/※5502’※/Range(上海).Activate Category:上海謀略編 Phaze:老城北東外縁

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
3[A]梧桐路:沛国里
4[D]聚奎街:鳴波浴室


~(m–)m 本日の9ポイント m(–m)~
1■ 合興坊:GM.
2■ 南翔饅頭店:GM.
3□ 沛国里:GM.
4□ 鳴波浴室:GM.
5□ 嘉草网咖:GM.
6□ 薬王廟遺址:GM.
7□ 安徽阜陽麦香円饅頭:GM.
8□ 花夢煙雑店GM.
9□ 孔家弄:GM.


アオギリと桐 写実の道

▲0857豫园東,安仁街から悟桐路へ

園東側,老城東北エリアは,根城にすることが多い老西門から一番遠いからか,ほとんど歩いたことがなかった。
 0853,城隍廟を南から周りこんで安仁街へ左折北行。さらに梧桐路へ右折東行。ここにも「和階征収 利国利民」と棚改(不良地区再開発)看板が出てる。

▲0859梧桐路。二階部低く物干し竿が覆う。

」という漢字は日本では人名用漢字ですけど,「アオギリ」科植物を指す。
 それと桐を並べる,樹種名オンリーの写実的な通り名前は現代中国には稀です。
 
▲0902梧桐路と馬园街の十字路

902,南に馬园街。南西角に「征収政策是基本 真誠服務是保障」看板。
 ごみごみした,同じような風情の道です。
 そのまま東行。道はやや北へ湾曲。

第3ポイント:沛国里 只々分からない

▲0905梧桐路から丹風路へのT字手前

字。0905。
 この辺り,二階部の出っ張った増築が目立つ。
 丹風路を3m南へ,再度東行。住所表示は悟桐路のまま。
 第三ポイント沛国里…のはずだけど文字その他痕跡は見つからない。

▲0906丹風路から再び悟桐路への十字路。湾曲した石造り。

から「沛国里」が何を指す名称なのかも分からず仕舞です。
 漢太祖劉邦を出し明太祖朱元璋の祖籍のある沛県と関わりのない,単に沢,湿地を意味するものとは,しかし「国」が付くからには考えにくい。
 でも分からないままです。

▲0907梧桐路「沛国里」付近,あるアップ

人民路から再突入路探索

だ,密集と猥雑さは明瞭に濃ゆい。
 良い例えが,下の写真の二階レベル。これ,洗濯物と出窓と屋根上機器と……一体どうなってる?という賑やかさです。
 一階もそうしたいんだろけど,行政がうるさいんでしょね。

▲0908梧桐路「沛国里」付近。乱雑な洗濯ものの下をバイクが飛ばす。

れれ?ツアーの観光客が来た?
 緩いS字の綺麗な屈曲が続く。後ろの家から仏教歌。
 かと思えば,下の写真の家のロマンス風な出窓ベランダ。ついでに監視カメラ付き。

▲0911二階にロマンス出窓。梧桐路,人民路近く。

帯弄に右折。0912。すぐ東向かいは人民路のバス道ですけど……。
 0915,道がその人民路に出てしまう。この部分はやむを得ないか。南行しつつ再突入路を探す。

無茶苦茶な迷路 東街二十一弄

▲0914宝帯弄。やはり二階部を渡る線

ス停小東門。老街門のある方浜中路を越えるとファミマ。
 0919,あった!その南から東街へ入り,これを南行。

▲0921東街。椅子がぽろんと立ててあり。

四川飯店の南側を西行して路地へ。
 ここで無茶苦茶な迷路に入る。東街二十一弄から陸家宅路へ。
 一気に色彩が暗さを増す。

▲0923これも東街だったと思う。

第4ポイント:鸣波浴室は花園に

奎街十七弄。書いてて思い出した。
 ここだ。
 聚奎街。「上海城市之根」として四牌楼,三牌楼と並び称される老城の核……のはずです。

▲0926迷路の路地にて一枚だけ

四ポイント鸣波浴室──とこれも見当たらなくなってる。該当場所にある小区は聚奎新村という新しい建物群。
 上海市黄浦区回民小学。
 弄堂花園。あーあ,これはすっかり再開発されてるな。

~(m–)m 本日の9ポイント m(–m)~
1■ 合興坊:GM.
2■ 南翔饅頭店:GM.
3■ 沛国里:GM.
4■ 鳴波浴室:GM.
5□ 嘉草网咖:GM.
6□ 薬王廟遺址:GM.
7□ 安徽阜陽麦香円饅頭:GM.
8□ 花夢煙雑店GM.
9□ 孔家弄:GM.

▲嘉庆地图地图里的魁星阁[後掲痕跡]

■小レポ:上海老城独立国の18か月

「聚奎」路という上海老城パターン(①姓,②官職名,③文革標語)のいずれでもない名称に惹かれて,調べてみたら,やっとこの「老上海的痕迹」サイトにたどり着けました。
 建物の名前でした。

① 孔子廟のシンボル・魁星阁(聚奎阁)

上海县衙东面有文庙、上海县学、魁星阁和敬业书院。
元上海建县后就在这里营建县学,即上海文庙,有大成殿、明伦堂、和魁星阁(文星阁、聚奎阁)等建筑,作为祭孔、讲学、考秀才和文人聚会的场所。

※ 老上海的痕迹/一O三聚奎街【图文】
──上海県衛(県庁)の東には文廟,上海県学(大学),魁星閣と敬業書院があった。
 元朝が上海に県を置いた後,ここに県学を建てた。これが上海文廟である。廟には大成殿,明伦堂,魁星阁(文星阁、聚奎阁)などの建物があり,孔子を祭り,学問を講じ,多くの秀才と文人が「聚会」(集まる)する場所となった。
「奎」は北斗七星の第一~四星のことで二十八宿の一つ。魁星,文星はその俗称らしく,ここでは孔子に由来する学問所のシンボルでしょう。
※ コトバンク/奎星
「聚」は「集まる」の意味らしいから,もしかするとさらに「キラ星の如く有志が集まる」ような含意もあるかもですけど,とにかく文廟の一施設の名前です。
 しかし──文廟?
 老西門を入ってすぐの場所に文廟はある。北東部にある聚奎街からは老城の反対側です。

▲かつての魁星阁(年代不詳)

② 後期倭寇迎撃施設・上海老城

 ともあれ,現・上海老城域には,元代にはまず文廟を中心とする学問施設があったことになる。
 城がまずあった訳ではないのか?
 これまで何度か調べて分からず仕舞の点です。──老城はいつ出来たのか?
 この点がようやく見えてきました。

上海设县始于元代至元二十九年(公元1291年),明代中叶,上海商肆发达、人口稠密,沿江一带船舶往来,成为南北货物的集散中心。江浙沿海地方不断出现倭寇偷袭骚扰,仅在嘉靖三十二年四至六两个多月间,连续5次遭到倭寇大洗劫,烧杀掳掠、焚毁民房,县市几将半成焦土,损失极其惨重。

※ 百度百科/上海古城墙
──1291(元二十九)年に上海に県が置かれた後,明代半ば,上海の商業地は発達し,人口は増え,長江沿岸一带の船舶が往来,南北水運の集散地となる。しかしこの頃,江浙沿海の地方は絶えず倭寇の襲撃・騒乱に晒された。特に1553(嘉靖32)年4~6月には,連続して5度も倭寇の大規模な略奪や焼き討ちが続き,県のほぼ半分が焦土と化し,その損失は目を覆うばかりであった。
 150km東の舟山諸島で王直が「微王」を称した後期倭寇時代です。揚州が小秦淮河を対倭寇の要塞とした時代とも重なります。
※ Phaze:蕪湖大潤発/② 徽商は東の海で何だったか?
※ Phaze:夜桜の川辺/■小レポ:明初の中国の対倭寇防備

 そこで取られた対抗措置が,城壁で囲まれた都市を造ることでした。中国では当たり前の発想ですけれど,違ったのはこの地域にまだそういう城市がなかったこと,そして円環状の形態だったことでした。

上海自元代建县后,未筑城墙,明代时多次遭到倭寇侵略。因此于明嘉靖三十二年(1553年)仅用3个月时间赶筑了一座周长9华里,高2.4丈的城墙,城上筑有雉堞3600余个,敌楼2座,沿城墙外面筑有阔6丈、深1.7丈、周长1500余丈的城壕。[前掲百度古城]

 要点は,倭寇の5連続波状攻撃があったその年のうちに急造された,壕で取り巻かれた城だったことです。
 合肥城と同じく,大河沿いの三日月湖など湖沼が残存する土地に,水域を利用した城を造るなら方形にはならない。
※ Phaze:東菜市でお買物/③ 肥河の水利と円環の連結

 上記は清代,つまり単に埋め立てが進む前の上海広域の海外線を再現したものです。小さな湖沼は無数にあった土地なのです。
 けれど──それでも上海城は丸過ぎる。明らかに円を構想して造られてます。ひょっとしたら客家円楼の影響があったかもしれませんけれど,もう一つ要素がないとここまで丸くならない気はしますけれど──ここではひとまず話を戻します。
 海運の町があって,王都としてではなく,そこでの商業利益を守るために城が造られた。
 なのに文廟と聚奎閣(魁星閣)がなぜ消滅したかという点です。簡単に言うと,逆に城が出来てしまったためらしいのです。
 話は清末に移ります。

▲同治地图地图里的魁星阁

③ 小刀会の文廟占拠

※ 捜狐/上海小刀会起义再认识:原典《上海小刀会起义综叙》《上海小刀会起义史料汇编》の記述についてはこちらがやや詳しい。

咸丰三年(1853年)八月初五(9月7日)小刀会起义,拿下文庙,刘丽川初设行辕(大本营)在敬业书院,后迁入上海文庙。[前掲痕跡]

──1853(咸丰三)年9月7日「小刀会」が蜂起。文廟を手中におさめた(首領)龍丽川はまず行辕(大本营)を敬業書院に,さらに上海文廟に置いた。
 聚奎街付近が対清反乱勢力の拠点だった?
 彼らはどういう人たちだったのか?

在1853年3月,上海郊区的农民周立春等人开始聚众抗粮,用锄头镰刀和官军搏斗,而官府却抽不出更多的军队来对付这场郊县暴动。周立春于是派人在上海附近四处活动联络会党。不仅是一般穷苦平民,就连不少本地兵勇也宣誓加入了小刀会。

※ 百科TA说/小刀会起义:一场发生在上海的反清复明事变
──1853年3月,上海郊外の農民・周立春らは団結して「抗粮」(納穀物反対闘争)を開始,锄や鎌で官軍に武力闘争を仕掛け,かつて官府がこの付近に展開したことのない多数の軍隊を出動させる大暴動に発展した。周立春は上海附近の4つの活動組織と連携し,困窮した一般平民だけでなく,少なからぬ現地出身兵も小刀会に宣誓・加入せしめた。
「抗糧」は太平天国に先立ち各地で発生した穀物(糧)増税反対の運動で,納入拒否から暴動に発展することが多くなっていたという。
※ コトバンク/抗糧
 上海城が最もその防御装置としての機能を発揮したのはこの時だったでしょう。聚奎街付近に拠点を構え,壕をめぐらせた城に籠った小刀会は,何と18か月存続する。
 明瞭に反中央政府の立場を取った時期だけ取ると,パリコミューン並みと言っていい。

▲始建于明朝中期的上海县城城墙[前掲TA]

④ 大明建国

由于魁星阁高,又距东门很近,便成为了小刀会的一个观察哨所,既能看到黄浦江上的动静,也能瞭望法租界的活动,起了一定的作用。[前掲痕跡]

──魁星閣(聚奎閣)は高く,東門から非常に近く,小刀会の観察・哨戒所として便利で,黄浦江上の動静が見てとれたし,同時に(隣接する)フランス租界の活動も眺望できた。これがある一定の作用を持った。
 まさに末期を迎えようとしていた清政府とは言え,一国の軍隊が,中国では小さな部類の上海老城を即座には鎮圧できなかったのは,上海城の実戦的防御力に加え,この「一定の作用」ゆえだったでしょう。
 アヘン戦争から13年後の時代です。清政府は外国勢力に完全に及び腰でした。
▲上海县城的北面就是两大块租界[前掲TA]

小刀会は、反清復明が目的で租界の攻撃が目的ではないと表明したため、アメリカ合衆国・イギリス・フランスは中立の姿勢をとった。

※ wiki/小刀会
 欧州史で見るとパリコミューン成立の18年前です。次のような小刀会の行動は,現代の共産政権がそう脚色しようとしている如く,人民による正当な新政権にも見えたのでしょう。

小刀会遂不动一刀一枪占领县衙,并顺手杀死了知县袁祖宪。会众们立即释放囚犯,并乘胜进攻上海道衙门。[前掲TA]

──小刀会は刀と銃でジリジリと押し(?),遂に県庁を占領,県知事・袁祖宪を殺害するに至った。群衆はすぐに拘置者を釈放し,勝ちに乗じ上海道衙门(?)へ進軍した。
 この占領期の老城の状況や,統治に類する行動があったかどうか,全く記述は見つからない。おそらく実態は,「占領しちゃった。でもこれからどうする?」という状況だったのでしょうが──とにかく彼らは政権樹立の体をとります。

最后,刘丽川派人分兵把守城门,在街道上巡逻,并建国号自称“大明”。[前掲TA]

──最後に刘丽川は城門に兵を派遣し,街道をパトロールさせ,「大明」を称し建国した。

⑤ 聚奎閣陥落

 かくして「大明」小刀会は清政府と租界欧米勢力の間隙に偶然うまく居座った。この均衡の変化は,大明「建国」8月目の「泥城の戦い」(中国語名:泥城战役)を転換点とすることは分かってる。でもこの経緯が釈然としない。
 老城北方,今の西蔵路が呉淞江(蘇州河)を渡る西藏路橋付近を舞台とする。イギリス人の銀行家が散歩してたら清軍兵にちょっかい出された,という些細なきっかけで英軍が出動,これに米・仏軍,さらに小刀会兵が援軍に出て,清軍を敗退させました。

1854年4月に清軍と欧米人居住者による駐軍や自警団が衝突した泥城の戦いでは周秀英ら娘子軍が自警団側に加勢し、清側は300人の死者を出す敗北を喫したため、[前掲wiki/小刀会]

 だからこの時点までは,「大明」は租界勢力とともに清軍に対抗してる。それが,なぜか清軍と仏軍の連合を招く。
※ 百度百科/泥城战役

呉健彰は上海の税関と租界の権益を条件にアメリカ合衆国・イギリス・フランスに小刀会鎮圧の支持を求めた。12月にフランスは小刀会に宣戦し、[前掲wiki/小刀会]

 清・呉健彰が何らかの政治的解決を図ったとしか思えない。英勢力が一歩先んじている状況下で,仏勢力に何かの権益を約したのでしょうか?その後の仏の中国進出が加速したとも見えず,推測も難しい。

翌年1月の北門の戦いで清は県城を攻め周秀英が捕らわれて処刑され、2月に劉麗川は包囲を突破したが戦死した。[前掲wiki/小刀会]

 百度TAはもう少し詳しい。でも清と租界勢力が同調すれば,民兵の集合である小刀会の運命は決まったも同然でした。
 ただ,それですぐに決着した訳ではない。

从12月23日开始,小刀会屡次试图突破清军严密的包围圈,但都遭到失败。到1855年1月6日,法军以大炮轰开上海县城的北门。2月16日,清将刘存厚用炸药轰开城垣20多丈,官军乘势从城垣缺口源源不断涌入。(略)
到2月17日,小刀会的残部决定连夜弃城,所有人开始分头出逃。[前掲TA]

──(1854年)12/23 小刀会,清軍の包囲の突破を試みるも失敗
──(1855年)1/6 仏軍,大砲で北門を砲撃
──2/16 清将・刘存厚,爆薬で城垣6m余を爆破,城内に突入(略)
──2/17 小刀会残党,夜間の城外脱出を決定,全兵が逃亡開始
 あまりにも緩慢です。仏軍は砲撃しただけで,経緯からして城壁を破壊してもいない。その砲撃後,清軍が正攻法で城壁に何とか穴を開けるまで40日もかかってる。
 租界勢力は「清軍の鎮圧を邪魔しない」という程度の立場を取ったのでしょう。
 前述の上海横断道・新闸路の建設が1862年。聚奎閣陥落の7年後です。租界勢力は明らかに上海全域の開発を主導し初めます。この辺りに,清政府が租界勢力に行った妥協の内実が窺えます。
※ Phaze:そして上海へ/小レポ:上海交通網に埋もれる古道・新闸路/①新闸路の3855m

⑥ 2つの顛末・文廟と洪門

 最後に,この大明18か月の経緯に登場した文廟と小刀会についてです。

老西門・新文廟

也就因为它的地位特殊,清军破城后,在这里就发生了生死搏斗,文庙被毁,迁移于西门内重建,就有了现在的文庙,这都是咸丰五年的事了。[前掲痕跡]

 ──その地位の特殊さのために,清軍が老城を破壊し,ここ(聚奎閣近辺)が激しい白兵戦の場となった際,文廟は破壊されたが,西門内に移され建て直された。これが現在の文廟である。これらは全て咸丰五年(1855年)の出来事である。
 文廟は,政治的な中枢である以上に,市民の信仰の中核でもあった,ということでしょう。この戦役の中で,その年のうちに移築・竣工しているというのは驚くべきことです。
 それだけの経済力と,それ以上に住民の結束があったという証明でもあります。

小刀会⊂太平天国⊂洪門

 小刀会は大明建国後に太平天国と連携した。しかし元々はより巨大な組織の,いわば上海支部だったらしい。
 中国のフリーメーソンと呼ばれる秘密結社・天地会=洪門です。

明末清初に民間で結成された秘密結社、これは対外には天地会と呼び、内部では洪門(洪門.HUNGMUN)と呼ぶ。

※ wiki/天地会
 正解には,小刀会は支部というより,上海地区での洪門の名称だったとも言える。彼らは徹底した秘密結社であり,呼称そのものを様々に使い分けた。

天地会の人員はもともと社会の下層人士あるいは苦力(クーリー)である。農民が組織的に創った互助集団。初期は力はなく小さな集まりだった[前掲wiki]

 随唐や元の異民族支配時代には出来なかった漢民族の結社が,清の時には組織され,太平天国として滅亡の一因にまでなった。一つは清朝の中国史上でも特殊な絶対的支配にあるのでしょうけれど,もう一つは漢民族の組織力学の発達もあったように感じます。

ネット上では、鄭成功(ていせいこう)が興したと論評するところもあるが、近年歴史家の研究などでこれに異論が多く出ている。そもそも洪門すなわち天地会に鄭成功の話は存在しない。[前掲wiki]

 明末頃から,まず間違いなく商業の興隆に比例して,民間組織のパワーが狡猾かつ実効的になっていく。その一つの現れとして見るなら,鄭成功は洪門の父ではなく,むしろ兄弟だったのかもしれません。
 ところで,九州の隠れキリシタンが現存するように,秘密結社は永く裏に居ると結社たることを自己目的にしてしまう。そう思って調べてみたら……あった。

日本においてほかに洪門を掲げた組織があるものの、洪門天地會青蓮堂日本總會(英語表記 Japan Lotus Chinese Freemasons , JLCF)が、洪門五房(五祖)の伝統を受け継いでおり、その長房の役割を果たしている。[前掲wiki]

 何と洪門は現在も,つまり漢民族が被支配を脱した後も存続している。
 日本でも東京都南青山にサテライトオフィスを構えてる。やや大時代的だけど,普通に建設的な社会活動をされてます。
 一般社団法人です。
※ 一般社団法人 洪門天地會青蓮堂日本總會/洪門天地會青蓮堂日本總會について

⑦ 上海揚州老城の特殊性・王のいない城

 上海の住民の中に,この結社がどれほどの浸透率を持っていたのか,それは秘密結社だけに分からないでしょう。
 けれど,老城各所に残る姓名の通り名だけでも推して知るべしです。ここには他にない紐帯が民間にあった。
 ここまでの推移でも分かる通り,上海老城は中国史上でも珍しい,(倭寇から)民を防衛する城だった。
 それを定義する名は聞かないけれど,いわば,広東の圍の拡大版です。
 王のいない城。
 思えば揚州城もそうです。あれだけ探して,ついに王宮は見つからない。学問の中心と庭園があるだけ。──上海も同じです。王宮はなかった。後期倭寇の横行する特殊な情勢下で,純粋に発達した商業の利益を守る防衛施設として造られた城。
 上海や揚州にだけ老城が残存したのではない。そこにだけ形成された特殊な老城があったのです。そう考えるようになっています。

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