m19Am第二十波m十度目のニライは白しクチナジやm2久米天妃散歩(ニライF66)

▲1418西の風景。何の変哲もない那覇の港際です。
本編の行程

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

東町郵便局周りを執拗にうろつく

々話題になる「東」とか「西」とかの沖縄地名があります。これは久米が港町の中心だった頃の,町の東西を示す地名です。
 1405,宿に荷物をおく。マリンウェスト那覇,西一丁目。
 いかん,体がついていってない。頭がクラクラしてきたのはいいけどまた熱が帰ってきそう。久しぶりの沖縄だけど,この一回りで今日の歩きは終わりにしよう。

▲1419東町郵便局

町郵便局をまず目指しましたけど……これは,難しそうです。
 道はすっかり変わってる。つまり筆もあてにならない。ポイントは下天妃宮が東町郵便局,上天妃宮が天妃小学校。これだけしか情報はない。

▲唯一あった下天妃の案内板の位置図

碑文だけしか残らない

ずは下。西隣の市医師会との間に道はない。北へ回る。
ファミマ西消防署通り店。西消防署。この消防署の建物が東町郵便局の北に被さってる。斜面は微かに東へ下ってる。
 郵便局中庭に何か石碑がある。でも文字が見えるところまで近寄れない。
 だめだ,南のベンチスペースにも痕跡見つからず。

地理院地図∶下天妃〜上天妃 筆や道の形に往時を留めるのは上天妃小学校のみ

医師会側に小さな碑があった。三件紹介あり。
①天使館跡

琉球王国時代,中国が派遣した冊封使(天使)のための施設・宿舎。一般に館屋(クワンヤ)と称した。創建は不明だが,16世紀前半には確認される。(略)冊封使滞在時の他は,通常その一部が砂糖座として用いられ,砂糖の収納,薩摩藩への送り出し,砂糖樽の製造が行われた。

▲1441建物の隙間

して──②下天妃宮!!!

現在石門のみ残る上天妃宮より先の永楽年間(1403~24)の創建とされる。中国から渡来した閩人36姓の請来と考えられている。
廃藩後(略)廟内の神像はすべて上天妃宮に移された。

③那覇里主所

薩摩藩在番奉行所との折衝(略)などの事務を官掌した首里王府の役所跡。

 医師会と消防署の間も埋まってる。上へ向かおう。1438。

防署通りを北へ渡り久米一丁目3から細道へ北行。
 左手に天妃幼稚園。英語に訳すならヘブン・プリンセス幼稚園と萌え萌えな直訳になるけど,がっちり古びた門構えが,違う,媽祖宮跡幼稚園である,と主張してます。

▲「天妃幼稚園」門扉

KAMI TENPI GU SHRINE 中国語訳無し

ニンダ第二パーキング(!)から裏に不自然に古い土台を確認。道は右に湾曲すると──

▲石門遠景

側に天妃宮跡の碑と石門。
 上下の別は書いてないけれど,間違いない。上天妃宮跡の石門です。
 ちなみに英訳は「STONE GATE AT THE FORMER KAMI TENPI GU SHRINE」とある。でも中国語訳はなし。

▲1451上天妃の見事な石門

門の碑には案内板あり。

上天妃宮がつくられたのは,そこにかけられていた鐘に記された年号から,15世紀半ばごろと考えられます。石門に続く石垣は,布積みからあいかた積みが用いられるようになるころのものと考えられています。

▲1445下天妃の門扉の間から

の隙間から──通行者がゼロなので──そっと覗いてみる。
 気根が絡みついた台座らしき構造物が見えるけれど,祠ではない。ただ定期的に手入れはされてる整然さを保ってます。

消えゆく「てんぴ」の影

▲工事中のこども園の土壌の露出

のさらに北には那覇市立天妃こども園。ちなみに英訳のアルファベットと同じく「てんぴ」とルビがある。
 西側は工事中。工事名にこども園の拡張とある。古い土台も見えてるけれど──新しい園地に飲み込まれるのでしょうか。
 体力に自信がなくなったので,そこから夜までの時間は県立図書館で過ごしました。──今回は狙いが決まってます。「うるま新報」復刻版(不二出版)!→成果は3つ前の章

▲うるま新報縮刷版第一巻

■地理学的分析:高橋誠一による唐栄久米村景観復元

▲葛飾北斎「仲島蕉風」。久米村南対面の仲島大石(現・那覇BT)及び海中の2岩がはっきり描かれている。

 仲島大石のことを調べた頃から,この図はずっと気になっていたのです。
──なぜ,仲島と久米の間にこんな大きな「水面」がえがかれるんだろう?

 この調べの際のポイントは,題名通り──仲島大石を「龍珠」と見做した人々の存在でした。この龍の全体は,次図のようなもので──仲島大石は左下隅です。

唐栄久米村と天妃宮(2007高橋改訂版)

*高橋誠一「日本における天妃信仰の展開とその歴史地理学的側面」2009
**元研究は後掲高橋2002

これのどこが龍やねん?

というのは当然の反応で,ワシも前の調べ以後もそう思ってました。
 原典は巻末に掲げますけど──久米大通り,北の波之上宮から南の泉崎交差点(現・東横イン那覇旭橋駅前)までの道が龍の胴体部に当ります。この南側入口,現在三角緑地になっている部分にかつて「久米大門」(くめうふじょう)が建っていたと言います。
*高橋誠一「琉球唐栄久米村の景観とその構造」『東西学術研究所紀要』第35輯,2002
**むかし那覇: 酔古地図/「むら咲むら」に復元された久米大門
URL:https://14269282.at.webry.info/201906/article_1.html
***ameba/お試しプログ/上から見たら
URL:https://ameblo.jp/yuukata/entry-11950782086.html

(上)久米大門復元模型
(下)久米大門の所在地
・右手が久米大通り
・古写真は未発見

 南北の大道は,龍身と認識されていた故に,当然のことながら,他の道路とは区別されていた。すなわち,その上を不浄なものが通ることは禁止されるなどの禁令もあった。
 例えば『遺老説伝』によれば,1650(順治7)年薩摩の新納刑部死去の折に薩摩人はこの伝えを知らずに,葬列を大門から入れたので,台風が起こったと記されている。また1709(康煕48)年には,愚人がひそかに死屍をこの門から通したので,大風が7回も起こり,その後に大飢饅になったとも記されている。要するに,大門に通じる南北の大道は,きわめて神聖な道路として認識されていたことになる。[前掲高橋]

 この感覚は,現在も香港でよく語られるものです。あのルートは「龍」だから,あの地点に建物を建てることで「気」の流れが封じられて運気が下がったのだ,というような──。
 さて,先の高橋復元図の元研究「琉球唐栄久米村の景観とその構造」(高橋誠一,『東西学術研究所紀要』第35輯,2002)に掲げられた復元過程の作業図を含む3つの図により,以下,唐栄久米村の空間構成を見ていきたいと思います。
 各図はそれぞれ引用者において
①高橋原図のうち左上角に波之上宮,左下角に久米大門
②上辺中央に上天妃,左下角にシキバ
をとったフレームとしています。

図1 現代地図と戦前地図の重ね合わせ

第1図 昭和初期の久米とその周辺の道路推定図[前掲高橋]

 高橋論文の指摘する通り,現代と昭和初期の道筋はほとんどのエリアで異った配置になっています。ズタズタと言ってもいい。
 ただし,久米大通りのみ両者が重なっている。この違いは非常に顕著です。
 また,上天妃の周辺だけ,昭和初期の道路が特に北東方向で円環状を成しており,久米大通りもこの部分が僅かに湾曲しています。この湾曲は戦後の再建時に邪魔になったのか,現代では直線に直されている。
同第1図 久米大門〜上下天妃宮付近

 拡大です。上天妃の現在の入口から南西への道は,院内の道で北東へは抜けていなかったように書かれます。となるとこの院内は二段構えになっていて,現在の門は二の門だったのかもしれません。
 より興味深いのは下天妃。かなりの広さの敷地だったはずです。これも上天妃と同じく円環状だったような気配も見える。けれどそれより面白いのは,この南側にパティオらしき場所があったことです。これが市場だったとすれば,久米村の財が離合集散する交易場だったことになります。

図2 昭和初期の道路景観

第2図 昭和初期の久米とその周辺の道路景観図[前掲高橋]

*点線∶久米町・天妃町の範囲
 図1を昭和初期図のみにしたものです。
 上下天妃の右手東側に「宗家」表記が3つ並びます。これらはパティオから路地を入った付近,現・久米大通りの龍の胴体から言えば東西に伸びた路地を入ったエリアに辺り,交易を牛耳った一族だった可能性が高い。
 
同第2図 久米大門〜上下天妃宮付近

 拡大では,下天妃の前のパティオはこの時期にも三角形の輪郭をそのまま留めています。ということは,昭和初期までここはバザールとして使用されていたのではないでしょうか。
 それなら写真の一枚も出てきて不思議はない気がするのですけど──残念です。

図3 唐栄久米村復元図

第3図 唐栄久米村とその周辺の景観推定図[前掲高橋]
 
 図2を基に嘉手納宗徳「那覇市街図(明治初年)那覇読史地図(図6)を平面展開したものが,上記図3になります。用途別色塗りがなされていない,前掲図と同じ図面です。
 前掲北斎図に描かれている「海」は,視線の方向こそ違え,この下天妃南に湾入しているものです。図1・2に見た下天妃南のパティオが原型に復していまふ。この形からすると,湾入部からの荷揚げ場だったでしょうし,形状からして元々はこれも海中で,浅瀬あるいは自然堤防の内側を埋め立てたものと想像できます。
同第3図 久米大門〜上下天妃宮付近

「シキバ」と書かれるパティオと久米大門の位置関係にご注目ください。
 上陸者の目からすると,シキバに荷揚げした後,売買交渉などの際には「里主所」「天使館」「親見世」(地図左端に隠れていまった……)などの施設を使うほか,一部は久米大門をくぐって久米村内部に「入城」していた格好になります。

図6 沖縄誌絵図

第6図 那覇及び久米村図(伊地知貞聲氏「沖縄誌」,1877年所収付図,沖縄県立図書館蔵)

 こちらは同時代(幕末)に書かれたものです。やや方向と精度が異なるのですけど……緑地(林)の位置から概ね理解できます。
 上下天妃の敷地と名称も確認できる。視認した感覚でも,ここだけが家屋の密集しない空白エリアになっていたと思われます。日本の感覚(寺院内≒アジール∶網野ほか説)で考えると,少なくとも下天妃境内が市場になった時代も想定できますけど,文化の感覚が違うので断じにくいところです。
同第6図 久米大門〜上下天妃宮付近

 拡大すると──多数の人影が描かれています。
 高橋復元に異説を唱えるなら,上天妃には北東から路地が入り込み,おそらく現・石門から建物に入れたように見えます。それに対し,下と上天妃は一体感が強く,文中の如く下天妃が先に出来たわけですから,荷揚場の護りとして出来ていた下宮が拡張されて奥宮として上宮を持つようになった,という造りにも見えます。──ただその場合は,上天妃北東外縁の円環が説明しにくくなります。元々上下宮域全体を囲うような城砦,などを想定せざるを得なくなります。
 高橋論文でも図3と図6の微妙な差異を「どちらが精度が高いか」という観点から論じてるけれど,図6は地図学的な裏付けがあるものとは考えにくいので,人の視線からの印象として重んじるに留め,位置的には図3に依る,という立場でよいのだと思います。

高橋説∶久米村風水解釈

 ひ孫引きになります。高橋さんは島尻勝太郎(「沖縄の風水思想」窪徳忠編『沖縄の風水』所収,平河出版社,1990年,P3-13)の意見を引用しており,その中「球陽」尚賢3年条「唐栄地理記」及び「遺老説伝」(いずれか不詳)中の記事として次を掲げます。

唐栄邑の前に一江有り。潮汐来潮して以って明堂と為す。南,之を望めば,即ち峰轡続抱して以って錦鐘と為す。奥山聟秀して以って文案と為す。後と左右とは,即ち林樹蜜囲して,以って玉屏と為す。

 仲島大石初め各所が龍の部位に相当する旨は,この続きに記述されます。

且,中島の西に一塊の大石有り(此の一石は,泉崎の西に在りて唐栄の風水に係る。是に由りて,康煕癸丑〈1673〉紫金大夫金正春,経歴すること久遠にして,人の破る所と為ること有るを恐れ,題請して幸に愈允を蒙り,始めて唐栄に属す)。南門に峙対して以って龍珠と為る。南門は以って龍首と為し,双樹は角を為し,双石は眼を為す。中街は蝙蝠して以って竜身と為す。西門は尾と為す。而して邑中,一条の一港有り。潮水往来して,以って其の威を佐く。且,泉崎橋の西に于て,二大石有り。江中より起りて,能く急流の気を鎖す。而して大いに情有り。此の数者の若きは,固より夫の風水の理に係るなり。軽きに非ず。

 この記録を基に,島尻さんは久米村の地理を風水思想から解釈しています。

久米村の南方に向かう門は大門と呼ばれていたが,ここからは一条の道が通じており,その北口はニシンジョウ(西武門),その一帯もニシンジョウと呼ばれていた。大門の前は,もとは海で,風水上の明堂に当たる。この海の中には久米村毛小と呼ばれる半円形の突出部があって,松の木が二本植えられていたが,この突出部は龍頭と意識され,また二本の松の木は龍の角と考えられていたという。しかも,その左右に置かれた双石は,龍眼を表していたという。南北の大道は龍身とされ,龍頭すなわち突出部から少し隔たって,仲島の沿岸に大岩があるが,この大岩は龍珠と意識された。さらに,那覇港内の一小島である奥山は,久米村の風水では文案と考えられていた。龍珠とされた大岩は,久米村では風水上きわめて重要なものとして認識されていたことは,本来は久米村の所属ではなかったにもかかわらず,1673年に王府に願い出て久米村の所属としたことからも如実に理解することができる。この大岩は,現在も那覇バスターミナルの敷地内に,「仲島の大岩」と表記され那覇市の指定文化財として保存されている。[前掲高橋]

「文案」に当たる奥山

「風水上の明堂に当たる」と言われても「明堂」の有難味が現代人にはどうも分からないけれど,同じく「文案」に当たるという那覇港内の「奥山」とは,現・奥武山のことだとやっと気付きました。

[上図]琉球国惣絵図」部分 18世紀 [下図]奥山(奥武山)〜久米部分拡大

 久米から湾に出た船は,まず奥山(奥武山)を目印に南行し,その後に奥山前で右折西行して海へ出る。
 つまり,現・沖宮神社などの奥山の聖性は風水思想上付与された可能性があるわけです。
 琉球国由来記によると,奥武山には波上山護国寺を隠居した心海僧正が開いた寺があったという。その名も何と「龍」渡寺*。
*「龍洞寺」と記される場合もある。

漫湖に浮かぶ小島にあったため龍渡寺は、中国や日本で麻疹や疱瘡などの伝染病が流行した際に船旅から帰った者が病気を発症しないか一定期間過ごしたり、那覇居住の者で伝染病にかかった者を隔離する施設としても使用された(『琉球王国評定所文書』)
*奥之山(奥武山、奥山) [風光明媚な隔離地] – 沖縄・首里那覇港図屏風展 | 沖縄県 古地図 歴史 地歴 ツナガルマップ
URL:https://www.tsunagaru-map.com/shurinahakouzubyobu/map.html?point=470

 また,乾隆元年親見世日記に曰く,奥武山に繁茂する木々は首里王府の直線管理下にあったとされます。聖性を帯びた材木の供給地でもあったものでしょうか。

意図的に見通しを悪くする

 龍頭にあたる那覇バスターミナルに新設された複合施設,つまりこの日に訪れた県立図書館の建物を「カフーナ」(舳先∶前掲参照)と名付けた人々にとって,この「龍」はリアルな生き物だったのだろうと想像できるわけです。わけてすけど──さらによく考えると,それだけでは完全には収まらない部分もあります。
 高橋論文は,前掲の久米大通りの湾曲を風水思想上,意図的に造られたもので,その発想が久米村内の道路配置に共通しているとします。

この久米大通りも南北を見通せるようなものではなく,悪気の直進が不可能なものとして造成されていた。
 久米中軸道路(久米大通り)の屈曲が,それ故,偶然の屈曲ではなく明確な意図を持って造られたものであったことを証明する事実として,久米内部の道路形態を挙げることができる。すなわち久米村内部には,見通しのきく長い直線道路は存在しない。ほとんどの道路は緩やかな屈曲を有しているし,金剛寺跡付近にわずかに存在する直線道路も,林や屋敷によってその視線を遮断されている。直線道路ばかりでなく,四方を見渡すことが可能な四辻も存在しない。第3図に示された久米周辺の地区では辻・西・東・泉崎などで直線道路はおろか完全な四辻も認められるが,久米村の内部には存在しない。道路の交差点はそのほとんどがT字型交差点,すなわち行き止まりの交差点であって,一見すれば四辻のような機能を果たしている場合も,微妙な食い違いによって見通しのよい四辻であることを避けている。このことに関する例外が久米村内部に皆無であることを考えると,この事実は決して偶然ではなく,明確な方針の結果であると言わざるを得ないのである。[前掲高橋]

 石敢當の発想そのものです。悪気は直進する,だから直進を妨げる道路配置が運気を上げる。
 特に「森」が直線的視線を意図的に妨げる材料として使われている,という発想は面白い。──この点と重なるかどうか,高橋論文では,次のような琉球∶「林の城壁」論を唱えています。

筆者は,東アジア世界の都城について論じた際に,中国の場合は「土の城壁」,朝鮮半島の場合は「石の城壁」が卓越することを述べた。ところが,日本の場合は,都市全体を囲む城壁の存在がきわめて希薄であって,古代の大宰府の前面に構築された水城と豊臣秀吉によって造られた京都を囲い込む御土居のほかにはほとんど認められないことを述べた。そして日本の場合は,都市全体を囲い込むものとして,河川を挙げるべきであり,日本列島における河川の規模が小さくて人工的な制御や改変が可能であることを強調した。日本の場合は「水の壁」敢えて言えば「水の城壁」が一般的であるとしたわけである(21)。このことを敷桁するならば,琉球の場合は,「林の壁」あるいは「森林の壁」という設定が可能ではないか。[前掲高橋]
*(21)高橋誠一旧本古代都市研究』,古今書院,1994年10月16日,p.1-398.

 つまり,
[中国]土 [朝鮮]石
[日本]水 [琉球]林
という区分で,高橋さんは仲松弥秀の「腰当(くさて)」の森(「神と村」,梟社,1990年など)とは異なるものとしているけれど,林など御嶽の聖性を外部に対する霊的障壁としたと考えるなら,発想法は近い。
 要するに,唐栄久米村の空間構造は,中国的な風水により発想されている点で日本内地と異なる独自性を持つけれど,純・中国的な発想でもあり得ない。これは,久米人の集団的な都市設計思想が中国直移入のもの一辺倒ではなかったことを示しています。
 あるいは,沖縄の「腰当の森」イメージそのものが中国風水思想の土着化により「転調」したものなのでしょうか。

「戦前」の「久米大通り」∶那覇市歴史博物館デジタルミュージアム上,同2ワードでヒットする画像

松山・三文珠・旭ヶ丘∶中位段丘下位面が小間切れで残存

 高橋論文では,水平方向以外に,垂直方向の地理的分析も行っています。

試みに,現在の1:2500都市計画図に記される標高点からその起伏をたどってみよう。かつての久米大門すなわち現在の沖縄オーシャンビューホテル西南部のロータリーの標高は2.9mである。この地点から県道47号を北西すなわち波之上宮へたどると,2.6m,2.9m,3.0m,4.0m,4.1 mというように北西に向かって微妙に高まるが,至聖廟の北西コーナー近く(波之上宮の石段下)では逆に3.9mから2.7mとやや下ってのち水平距離100m足らずで海岸に達する。[前掲高橋]

 久米の面が北西へ高まっている,という全体的傾向だけでは,この複雑な起伏は説明しきれません。概ね,久米集落域の緩段丘とそれ以北のややきつい段丘の起伏部とに分かれるんだけど,後者を広域で見るとさらに細かい凹凸を帯びています。

久米とその周辺の起伏は(もとより改変された後の状況でしかないが),南の大門と波之上宮との間にごくわずかながらも微高地が存在しており,また全体としてはほぼ平坦な久米の周辺に,松山公園(12.4m),波之上宮と旭ケ丘公園(19.5m),三文珠公園(約8mか?)の小丘が東.北・北西に点在しているということができる。ただ,この三箇所の小丘は元来は孤立した点的な小丘ではなかったと考えられている。要するにこの地区の地形は,基本的には「海岸低地」から成っているが,松山公園を中心とする直径約500mの範囲と三文珠公園や第2図の辻原及び辻と西の間に存在した林を含むこれもまた直径約500mの範囲の「中位段丘下位面」が幅約100mの間隙をおいて広がっており,海岸部の波之上宮と旭ヶ丘公園は「石灰岩堤」であると推定されている(6)。「中位段丘下位面」は自然的な開折もしくは人工的な改変によって,現在では微高地としての段丘面は極端に縮小されてしまっているが,後述するような明治初期の林は,もともとの「中位段丘下位面」がある程度残っていた地ということになる。[前掲高橋]
*(6)目崎茂和・河名敏男・木庭元晴・渡久地健「地形分類調査」,『土地分類調査沖縄本島中南部地域「那覇」・「沖縄南部」・「糸満」・「久高島」5万分の1」,国土調査:沖縄県,1983年,P、7-14,及び地形分類図(沖縄中南部)。

 確かに,あまり来ないこのエリアを実際に歩いてみると,微妙な起伏に戸惑うことがあります。自動車やバイクで走るとこれは感じとれないけれど,どれが本道とも知れない複雑さに迷いがちになる。
 この交錯した地形は,中位段丘下位面と石灰岩堤が,さらに小間切れに千切れることにより形成されているらしい。これら微高地群は,図2・3に見えるように,戦前にはまだ点在する林として残存していた。ということは,そのさらに前,江戸・尚王朝期には久米と北の海岸の間は森の中を抜ける数本の限られた道で結ばれていた,という推測が可能になるわけです。
 これを,高橋さんのように「林の城壁」と見ることも出来るわけてすけど,個人的な感覚ではあまりに発想に段差があり過ぎる気がします。
 久米の風水思想による都市設計以前に,少なくとも北西の微高地は波之上宮南の聖域として既に意味を持っており,中国からの渡来者たちはここにやや強引に風水の絵を描いていった。その結果成立していたのが,両義的とも言える解釈可能性を持つ久米村の空間だったのではないでしょうか。

「m19Am第二十波m十度目のニライは白しクチナジやm2久米天妃散歩(ニライF66)」への2件のフィードバック

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