m046m第四波m天后宮 冥く囁く濤声やm河滨路

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)
※断じてこんなに大回りはしてないけれど,これしか経路がとれない。

最も牛な肉を喰え!


州拉面の標語がドドン!「喝最牛的湯 吃最牛的肉」──最も「牛」なスープを飲め!最も「牛」な肉を喰え!
 まあそれはさておき,城厢区法院バス停から乗りこみました7路は,片側二車線の落ち着いた通りを東へ走り抜けてます。
 左折。勝利街か?
 残り時間が尽きてきた。最も莆田な町を歩け!て感じで戻ってきたのは──

▲1526勝利街・文献歩行路付近の光景

525,文献歩行街下車。やはり気になって十字街エリアに来てしまった。
 再訪してみると……町の雰囲気が台湾っぽい。まずそう感じた。こぢんまりしてるというか。

▲(再掲)十字街付近地図:百度地図

を見つけてる場所ではない。昨日来た場所だけど,とりあえず行程は何も考えてない。となるといつもの勘頼みです。
 古城路を一度越えて小川を渡る。

▲1530古城路沿いの川

岸の道は河滨路。川岸の石積の基礎はやはりかなり古い。
 川はここより西では金属塀で覆われてる。道もない。おそらく暗きょになってる,あるいは今そうしようとしてるんでしょう。

船着き場だったならそれもあり得る

▲1532河滨路の西側入口

滨路という語感は,古いとも新しいとも断じえない。やや珍しいけれど幾つかの町にある地名です。
 東行。…と思ったらもう一つ南に伸びる道。こちらへ入る。
 …と?アパートの下に立ってるおばはんが「隈!」と媚を含んだ声をかけてくる。それが3人続いたところを見ると,どうやらお誘いらしい。そういう通りなの?よく見れば,確かに性保健やアンマ店が多い。

▲1544河濱路を進んだ辺り。

掌」「成人用品」と二重橋の東も完全にそうだった。そんなんありなの?
 ただここが船着き場だった時代を考えるなら,そういう文化が育つのはありがちなことではあります。

▲十字街南端

北の道に出た。十字街と表示。つまり川をまたいで続いてる。
 改めて見ても,ごみごみした訳の分からん通りです。この不可解な猥雑さが中国の港町の本来なんでしょうか。

中洲 二重橋 歴史記述無

[概念図]  ┃○莆田文峰宮
文献路 ━━╋━━━━
      ┃十字街
古城路 ━━╋━━━━
======┃==== 川
    中洲┃←二重橋
    ==┃==
河濱路ーーー╋ーー
  細路地→┃十字街

字街南端と二重橋は,一見隔たっているように見えるけれど,細い路地で繋がってます。
 なぜここだけが細いのか判然としない。解放後の都市計画で一度塞ごうとしたとも,元々そうだったとも見えます。

▲1544中洲

には中洲状の場所がある。今はほぼ公園のようになっていて,相当数の人が優雅な一時を過ごしてる。
 二重橋はここに南北から架かってる形。ここが荷の積み降ろしで賑わったのでしょうか。

▲1548十字街への橋

550,十字街へ北行。
 この,明らかに莆田の目抜通りだったと思われる通りは,本当に訳が分からない。なぜか,調べても歴史に関する記述が皆無です。

言っちゃ何だが儲かってない

▲1552十字街1

面はキレイだしプラスチックの原色椅子まで出てる。なのに運用と運用者は昔通り。
 中央・半裸のオヤジの憮然とした佇まいがダンディです。

▲1610十字街2

っちゃ何だが絶対儲かってない商店街です。
 ボリが激しいとかでもなく,淡々とした寂れ気味の通りです。
 けれど人通りが絶えることがない。年齢層にも偏りはない。今も生活の中心にある。

十字街古影と股間の160元

▲1612十字街3&服着せてやれよ1

東から上海で幾度も見かけた波止場の遺跡。その前の市場通りがここまで風情をとどめてるという点では,ワシが見た中では最高の状態でした。
 ただこれでも近年,つまり解放後に激変したのが現・十字街らしい。かろうじて見つけた古写真を次に紹介します。

▲古写真「莆田十字街旧貌」年代不詳ながら民国~解放直後と推定
※ 一起扣扣网/莆田十字街 (第3页)

れで見ると,もっと賑わいのある通りだったことのほか,少なくとも門はあったことが分かります。
 行政側がほぼ道だけを残してインフラ類は撤去してしまった,という経緯ではないでしょうか。

▲1613服着せてやれよ2

田人のセンスだろうか?白マネキンが何も着せてもらえず放置されとる。
 とりあえずその,股間の「160元」札を何とかしてやってほしい。

文献路を挟む莆田文峰宮

▲1615うたた寝婆さんの平和な暗がり

625,莆田文峰宮。文献路北側。
 この対面にも祠があるけれど,こちらは封鎖されてる。ただこっちにも文峰宮の文字はある。(この状況を見た時点で,過去に何が起こったか推量できたはずなんだけど:巻末参照)
 その東はスマホストリートになってました。

▲横断歩道から莆田文峰宮

▲文峰宫妈祖木雕像(宋代)

 文峰宫妈祖木雕像为宋代文物,现端坐在文峰宫三代祠神龛里。
 该像为圆雕彩绘,高72厘米,身着霞帔凤袍,腰系玉带,头梳高髻,属“夫人”服饰;其脸形丰满,额头稍高,耳垂较长,衣纹线条简洁,刀法洗练,工艺水准精湛。
 该像在艺术手法上与太原晋祠宋塑、上海博物馆宋代木雕菩萨像等公认的典型宋代雕塑相近,为宋代作品。[後掲莆田文峰天后宫公式HP]

■小レポ:莆田文峰宮関係資料から見る媽祖信仰

 莆田文峰天后宫は公式HPに細かな情報まで掲載してくれてます。現在の信仰儀式や文物は画像や動画で網羅されてる。
莆田文峰天后宫公式HP
 なお,「文」字が共通してるから関連するかと思ってた「文献」歩行街の名称は,莆田の尊称「文献名邦」に由来しており,「文峰」とは関係ないみたい。各方面の文化の先進地,といった意味です。
※ 百度百科/文献名邦

①[創始]媽祖信仰の端緒はペストの流行だった?

 文峰宮の歴史は古い。媽祖宮としては最古の一つらしい。

古與湄洲媽祖祖廟、天津天后宮並稱為「南宋三大天妃宮」。

※ 隨意窩 Xuite日誌/寺廟巡禮-福建省莆田文峰宮天上聖母
──古さでは湄洲の媽祖祖廟,天津天后宮と並ぶもので「南宋三大天妃宮」と称される。
 ここに天津が入る点は後述する。
 まず「文峰」宮という名ですけど──

位于福建省莆田市区中心原荔城左厢凤山寺西北隅,宫殿坐东朝西,宫前南接凤山寺的“西墙巷”,北通“大度街”,山门正对西郊凤凰山的文峰,故以“文峰”作为宫名。

※ 百度百科/文峰天后宫 :出典はほぼ後掲莆田文化网と推定される。
 この宮は元々,風山寺というお寺の西北の隅に間借りしてた。そこが寺にとって「文峰」=詩作する場所だったから,文峰にある宮,という意味でこの名で呼ばれるようになってる。従ってこの名も本質には関わらない。
 けれど,この宮が莆田で最も古い,莆田のルーツたる場所であることは複数の角度で立証される。

宫前的道路原名“文峰宫前街”(莆田人习惯叫“古楼前”,就是现在“步行街”)。[前掲百度百科]

 現・文献歩行街は,原名を「文峰宫前街」と言う。俗称「古楼前」。文峰宮=古楼がある通り,という呼び名だったわけです。
 古さの考古学的な証査はレポ冒頭に挙げた媽祖木造。既に信仰の場からは下げられているけれど,南宋代のものです。
 この神像について語られる由緒が興味深い。

文峰宫奉祀的南宋木雕妈祖神像,原先供奉在阔口村“白湖顺济庙”。据史载,南宋绍兴二十五年(1155年)莆郡瘟疫流行,群众祈求妈祖保佑平安,是妈祖显灵救了众生。斯时玉湖陈俊卿(引用者略)为了感谢妈祖恩泽,献地建“白湖顺济庙”供奉妈祖。绍兴二十五年(1155年)妈祖被朝廷敕封为“崇福夫人”。绍兴二十六年加封为“灵惠夫人”,绍兴二十七年晋封为“灵惠昭应夫人”,并经朝廷下诏钦定,地方官吏每月朔、望(农历每个月的初一、十五)要进香朝拜。每年举行春秋二祭,诞辰(农历三月廿三)、羽化升天(农历九月初九)要公祭。[前掲百度百科]

 まず,この神像は,元々「阔口村」の「白湖顺济庙」(白湖順済廟)にあったものだという。神名としては「白湖妃」,さらに北宋時には「宁海神女」と呼ばれていた。

文峰天后宫的前身是白湖顺济庙,南宋年间由名相陈俊卿在家乡白湖献地建庙,成为朝廷褒封、御祭和官员致祭的唯一场所。南宋时期,妈祖被称为“白湖妃”,取代北宋时期“宁海神女”的称呼。

※ 莆田文化网/莆田文峰宫
※ 白湖顺济庙の位置:GM.(地点:玉湖公園内)
 莆田文化网は,媽祖の原名としてこれらを挙げているけれど,白湖の位置は莆田市内南東,前述の陳氏の玉湖祖祠の近隣です。
※ m032m第三波mm廟前/■小レポ:③ 陳瓒信仰習俗とは?
 ここは宋代から莆田の港町(白湖港)とされた,要するに下町です。つまり,この時の「功績」により海民の下世話な信仰が一気に官の後ろ楯を得た。
 次に,神像が莆田市内に移された契機が,1155(南宋绍兴25)年の「莆郡瘟疫流行」莆田地方でのペスト流行で,群衆が「媽祖」に疫病退散を祈ったことにあると伝わる点です。
 既に我々は福建が伝染病,なかんずく初回の世界交易を破壊したペストの流入口でもあった(m041m第四波mm海上ポタラ/■小レポ:福建が何だったから五福神が拝まれたのか?)事実に触れました。そのような事態に有効だった神として,まず白湖妃は名を上げ世に出たらしい。
 そして三点目,白湖妃はその年,1155(绍兴25)年に朝廷から敕書により「崇福夫人」に封じられる。翌1156(绍兴26)年には「灵惠夫人」,翌々年1157(绍兴27)年「灵惠昭应夫人」とされ,朝廷の詔で地方官吏を每月の朔・望(農暦1日と15日)に拝ませ,毎年の春秋二祭(農暦3月23日の诞辰と同9月29日の羽化升天)を挙行させるに至る。
 日本の神社は飢饉や災害の祈祷の度,格を上がっていっており,それが災厄の年の推定に使われるほどだという。流入口としてペストの拡大・終息を経た福建で,それを鎮めた神がいたとして,別の土地でのペスト拡大を鎮める神を昇格させて全国の疫病退散を祈祷した,という見方も可能です。
 これが明清代より4百年も前に行われた国家的な「媽祖」信仰興隆の端緒だったとすれば,媽祖とは,いわゆる「下々」の海上安全神として素朴に崇拝され,まだ功徳も説話も明確でない,あるいは本来疫病退散の神だったまま拡大した後に,海上遭難説話が後で習合し,時代を追うにつれ本家を食っていったような複合概念神だったのではないでしょうか?
 もちろん,別の形も考えうる。当時の人々が,かの疫病ペストを「海の外から来たもの」と認識できていたならば──感染症,海難を含む,海のもたらす一連の災厄を鎮める神として,媽祖は最初から歴史に登場していたことになる。この場合,白湖妃から媽祖へは移行ではなく改名しただけになります。
 いずれのヴィジョンでも共通するのは,従来の「全てが既知」と前提していた中華秩序が,「如何にしても未知」な現実の異界に接触した結果,発生したのが「白湖妃」又は「媽祖」だったと目されることです。そしてその初期イメージが,媽祖の場合の海洋全般ではなく,「白湖」や「寧海」だった時期があるという点は特記しておきます。

▲南宋時期作とされる天上聖母(写真は(隨意窩転載)文峰宮官網掲載のものが原典)

②[現代]移動する莆田文峰宮

 媽祖信仰と文革というのは余程相容れぬものだったらしい。既に湄洲について見た通り(m043m第四波mm妈祖/湄洲祖廟山は燃えているか),もう一つの南宋三大天妃宮,莆田文峰宮も50年代に破壊されたらしい。
 らしい,というのは,街中で人目に付きやすいからか,どうもこの破壊の様はやや隠し気味に書かれてます。
 まず周辺の開発。1920年と46年の失火で周囲が焼け,いずれの火も文峰宮は奇跡的に及ばなかったとされてます。

1920年,顶大度(刘桥巷以北)失火,没有殃及“文峰宫”。
1946年农历正月初三,文峰宫前街(位于顶务巷口)“红全”青果店失火,街两侧店铺被烧毁,但文峰宫没有遭受火灾。经历了以上两次灾难后,文峰宫至古楼前的道路在重建商店时才扩宽为12米多。[前掲百度百科]

 時期からしてもこれらの火災は文革とは関係ないけれど,色々と変な手触りです。後のこのエリアを一掃したのを火災と無理に因果づけてるように見えます。
 次に,1952年に宮は「百貨商場」になってます。

解放后于1952年,文峰宫主殿、山门被改建为百货商场。有趣的是白天为百货商场,晚上打烊后就有妈祖的信众们在店门外烧香(插在泥团上)。而后民间开始烧煤球,就用烧过的煤球当香炉。商场每天营业前都得打扫干净,没有人对此有怨言。[前掲百度百科]

 夕方には門前で炭と香が焚かれた。商場は毎日綺麗に掃除されたので,「没有人对此有怨言」これに恨みごとを言う者はいなかった──と百度は書くけれど……そんなことはあるかっ!!
 商場といっても経済解放後の現在のそれではなく,「没有」地獄だった公営商場です。信徒との軋轢も半端ではなかったでしょう。
 三点目,これが現・文献路の南北両側に宮がある理由です。
「失火」で周辺が焼けたこともあり,新設の文献路を文峰宮を南北に分断する形で延伸したのです。

 前几年在旧城改造中为了打通文献路向东延伸,才不得不拆掉“文峰宫”主殿、山门。“文峰宫”“三代祠”位于文献路中段(即步行街)北侧,在新砌筑的临街围墙上面嵌进了“文峰宫旧址”五个镏金大字。[前掲百度百科]

 例えば明治神宮を横断する道路とか,皇居を縦断する高速とかをイメージしてほしい。それが如何に経済機能的に有利だとしても,そんな都市計画は計画されないでしょう。
 ところが文革期の中国ではそれが実施されました。市民の最も崇拝する宗教施設を,現代文明のシンボルたる車両道路で分割する,というのは「牛鬼蛇神」の最たるものだった媽祖信仰への当局の断固たる否定姿勢をアピールするものでもあったでしょう。
 文革での媽祖信仰否定はかくも激しかった。湄洲とも違うのは,文峰宮のそれが,一部隊の暴走や「先見」ある党員の活動としてではなく,明確に組織的に行われた点です。
 問題は,媽祖を信奉する中国人がこの「弾圧」に甘んじていたのかどうか。湄洲で本尊を家に隠した無名の信徒がいたように,文峰宮に関しても「没有人对此有怨言」どころではなかったらしい。

 市内北西3kmの山中・林橋村(→GM.:地点)に「林橋文峰宮」という祠がある。

林橋文峰宮位于莆田市城廂區鳳凰山街道辦事處林橋村。
沿著莆田市區鳳凰山旅遊路上山,過了蓮花庵,安坑裏後面路邊有一座娘媽宮,山門上端端正正地寫著”文峰宮”三字。

※ 華人百科/文峰宮
 ここは元は石室岩寺という寺院。ここに「善良」な信徒が「十分秘密地」ごく秘密裡に文峰宮の媽祖神像を運び出したという。──どれだけの「善良」な人々が関わったのか,当局の組織的かつ徹底した意思に関わらず,重い像を近くない距離に運ぶ,という壮挙をやってのけている。

當時,城裏的文峰宮”破四舊”,媽祖神像無處藏身。(略)
善良的信徒十分秘密地把這尊媽祖神像轉移到石室岩寺。(略)1974年林橋村村民黃柱、陳錦龍、黃敬等老人主持將避雨亭改建為”娘媽宮”,陳元林從仙遊遊洋為娘媽宮購回”脊頭”杉木。黃點找了塊大木板,請陳文動書寫”文峰宮”三個字,雕刻成立體的字匾,至今還懸掛在山門上。林橋”文峰宮”成了城裏文峰宮媽祖像的”避難所”。[前掲華人百科]

 こうして「避難所」生活を送った媽祖は,文革後に文峰宮に無事帰還し,宮域は分断されたままながら文献路南北で煙を立ち上らせているわけです。

③[概念整理]漢族居住域拡大と各地媽祖廟

「南宋三大天妃宮」の一つに挙げられてた天津天后宮:GM.(地点)に話を戻してみます。
 宮側がどう主張してるのか知らないけれど,個人的な見解としては,南宋代の媽祖宮としてここが挙げられるのはどうも眉唾です。大体,宋が南遷したから南宋なので,その時代の天津は,当時遊牧民族系の金国の支配下にあります。
 天津訪問時には見逃してますけど,写真を見る限り,周辺も宮自体もかなり新しく整然としてて,正直興味を惹かない。
 興味を惹かれたのは,この過程で見つけた樋泉克夫さんの論文でした。まず,樋泉さんが「1995年澳門媽祖信仰歴史文化検討会論文集」から引いたとしている各地天后宮の創建年代のリストです。貴重だと思うので長いですけど引用します。

各地天后宮創建年代リスト

廟の名称は異なるが、本尊は全て媽祖である。また、

各地天后宮創建年代一覧
凡例 ●は中国本土、○は台湾、◎はそれ以外の地点をしめす。
●湄洲島・天妃廟=宋天聖年間(1022 年から 31 年)
●山東省登州・天后聖母廟=宋崇寧年間(1102 年から 06 年)
●山東省長島県廟島・顕応宮=宋宣和四(1122)年
●浙江省寧波・天后宮=宋紹煕二(1191)年
●福建省泉州・聖妃宮=宋慶元二年(1196)年
●浙江省杭州・聖妃廟=宋開禧年間(1205 年から 07 年)
●江蘇省鎮江・恵妃廟=宋嘉煕二(1238)年
●広東省広州・聖妃廟=宋嘉煕四(1240)年
●江蘇省上海・聖妃廟=宋咸淳七(1271)年
◎香港/南宋咸淳十(1274)年。林氏夫人廟(宋代)/天妃廟(元代)/聖妃廟(明代)/天后廟(清代)/現在、50 から 60 ヵ所の末廟あり
○元至元十八(1281)年:澎湖島に娘媽宮を建設
●江蘇省太倉劉家港・天妃宮=元至元二十三(1286)年
●天津・天后宮=元泰定三(1326)年
◎沖縄/下天下妃宮=明永楽二十二(1424)年
◎マカオ/媽祖閣=明弘治元(1488)年
○明嘉靖四十二(1563)年:娘媽宮を拡充
◎マレーシアのマラッカ/青雲亭=明隆慶元(1567)年
◎フィリピンのルソン島南部 Taal Batangas/天上聖母廟
◎長崎/興福寺(通称「南京寺」=1623 年、泉州寺(別名「漳州寺」)=1628 年、崇福寺(一名「福州寺」)=1628 年。共に仏教寺院だが、境内に媽祖を持つ。当時は明清交替時期。1616 年に後金(1636 年に大清と改める)建国、1644 年に明滅亡。
◎インドネシアのジャカルタ/金徳院=1650 年前後
◎ベトナムの会安(ホイアン)・天后廟=清乾隆六(1741)年の記録に「明後期に各省の船長が創建」
○清順治十八(1661)年:台湾での最初の天后宮を彰化鹿港に建立
○清康煕元(1662)年:鹿耳門(現在の台南安南区)に媽祖廟を建設
●遼寧省錦州=清雍正三(1725)年
◎シンガポール・恒山亭=清道光八(1828)年
●山東蓬莱県蓬莱斯閣・天后宮=清道光十七(1837)年
◎ミャンマーのヤンゴン/慶福宮=清咸豊十一(1861)年
●山東省烟台・天后宮=清光緒十(1884)年
◎タイのバンコク/順興宮=清同治十(1871)年

※文頭を引用者が凡例とした。

※ 樋泉克夫「拡大する《中国世界》
―媽祖信仰というカギで解いてみると‥‥― 」

 これを各地の位置をイメージしながら見ていくと,時期毎に一定の相があるのが感じ取れます。
 12・13Cの宋代には,創建地は酷く散発的です。福建は意外に少なく,他の海民系もそれぞれ持つルーツ神の一つで,いわば陣取り合戦の碁石のように置かれた感じがします。
 これに次ぐ14Cの元代,つまり史上初の世界交易路形成時代には,媽祖宮の新規創建は前後の時代に比べ少なくなる。海商の支配権をアラブ系が握り,宗教的にもイスラム教が最も流入した時代です。──通説としては,天津宮はこの頃の創建。
 15C以降の,明清が国家的な海神とした時代には,中華交易圏を象徴するような建て方です。この時代の最初に創建されてるのが沖縄(那覇)。ヤンゴンやジャカルタの天后宮というのは初めて聞いたけど,そこまで同様のものが建てられてる。マダガスカルとかアンダマン諸島とかに建ってたら面白いけど,それは今のところ発見されてないらしい。

「移動する民族・漢族」イメージ

 少し脱線して,媽祖信仰の話に戻るまで時間がかかりますけどご容赦ください。
 移動する民族・日本人といったイメージを,宮本常一は海民個々人の移動を分析して示すに至った。瀬戸内から対馬へ移動・定着した漁民や,伊勢詣での移動など,土地に縛られているイメージの江戸期ですら日本人は相当に移動してる。
 ただ漢族が繰り返してきた移動は,そういう個人単位の「漂白」ではなく,世界史上の民族移動に近い。インド=ヨーロッパ語族の移動など,別の民族に追われ,移動するか民族が無くなるか,という状況下で行われる,民族そのものの移動です。
※ 山川/世界史の窓/民族移動
 前掲樋泉によると,陳碧笙という経済学者が華人の海外活動を,民族移動の一つと捉えている記述を紹介してます。
※ 百度百科/陈碧笙(中国語)

陳碧笙は華僑問題を「中華民族の海外での大移動」と捉え、『世界華僑華人簡史』で次のように説いている。

 歴史的にも現状からも、華僑問題の実質はつまり中華民族の海外における大移動にある。北から南へ、大陸から海洋へ、経済水準の低い地域から高い地域への移動は、南宋時代から現在までと止まることなく続き、しかも一代また一代と時代を下るごとに多くなる。この移動は、将来にわたっても中断することなく続くであろう。[前掲樋泉]

 樋泉さんは,この陳イメージを華人だけでなく漢族全体に適用できる可能性を示唆している。

ここで陳は華僑という現象の一半、いわば海外での移動にしか言及していないが、「華僑問題の実質」を捉えようとするなら、やはり「華僑問題の実質は」「中華民族の海外における大移動」のみにあるのではなく、漢民族は「海外における大移動」以前に中国の内部でも「大移動」を繰り返していたことを認めるべきだろう。
つまり中国社会が仁井田が捉えたような「内面構造」を持つ理由は、漢民族は「大移動」を繰り返すからなのだ。中国の内と外とを問わず、「人は生きて行くために、よりよくその生命と財産とを守るために、血縁のような自然的結合関係にたよるのは勿論のこと、人為的な結合関係をもできるだけ作って、つとめてこれをたよりにしようと」してきた。これをいいかえるなら、仁井田が捉えたような「内面構造」を持てばこそ、漢民族は中国内外における「大移動」が可能となったのだ。じつは神縁は、次に挙げる2つの相互扶助の機能を持って「内面構造」の一角を形成してきたというわけだ。[前掲樋泉]

 最後段について補足すると「仁井田」とは「中国の社会とギルド」(岩波書店,1951)を著した仁井田陞のこと。2つの相互扶助の機能とは,媽祖信仰などを介した「移動先での団結力」,そして械闘など「自己防衛の機能」だと論を展開しています。
 残念ながら,ワシ自身の感覚では樋泉さんほどの一般化が妥当とは思ってません。
 漢民族はボリュームが大きい。当然に偏差が生じており,実際,客家やそれに準ずる形で移動する集団や,海運従事者や海民,華人を産する地域は,限定されてる。
 戦乱や災厄に襲われても土地にしがみついて生き継いできた漢民族は,その方が率としては多い。ただ,それらに襲われて南部に移り,その過程で可動性を備え,民族・氏族的移動をしやすくなった集団は確かに一定数ある。
「南宋時代から現在まで止まることなく続」いているのは,確かに華人そのものの活動だけでなく,そのバックボーンたる,準華人集団とでもいうべき高可動性集団なのだと思います。
 そしてその集団のもう一つの発現の形が海人,あるいは水族だった。

準華人集団(高可動性集団) M
⊇華人(華僑) M1
M⊇海民,水族 M2

 媽祖信仰の担い手は,従ってワシは,M:条件が整えばいつでも移動していける漢族内集団,なのだと考えます。
 現実の媽祖信仰の中身は,イスラム教のように生活を規制するものではないし,宗教学めいた理屈っぽさもない。ほとんど「異界の存在感覚」そのもののような信仰です。それは移動を未来に当然に予定する集団の世界観そのものと言っていい。
 残る課題は,もしそうならそのイメージに漢族以外がどう関わって行ったかですけど,そこまではここまでではまだ材料不足。稿を改めます。

「m046m第四波m天后宮 冥く囁く濤声やm河滨路」への3件のフィードバック

  1. I am currently writing a paper that is very related to your content. I read your article and I have some questions. I would like to ask you. Can you answer me? I’ll keep an eye out for your reply. 20bet

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です