本編の行程:Googleマップ(経路)
雨粒に艶めく路面 清真寺
傘さえ持ってれば,とは思ったけど,駅前を出る時には明るい曇り程度だったんである。
路地侵入に疲れたところなので,まあ,雨宿りしながら休憩しよう。幸い,寺の前に灰皿がある。
古城の町の煌めきは,雨粒を受けてさらに魅力を累乗させていく。
ところで,門の前にあるのはバス停じゃないか?どこへ行くバスが,こんな石畳を走る?
すると,丁度来た。観光車って…これかい!嬉しげなミュージシャンを垂れ流すオープンカー,これにだけは雨に濡れてでも乗りたくないぞ!
清真教寺の門が開き,中からハリーポッターのゴブリンみたいな爺さんが出てきた。何か訊いてきた。
聞き取れない。よくよく聞くと?「お前60歳か?」──初対面の第一声で歳だけ訊くな歳だけ!それにそのお年は多過ぎるわ!
昭徳街 目前なれど雨止まず
1501。雨がようやく小降りになってきた。でもなかなか完全に止まない。
百度地図で見ると清真寺は古城域の東端のはず。そろそろ南に下りたい。ただし,さっき侵入した小路はどれも全然地図にはない。つまり歩いてみるしかないわけです。とすると…早く止んでくれよ,雨!
業を煮やして再出撃。1512。
昭徳街というエリアを目指してた。この寺のすぐ南から入れるはずで,こんな直前で焦らされてる場合じゃないんである。
しかし。
左手東側になかなか道が現れない。古城の中心部のはずが,どんどん寂しげな通りになる。
おかしい。
昭徳街は清真寺のそばで,旧市街の真ん中。それは間違いないんですけど──。
そのうち雨足も勢いを取り戻す。西側へも路地を覗くけど,どうにも出口が見つからない。
この時は,夜になって地図をまじまじ見てやっと気付いたんですけど──本文では一足早く,次の写真の後,解決編です。
清真寺ならぬ青州真教寺
清真というのはイスラム教で,そのモスクは一般名称として「清真寺」と呼ばれます。
この時,着いたつもりでいた「清真寺」はこの場所でした。GM.→真教寺(昭徳街)
けれど実際にいたのは…。GM.→清真寺(南营街)
▲南菅街から西側へ!その3:別の路地。やはり行き止まりでしたけど,見よ!この凄い煉瓦の路面!
青州のモスクはなぜか他と違って「真教寺」と呼ばれてる。
それと併せ,「清真寺」も別にある。
両者の位置は西向きのT字近くで,やや似ている。
つまりワシの記憶が「真教寺」→モスク→「清真寺」と変質した。さらに不幸なことに清真寺は別に存在した。そして,そこがたまたま南に行くほど出にくい袋小路だったわけでした。
▲南菅街から西側へ!その4:また別の行き止まり路地。この左手の壁も凄まじい荒れ様です。
ちなみに,なぜ2つもモスクがあるのか?
有名な方のモスク,真教寺は1302年,元代の創建。日本で言えば元寇が終わった頃。
「据寺内碑文记载:元大德六年(1302年)元相伯颜后裔所建」
※ 百度百科/青州真教寺→巻末ミニレポ
無名な方,ワシが間違えた清真寺は,城域から真教寺へ行くのが不便だから近場に作られたと碑文にあるという。日本神道の「里宮」のようなもの。創建は1546年,明代。信長が元服した年です。
「据青州市原仪门南碑载:青州城里穆民因雨雪天道途泥泞,出城去东关真教寺礼拜不便,遂在此建寺。」
※ 百度百科/城里清真寺
▲南菅街から西側へ!その5:廃墟のように見えて,きちんと生活してる気配もある。扉をくぐると帰れなくなりそうな妖しい生活感です。
という位置から今考えるなら──
南营街をもう少しだけ,西への仓巷の対面方向へ曲がって進めば,雲門山南路→夏钦园中路→昭徳街(GM.)と進んで真教寺へ着けたはずでした。
けれどこの時は,雨と袋小路の焦りで正しいルートを見つけるに至っていません。未熟未熟。
▲南菅街から西側へ!終章:これは完全に民家の門。東西方向の路地は結局見つからなかった。
11529西へ,やっと仓巷という道が開ける。
南营街を後に右折西行。
今から見たら,清真寺から20分しか歩いてない。でも当時の感覚では,雨でぬかるみ距離も稼げず,1時間も歩いてたような記憶です。
1537,偶园街に出る。トイレの表示があるので,これに沿って南へ左折。
■ミニレポ:(作業仮説)青州兵と回族
青州はイスラム教の興隆地の一つで,その本拠だった真教寺は,元代には三大モスクの一つに数えられたという。現在の規模から考えられないほど,古代には九州の一とされた活況を呈したとしても,位置的にいかにも不自然です。
遡ること千年,2世紀に曹操軍中核となった「青州兵」という集団は,黄巾残党であったとされ,塚本青史さんは「曹操伝」中,総数百万人の多夫多妻制の共同体を成す新興宗教団体と描かれてます。
青州という場所には,その由来は全く定かではないけれど,漢族の標準的生活習俗を逸脱する集団が,相当長期間に渡り住んでいた可能性があるのではないか?
そうだとすれば,漢末の百万人という規模から考えると(現在の回族推定人口:一千万人),回族の由来地域の一つと考えることも出来ると思われます。
青州是山东省回族人口较多的地区之一,历史上就是山东中东部伊斯兰教的活动中心。早在唐代,这里就有伊斯兰文化的繁荣,许多阿拉伯人、波斯人、大食人通过陆地和海上的“丝绸之路”来到青州,开展贸易活动,称之为“蕃客”。元朝开始,青州逐渐形成了稳定的回族聚居地。目前这里回族除外地迁入之外,还有些是青州汉族群众,改信伊斯兰教而加入回族,也有一些汉族与回族通婚联姻后,为尊重回族的生活习俗,加入了回族。青州回族自元末明初入居青州七百多年来,不仅创造了灿烂的精神文明,也留下了许多宝贵的物质财富。东关真教寺就是其中的一个。
青州东关真教寺”是一个省级文物保护单位,位于青州东关回族聚居区,交通还算方便。它始建于元大德六年,是当时全国三大真教寺之一。经历代修葺,规模不断扩大。
※ 民俗学博客-Folklore Blogs » 王宪昭的空间 » 日志/山东青州的满族村与东关回族真教寺 王宪昭
追黄巾至济北。冬,受降卒三十万,男女百万余口,收其精锐者,号为青州兵。
——《三国志魏书一武帝纪》
※ 百度百科/青州兵(汉末时期军队)/青州兵由来考