m19Gm第二十六波m妈祖花や明知の言葉は単純m4淡水まで

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

台中日活サロン

新富町通り(現・中山路)絵葉書

二市場から駅前のホテルまで歩いたのが,今回台中のラストウォークとなりました。
「台湾大道でさえ昼間に見ると微かな縦横の揺れがある。」とメモしてますけど,古地図を見れば当たり前なのです。この道は旧新富通り。都市計画で造られたとはいえ大正代に引かれた道です。
1937年(左上∶台中第二市場〜右中∶第一市場(現・東協廣場))〔後掲台中歴史地図〕
本の町のような住宅表示が多数落ちている地図です。「タクシー」が2つ。「日活サロン」というのは映画館でしょう。新市街の中心地区です。
1895年(上記同位置)〔後掲台中歴史地図〕

1 1316。九個太陽を過ぎたところで路地に東行。この道もやはり揺らいでます。
 ここから継光路,緑川西街の辺りに入っていくと──
▲1317台湾大道の裏道を行く

トナム料理街??
「なぜかは問うても無駄でしょう。最初の一軒が成功したのでしょう。」と当時メモってるのはとんだ見当違いでした。
▲1319継光路〜緑川西街の裏道

臺中市初の日本マーケット ベトナム人が占拠

一市場は1908年に『榮町消費市場』として開設され、1978年に起きた火災をきっかけに商業ビル『第一廣場』として建て直されました。
 現在はビル内に入るお店の雰囲気に合わせ名前を『東協廣場』と改め、台中のリトル東南アジアとも呼ばれるようになりました。〔後掲ナカジマチカ〕

▲パラク・オバマなベトナム料理

まりここは,日本が都市計画以前にまず造った市場です。都市拡大とともにマイナー化した上に火災に遭った後,ビルに建て変わった。

「臺中市第一市場,前方橋梁為跨越綠川的櫻橋」──……前方の橋梁は緑川を跨ぐ櫻橋〔後掲wiki/台中市第一市場,1926年 ※原典∶台中市案内〕

の場所が何の因果か東南アジア系のマーケットとして再浮上してきているという,何重にも国際的なる数奇な運命を辿ってきた商業施設なのでした。
 そうと知ってれば……やっぱり食べてみたかったなあ。おそらく本格派です。
▲1322ベトナム料理店

1945年の幸天

テル真裏辺りに幸天宮という祠。社のない場所はない街です。」とメモしとるけれど,バカちんが〜。
 確かに拝んで通ったのに……天后宮であることは見逃してます。疲れてたかなあ。
▲「宿裏道にも宮」ってバカちんが〜。

宮於民國34年本市第一市場有志者郭麻、何璟麒、吳岳銅、謝呆、林進益、杒東湖、林同等大德發貣,到北港朝天宮奉請天上聖母(俗稱黑面三媽)到第一市場奉虔。〔後掲台灣好廟網〕

──1945(民国34)年,第一市場の有志(略)が場所を無償提供し,北港朝天宮から天上聖母(俗称・黑面三媽)を第一市場に奉納した。──
 何月かが分かりませんが,終戦の年です。おそらく日本軍が消失した直後に,急激に沸騰した媽祖信仰熱に浮かされ北港に分祀を請うたのでしょう。
 けれどもその宮を「幸天」と名付けるとは──台中人の不屈を感じさせます。

幸天宮媽祖本殿〔GM.〕

……座りたい

へリュックを担いで急ぐ。
 台中からTRA(国鉄鈍行)で新烏日へ。この駅が高鉄(新幹線)駅・台中と接続してるから,高鉄で一気に台北へ,という旅程ですけど……。
 1339。切符買おうと苦労しとるとオバハンの駅員が「しんかんせん(ホントに日本語でした)?你有没有卡?」──お前,カード持ってないの?と訊くから悠遊卡を見せると「不要不要」と指を一本立てる。1番ホームへ行けってことね。つまり……TRAって悠遊卡が使えるのか!あーあ,ここまで地道に切符買っちゃってたよ。
🚈🚈
1 348発の潮州行山線に乗る。空は霞はかかるも青い。
 しかし,えらい日本人が多いな。
 新烏日まで,えーと何駅だっけ?まあ着くだろう。その着いてからが問題だけど──この方向からはおそらく予約できなきゃ座れない。
 いやまあ立ってても時間は知れてる。半分諦めてましたけど……。

台中(左下)〜台北(右上)鉄道マップ。でもワシは鉄ちゃんではない。

1 1407,高鉄・台中駅。そうは言っても一応售票処(切符売り場)に並ぶ。座れれば座ろう。てゆーかここまでも眠りかけて,乗り過ごすとこだった。疲れがドバっと出てきてしまった。……座りたい。
 と思ったら?1412。何やねん,ぽろっと座席取れちゃったぞ?
 1439発南巷行。

大急ぎなのでCocoで黒糖

▲「高鉄食堂」……そのセンスを台湾まで持ってくるのはやめろ。

車を待つ空き地に「夢幻誠」という敷地購買広告。どういう広告効果狙いだ?
やはりこの西方向に緩い,しかし雄大な高地。写真にとっても説得力ないほどの緩い傾斜です。
──今,GM.を見ると,この丘の名前は「成功嶺」。鄭成功からとってるんだろけど,実態的には一大軍事拠点らしい〔wiki/成功嶺〕。
▲台中高鉄駅から西方
🚈🚈

🌬  🌬  🌬  🌬  🌬忘记多少次了…
台北編~~~~~(m–)m


北へと新幹線が速度を緩めるにつれ,気はグンと引き締めていきました。
 今日はまだ関渡宮がある──。
 宿へは行かずに台北駅で,近場のロッカーに荷物を入れる(您遊卡預けが出来るようになってた)。
 そしてCocoで黒糖珍珠……いや,急いでる中,それは買わなくていいけど,疲れからかついつい購入。いつもの三兄弟じゃなく,この新商品を飲みながら歩く。──この黒糖,結構イケるやん!

宿入り前にMRT

台北車站〜關渡(信義淡水線) ※断じてワシは鉄ちゃんではない。

1 544。「信義」が付くようになった淡水線が今雙連を出た。──台北でのこの界隈での滞留時間は長かったけど,最近はスルーすることが多い。
 一路,關渡へ。
 1548,円山で地上に出る。丁度いい夕暮れになってきました。
 GM.上は芝山までのバスがある。この駅名は何度聞いても「爺さん」に聞こえる。
 そうか。この關渡という地点の位置を勘違いしてた。遠い。物凄く遠いかと言えば淡水より近いけど,北投よりは北です。
▲1608今回初乗車のMRT車内にて

の峰が雲を被ってる。晴天なのに?どういう気象だろう。
 1602,駅名・奇岩で「この列車は新北投へ行くから淡水行きの人は乗り換えて」とアナウンスがあった。北投で乗り換えればいーんでは?……と考えてから,確か大昔に同じ疑問を持った記憶が蘇る。路線図とは違い,実質のジャンクションは奇岩なのか?他の人も降りたから,まあ下車。
 あと4駅。淡水の3駅前です。──路線図上に,淡水の一つ前「紅樹林」からは「淡海軽軌」というLRTが出来てるのを見る。おそらく海岸部を回ってる。でも基隆までは行ってないみたい。
 1606,再乗車。
 關渡の「關」は「関」ではない。関帝廟が大抵この漢字だった記憶があります。
 一つ前の忠義の南はまるっきり田畑。ふいに不安になる。ここで降りて大丈夫だろか?
▲關渡駅下車

關渡宮へゆらゆら流れ行く

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

渡の駅に降りると既に1615。
 大度路側へ出るべきだろう。陸橋から1番出口へ。紅35,白23が宮まで行くと書いてある?
 駅前にはスタバまである。楽勝じゃん。タバコ吸いながら少し待ってみる。 
 いや?1600の次は1650なの?バスは諦めて駅から右手,提灯の道へ歩こうとしてたら──いや?紅35が来たぞ!乗る。
 高架下をくぐって左折,やはりこの提灯※の道を行く。結構賑わってる街です。
※毎年旧正月の15日から1ヵ月にわたりランタン祭が行われる。〔世界の観光地名がわかる事典 ※コトバンク URL:https://kotobank.jp/word/%E9%96%A2%E6%B8%A1%E5%AA%BD%E7%A5%96%E5%AE%AE-804465
🚌れ?左折?バス停・関渡自然公園で乗客は一人になった。敬老院。
 1634,關渡宮下車。結構すぐでした。宮まであと100mとの表示。
 左手に小さな福祐宮。前方に川が見えてる。右への湾曲を曲がると…あ!宮が見えた!
 角地から上がる奇妙な配置……と思ったけど,そうか。道路以前に出来てるなら当然そうなるわけです。

▲1636關渡宮を見る

■レポ:基隆河の異相の先に見る湖上民の幻

 地理にはそう弱くない気でいますけど,個人的に,台北に何度か来てなお,基隆河の存在はしばらく認知できませんでした。
 海との関係からして,流域と方向が異様過ぎる。台北の港に,基隆を発した河が流れ込む,というのがどうにも……消化できない図柄なのです。
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基隆河(流域)図〔後掲公民新聞〕

 台北市街東30km,平渓線終点の菁桐付近を源流とする。そこから東北東に流れて九份北西で東海岸にあと2kmまで近付きながら,カクンと西に折れて基隆南を通過し,そのまま40kmも途切れず西行して關渡で淡水河に交わる。全長約90km,流域面積約490km2。

三本の河を束ねて基隆河

 次章で關渡宮付近を掘っていく中で,たまたまこの基隆河の生成過程として通説化しているものを確認できました。〔後掲基隆河簡介 ※原典∶臺北地質之旅,遠流出版社〕
 これによると,まず三本の河があった。現在の下流からA・B・Cに分けます。Aは西行して關渡付近に合流するほぼ現下流域と同じ流れですけど,BとCは何と東海岸に注いでいたらしい。

圖1.獨立三河:A河為古新店溪的支流,B河在基隆附近出海,它的支流由八堵朝瑞芳方向分出,C河則在瑞濱出海,如圖1

──【独立三河期】A河は古・新店溪の支流。B河は基隆附近で海に出る。なお,B河の支流{引用者∶B@}は八堵・朝瑞芳の方向(≒東南方向)に分かれていた。C河は瑞濱から海に出ていた。──
 年代は何と,記されていません。A〜C河に仮名すらついていないことからも,やっと解明された段階なのでしょう。
 この三本河段階ならば,日本の感覚からして自然です。従って巨視的には,この後の段階で,日本で通常は見られない地学的事象が生起しているはずです。
 ただ近視的には,B@河が引き金となったらしい。
圖2.河川襲奪:B河的支流不斷向C河侵蝕,逐漸靠近C河。最後終於把C河「襲奪」過來,成為S形的河流,如圖2。

──【河川襲奪期】B河の支流(B@)がC河を徐々に侵食し,ついにC河と繋がってしまう。最終的にはC河を「襲奪」して,S形の(一つの)河になる。──
 日本語では「河川争奪」とよばれる現象です。広島人としては上根峠(根谷川vs簸ノ川∶下図)を連想しますけど,関東の方は村田川vs小中川(南白亀川支流)(千葉県大網白里市小中池付近),関西なら武庫川vs加古川vs由良川の事例かあります。
根谷川河川争奪過程(50〜100万年前)〔後掲wiki/上根川〕

 複数あると言ってもやはり事例は少ない。地学的には通常は稜線上にある分水界が,侵食の結果たまたま低高度,かつ隣接河川の谷に入り込んだ(谷中分水界・こくちゅうぶんすいかい)状態の時に発生します。
 ただ素人考えであえて言えば,どの事例でも不思議なのは,たまたま川が繋がったからと言って,なぜ奪われる方の川が奪う川を新たに選ぶのか,という点です。基隆河の場合で言えば,なぜA河は既存の下流を見捨てて,海までが遠くなるB@を流れようとしたのでしょう?
 まるでA河が何か「不当な引力」を持っているかのようです。
 その意味では,さらに不思議なのは次の段階です。
圖3.河道大轉彎:臺北盆地陷落後,呈東高西低地勢。於是,B河向西逆流,並與A和連接,形成今天的河道。

──【河道大転換期】台北盆地の陷落後,東が高く西が低い地勢を呈するようになった。これにより,B河は西へ逆流し,A河と連接して,現在の河流を形成するようになった。──
 B河の場合,今度は争奪されたわけではない。なのに川が逆流する?
 そんな現象は,徐々に起こったとは考えにくい。「A河の不当な引力」が唐突かつ強力に働いたように見えるのです。一つ目の争奪期と合わせて,全てが一気に起こった可能性すらあります。
 それに……平らな台地の西側が突然低く傾く?
 下線部「台北盆地の陥落」が突然起こったからこうなった,としか考えられないのです。
17・18Cの台湾における地震被害〔後掲塩川〕

台北が湖底にあった時代

 広島県の上根川と違い,この異変は有史,それもたった三百年前です。時は1694年4月〜5月(上表も参照)。

真偽については諸説ありますが、この社子島地域~基隆河の下流とその北側~関渡平原の一部では、1694年に起きた大地震で台北盆地が大陥没した際、海水が淡水河から逆流し、推定面積100平方キロメートルを超える「康熙台北湖」が形成されたと言われています。〔後掲日本台湾交流協会〕

 この地震が現実に発生したかは,否定論者も多い〔後掲維基百科/1694年康熙大地震〕。論拠を丁寧に見ていきます。
 人間が地震を測定し初めたのは現代になってからで,もちろんこの17Cの地震は現代地学の手法,あるいは考古学的に測定されたものではありません。日本も含め,ほとんどの近代以前の地震記録はそんなものなのです※。
※日本の場合,地震直後に関係神社の社格が昇進しているので,それと文献記録から推定するなど。
「康熙大地震」と言われるこの地震もそうですけど,根拠はどうやら以下の一史料のみです。

巻中16 二十七日,(略)至八里分社,有江水為阻,即淡水也。(略)既渡,有淡水社長張大,罄折沙際迎,遂留止其家。(略)
17 五月朔,張大來告屋成。
18 初二日,餘與顧君暨僕役平頭共乘海舶,由淡水港入。①前望兩山夾峙處,曰甘答門,水道甚隘,入門,水忽廣,漶為大湖,渺無涯涘。②行十許里,有茅廬凡二十間,皆依山面湖,在茂草中,張大為餘築也。餘為區畫,以設大鑊者二,貯硫土者六,處夫役者七,為庖者二,餘與王君、顧君暨臧獲共處者三;為就地勢,故錯綜散置,向背不一。③張大云:『此地高山四繞,周廣百餘里,中為平原,惟一溪流水,麻少翁等三社,緣溪而居。甲戌四月,地動不休,番人怖恐,相率徙去,俄陷為巨浸,距今不三年耳』。④指淺處猶有竹樹梢出水面,三社舊址可識。滄桑之變,信有之乎?〔後掲郁永河「裨海記遊」,番号は中國哲學書電子化計劃採番(以下同じ),丸付数字は引用者〕
※採硫日記とも。1697年著の地理書紀行文。1696年(康熙35年)冬に福建福州の火薬庫で火災が発生,火薬50万斤が焼失したため,台湾北部の硫黄の産地である北投に赴き硫黄を採取した際の記録。なお,本文中に年代記述がないが,上記事情から1697年(康熙36年)と確定できる。
※康煕代の甲戌は1694(康煕33)年。

①入門 漶為大湖∶門を入ると大湖のみなぎる

 1697年(康熙36年)4月27日に淡水社長・大張に迎えられた郁永河ら一行は,八里分社(現・淡水市街西岸)に逗留した後,5月2日に淡水河に入りました。
──前に2つの山※が対時する場所がある。曰く「甘答門」※※。水道は甚だ狭隘。入門する。水が忽ち広がる。ぼんやりとした大湖が茫々と果てしない。──
※關渡の西・獅子頭靈山(象鼻山)と推測可
※※現・關渡の同音別称。詳細は次章∶關渡KANTOUの初出と古名参照

 現在,淡水からMRTで南に向かえば,關渡を過ぎて広がるのは広大な台北市街です。けれど17C末に郁永河が見たのは,果てしない湖だったのです。
 この湖は歴史・地学界では「康煕台北湖」と呼び慣わします。
 少し端折って,案内人・張大の語る康煕台北湖の由緒を読みます。

③地動不休 俄陷為巨浸∶地は動き休まず 俄に大きく水没す

──張大は語る。「この地は高山に四方を囲まれている。周囲は百余里,中(州?)は平原になっている。一本だけ渓流があり,麻少翁など三社は,この渓流沿いに住んでいる。──
 そして,問題の大陥没,識者の言う「1694年康熙大地震」です。
──康煕甲戌(=1694(康煕33)年)四月,地が休むことなく動き,原住民は恐怖し,連れ立って逃げ出したところ,俄かに陥没して水浸しになった(巨浸)。今を距たるところ未だ三年にもならない話である。──
 地震の月を4〜5月とするのは,❲1❳4月に地震があった点と❲2❳それが継続した(不休)ことの組み合わせでしょう。震源を新北市としたのは,これ以外の記述がないから,陥没地点により類推。マグニチュードは陥没の事実からの理論的推定のようです※。
 その他,この書き方からすると,{1}地震が継続したので{2}逃げ出した後{3}俄に陥没・浸水した訳ですから,最初の地震から避難するだけの時間を置いて陥没が起こったことになります。
 避難→陥没→浸水したのですから,原住民は陥没前にはそこに住んでいた。つまり,康煕台北湖は1694年4〜5月にそれまで陸地だった場所に突然出来た,と確かにはっきり書いてあります。
 そんなことがあったとすれば,まさに漢代に起こったとされる巣湖の大陥没に類する天変地異ですけど……ただ,人間は自分で思ってるほど過去の事実を知らないものです。

(上)山腳断層 (下)台湾活動断層分布〔後掲wiki 原典∶「2012年台灣活動斷層分布圖」,2019年〕
※中央地質調查所のデータと解析

 台湾にとって,首都・台北を縦断する山腳断層は最もナイーブな地学的研究対象です。
 中央地質調査所による上記直近発表での山腳断層は,活動断層には違いないけれど第二類,つまり当面活動性の低い断層という分類になっています。
 同調査所は,過去一万年の活動断層を調査した結果として,山腳断層の活動の痕跡はないと判断しています。つまり,地学的に1694年の地震発生は確認されていません〔後掲wiki 原典[6] 臺灣地震知識服務網. 活動斷層. 經濟部中央地質調查所. [2019-05-30]〕。
「1694年康熙大地震」のマグニチュード推計も,どうやらこの中央地質調查所のデータに基づくらしい。
維基には次の記載があるけれど……中国語かつ専門用語で理解できません。
「學者利用中央地質調查所2010年公布之活動斷層山腳斷層的分布與型態,應用Wells and Coppersmith (1994)經驗式與鄭世楠等(2010)經驗式,評估康熙大地震對應的規模為MW=7.0, ML=6.8。參考 Jean et al.(2006) 衰減式與辛在勤(1998)衰減式,模擬1694年台北地震的等震度分布圖淡水地區均顯示為震度VII[7]」〔原典[7] 鄭世楠, 江嘉豪, 陳燕玲. 台灣地區歷史地震資料的建置. 中央氣象局地震技術報告彙編. 2012, 60: 427–448.〕

②茅廬凡二十間 皆依山面湖∶あばら家20 山際から湖を向く

 次に,陥没後の「被災地」の様子です。
──(關渡から)約十里進むと,およそ20の草葺きの建物があった。皆,湖に面した山沿いで,草の茂る中にある。張大(ら淡水社の原住民)が自分で建てたものである。その他の区画(集合住宅?)には大鑊者(煮込み料理屋?)二,硫黄の倉庫業者六,その労働者住宅七,厨房(為庖者)二,「餘與王君、顧君暨臧獲共處者」(訳せない……。偉い人の共同倉庫?)三。建物の立地の方向はバラバラで背を向け合い均一でない。──
 筆の立地方向が錯綜しているのは,短期間に造られた集落だからでしょう。それが被災から三年経たない湖岸に並んでいる逞しい姿は,一方で水際の立地を相当な利点を見出しているからです。
 建物の種類を見ると,生活者の臭いがない。居住区ではなく港町の色彩です。

④有竹樹梢出水面∶湖面から突き出たままの竹の枝

 郁永河という人は素質的にフィールドワーカーだったのか,最後に短文ながら実証を試みています。
──この大異変の話は本当に信じていいのだろうか?(滄桑之變,信有之乎?)──
※滄桑:滄海桑田。海原が桑の田に変わるような大きな変化の例え
とかなり疑ってかかりつつ
──浅瀬にはなお水面から出ている竹の枝がある。三社の集落の痕跡だと考えられる。──
とその証拠を探しています。
 面白おかしく書いた奇譚ではなく,記録者が疑念を持って実証的に記してる点は,伝聞の記述ながらこの史料が相当確からしいと感じさせます。

(類推)郁永河の記すもう一つの「大湖」

 裨海記遊は「大湖」の記述をもう一箇所だけ書いています。番境補遺中の水沙廉の節で,現在の地名からして多分,日月潭のことです。

巻下55 番境補遺(略)
60 水沙廉雖在山中,實輸貢賦。其地四面高山,中為大湖;湖中複起一山,番人聚居山上,非舟莫即。番社形勝無出其右。自柴里社轉小徑,過斗六一門,崎嶇而入,阻大溪三重,水深險,無橋梁,老藤橫跨溪上,往來從藤上行;外人至,輒股慄不敢前,番人見慣,不怖也。其番善織罽毯,染五色,狗毛雜樹皮為之,陸離如錯錦,質亦細密;四方人多欲購之,常不可得。番婦亦白晰妍好,能勤稼穡,人皆饒裕。〔後掲裨海記遊〕

 郁永河の想定ルートからしても,康煕台北湖と違い,この情景は彼自身の見聞ではありません(次章→郁永河路線図)。
「湖中複起一山,番人聚居山上」──日月潭中に原住民の住むような山はない。「非舟莫即」──舟を持っていない,ということもない。
▲(再掲)台湾・高砂族の独木舟(丸木舟)※場所:日月潭
※ 日本統治時代の台湾・・⑥ 高砂族の日常風景・絵葉書
 ただし,郁永河が同じ「大湖」という単語を用いているのは,双方を見た者が誰かいて,康煕台北湖が日月潭相当の規模と認知したからかもしれません。

下記図と大体同じ縮尺(横25km)で見る日月潭付近地図

康煕台北湖に流れこんだ基隆河

 まずほぼ同じ範囲の図を同程度の縮尺で3枚列挙します。
 次の図が康煕台北湖の推定図。作成方法は単純で,現・海抜10m※以下のエリアを水没させているだけ。なので,基隆河簡介の推定する「呈東高西低地勢」,東西の高低の傾きは想定されてません。
※10mの想定は,裨海記遊の三社が水没したとの記述から盆地西北部(現・MRT復興崖〜北投付近)の標高を元に算出した模様

17C末∶康煕台北湖推定図〔後掲「引人疑猜的古台北湖」 ※原注「以電腦模擬海拔十公尺以下,康熙台北湖的分布範圍(地調所林朝宗提供)」〕 

 面積約150km2。日月潭は8km2。なお,日本なら第三位の面積のサロマ湖(北海道,151.59m2)と同規模,四位の猪苗代湖(福島県,103.24km2)の1.5倍。それでも郁永河の書く周囲100里(≒50km)よりは小さい(√(150÷π)×2×π≒43km)
 なお,次の図は南が上になりますけど,裨海記遊以外に康煕台北湖を記録する唯一の史料・雍正台灣輿圖です。
雍正台灣輿圖・部分〔後掲科技大觀園 ※雍正年間=1723~1734年〕

 逆に,同時期のその他の絵図「康熙台灣輿圖」「重修福建台灣府志地圖」「大臺北古地岸圖」などに同様の湖が描かれていない点が,否定説の論拠にもなっているわけですけど……。
 ただし,有史以前の堆積物の地学的研究の結果としては,一万年前には「古台北湖」と呼ばれる湖の存在が確認されています。次の図がそれになります。
一万年前∶台北盆地水域推定図〔後掲「引人疑猜的古台北湖」 ※原注「今約一萬年前古台北湖的分布範圍。(摘自陳洲生及謝昌輝,1994)」〕

 つまり,康煕台北湖が17C末に本当に現出したならば,一万年前の古台北湖が一時的に復活したに過ぎない,と言える訳です。
 さて,先のA〜C河の基隆河への結合過程と,上記・康煕台北湖推定図を並べてみます。
基隆河形成過程中(上)河川襲奪期,(中)河道大転換期と(下)前掲康煕台北湖推定図

 康煕台北湖が存在していたならば,その時期,A河は無かった(湖の一部になっていた)ことになります。
 その場合,河川襲奪期,河道大転換期ともに謎の核心だった「A河の不当な引力」が,実はA河を飲み込んだ康煕台北湖の引力,即ち陥没による高低差だったとすれば,極めて整合性が高い──ように素人的には見えるのですが,所詮素人なので,この辺で地学から本論に目を転じます。
沈没繋がりで……「日本沈没」元祖映画版。ちなみに小林桂樹が沈没を予測する田所教授役ですけど,丹波哲郎は脱出を指揮する総理大臣。

康煕台北湖に初めて戻ってきた陸地

 純粋に地学的な検証には力の及ばない本稿でやろうとしているのは,「康煕台北湖」仮説の非地学的事象との整合性の確認です。それを,今度は歴史又は民俗の側面から試みてみます。
 康煕台北湖が存在した,もしくは湖に見えるほどの大増水が一時的に起こったことを一応事実と仮定しましょう。その時期の台北は,海民からどのように見えたでしょうか?
 前掲の康煕台北湖推定図に,★を一つ打ったのが次の図です。

(再掲)康煕台北湖推定図。ただし艋舺の位置は引用者追記
 
 基隆河又は同A河と同じく,淡水河{D}も,その西側支流・洲子尾溝{E}とその南側延長・新店渓{F}も,全て湖に飲まれています。
 この湖を横断するように,台北のもう一つの断層・崁腳断層が東西に伸びます。
 淡水河{D}と洲子尾溝{E}-新店渓{F}との交差点・東側角地,崁腳断層南側の微高地突端に位置するのが艋舺です。

▲(再掲)台湾北部の断層図
※ 地理教室,無國界: 105年10月8日台北盆地的地質考察活動▲(再掲)崁腳断層南側微高地延長に補助線を入れたもの

 これらから推測すると,康煕台北湖の増水がおさまって水位が下がり始めた頃,湖の中央部に最初に戻ってきた陸地の突端が,即ち艋舺だったのではないかと思えるのです。

艋舺付近の標高図

 現・台北駅から艋舺までの岬部は,水面が15m上がっても浸からない高さです。だから減水期には,南西に突き出た長い島状だった時期があると推定されます。
 そこに康煕台北湖に辿り着いた船舶群が纏わりつくような情景が,台北創始期にここに見られたのではないでしょうか?
(再掲・広島県三原市吉和港)正月の帰港→第三十五波mm幸崎能地(下)&尾道吉和/吉和関係資料

 厦門編で旧市街・開元路の元になった古地形として,「赖厝埕湾」を想定しました。あの推定でも古い湾は直径1km強。康煕台北湖の直径25km(≒√(150÷π)×2)というのは,海民には理想的な海域に見えたはずなのです。

台北の媽祖宮の配置は,艋舺以外は,康煕台北湖岸に環状になっているように見える。〔後掲台北天后宮,青円は引用者〕

 だから,こうイメージしていくと,さらに一歩突っ込みたくなるのですが……。

康煕台北湖の子は水に驚いたか?

 つまり,康煕台北湖には家船に住む海民(蛋民(繁体字∶蜑民)=水上生活者)がいた,という可能性です。

 北の關渡門に護られたこんな内陸部の巨大水域は,水上生活者にとってはこれ以上ないシェルターでしょう。しかも当時,淡水が新興の貿易港としての体裁を整えつつあるだけで,この内陸湖はまだ手つかずのフロンティアです。後期倭寇の時代は既に遠くとも,鄭成功時代の海民の裔が,こんな立地を見逃すでしょうか?
 事実,艋舺はこの時代以降に「一府二鹿三艋舺」と呼ばれる大成長を遂げるのですから。 けれども──結果的に,その具体的な痕跡は,いかにしても見つかりませんでした。
 台湾の家船又は蛋民というワードに,そもそもヒットが全くないのです。

東アジア・東南アジアにおける家船居住の分布〔後掲浅川〕

 翻って,研究者のマップをよく見直すと──確かに台湾には全く事例がない。香港から浙江まで,西の大陸沿岸はどこへ行っても住んでいたはずの蛋民が,台湾だけにいないのです。
 本当に台湾に蛋民がいないのなら,考えられる理由としては──
①[軍事環境]鄭氏政権後の海賊対策で海上保安が大陸以上に苛烈だった。
②[技術的限界]船体構造または技術的に台湾海峡を渡れなかった。
③[PULL要因不足]当時の台湾は水上生活者にとって「旨味」がなかった。
 いずれも成立しにくい。①台湾の水軍駐屯は確かに一定規模のものではあれ,福建より大きくはないし,②上記マップでも決して大陸沿岸に限定された広がりじゃない。沖縄にも西九州にもいたのですから。まして③は……同じ時期に福建南部からは膨大な移民が押し寄せているのです。
 とすると,ワシにはこれしか理由が思い当たりません。
④[海民位相差]台湾の蛋民は,他地より容易く海賊化した。そのため,無産層を装った他地の「蛋民」然とした姿は陸上からはあまり見あたらなかった。
 次章でご紹介する大海賊・鄭盡心(1.淡水を狙う者 護る者,2.賊犯仍不改惡∶鄭盡心の時代)が拠点にした「淡水」も,現・淡水市街でなく湖内だったのかもしれません。
 ただ,この見方をしてもなお難があります。康煕台北湖が形成された17C末は,大きな海民史からすると海賊勢力は後退期にある。これほどの好環境がその拡大に寄与したような痕跡はやはりないのです。
 そこでもう一つの可能性を,蛇足ながら最後に考えてみます。

⑤蛋民陸上りの地・18C台湾

 過去の深堀りで,何度か立ち上がってきた像が「海賊の陸上がり」図式です。
 海民は,好きで海賊化するわけではない。同じく,水上生活が好きだから陸に家を持たないのではなく,陸に家を持つ経済・社会環境がない時に「別にいいじゃん,水上に住めば」と開き直れる心性の人々というだけです。──だから,陸に上がるべき情勢になれば,すんなりと陸人になれる。

 さて,何が言いたいかと言うと,大陸東海岸から台湾への移民の流れは,相当部分が蛋民のそれであり,清朝に遷海令で駆逐された彼らは大陸内地にではなくより明確に台湾に移った,と考えられている,という点です。

廣東の沿海は蜑民の主要な活動地域であり、鄭成功が台湾を占拠した時も、蜑民をつかって清軍と戦ったからである。〔後掲王2021〕

 この王の主張の根拠史料は,南海百詠続編の次の記述です。

1-5 康熙元年,臺逆鄭成功流劫閩※{閨}廣洋面,勾煽沿邊蛋民※{句扇酒邊圖民},官軍疲於奔命,於是界海清野之議興。二年,侍郎科爾坤來粵勘明潮州之近佯六靡縣,廣外近佯之番禹・束莞・新安※{斬安}・香山※{番山}・順德・新寧※{新曹}六縣所有,沿海蛋民※{滑海蚩民}悉徙內地(略)一時※{息時}失業者咸聚珠江。幽撫李土楨乃令各縣分地安置無令失所,番禹蚤戶約萬人(略)此輩網耕罟耨,不曉耕作,惟日讎苴簪罷甘謀概口。〔後掲南海百詠続編〕※中國哲學書電子化計劃の記述{}は本史料に関しては現状,やや精度が低い模様であり,王2021の引用で一部置き換えた。

──1661(康熙元)年,台湾で逆賊・鄭成功が閩南から広東の洋上にはびこり,沿海の蛋民を扇動した。官軍は飛び交う命令に疲れ,海や野原をうろうろとしていた。──
 明瞭でないけれど,この部分が蛋民が,少なくとも鄭成功軍のシンパであったことを記していると解されているらしい。

杜臻『閩粤巡視紀略』による廣東省遷界の実施範囲と田地面積。後記六県の地名がある。〔後掲王〕

──1662(康煕2)年(訳せない∶侍郎科爾坤來粵勘明潮州之近佯六靡縣)広州湾域の番禹・束莞・新安・香山・順德・新寧の六県の沿海の蛋民はことごとく內地へ移住させられた。(略)その時期,失業者が珠江に溢れた。李土楨の命令により彼らは各県に土地を割り振られ,番禹の蚤民たちの居場所を無くすような命令はしなかった。彼らは約一万人いた。(略)この輩は網を使っても耕すのを苦痛とし,いつまでも耕作しようとせず,ただ日銭を稼ごうと甘言や謀りごとばかりしていた。──
「無令失所 番禹蚤戶」と綴った後に罵詈雑言を連ねているのは,これも明瞭には書かれないけれど,居場所はちゃんと残してやったのに奴らめ,というニュアンスです。つまり清朝が与えた居場所へと,付き従わなかった集団が相当数あったことを暗示しています。
 前記解釈通りに鄭氏王権の「流動」下で,蛋民が集団的に「勾煽」(扇動)されて台湾に来たとします。彼らの元々いた前記の六県域は,遷海令により帰れる場所ではない。対して,鄭氏の国・台湾には原住民居住地を除いても未開拓のフロンティアがある。また,鄭氏もそのフロンティアへの上陸・開拓を推奨した。──最後の点は,清朝統治下でも同じく継続されました。

広東新語 巻18・舟語・蛋家艇──蛋民専用船舶

 蛋民→海賊という変化形は,外見から「それもありうるように見える」だけでなく,一応史料にも記載されます。このタッチだと,それ自体がイメージ的な記述の可能性は否定できませんが……。

19.卷十八 舟語/蛋家艇
1(略)①昔時稱為龍戶者,以其入水輙繡面文身,以象蛟龍之子,行水中三四十里,不遭物害。今止名曰獺家,女為獺而男為龍,以其皆非人類也。(略)每歲計戶稽船,徵其魚課,亦皆以民視之矣。③諸蛋亦漸知書,有居陸成村者,廣城西周墩、林墩是也。②然良家不與通姻,以其性兇善盜,多為水鄉禍患。(略)粵故多盜,而海洋聚刦,多起蛋家。〔後掲屈大均「広東新語」〕※丸付数字及び下線は引用者

──②良民は蜑民と通婚しない。それは蜑民が凶暴な性格でよく強奪を行い、水郷の禍害となったからである。広東は元来盗賊が多いが、海洋での劫掠の多くは蜑民によって起こる〔後掲王2019〕──
 その前段として記してある漢族側の印象がまたスゴい。

(おまけ)日本沈没に主人公・小野寺(藤岡弘)とワンショットだけ絡んで出演してしまうお茶目な眼鏡男。実は原作者・小松左京本人。

──①昔から「龍戶者」(蛋民)について伝わるところでは,彼らは水に入る時に刺繍のような文様(入墨?)が身体に見えたという。それは蛟龍(龍の一種)の子のようで,だから行水中を30〜40里移動して全く障りがないらしい。現在は言われないが「獺家」(カワウソのような人々)とも呼ばれ,女はカワウソで男は龍,だから彼らは皆,人類ではないのだ。(略)何年も船に留まろうとするので,「魚課」(税)を徴収され,皆に奇異な目で見られている。──
 男は龍,女はカワウソに,おそらく最初は類似,さらには蔑称されていたのが,本当にそうだ,だから異民族なのだ,いや人類ではないのだ,という言説にまで発展していたらしい。
 また,最後の部分には「魚課」という税金まであったとある。前掲王によると,これは公課ではなく土地の所有者や有力者が私的に取ったもので,推定するに「迷惑料」のような感覚だったのでしょう。
──③蛋民の一族は知識書を頭に入れており,陸に上がって村民になる者もある。廣城西周墩や(漳州?)林墩はそういう村である。──
 この部分は,具体の地名が挙げられておりやや事実っぽい。ここに明確に,蛋民の陸上がりの事例があることが記されています。

康煕平南王「官兵進剿蛋賊」官兵を蛋民の賊の巣に進めん

 同時代の清代の中国大陸には,しばらく戦乱が断続しています。清朝の公式記録集・清實錄康熙朝實錄で「蛋」の漢字を検索すると,平南王が蛋民が軍事力化したのを抑圧しようとした経緯が語られています。
 ここでの平南王とは尚可喜,三藩の乱に加担した子の尚之信に幽閉されて死にますが,それまでは一貫して清朝側だった地方勢力です。

3-413 康熙二年。癸卯。夏。四月。(略)
4-1 沙喇哈番海陸弘(略)
280 十二月。甲午朔。(略)
292 己酉。平南王尚可喜疏報、官兵進剿蛋賊、擒偽恢粵將軍周玉、偽軍師林輔邦、及賊兵二百七十六名、斬首二千六百三十七級、焚賊船一百三十一只。〔後掲清實錄康熙朝實錄〕

──(292のみ)1663(康煕2)年12月己酉,平南王・尚可喜が知らせてきたところでは,官兵が蛋民の賊の拠点に侵攻,偽者の粵(広東)将軍・周玉,偽軍師・林輔邦及び賊兵276名を捕えたほか,2637の首を斬り,賊の船131捜を燃やした。──
 経緯や死亡率の問題もあるけれど,相当規模の海軍力を当時の蛋民が有していたことが分かります。

平南王・尚可喜。こんな顔してヒドい奴。

 しかも,このジェノサイドで蛋民集団が滅んだわけではありません。細かい場所がなぜか書かれないけれど,翌三年にもまたヤッてます。

4-15 康熙三年。甲辰。五月。(略)
280 十二月。甲午朔。(略)
127 廣東總督盧崇峻疏報、平南王藩下參領孫楷、游擊李勇等、會同番愚知縣彭襄、進剿蛋寇周玉、李榮等、多所斬獲、效命有功。下部察敘〔後掲清實錄康熙朝實錄〕

──(127のみ)1664(康煕3)年12月,廣東總督・盧崇峻が知らせてきたところでは,平南王の藩の下にいた參領・孫楷,游擊・李勇らは,同番(蛋民?)の愚かなる県知事・彭襄と共同し,蛋民の寇(盗賊)・周玉,李榮らの根拠に侵攻,命に依って多くを斬り,又は捕らえた。下っぱからは尋問した。──
 周玉,李榮を含め,多くの関係者は知名度が低い。ただ,反乱の度毎に物凄く苛烈な抑圧をしている。でも,なおも翌四年にも,しかも二回ヤリまくってます。

57 康熙四年。乙巳。夏。四月。丁巳朔。(略)
87 丙子。廣東總督盧崇峻疏報、香山縣知縣姚啟聖、招撫蛋寇黃起德等、共四千餘人。下部察敘
153 康熙四年。乙巳。秋。七月。乙酉朔。(略)
187 八月。甲寅朔。(略)
206 丁卯。(略)
207 平南王尚可喜疏報、蛋逆夥黨、竄據東湧海島。游擊佟養謨等、調兵奮剿、生擒賊魁譚琳高、殺賊一百五十三人、招撫男婦八十五名口。又疏報蛋戶黃明初等、駕船聯黨、在馬流門一帶、接濟蛋逆糧米、遣拖沙喇哈番舒雲護等、領兵搜剿、擒斬賊黨四百三十餘名。俱下所司〔後掲清實錄康熙朝實錄〕

──1665(康煕4)年4月丙子。廣東總督・盧崇の知らせ。香山県知事・姚啟聖,蛋民の盗賊・黃起德ら計4千人を招撫し,下っぱは尋問した。──
 何だか,回毎に「武功者」が別です。自管下の水上生活者を競うように殺害して,中央の得点を奪い合ってる感じです。
 それにしても,結果の表現が変になってきてます。ここでの招撫とは,次の文章からしても殺害を含む刑罰ではないようです。なのに前線の兵は尋問とは……これは4千人と事実上和睦しているのではないでしょうか?

──1665(康煕4)年8月丁卯。(以下207) 平南王・尚可喜からニュース。蛋民が大挙して徒党を組み,東へ逃げ去って海島に湧いた。游擊・佟養謨ら,兵を整え侵攻,賊の首領・譚琳高を生け捕り,153人の賊を殺し,男女85名を招撫した。──
──またもう一報有。蛋戶(蛋民)黃明初ら,大船団を組み沖へ出て,馬流門(?)の一帯へ向かい,蛋民の救済米を強奪したので,拖沙喇哈番(清の爵名)・舒雲護らを送り込み,その領兵により捜索,賊党430人余を逮捕又は斬首した。下っぱは所轄(警察署?)に委ねた。──
 人数の桁は百単位になり,混乱は縮小してるように見えますけど,どちらも移動に伴う形,つまり半ば海賊化しています。蛋民は一団になって移動したのではなく,四方に散った,と考えた方がいいのでしょうから,北京中央に報告されない小海賊行動はもっと多く,ひょっとしたら無数にあったのではないでしょうか。
 61年続く康煕代に,この広東の蛋民,並びに同じく遷界令で追われた蛋民たちがどう行動したのか定かでない。ただ,康煕代末の鄭盡心(次章巻末参照)一党の活躍を見ると,長く混乱が続いた可能性はあります。
 1694(康煕3)年に康煕台北湖が形成されたとすれば,やはりそこに蛋民集団が移動する環境は整っています。
 ただ,まだ陸上に漢族集落のないこの新湖に至った蛋民が,なお水上生活を続けたとは考えにくい。彼らは陸に上がり,フロンティアを開拓していったのではないでしょうか。

蛋民が「我々とは違うX」ではない土地

 問題は,そのような状況で,彼らがなお「蛋民」とラベリングされたかどうかです。広東新語にあるように,蛋民は陸上民が「我々と異なる非人類」に付けた名称です。
 そもそも名称というものは,なべて,他からの差別化がなされた場合にそれに付されるラベルです。差別化がなければ,ラベルを付けれない。
 フロンティア段階の台湾には,まして新たに形成された康煕台北湖岸には,ラベリングをする主体もそのニーズ(「我々とは違うX」言説を行おうとする意思)も存在しなかったのではないでしょうか?だって,まだ誰もいないんだから。

前掲地図中,「蛋民」不在のエリア(桃色円)

 そう発想してみると,同じく「蛋民のいない」エリアが,東アジアの蛋民分布域のコアにある,と見ることができそうです。
 例えば沖縄。海上漂流民を表す隠語があると聞いたことはあるけれど,戦前は波之上に群れ,公設市場周辺の旧・ガーブ川にも水上家屋があったというから,間違いなく水上生活者がいました。でも,蛋民と区分されていません。──琉球王朝そのものが前期倭寇によって建国され(第一尚氏),後期倭寇に再興された(第一尚氏)国だからです。
水上店舗上でカチャーシー(那覇牧志,1960年以前?)

「蛋民」は水上生活者としての実態と,ラベリングされた象徴──分かりやすく言えば差別の観念との二重に分かれて存在します。前者は康煕台北湖にも沖縄にもいたでしょう。けれどラベリングされないこれらの地域では,蛋民と名付けられることがなかったのです。

雍正「不必強令登岸」∶必ずしも岸に登らしむるを強いず

 自らが異民族であり,ゆえにこそ異民族支配に長けていた清朝は,代が変わると,蛋民を抑圧する行政手法を放棄しています。
 長文になりますが,以下が雍正年間の初め(1728(雍正7)年四月)に出された「賎民解放令」と言われるものです。

32-30 雍正七年己酉。夏。四月。乙亥朔。(略)
33-2 裁陝西涼州府平番縣西大通驛驛丞一員。(略)
9 壬申。諭廣東督撫聞粵東地方。四民之外。另有一種、名為蛋戶。即猺蠻之類。以船為家。以捕魚為業。通省河路俱有蛋船。生齒繁多。不可數計。粵民視蛋戶為卑賤之流。不容登岸居住。蛋戶亦不敢與平民抗衡。畏威隱忍局蹐舟中。終身不獲安居之樂。深可憫惻。蛋戶本屬良民。無可輕賤擯棄之處。且彼輸納魚課與齊民一體安得因地方積習。強為區別、而使之飄蕩靡寧乎。著該督撫等轉飭有司。通行曉諭。凡無力之蛋戶。聽其在船自便。不必強令登岸。如有力能建造房屋、及搭棚棲身者。准其在於近水村莊居住。與齊民一同編列甲戶。以便稽查。勢豪土棍。不得借端欺陵驅逐。並令有司勸諭蛋戶、開墾荒地,播種力田。共為務本之人以副朕一視同仁之至意〔後掲清實錄雍正朝實錄〕

見えてるものが全てじゃないから
──広東督撫が申し上げることには、粤東地方には四民のほかに、別の種族がいる、その名は蜑戸という。即ち猺蠻※の類である。船を家とし、漁撈を業とする。河路を熟知して、みな蜑船を有する。人口が多く、その数は計りしれない。粤民は蜑戸を卑賤の人とみなし、陸上に住むことを許さない。蜑戸も敢えて平民と同等になろうとはせず、威を恐れて我慢して船の中にすみ、終世安居することができない。これは深く同情すべきである。蜑戸は元々良民に属し、蔑視や排斥をうけるいわれはない。且つ彼らは魚課を輸納し、斉民(平民)と同じである。どうして地方の慣習のままに、蜑戸を強いて差別し、不安にさせておく理があろうか。該督撫等に、この諭旨を有司に伝達させ、はっきりと教え諭すように。凡そ無力の蜑戸は、その船の中で随意にさせ、強いて上陸させないでもよい。房屋を建造したり、小屋を作って住める者は、村落に居住することを認め、斉民と同じように甲戸に編列し、稽査に便利にさせるように。勢豪やごろつきは因縁をつけて蜑戸をいじめたり駆逐してはいけない。有司に命令して、蜑戸に荒地を開墾して、農耕につとめさせるよう教え諭すこと。共に農業に勤しむ人と為ることで、朕が一視同仁の至意に叶うようにする。〔後掲王2019〕──
※猺蠻∶「猺」は獣の意。「黄猺」でコウライキエリテン,「青猺」でハクビシンを指す。「蠻」は「蛮」の異体字。
 決して差別からの「解放令」ではない。(下線)水上生活を強制的に止めさせることを禁じ,それを奨励策に切り替えているだけといえばだけです。ただ,康煕年代のような「駆逐」又は「無条件殺戮」の対象にはならなくなっています。文面からして,少なくとも広東督撫は懐柔策の立場に立っています。
 その状況で,台湾の統治当局が蛋民を抑圧したでしょうか?また,陸上が未開拓地ばかりの当時の台湾で,蛋民たちはなお水上生活を続けたでしょうか?
 本稿の結論として,康煕台北湖に寄せた蛋民が,湖面に船を浮かべることはあったかもしれない。でも,上陸地又は開拓先を見つけると速やかに開拓民に転じた。やがて湖から水が引き,艋舺を始めとして陸地が現れると,開拓民に転じず海民であり続けた蛋民も海商として運送に従事していった。そのようにして,台北の経済基盤を築いていった集団だった,と考えるのです。

「m19Gm第二十六波m妈祖花や明知の言葉は単純m4淡水まで」への2件のフィードバック

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