m19Hm第二十七波m千度目の宮は蒼色獅子頭m2敦化北路4巷

本編の行程∶MRT

藍5は台北101へ

義福徳宮前から乗った「藍5」という路線バスは,呉興街から左折,松仁路へ。
 1029,降り立ったのは101真下。図らずもビルディング撮影のポイントだったらしく観光客うようよ。久しぶりだけど,ここからならMRTの接続がよいので……。
▲台北101を撮影する人々

YTMはケーキの自販機

RT台北101世貿から1035,淡水線で西へ2駅。大安乗り換えで文湖線で2駅,南京復興まで。
──この「南京復興」ってよく考えたら凄い執念がこもってる。「日本と共産党に奪われた首都南京を今一度」……という意味に,縦横の道から偶然(と言っても二つの道の由来はそのもの)だろけどなっちゃってるよな。🚈🚈,そうだった!この文湖線ってマイナーな高架上線だった。結構待つんだったような記憶が……。
 隣に来た日本人の群れが「西門って書いてないじゃん!」と騒いでる。南北路線だよ,西門は行かねーだろ?おおっ?後ろに来たぞ!!
 1050南京復興で下車すると──
▲1053「YTM」??

尼克」(アドレスのアルファベットは「yannick」)というケーキ屋が設置したロールケーキの自販機でした。下記サイトに購入画面など詳細あり。
〔TABIZINE~人生に旅心を~/台北の駅で「ケーキの自販機」を発見!手土産にもぴったりのロールケーキはどんな味?【実食ルポ】
URL:https://tabizine.jp/2021/05/06/394498/
Walking qi-yue

50年代には無かった町

へ急ごうと5番出口を出たら──え?CoCo壱??
 ……日本人街だったな,そー言えばこの辺り。
 1056,敦化北路4巷(25弄)を南行。日本人街ゆえなのか……カフェが多い。食堂もいいのがあるみたいで,これはこれで好いか?
▲1058意外に雰囲気良かった敦化北路4巷

に1952年の歴史地図を開いてみると──このエリアには街がありませんでした。
 52年以前の歴史地図では,そもそも地図外になってる。
 52年地図を見ると,東から来た川らしきものが現・復興路沿いに市街のエッジを形作ってます。つまり,何らかの理由でこの川を市街が超えられなかったところを,戦後1950年代になってから堰を切ったように開発された場所,と読めます。……なぜそんなことになったのか,資料がありませんが……。

〔後掲台北百年歴史地図/1952年台北市市街路詳細図〕

んまり好い雰囲気なんで,つい立ち寄ってみたくなりました。
1100名無しの自助
① ②③④
⑤ ⑥
①卵スープ
②ピータン豆腐
③白菜煮物
④エリンギと厚揚
⑤白飯
⑥白身魚

名無しの自助のち粽

▲名無しの自助

エリンギと厚揚は,見事な卤味。①卵スープや③白菜煮物も蛋白にして滋味深い。
 変化の仕方として典型的だったのは②ピータン豆腐。粘っこいけど淡白な豆腐,これはまるで豆花か西九州のごま豆腐みたいになってる。ここに微かな苦味のピータンが入る。広東のとは程遠いのに,これはこれで……なのです。
 これは卑小に日本ナイズしていると見ていいのか,あるいは過大に大陸にはない台湾料理化が起こっていると捉えるべきか。

▲お魚どアップ

ころが,これらに増して感激したのが⑥白身魚:小骨は無茶苦茶多い。けれど素晴らしい歯応えと淡麗な魚身!唐辛子がかなりきつく効いてますけど,それに負けない,信じられないほど濃い魚身の味覚がある。
 台湾の魚は,時々こういうのに出くわすのです。こりゃあ魚好き,特にジャコラーにはたまらない!
▲続けて粽

て朝食前編を満喫したので,遅くなったけど後編に入ります。本来の目的地──
1135王記府城肉粽
肉粽
碗粿300
 これは……意外に──普通に感じた。
 今回食べたものの水準が高過ぎるんだろうか?粽はまずまずに感じたけれど,碗粿は確かにライスプディングですよね,という程度。
 既にここは観光地。西門の本店はともかく,支店までに台北一の粽を期待するのは酷でしょう。

出国間際の浮気性

▲1153南京復興のとあるロータリーにて

155,残り4時間。南京復興から松江南京でオレンジライン乗り換え,三民高中を目指します。
 最後の媽祖探索です。
 1203,南京復興から乗った新店行き車内で乗りなれないオレンジ路線を再確認。以前は行天宮で止まってたこの路線,今は中和新盧線として大きく東へ伸びているのです。關渡宮の南向かいになる。
──淡水から康煕台北湖に入った時,右手に見えてきたであろう浅瀬あるいは中洲です。
 ただし枝分かれしてる。えーと?蘆洲の方向,北側の線が正解です。
 汗が流れる。気がつけば結構な気温です。プラットホームの音楽もヘンテコだし。

中和新盧線の淡水河西側エリアの分岐路線

江南京からの乗車が1207。この列車は南側分岐・廻龍行き,北側分岐の三民高中へ行くなら大橋頭までに乗り換えないといけない。
──いや?
 このまま新荘の方へ先に行くか?GM.をつついてるうちに魔がさしてきました。街はこっちの方が面白そうです。位置は艋舺の真西,川向い2km。
……と惑うてるうちに,列車は大橋頭を過ぎてました。ままよ!
 おおっ!地下をくぐってる!いや地下鉄だから当たり前だけど,そうじゃなくて淡水川を橋でじゃなくて川の下を潜って抜けたらしい。
 1217,台北橋。立ち客がいるほどの乗車率です。居住区はこちらにもかなり広がってる模様。
 1220,三重。板南線へのジャンクション。──え?ここに先嗇宮という廟があるぞ?

今回はとにかく宮を目指すけど

▲1317新荘・MRT駅の観光マップ

227,新荘到了。
2番から出るといきなり「すき家」?
 お?地図にはない道。すぐ東を抜けられる。南行すると新荘廟街というまごうことなき道へ出ました。進む。
▲1235新荘廟街を行く

想通り,町はかなり面白い。
 台北中心街より鄙びてるのはもちろんだけど,血の気が薄いというのか,諦めたような下町風情です。
 時間があれば迷い込んでみたい路地もちらほらだけど……今回はとにかく宮を目指しました。
▲1237「富都新荘」な街角

■レポ:トップランナーの西に三新荘

(上)戦前の淡水河以西絵図 (下)うち新荘付近〔金子常光「新荘郡大観」 ※原典∶荘永明「台湾鳥瞰図」遠流出版,1930年代〕

「新荘」※という地名は台湾各地にある。「新興の町(街庄)」というほどの意味で,要するにどこかの時代のニュータウン。
※「荘」の字は繁体字圏(台湾本島・香港など)や,簡体字圏でも史料上は「莊」(篇の上下が折れ曲がる)字でないとヒットしない。
 台湾北部で早くから開発された地域の一つです〔後掲wiki/新荘区〕。
 乾隆嘉慶年間(1736〜1820年)が最盛期と言われる。
 当時の様子を伝える成語に「千帆林立新庄港 市肆聚千家灯火」があります〔後掲百度百科/新庄区〕。──千隻の船が新荘港に立ち並び,千の家の灯りがともる〔訳∶後掲nippon.com〕。「市肆聚」の部分が飛ばしてある。
「市肆」は商店の文書語,「聚」は集まる。水運を利としたマーケットが形成されており,これが千の船と千の家の経済基盤だったはずです。
簡文仁・画「18世紀末の新荘港」

 つまり,新荘が栄えたのは概ね18C中後半。同時期に康煕台北湖の西側,淡水河が再形成したデルタに面した地です。
 湖を想定すると,東側の基隆河デルタと相対する位置だったことが分かります。
 ただ,町の空気は三張犁とは全く違う感覚でした。鄙びていながらも地域の中核の体を維持してる。この違いは何から来ているのでしょう?
康煕台北湖想定域上の台北市内における新義福徳宮及び新荘慈祐宮の位置

史料上の新莊慈祐宮

 上記のような新荘の歴史は,史料には詳述されていません。後掲「台湾再び」が記載史料を3つ挙げていたので追ってみると,ほぼ創建年の記事のみです。

臺灣通史∶在興直堡新莊街

 まずは──

卷二十二91 慈祐宮:在興直堡新莊街。康熙二十五年建,祀天上聖母。
(92〜93 略)
94 先嗇宮:在興直堡二重埔莊。乾隆二十一年建,祀先農。
95 龍山寺:在縣轄滬尾街。乾隆間建,規模頗大。光緒十二年,巡撫劉銘傳奏請賜匾,御書「慈航普度」四字,懸於寺中,今存。〔後掲臺灣通史〕※番号は中國哲學書電子化計劃付番。下線は引用者。以下同じ。

 ①興直堡新莊街に,②1686(康熙25)年,③天上聖母(媽祖)を祀るために建てられたことのみが記されます。
 康煕年間の建廟はずば抜けて古い。また,その創始から媽祖を祀る意図の建物だったことも窺えます。
 なお,「興直」の旧地名は,語感的には「真っ直ぐに興隆する」,つまり当時の急激な勃興ぶりを表現したものとも解されます。ここから,新荘の原語は「興直」で,その音が訛ったものではないか,という説もあるようです。

關於名稱的演變,有人認為這是「新興街莊」之意,有人認為是由「興直」轉音而來,也有學者認為這是原地名「興仔武朥灣庄」的簡稱。但無論其來源為何,到了乾隆時期,「新莊」已經成功地取代了「興直」,成為此地的名稱。〔後掲BIOS〕

※BIOSはこの前段で「觀音山在當時,被稱為『興直山』」──(新荘北方向の)観音山を当時「興直山」と呼んだ──としており,これはケタガラン族のPulauan社の人々の呼称の音訳であるとする。
 最後の段は──その来源が何であったとしても,乾隆期に「新莊」は既に「興直」の名を冠するに足る成功を収めて現地名になっていた──と結ばれています。地名としてどちらが先かは置いても,当時の隆盛ぶりに即応した名称だったのです。

續修台灣府志(余志)∶雍正九年建

巻七150 天后廟:在竹塹城北門外。乾隆七年,同知莊年、守備陳士挺建。一在淡水關渡門;康熙五十六年諸羅知縣周鍾瑄建。一在淡水新莊街;雍正九年建。一在淡水艋舺渡頭;乾隆十一年建。〔後掲續修台灣府志〕

 ここには1731(雍正9)年建と書かれます。通史と約半世紀のズレがある。
 このズレ,換言すれば康煕末と雍正初の二度の建廟の「解釈」としてならば,以下のような解説も正当になります。
 

『台湾通史』の中にもこの廟に関する記載があり、もともとは普通の小さな廟でしたが、新荘の発展に伴い信仰の中心となり、規模の大きな「天后宮」も建てられました。〔後掲新北トラベルネット〕

 鹿港のように別個に建てられたのではなく(天后宮(舊宮)と勅建天后宮(新祖宮)),關渡のように移動したのでもなく(1712(康煕51)年創建宮と1715(康煕54)年重建宮),既存の宮を拡張した(北港型)と考えるわけです。

連雅堂の「台湾通史」によると、清代の康熙25年(1686年)に移民が小さな廟を建て海の神様である媽祖様を祀ったのことがそもそもの始まりです。(略)そして、余文儀の「続修台湾府志」によると、慈祐宮は清代の雍正7年(1729年)に新荘が台北地区の重要な港になっていたため、貿易関連の有力者、新荘の資産家や民衆らによって故郷の福建省からわざわざ建材を運び入れ、小さかった廟を大廟に建て替え、「天后宮」と命名したようです。〔後掲台湾再び〕

 この福建建材部分の根拠史料は見つからない。伝承または社伝でしょうか。
 ところが,創建年についてのもう一つの史料には,さらに不思議な記述があります。

淡水廳志∶四十二年巡檢曾應蔚修 嘉慶十九年縣丞曹汝霖重修

巻六47 天後宮,一在廳治西門內,乾隆十三年,同知陳玉友建。(略)淡北:一在新莊街,乾隆十八年府志作雍正九年建。四十二年,巡檢曾應蔚修。嘉慶十九年,縣丞曹汝霖重修。一在艋舺街,舊屬渡頭,乾隆十一年建。嘉慶十八年,火災,道光九年修。一在關渡門,原建山頂,康熙五十八年,移建山麓(略)〔後掲淡水廳志〕

 淡水庁志にのみ載る記述は④改修です。1777(乾隆42)年に巡檢・曾應蔚が,1814(嘉慶19)年に縣丞・曹汝霖が修理した。18C末に新荘媽祖には,官の手が入ったわけです。
 ただ続く艋舺や關渡に比べると,かなり淡白なタッチで書かれます。あまり詳細を調べる意欲が感じられない。
 また,庁志は創建年についても(雍正9年説を併記しつつ)新説を唱える。

1686(康熙25)年〔通史〕
1731(雍正9)年〔余志〕
1753(乾隆18)年〔庁志〕

 これを後掲「再び」は火事による全焼後の再建だとしています。そういう史料は見つからないけれど……。

陳培桂の『淡水庁志」によると、清代の乾隆年間に新荘に大火災が発生し、「天后宮」も消失。乾隆18年(1753年)に建て直され(略)〔後掲「台湾再び」〕

 ただ淡水庁志本文の艋舺でも,その他台南大天后の記述でも分かるけれど,火事による再建は新設と差別化した表現をとることが多い。
 純粋に考えると,官庁側,特に地志編纂側から等閑視されている気配を感じるのですが……それにしてもこんなに年代がブレるのは珍しい。何が起こっていたらこうなるのか想像もできません。
 また,通りがかりに気にかけた先嗇宮についても通史にのみですが記述されています(→前掲)。1756(乾隆21)年に「先農」を祀る宮として創始されたらしい。なお,この宮の所在地も「興直堡」二重埔莊となっていて,「興直」地名のエリアがかなり広範だったことを傍証します。

見えない「三新莊」時代

 という訳で,過去を追おうにも……どうにも雲をつかむような地域なのです。
 これはダメだ。西海岸を掘ってきた方法では刃が立たない。
 痞客邦が,新荘の歴史模式図を掲げていたので,ゼロベースでのよすがにしてみたいと思います。

新荘歴史時期空間紋理簡圖〔後掲痞客邦〕
 
 ①史前
 →②清領
  →③日治
   →④国府(衛星都市)
という4区分です。
「一府二鹿三新莊」というおなじみの成語のヴァージョンがあります〔後掲BIOS〕。「三新莊」時代は伝承としては媽祖宮の建った18C半ばとされるという。その繁栄からの転落が,淡水河の堆積進行,かの湖に即して言うなら康煕台北湖域の減退によるとの解釈もほとんどの記述に共通します。
 三張犁・松山・内湖など東湖岸と異なるのは,新荘が【a】19C末の鉄道拠点としての再興期(清末の(初代台湾巡撫)劉銘伝時代)を経て【b】日本統治代にも重用された後【c】大台北の衛星都市化し,そこそこの地域の核であり続けたことです。
 おそらく,艋舺側との間が河で隔てられ,これを架橋する大量輸送手段が出来るまでは,淡水河西岸に地域経済のコアがまだ求められたからでしょう。

 前掲4時代図で日本時代における繁栄の断絶が描かれているのは,「鉄道敷設による折角の再興機運を日本が断ち切った」という解釈です。

新莊下一次的榮景,要到光緒中期,劉銘傳在台灣建造鐵路,才又有了交通要道的跡象。然而在日本領台後,很快地,鐵路決定改到板橋,這使得新莊再次回復到悠閒的田園面貌。〔後掲BIOS〕

──(第二段のみ)日本は台湾を領有するとすぐ,(台中・新竹方面への)線路を板橋経由に改める決定をし,これにより新荘は再びのんびりした田園の相貌に戻っていった。──
 ただ,日本時代のいつからなのかは分からないけれど,次の図を見ると,少なくともその末期には新荘には相当な広域に日本人街があったとも思われます。

新荘の日本時代家屋の所在地区とその現存地区〔後掲痞客邦〕

 また,次の古地図で見ても,戦前の新荘は淡水河東側対面の艋舺に,匹敵はしないけれどそれに次ぐ都市機能集積地だったことは推測できます。
 この辺をもう少し数量的に確認してみます。
2004年と1905年の台北街区密度の比較イメージ〔後掲台北百年歴史地図/台湾/二萬五千分之一經建版地形圖(2004)及び日治十萬分一臺灣圖(1905)〕

百年前までの「台北」は違う

 上図の21C初と20C初の街区を比べて理解できるのは,現・台北市への一極集中度が百年前には全く違うことです。
 インフラ整備はともかく,大台北の広域都市圏ははっきりと戦後の歴史の産です。
 その点を割り引いて20C初の街区配置を総括すると,新荘-艋舺-松山が東西に並ぶ地域拠点だった,と捉えられます。それがここまで見たように新荘や松山域の衰退した姿だとするならば,19C以前にはさらに三者が拮抗した規模で並び,もっと古くは艋舺が中間点への新興勢力だった姿が浮かんできます。
 さて,統計を見ていきます。

1942(昭和17)年の新荘街の人口及び國籍内訳〔後掲台湾総督官房企画部「台湾常住戸口統計. 昭和17年末」/3 街庄ノ本籍・國籍別常住戶口(4p)〕

 1942年の台湾人口は633.9万人という数字があります〔後掲wiki/中華民国の人口統計〕※原典[2] B.R. Mitchell. International historical statistics: Africa, Asia & Oceania 1750-2000.
 上表のデータの主要数値を抜くと,

台北州126.70万(うち内国籍16.13万)
うち
台北市 38.37(11.26)
基隆市 10.77( 2.61)
新荘郡 7.09(888人)
うち
新荘街 2.03(516人)

 台北市∶新荘郡の人口比は5∶1以上。
 日本國籍の割合は台北市で29.3%,約3割であるのに対し,新荘郡1.3%と隔絶してます。なお,これは内湖郡(1.2%)にも近似する。──三極イメージで言えば,日本人が植民したのは台北だけで新荘・松山は漢族の居住域でした。
 ただ注視すべきは,新荘郡ではその6割が新荘街に集中していること。つまり偏在度が高い。中心街に限定すればさらに高いと推定されます。これが前記の日本人街の人口と考えられますから──漢族のフラットな居住域のほんの一角に日本人町が密集,という構図です。
 だから,新荘の中心街区は日本人が何度目かに再興したものであることはある程度確からしい。
 ただ,だからこそ相対的に際立つのは,日本人街以外の「普通の」新荘の色彩です。台北から淡水河を隔てただけで隣接するこの地域に,非日本的,つまり漢族専住エリアが延々と広がっていたことになるからです。
 この関係で,さらに不思議な数字を見ます。

1942年∶新荘の「一時現在者」

1942(昭和17)年の台北州地域別の一時現在者〔後掲台湾総督官房企画部「台湾常住戸口統計. 昭和17年末」/4 種族及本籍・國籍別常住人口/(附錄1)市・郡(支廳)ノ本籍・國籍別一時不在者及一時現在者(p49)〕

 ここでの「一時現在者」は一時不在者と対になっているわけだから,駐留者又は居留者,長期滞在者といった意味でしょう。つまり永住権を持たない階層です。
 主要係数を,先の人口規模と並べてみます。

台北州126.70万 うち一時現在者(内国籍∶以下「日」)1412人-(台湾籍∶以下「台」)2809人
うち
台北市 38.37万 うち日1005-台847
基隆市 10.77万 うち日56-台5
(淡水郡5.62万 うち日0-台726)
新荘郡 7.09 うち日54-台579

 これにある程度後ろめたい要素が加わると,通常は統計数字は氷山の一角であることが想像されます。
 淡水と新荘には,人口5倍超の台北市に近い数の長期滞在者,それも漢族が居留しています。多くの土地が漢族専住集落だったことを考えると,これらの集落内に満遍なく混ざっていたと推定するより,やはり新荘中心街に混住したと考える方が自然です。
 現在の東京の新大久保のような町を想像すればいいのでしょうか?

広域台北は如何に巨大化したのか?

 日本統治下の,現・広域台北都市圏では何か異様なことが起こっています。より広い視野での何かを見逃してしまっている気がしてきました。そこで,台北の拡大経緯を極力数量的に読みとってみます。

台湾民主国の切手とスタンプ〔伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』 p.75〕

1897年∶人口5万人の台北

 下関条約から台湾民主国の抵抗戦を経た1897年に台湾総督府が作成している次の初期資料は,占領政策の基礎資料だったのでしょうか?

1897年における台湾20大都市〔後掲李,表2-1-2-2〕
※出典「台湾総督府第二統計書」より李作成
 大稲埕と艋舺を合算して人口5万人。この数字が台南のそれを僅かに上回った,という状況のベスト20です。
──誤字や単位誤りではありません。現・北北基(台北都市圏=台北市+新北市+基隆市)の約7百万人という人口規模は,百年余で百倍に膨張した結果です。
 本稿の扱う新荘も18位に名を連ねます。
 この20都市を含む状況を俯瞰するため,一度,台湾全体に下って見渡してみます。

半世紀で人口2.5倍に自然増(1896年→1943年)

第2次世界大戦以前の台湾の人口推移〔後掲小島〕
※出所:台湾は「台湾臨時戸口調査」,「台湾国勢調査」,台湾総督府統計資料,台湾中央研究院データベースから,日本は総務省統計局「国勢調査」,「日本の長期統計系列」から作成.
 台湾総計ベースで1896年∶258.8万人→1943年∶658.6万人。半世紀経たないうちに2.5倍を超えているのです。
※上表の右部には日本のそれが併記してあるけれど,1896年∶4,199.2万人→1940年∶7,311.4万人。1.74倍です。
 しかも,この日本統治時代の激増は(例えば大陸からの)人口流入ではありません。次の通り公の統計学的に自然増であることが検証されています。
第2次世界大戦以前の台湾の人口の変化と要因〔後掲小島〕
※出所:「台湾臨時戸口調査」,台湾総督府統計資料,台湾中央研究院データベースなどから作成注:転入・転出は「本省人」(台湾人)によるものを除く.寄与率は各期間の人口の変化に対するものであるが,転入・転出の統計の対象者などの関係により,合計は100%にはならない.
 後掲李は,あくまでドライに,簿記の期首-期末の発想で日本統治の始期と終期の台湾を比較もしています。この表の数字は,どうあっても否定できません。
日本統治時代における台湾の変化〔後掲李〕
※李∶表2-2-1-1 出典∶「台湾 昔と今」
 米を見ると分かりやすい。水田面積は確かに倍増している。でも人口増には追いついていません。にも関わらず,米の生産量は百倍増しているのです。この差,50倍増分は「台湾版・緑の革命」と言っていい生産性の拡大によるものであることは絶対に否定できません。
 茶の生産量の30倍増は,経済生活の高度化の結果でしょう。

新荘発の抱合せ特化商品=香水と柑橘

 この茶葉の集積地として栄えたのが大稻埕であることは既に見てきました。

 交易ルートのサブ商品として,交易拠点近隣で貿易産品が「捏造」されるパターンは,長崎や漳州近辺の陶磁器のようにありがちです。この茶葉の交易ルートでも,香花と柑橘がその位置を占めていました。
 これらの産地として,新荘エリア(日本統治下の「三重」)の農地が機能したという記述がありました。

在日本時代,此地一度是台北近郊最重要的香花與柑橘的產銷集散地。當時,台灣人愛喝廉價而甘甜的香片。一岸之隔的大稻埕是台灣茶葉的集散地,那麼三重成為秀英花等香花最大的供應來源〔後掲BIOS〕

 台湾通史の著者・連雅堂は次のような漢詩を残しています。

大橋千尺枕江流
畫舫笙歌古渡頭
隔岸素馨花似雪
新風吹上水邊樓
三重埔接二重埔
萬頃花田萬斛珠
榖雨清明都過了
採花曾似採茶無

頭重→二重→三重ラインを辿ったもの

 地名の整理が必要になってきたようです。現在,新北市の区名になっており最もポピュラーな「三重」(三重区→GM.)は,前身を二つ持っている,というのが通説です〔後掲BIOS〕。
 先代が二重埔GM.,現・頂崁の一帯。
 そして元祖が「頭前埔」又は「頭重埔」。これが現・新荘に当たります。

沿著圖畫看那一叢一叢的聚落,一路向西,反而是臺北盆地更早開發的痕跡,三重埔的旁邊是二重埔,二重埔的旁邊是頭前埔,這頭前埔就是新莊捷運站新莊市下的頭前庄,早期台北盆地從新莊市街開始發展,在平埔人武朥灣逐漸消失身影的同時,漢人的庄頭也一路從南而北開發出頭前埔、二重埔、三重埔。〔後掲老派人的圖文筆記〕

 もちろん,前掲の如く新荘の地名すら史書には出ないのだから,これらの地名も記述はありません。年代は特定し難い。けれどこの頭→二→三の順列を地図に落とすと次のようになります。これが,台北地域で初めての開拓民が辿った足跡と推測されます。

頭重→二重→三重の集落展開推測図〔後掲台北百年歴史地図/台湾/日治二萬分之一台灣堡圖(明治版),1904〕※朱書きは引用者

新荘神社の遺物群をリサイクル

 BTR新荘駅から東へ500mほどのこの神社も見逃してます。
 現在の名前は新荘地蔵庵。訪れた人のコメントでは「台湾で一番絢爛豪華」的なものが多いから,由緒を誇るデータはないけれど,建築の密度はなかなか凄いらしい。

新荘地蔵庵〔後掲ameba,2020〕→GM.

 ところが,ここの前身は日帝時代に建てられた「新荘神社」であるという。前身と言っても,場所が250mほど移動してるけど,とにかく神社の遺構が地蔵庵に移設されています。
※別説に,地蔵庵の原型は,現在地ではない「荒れ地」にあったという。伝・1757年創建。〔後掲台湾いとしこいし〕
昭和19(1944)年1月16日臺灣總督府告示第二十八號〔後掲地圖與遙測影像數位典藏計畫〕

 昭和19年1月16日設置。神社時代の主神は明治天皇,倉稻魂大神,(北白川宮)能久親王,完全無欠に皇民化政策の所産です。
 1950(民国39)年に神社が廃止された後,血清研究所(臺灣製藥生化產業の前身)が置かれ,さらに1966(民国55)年に和泰汽車公司の新莊工廠,さらに豐田汽車(トヨタ)の生産基地になっています〔後掲地圖與遙測影像數位典藏計畫〕→GM.∶TOYOTA新荘営業所
(左)新荘神社跡の石灯籠 (右)同「昭和十二年十月建 河内源治」表記〔後掲台湾いとしこいし〕

 神社そのものは破壊され,おそらく本殿や神体などは国民党が許さなかった中で,名残りをとどめる石灯籠や狛犬をあえて移築しているのは,それなりに土地に根付き,一定の信者もいたものでしょうか?
 それと,対戦中の時期にあえて明治帝を祀る神社をこの漢族の多い地に新設しているのは,統治側のかなりの政策的意図が働いているでしょう。当時のこの土地は,敵国の民族が溢れる危険な場所と考えられていたかもしれません。
「昭和」年代の文字だけがセメントで埋められている辺りに,光復当時の感情が読み取れそうな石灯籠〔後掲Go!Go!キョロちゃん〕

日治∶台北一極化構造のセッティング

 後掲李は,日本統治代の期首期末比較をエリア・都市に切り分けた形でも行っています。まずはエリアですけど──

日本統治時代における台湾の人口分布の変遷(区域レベル)〔後掲李〕
※李∶表2-2-2-1 出典∶台湾省通史巻二 人民史人口編第一冊
 上表で見る限り,台北を含む北部区域または台北州が「一人勝ち」している様子は見えません。台南州や高雄州の方が規模も成長率も大きい。
 ところがこれを都市別に見ると違うのです。
日本統治時代における台湾20大都市の変遷〔後掲李〕
※李∶表2-2-2-2 出典∶「台湾社会及文化変遷」
 残念ながら新荘はランク外に落ちた後の1905以降のデータですけど……台北市は年間4%前後の高率で拡大し,1935年には二位の台南の3倍に近づいています。台北広域(新新基)で捉えると,三位の基隆が台南に迫っており,これを合わすとほぼ4倍。最初に見たように19C末にはほぼ同規模だった両者が,40年足らずでここまで水を開けています。
 先のエリア別データと傾向が矛盾しているように見えます。この矛盾は,要するに台南州は従来通りの広域に満遍なく人口を増やしたけれど,台北州のみが新たな人口増の形態を辿ったことを意味します。
 つまり地域を差し置いてのメガロポリス化です。1905→1920年期の5%近い台北市の拡張に,他の都市は同時期には全く着いて来れてない。ところが1920→1935年期になると,短期では台北市以上の成長率を叩き出す都市が出てきてます(基隆・高雄・嘉義・台中・彰化)。
 だからそのまま進めば,台湾は複数のメガロポリスが並立する土地になったかもしれません。ところが現実の戦後は,そうはなりませんでした。

光復∶海峡を越えてきたのは百万人

光復後第一期における台湾の人口分布の変遷〔後掲李〕
※李∶表2-3-2-1 出典∶「台湾地区人口統計」各年度版より李作成。ただし1956年台北数値は何れかの段階における誤謬と推定される。
※※維基百科/1956年臺灣戶口普查によると,台北市人口は737,029人

 1951-56年の成長率が台北市のみ6%近い。この後も4〜5%で独走を続けています。
 このテコ入れの実態は,「外省人」国民党集団の流入です。人口8千万(1951年)の台湾に百万の大陸人※が一挙にオンされます。
※実数は統計的には明確ではない。

光復後台湾の人口増加は主に外省人の来台によってもたらされた。終戟直後の1946年には全島で31,721人でしかなかった外省人は,1949年の国民党政府遷台と共に大最に移入し,1950年に50万人,1957年には100万人を超えていた。〔後掲李〕

……とは言っても+1.25%強です。かつての福建移民のように台湾各地に満遍なく入ったならさほどの衝撃でもないはずですけど……人数よりも地域偏在と経済・軍事力のインパクトの方が大きかったらしい。

外省人は台北市とその周辺都市,地方大都市及び軍事基地所在地に集中して居住した。1955年の統計では在台外省人の56.2%が5省轄市(注:当時は台北も高雄も省轄市であった),12.4%が県轄市に在住しており,7割近くが都市部に集中していたことになる。外省人の人遷は光復直後の台湾における大都市人口を増加させ,都市部と農村部との格差を拡げる一因となった。1958年に台湾で人口規模1万人以上の都市に居住している人口の割合は28.0%で,これは日本統治時代末1940年の19.5%から確実に上昇している。また,別の統計では1961年に人口5万人以上を有する都市が台湾には34あり,その人口の合計は4,427,131人で総人口の39.7%を占めている。〔後掲李〕

 戦後15年ほどの間に,農村の集合としての台湾は,一挙に都市人口の集積体へと変貌したのです。
 この点は,次の三大都市圏とそれ以外の「本来の台湾」とのトレンド差が如実に物語ります。

光復第一期における三大都市区における人口分布の変遷〔後掲李〕
※李∶表2-3-2-3 出典∶「台湾市統計要覧」「台北県統計要覧」などより李作成

「黑手創業 百手興家」

 三重エリアの別名に「七橋之都」というのがあります。周囲,つまり淡水河沿岸と幾つもの橋で結ばれた島状の土地,という語義です。
 新北市三重区,つまり公のHPなのですが,この時代の三重エリアに関係する,次のような微妙な内容の記述がありました。
 ちなみに上記八文字は同区が付している題名ですけど,通常「黒手」はマフィアを含むダークサイドを指します。

 三重位於高速公路的起終點,南來北往交通便利,又以一水之隔與繁榮的台北市相鄰,這兩種優越的條件,讓三重成為全省移民最多的城市。當時台北橋下有個全省最大的人力市場,成千上萬的三重人每天越過台北橋,為台北市的建築與繁華貢獻心力,直到如今。〔後掲新北市三重區公所〕※下線は引用者

 南北交通網の北端かつ台北への隣接という地理的な優越を区HPは背景として挙げます。──(下線部)三重は全省中移民(この場合,大陸からの外省人の?)が最も多い地域だった。台北橋の下は,全省最大の人力市場だったからである。──つまり,三重エリアは川向うの台北へ建築や商業の労働力供給地だった,と記すのです。
 七橋は,新しい血液を注入するまさに台北経済の大動脈だったとも言えます。
▲「東詰で平日朝に撮影された、自動二輪による通勤風景。(略)平日朝通勤時間帯の自動二輪の渋滞は「バイクの滝(機車瀑布/Motorcycle Waterfall)」として注目され、国外から観光客が見物に訪れる」※wiki/台北大橋

 次の文章はハンドル名「riverlupin」という方が,一種のライフヒストリーとして綴ったものの一部です。

那也可能是你或你同學爸媽當年北上第一份工作所在之地,沿著中壢到桃園,越過龜山到新莊與三重,工人集體上班,集體下班,相知相戀,所以你可能有兩個老家,父親的老家與母親的老家是那麼遙遠,但他們就是離開了原生之地在此相遇並生下了你。〔後掲老派人的圖文筆記〕

 少し後の時代でしょうか。──中壢→桃園→龜山→新莊・三重のルートに,工人(労働者)専用の「集體上班」「集體下班」が走っていたという。
 集団登校ならぬ集団出勤用の中距離バスだったようです。これを,少なくとも当初にはいわゆる黒社会が運営しており,その労働力の主要供給地が三重だったわけです。
 現在では,同様の労働力を「国際移工」即ち外国籍の労働者が担っている,とriverlupinは書いています。

総括∶台北に注いだ五つの幸運

 李は戦後を光復第1〜3期に分けて,上記①外省人流入に加え②産業構造変化と③市場開放という計3つの要因が,いずれも台北の一人勝ちにプラスに働いたと捉えます。これが五段階の発展フェーズにまとめてあるので,以下文字部分のみ抽出します。

【17-19C末】台北経済中心・台南政治中心
∶清代経済中心の南部から北部への移動
【1895-1945】(日本統治時代)台北への経済政治機能集中
∶都市基盤整備と首都性の確立
【1945-1968】(光復第1期)台北大都市圏の形成
∶戦後国民党遷台時における外省人の台北大都市圏への集中
【1949-1980】(光復第2期)台北・高雄二極集中
∶1970年代以降の経済構造転換に伴う地方工業都市の停滞
【1980-】(光復第3期)台北一極集中の展開
∶1980年代以降の市場開放に伴う台北の重要性の向上
〔後掲李p105〕

 下記はやや慣れが必要な図ですけど次の集中性を表現しています。
台湾∶北部=100∶42.5
北部∶台北都会区=∶66.4
台北都会区∶台北市=∶46.9
台北市∶中心七区=∶59.4

台北への一極集中の階層構造〔後掲李〕

台湾の負け組の町に何が残るのか?

 という訳でようやく新荘に話が戻ります。
 日帝代から現代までの世界史的にも稀な都市間バトル・ロワイアルの過程で,新荘は,その初期に「負け組」に転落した町です(→前掲1897年トップ20都市表)。
 この旅行で訪れた西海岸諸都市も,一時は「三○○」とか謳われた旧・台湾トップ都市の一つです。
 台北都市圏が突出する一極集中型台湾は,ここ百年ほどの間にグロテスクなほど急激に造られたものです。日帝代にすらこれほどの突出はなかった。
 だから,百年以上歴史を遡った台湾を捉えようとする時,現在の台湾の景色を一度忘れなければなりません。
 ワシがこの旅行まで完全に見落としてきたように,生き継がれてきた台湾は,大都市圏のすぐそばにある。新荘はその典型ですけど,台北一極集中のバトル・ロワイアルが呵責のないものだったからこそ,負け組都市の風景が百年前の面影がしっかりと生き続けている。
 それもまた台湾,と言いたいのではありません。それこそが生き継がれた台湾なのだと思うのです。
 再び台北を訪れる時が来たなら,この日のような「残り○時間」状況下でではなく,きちんと「外縁」の,「時運によっては台北だったかもしれない台北近郊」を歩きたいと思ってます。そこにはビックリするほど端的に,台北の百年前が平気で生きているはずです。

1944航空写真上の新荘と蘆洲〔後掲台北百年歴史地図/美軍二萬五千分一航照圖(1944) ※美軍∶アメリカ軍 ∴米軍が軍事偵察として撮影した画像〕

「m19Hm第二十七波m千度目の宮は蒼色獅子頭m2敦化北路4巷」への1件のフィードバック

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