外伝17-114 滴りや過ぎ去つてゆく老北京/胡同9/10=国子监街

賢くなるがいい:国子监街

▲安定門内大街から国子监街への入口

応調べてみたけれど,国士舘大学の名前の由来とこの道は,予想通り深い因縁がありました。→巻末特集:北京国子监街と日本との秘められた関係

▲国子监街前の安定門内大街はまた結構な交通量

九目的地・国子监街は,昔は「成賢街」とも呼ばれてた。なぜ「賢く成る街」かと言うと,孔子廟があるかららしく,その薫陶に預かろうとしてか明清代にはここに「国子监」という大学があって,現在の名前はそこから来てる。
 てことで,さっきのは嘘です。日本の大学とは関係無し。まあ字も違うし。

▲国子监街西入口辺りで売ってた鼈甲飴。中国にあるんだなあ。

の国子监街も文革時には廃名されて復活してる。文革時の名前は「红日北路九条」と,何とかしろよ,という感じのもの。
「抗日」じゃないのが救いですけど,やはり一度は睨まれた前科のある胡同です。
※ 百度百科/国子监街
「街口的东西两座,额枋曰“成贤街”,“文革”之中一度改名红日北路九条,后恢复原称。」
「国子监街上还有祀唐代大文学家韩愈的韩文公祠、始建于明代的火神庙、祀灶王爷的灶君庙。」

▲シックなお店も多い。この白亜の「paint」なる店も,デザイン的に素晴らしいけど何やってる店?

代,大学街としては随代に遡るともされる古い道です。
 火の神もここにあったとされる。この神様,北京に何か因縁があるんだろか,それとも遊牧民由来なのか。

▲道には街路樹の木漏れ日が満ちる。

ーん,確かにいい道です。古い建築も多く,交民巷よりは道の趣もある。

▲脇道も良い。良いんだけど入ってみたいような惹かれ方はしないなあ。

だ,どうも生活者の匂いがない。一本道だから仕方ないけど,路地もどうやらまっすぐで,迷いようもない。
 北部の胡同の典型だと言えないこともない。

▲国子监街マンガ

民巷と違うのは,居住者が,生活臭は出してなくても,それなりに経営努力している感じがあることでしょう。
 南锣鼓巷みたいな原宿化はしてないけれど,地道なアピールが注意すると目につく。

▲胡同っぽいカフェも

左に廟あり右に学あり…でも右ってどっちよ?

ち着いた観光地,という雰囲気が,ここが近づくと一気に変わりました。
 孔子廟。大德六年の創建,ということは14世紀初めです。中国人,孔子好きだなあ──じゃなくて,調べるほどにホントに孔子廟中の孔子廟,という有難さ百倍の場所らしい。

▲孔子廟

子监は,この孔子廟と対を成す形でこの通りにあった。
 国子监の制度自体は物凄く古くて,漢武帝の造った「太学」に始まる。「国子」の名が史書に出るのは4世紀の西晋で以来も最高学府の呼び名とされたもののうち,最後に北京で興隆したのがここだという。
 大変なものらしいけど,今はそちらは壊されて孔子廟だけが往時を偲ばせる,というのが現状。
※同上「国子监是自隋以后中国官方最高学府,历代王朝都在都城建有国子监。
北京国子监始建于元大德十年(1306年),明初毁弃,改建北平府学,成为北京地区的最高学府,永乐帝从南京迁都北京后,改北平府学为北京国子监,同时保留南京国子监。由于元末明初的战乱,现在北京国子监内的元代建筑遗存极少,绝大部分建筑为明清所建。」
※ 維基百科/国子监
※ 百度百科/国子监

▲北への路地

庙右学」という言葉がある。北京の国子监の配置はその代表例らしく,この言葉をググっても北京の記事しか出てこない。
 それが頭にあって,てっきり国子监は孔廟の東だと思ってた。だから1153,孔廟東の官書院胡同へと左折北行した時,両者の間の道だと思ってた。
 塀の高い,やけに暗暗とした路地です。
 国子监そのものは失われてるから明確に書いた情報がないけれど,調べる限り,どうも反対らしい。学は廟の西側。──つまり北から南面して「右」でした。

▲国子监所在比定地とその道配置

はその孔廟の西側はどうなってるかと言うと──上記の感じ。
 これは…当時見つけられなくても仕方ない。入口の少ない迷路状です。ただの社区の可能性もあるけれど,この道の配置は明らかに「キャンパス」状。ちなみに航空車種ではあまり面白そうに見えないけれど,さてどんなエリアだったのか?
※同上「元代至元二十四年,世祖忽必烈在大都城的崇仁门(今东直门)内的这条大街上修建了“国子学”。到元大德六年正式修建了孔庙,元大德十年在孔庙西正式修建了国子监,体现了“左庙右学”的规制。」

むさっと出てきたお姉ちゃん:官書院胡同

▲路地の曲がり角

だ個人的には,この官書院胡同に入れたのはラッキーでした。
 最初は素っ気ない壁の間の道だったけれど,奥の方ではズンズン生活感を増し,1157,右折する辺りではこんな感じにドヤドヤしてきました。

▲官書院胡同の東行路部分。端正な家門からむさっと出てきたお姉さん。

午近く,雍和宮站に着きました。
 地下へ。5号で4駅目灯市口まで動いて,とうとう十大胡同最後の目的地です。
 と,それしか頭になくて,ここの駅名「雍和宮」に考えが及ばなかった。中国語の教科書に出てきてた「雍和宮」じゃないか!

▲官書院胡同の東出口辺り。微かにだけど左右にも上下にも揺らぎがあるのが心地好い。

■小レポ:北京のド真ん中に生き残ったチベット寺院

 一応,雍和宮も調べてみよう,と情報を見てたら,ここがまたとんでもない場所。
 仏教の寺だとは思ってたけど,モロにチベット仏教の寺院でした。チベット「侵略」が批難される中国の首都,それもど真ん中,中南海の北東3kmに,です。
▲雍和宮の仏像1:激しい決めポーズ

1 そもそもなぜここにチベット寺院があるのか?


 ダライ・ラマの住まうダラムサラまで行ってるのにお恥ずかしい,知りませんでした。
 元朝が,その征服地のチベット仏教を国教化してから,モンゴル系遊牧民はその宗教圏に入った。明朝代の中国はチベット宗教圏の真ん中の毛外地状態だったわけで,モンゴル系の女真族の縦清朝の時代,南北の宗教圏は再び繋がった。つまり清は,チベット仏教を奉ずる最後の帝国でした。
 そもそも,チベット仏教の宗教的権威は,モンゴル系の軍事力に支えられることで高まってきたもの。ダライ・ラマの称号自体がモンゴル系の汗がつけたものだし,ポタラ宮が出来たのも清代です。
 雍和宮の名付けも,第5代清帝・雍正帝の皇太子時代の居館跡だったことから。清全盛期を築いた康熙帝の子,乾隆帝の父です。
 つまり反漢族の宗教的中心です。そうなると…
▲雍和宮の仏像2:手足多過ぎてどれがどれやら分からなくなりました。どうすればいいですか?

2 なぜ漢族は,特に文革期,ここを破壊せずに建物を維持したのか?


という問題が浮上します。帝国主義そのものの象徴にして「牛鬼蛇神」そのものであるこの寺院が,なぜ?
 チベット本土の仏教寺院は,相当数が文革時に破壊された…という記事も,独立系のネットには目につく。客観的に見ても,世俗利益を求める漢族の宗教観には,形而上的な瞑想と呪術に満ちたチベット仏教は「牛鬼蛇神」の典型と映ると思う。
 調べていくと,当の中国人にも不思議に思ってる人は少なくないらしい。最も語られてる「小噺」は──紅衛兵が侵入して壊そうとしたけれど,振り上げた斧が頭に落ちたり何だかんだして,彼らは誰も生きて帰れなかった。
 …んな訳ない。要するに,無知な少年たちが震え上がるような祟り話を,後代に残るほど吹聴した「悪い」北京人がいる訳です。
「知乎」の中に「解开这个谜底,一直是我的梦想」(この謎を解くのが永らく夢だった)という人の記事があった。それによると──寺に侵入した紅衛兵に,周恩来の意を受けた韓念龍という人が使わされ,君たちの「造反精神」は否定しないし確かにここは「宗教施設」だけれど,「文化遺産」は守るべきなんだ,と説得に成功した,という。文革「学習班」の記録から見つけた情報だという。
 真偽は不明,と言うより真偽織り混ぜて遮二無二抵抗したのでしょう。確かなのは,そのように抵抗したコモンセンスの中国人が,あの大殺戮の総本山たる北京にも相当の人数存在したということです。
▲雍和宮の仏像3:ガハハな青鬼さん

3 中国の文化財保護はどう機能したか?


 経済成長下での危惧から文化財保護を開始した日本と異なり,中国ではこの文革での破壊を反省して制度化が進んだのでは──と仮説を立ててみたけど,それは違ってた。制度は文革直前に出来てるし,そもそも文革期に文化部等の文化財保護部局は「文革の開始後もっとも早く『三旧』として打倒され」たから機能しなかったらしい。制度の実効力は,今世紀に入って経済成長下の破壊を受けてやっと調えられている模様。
 にも関わらず,雍和宮は現に残ってる。そこにさらに謎が残ったのでさらに調べてると──姚遠という人の論文に行き着きました。
 客観的に見て,この論文は文革期の悪逆の評価を和らげる意図が感じられ,かつ出典も今世紀以降の関係者の回想が多くて,バイアスを意識して読んだ方がいい。ただ,にも関わらず事実としてうっすら見えてくるのは,次の2点です。
①周恩来とその主導する国務院が,穏健ながら文化財保護の立場に立った。例えば,故宮にはその指示で1966 年 8 月に軍が駐留した。
②大学生の自主的な文化財保護運動が,より若い紅衛兵世代を粘り強く説得した。
事例:(北京)奉国寺
   (杭州・龍門)霊隠寺・龍門石窟
 繰り返しになるけれど,この論文にも原典にもバイアスがかかってる。けれど,にもかかわらず①②の事実が見えているというのは,現実には相当数の類似の動きがあったのではないか?
 いずれもかなり危険な動きだったはずです。毛沢東の復権を本質とする文革は周にとって激烈な権力闘争の最中だったろうし,大学生は当時知識階級として何もしなくても攻撃対象だった。その危険を冒しての行動の結果として,雍和宮は今現存している,ということになるようです。
 行ってないから知らんけどね。
▲ガハハな青鬼どアップ。もう少し考えて日々暮らした方がいいと思う。何となく。
(1関係)
※ 地球の歩き方/雍和宮
「チベット仏教は、清の支配民族である満州族が伝統的に信仰していた宗教であった。」
※ 世界史の窓/チベット仏教
「13世紀にモンゴルのフビライによって征服されてからは元の宮廷によって保護された。そのころチベット仏教を純化させようとしたサキャ派(紅帽派)の指導者パスパが現れ、政治も仏教によって行われる仏教国家が成立した。パスパはフビライにも招かれ、モンゴル人にチベット仏教を広め、パスパ文字を作ってフビライの国師となった。
ツォンカパの改革  モンゴル人は元滅亡後もチベット仏教信仰を続け、14世紀末~15世紀にツォンカパが現れ、従来の呪術的な現世利益を求めるチベット仏教を改革して厳しい戒律を守ることを説いてゲルクパ派(黄帽派)を起こした。
ダライ=ラマの出現 16世紀にモンゴル高原で再び勢力を持つようになったモンゴル人の中のタタール部を率いたアルタン=ハンは、黄帽派の僧ソナム=ギャムツォに深く帰依し、彼にダライ=ラマ(大いなる海の意味)の称号を与えた。ダライ=ラマは転生と言って先代が死んだ時に生まれたものの中から選ばれて継承され、17世紀なか頃にはチベット第一の都市ラサにポタラ宮殿を建造してそこに住み、高僧でありながら同時に政治的統治者でもある地位を占めている。」
※ ダライ・ラマ法王日本代表部事務所/1639〜1911年 清王朝との関係
「ダライ・ラマ5世にまだ政治権力がなく、また、漢族が中国を制圧して清朝を興す以前の1639年、ダライ・ラマ5世は、満州の太宗ホンタイジからその都ムクデン(現・瀋陽)に招待された。ダライ・ラマ自身は行くことができずに代理を派遣した」
「中国が清に併合された後の1653年、順治帝は、ダライ・ラマ5世を首都北京へと公式招待した。」
「この時期、ダライ・ラマ5世の政治権力はグシリ・ハーンの軍事力と全モンゴル人の信仰心とに支えられ、順治帝に異議の差しはさむ余地はなかった」[米国中国学者・外交官ロックヒル]
「1908年、チベットは清からかつてない侵攻を受け、両国に大きな分岐点が訪れた。それまでの派兵は、ダライ・ラマもしくはチベット政府を助けるものであり、チベットの要請によるものだった。ところが皇帝の今回の行動は、武力によってチベットに主権を確立し、当時チベットに高まりつつあったイギリスの影響力を駆逐するのを狙いとしていた。ダライ・ラマ13世は隣国インドに逃れたが、清のチベット占領は長くは続かなかった。
 1910年、清がダライ・ラマの廃位を図ると、ダライ・ラマはチュ・ユン関係の終結を宣言した。保護者である皇帝が導師ダライ・ラマを攻めたことで、両者の関係は土台からひび割れてしまった。
 侵略に対する抵抗運動は、1912年の清朝滅亡を受けて成就し、チベットは占領軍を降伏させた。同年夏、チベットと清はネパールの調停によって「3ヵ条協約」を結び、停戦と清軍の完全撤退を確認した。ラサにもどったダライ・ラマ13世は、1913年2月14日、チベットの独立を宣言した。」
※ チベットNOW/文化大革命で奪われたチベットの仏像=北京で見た傷跡

(2関係)
※ 看中国/北京雍和宮裡的神奇佛像(組圖)
「經歷「文革」的浩劫,佛像和雍和宮一起完好地保存了下來,沒有毀於紅衛兵的破壞,究其原因,還有一段令人深思的經歷。」
「「文革」期間,有三個紅衛兵來砸佛像。第一個爬上走廊,舉起斧頭想砍斷鐵索。斧頭落下,沒有碰到鐵索,卻正好砍在自己的腿上;第二個人拿過斧頭又砍,卻一斧砍空,閃下平臺,當即昏死過去。第三個人嚇得站不起來。據說這三個人後來沒有一個活下來的。」
※ 知乎/雍和宫是怎么保存下来的?
「经过“文革”雍和宫居然能保存下来,确实是个奇迹!一直也是个“迷”!解开这个谜底,一直是我的梦想。」
「一次偶然的机会与首都博物馆一研究员闲谈,她介绍了所听到过的,关于“文革”中确有红卫兵要“破四旧”砸毁雍和宫的事情。」
「里面全是“文革”中,给喇嘛办“学习班”时的原始记录!」
「周恩来总理得知后,立即作出指示:一定要教育、说服“红卫兵”,不仅绝不能破坏还要严加保护好雍和宫。同时,派副外长韩念龙到雍和宫作劝说工作。
韩念龙到雍和宫后,与学生们交谈,面对面的进行劝说。在当时的历史情况下,韩副外长首先“肯定”了“小将”们的“造反精神”,随后话锋一转:雍和宫虽是“宗教寺院” ,但更是祖国的宝贵文化遗产,因此,必须将它保护好。对此,周总理有明确指示。由于,国子监中学的学生们平时也受过一些“保护文物”的教育,因而带头接受了劝说。」

(3関係)
※ 姚遠「中国文化大革命期における文化財保護をめぐる一考察」『アジア太平洋討究』No. 30 (January 2018)
「1961 年,奉国寺は国務院が公布した第 1 回の全国重点文物保護単位に列せられた。1966 年の夏,「破四旧(古い思想,文化,風俗,習慣を打ち壊す)」運動がクライマックスに達した頃,瀋陽市のある大学の紅衛兵が奉国寺を襲い,仏像を廃棄しようとしたが,現地の文化局の幹部に諌められ,押し止められた。数日後,清華大学の紅衛兵も奉国寺に入り,「文物古跡を保護せよ」というスローガンを貼った。その後,その後,阜新煤鉱学院の紅衛兵が奉国寺に入り,このスローガンを読んだ後,歩き回って去った 。奉国寺は文革の間も完全に保存され,2012 年には中国世界文化遺産暫定リストに収録された。奉国寺という興味深いケースにおいては,文革中,文化財の扱い方に破壊と保護という2 つの側面があったことが伺える。また,奉国寺が保護されたのは偶然なのか,あるいは全国各地に類似の状況が存在したのか,という問題点が出てくる。」→出典01
「文革中に多くの文物が破壊されたことは事実である。だが国家文物局の元顧問である謝辰生は,前述の観点とは異なる見方を提示した。謝辰生は 1949 年以来,文化部文物局,国家文物局業務秘書,文物処副処長,研究室主任,副秘書長などを歴任していた。文物保護管理暫行条例と中華人民共和国文物保護法の主な起草者でもあり,1949 年以来の各時期の中国文化財行政の当事者で生き証人だと言える。彼は文革の間,文物は破壊されたと同時に保護もされた,という両面性を指し示し,破壊は人々に想像されたような驚くほどの程度ではなく,90 年代以来の破壊の程度にも及ばないと考えた。その根拠の一つは,紅衛兵による「破四旧」が文物を破壊したのは短時間のことだけであること。そしてもっとも重要なのは,周恩来の「極力挽回」の措置が文物の破壊を制止するのに巨大な役割を果たした点だった。そのため,180 あまりの全国文物保護単位のうち,チベットの一カ所以外はすべて保護されたのだった。それだけでなく,その時期の文化財保護は,兵馬俑の発見などの,重大な考古学上の成果につながった 。」
「中華人民共和国の文化財保護制度は,文化大革命の前に確立された。1956年,国務院は「関於在農業生産建設中保護文物的通知(農業生産における文化財保護に関する通知)」を発布し,歴史上初めての本格的な文化財調査が全国規模で開始された(第一回全国文物調査)。その後,文物保護単位制度の設立も着手された。1965 年までの間に,全国にある5572 の省レベルの文物保護単位が公布された 。」
「旧中央宣伝部,旧文化部と旧北京市党委員会は,文革の開始後もっとも早く「三旧」として打倒され,改組された。そのため,中央政府の文化財行政の管理機関,つまり文化部図博文物管理局(以下,文物局と略)は機能しない状態になった。1966 年夏から 1970 年の国務院「図博口領導小組」の設立まで,中央の文化財行政の機能は長期にわたって停止したままだった。
それにもかかわらず,周恩来が主管した国務院は何回も直接文物を保護しようと指示した。「破四旧」運動の開始直後の 1966 年 8 月下旬,周恩来は故宮を閉鎖し,故宮に進駐し,守衛するよう軍隊に指示した 。北京の雍和宮と白雲観,四川の宝光寺,承徳の外八廟や広東の南華寺などのケースでも,周恩来の指示の下,閉鎖あるいは軍隊の進駐によって保護された 。前述した「裏切り者」李秀成への批判を理由とした忠王府に関する発言以外,これまで周が文物保護単位の破壊に関わった証拠はほとんどない。周恩来研究者である高文謙は,文革の初期,周は紅衛兵運動そのものは肯定しながらも,党の政策の宣伝と解釈に重点を置き,運動の熱狂性と破壊性を極力弱め,コントロール可能なところまで導こうとしたと論じている 。」→出典25-27
「1966 年 8 月 24 日,杭州第四中学校などの中高生の紅衛兵,二千人余りが,霊隠寺を取り壊そうとした際,浙江大学の大学生たちは全市で提案のビラを配り,市民に文物を保護しよう,霊隠寺を保護しようと呼びかけた。8 月 27 日,周恩来と浙江省党委員会の指令をうけ入れた紅衛兵らが霊隠寺を去ると,霊隠寺は破壊を免れた 。8 月 26 日,洛陽の龍門石窟が洛陽第八中学校の紅衛兵による破壊に直面した時,洛陽農機学院の大学生らは龍門石窟に行くと,辛抱強く中高生の紅衛兵を説得し,一週間,そこに留まって守った。その結果,最終的に龍門石窟は保護された 。」→出典24,32
「文物のひどい破壊に対し,文物局の幹部で元局長の鄭振鐸の秘書,謝辰生は憂慮を抱き,今後の政治運動における文物へのさらなる破壊を制止しようと願った。1966年末,謝辰生は文化財行政を主管している政治局常務委員,中央文革小組顧問の康生に,「破四旧」期間における文物破壊について報告した手紙を書き送った 。その直後の 1967 年 1 月 27 日,中央文革小組の戚本禹は,文物局,中国歴史博物館,故宮博物院,中国科学考古研究所などの十二の機構の代表を召集し,文物保護についての座談会を開いた。」
「この座談会は,党の最高指導部が文化財を保存する方向に方針を調整する前触れだとすることができる。日本の共同通信社は速やかにこれを察知し,1967 年 2 月 16 日に『古書焼くのは禁止 中共,文化財の保存を要請 壁新聞報道』という記事を発表した。この記事には,こう書かれていた。「中共中央はようやく古い書物や文化財を保護する方針に立ち戻った」,「十六日の壁新聞によると,中央文化革命小組の戚本禹組員は,一月二十七日,北京の図書館,博物館,書店などにおける革命造反派との座談会で,文化財も国民の財産として保存することなどをめぐる態度を明らかにし,関係者に具体的な方法を検討するよう要請した。」。戚本禹は,「私が談話を発表するや否や,日本の通信社がこれを報道した。そのほかの国にも関連記事がある。毛主席は『参考消息』(当時,新華社が発行する内部刊行物)でこれらの記事を読み,喜んだ。彼は私の談話を肯定した。」と回想した 。」→出典42
→関連出典
1 張連義「紅衛兵保護文物古跡 奉国寺五次危難記」『人民日報(海外版)』2004 年 11 月 17 日。
24 馬霆,薛瑞沢「洛陽農機学院師生保護龍門石窟記実」『洛陽工学院学報』,2001 年 1 期。
25『周恩来年譜(1949‒1976)』(下)中央文献出版社,1997 年,50 頁。
26『当代中国的宗教工作』(上),当代中国出版社,2009 年,117 頁。
27 高文謙『晩年周恩来』,明鏡出版社,139 頁。
32『江華伝』,316 頁;『周恩来年譜(1949‒1976)』(下),55 頁。
42 戚本禹:『戚本禹回憶録』,中国文革歴史出版社,2016 年,505 頁。
※ 文部科学省/我が国の文教施策文化の振興/第4章第5節5中国の文化行政

[前日日計]
支出1500/収入1600
負債 100/
[前日累計]
     /負債 309
§
→九月二十四日(一)
[111胡同5/10=烟袋斜街火神廟][112胡同6/10=帽儿胡同]
0948文宇奶酪店
紅豆双皮奶20元100
[113胡同7&8/10=南锣鼓巷&菊儿胡同:前編後編]
1834 10个馄饨
鮮肉馄饨18元300
[114胡同9/10=国子监街]⇒

1107穆家婆包子舗
猪肉大葱包
豆腐脳400
1306老北京ジャージャー麺36元300(1100)[115胡同10/10=金魚胡同&王府井]
1411卤煮店
羊肉氽面,小菜30元400[116胡同真=東四四条,柳芳行]
1850西部馬東四店
优質羊肉泡馍29元500
[前日日計]
支出1500/収入2000
負債 309/
利益 191/
[前日累計]
利益 191 /
§
→九月二十五日(二)

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