m19Gm第二十六波m妈祖花や明知の言葉は単純m5淡水關渡

~(m–)m 本編の地点 m(–m)~
GM.(地点)

とにかくニョキニョキ屋根瓦

▲1635關渡宮山門

台北市關渡宮ガイドマップ〔後掲財団法人台北市關渡宮〕
※元HPはリンク付 URL:http://www.kuantu.org.tw/GDT_J_01_04.html

門前に立つと,覚悟してたはずなのにその巨大さに圧倒されます。
 正面に天壇。左手に玉女宮。
 屋根の装飾が凄い凝り方です!
▲1641とにかくニョキニョキ突き出してる屋根瓦

聯は正面左右が,
右「關口神宮即是湄洲聖宇」
左「渡頭仙棹何殊南海慈航」
 一文字目2つで「關渡」の廟名を成していて,技巧的な点と,關渡名以後と知れるので,対聯そのものは後代のものでしょう。
 1644,入る。
▲本殿

い!
 正殿(凌霄寶殿)が横に長いんである。宮というより体育館の場所感覚です。
 横に並ぶ祭殿は五つ,と案内表示。右から見ていくと
①観音佛祖殿
②媽祖殿

かなり本気のお祈り

▲媽祖の祭壇

諸神配置図〔後掲財団法人台北市關渡宮〕※番号は記録とはズレてます。

祖」?
 台南以降の媽祖廟で,初めて聞くと思う。上のマップにも「天上聖母」とは書かれるけれど,勅命に基づく「天后」名は用いられていません。
▲1648祈りの姿はかなり本気度が高い。

──はどこ?分からん。──上記地図を見直しても,「祭改媽」と書かれるものか「天官賜福」のことだったのか?
④文昌帝君殿
⑤延帝郡王殿──は左手別棟にはみ出てました。やはりこれが鄭成功。
▲1659延天郡王廟

一切の努力し志は復國に在り

聯は正面左右にありました。
右聯∶整郡経武一切努力志在復國
左聯∶生○教訓只為収拾故有山河
 これは語感が聞き慣れない。技工的にはやや拙く観念が素朴です。
 それに……復國?明鄭の匂いも漂います。
▲1703真っ赤な角柱の並ぶ祭壇

銭箱がそのまま金庫になってる?
 あれ?「⑥財神洞」(財神爺,福徳正神)はどこだろう?──と探してると,こんなマップが掲げてある。
▲院内マップ

下を通って行く場所なのでした。
「財神洞」というトンネルが正殿脇から伸びていて,これを抜けた川岸に福徳正神祠がある。途中に天官與財神という祠が祀られてる。
 これに並行したトンネルはもう一本あって,こちらの先には千手千眼観音菩薩がある。福徳正神と千手観音は川辺道で行き来できる。

福徳正神へのトンネル平面図

スペクター基地の地下通路

,その秘密通路──とは仮にも言えない,スペクターの秘密基地みたいな人工光まみれの通路(2000年完成)を通って行った先に──

人工的で有り難いスペクタートンネル

何様なる秘仏があるのかと言えばこんな(下記)像が置かれてて,正直供物も参拝者もあんまりない。
「左右は媽祖像に見える。」と当時メモしてるけど、あまりの俗っぽさを信じ難くて無理にそう思い込みかけたほどなのでした。
(上)正徳正神と(下)千手観音像

変に不信心で申し訳ないけれど……この構造をどう考えたらいいのか,当時は全く呆気にとられていまってました。
 想像するに──關渡宮は北港朝天など他の有名媽祖宮とは立地が全く異なる。海岸の丘のような場所の周囲に纏わりつくような格好で,祠が建っていった場所だと推定されます。現代になってこの丘をぶち抜くトンネルが掘られたけれど,本来は船に乗って行く,あるいは航行の目印となる場所ではなかったでしょうか。
 といった夢想から現実に帰ると──
▲Wifi設置

關渡宮遊園地を後に

と……Wifiまで設置してます!
 さらに地下に土地公爐があるらしいけど……まあ行ってみましょ。トンネルを下る。
 おそらく妈祖伝説の各場面の壁画。ここを通り抜けると──川沿いに出た?
 正面「關渡官」。右手に「招財童子」,左手には「進寳童郎」。
 右手に「古佛洞」という今度は上向きのトンネル。これで霊山公園の上に出るらしく「天空歩道」とある。
──けどなあ。もういいかなあ。
▲關渡宮からの夕暮れ

ス停で待つと……1727。なぜか302路というのが来た。行き先表示は遥か萬和となってる謎のバス。とりあえず士林も通るらしいし乗ってみる。
 1730。MRT駅方向から逸れて高い所の道に入った。高速かと思ったけど,これも一般道らしいです。
 これだと単にMRTに沿って走るだけに見えるけど?──やはりそうか。1738,MRT忠義駅に止まったので飛び降りる。ほとんど列車駅の規模です。高架の上のMRT駅で南行きを待つ。
 1741,乗車。
🚈🚈
渡宮の遊園地ぶり,これはどう考えたらいいものやら。
 日本の寺にもこういう路線をたどったものは,そりゃ無くはない。ただこれは行き過ぎてる……と言ってもビルマにもタイにも香港にもよくある暴走ですけどね。
 要するに「誰か止めなかったのか?」という問題です。止めずに評判になっちゃえば,後はスパイラルで遊園地化してしまう。「しまう」と言っても熱心な信者もそれなりにお祈りしてるわけで,都会的な形としては「別にいーじゃん」ということになる。
 今朝の萬和宮の素朴な祈りの場との違いが明瞭だから,特に気になるのかもしれませんけど。

ようやっと西門の灯

りあえず荷物をホテルに入れよう。
 本日の宿は西門,縁起を担いで(?)何度か泊まった西門天后宮のすぐ隣の明日大飯店(トゥモローホテル)。
 1755,芝山。この辺りまでが結構かかるんだなあ。しかもこの沿線に相当数の住居がある。市内中心への通勤の時間には混雑するだろう。

🚈🚈 🚈🚈

北車站(駅)到着は18時を回ってしまいました。
 結局座れなかった。隣にいた日本人はやはり中山で下車。ここそんなにいいかね……ってワシもずっとここを根城にしてたんだけど。
 ふらふらしながら,かなり奇跡的にコインロッカーの場所にまっすぐ向かえました。よく見ると……ここ,中山地下街の入口やがな。
 1821,板南線に乗換。
 1825,西門の三日月を見上げる。

■レポ:關渡宮創始のトリプルイメージ

 本文でイメージしたとおりに,關渡宮が海岸部の丘の麓に置かれたものとすれば,それは次の立地をなぞっているように思えてきます。

湄洲島天后宮位置図
〔後掲中国における琉球史跡〕
 現在の姿を見る限り,遊園地めいてゲンナリ,という状況なことは確かなのですけど……意外や意外,ここはホントに古いらしい。

關渡kantouの初出と古名

「關渡」の史料初出は續修台灣府志※。中國哲學書電子化計劃上で確認する限り,府志七版中最も新しい余志(後掲ツール参照)のみに記載されます。
※(再掲)1762(乾隆27)年執筆開始,1763(乾隆28)年完成
 初出なのに19箇所もある。うち18箇所が「關渡門」という地名の一部です。残る一つは淡水の「廳治四景」の一として「關渡分潮」という成語の一部。
「分潮」は潮流が読みにくい地点と思われます。従って,關渡という地名よりも,「關渡門」なる航海上の難所の呼称が先にあったことになります。
 ところが,「乾豆」は高志※に3箇所書かれる。これは全て「乾豆門」の一部です。
※1694(康熙33)年執筆開始,1696(康熙35)年完成
 根拠的にはこういうところらしい。關渡宮の公式HPは場所の由来をこうまとめています。

「關渡」是由凱達格蘭族語「Kantou」而來,西班牙文獻中則記為「Casidor」;另因發音語系不同,故產生多整別稱,常見有「甘答」、「干豆」、「干荳」、「肩脰」、「墘竇」和「官渡」等,基本上是由平埔族語所音譯而來。(略)日治時代一度改稱為「江頭」,但是光復後又恢復成「關渡」,並沿用至今。〔後掲關渡宮/歷史沿革-開基建廟〕

 關渡の漢字には甘答・干豆・干荳・肩脰・墘竇・官渡と時代により実に多様なものが当てられてきました。「kantou」同音のものには他にも干答・干答・干脰・乾竇②関豆がある。日本統治時代の駅名「江頭」は「かうたう」と読み,スペイン人の「Casidor」と同じく音訳の部類です。他に関杜という表記もあるけれど,これは略称に「集落」の意味の「社」を付しただけでしょう〔後掲wiki/関渡〕。
 上記引用の最初部のとおり,「Kantou」は凱達格蘭族語の疑いが濃い。ケタガラン族(凱達格蘭族)は台湾北部の平埔族(漢化が進んだ台湾原住民の群)です。

蔣志・(康熙)臺灣府志の「干豆」

 実は,台湾府志の康熙代の初版・臺灣府志※にも,上記の漢字用例を考えると,それらしきものがあります。
※1685(康熙24)年制作開始,1689(同28)年完成

29 淡水廳惜一分管一十肅莊百一十一莊(略)距顛一百一十里北投由距顛一百四十里奇里岸汪理燥一百里干豆召皿廳一百一十里八里全任召輒廳一百十里灑尾庫理博一百里羊蕃林皮醜懦一日里川乍二供係〔後掲(康熙)臺灣府志〕

 淡水からの距離を記してあるだけの記述です。淡水から百里(≒50km)というのはあまりに目測違いですから別の土地とも思えますけど,2つ前に記載されている北投(110里)からの順序からはやはり疑いは消し難い。
 なお,wikiには

今日の台湾語「Kan-tāu」は比較的に漢字「干荳」、「干脰」の閩音で表すことができる。〔後掲wiki/関渡〕

とあり,表現が分かりにくいけれど,閩音(福建読み)では「干荳」「干脰」用字の音が台湾人の伝える「Kan-tāu」音に最も近いということでしょうか。
 この音の類似を信じるなら,次の記述例∶黃叔璥「臺海使槎錄」※の「肩脰」「干豆」表記とも整合性があります。

巻一23 上淡水在諸羅極北中有崇山大川深林曠野南連南嵌(略)北河源出楓仔嶼行百餘里俱至大浪泵㑹流出肩脰一作干豆入淡水港曲折委宛五十餘里(略)〔後掲臺海使槎錄〕
※黃叔璥∶巡臺御史。1722(康熙61)年執筆開始。文中緑字は原文の注釈書き。

(異論)民間契約文書上の「kantou」使用例

 ここまでは「kantou」音に絞った話をしました。ただこの語は明らかに,水上航海者からの「地点」名です(「門」を付ける場合はその沖の「難所」名)。
「kantou」が陸上の集落名になったのは,これに「庄」を付けた使用がなされるようになってから,と考えるのも説得力があります。台湾での用例上,「社」は原住民集落,「庄」は漢族集落と差別化して用いられるからです。
 それは,最古のもので1758(乾隆23)年とされます。
 以下に後掲黄が収集した民間契約関係の文書の記載を3点掲げておきます。

……吳立受有自己開鑿水田壹段,犁份三張半,併茅屋壹座玖間,帶竹圍、農俱、家器等項,座落土名關渡庄,東西四至載在上手契內。….託中引到余出頭承買……(51∶乾隆23年12月付け)
〔後掲黄〕
※原典 51-53とも朱華振提供文書,中研院台灣史研究所藏

だから,漢族集落「關渡庄」の成立がこれらの契約書上で確認できるのはこの1758(乾隆23)年。「關渡宮」は以下のようにさらに遅くて1763(乾隆28)年ですから,この媽祖廟が現名称・關渡宮になったのは,漢族村落の成立後にそこから転用される形だったと推定されるのです。

至遲乾隆23年﹐已經出現。 至於康熙51年興建之靈山廟(天妃廟)至遲在在乾隆28年已稱「關渡宮」,該年有一地契載「關渡宮住僧綿遠,…..余霞岸承墾荒埔壹所,坐在關渡」。(52)〔後掲黄〕

 ただし,この名称も乾隆28年以降定着していたかと言えば決してそうだと断定できません。次の契約書では1788(乾隆53)年にも地形名「關渡」が単独で用いられています。

乾隆57年,上載「余怡老有祖父水田壹所,坐在關渡,土名綿遠庄,…乾隆53年四月…,.典與朱德觀,…,典價佛面銀柒拾員。今…杜賣找出盡價佛面銀伍拾員 」。(53)〔後掲黄〕

「坐在關渡,土名綿遠庄」は,現地名・綿遠庄,それは「關渡」にある,と書かれます。
 漢族集落名でないうちは,この地形名すら漢字で定着していたとは考えにくいわけで,だからといって台湾圧政を行った周鍾瑄の命名「霊山宮」であり続けた可能性も薄い──とすると上記建廟1713(康煕51)年から75年間,この廟は「名無し」だった可能性すら出てくるのです。

鄭成功没年に創始された關渡宮

「kantou」が17Cには存在した地名という事実は,以上によりかなり確からしい。では媽祖宮はどうでしょう?

1661年の創建で、台湾北部最古の媽祖廟としても知られる[1]。〔後掲wiki/関渡宮 ※原典[1] ブルーガイド海外編集部(2012)、p. 64〕

と平気で書くものもあるけれど,1661年は鄭成功による台湾政権の樹立年。
 加えて,1661年説の根拠は關渡宮の伝承以外にないらしく,諸ガイドはこれを写したものらしい。現在の宮HPは,1712(康煕51)年で揃えてあります。

関渡宮は台湾北部最古の媽祖廟で、その歴史は清朝順治年間に遡ります。この廟を開いた石興和尚は福建から聖母を持って台湾に渡ってきました。当時の名前は「天妃廟」と言いました。その後、乾隆、道光、光緒年間に幾度も改修されましたが、五回目の修復時に移動されて現在に至ります。石興和尚が台湾に訪れてからはすでに340年以上の歴史があります。〔後掲Taipei Travel〕

 關渡宮の1661年創建説が記載されていたのは,1983(民国72)年発行の「關渡宮建廟沿革史簡介」という冊子らしい。創建者とされる「福建臨濟宗派和尚石興」という名もこれを原典としています〔後掲蔡相煇〕。
 だから石興さんの人名はひとまず忘れていい(後掲)。
 ただ,1712(康煕51)年創建だとしても,十分に古い。台湾人の俗語で言うと「南有北港媽 北有關渡媽」,要するに北港朝天宮に匹敵する歴史的信仰中枢だとする見方まであります。
 ここまで見た媽祖宮の由緒の「でっちあげ」度を考えると,「嘘つけ〜!」──と最初は頭から不信感まみれだったんですけど……史料的には確かなのです。
 ただ,出典はやや偏ってます。何と諸羅縣志(周鍾瑄・著)です。

石興和尚の墓とその存在

 石興和尚さんという方は,現・關渡宮のある新北市にお墓がある。

石興和尚 墓〔後掲隨意窩〕

 場所は確認できませんでした。
 でもとにかく,この人が実在したことは全くの眉唾ではないようです。ただ,「石興和尚 墓 (乾隆丙午年, 1786)」〔後掲隨意窩〕と紹介されています(これも考古学的知見なのか伝承かは不詳)。1661年にゼロ歳児の開祖でも125歳でお亡くなりになったことになるから,少なくとも百年はズレがある。

魏姓の石興和尚が福建湄洲祖廟の媽祖と共に台湾に渡来した際、關渡の近くで豪雨に遭い、基隆河・淡水河が氾濫して足止めに遭ったと言われています。石興和尚が謹んで媽祖にお伺いを立てたところ、關渡に残る意向を示したため、この地に廟が建てられたと伝えられています。〔後掲關渡宮(日本語ページ)〕

 和尚というからには福建側の出身寺があるはずですけど,この人の伝承には宗派すらない。魏姓,という点だけが付属情報です。
 いつの時代か定かではないけれど,媽祖像を運んできた僧侶がいて,現在も観音を祀る關渡宮の仏僧の始祖と伝えられている,という捉えが妥当でしょう。

關渡宮の甍

諸羅縣志巻十二寺廟∶關渡宮の掲載理由

巻十二37 寺廟
38 天妃廟:一在城南縣署之左。康熙五十六年,知縣周鍾瑄鳩眾建。一在外九莊笨港街。三十九年,居民合建。一在咸水港街。五十五年,居民合建。一在淡水乾豆門。五十一年,通事賴科鳩眾建:五十四年重建,易茅以瓦,知縣周鍾瑄顏其廟曰「靈山」。〔後掲諸羅縣志 ※番号は中國哲學書電子化計劃付番。下線は引用者。以下同じ。〕

──(下線部訳)(天妃廟の)一つは淡水乾豆門にある。康熙51年(1712年),通訳の賴科ら(賴科鳩眾)が創建。54年に改修し瓦を葺く。知縣・周鍾瑄が廟に「靈山」と命名。──
 嘉義地方の地誌になぜ掲載されるのか──と訝しく思われても無理はないのですけど……これは,一つは,17C末からしばらくの諸羅縣は台湾北部全部だったからです。

1684年、清朝は承天府跡に台湾府を設置し、引き続き、台南城が台湾島の首都に定められる(福建省に帰属)。その下に、諸羅県(鄭氏時代の天興州:今の台南市佳里鎮内に開設)、台湾県(略)、鳳山県(略)の3県が配された。(略)この時、諸羅県の管轄区域は広大で、現在の嘉義市から北側すべて、すなわち、台湾島の北半分すべてに及んでいた。〔後掲BTG/嘉義市〕

 もう一つは,諸羅縣志の制作責任者である知事・周鍾瑄※が宮の古名「霊山宮」を命名し,おそらくは改修段階で関わっているからです。

知縣・周鍾瑄とその時代

 周鍾瑄という知事さんは,宗教政策以外にも在任5年(1714(康熙53)~1719(康熙58)年)の間に食糧備蓄,水利拡充,農業振興に功績大。
 けれど,清朝中央政界の政治ゲーム上は弱く,1724(雍正2)年に巡台御史が「増税と穀物消耗」の罪で彈劾,さらに1729(雍正7)年に欽差大臣が絞首刑を指令。刑は赦免されるも,最終官職は江寧知府。ということは,1719年退任時にも既にこの政治ゲームの敗北感が漂っていた可能性があります。貴州出身。〔後掲wiki/周鍾瑄〕
 逆に言えば,それ以外の史料には記されていない。よって,關渡宮創建史は周鍾瑄によるバイアスがかかっている可能性があります。
 そうすると,この知事さんの置かれていた時代環境を考慮する必要が生じます。

淡水を狙う者 護る者

 この点を,宮HPは次のように説明しています。

 康熙51年是關渡宮建廟之年,是洋盜鄭盡心在淡水外海窺伺之時,關渡宮位居進出臺北盆地要津,是當地住民信仰重鎮,主管官署諸羅縣更加重視其資訊蒐集功能,積極改善其硬體設施。康熙54年(1715),也就是草創後第三年,即被重新改建成木構瓦頂的新建築。〔後掲關渡宮/開基建廟〕

 同宮の日本語HPの訳は──康熙51年(西暦1712年)は關渡宮創建の年であると同時に、外来の勢力が淡水周辺の海域にて虎視眈々と侵入の機会を窺っていた時代でもありました。關渡宮は台北盆地に進出する要地にあたり、現地住民の信仰の中心としても重要な役割を果たしていたため、所轄の諸羅県官吏は情報収集の要地として關渡宮を重視し、積極的に施設の改善に当たっていました。そのため、康熙54年(西暦1715年)すなわち關渡宮創建から三年後には、木造瓦屋根へと再建されています。──
 見比べると,「洋盜鄭盡心」が「外来の勢力」と言い換えられています。「洋盜」は海「洋」にいる「大泥棒」,つまり海盗です。では「鄭盡心」とは誰でしょうか?──と年表を確認してみました。

淡水大事記年表(乾隆・雍正期抄)〔後掲淡水区「淡水鎮志」〕

 1699(康煕38)年,北投の番社土官(≒現地採用役人)「冰冷」という人が水師(清の水軍)に殺害されています。原住民の民心はまだ全く清朝に従う意思がない。
 1710(康煕49)年の行に「洋盗鄭盡心・陳明隆自遼海竄據淡水,地方騒動」──海盗の鄭盡心・陳明隆,遠海から淡水に上陸,地域一帯が大騒ぎ,とあります。翌1711年に鄭盡心が捕縛された記述がある。ちなみにその翌1712年が賴科による關渡宮創設です。

康熙年间骚扰渤海以至闽浙的大海盗(略)
其记录最早见于1710年、1711年间,郑及其部下陈明隆企图窥伺北台(略)
但圣祖念其深闇水性又熟悉水战,命九卿再议后,决定从宽发配至黑龙江宁古塔。〔後掲百度百科/郑尽心 ※鄭盡心の簡体字〕

──康熙年間に渤海から福建・浙江までを騒がせた大海盗である。
──その記録として最も古いのは1710〜11年の間で,この時,鄭盡心とその部下・陳(陈)明隆は北部台湾を侵そうと計画した。
──(捕えられた後)しかし圣祖(聖祖=康煕帝)はその「深闇水性」と「熟悉水战」(海戦への習熟度)を考慮し,九卿に再議を命じた結果,黒竜江の静かな古塔に置く(幽閉する?)という寛大な措置に决定した。──
 まず,「企图窥伺北台」北部台湾侵略を企図した,というのは,直接の史料が見つかりませんでした。ただ近いものは諸羅縣志にもあります。

巻七11(略)自四十九年洋盜陳明隆稱其渠鄭盡心潛伏在江、浙交界之盡山、花鳥、台州魚山、台灣淡水(略)議者又謂崩山、後壟、中港、竹塹、南嵌,本郡商賈舟楫往來,而淡水一港則閩省內地商船及江、浙之船皆至焉。〔後掲諸羅縣志〕

──(康煕)49年(1711年)から洋盜・陳明隆とその親玉・鄭盡心が潛伏している。場所は江・浙州の境の盡山,花鳥,台州の魚山,そして台湾の淡水である。
──巷で曰く,崩山・後壟・中港・竹塹・南嵌には台湾の商船が往来している。また,淡水一港が福建の商船及び江・浙の全ての船の終着港である。──
 東シナ海北半の重要港として,淡水港が浮上してきていた。ただし,新興のその場所は決して安全な交易場ではなかったのです。
 なお,鄭盡心の捕り物は淡水とか台湾とかより遥かに巨大な,東シナ海全域にまたがるものだったことが分かります。

35 祭淡水將士文有序阮蔡文北路參戎
36 (略)康熙五十年辛卯,洋盜鄭盡心自遼海竄逃;上命江浙、閩、廣四省舟師搜捕,因設營汛於此。其明年,文奉命自錦州泛海,招撫洋盜陳尚義於盡山、花鳥。癸巳,除云南州牧。上以文熟諳海務,甲午改廈門參戎,乙未再調台北。淡水在所轄之內,實為要區。〔後掲諸羅縣志〕※辛卯・甲午・乙未はいずれも1711(康熙50)年の日の干支→後掲wiki/干支 参照

 1711(康熙50)年に「洋盜鄭盡心」捕縛に動いたのは江・浙・閩・廣四省の水軍(舟師)。最重要地点の淡水では阮蔡文が事実上の現場指揮官となっています〔後掲維基/阮蔡文〕。
 阮蔡文は翌1712年には錦州からのローラー作戦で,「洋盜陳尚義」を捕縛しています。この時期,この人は水上行動を熟達(熟諳海務)していたため,その職は雲南の牧※を辞めて廈門の參戎,台北への再任と目まぐるしい。役所の整理の方が後追いになる神速の機動対応をしたものと思われます。(※牧,參戎∶いずれも職名)
 この人が根拠を置いたのが淡水。諸羅縣志は「實為要區」──軍事的要地として宝のような場所,と書いています。

 さてもう一つ,諸羅縣志の別の記述を追いましょう。
 ただ,ここで出てきた人名は後で再合成します。下表にまとめますので、記憶の隅に留めておいて下さい。

【甲∶鄭盡心】海盗。1710(康煕49)〜11(康煕50)年,清水師ら指名手配,1711年に捕縛。
【乙∶賴科】通事。1712(康煕51)年關渡宮創建(諸羅縣志)
【丙∶周鍾瑄】諸羅縣知縣(1714(康熙53)~1719(康熙58)年)。諸羅縣志制作責任者。1715(康煕54)年重建時に廟を「靈山」と命名
1930(民国19)年江頭(關渡)付近〔國家圖書館/臺灣記憶 Taiwan Memory/江頭(關渡)附近 ※資料來源 URL:https://tm.ncl.edu.tw/article?u=005_001_0000358657

諸羅縣志巻十二 古跡∶「靈山廟」時代

 この文は,短文ながら実に多くを語ってくれます。3つに区切って読みます。
 なお,文章の位置は,巻十二古跡の14項目のうち最後です。最後に付け加えた項目のように見えます。

巻十二49 古跡(略)
62 龍湖岩閩人謂寺院為岩:在開化里赤山莊。偽官陳永華建。環岩皆山,幽邃自喜。前有潭,名龍湖。周環里許,遍植荷花,左右列樹桃柳。青梅蒼檜,遠山浮空,游者擬之輞川圖畫永華,鄭氏執政。頗雜儒雅,與民休息;台人至今稱之
63 ①靈山廟:在淡水乾豆門。前臨巨港,合峰仔峙、擺接東西二流與海潮匯,波瀾甚壯。②康熙五十一年建廟,以祀天妃。落成之日,諸番並集。忽有巨魚數千隨潮而至,如拜禮然;須臾,乘潮複出於海:人皆稱異③此與龍湖岩皆近時所建。以其為邑治名勝,附記於此。〔後掲諸羅縣志 ※丸付数字は引用者〕

(右手)淡水〜(左手)台北の古絵図(江頭の呼称から日帝時代と推定)〔後掲BTG/新北市淡水区〕

前臨巨港波瀾甚壯 前に巨港を臨み波浪が壮観

──霊山廟:淡水干豆門にあり。巨大港に面し、峰仔峙(現・汐止)と擺接(土城・板橋)からの東西の流域(基隆河・大漢渓)が海流と交わり、波しぶきは大層壮観である。〔後掲關渡宮(日本語ページ):關渡宮歴史と沿革:開基創廟。次の和訳も同じ。〕──
 關渡は,南から来た淡水河と東からの基隆河が合流し,北の海に出る合流地点です。この山の入り組み方は大陸漢族には余程奇異に映ったらしく──

西北為觀音山,內為獅頭岩山,與關渡門山相對。關渡山形如象鼻,形家謂之獅象捍門。〔後掲福建通志台灣府〕

 観音山△Ⅱ淡Ⅱ 
     Ⅱ水Ⅱ▲關渡山 
獅頭岩山△Ⅱ河Ⅱ
という位置関係に続いて──關渡山は象の鼻の如し。その形を人謂わく「獅象捍門」(獅子と象とが守る水門)と。──
 上の日本時代の絵図からもその感じは見てとれます。現地語kantouに「關」渡の漢字を当てた統治者側漢族の感覚は,ここが台北平地を海から守る「関所」たるべしというものでしょう。
 これは逆に航海者ないし海賊側からから見れば,台北の入り口に着いた,という安堵とともに,航行の目印になる場所だったわけです。

大台北古地圖〔後掲淡水維基館,原典:荷蘭海牙國家檔案館,オランダ人作成,1654年〕

原建山頂 元は山頂に建っていた

 航行の目印という意味からも,淡水廳志※にある次の記述が重要となります。
※陳本:陳培桂(淡水廳同知)責任編集。1869(同治8)年制作開始,翌1870(同治9)年完成)

巻六47 天後宮,一在廳治西門內,乾隆十三年,同知陳玉友建。(略)一在艋舺街,舊屬渡頭,乾隆十一年建。(略)一在關渡門,原建山頂,康熙五十八年,移建山麓府志作康熙五十六年諸羅知縣周鍾瑄建。乾隆四十七年修。道光三年重修。(略)〔後掲淡水廳志(陳本),下線は引用者〕

 淡水管区の天後宮(媽祖宮)の紹介記事です。冒頭の「廳治西門內」のは淡水福佑宮,中途の「艋舺街」はもちろん臺北天后宮(艋舺新興宮),三番目のが關渡宮なのですが――――元々は山頂に建っていたが,1719(康熙58)年に山麓に建て替えた――――と書いてあるのです。
 先述の由来とまとめると,

1712(康煕51)年 關渡宮創建(諸羅縣志)by【乙∶賴科】通事
1715(康煕54)年 重建。【丙∶周鍾瑄】(諸羅縣知縣(1714(康熙53)~1715(康熙54)年),諸羅縣志制作責任者),廟を「靈山」と命名
1719(康熙58)年 山麓に移転 on【丙∶周鍾瑄】退任年

 この経緯を普通に読むと,一つは,初代・關渡宮は「山頂」に建っていたことになります。周鍾瑄知縣の「靈山」という命名とも,イメージが一致します。
 この点を關渡宮は次のように説明していますが――――

康熙58年(西暦1719年)に、象鼻山の山頂にあった天妃廟を中腹あたり、現在の關渡宮付近に移転させたとしています。移設の原因は、康熙33年の台北大地震によって形成された湖の水位が下がったのに伴い、北投の硫黄と貨物を福建へと輸送する船舶の停泊位置も下降したためと、推測されています。〔後掲關渡宮(日本語ページ)〕
※同ページ(中国語ページも同じ)はこの原典を「諸羅県志」としているが,同史料でのヒットはないため,淡水廳志の誤記と推測した。※※後掲黄によると,この説の原典は方豪「臺北『江頭』之地名學的研究-附論吳廷華及其臺灣詩」,《文獻專刊》,4卷1期(1950,12)

「象鼻山」という地名がヒットしないけれど,關渡の地形を「象鼻」と称した(→前掲福建通志台灣府)事実から考えて,關渡に連なる地形,おそらく現在の宮からMRT駅西に続く峰のどこかでしょう。

關渡宮対岸からの宮北側の尾根も含めた景観〔GM.〕

 けれど,上記の創建→重建→移転はあまりにも激しすぎ,とても約20年前の地震の影響とは考えにくい。
 そこで二つ目の自然な読みですけど――――移転年と周鍾瑄の諸羅縣知縣退任年の整合と関係ないとは考えにくい。
 知縣退任後の周鍾瑄の政治的転落(→前掲)を待っていたように,宮が山頂から移転されたならば,それは以前から周鍾瑄の言動を苦々しく捉えていた何らかの反対勢力によるものと考えるべきでしょう。しかも,その勢力名称は,ようやく移転事実を記せた淡水廳志すら記していない。
嘉義市城隍廟に残る諸羅縣知縣・周鍾瑄像

諸番並集人皆稱異 原住民が勢揃いして皆驚く

──②康熙51年に天妃を祭る廟を建設し、落成の日には、諸番【原住民諸族】が集結。突如、巨大魚数千匹が潮に乗り、参拝するかのように現れ、瞬く間に再び潮に乗り海へと帰る。人々はこれを奇異と称す。〔後掲關渡宮(日本語ページ):同上。ただし【】内のみ引用者注記〕──
 周鍾瑄は,落成日に集まった原住民(諸番)の姿を描いています。逆に言えば,媽祖の本来の信者である漢族が描かれません。
 關渡宮の創建ストーリーは,台湾他地の媽祖宮と根本的に異なるのです。原住民を圧した漢族集団が勝利者の一里塚として建てたというそれではありません。
 具体的に何が異なるというのか?──後掲黄は,媽祖宮の中での關渡宮の特異性として以下の三点を挙げます(「∶」以降は引用者解釈)。
(一)北台最早媽祖廟∶古さ
(二)漢番合建∶信者の多民族性
(三)半官祀廟∶官民祀廟区分の折衷性
 古さについては既に見ました。三点目の折衷性を先に確認しますと──要するに,原住民の自律的治安維持活動を,通事が束ね,このムーブメントを役所が助成する,という形態がイメージできるのです。鹿港勅建天后のような完全官設でないのはもちろん,役人や通事による洗脳でもない。

17C末の吞霄・淡水之役

この点も,思い込みではない確認として「吞霄・淡水之役」と書かれる内乱の史料を挙げます。
 時は1699(康煕38)年,關渡宮創建年1719(康煕51)年の13年前です。

32 三十八年春二月,吞霄土官卓個、卓霧、亞生作亂。夏五月,淡水土官冰冷殺主賬金賢等。秋七月,水師襲執冰冷。八月,署北路參將常太以岸里番擊吞霄,擒卓個、卓霧、亞生以歸,俱斬於市主賬,番社通事管出入之賬者。〔後掲諸羅縣志〕

 時系列の記述なので,年表にしてみます。

1699(康煕38)年
二月「吞霄」の原住民役人(土官)の卓個・卓霧・亞生さんら反乱
五月 淡水土官の冰冷が「主賬」(会計係?)金賢らを殺害
七月 水師(清水軍),冰冷を攻撃
八月 北路參將(軍役職),岸里番に吞霄を討伐。卓個・卓霧・亞生を捕え市場で公開処刑

 吞霄はGM.でヒットがない。台湾苗栗県通霄鎮の別称がこの字だけれど〔後掲wikipredia/通霄,臺灣閩南語常用詞辭典/”吞霄 Thun-siau”〕,淡水から少し遠すぎます。ただ,事実は北部広域の原住民反乱だったのかもしれません。

33(略)會番當捕鹿,申約計日先納錢米而後出草;個、霧等鼓眾大噪,殺申及其伙十數人。(略)個、霧等阻險拒守,四社番傷死甚眾。(略)乃遣譯者入說其魁,多致糖、煙、銀、布。番大喜,自以收捕為功;繞出吞霄山後,日有擒獲。(略)是役也,勞師七閱月,官軍被瘴毒死者數百人。(略)把總遣他社番誘以貨物交易,伏壯士水次縛之,亟登舟。比諸番出護,已挂帆矣。會吞霄既平,諸番以首惡既誅,因通事求撫把總者失其名。〔後掲諸羅縣志〕

──鹿を捕えて金銭や米に替える際,罵り合いから喧嘩になり,個・霧らが十数人を殺害。
──個・霧らの抵抗は激しく,四社番に死傷者多数。
──通訳を派遣し,砂糖・タバコ・銀・布をたっぷり渡すと,原住民は喜んで自ら投降し,吞霄の山を後にしたところを捕えた。
──役は7ヶ月に及び,官軍は現地病で数百人が死んだ。
──原住民の他族の者が貨物の交易を持ちかけて出てきたところを,水中に伏していた壮士がこれを縛り船に載せ,原住民の守備兵が来る前に出帆してしまう。こうして吞霄は平らげられ,原住民諸族の首謀者は誅され,後の者を通訳(通事)が諭した。──
 酷くスニーキーなやり口で原住民を丸め込んだことになるけれど,ここで決め手になってるのは交易です。また,その交渉に具体に動いているのは通事です。
 ただし,(緑字部)この時の功労者たる通事の名は忘れられています。

34(略)正巡哨雞籠、淡水之時,因知水師收功者淡水也。後叩之老兵數輩親見者,皆如紀中云云。斯役距今未久,耳目相接,而抵牾舛錯如此。(略)〔後掲諸羅縣志〕

 十数年後に視察した周鍾瑄に,淡水の誰もがこの話をした,というのです。互いの反目や恩讐としてではなく「抵牾舛錯如此」──ああいう過ちは繰り返さないようにしよう,というトーンでこれが伝えられていた。
 これを性善説や平和主義で読まないとすれば,健全な交易環境が維持できるなら,その方がいい,という共通認識が形成されたと見るべきでしょう。

漢人不在の漢番合建

 さて黄論文の残る一つ,(二)漢番合建──信者の多民族性についてです。
 關渡宮の龍柱(龍∶ドラゴンを象った柱)の基礎部分をよく見ると,以下のような記名が入った箇所がえります。
「乾隆癸卯年瓜月吉旦 北投社 弟子潘元[土申] 劉仕損 金佳玉 同喜助」
※乾隆癸卯:乾隆48年=1783年

關渡宮龍柱基部の「弟子」表記
〔後掲痞客邦〕
 これは事例で,数は複数あるらしい。この漢族圏であまり診ない「弟子」に続く個人名の姓に,上記の「潘」のほか,「臺」などの平埔族独特のものがあることから,①原住民の寄進様式と推測されています。
 この他に黄論文は具体的根拠を4点を挙げます。
②前記史料・諸羅縣志(巻十二37(No.48))で,非公建の場合は出資者を「居民合建」と記載するところ,關渡宮のみ※は「通事賴科鳩眾建」と記されている。出資者が漢族「居民」ではなく通事・賴科が代表する広域の原住民集団だったからである。
③上記「賴科鳩眾」の「鳩眾」あるいは「眾」は,「番眾」(原住民集団)の意味である。
※厳密にはもう一箇所,冒頭に嘉義天后について「知縣周鍾瑄鳩眾建」という記述があるが,周鍾瑄は嘉義においても同様の原住民の信徒引込策を採っていたのではないか。(引用者説)  
④上記の「五十四年重建」内容に,茅葺きを瓦に替えた(易茅以瓦)表記があるが,この重建前の茅葺きとは原住民の伝統家屋準拠の建築様式と推測できる。
⑤同諸羅縣志(巻十二古跡No.63)にある「落成之日,諸番並集」とは,建築時に原住民が伝統的建築方式通りに共同作業(日本で言うユイ(結))に従事していたから。
 一見して分かる通り,黄が5点も傍証を挙げているのは,どれも「漢番」合建の決定的な証明ではないからです。
①特段に「弟子」表示をさせたのは「強要」「宣誓」的な疑いはないか?
②原住民を「居民」と区別するのは,つまり差別的発想ではないか?
③「鳩眾」には直接には原住民の語義がない。
④茅葺き=原住民家屋と捉える論拠は薄い。また,それならなぜ僅か三年で瓦にしたのか?
 さらに,最も疑問が残るのは最後の点です。
⑤「諸番並集」の記述こそ,強制労働又は動員を表現したものではないか。また,そこに漢人が描かれないのも,原住民特化の宗教装置であったことと整合するのではないか?
 これらの点を自然に捉え直せば,「官営番立原住民専用廟」とでもいうべき康煕末年の異相の媽祖廟が朧気に見えてきますが──先に諸羅縣志を読み終えましょう。

此與龍湖岩皆近時所建∶龍湖岩とプレ關渡宮は同時期建

──③ここと龍湖岩とはいずれも近い時期に建てられ,どちらも村の治世上の名勝になっている場所であるので,ここに附記する。──
「龍湖岩」も「龍湖」もヒットはありません。赤山龍湖巖という場所があるけれど台南市です。〔後掲赤山龍湖巖〕
 なぜ諸羅縣志著者・周鍾瑄は,前節の龍湖岩との関連をわざわざ注記したのでしょう。ちなみにこんな注釈は,「古跡」章内でこの末尾のみです。
 原文を再掲します。

(再掲)巻十二 古跡(略)
62 龍湖岩閩人謂【a】寺院為岩:在開化里赤山莊。【b】偽官陳永華建。環岩皆山,幽邃自喜。前有潭,【c】名龍湖。周環里許,遍植荷花,左右列樹桃柳。青梅蒼檜,遠山浮空,游者擬之輞川圖畫永華,鄭氏執政。頗雜儒雅,與民休息;台人至今稱之
63 靈山廟:在淡水乾豆門。(略)③此與龍湖岩皆近時所建。以其為【d】邑治名勝,附記於此。〔後掲諸羅縣志〕

【a】福建人曰く,岩をもって寺院とした。
【b】偽者の官僚・陳永華が建てた。
【c】名を龍湖という。
【d】これをもって「邑治名勝」(村の治世上の名勝)とした。
 まず,龍湖岩を「建て」られたものと書いている点に注文したい。「靈山廟」節の注釈にも「皆近時所建」(どちらも近い時期に建てた)としているように,周鍾瑄は龍湖岩を自然物の岩ではなく,建築物又はその名残りとして記述しています。これは【a】とも整合します。
 この建物を建てた人物として【b】「偽官陳永華」が挙がっています。「正しい官僚」である周鍾瑄が,相当に攻撃的な表現を用いるこの「偽官」は,注記されているとおり「鄭氏執政」。そうなると,鄭氏台湾王朝の筆頭参謀にして,洪門(天地会)創始者と伝えられる陳永華しか該当しません〔後掲wiki/陳永華,維基/陳永華 (明鄭)〕。

臺南永華宮に祀られる陳永華神像

 鄭氏台湾の実質的経営者と評される人です。だから業績は数多ありますけど,台北・關渡に関係するところを抜くと──

経済
(略)陳永華は鄭經に建議し、清朝の海防を担当する将軍に賄賂を送り、密貿易を進めさせた。その結果、台湾に貨物が流入し、物価が安定した[9]。
教育
(略)漢化が勧められ、陳永華は、入学している原住民に、彼らの徭役(中国語版)を特別に免除した[10]。〔後掲wiki/陳永華 ※原典[9] 『台湾外記』,頁238-239
[10] 戴寶村,『台湾政治史』,台北:五南圖書,頁57〕

 交易に(清にとっては違法ながら)注力し,原住民との融和政策にも積極的だった。
 けれども晩年は政治的に不幸で,1680年6月に鄭経が大陸遠征から台湾に戻った時点で排斥。引退して同年7月に逝去。……ということはまず間違いなく,殺害されています。
 この際の引退先が龍湖巌(現・台南市六甲区赤山龍湖巌=【c】)です。

輞川別業中の一景「鹿柴」。「游者擬之輞川圖畫」──旅行者が輞川圖の書と疑うような,という龍湖の形容の「輞川圖」とは,唐代に詩人・王維が作成した画を指す。〔後掲artouch.com〕

 龍湖と關渡宮が,同時代の創建で【d】「邑治名勝」であることを特記した周鍾瑄は,おそらく任期末年に清中央政界から政治的な圧迫を受けつつある中,立場上「偽官」と呼びつつも陳永華に親近感を感じ得なかったのかもしれません。
 それはともかく──【d】邑「治」名勝です。単に名勝ではなく,村落経営上の名蹟と記したのは,龍湖岩にあった寺院と同じく,(原)關渡宮もまた陳永華を創始者とした,あるいは彼を祀った初期の原住民統治の中核だった──という含意なのではないでしょうか。
 それが同じ時代,即ち鄭氏台湾初期だったとするならば,前掲石興和尚とその「創始」年代(1661年∶鄭成功による台湾政権の樹立年)も全くの嘘ではないことになります。
 先の表にこれを追記してみます。

1661年+@ 鄭氏台湾の陳永華,關渡宮の原型を創始?
1710(康煕49)〜11(康煕50)年 海盗【甲∶鄭盡心】,清水師ら指名手配(1711年捕縛)
1712(康煕51)年 關渡宮創建(諸羅縣志)by【乙∶賴科】通事
1715(康煕54)年 重建。【丙∶周鍾瑄】(諸羅縣知縣(1714(康熙53)~1715(康熙54)年),諸羅縣志制作責任者),廟を「靈山」と命名
1719(康熙58)年 山麓に移転 on【丙∶周鍾瑄】退任年

 關渡宮は,鄭氏台湾・陳永華が原住民融和の過程で原型を置いていたものを,(賴科を代表者とする)原住民が拡充,さらに周鍾瑄が半公式に中国式寺院形式にまで引き上げたことで,媽祖宮としての歴史をスタートさせた,と本稿では推測します。
 ただし,上記まとめ表の事象中,まだ説明できていない点が2つあります。いつからなぜ媽祖を祀るようになったのか。また,媽祖宮はなぜ山を下りたのか,です。

通訳を名乗る冒険商人 賴科さん

 その前に,通訳の賴科さん【乙】についてもう少し掘り下げた史料を見ます。

巻下1 客冬有趨利賴科者,欲通山東土番,與七人為侶,晝伏夜行,從野番中,越度萬山,竟達東面;東番知其唐人,爭款之,又導之游各番社,禾黍芃芃,比戶殷富,謂苦野番間阻,不得與山西通,欲約西番夾擊之。〔後掲裨海記遊〕

 17C末の民間の紀行文(前章で触れた康熙台北湖根拠史料)にたまたま載っている記述で,客観性も高い史料です。
──昨年冬,利に長けた賴科という者に会った。貪婪な山東(台湾東部?)の先住民七人をともに連れ,昼は隠れて夜動く。荒野から原住民の中に入り,幾多の山を越え,(台湾)東岸にまで達している。東(岸?)の原住民はその中国人を見知っており,彼と争議(取引?)する。また,これを導き各原住民集落に遊び(又導之游各番社),(彼によって)穀物が生い茂り,比較的裕福になっている。困窮した原住民に遮られ,山西へ通って帰れなくなった際,西の原住民はこれを攻撃しようとしたという。──
 当代の通訳一般の姿なのかどうかは分からないけれど,少なくとも賴科という人は,単に原住民側の交渉人とか代弁者というだけでなく,軍事行動まで誘発してしまう重要な取引相手又は政治的フィクサーだったことになります。
 対して同時期の周鍾瑄【丙】の記した諸羅縣志の文章の原住民は,全訳するとほとんど伊賀忍者です。漢族上層階級には海から離れた台湾は,ほぼ妖怪の土地に映っていたのでしょう。

巻八138 雜俗(略)
205 岸里、內幽、噍吧哖、茅匏、阿里史諸社,磴道峻折、溪澗深阻,番矬健嗜殺。雖內附,罕與諸番接。種山、射生以食。縫韋作幘,冒其頭面,止露兩目;鹿皮作次,臍下結一方布,聊蔽前陰,露臀跣足。茹毛飲血。登山如飛,深林邃谷能蛇鑽以入;〔後掲諸羅縣志〕

 番矬健嗜殺──原住民は背が低いのに健康で,殺しに長けている。
 臍下結一方布,聊蔽前陰,露臀跣足──ヘソ下に片方の布を結び,かろうじて陰部は隠すも尻と両足は露出する。
 茹毛飲血──毛を茹で,血を飲む。
 登山如飛──山を駆けること飛ぶが如し。

17C北投・硫黄の道

 では賴科さんたちは,そんな「魔境」台湾を横断して何をしていたのでしょう。
 前掲の裨海記遊は,1697年2〜10月に福建の郁永河さんが台南に上陸,当時の台湾を踏破した「探検記」です。「非人類所宜至也」──人類にあらざる所宜しく至るなり──とまで記す旅程の最終到達地が,關渡から北投を経た内陸部の硫黄産出地でした。

郁永河《裨海紀遊》路線圖〔後掲中央研究院台灣史研究所〕

如1640年代,何斌父親何金定(Kimtingh譯音)有帆船到淡水採硫(25);臺南新市、新化一帶的著名大商人大頭仔三舍(Samsiack),與八哥(Peco),另一著名跨國大漢商希止老爹(Jan Soetekau)等,都有派船到淡水裝載大量粗製硫磺,荷蘭公司並派船保護(26)。〔後掲黄〕
※(25)《臺灣日記》第二冊,DZII,324。
(26)《巴達維亞城日誌(日譯本)》第二冊,Ⅱ,頁38,145等;以及《臺灣日記》第二冊,DZII,313 等等。

──1640年代,何斌の父親・何金定(オランダ語表記∶Kimtingh)が帆船で淡水に来て硫黄を採っていた。──
 何斌は福建南安人,別名・何廷斌。つまり鄭成功の安平入りを誘導したピンクワです〔後掲維基・百度/何斌〕。

──台南の新市,新化一帯の有名な大商人,大頭仔三舍(Samsiack),八哥(Peco),さらにもう一人,国を跨いだ大漢商・希止老爹(Jan Soetekau)らが,揃って淡水へ船を派遣し大量の粗製硫黄を積み込んだ。オランダの会社(荷蘭公司)とその派遣船舶(派船)が彼らを保護していた。──
 さらりとですけどスゴい話です。中国人海商たちは,当時まだ知られていなかったはずの台湾の火薬原料・硫黄の情報を巧みに嗅ぎ取り,仮想敵・オランダに「輸出」していたのです。

根據西班牙宣傳教士Jacinto Esquivel在1632年〈關於艾爾摩莎島情況的報告〉的記載,①北投社位於丘陵下,包括八、九個村社,②並且蘊藏大量的硫礦,使得③當地住民較其他地區富有,並擁有大片的平原土地(轉引自劉還月 1998:118)。〔後掲原住民族委員会〕※原典 劉還月 1998 《尋訪凱達格蘭族─凱達格蘭族的文化與現況》。臺北:臺北縣立文化中心。
※※丸付数字は引用者

 それより約70年前のスペイン人たちも──
①北投社は丘陵の麓の8〜9の集落の総称で
②大量の硫黄が埋蔵されている。
③そのため,当地の住民は他地よりも富裕である。
 千km南東の薩摩にはるばると火薬の原材料・硫黄を求めた漢族の「死の商人」は,スペイン時代にはもう關渡東奥地に「硫黄の道」を開き,原住民を富ませるほどに拡大させていたわけです。

當時漢人和原住民間已有買賣硫磺的行為(伊能嘉矩 1999[1906]:43-44)。硫磺的開採者,主要是Taparri社與北投社原住民,以原住民的船隻(艋舺)運出硫磺土,賣與華商,交換花布、飾品、錢幣等物。華商在雞籠、淡水等地收購,加油提煉後,賣回福建。〔後掲原住民族委員会〕 ※原典 伊能嘉矩 1996[1925]《平埔族調查旅行》。楊南郡譯。臺北:遠流。

 即ち「硫黄の道」は

北投社
( ▼陸路★
關渡)
 ▼原住民船舶
艋舺
 ▼漢族近海船
雞籠又は淡水
 ▼漢族遠海船
福建

と連なっていました(★の陸路は後述)。
 なお,ここでも周鍾瑄の記述を借りると,やはりさながらお化け屋敷です。

巻十二76 麻少翁、內北投,在磺山之左右。毒氣蒸鬱,觸鼻昏悶;金銀藏身者,不數日皆黑色。諸番常以糖水洗眼。入山掘磺,必以半夜,日初出即歸;以地熱而人不可耐也。〔後掲諸羅縣志〕

──麻少翁と內北投(いずれも地名)は硫黄採掘地の近辺にある。毒気が充満し,鼻に入ると昏倒,悶絶する。金銀を蓄えた者も,日を数えずして真っ黒になる。原住民諸族は常に砂糖水で洗眼する(?)。硫黄を掘りに入山する場合,必ず夜半に入って日の出までに帰らねばならない(??)。──
 最後の一句は,是非,後の北投に温泉保養に来てた日本人に読んでもらいたい。
──地熱をもってして人,これに耐えるべからざるなり。

❝異説併記❞ 硫黄鉱山の安全祈願に功徳あり

 この淡水方面の硫黄採掘に関し,後掲陽明山国家公園サイト(日本語)が次のような記述をしてます。

淡水河口に位置する旧名を霊山廟といった関渡宮は、当時川を遡って入山し、硫黄採取を行なっていた労働者を守ることを祈願して建てられました。〔後掲陽明山国家公園〕

 断定しています。
 現代人に分かりやすいストーリーだし,本当なら本稿の推定は全く覆ります。
 根拠史料が確認出来ない点のほか,①そこになぜ媽祖を祀るのか,②石興和尚時代の前史とどう繋がるのか,③鉱山時代より創始年代がなぜ古いのか,などの諸点に疑問が残り,すんなりとは受け入れにくいけれど……一応併記して諸氏のご判断に委ねます。

17C・漢人のいない關渡の風景

 ここまで原住民と呼んできた人々は,17C当時のスペイン・オランダ文献では「バサイ族」と記されるらしい。
※中国語∶馬賽,西洋∶Basay。日本時代の呼称ではケタガラン族(中国語∶凱達格蘭,西洋∶Ketaganan)。ただし,現在ではバサイ族はケタガラン族の支族名ともされる。

此族有兩個重要的亞族或大社,一是今淡水地區的「沙巴里(Tappar)」社;另一是今基隆市區內的金萬里(Kimaur或稱金包里Kimpaur)」社(19)。兩大原住民族之間的往來,除了操舟沿著北海岸航行外,基隆河也是一條重要的水陸交通要道,關渡正位於兩大社的交通路線上。〔後掲黄〕
(19) 參見:翁佳音,《大臺北古地圖考釋》(臺北:臺北縣立文化中心,1998),頁77-80;106-110。

──現・ケタガラン族は2つの亜族又は大社に大別出来る。一つは現・淡水地区の「沙巴里(Tappar)」社,他方は現基隆市区内の「金萬里(Kimaur,あるいは金包里Kimpaur)」社。双方の大きな原住民族集団の間の往来は,北海岸沿いの船での航行のほかに,基隆河も一つの重要な水陸交通の要道となっていた。關渡はまさに両大社の交通路の線上に位置したのである。──

台湾北半の原住民民族分布
(再掲)基隆河(流域)図〔後掲公民新聞〕
 原典の翁佳音「大臺北古地圖考釋」が依る史料が不明ですけど,どうも17C頃のスペイン人の記述に基づくらしい。それらしい記述を挙げると──

1632年西班牙神父耶士基佛(Fr.Fr.Jacinto Esquivel,O.P)有關「臺灣島事情」的報告中,提到淡水河進入臺北盆地的分流中,有一河口,該地附近,有:「一八到九個番人聚落群居的北投社(Quipatao),住有不少番人。通常可從(淡水)林子繞過山崙來這裡;不過,若河水上漲之時,由河路比較容易,路程也較短,船隻可航行(20)。〔後掲黄〕
(20) 21 J. E. Borao ed., Spaniards in Taiwan, Vol. I: 1582-1641. p. 167.

──1632年,スペイン人神・父耶士基佛(Fr.Fr.Jacinto Esquivel,O.P)著の「臺灣島事情」の報告の中に,淡水河へ進入する台北盆地の分流のうちのある河口について,その附近に「9〜18の原住民集落があり,名を北投社(Quipatao)という。原住民が多く住む。通常はここ(淡水)から森林と山脈を抜けてここへ至るが,河の水が満ちている時は,河路の方が比較的容易で,路程も短く,船隻の航行も可能である。──
 淡水河の,少なくとも内水部が原住民の船路になっていたのだとすれば,河川水域全部が漢族によって専用されてた訳ではない。「番vs漢=陸vs海」という単純図式ではなくなります。
 それどころか,(以前夢想したとおり)台湾原住民こそプレ・海民だった可能性も否定できなくなります。ケタガラン族がかつては海側をも舟を駆っていたけれど,漢族が海側から徐々にそれを侵食した。1710年代にこの境が丁度,關渡付近にあった──とも考えられるのです。

關渡の東の地名群

 後掲・原住民族委員会の論文は,この時代・關渡東部山中の時空を細部まで描いてあります。

圖1 根據目前研究考證所繪製清治初期內北投社與鄰近聚落之概略位置圖〔後掲原住民族委員会〕

 關渡宮から山手,現在のMRT駅までの付近は「嗄嘮別」社と記されています。

地名原點大約位在今桃源國小南方至捷運線一帶。其以牛磨坑溪與北投為界,清代以東為漢人處,以西則為平埔族人。〔後掲臺北市北投區公所-地名沿革-嗄嘮別〕

 嗄嘮別の「牛磨坑溪」が清代の漢人-原住民境界だったと記しています。それより東は漢人,西は平埔族人の土地である,と。つまり,ここまで書いた「魔境」台湾は現・關渡宮から山へ入ればすぐの場所にあったわけです。漢族が安心して歩けるのは,波打ち際だけ。
 だから当然,周鍾瑄の「霊山」=プレ・關渡宮所在地も,「魔境」内にあった可能性が高い。
 なお,先の地図の「[ロ其]哩岸社」(現・MRT港墘駅辺り)は(下線部)淡水で最初に開墾された地域,と淡水廳志は記しています。あまり聞かない主張なので付記しておきます。

巻二31 曲而轉者十里,曰劍潭山。再四里曰芝蘭山。再七里曰奇裏岸山。淡水開墾自奇裏岸始。再三里曰北投山。複曲而轉十里曰關渡山。〔後掲淡水廳志〕※下線部は引用者追記

劍潭山
→(4里)芝蘭山※
 →(7里)奇裏岸山★
  →(3里)北投山
   →(10里)關渡山
※下記リンク参照

 つまり,北投から關渡までの陸路は物凄く遠かった(遠く感じられていた)ことになります。

康熙臺灣輿圖中の北投及び麻少翁〔後掲(上)原住民族委員会 (下)國立臺灣博物館〕

 原住民の集落名は,分かっている範囲では上記図の辺りらしい。
 うち,諸羅縣志にも記載されるのは麻少翁,內北投,大浪泵。

巻七25 八里岔在淡水港之南。港北為炮城,東入乾豆門二十里,麻少翁、內北投、大浪泵、擺接諸番出入之路。〔後掲諸羅縣志〕

「乾豆門」=關渡から東へ20里,ということは現・關渡宮から丘に登って行く行程です。これが「硫黄の道」に重なっていたことは想像に難くありません。
 ただ,この陸路は古くからあったけれど,要するに賴科さんランクの強者以外はなかなか利用しにくかった,ということのようです。

漢民族の移住・開墾当初は、安全性と取引上の利便性から水路が主な交通手段として利用され、陸路は平埔族各社の脅威を回避するために避けられていました。(略)關渡の古道の起源は既に推測不能となっていますが、古い文献には關渡が漢族と原住民族に隔てられていた時代から、古道のような小道が淡水と北投をつなぐ通路であったと考えられています。〔後掲關渡宮(日本語ページ)建築の風采>文化的景観>人文地理〕

 ただ,先に触れたように淡水河をケタガラン族の舟が行き来していたとすれば,こうした古道が現実にあったのか,あったとしても河道とどちらが頻用されたか,という疑問も向けなければならないでしょう。

麻少翁と內北投はもう最難治

 諸羅県知事・周鍾瑄さんがたまたま同年代に諸羅縣志を著してくれてるので,これも再見しておきます。

巻七29(略)康熙二十四年秋,土官單六奉調入郡,一去而不可問。吞霄、後壟、麻少翁、內北投諸番壯猛,三十八年吞霄、淡水之役,師久暴露,物故者至數百人。〔後掲諸羅縣志〕

 ドギツい中国語なのかよく分からないけれど──1685(康熙24)年秋に土官が×××した。吞霄・後壟・麻少翁・內北投の原住民諸族は勇猛(壯猛)である。1699(康煕38)年に吞霄・淡水之役が起こり,×××,死者数百人を数えた。──
と書いた次の巻に「諸俗」,つまり「おまけ」のようなコーナーに次のメモ書きをしてます。

巻八138 雜俗(略)
203 八里岔社舊在淡水港西南之長豆溪;荷蘭時後壟番殲之,幾無遺種,乃移社港之東北。吞霄以上諸番,後壟最悍。
204 麻少翁、內北投,隔乾豆門巨港,依山阻海,劃蟒甲以入。地險固,數以睚眥殺漢人,因而蠢動;官軍至則竄。淡水以北諸番,此最難治。〔後掲諸羅縣志〕

 まず,おそらく前掲図の關渡のすぐ北にある小八里岔社について。
──八里岔社は古くは淡水港の西南の長豆溪※にあったが,オランダ時代に「後壟番」※※に滅ぼされた。その生き残りが「社港」の東北へ逃れてきた。吞霄その他前記の原住民諸族中,後壟が最も強悍である。──
※長豆溪∶ヒットなし,位置不明。
※※後壟∶単純には苗栗県後龍鎮(→GM.)を指すと思われるけれど,淡水からは遠すぎるためやはり不明。

 原住民間の闘争は,元々相当に激しい土地だったらしい。
──麻少翁・內北投は乾豆門(關渡)の巨港から隔たり,山に依り海を阻む(≒山深い)ので,大蛇を引摺り×××入らねならない。地は險しく,大勢が怒り狂って漢人を殺そうと蠢動しているから,官軍はすぐに逃げ帰ってしまう。淡水以北(?)の諸番,これは最も治め難い(最難治)。──
 周鍾瑄さんは妖怪話を綴ると台湾一なので(適当),差し引いて考える必要はあるけれど,とにかく知事を絶望させるような無法地帯だったわけです。
 後掲原住民族委員会は,前記諸羅縣志の記述(最難治)を引用した上で,關渡宮創設の意義を重視します。

1709年(康熙48年),「陳賴章」墾號的成立(略)開始大規模開墾臺北盆地,(略)大佳臘、淡水港及蔴少翁社東勢等荒埔,但並不包含今日之北投地區。(略∶前記諸羅縣志引用)是讓「陳賴章」墾號沒有開墾北投地區的原因。但是到了1712年(康熙51年)大雞籠的社通事賴科在干豆門建天妃廟(今關渡宮)。〔後掲原住民族委員会〕 ※原典 陳允芳 2003 《北投傳統人文景點研究》。國立臺灣師範大學歷史研究所碩士論文。

──1709(康熙48)年に陳賴章の開発公社(「陳賴章」墾號)が成立し(略)台北盆地の大規模開墾が開始され,(略)大佳臘や淡水港,蔴少翁社の東側などでは初期の開拓が始まった(荒埔)が,そこに今日の北投地区が含まれることはなかった。──
と書いた後に,關渡宮創建を綴っています。
 ここでやっと賴科さんに話が戻ります。

因此從時間來看,關渡應是臺北盆地最早成立的漢人村莊(陳允芳 2003:23)。接著,通事賴科於隔年1713年(康熙52年)與鄭珍、王謨、朱焜侯湊成四股,以陳和議為戶名,向官府請墾,正式取得墾照(盛清沂 1983:54)。〔後掲原住民族委員会〕 ※原典 陳允芳(前掲) 盛清沂 1983 《臺北縣志,卷五開闢志》。臺北:成文。

──これを長期的に考えると,關渡は台北盆地で最も古くに成立した漢人村落だと見ることができる(陳允芳 2003:23)。この後,通事・賴科は1713(康熙52)年に,與鄭珍・王謨・朱焜侯とともに「四大領主」(四股)となり,陳(公社)を保証人として相互に契約を交わし?(以陳和議為戶名),官府に開墾(許可)を請うて,正式に開墾の許可を得た。──
 この部分の根拠史料は定かではないし,やや難しい民法又は行政法の手続論になっていますけど……疑わないとすれば,賴科さんは原住民との和議を演出した見返りとして,最終的には小領主の権利を得ていることになります。

そして關渡宮は漢人廟になった

 一点目は,諸羅縣志巻十二寺廟章(no.38)天妃廟節の記述をそのまま採れば,創建年1712(康煕51)年から重建年1715(康煕54)年の間と考えられます。プレ創始の経緯を考えると,1712年の原住民主管の「媽祖宮」が当世の標準形からかけ離れていたので,原住民融和上これを後見したかった周鍾瑄が単に茅葺き屋根を瓦に替えただけでなく,「あちこち手直し」したのではないでしょうか。
 媽祖信仰には実に様々な含意や流派が含まれます。鄭氏時代のフロンティアスピリッツを込めた媽祖が,プレ關渡宮に祀られていても可怪しくはないけれど,少なくとも周鍾瑄の主観から媽祖宮たるに足る要件(大天后や北港朝天準拠)を具えるようになったのは1712〜15年だったのでしょう。
 ここで注目すべきは,關渡宮はその由緒上,1712〜15年時点では漢族海民の帰依する対象ではなかったことです。それもそのはず,知事・周鍾瑄の置かれた行政環境上,海民は明らかに「仮想敵」で,原住民融和策も(もちろん人権的措置ではなく)この敵への対抗措置という位置付けだったろうからです。
 これが二点目の疑問点の答えにもなります。
 最初に触れましたけど,康煕末年,史料上の干豆「門」は關渡「荘」へと名を変えていきます。關渡宮の里下りはこの時期で,通常「荘」は漢族専住集落です※。
※後掲黄。諸羅縣志・雍正臺灣輿圖「豆干」,裨海紀遊「甘答」,重修臺灣府志・淡水廳輿圖纂要「關渡」,續修臺灣府「干豆
※※林芬郁らによると,「莊」の初見は「唭哩岸社」(前記図参照)。臺海使槎錄によると1722(康熙61)年,重修臺灣府志によると1718(康熙57)年が初見年次であるという。

 前述の鄭盡心のお話を思い出してみてください。

賊犯仍不改惡∶鄭盡心の時代

 清実録は中国清朝の歴代皇帝実録で,計4466巻。 旧満州国の奉天(現・瀋陽)崇謨閣に秘蔵された漢文本が1938年に写真印刷され,ほぼ全部が現存する。中國哲學書電子化計劃ではその主要部がデジタル化され,検索できます。
※ただし,慣れるまで苦労します。ワシはこの回が初利用でしたけど,皇帝別に分けられ,基本は時系列ですけど日にちが十二支で書かれたものが基本単位で,それが何年何月かは直近部分を検索しないと分からない。
 例えば,前掲の鄭盡心の逮捕・減刑の事情は,清實錄康熙朝實錄の1711(康煕五十)年三月丙申条(No.83),同年五月己酉条(No.179)に記載があります。

83 ○丙申。刑部等衙門奏、江南江西總督噶禮疏報、緝獲海賊餘國梁、系鄭盡心之黨。請發往廣東、令其指拏逸賊八十三等。福建浙江總督範時崇疏報、緝獲海賊鄭盡心、請解京質審。〔後掲清實錄康熙朝實錄〕

──(北京中央の役所)刑部等衙門の奏により,江南・江西の総督に詳細情報が伝わり,海賊・餘國梁が逮捕された。鄭盡心に連なる一党である。(彼らが)廣東(総督)への発令を請うたので,油断している賊八十三(人?党?)などの捕獲を命令。福建・浙江総督の的確な情報提供によりついに海賊・鄭盡心を拿捕,請解京質審(裁判を開くよう求めた?)。──
 当時の刑事法用語がよく分からないけれど,荒く見ても,福建はもちろん浙江・江南・江西・広東の役所が管轄に拘らず情報交換した結果,餘國梁を端緒に83賊を捕え(おそらく取引と拷問の末に聞き出した情報で)鄭盡心を捕えています。
 鄭の一党は,東シナ海全域にくまなく手を伸ばしていたことが分かります。
 次は時系列的にですけど──

141 康熙四十九年庚寅閏七月(略)
208 九月壬辰朔。
224 ○辛亥。(略)
226 ○諭大學士等、奉天將軍嵩祝奏報、錦州邊海之處有洋賊二百餘人、上岸搶劫、經防御官兵、殺死洋賊三十六人、擒獲一人、詢知賊首鄭盡心、系浙江寧波府人、見今冬季、正遇北風、餘賊敗遁者、必乘風自東南方去。〔後掲清實錄康熙朝實錄〕※康熙49年=1710年,下線は引用者

──(現・遼寧省)錦州近海に洋賊・二百余人を発見。上陸して海賊行為を行うので,防衛の官兵を繰り出し,洋賊36人を殺した。この折に一人を捕獲したところ,これが賊の首領・鄭盡心を知る者だった。浙江の寧波府の人に連なる者で,今年の冬に北風に乗って逃げた敗残兵で,それが多分東南方向から風に乗って来た者らしい。──
 支離滅裂な供述をようやく得ている感じですけど,とにかく鄭盡心に連なる情報をようやく得ています。その出自が浙江寧波府なので,海賊・餘國梁逮捕に繋がった可能性もある。
 ただ,指名手配が本格化する1710(康煕49)〜11(康煕50)年以前から鄭盡心一党の情報を,清当局が遮二無二収集していたことは察せられます。
 次の記録は鄭盡心逮捕から8年後。

11 康熙五十八年。己亥。春。正月。(略)
25 ○壬辰。刑部等衙門會議、查福建浙江總督覺羅滿保等、拏獲旅順營脫逃海賊孫森等、系海賊鄭盡心之黨、奉上□日免死、發往黑龍江、又從發遣處、撥到旅順營當兵。賊犯仍不改惡、偷盜軍器、逃出糾黨、在洋行劫、拒敵官兵。應將孫森、陳君元、阿吉尾等、擬斬、立決。從之。 〔後掲清實錄康熙朝實錄〕※康熙58=1719年

──刑部等衙門(清中央警察官署)の議により,福建・浙江の総督である覺羅滿保らを査察(?)したところ,旅順營に脱走していた海賊・孫森らを捕えていた。海賊・鄭盡心に連なる一党なので(鄭の逮捕記述は略),この部署に発令し,旅順營の当番兵を出動させた。
──賊は悪を改める節もなく,軍器を盗んで逃げ(官兵と)揉め,海上に出て官兵に敵対した。孫森に呼応して陳君元・阿吉尾らが立ち,連合して反攻してきた。──
 繰り返しますけど鄭盡心逮捕から8年後です。首領の逮捕で一党が崩壊したり根絶された訳では全然ない。嘉吉大倭寇と同じで,圧迫期ほど海賊たちは過激な反抗を演じていたわけです。
 さてこの8年後というのは1719(康熙58)年。關渡宮が山麓に移転した年です。

移建山麓∶引きずり降ろされた關渡宮

 原住民創建の媽祖宮を知事・周鍾瑄が公式に支援するのを,本来媽祖を奉じてきた漢族海民は快く思わなかったはずです。しかもその場所が,当時海民の重要拠点として日の出の勢いだった淡水近隣なのですから。
 この時期の海民とは,濃淡はあるにせよ,ほぼ海賊・鄭盡心に連なる集団でしょう。
 周鍾瑄が事実上失脚するや,鄭盡心残党が淡水の媽祖信仰を自らの価値観に合わせたそれに矯正しようとした。それが自然な行動でしょう。
 媽祖宮の移動は,海民の行動としてはごく穏健なものに過ぎません。ですからそれを押し止める統治側勢力も特になく,さりとて周鍾瑄が去った後,誰が移動させたかを公式記録に書き留める意義も感じなかったでしょう。
 鄭氏時代創建が真実なら,原住民側からすれば50年来育んできた自分たちの信仰拠点を突然強奪されたわけですけど,仮にも融和政策を採る気のなくなった周鍾瑄より後の統治側は一顧だにしなかったでしょう。
 だから,ただ「康熙五十八年,移建山麓」と書き留められただけなのです。
 こうして關渡宮はようやく「普通の媽祖宮」の体裁を整え,現在の巨大な宮へと成長していくことになります。
 關渡宮はいわば三度創始されたのです。まず17C明鄭下,原住民を主体に原型ができた。でも媽祖宮になったのは1715(康熙54)年。さらに漢人の媽祖宮としては1719(康熙58)年。

後山公園(霊山公園)の「本宮後山公園興建縁起」碑。1964(中華民国53)年の文字が確認出来る。

1719里下りの場所はどこだったか?

 三度,と書いたばかりだけれど,実は四度かもしれない,というお話を付記して巻末を閉じます。

由於此次的移建,常有人誤以為即是現在關渡宮的所在位置,其實正確的是位在象鼻穴正對獅子頭的地點,座北朝南,也就是大約在關渡宮大停車旁福德正神殿的上方(即財神洞出口上方,因民國五十三年關渡隘口拓寬而無法明確指出其方位)。 〔後掲黄〕

──(康煕年代の)移築先はよく現在の關渡宮の所在地だと勘違いされるが,正確な位置は象鼻穴が獅子頭に対する地点である。北→南方向に座した。要するに概ね,關渡宮の駐車場脇の福德正神殿の上方に当たる。(即ち,財神洞の出口の上方である。1964(民国53)年に關渡の狭間は広く拓かれてしまったので,その方位を明確に示すことは出来なくなった。)──
 何と……これによると,關渡宮訪問で最もゲンナリしたあの財神洞の真上が遷移先だったというのです。
 それにしても「在象鼻穴正對獅子頭的地點」──先に見た福建通志台灣府の「獅象捍門」(獅子と象が守る門)と出来すぎるほどぴったり重なる地形なのです。

關渡宮駐車場から東。伝えによると,この上の高台に宮はあったことになります。 (右)財神洞 (左)古佛洞

 スペクタートンネル上から現在の場所への移行を,關渡宮公式HP(日本語サイト)は次のように書きます。

關渡宮の僧侶が抗日運動に参加していたことから、日本軍の報復的な焼き討ちに遭いますが、明治30年(光緒23年、西暦1897年)に情勢が安定すると、地域住民は廟の再建に乗り出します。『北投公學校校長報告』(北投公学校校長報告書)によると、当時役員を務めた林大春と翁源隆が協議し、廟から2,000元の出資と庄民の寄付400元を工事資金に充てています。關渡宮には地租収入があったため、自身で大部分の再建費用を出資し、地域住民は二割ほどの負担で、關渡出身の商人林大春が工事を主導しています。〔後掲關渡宮/日本統治時代の修復〕

霊山公園(後山公園)から河方向の景観

 林大春という人の素性については,宮が聴き取ったものを黄がまとめています。

關渡宮現址是 1897年遷建的。清末日初關渡有一頭人林大春,綽號「鮕呆春」,承襲父業,經營漕運,擁有十多艘大型帆船,往來於淡水福州之間,家境殷實富裕,看中關渡宮的地理風水,便將廟地買下,建為以為住宅,因而將關渡宮從原址遷到現址。〔後掲黄〕
※原典 民國91年4月11日,耆老林丁貴先生口述;民國91年7月17日,智聖和尚養子葉獻祥先生於北投自宅口述。

 林大春はやはり海商で,十数隻の大型帆船で淡水-福州間を結んでいたといいます。

關渡南の自然公園を渡る白の鳥の姿

「m19Gm第二十六波m妈祖花や明知の言葉は単純m5淡水關渡」への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です