m120m第十二波m一葉落つ多褹の記憶の果つる海m毛利・大内の時

本歌:サルビアや胎内の日の記憶あり〔高田A〕
※多禰国:(読:たねのくに,多褹とも書く)令制国の一つ。西海道に位置。現・鹿児島県大隅諸島にあたる。 702年から824年まで122年間存続

~~~~~(m–)m防府編~~~~~(m–)m


※凡例 防:防府

日本国内も もちろん海域アジアです。
それどころか 海域性がこれほど濃いエリアもない。
以下,対馬・長崎・鹿児島と飛び石で綴ります。


~(m–)m 本編の場所 m(–m)~
GM.(位置:毛利博物館・旧毛利家本邸)
GM.(位置:山口市歴史民俗資料館)

来年の防府はズバリ山口県

▲玄関正面

ほうほうほう。これはごっつい庭園と建物ではないか!
 海域アジア編全行程を移動し終えて帰国した5日後。「土日一泊二日のんびり骨休め温泉旅行in湯田」ツアーというか何というかで山口に来たので,前から聞いてた毛利博物館に寄ってみました。
 9/28,1015防府。

▲大広間

内板に曰く──「明治維新後,毛利氏はその本拠を萩から防府に移しました。新しい居となったのが,この毛利氏庭園です。」
 だから政治史上の何か,という場所じゃない。ただ単に華族の隠居建物です。でも……それにしては豪勢極まりない。
 あまり使えない知識だけど,毛利四家は家紋の一画目の横棒に違いがあるらしい。
 1025,大広間。百万一心掛軸。48畳。

軍艦を四隻加え幕末へ

▲庭から港を望見

階からは港が見下ろせました。
 寝室。大正天皇と昭和天皇が泊まったとある。昭和天皇は22年12月,何と終戦直後です。
 さて,そこまでは常設施設。ここは奥が博物館になってて特別展示をやってまして,これを見に来たのであります。──2019.10.12-12.08山口市歴史民俗資料館「大内氏のトビラ 山口をつくった西国大名」

▲軍艦発注一覧。長崎からが多い。

直,客はまばらで,そんなに大きな展示ではなかったにも関わらず──予想以上の衝撃でした。撮影禁止の札はなかったので,何枚か記録を残してます。
 重要文化財 山口藩伺書 明治4年 元徳「朝令其他関係書類四」──毛利家が,1866(慶応2)年,明治維新2年前に軍艦四隻を英国に発注してる資料のデータ。代金は洋銀50万$,納品は長崎が大半。艦船名は第一丁卯丸,第二丁卯丸,鳳翔丸,雲揚丸とある。

大内もアイロン使う洗濯場

▲版籍奉還状

要文化財 版籍奉還沙汰書(推定:明治二年正月~五月)。
 毛利・島津・鍋島・山内各将へ「版籍奉還可致旨,全ク忠誠ノ志深叡感被思食候」と感謝を示した後,続けて維新後の処置方針を示している。

▲洗濯場

濯場?当時の生活の痕跡が残されてる!
 案内板によると,左から貯蔵場,物干し場,洗い場,火熨斗場。──最後のはアイロンをかける場所という意味らしい。華の一族の,そういうやや恥部っぽいところまで残ってるということは,ほぼ住んでる時のまま残った家屋と思われます。
 あと,この場所は,多々良という地名の場所です。元々何だった場所なんでしょう?素直に考えると古代製鉄所だけど──西に周防国分寺,防府天満宮と続く位置関係からも,何かあったっぽいんですけど……。

大内氏 百済琳聖太子末裔説

▲大内氏家系図(宇部市史 資料編)
※参照:多々良姓 大内系譜

29日,山口市の歴史民俗資料館にも行ってみる。0932。
 山口市は,大内氏の薫りが強い。毛利時代に登場するのは幕末,防府から瀬戸内ルートで中央との攻防の要から仮政庁を設けてからで,歴史の偶然から大内臭が温存された土地です。
 すぐに多々良の語源は分かりました。何と──大内氏の旧姓が多々良氏!
 大内氏は,祖先の由来を百済の第26代聖明王に求めてて,これが日本に移って名乗った姓が多々良だった,というのが家伝らしい。

▲大内家家紋 通称「大内菱」

済王家発祥伝はまず創作でしょうけど,幾つかの点で重要です。
 まず,この伝承が必要だったのは,対朝鮮向けの印象を重視したからと考えられること。おそらく交易に有利と見たのでしょう。国内ではなく国外にルーツを持とうとするインセンティブは,かなり稀です。大内義弘が朝鮮王に,その出自を理由に朝鮮国内の領地を乞うたという説もある。
 次に,由来を王家,国の代表としている点。明への朝貢が可能な立場を意識してるように思えます。
 最後に上記「大内菱」。明らかな唐紋様で,これも外国由来の家系のアピールと,中国受けを狙ったものでしょう。
※ この言説が強調され始めたのは,義弘の四代後の政弘という説もある。

政弘は父祖の年忌法要や系譜の整備を行うとともに、これまで漠然とした形でしか主張されていなかった「百済の子孫」という主張を一歩進めて「琳聖太子の子孫」であるという先祖説話を強調するようになる。
※ wiki/大内氏
原典:須田牧子 2011, §「大内氏の先祖観の形成とその意義」.

▲大内氏歴代勢力図。14Cから約二百年,下関海峡をおさえてきた勢力です。
※ 山口市観光情報サイト 「西の京 やまぐち」 山口の基礎を築いた大内氏

示正面にででんっと大内氏の交易ルート「大内氏と朝鮮・明・琉球との交易」図が掲示されてました。
 広い。朝鮮半島から東南アジアまで,頻度はともかく,本稿が対象にしてる海域アジアをほぼ網羅してます。
 ふーん……という感じで眺めてるうち,まず惹かれたのは──韓国南岸にルートを濃く持ってること。その中にある,釜山浦西方に書かれている「乃而浦」とはどこのことだろう?
 これが,この後の朝鮮南部海岸行きの端緒となりました。乃而浦は中世に倭館(日本人町)のあった場所で,薺浦とも言う(現・慶尚南道昌原市鎮海区薺徳洞槐井里)。倭館三か所のうち最大規模,15C末で在住日本人人口は25百人。

▲(再掲:m092m第九波mm殿前/基礎情報:篔簹湾)海東諸国紀の地図中,対馬島付近。左上端に「乃而浦」の文字

朝鮮から広沢寺に来た般若経

口側ではやはり赤間関(下関)が重要港湾として記されてます。
「博多を手中に収めた大内氏は,宝徳3年(1451年),日明貿易にも乗り出して行きます。」
 足利義満を相手取って大内氏が起こした内乱・応永の乱(1399(応永6)年~翌年)。交易で大内氏が栄えた15Cは,この戦いに関わった大内義弘(1356-1399)の後の時代です。
 ちなみに応永の乱後に没収された駿河・遠江を引き継いだのが,義弘の甥の今川泰範。この人の6代後が今川義元です。
 この時期,大内氏の体質がはっきりと転換してる。国内政治闘争での政治力から国外交易による実利益に,自家の存在目的をシフトしてます。

▲大内氏歴代の寺社創建数

の理解にはこの創設寺社数の図は,非常に分かりよい。創設の絶対数は大内家の経済力の増長を意味しますけど,義弘より後,創設対象が神社から仏教寺院に見事にチェンジしてます。
 それも,はっきり色分けできないけれど,大陸渡来系の仏教系統が多そうです。
 大般若波羅蜜多経(広沢寺蔵)という文化財の紹介に「大内氏は何度も朝鮮へ要請し,輸入した大蔵経は,領国内外の寺社に寄進され,その誇りとなりました。」とあります。
 また,大内氏の「館跡」と言われる遺跡が,当時「大殿大路」と呼ばれた地名の場所にある。大内氏が政務を執った場所で,現在の龍福寺境内地(山口市情報芸術センター北西山手)。博多と同じく,長州大内領でも寺院が外交を担っていた可能性があります。

▲大内氏が入手した元明代の遺品

磁大内筒(根津美術館蔵)の解説書きに曰く「13世紀頃,中国龍泉窯でつくられたと思われます。」
 龍泉窯は杭州西湖東方(→GM.)。浙江との交易の産物と疑われます。

山口町 茶碗の底に「宗」の文字

▲朝鮮系滴水瓦

福寺(大内御堀)。「寺院推定地の発掘調査では,朝鮮系滴水瓦が出土しています。」
 滴水瓦(てきすいがわら)は,写真のように瓦当面(がとうめん:軒に面する部分)が逆三角形で,雨水が滴る形状の元々朝鮮特有の瓦。日本国内では秀吉の朝鮮出兵以降に普及している。だから,大内時代の寺院の出土品で出るのは珍しいらしい。

▲陶磁器裏の「宗」字

口町で使われていた陶磁器」とある伊万里焼の茶碗底に「宗」文字を彫られたものが展示されてます。
 これは?対馬の宗氏の関わりを示威するものでしょうか?
 次のような宗-大内のライバル関係を示す言説からすると,宗氏ルートの交易物が大内氏ルートと混濁することはないように思えるのですけど──

大内持世は少弐氏とその同盟者である対馬の宗氏を滅ぼすために、朝鮮に対馬を割譲しての軍事同盟を意図していたものの、朝鮮側にそれを持ち出す前に突然の殺害によって具体化する前に立ち消えになった ※ 前掲wiki/大内氏
原典:『朝鮮王朝実録』世宗26年(1444年)4月己酉条・6月乙酉条

教弘は北九州海域を押えて、しきりに朝鮮と貿易し、いよいよその富を増した。この頃朝鮮との貿易は対馬の宗氏が統制をはかっていて、我が国からの使節はことごとく宗氏の証明紹介が必要とされたが、大内氏は必ずしもこれに従わず、直接朝鮮との取引きをしていた。大内文化について|大内氏概略|

巨大双六「大日本道中行程細見記」


にも様々,大内・毛利の奇怪な事実は散見されます。
「17世紀半ば,毛利氏は領国に宰判(さいばん)という郡の半分程度の規模の行政区域を設定します。」(展示解説)
「明国皇帝宛の書状の用紙として徳地の紙が使われたという記録が残っています。」(「徳地の歴史と文化」記述)
 訳が分からない。長州というのは維新前まで何をしてきた場所だったのでしょう。大内義弘より後,この地の視線は西里の「天下」ではなく東海の「マネー」に向けられてきた。この意味では(長州人は怒るかもしれないけれど)同時代の薩摩人と同感覚で中世を生きてきたとも言えます。
 さて,ここにはサブ企画として,「描かれた日本」とかいう展示をしてました。その中に大日本道中行程細見記の展示もありました。この史料の「初版は享保7年(1722)」。
 九州の南の「琉球国」は小さいけれど,西の「朝鮮」と「唐略図今日清」は地形も含め相当細かく書かれている。「臺ワン」や「万里長城」まである。これが,鎖国下の江戸期日本で流行した図絵というのは,やはり教科書的常識を超越しています。

享保年間に描かれた長崎「長崎之図」

▲「長崎の図」唐人屋敷付近。唐人屋敷と新地がいずれも方形の「圍」を成していて,その方向が揃っていること,そして両者が海上の道で連結されていたことが分かる。奉行所側は「閉じ込め」て「監視」していると江戸に報告でき,漢族海人側は万一の際に籠城できる防衛施設としての安心を得られる,両者ともに都合のいい立地です。

にも,「長崎の図」(1802(享保2)年)とある史料がありました。調べると,これも当時流行した図絵らしく,何版も改訂が出ている。
▲(版が違うと思われるが)同全体図
 長崎についての史料が多数残り,海域アジア関係の地誌では最も掘り起こし易く,研究も進んでいるのは,この,当時の江戸時代人の「旅行熱」によるものが大だったと考えます。
 上下の唐人屋敷部,新大工町部の2か所を見ても,今の街歩きできっちり追える。

▲「長崎の図」新大工町方面。長崎純景の本来の拠点※だったここも,海側の唐人屋敷と別の意味で防衛性の高い,河川網奥のさらに高台にあり,市街地を犠牲として前哨戦を行った場合に非常に長い抵抗戦を支えられる場所だったと見てとれます。
※ 005-5転石の谷\茂木街道完走編\長崎県/■レポ:合戦場で誰が戦ったのか?

いった辺りの,ほぼ白昼夢に近いイメージに捕らわれてしまった山口行となったのでした。
 福建編の画像がまとまった。写真は649枚。それでなおかつ,周辺のデータが有象無象を交えわんさか出て来て,それは国内に帰ってもなお止まらない。
 この旅行は終わらないと知る。
 なぜならば,帰国日に福岡で見たとおり,海域アジアはまさに今ここにあるからです。

■史料集:大内氏の揺れ動くアイデンティティ

 戦国大名にはそんなに珍しいことではないけれど,防長・大内氏の家系もその起源はさして定かではありません。
 ただ,その祖先の伝承が政策的に変調してきた経緯は,他にない面白さがあります。
※ 伊藤幸司「大内氏の国際展開-一四世紀後半〜一六世紀前半の山口地域と東アジア世界」山口県立大学国際文化学部紀要 第11号,2005

大内氏の史料上の初見

仁平二(1152)年八月一日付け「周防国在庁下文」に「多々良」と署名する三人の人物を確認することができる(「平安遺文」二七六三号文書)。また,正治二(1200)年一月一日付け「周防国阿弥陀畠坪付」では「散位多々良盛綱」「権介多々良弘盛」なる人物が署名者としているが(「阿弥陀寺文書」「山口県史」史料編中世二),この弘盛は大内氏系図にも出てくる人物である。[前掲伊藤]

 従って,大内氏の祖先が百済王族である,という史実は成立し得ない。百済王の血統者が周防国府の一役人になる経緯が,想像できないからです。

文献史料でたどり得る大内氏の確かなルーツは,平安時代末期から鎌倉時代初期,周防国衙の在庁官人で,多々良または大内を氏とし,その地を本拠としたと推定される在地領主であったことが判明する。[前掲伊藤]

 また,その事を大内氏当事者が認知していなかった可能性は,本文でも触れた,この王族由緒の使われ方の露骨さから,否定せざるを得ない。大内氏は堂々と開き直って虚言を外交に用いることに加え,あわよくば朝鮮王室によってそれを既成事実化しようとしたわけです。

義弘は,朝鮮定宗元(1399)年,朝鮮王国に対して「百済の後胤」であることを述べ,その家系・出自の証明するものと土田(田畑)を要求した(「定宗実録」元年七月戌寅条)。これに対して朝鮮王国の諸大臣は反対し,義弘自身も直後に応永の乱で敗死したことで先の要請は沙汰止みとなった。[前掲伊藤]

 ただし,以上は理念型であり,伊藤さんは次のようにも述べています。現実的には,これが正論だと思います。

大内氏の主張する先祖観には,妙見信仰,高句麗・百済の建国神話,聖徳太子信仰の混合という特徴が見られるように,先祖観の構成要素すべてが朝鮮半島モノでないことには注意しなければならない。大内氏は,百済ルーツ説を掲げるのと同時に,日本の朝廷官位も求め,氏寺興隆寺の勅願寺化も図っている。[前掲伊藤]

1373年の新興明朝が探し当てた対倭寇勢力

 成立(1368)間もない明は,直ちに海禁策に乗り出している。この性急さは,張士誠(1367没)・方国珍(1374没)とその残党が海賊化していて,「このままではすでに福建沿海部にまで侵出している倭寇と中国海賊が結託する」と恐れたからという。
※ 三宅亨「倭寇と王直」
 これは,元寇から時を置かない当時,日本側の中国一般に対する敵意が根強かったこともあるようで,洪武帝の1368年の初回対日使節は何と九州で殺されてます。
 それでも翌1369年に二便を送っているから,明外交サイドの日本への接近欲求は相当だったのでしょう。けれど大宰府でこれを迎えた征西将軍懐良親王(後醍醐帝皇子)は,やはり使節7人中5人を殺害,トップの楊載を勾留の後に帰国させています。生き残りを使ってより強い拒否を伝えたと思われます。
 この翌1370年,三次使節・趙秩が楊載を伴い大宰府に来ている。明外交側の姿勢はドライかつ執拗です。これでようやく懐良親王は,翌1371年に対明使節・徂来を派遣。明は「日本国王良懐」として冊封する。
 ただ,この時に「趙秩と楊載は帰国せず,博多に三年間滞在した後,上洛を企てて山口に赴く。以後約一年間,彼らは山口に滞在し,丹波雲門寺の春屋妙葩らと漢詩文の応酬などを通じて情報交換を行ったことが『雲門一曲』という書物から分かっている。」[前掲伊藤]

十四世紀後半の山口は,大内弘世の時代であった。(略)「太平記」巻三九によれば,上洛した大内弘世は「数万貫ノ銭貨・新渡ノ唐物等」を京都の有力者にばらまいた人物として描かれている。軍記物の誇大表現を考慮しても,当時の大内弘世は外国の産物を豊富に入手できる立場にあったのであろう。[前掲伊藤]

 1371年には北朝・足利室町幕府が発した九州探題として今川了俊軍が進軍してきています。これらから推測できるのは,趙秩・楊載は,南北朝下で争う名義上の日本中央に見切りを付け,倭寇討伐可能な実力者を探して情報収集した上で,大内氏に白羽を立てた,ということです。唐物の保有が伺われるのは,既にこの直後から明-大内交易が何らかの形で活発化していったことを予想させます。
 この明と,高麗との関係は不明ですけど,高麗-大内の親密化が同時期に始まっていることから,歩調を合わせた可能性が伺えます。1378(永和4)年に高麗の求めで今川了俊が朝鮮半島の倭族を捕らえています(「高麗史節要」辛寓四年六月条・七月条)けど,この時,

大内義弘も朝鮮半島に軍勢を派遣している事が,長府にある「忌宮神社文書」から判明する(「忌宮神社文書」(東京大学史料編纂所架蔵写真帳)永和四年四月一六日付け大内氏奉行人連署奉書,永和四年四月一七日付け某遵行状)。翌年には,高麗から韓国柱が義弘のもとを直接来訪し,高麗再び倭寇禁圧を要請している。これを受けて,義弘は朴居士なる人物に一ハ六人の軍勢を率いさせて,朝鮮半島に渡海させた。残念ながら,この時の義弘軍は高麗側の救援を受ける事ができず,倭寇と戦って大敗し,わずか五〇人ばかりしか帰国できなかった(「高麗史節要」辛寓四年一〇月条・五年閏五月条,「高麗史」巻一一四列伝・河乙[シ止]条)。[前掲伊藤]

 この倭寇討伐時の貢献,とは言えずとも誠意が,朝鮮,おそらく明にも,「日本で唯一頼りになる勢力」と受け取られたのでしょう。申淑舟「海東諸国紀」中の日本側接待ランクを記した「朝聘応接記」に,大内氏は室町将軍(当時の外交上の「日本国王」)に次ぐ第二位とされている。それが「偽大内」使節を横行させ,正偽を見分けるための通信符の制度化に繋がっている──というのも,当時の外交を実効支配した大内氏のブレインならば,ひょっとしたら自作自演した話なのかもしれません。

■リンクメモ:大日本道中行程細見記

 この史料については,次の場所に全図を見れるサイトがありました。江戸後期の旅行ブームの中で改訂が重ねられているので,この日に見た版とは異なっていると思う。このサイトのは鳥飼洞斎著,出版:吉文字屋市兵衛,1770(明和7)年版のものという。→札幌中央図書館デジタルライブラリー/大日本道中行程細見記
 この日に注視した,かつ本海域アジア編関係部のみを3エリアだけ取り出しておきます。

▲前掲版 大日本道中行程細見記pp37肥前-五島-壱岐の頁
 長崎がスゴロクの終点のような扱いになっている。書かれていない,という点で面白いのは,当時の海域物流の黒幕だったはずの薩摩が,この地図にはpp34に端っこに小さく描かれるのみで,旅行地としては辺境扱いされていること。このpp37にも,薩摩ルートのメインだった茂木港の記述は極度に小さい。

▲前掲版 大日本道中行程細見記pp38五島-壱岐-対馬の頁
 五島より西は島の名前も書かれておらず,対馬の描かれ方は,集落名のみは順番になっているけれど,海岸線の形状は酷く杜撰です。浅茅湾の書かれ方などはデタラメに近い。ここからが,現実には旅行者の行けない領域だったからでしょう。

▲前掲版 大日本道中行程細見記pp39-40対馬-朝鮮-唐の頁
 一見戸惑う,黄海を横に置いてその上下に書いた「中国略図」です。一般庶民層に漢族圏がほとんど知られていなかったことがよく分かる,のに対して,朝鮮半島は割と正確に書かれています。

▲倭寇の侵略図 出典:日本のなかのヨーロッパ資料02アジアの大航海時代

■レポ:赤間関から倭寇は出撃したか?

 本海域アジア編は,首頁から言っているように日本の学校の教科書を信用していません。だから次のサイトにあるような教科書批判をする気もないのですが,ここには論点が非常によく整理してあります。
※新しい歴史教科書・その嘘の構造と歴史的位置・中世の日本批判26:東アジアとのつながり
 上記地図に類似する図表は,現在相当数ネットに出回っています。

▲倭寇関係図 出典:第25回日本史講座まとめ⑤(日明・日朝貿易) : 山武の世界史

▲倭寇の進路と対明交通路 出典:日本史の基本98(22-1 大陸との関係) | 日本史野島博之 のグラサン日記

 どうも溢れ過ぎててイメージ操作臭い。これらの図が示す事実をテキストに落とすと,これだけのことになります。
[1]東シナ海の航路の大陸側に倭寇侵略地が多数存在した。
……日本側から大陸側へ矢印で記してあるから,日本からの航路として理解されるけれど,これらは大陸側から日本側への航路でもあったわけで,「日本交易船の目的地が倭寇侵略地となることが多かった」と解されるような表記が,イメージ操作されている部分だと思われます。
 ただ,海賊の被害地が航路の大陸側にだけ存在するならば,
[2]これらの海賊の発進地(加害地)は日本側で,到着地(被害地)は大陸側と推測される。
ということになるでしょう。
 けれど,海賊は日本側にも被害を及ぼしていました。単に唐風に「倭寇」と呼ばれなかっただけです。以下図表は,歴史倶楽部200回記念例会「松山から村上水軍を訪ねて」から転記したものですけれど,このような事実は,中世日本史では周知の事実だと思います。
▲戦国水軍衆図(日本全体)
▲同西日本
▲同東日本

 北海道までの海域で普遍的に「水軍衆」は暴れています。だから秀吉が停止令を出したのです。
 つまり,前掲1・2は次のように理解し直すのが合理的です。
[1改]東シナ海の航路の日本側・大陸側ともに海賊侵略地が多数存在した。
    陸人は,日本側では水軍衆,大陸側では倭寇と呼び,海賊を恐れた。
[2改]東シナ海の航路の通る海域は,同時に海賊の活動域でもあった。
    加害者は海に住む海人一般で,被害者は東西の陸に住む陸人一般だった。
 以上の理解は,本レポ冒頭のやや学術的な,つまりイメージ操作されていない図と大体重なるものです。
 日本側で呼称される水軍衆の中心点(の少なくとも一つ)が赤間関(下関)だったことも納得できます。薩摩(-土佐?)-紀伊のルートを除けば,ここを通らないと日本側の消費地にたどり着けなかったからで,そこに大内氏の活躍の基盤もあったはずです。
 確かに前期倭寇の初期,種としての日本人がこの海賊の主体だった時期はあるのでしょう。ただし,それが前期倭寇の本格化とともに朝鮮人を多く吸収し,後期倭寇期には漢人を大半とするようになった。それは海域アジアの海民の拡大の歴史であって,彼らの元の国籍がどこか,という議論は無意味だから止めた方がいい。
 なぜならば,彼らは元の国籍を捨てて海賊になった人たちなのですから──そんな偏狭な,つまり国籍や民族が何か?なんて陸人の視点じゃ,海人は笑うでしょうね。

■疑問点整理:大内氏と「寧波の乱→嘉靖大倭寇」説

 とは言いつつ,前記の「倭寇のベクトル」問題に絡んで,なおも謎の残るのが,最近ではメジャーになってきた寧波の乱についてです。
 この乱が,短期の呼称としては嘉靖大倭寇(嘉靖年間:1522‐66年),長期には後期倭寇の端緒となったとするのが通説化してます。短絡的に言うと,日本人間の戦闘行為が東アジア海域にまたがる争乱の引き金になったことになる。
(乱の背景や経緯については,教科書系のものをご参照ください→例 wiki/寧波の乱 世界史の窓/勘合貿易/日明貿易)
 この通説で語られる言説を図式化すると,次のような因果関係になります。
①大内・細川衝突
→②明市舶(税関)一時停止
   (=勘合貿易一時停止)
 →③私貿易横行
  →④海賊活発化
     (=嘉靖大倭寇)

 これを文章化すると次のようになりますけど,こうすると論理的に飛躍している点も分かりやすくなります。

幕府の弱体化に伴い、貿易の実権は堺商人と結んだ細川氏、博多商人と結んだ大内氏という有力守護大名の手に移っていった。1523年、寧波(明州)で両者が衝突して(寧波の乱)一時貿易が中断したが、その後は大内氏が貿易を独占する。明の海禁政策の強化もあって勘合貿易が衰退すると、後期倭寇の活動が始まる。[前掲世界史の窓]

①→②:争乱によりなぜ市舶は廃止されたのか?

 寧波の乱と後期倭寇を▼結びつける考え方は,現代の解釈ではありません。中国正史である明史の次の記述です。

嘉靖二年、日本使宗設・宋素卿分道入貢、互爭真偽。市舶中官賴恩納素卿賄、右素卿、宗 設遂大掠寧波。給事中夏言言倭患起於市舶。遂罷之。市舶既罷、日本海賈往來自如、海上 姦豪與之交通、法禁無所施、轉為寇賊。
[読下し]嘉靖二年、日本使宗設・宋素卿道を分ちて入貢し、互ひに真偽を爭ふ。市舶中官賴恩素卿の賄を納め、素卿を右とするや、宗設遂に寧波を大掠す。給事中夏言言ふ「倭患市舶に起こる」と。遂に之を罷む。市舶既に罷むも、日本海賈の往來自如、海上の姦豪之と交通し、法禁施すところ無く、転じて寇賊と為る。
※ 金沢陽「後期倭寇研究の成果から見た、16世紀東シナ海の政治・経済情勢と貿易陶磁」(出光美術館 学芸員)
原典:「明史」巻81、志五十七、食貨五、市舶

「倭患起於市舶」倭の(による)問題が市舶に発生したので「遂罷之」機能停止した。「罷」む,とは廃止というより,先に機能停止した事実があり,あえて再起動させなかった,というニュアンスです。
 市舶の研究によると,明代末のこの機関は,浙江に限らず広東・福建各所とも宦官による横暴の温床となって,中央が問題視するところとなっていました。細川側の宋素卿が市舶太監・頼恩にネゴして,先に到着した大内側を冷遇した,という乱の発端を,だから中央は,かねてからの市舶の腐敗がついに外交問題に発展した,と捉えた。だからその後の倭寇の大発生の引責,という形で浙江・福建・両広の市舶を廃止した。それが客観的な推移のようです。
※ 大川沙織「明代市舶太監の創設とその変遷──嘉靖期の裁革と税監の設置をめぐって」
原典:「殊域周咨録」巻二 東夷 日本国 中の兵部尚書利越の主張

 だから,「対日感情の悪化から1529年には市舶司大監は廃止」(wiki/寧波の乱)された訳ではありません。それならば浙江以外の市舶を廃止することはないし,時系列も合わない。倭寇に関して言えば,②市舶廃止はどちらかと言えば④大倭寇の結果です。

②→③:勘合貿易停止後,なぜ私貿易が興隆したか?

 制度の上っ面だけを見ると,これも論理矛盾です。勘合貿易は国と国との貿易なのだから,それが止むことが,民-民の貿易に影響するはずがありません。
 だから,この点は理由が逆に明確です。勘合貿易とは看板に過ぎず,実質的に既に民-民貿易だったわけです。
 中国側の状況は闇に隠れて見えませんけど,日本側はかなりはっきりしている。大内氏の勘合貿易船には博多商人の,細川氏のには堺商人の商船が「合流」しています。彼ら商人にとっては,勘合を頂いた大名の船が看板として必要だっただけです。
 だから看板が無くなれば,彼らの交易は即「密輸」になってしまう。けれどその経済規模が大きくなってしまっている以上,彼らからすれば停止させるわけにはいかない。
 経済感覚の乏しい役人の伝聞と思われ,極めて大雑把ですけど,交易の利潤を示す史料も僅かに残っています。利益率は百倍だったという。

私造大舡越販日本者、其去也、以一倍而博百倍之息。
[読下し]私かに大舡を造りて日本に越販する者、其の去くや、一倍を以て百倍の息を博す。
[前掲金沢 原典:顧炎武「天下郡国利病書」巻93]

③→④:私貿易への転換がなぜ倭寇になったのか?

 以上2点では,疑問点と書きながら決めつけてしまいましたけれど,③→④の点は本当に疑問です。
 日本側の民間貿易主体は,博多・堺の商人群だったわけで,即暴力集団に転じるとは考えにくい。
 中国語史料でも,「倭寇」に転じたのは「閩・廣・徽・浙」(福建・広東・徽州・浙江)から「無頼亡命」して「潜匿倭國者」日本(海域)に隠れ潜んだ者だと記します。

自嘉靖二年、宋素卿入擾之後、邊事日隳、遺禍愈重、閩・廣・徽・浙、無頼亡命、潜匿倭國者、不下千數、居成里巷。街名大唐。有資本者則糾倭貿易。無財力者則聯夷肆劫。
[読下し]嘉靖二年より、宋素卿入擾之後、邊事日ごとに隳れ、禍を遺すこと愈いよ重く、閩・廣・徽・浙は、無頼亡命し、倭國に潜匿する者、千數を下らず、居して里巷を成す。街名は大唐なり。資本有る者は則ち倭を糾めて貿易す。財力無き者は則ち夷と聯りて肆劫す。
[前掲金沢 原典:「明経世文編」巻283、王司馬奏疏 王忬「倭夷容留叛逆糾結入寇疏」]

 漢人だから暴力的になった,という訳ではないでしょう。僅かの間に「倭を糾めて貿易」したり「夷と聯りて肆劫」したりするのも不自然で,泉州や漳州の稿で見てきたように,水上生活者を中心とする海人がかつてから日本側商人とのネットワークを,勘合貿易の看板の下で作っていたのでしょう。
 ただ,勘合船と市舶が無くなったら,そこまで即「海賊」化するものだろうか?という疑問は起こります。
 これは,明朝中央がいかに否定しようと,勘合船-市舶体制が海人の「倭寇」化を抑制する機能を有し,結果的な秩序を形成していたことを暗示させます。
 その機能は,市舶が非合法に有していた軍事力だったのでしょうか,あるいは中国や朝鮮側が期待した大内氏の海上統制力だったのでしょうか。
▲再掲・倭寇の侵略図

■史料:大内氏奉行人連署奉書

唐荷駄別役銭之事、村上善鶴丸愁訴之条、被仰付之処、厳島其外於津々浦々荷物点検之間、迷惑之由、言上之趣遂披露、被成御心得候、然者於堺津、日向薩摩唐荷役如旧例可申付之由、対村上堅固被成御下知候、各得其心、無煩往返之覚悟肝要候也、仍状如件
  五月廿一日                             隆著 (花押)                            興理 (花押)                            隆景 (花押)
  堺津紅屋
     五郎右衛門男
     各中〔①厳島野坂文書 | khirin※ ②京堺商人衆と陶晴賢の流通政策(参考史料)|戦国日本の津々浦々※〕

義隆は、堺商人の紅屋に「唐荷駄別役銭」(警固料)を堺で海賊衆の村上氏に納めさせ、日向・薩摩から輸送される舶載品の安全を保障させていた。そこには「厳島其外津々浦々において荷物点検」の迷惑、と記されており、村上氏による新たな関銭徴収を停止し、航行の安全を図っている。(略)
 これらはいずれも厳島を介した上訴を受けて、義隆によって裁許された事件だが、厳島への参詣の安全と厳島を中継する商船の航行を、海賊衆の警固をもって保障させていた点で興味深い。〔【大内氏と厳島神主家の関係】 : 毛利元就家臣団列伝※〕