駆者だった。建設の時代になった1970年代後、孫文氏は近代化の先駆者になった。さらにこのようにも言われている。中華民族は歴史上3回の飛躍を遂げた。1回目は孫文氏がリードした辛亥革命、2回目は中華人民共和国の成立、3回目は改革開放である。〔後掲中国網〕
三つ。飛躍の一段階目の辛亥革命には,日本人にも大変御支援頂いたこと。
──これは逆に言えば,三つ目の飛躍・経済解放での日本の支援も,かつ二つ目の飛躍の前段階での敵対関係も放擲して,「日本人もこの三段跳びに共鳴してきた」という論理に一元化しようということです。
孫文と触れ合った千人を超す日本人たち
光部愛=文 賈秋雅=写真
孫文は長期間、日本に滞在し、日本を革命の基地としていた。その間に、多くの日本人が孫文と接触し、交流した。宮崎滔天や梅屋庄吉、犬養毅らが孫文の活動を精神的にも財政面でも支えたことはよく知られている。しかし、名もない日本の庶民たちが、孫文の生活の面倒をみたり、宿泊先を提供したり、講演会や歓迎会に出席したりしたことはあまり知られていない。そうした無名の日本人の記録が残されていることがこのほど明らかになった。その数はなんと千人を超す。〔後掲人民中国〕
「革命の百年への日本人の再位置付け」(2011)に追従する順序で,梅屋庄吉の再評価(前掲TV東京:2014)の波が来ています。
梅屋庄吉 松方幸次郎 犬養毅 平岡浩太郎 小川平吉 宮崎滔天 清藤幸七郎 北一輝 平山周 萱野長知 秋山真之 金子新太郎……
こうした政治性ゆえか,上記のような政治文脈を冷静に語った学術的記述はかなり少ない。何とか見つけたのが,以下の山室信一さん(近代日本政治史・近代法政思想連鎖史,京都大学名誉教授)の論文です。
中国本土において辛亥革命百周年記念事業に力が入れられたのは,研究そのものの要請というよりも政治的意図が背後に秘められていることは否定できないであろう。その反面,中国と同じく孫文を国父とし,その意志を継いだはずの蒋介石と国民党の政治的影響力がなお根強い台湾では記念事業やパレードなどは行われたものの,私の個人的な感触によるかぎり,一般の人たちにとって辛亥革命百周年も中華民国百周年も心揺さぶる大きなイベントにはなりえていないようである。書店の本棚にも関連する記念出版物は殆ど並んではいなかったし,研究者のレベルでも特にホットな話題ではなかった。〔後掲山室〕
簡素に言うと,辛亥革命百年イベントは,ほぼ政治的な運動に終始した,ということです。
これは現実の日中関係の緊迫化と合わせ鏡になっていて,時代をズラした日中の共鳴する物語を喧伝しようとする意図が働いている,ということにもなります。
二〇一二年に日中国交正常化四〇年を迎えながらも尖閣諸島問題などをめぐって日中関係が緊迫するなかで辛亥革命にも更なる意味づけが付加されることになっている。その中では,孫文らの革命運動に梅屋庄吉や宮崎滔天や渡邊元などが与えた支援に注目した出版やシンポジウムが日本では相次ぎ(ママ),彼らの行動が見返りを求めない「無私」であったことが強調される傾向があり,さらには西川東洋『辛亥革命を成功させたのは日本人だ』(新生出版,二〇〇八年)というタイトルに端的に示されたような歴史観も繰り返し示されてきている。また,小坂文乃『革命をプロデュースした日本人』(講談社,二〇〇九年)も梅屋庄吉についての史料紹介を目的とした貴重な著作ではあるが,そのタイトルから見る限り,日本人が辛亥革命をプロデュースしたかのような誤解を与えかねないものとなっている。〔後掲山室〕
おそらくですけど,この論調の演出家側は,「プロデュース」論さえもさほど嫌悪せず,むしろ政治的イメージ作りとしては歓迎しているでしょう。中国的な発想は今・此処に立脚した現実主義ですから,前代の中華民国の「父親」気取りをされようと,親和感さえ得られれば合目的のはずです。
(続)確かに,多くの日本人がそれぞれの立場から孫文の革命運動に物心様々な面で支援したことや辛亥革命に係わったことは史実である。梅屋庄吉や川崎造船所社長・松方幸次郎などの財界人の他,犬養毅,平岡浩太郎,小川平吉などの政治家,宮崎滔天,清藤幸七郎,北一輝,平山周,萱野長知など「大陸浪人」「支那浪人」と呼ばれた人々,そして秋山真之※や武昌蜂起で戦死した金子新太郎といった軍人など,孫文が何らかの形で交流をもった日本人の数は孫文が「志あれば成る」で挙げた人々を始めとして一〇〇〇人にも上るものとされており,日本人と孫文そして辛亥革命の係わりの詳細については今後さらに明らかにされていくに違いない。〔後掲山室〕
出資者は歴史の「プロデューサー」なのか?
さて,ここまで頁を割いてるのは,隣国のイメージ操作を揶揄したいからではありません。むしろ,こういう操作に簡単に雷同してしまう,脆弱な歴史観を持つ側の責任の方を問いたいからです。山室さんは続けて,意外な例えを出してきています。
(続)しかし,そのことと辛亥革命が成功だったのか,またそれを実際に”プロデュース”したのが日本人であったかどうかは別の次元の問題であろう。それは例えば,幕末にイギリスの外交官アーネスト・サトー(Emest Mason Satow)が,将軍は主権者ではなく諸侯連合の首長に過ぎない,新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び,日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである,といった趣旨の「英国策論」(一八六六年)を書き,それが西郷隆盛や坂本龍馬らに強い影響を与えたとして,またイギリスがフランスとの対抗上薩長派を支援したとして,さらにイギリス人貿易商人グラバー(T.B.Glover)が薩長藩士の留学を支援し薩長盟約結成に暗躍し,武器を提供したからといって,それ(もって日本の明治維新を成功させたのはイギリス人であり,明治維新をプロデュースしたのはイギリス人だというイギリス人の主張を日本人がどう受けとるべきか,という状況を想定すれば問題の質は明らかなはずである。〔後掲山室〕
山室さんは流石に,クールな歴史認識に自信を持って立っておられます。仮に梅屋庄吉その他の中国情宣が挙げる「日本庶民」が本当に身を挺した金銭支援をしたのだとしても,それは他国の歴史に参加した,あるいは支配(≒プロデュース)したというのとは全く別の次元の行動である。
PKOに財政支援だけをして「参加」した気になっている日本人的感覚と,これは通じています。支援は支援であって,それを歴史の主役や主体になることと主観的に混同しても,客観的には誰も認めてくれない現実離れしたイメージでしかありません。
大多数の国の人たちは,自分たちが歴史の主体になって,簡単に言うと汗と血を流してきた時空から,語り始めた歴史を持っているからです。
1億円は誰の金だったか?
話を梅屋庄吉に戻します。最初に触れた庄吉さんの財布の大きさから考えて,いくら「無私」でも1億円※もの支援が出来た理由としては,ちょっと苦しいでしょう。※1936年3月 艦政本部試算段階の戦艦大和の建造費見積額として,約1.37802億円という数字がある。〔wiki/大和 (戦艦)〕
それはこの支援の,現実の「汚さ」を暗示しています。
(梅屋庄吉は)事実は孫文にうまく利用されたのではないか?
もしくは日本国の国家的な意図があったのではないか?つまり満州事変以前に中国大陸に対する野望に利用されたのではないか?
疑問は膨らむ。なぜなら対支21カ条と言うものが辛亥革命後、直ぐに出されたからだ。あのような乱暴な外交はない。
梅屋庄吉氏の存在は何だったのか。やはり孫文にうまく金を出さされたのではないか?〔後掲日本の武器兵器〕
途中の段にある「21ヵ条」は教科書にもあるアレです。WW1中,第三回日英同盟協約を理由に日本は1914年8月ドイツ帝国に宣戦布告,連合国の一員として参戦して漁夫の利を得ようとします。
おそらくそれに先立って,日本が中華民国の袁世凱(皇帝)の内諾を得ていた行動が「21ヵ条要求」だった,というのが真相らしい。
孫文は、「21ヶ条要求は、袁世凱自身によって起草され、要求された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」、と断言した。また、加藤高明外相は、最後通牒は、譲歩する際に中国国民に対して袁の顔を立てるために、袁に懇願されたものである、と公然と認めた。さらに、アメリカ公使ポール・ラインシュ(Paul S. Reinsch)の国務省への報告書には、「中国側は、譲歩すると約束したよりも要求がはるかに少なかったので、最後通牒の寛大さに驚いた」とある。〔wiki/対華21カ条要求/その後の展開 ※原典:[23] 米国人の観たる満洲問題(太平洋問題調査会、1929年)〕
つまり,結果的に沸騰した中国国民の憎悪とは別に,中華民国中枢と日本政界には極めて太いパイプがあった可能性が高い。
※1922年に日本の広東駐在武官となった佐々木到一(1886-1955)は,同時期に広東を本拠としていた国民党・孫文の軍事顧問に就任している。佐々木は人民服(中山装)の考案・デザイン者としても知られる。
それを前提にすると,それはいつ出来たのか?という議論になります。最も自然な発想は,元々は個人的友情で孫文に資金提供していた梅屋庄吉らのルートに,日本政府の工作金が「積み増し」された,という可能性です。バックマージンが期待されるほど,それは徐々に比率を高めた。マージンの中身は,中華民国治下での経済活動の優遇で,山東の領有もその延長と捉えられていたのでしょう。
ただ,現実の日本への便宜供与は,辛亥革命に期待してきた中国人民,地方軍閥,海外華僑,全ての勢力から激しく批判されます。上記の各者の証言を前提にすると21ヵ条要求は日本への便宜のためのセレモニーだった訳ですけど,袁世凱は百戦錬磨の狡猾な政治家です※。要求の前提の密約が秘中の秘だったのをいいことに,日帝を敵国とすることによる国家統合に舵を切り替えます。
また,日清戦後の自軍(定武軍)の育成時には,公使館付武官の青木宣純を軍事顧問として様式化に成功している。〔wiki/袁世凱〕
つまり日帝は袁世凱の堂々とした裏切りに遭って,一兆円を流した末に漢民族の敵に祭り上げられてしまう。密約だから抗議も出来ない。
──案外,中国共産党もこの辺の実情を前提にした上かもしれません。中国現代史における日帝の「名誉回復」を図りつつ,密約を伝え聞いている現代日本の権力中枢を震撼させることを目的として。
再掲・梅屋庄吉と孫文の「友情」
19C末の西欧列強の怒涛の侵略下,風前の灯たる中国を巡る冷徹な政治闘争の中でもみくちゃに翻弄され利用されたとは言え──梅屋庄吉と孫文,両者の夫人・トクと宋慶齢は強い連帯で結ばれていたのは確からしい。
孫文と同じくまだ大日本帝国をアジアの解放のムーブメントと信じられた時代,彼らはWW2段階のそれからすると「空想的大アジア主義」とでも言うべき素朴な希望の光景を共有したのでしょう。
──こうした時代考証に立脚してて本稿でも,ようやくホームドラマ並みに,この四者の人間を語り始められます。
以下は,梅屋庄吉の曾孫に当たる方が経営する老舗旅館の歴史プログの一節です。筆致を壊したくないので,節全体を転載させて頂きます。
1階ロビーの右手に展示してある燭台付きのアップライトピアノ(写真)は、梅屋庄吉邸において孫文夫人である宋慶齢が弾いていたピアノで、国産のもっとも古いもののひとつです。
日比谷松本楼になじみ深いお客様に、革命の志士・孫文(写真中央)もいらっしゃいました。辛亥革命時、日本に亡命中だった孫文は松本楼の代表取締役会長夫人の祖父であり、現社長 小坂文乃の曾祖父にあたる梅屋庄吉(写真は梅屋夫妻)に連れられて革命運動のため、しばしば当店を訪れております。
梅屋庄吉は、中国革命の父と称えられる孫文を一生をとおして、物心両面で支えました。 原文添付写真〔後掲日比谷松本楼〕
孫文は日本亡命中、足しげく梅屋邸に出入りしておりました。大正4年には梅屋邸で宋慶齢(写真)とめぐりあい、結婚式を挙げることとなります。夫婦が中国に戻るまでのあいだ、婦人は梅屋邸に身を寄せて、ひまさえあればピアノを弾いていたそうです。孫文は、しばしば松本楼も訪れていたことから、松本楼の再建後(下記)に「孫文夫人ゆかりのピアノ」が店内に展示されることとなりました。〔後掲日比谷松本楼〕
孫文は,袁世凱に政権を渡した後,1925年北京にて没。
梅屋庄吉は,1934(昭和9)年別荘のある千葉県で没。
梅屋トクは,終戦を見てから1947(昭和22)年に死にました〔後掲テレビ東京,長崎歴史文化博物館「長崎の偉人 梅屋庄吉」〕。その状況は,よく分からない。ただ出身地・壱岐には,孫文への支援金の残りが島内のどこかに未だ埋蔵されている,との伝承が残ります〔wiki/梅屋庄吉 原典:JTBパブリッシング『るるぶ九州の島々』〕。
宋慶齢は,政治歴を重ね死亡(1981)時には中華人民共和国名誉主席。つまり形式的には国家元首クラスです。
全く痕跡のないトクは諦めざるを得ませんけど,残る三人の生き様の実情をもう少し追った上で,長崎福建会館に話を戻して参ります。
梅屋庄吉:三門駅にて死去
梅屋庄吉が亡くなる情景は,「死の間際まで日中融和を願って」的な絵になりやすいからか,幾つかの記述があります。ありますけど,これらが微妙にズレてます。
wiki/梅屋庄吉によると「日中関係の悪化に伴い,外相・広田弘毅に改善の談判に赴こうとした途上,別荘の最寄駅である外房線三門駅にて倒れ,急死した。65歳歿。」。
おそらくこれが最も穏当な通説です。
①行先:外相(宅又は官庁)
②目的:外相との折衝
③臨終場所:三門駅
三門駅近くには,GM.上「梅屋将吉別荘跡地の石碑」というポイントがあります。ここの画像に碑文も登録されていたので読んで見ると──
昭和九年(一九三四)十一月十五日,廣田弘毅外相の要請を受け,日中問題打開のために,蒋介石総統と会談すべく,療養中の三門の別荘から駅に向かったが,列車を待つ三門駅ホームにて昏倒,七日目に帰らぬ人となった。〔梅屋将吉別荘跡地の石碑 碑文→GM.画像より〕
つまり,
①行先:?
②目的:蒋介石との会談
③臨終場所:三門の別荘?
庄吉は「蒋介石総統と会談」しに行こうとしていた,と書かれます。その場所は定かでない。また,三門駅では「昏倒」しただけで死ななかったけれど,それが元で一週間後に亡くなった。とすると臨終場所は担ぎ込まれたであろう別荘,又は最寄りの医療施設と推測されます。
これが後掲国際留学生協会の記述によると──
広田弘毅外相から頼まれて、訪中する直前のことであった。広田外相は軍に外交が振り回されている現状を憂い、日中の話し合いの機会を持とうとしていたのである。庄吉はこの依頼を快諾した。庄吉の体調が思わしくないので、案ずる妻に、「心配ない。中国に行けば、痛みは消えるさ」と言っていた。心は中国に向いていたのだ。その矢先に倒れてしまった。〔後掲国際留学生協会〕
①行先:中国(南京?)
②目的:蒋介石との会談
③臨終場所:三門の別荘?
この状況だと,庄吉を蒋介石に会わせて当時緊迫化していた日本-蒋介石南京政府の関係が融和されることを,誰かが嫌って妨げた,例えば三門駅で待ち構えて襲撃した可能性が窺えるようになります。
そこを決め付けられる材料はないのですけど,庄吉の臨終の記述に,変に穏当な形に補正された形跡を感じるのです。
宋慶齢:新中国の象徴元首として
孫文夫人・宋慶齢の最終所属政党が,孫文の起こした国民党ではなく,共産党であるのに驚かされます。
この女性は,1893年上海生まれ。客家の宋嘉澍(チャーリー宋)と倪桂珍の次女。1907年に14歳で米・ジョージア州ウェスレイアン大学に留学,文学学士号取得後に1913年帰国。翌1914年から父親が支援する孫文の英文秘書となった縁から,翌1915年に上記引用の通り東京で結婚したわけです。なお,孫文は宋慶齡より26歳年長。
孫文死去(1925)段階では宋慶齢はもちろん中国国民党に属してますけど(中央執行委員),蒋介石の南京政府(1927)と対立,汪兆銘の武漢政府,ソ連滞在を経て1929年に国民党を脱退し香港滞在中に終戦。
あちこちを半端に流れている体ですけど──宋慶齢は姉の宋靄齢,妹の蔣介石夫人・宋美齢の総称「宋氏(家)三姉妹」の一人としても知られます。「三姉妹」が革命アイドルとして最も著名なのはこの時期の「抗日統一戦線の象徴」としてです。
宋慶齢:張曼玉 マギー・チャン
宋靄齢:楊紫瓊 ミシェル・ヨー
宋美齢:鄔君梅 ヴィヴィアン・ウー
※原キャプション「The three Soong sisters in Shanghai, c. 1917, after they had all returned from studying in America. From left: Red Sister, Ching-ling; Big Sister, Ei-ling; Little Sister, May-ling.」
国共内戦では「引抜き合戦」があったらしい。1948年に国民党から名誉主席に選出されるけれど,新中国で中央人民政府副主席に就任。本人は孫文の「聯俄容共」(ソ連との協力,共産党の容認)方針に従って,と説明しています。
ただ,共産政権下でも政治実権というよりは,孫文夫人としての象徴的活動が多かったと言われる。いわば「共産中国の天皇」だったわけです。その性格上,文革時には上海の造反派から宋家が資産階級として批判され父母の墳墓は破壊,宋慶齢本人も妹が蒋介石夫人である≒「蔣匪」として攻撃されます。けれど,毛沢東の選んだ「文革保護対象名簿」の第一位に名を連ねていたため直接の危害は逃れています。
「中華人民共和国名誉主席」号は死の直前に贈られた。
そして長崎福建会館に孫文像が立った
孫文は,1924年11月に日本・神戸で日本に「西洋覇道の走狗となるのか,東洋王道の守護者となるのか」と問う内容で有名な「大アジア主義講演」を行います。その翌年,ガンにより北京で死亡。
さて,この件の端緒だった福建会館の孫文像ですけど,この場所は,1913(大正2)年に長崎華僑が孫文を迎えて食事会をした場所として選定されたと記録されています。
設置場所
長崎福建会館(長崎市館内町3番地1)
この地は,華僑主催の孫文先生歓迎午餐会が李家隆介長崎県知事,北川信従長崎市長らの出席のもとで開かれた場所であり,参加者の記念写真が残されている。〔後掲長崎県日中親善協議会 p5〕
孫文の死の12年前になります。既に大統領権限を袁世凱に譲った後です。計50人ほどの次の集合写真が,同記事には掲載されていました。
物々しい雰囲気で,左端に警官も写ってます。石垣が見えますから,現存する星聚堂前の石壇に並んだものでしょう。
この時の孫文の行程も記載されていましたので,長文になりますけど以下転載して,本章を閉じます。東京・横浜・神戸・熊本を一週間かけて回っています。熊本へ寄った理由が分かりません※けど,目的として「辛亥革命を支援してくれた日本朝野の人たちへのお礼のため」とハッキリ書かれています。今後の日中協力についても当然語られたでしょうけど,そちらの中身は不詳です。
孫文が晴れて長崎へ公式訪問されたのは大正2年のことであった。この1年前の1912年に中華民国を樹立し,一旦は臨時大統領に就いたが,数ヶ月後には政治的妥協によりその地位を軍閥の袁世凱に譲り渡し,自らは鉄道督弁の地位に就いた。
大正2年2月13日,航路で上海から長崎に到着した孫文は,出島岸壁で盛大な歓迎をうけたあと,ただちに列車に乗り継ぎ(ママ)東京に向かった。来日の目的は,鉄道建設のための借款要請と辛亥革命を支援して くれた日本朝野の人 たちへのお礼のため であった。一行は,東京,横浜,神戸と熊本を訪問したあと3月21日に列車で長崎に向かった。途中,早岐駅では,内田佐世保市長の歓迎をうけ,また諫早駅からは李家長崎県知事が同乗,長崎駅に到着した一行は盛大な歓迎をうけた。
長崎に2泊した孫文一行は,精力的に日程をこなした。到着したその夜は,中国領事館で領事主催の歓迎会に出席。翌22日は,袋町の青年会館で「世界の平和と基督教」と題して講演,館内町の福建会館で華僑主催の歓迎午餐会に出席。東洋日之出新聞社鈴木天眼※を古河町の自宅に訪問。小島の鳳嗚館で開かれた長崎官民合同の歓迎会に臨んだ後,精洋亭で開かれた長崎医専に学ぶ中国人留字生の歓迎会に出席。最後の23日は,朝から三菱追船所構内を見学し,占勝閣での午餐会に臨んだ後,北川長崎市長らに見送られて天洋丸に乗船し,上海に向かった。〔後掲長崎県日中親善協議会/p6-7長崎福建会館理事長〕