m19Bm第二十一波mテラの地に人はとどまる冬の月m1波之上宮(ニライF67)

本歌:人は地にとどまり夏の月遥か〔松山東〕

沖縄本島東岸
にテラを見る。
でもその前に
久米北のもう
一つの天妃へ
……と思ったけれど。
[前日日計]
支出1400/収入1400
    ▼14[203]
    /負債 0
[前日累計]
利益  -/負債 690
§
→十二月二十八日(六)
1058宮良そば
骨汁550
1417グランド食堂
骨汁550
1803やぎ料理南山
山羊汁550
1905jimmy美里店
ジャーマンケーキ250
[前日日計]
支出1400/収入1900
    ▼14[204]
    /負債 500
[前日累計]
利益  -/負債 190
§
→十二月二十九日(天)

 

営業時間を確認しようね

▲那覇天妃宮の石門

之上へ初めて来たのはいつだったものか。
 今更ながら朝イチで波之上へ向かいます。0804,神宮会館のビルが見えたところで,もう目的地・那覇天妃宮には着いていました。えらい張り切ったものです。
 額には「天尊廟」「天妃宮」「関帝廟」「龍王殿」「程順則頌徳碑」「蔡温頌徳碑」とある。さて突入!──

▲営業時間表示

れれ?門が閉じてるぞ?──さっきの額の脇をよく見れば……開門午前9時???お寺がそんなに遅起きでどうする?
 ……ただ中は,単に廟が並んでるだけっぽい。裏から回るとあらかた見えました。

▲天妃裏の裏手から

イクを予約してたから,もし来るにしても別日に出直すことになります。なので,折角張り切ったんだから──と波上宮詣でに急遽変更。とほほ。

波之上に集う神々と熊野宮

▲波之上宮燈籠。琉球火災海上寄進。

神 イザナミ神 速玉男尊 事解男尊
相殿神 産土神(うぶすなのかみ・鎮守神) 少彦名神(薬祖神)
境内仮鎮座 浮島神社(天照大神奉斎・別称-長寿宮) 世持神社(沖縄産業三大恩人奉斎)
 不思議な神社です。由緒からすると日本神道上は熊野権現系列なのですけど(巻末参照),熊野三所権現と微妙な違いがあります。熊野神社では──
(社殿)/(祭神)/(本地仏)/(神像)
上四社
 三所権現
  両所権現
   第一殿
    西宮(結宮)
   /伊邪那美尊・熊野牟須美大神・事解之男神
    /千手観音
     /女形
同 第二殿 中宮(早玉明神)
   /伊邪那岐大神・速玉之男神/薬師如来/俗形
 wiki(波上宮)には

享和3年(1803年)社殿が大破したため、それまでの本地三尊像を3殿に分けて安置する形式から1殿に安置する三戸前として改築した。

とあるから,本尊3神は享保以前は独立して祀られていたらしい。
*なお,浮島神社は「長虹堤」建設の難航時,1451(景泰2・宝徳3)年に日本内地から招いた天照大神が若狭町の長寿宮に祀られていたのを,現代(1988(昭和63)年に波上宮に遷座したものとあります。

戦後3年でハワイアン・ウチナンチュが再建

▲顔出し撮影セットと本殿

んみん」又は「なんみんさん」が俗称だという。由緒によると「端城」(はなぐすく。公式HPによると「花城」,他に「鼻城」の当字もある)という称号もあると書かれます。

波之上宮鳥居(戦後すぐのものと推定)

縄戦でここは焼かれてます。
 由緒には

先の大戦の戦火で灰塵に帰した 昭和28年(1953)ハワイの人々の赤誠により本殿再建がなされた

と記される。正確には社務所もハワイからの支援によるらしい(wiki)。また,本土からも支援があり1961(昭和36)年には拝殿が再建。本土復帰の十年以上前です。

プロト・波之上宮のウガンジュ

歌ニ首が紹介されてました。

でかよう思童波之上にのぼて 月見し遊ば十五夜だいもの

昔波之上に無蔵とながめたる 面影や今も月と見ゆさ

 おもろにも次の歌があります。

なみのうへ は げらへて はなぐすく げらへて ものまいり しよわちへ てらまいり しよわちへ[『おもろさうし 第十』の17 「てやんおなちやらが節」]

 仲松弥秀(「神と村」伝統と現代社,1975年)によると,沖縄で
グスク∶古代祖先達の共同葬所(風葬所)
テラ∶納骨洞穴が拝所になった場所
と区別されるとし,おもろの中の「てら」を上記区分に当たるものと解釈しています。

▲裏手の祠への鳥居

手は立ち入り禁止だけど,崖っぷちに南面する祠の鳥居が見える。波之上ビーチから見える崖上には,この先にある拝所(ウガンジュ)があるとされます。
 これが波之上宮に古代からあった本体で,これに熊野信仰が包含され,日帝時代に表面化したのが現由緒なのでしょう。

▲0831本堂拝殿

堂祭壇右手には,沖縄県酒造組合の奉納したらしい表記のある泡盛壺が24個積まれています。
 この朝早くからテレビカメラが来てます。何か行事があるんでしょか。
 その横手,絵馬のコーナーには「香港人加油」と書かれたものが多数ぶら下がってました。

▲絵馬。香港頑張れ,がたくさん

ケーブル噛めばいーさー

釈超空碑。沖縄にも没頭し飛行機のない大正の時代に三度も来島している民俗学の大家・折口信夫さんの俳人名です。

那覇の江に はらめきすぐる夕立は さびしき船をまねく濡らしぬ

 古語「はらめく」は,ほぼ擬音で「はらはらと音を立てる」の意ですけど,転じて「ばらばらになる。ぼろぼろになる。」の語彙もあります。沖縄の集めても集めても繋がりを作らない民俗歴史の断片に,むしろ傍観に近い敬虔さを抱く眼差しを感じます。
 沖縄そのものと同じく,この波之上宮に対しても,まずはそうした居住まいで臨みたい。

▲もう一つ燈籠,那覇料亭組合寄進。波之上の古い料亭さんたちによるものでしょう。

906。旭橋プラットホームからゆいレール乗車。
 皆さん,服装の厚さがバラバラです。うちなんちゅはTシャツ姿の人も時折。確かにジャンバーだと少し暑い気温だけど……寒くないのか?
 ゆいレールの車両数は増やせない仕様なんでしょうか?今も立客は多いけれど,当初と同じく2車両のままです。

▲「ケーブル噛めばいーさー」??

かん!早過ぎた!0912,牧志着。
 9時半までの時間を,国際通りを少し歩いて潰す。
 シェアサイクル「CHURACHARI」というのが設置されてます。ただ……1日2200円??それ乗る奴いるものか?
 上の写真の「噛む」は沖縄表現の「食べる」かもしれないけれど……どういう意味なんでしょう?

沖縄の海風で熱冷まし

▲「BENNY」

芋のキャラ・BENNYちゃんが登場!──2021年現在,既にネット上にヒットがないからレアキャラかもしれません。
 世界遺産富士山溶岩石使用ステーキ?それは……合法的に入手してるのか?てゆーか,世界遺産で焼く必要性は?

▲「富士山溶岩使用」

 イクを借りる。
 雲は少し残るけど快晴。ただ……まだ頭は少し重く微熱が残ります。走りながら沖縄の海風で冷やすとしますかね。

戦後の波之上宮
[上]西から
[下]南(参道側)から

■資料∶波之上神社由緒と崎山里主

 この由緒は,要素的に事代主=恵比寿=蛭子神話とのダブルイメージと捉えられるように感じます(釣り,捨てられる,宝物,奪われる など)。

往昔、南風原に崎山の里主なる者があって、毎日釣りをしていたが、ある日、彼は海浜で不思議な”ものを言う石”を得た。以後、彼はこの石に祈って豊漁を得ることが出来た。この石は、光を放つ霊石で彼は大層大切にしていた。
 このことを知った諸神がこの霊石を奪わんとしたが里主は逃れて波上山《現在の波上宮御鎮座地で花城と(はなぐすく)も呼んだ》に至った時に神託(神のお告げ)があった。即ち、「吾は熊野(くまの)権現也(ごんげんなり)この地に社を建てまつれ、然(しか)らば国家を鎮護すべし」と。そこで里主はこのことを王府に奏上し、王府は社殿を建てて篤く祀った[波上宮公式HP]
*URL:http://naminouegu.jp/yuisyo.html

 以下に本地垂迹資料便覧に記す原文に近いものも挙げておきます。
 熊野信仰の日本神道神の中には,事代主やその別称群は見当たらない。だから,この事代主群イメージと熊野信仰イメージの交差・連結というのは珍しい民俗事象なのではないか,と感じるのですけど──断じられるほど自信がありません。

戦前の波之上宮
[上]西側から [下]上空から。久米村の出来る前を想像すると,ほとんど浮沈空母の如き「海上要塞」です。

権現建社勧請之由来
恭考権現建社勧請、 往昔、南風原間切崎山村、有崎山里主。 常好釣漁、日行海汀。 時有後呼声。 顧之無人、其辺唯有異石。 想是覚其所作。 故安置於高所、而祈曰。 若有神霊者、吾今日釣魚、令有如意云。 然其日大獲。 喜悦而帰家。 後祈度々有験矣。 或夜、当石辺有光。 思為霊石、把来崇之。 時此国諸神、欲奪得此石。 家蔵此石、恐有害乎。 遂抱石而出村舍、北去。 諸神不許、追之。 雖然志堅、不棄其霊石。 遂到波上山。 思雖縦死、不可行于他。 于是諸神、止奪心給矣。 有時神託曰。 吾是日本熊野権現也。 汝有縁、可社此地。 然者可為国家守護云云。[本地垂迹資料便覧/その他/琉球/波之上]
URL:http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/honji/

「崎山」というのは以前訪れた首里城南のエリアです。
 由緒の主人公・崎山里主という人を祀ったのが,同じく訪問した崎山御嶽……とする伝えもあるらしい。また,察度王(初の朝貢を実施した王)の子ともされます[wiki/崎山里主]。
https://maps.app.goo.gl/abr4FrWfiqEJBqhU7

FASE63-1@deflag.utina3103#崎山御嶽 \美ら瘡ぬうとぅじ 遊ぶ嬉しや


 それがなぜ波之上で釣りをしていたのか?なぜ神々が霊石を奪おうとしたのか?熊野権現の登場以後,その神々が姿を現さないのはなぜか?
 やはりこれも不思議な神話なのです。

1919年頃の那覇市役所(手前)と公会堂(その奥・中央)。下天妃宮の

■レポ:久米の経済中心∶親見世(国庫)と宝庫

 前頁で両天妃南にあるパティオを紹介していきましたけど,前頁各図にも記されるとおり,ここを中心に行われたであろう交易の中核施設が「親見世」だったと考えられています。すなわち親見世は──

もとは、首里王府が海外貿易で得た貨物を販売する「御店(おみせ)」だったとされる。1609年の島津侵攻の際に、降伏会議はここで開かれた。
 楼門(ろうもん)造りの門前の通りは、港に続く東・西両村を分ける道であり、門前の横には大市(ウフマチ)(市場)が広がる那覇の中心地であった。
*親見世跡(オヤミセアト) : 那覇市歴史博物館
URL:http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/site/%e8%a6%aa%e8%a6%8b%e4%b8%96%e8%b7%a1

 島津侵攻軍がここを降伏の会議場所に選んだのは,今後はここを島津が支配する,という示威行為でもあったでしょう。実利を重視した薩摩人にとって,ここの経済支配が侵攻目標だったとさえ言えるかもしれません。
 この場所が琉球利権のコアであることは,既に国際的常識だったと考えられるからです。

「海東諸国紀」中「琉球国図」一部 *矢印位置∶九面里(久米村)

「海東諸国紀」(申叔舟∶李氏朝鮮領議政,1471年刊)が記す「国庫」が,親見世であるというのは通説になっています。

九面里は久米村のことであり,東恩納寛淳氏は国庫を親見世,宝庫を王府の倉庫である御物城に比定している。
*矢野美沙子「古琉球期首里王府の外交機能─久米村を中心に─」校倉書房,2014
**東恩納寛淳「黎明期の海外交通史」帝国教育会出版部,1941 69p

 単なる比定ではなくて,次のとおり「琉球国之図」(県立図書館所蔵,18世紀中頃琉球王府測量・作成)の同様の記述と書込みとの対照から推定したもので,実証的なものです。
 しかしこれは……○○県地図に○○市役所とか○○ビルとか書いてあるようなもので,バランス的には奇妙なんですけどそれだけの要度を示しています。「九面里」(久米村)より文字が大きい。

同様の資料として、「琉球国之図」のほかに沖縄県立博物館所蔵(13) の「琉球国図」が挙げられる。こちらの図では「琉球国之図」でいう「九面里」に「江南人家在此」、「国庫」に「此地王之庫蔵、衆多有」、「宝庫」に「江南・南蛮宝物在此、見物具足広」と書きこまれている。久米村は「江南人」、すなわち明人系の住民が住んでいる場所であり、国庫は「王之庫蔵」で人が多いとされている。『琉球国由来記』は親見世について、諸国との取引の際公物を取り納めて(14) 売り払う役目であったと説明している。「琉球国図」で人が多いとされていたのは、こうした業務に服する人々を指していると考えられ、東恩納氏の指摘どおり国庫は親見世を指しているものであろう。一方で「見物具足」すなわち御物城と呼ばれた宝庫は、交易品の倉庫とされている。[前掲矢野]
*(13)上里隆史・深瀬公一郎・渡辺美季「沖縄県立博物館所蔵『琉球國圖』その史料的価値と『海東諸国紀』との関連性について─」(『古文書研究』第六〇号、二〇〇五年)三六頁。
(14)『琉球史料叢書第一巻(琉球国由来記)』六一頁。

尚第二王朝の重心移動

 第一尚氏最終代の尚泰久から第二尚氏初代の尚円(金丸)への交代劇については,既に見たつもりでしたけど──

この久米交易機能の存在の大きさと,次の史実を見ると,その別の側面が見えてくるように思えます。

王府による外交権の掌握を推し進めた尚泰久は,一四五九年に腹心の金丸を御物城御鎖側に任命する。御物城御鎖側創官の時期は定かでないが,御物城自体は「琉球国之図」や「琉球国図」に確認できるため,一四五〇年代には存在していたことになる。[前掲矢野]

「御物城御鎖側」の「鎖」は中国語の「锁」の感覚で「鍵をかける」,つまり物品管理者の意味でしょう。つまり金丸は,尚円王として即位する1469(成化6)年の十年前に,交易品の出納責任者になっています。この職権を介して,金丸はまず久米の経済マフィアと結び付いた。久米のバックにいる海上交易勢力に,当時王直轄の外交掌握を進めていた第一尚氏より,担ぎ易い「神輿」だと信じさせたのではないでしょうか。

尚円の治世に明に派遣された使節が強盗・殺害・放火の罪を犯したとされる事件が挙げられる(36)。成化十一年(一四七五)、常例のように一年一貢を乞うた使臣程鵬に対し、明は前年のこととして事件の顛末を述べ、「通事蔡璋等」の責任を追及し、今後は朝貢に制限を加えることなどを勅した。琉球側は弁解を試みたが容れられることはなく、貢期は二年一貢と定められた(37)。[前掲矢野]
(36) 『「明実録』の琉球史料(二)』二三頁。
(37)注(4)田名著一三六頁。
**(26)和田久徳ほか編「『明実録』の琉球史料(二)」(沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室、二〇〇三年)一九頁。
(4)田名真之「古琉球の久米村」(池宮正治・高良倉吉・田名真之・豊見山和行編『新琉球史ー古琉球編ー』琉球新報社,一九九一年)

 第二尚氏への「禅譲」後,朝貢集団の性格が「海賊化」した印象を,明実録は記しているようです。これが偶然でないならば,第一尚から第二尚への移行は琉球王を担ぐ勢力の転換だった,と考えるのが正確でしょう。王家の血統の移動というより,久米内部での権力構造の変化があり,この中で金丸はうまく立ち回った,ということではないでしょうか。

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