m19Hm第二十七波m千度目の宮は蒼色獅子頭m3新荘慈祐

仏神のグランドクロス中に媽祖

▲1243入口横手の女性画。媽祖っぽくはないけど,妙に古びたタッチです。誰?

祐宮に着いた。1237。
 右聯「慈筏顯样光碧海茫茫登彼岸」
 左聯「祐官淬聖澤紅靈擾擾濟羣生」
 パティオあり。左右に別棟はないが回廊風。

新荘慈祐宮の参拝順序図
 
は四段構え。
 一段目:山川殿に天公爐。
 二段目:媽祖殿に右から伽藍爺,天上聖母(媽祖),福徳正神。
 三段目:観音殿に達磨祖師,観世音菩薩,註生娘娘。
 最奥:開山殿は地蔵王菩薩が専用。

誰が元祖か手を挙げろ

▲1245天上聖母殿だけど……どこにいるのが元祖なの?

祖様の配置がエラく雑多。それに新旧・聖俗,それに昔の天使様のように顔を隠したパターンから艶々と顔を全開のまでと統一感がまるでない。どれが一番エラいのか全然分からない。

3か月前の媽祖殿(GM.掲載,ただし投稿者の顔だけ引用者加工)

近の画像を見ると数も全く違います。これはどうやら,頻繁に出入りを繰り返しているのでしょう。
 今回,新荘媽祖を調べてどうしても分からなかった記述に──

咸豐3年(1853年)に分類械闘という族群間の武力衝突が発生しましたが、最終的に和解し、新荘の「慈祐宮」の媽祖を板橋に分霊することとなり、板橋に「慈恵宮」が建立されたという経緯もあります。〔後掲台湾再び!〕

というのがあります。板橋慈恵宮側はこれに全く触れてない※。想像するに……新荘零落の過程で本家を割って優勢な地方に出た媽祖が沢山あって,新荘を始祖と公認しないけれど密かな付き合いは続けてる,というような関係がほうぼうにある宮なんじゃないでしょうか。
※板橋側には「清朝咸豊年間に、ある中国唐山を行脚した僧侶が媚洲天上聖母の金色聖像を持って台湾に渡来し、台北廳擺接城枋橋庄を通りかかった時、その地の地主・有力者・信者など七十二名から媽祖の聖なる駕籠をここに留めて欲しいと懇願され」と由緒が伝わり,新荘との関係には触れられていない。

関羽×仏教=レゲエ

▲1250どこかレゲエな伽藍爺

殿右手には小さい祠ながら伽藍爺。この神は初めて見ました。伽藍菩薩とも言い,インドでの由緒は不確かみたいですけど,中国仏教では毎朝の読経で必ず「伽藍讚」という護法のお経がある馴染みの仏神だそうです。関羽の仏教化イメージだという説もある〔後掲維基百科/伽藍神〕。
 仏教色が濃いのかな?とさらに見てくと──

タイガーマスクとユニコーンの仏道

▲1252タイガーマスク的な達磨祖師

磨?媽祖宮にか?
 奥のパティオには池。
最奥のパティオは一段低くなってる。こちらが元の神だろうか。左右に光る石。そして本尊・地蔵様は──
▲1255最奥・地蔵王菩薩

ニコーンに乗ってる?
 ちょっと調べると,日本で辻に置かれる地蔵様と漢族圏のそれはかなり異なる。中国のは①新羅の王子で②地獄の十王ら配下を持ち③安徽・九華山にミイラがあるのに加え④諦聴(たいちょう)という独角獣(一角獣)に乗ります。〔後掲関西大学〕
 観音は龍,文殊は獅子,普賢は象を騎獣としますけど……これまた面白い動物に乗るものです。
 あと──巻末で掘った新荘のもう一つの大社・地蔵庵と,慈祐宮の祖神は同じ地蔵菩薩。二つの宮は同根から分岐した可能性もあります。
 帰路,正殿左手を通ると,耳将軍前にマイク付きの演台がありました。
▲1257耳将軍前の木魚とマイク

新荘廟街ミニマーケット

体的に……媽祖宮としてはかなり奇異です。見たこともない古い,日本からはかけ離れた神だらけ。
 ここはおそらく当初からの媽祖宮ではない。多分地蔵を本尊とした宮が,港としての性格を強めるに従って媽祖信仰に乗っ取られた,という経緯でしょうか?
▲1259入口横の広告

の東には新荘路というひなびた商店街。時折古い家屋もある。
──後の調べでは,この通りの西側が新荘廟街と呼ばれる夜市の通りでしたけど,この宮脇の界隈も午前中には市場っぽくなる変な盛り場らしい〔画像→Yukky’s ワールドウォッチング/新荘廟街歩き4~新北43 参照 ※URL:https://yukky787.fc2.net/blog-entry-2039.html

(午前中だったら……)新荘路の路上物売り

▲1301老舗っぽい雰囲気の薬行(薬局)

あと160分だけど新荘路徘徊

脇から北行。細道。古い手応え。中正路251巷。でも北正面にはスタバ,というちぐはぐさ。新旧がモザイクになってるような町です。
▲1301新荘の細道

だこの雰囲気は……少し危険な地区なのではないか?とも思えてきました。どっちみち長居はできないので──1322地下鉄乗車。
 あと160分。大橋頭乗り換えで本来の目的地・三民高中へ。「蘆洲宮」を目指します。
 さっきもだけど三重では意外に乗降が少ない。ジャンクションとしてそれほど機能してないのか,あるいは通勤時間だけ混むのか。
▲1310ちょっと怪しげな住所表示も

■レポ:新荘慈祐宮とその太極図

 まず,民国内政部による後掲臺灣宗教文化資產サイトによると,この新荘慈祐宮はまだ色々見逃した箇所があるらしいので,これらを押さえます。
 建物は三開間四進兩廊式(入口4つ,奥に4スペース→前掲図参照),北→南向き。前殿の屋根は燕尾翹脊の硬山及び歇山の重檐形式をとる。

「正殿及拜殿大木結構則屬於潮州風格,以隨作為水平接繫材,挑尖樑頭用龍頭裝飾。」〔後掲臺灣宗教文化資產〕

 後掲新北トラベルネットも非常に高度な技術の木彫りや石刻のほか,「剪黏」というモザイクに似た装飾が施されていると書きます。まあ素人が見ても「スゴそう」なのは分かるけどどうも腑には落ちません……。
「此古匾為嘉慶甲戌19年(西元1814)由淡水同知事薛志亮(?-1813)所獻。『霛』為『靈』的異體字,『舟弟』航即是『梯山航海』,比喻歷經長途跋涉的險阻,此匾有讚頌媽祖保佑先民渡海來臺的意涵。」〔後掲臺灣宗教文化資產〕

 こちらは1814(嘉慶甲戌19)年の淡水知事・薛志亮の筆になる古匾だという。言われてみれば,まあ普通には転がってない筆致です。
 臺灣宗教文化資產の解説では──一文字目「霛」は「霊」の異体字。即ち媽祖でしょう。
──三文字目の「舟弟」は仏教語「梯山航海」。この四字熟語は道元・正法眼蔵にも出る。仏教語としては,学や道の探求者が万難を排しどこまでも師匠を訪ねる様子ですけど,「梯山」は山に梯子をかけて登ることですから,「海を越え山を越え」というニュアンスです。
──険しい障壁を踏み越えて台湾に渡海してきた先民たちを讃える額である。──
2021年7月22日付け・中央研究院歷史語言研究所による「林富士先生線上追思會」(ネット上のお通夜)公告
〔林富士先生線上追思會|中央研究院歷史語言研究所 URL:https://www1.ihp.sinica.edu.tw/Bulletin/News/1761/Detail

林富士博士の映す新荘マンダラ

 以下は,前章でどうしてもたどり着けなかった新荘史に唯一のよすがを与えてくれた林富士さんの論文「中國帝制晚期以降寺廟儀式在地方社會的功能」を読んでいく作業になります。
 林富士さんは1960年生,何とこの旅行の1年半後の2021年6月に没しておられます。台湾歴史学者。分野的には宗教史(特にシャーマン史や道教史),疾病史,文明史の他,数位人文(デジタル・ヒューマニティーズ digital humanities,デジタル人文学,人文情報学)。
 なお,題名からも分かるとおり,この論文の主目的が新荘であるというものではなく,あくまで清末寺院儀式を考察するためのケーススタディとして新荘は登場しています。
 さて,ワシにとって垂涎だったのは,まず次の図面です。

新荘主要宮廟位置図(全)
※原典 Paul Katz ”Local Elites and Sacred Sites in Hsin-chuang – The Growth of the Ti-tsang An during the Japanese Occupation”中央研究院民族學研究所,2003

 これ以上キレイに画像化できなかったけれど,三分割して以下に掲載したので(西),読みにくい文字はご参照ください。
 19C末,日本統治開始の頃の図面です。
 慈祐宮【1(∶図凡例。以下同じ)】を中心の十字路,これが新荘の基本構造です。
【2】武聖廟から【1】を経て【3】廣福宮までが東西のメインロードです(→GM.∶経路)。これは図にある太線で縁取った区域で,凡例にあるとおり「廣亭仔脚」(片側幅3m以上の騎楼)がある道沿いです。
 なお,この北側を東西に走る「後村圳」は水路だと思われます。「圳」は人口水路に用いる漢字ですけど,形状からして元の自然の水域を整形したのでしょう。ここから,元々この土地はラグーン状の半中州のような場所で,北側の水域が段々狭まった後を水路利用したのではないかと思われます。

❴中❵慈祐宮十字の形成過程

 さてその中央部です。
【1】が慈祐宮。【M】公設市場は明らかに最近のもので,古い自然発生的市場を継いでいるものと推測できる。ちなみに現在も,新荘区第一公有零售市場として現役です。

現在(2020年)の新荘区第一公有零售市場 ※動物イラストは引用者

【L】図書館,【P】公会堂が遊休地利用と考えると,このスペースにはパティオが存在し,一種のアジールが形成されていたと想定できます。
新荘主要宮廟位置図(中1/3)

 とすると思い描ける最古の新荘の情景は──元は港(現・後街仔海側)に面したパティオが交易の場として栄え初め,その陸地側すぐの地点に媽祖が祀られた(前掲の神明の独自性からすると,おそらく以前からあった地蔵王廟が媽祖宮に転用された)。
 その活況から,港・広場から北へ道が伸びた。──これが現・MRT新荘への細道で,最も古い界隈だから再開発できなくなっているエリアなのでしょう。
 やがてそれでは店舗面積が足りなくなり,東西の新荘路が伸びた。その際には,入居・出資商人が一定数いたので,騎楼を持つ立派な街が(初めて)計画的に構成された──という順序と考えます。
 以上が最盛期の新荘の形成史だとすると,その前の時代を伝えるのが東部エリアということになりそうです。

❴東❵頭前-竹仔市-地蔵庵∶新荘頭前の骨格

新荘主要宮廟位置図(東1/3)

【6】が先に新荘神社の灯籠や獅子の移設地と障害した地蔵庵の位置です。
 隣の【公】は「公学校」。現・新北市新荘区新荘国民小学で,この国民学校名は日本時代からですけど,その前の時代に漢族の日化を含む成人教育機関としてあったのが公学校です。
 先の公会堂と同様,ここにあった遊休地を活用した可能性があります。その遊休地が元のパティオを成していたと考えると,先の「後街仔」と同じ「仔」字を用いた「竹仔市」も船着場兼市場だったと想定できます。つまり,この辺りが後街仔の先代の交易場だったことになります。
 前章で触れた新荘古名「頭前」(→頭重→二重→三重ラインを辿ったもの)が狭義にはこのエリアを指していることも,当地区が古い土地である傍証です。──おそらく,ラグーンが存在し,後街仔の地区が陸地として心もとない時代に,ラグーン入口を船着場にしていたのではないでしょうか。そうすると「後街仔」の「後」とは,「前頭」の「前」に対するものだったとも考えられます。
 分からないのは「衛門口」,つまりここに門があったという痕跡ですけど──後街仔と騎楼を囲む地域が「城」と見なされ,東西に「城門」があった時代があるのかもしれません。

▼内部リンク▼ (北港編)18世紀の北港宮口街の風景 〔展開〕
(再掲)大正期における朝天宮周辺街区の地割

南北の長屋状地籍群の分布域

 以前の北港編で解けなかった疑問に,細長い筆地が連続する地籍割がありました。
 新荘について地籍図は入手できませんでしたので少し不確かですけど,台湾百年歴史地図アップの航空写真を見る限り,後街仔を中心とする地区の筆もどうやら同じ形状をとっています。

後街仔❴中❵西半分相当地区の航空写真〔後掲台湾百年歴史地図/臺灣通用正射影像【NLSC】〕

 地域は大漢渓にかかる橋(東の大橋が新海大橋,西の小橋が新月橋)で特定して頂けると思います。やや分筆が進んでますけど,北北西から南南東への細長い筆が旧来は併置されていたことは想像できます。
 続く図は❴中❵東半分から❴東❵地区です。
後街仔❴中❵東半分〜❴東❵相当地区の航空写真〔後掲台湾百年歴史地図/臺灣通用正射影像【NLSC】〕

 中央の国民小学敷地の東側の茶色い屋根が,地蔵庵に当たります。
 特に❴東❵地区には相当はっきりと細長筆が並んでいます。そのエリアは,はっきりと旧・後街仔の形状を保っている。
 問題は地蔵庵周辺ですけど──ここには同方向の細短冊敷地は見られません。その代わりに,朧ながら他より細かいドットが散らばっているような印象です。竹仔市に連なる市場があった時代,それは後街仔とまった異なる論理で構成され,機能していたと予測されます。
 では西はどうか?
後街仔❴西❵相当地区の航空写真〔後掲台湾百年歴史地図/臺灣通用正射影像【NLSC】〕

 ❴西❵については少し分かりにくいので桃色のラインで囲みました。
 細長い筆のゾーンがキレイに西にたなびいています。
 ただ,極めて単調です。ゾーンが細いこともあって,あえてここを再開発しようというインセンティブを持たれないまま狭間に残存しているという風です。
 知らずに歩けばなかなか気づかないゾーンながら……そもそもなぜこのゾーンがたなびいて延びていたのか不思議に思えます。

❴西❵大漢渓を離れ真西に延びる町

新荘主要宮廟位置図(西1/3)

「大城外」という,やはり城壁を予測させる地名があります。
「公館口」という地名は,明らかにここに公館,つまり役所が存在したことを予測させます。
 そこで新荘路はZ字にうねってます。先の航空写真では,このZ地点で細短冊エリアが途絶えます。
 道がZをとっているのは公館があってそれを迂回したのか,あるいは水路がそういう経路だったせいか,どうも読み取りにくい。【T】は土地公廟なのでこの影響も考えられます。
 大漢渓からも遠いので交易の場とも思えません。そもそもなぜ町並みが大漢渓に沿わずに直線に延びていたのか,どうにも理解に苦しみます。
 平面データで粗く追ってきました。次に林論文の本文を読んでいきます。

林論文∶新荘を拓いた慈祐宮の泉州裔とその反動拠点・地蔵庵

 先に1853(咸豐3)年の械闘で板橋慈祐宮への分霊があった旨に触れましたけれど,板橋の勢力は漳州裔,新荘のは泉州・厦門裔だったらしい。

寺廟與市場間最重要的聯繫或許可以從新莊五十六城(在閩南,炭意指房子或商店)來談,這是位於慈祐宮和武聖廟之間一整排的商業建築。木筏和其他的小船把米運到下游的新莊,他們通常在慈祐宮前面卸貨,並賣給從事於兩岸貿易的商人。乾隆五十五年(1790),來自泉州和廈門的商人在新莊成立了自己的商會,其他的商業企業也隨即跟進。這些商人和地方學者與官員一樣都變成了新莊寺廟的支持者。〔後掲林富士〕※原典 陳宗仁,《從草地到街市一十八世紀新庄街的研究》,1996,頁187-191。

「新莊五十六城」という商人ギルドがあって,慈祐宮から武聖廟の間,先の図では❴中❵西半分の商業建築をまず形成していきました。これが1790(乾隆55)年頃らしい。
 慈祐宮の支持層は,これら商人のほか,地方の学者や役人でした。
 で,当時の新荘の風景についてですけど──(下線部一つ目)木筏その他の小船が米を運んで新莊に着き,彼らは通常,慈祐宮の前面に荷物を降ろし,(大漢渓又は淡水河の)両岸の貿易商人への売買を行った。──
 つまり先の❴中❵図に見た後街仔のパティオが,積み下ろし及び一次売買の場だったわけです。

簡文仁・画「18世紀末の新荘港」
 林さんは,これと地蔵庵周辺を比較しています。

相較之下,地藏庵則位於主要從事農業的小田心子和茄冬腳等地方,地藏庵最終比其他三間廟宇都還要來得更興旺,其中一個原因要歸功於它能夠吸引到地方菁英的支持,包括那些住在新莊主要街道上的人。〔後掲林富士〕

──これに対し,地藏庵は主に農業に従事する小田心子や茄冬腳などの地方(いずれも頭前の地名)に位置した。地藏庵は最終的に三間の廟となりさらに興隆していった。その原因の一つは,地方のエリート層(菁英)の支持を得て,新荘の主要街道沿いの人々を信者に加えていったことにある。──
 新来・商人層の支援する慈祐宮と旧来・農民層の支持する地蔵庵。先に見た❴後❵街仔と❴前❵頭:竹仔市の対比軸とも通じそうな二項軸です。

慈佑宮聖母香燈碑記が保証する自治権

慈佑宮聖母香燈碑記(甲)〔後掲文化部國家文化記憶庫〕

 なぜあまり記事になっていないのか不思議です。新荘慈佑宮には「慈佑宮聖母香燈碑記」という疑いの余地のない碑文があるらしい。
 ただし,上記は拓本の一つです。原物がどこにあるのか書かれたものがありません。それに拓本ですら素人には読めません。
 とにかくここには「乾隆二十九年」の文字がある。1764年,書面(→前章∶史料上の新莊慈祐宮)を除けば慈祐宮の史料初出です。林富士さんは「この文本は学術研究としては(日本)帝国晩期における台湾経済史の非常に重要なものである」と評します。

闊於慈祐宮歴史最早的資料是寫於乾隆二十九年(1764)的碑文。這個文本對於學者研究帝國晩期臺灣的経済史非常重要,其中顕示了像慈祐宮這種規模的公廟(由地方居民義務性合資〔捐款〕修建,挙行祭祀活動的廟宇)可以向渡船,養殖業者和在新荘市街上做生意的店主収取租金和税金。乾隆二十九年(1764)的碑文並包含了一個簡短的規則,聲明寺廟的租金與税金不得典當,常駐僧侶亦不得在廟前建屋居住,以及所有的金錢皆用於支付例行性的祭祀儀式。〔後掲林富士〕※原典 74)陳宗仁,〈従草地到街市―十八世紀新庄街的研究〉,頁198-200。大部分的寺廟牧取税金主要都是用於建造寺廟或儀式活動,参見 Michael Szonyi,”Local Cult, Lijia里甲,and Lineage: Religious and Social Organization in the Fuzhou Region in the Ming and Qing,” pp. I03, 118
75)佛教僧侶約自1760年閉始常駐慈祐宮,第一位住持是来自津州的志修和尚(1710-1782),参見陳宗仁,<従草地到街市ー一十八世紀新荘街的研究>。開於其他全滑寺廟中的常駐僧侶,参見王見川,〈臺灣民間信仰的研究與調査〉,収入張珣等編,〈當代臺灣本土宗教研究導論)(臺北:南天出版社,2001),頁103,118。

 この史料を疑いにくいのは,その内容が捏造的に古さを誇るものでなく,極めて簡略に財源確保策を記したものだからです。
──その(碑文の)中に顕示されているのは,慈祐宮が一定規模の公廟で(地方居民の義務的な出資(寄付)で改築され,祭祀活動をとり行う廟だった),渡船,養殖業者その他新荘市街でなりわいを営む店主からの徴収金や税金で経営されていた。1764(乾隆29)年に造られた碑文に記載されるのは一個の簡単な規則だった。すなわち寺廟の徴収金や税金を貯蓄することを許さず,常駐の僧侶が建屋に居住させもせず,もって全ての金銭を定例の祭祀儀式の経費に充てるというものである。──
 つまり,徴収金は常に宗教行為の直接経費に充てる決まりになっていたというのです。
 実質的な徴税権能に加え,その使徒を公約までしていたということは,中間過程で一定の実務力を持つ会計・財源配分機関が機能していたと想定せざるを得ない。政府とは言えなくても行政の体裁を有しています。しかも碑文によると「淡水撫民同知胡邦翰給示」とあり,この権能が淡水県知事により委任されたものとされているわけで〔後掲文化部〕,それが本当なら実質の自治体です。
 慈祐宫は,寄進された土地を大漢渓対岸の龍泉路付近(祖田里中央路4段底及龙泉路一带)に所有しています〔後掲維基百科/新庄慈祐宫/妈祖祀田〕。この寄進は1778(乾隆43)年とされており,2013年になって国(文化部)の裁定で何度目かの判決を受けてます。神田ゆえの節税目的の寄進行動だとも言われ,曰く(詳細不詳ながら)1790(乾隆55)年には18人の死者があったという。

乾隆五十五年由新庄巡检周书凤判慈祐宫胜诉,经淡水厅同知袁秉义核示,立匾标示佃田范围及佃农姓名[15]。后来,因垦民拒缴税,被亲近慈祐宫的人提报,有十八名垦民被杀,当地也因而被称为“杀人坪”[17]。〔後掲維基百科/慈裕宮〕

※※原典∶[15] 吴文良. 《新聞辭典╱媽祖田》纏訟2百年 歷史各說各話. 《联合报》. 2007
[17] 吴文良、卢礼宾. 媽祖田爭議 土地公找上媽祖婆 三百甲地屬誰 清朝問題留到現在 祖田里罵吃人夠夠 要討回祖產. 《联合报》. 2006

 総合すると,新荘エリアはある時期相当に自治区に近い状態にまで至っていた可能性があり,慈裕宮はその中心だった。ということは,外部に籍を持つ商人集団が独立の実質を持ちかけていたわけで──一昔前に原住民の土地の隅を借りて,次第にその地を我が物としていった漢族移民群ともダブル・イメージになるのです。

地蔵庵はなぜそれほど栄え,現存するのか?

 慈裕宮のパワフルさに思い至れば至るほど分からなくなるのが,この疑問です。林さんもここに着目し,3点の仮説を提示しています。

地藏庵。相對位於新莊商業中心的慈祐宮而言,地藏庵則位於市區的農業地區。地藏庵建於乾隆二十二年(1757),開始時它並不是一個官方認可的寺廟,而是新莊一個義塚的厲壇,義塚裡埋葬著無名或是無祀的人們。地藏庵直至日治時代初期才發展成為普通的廟宇,其原因有三:〔後掲林富士〕
※原典 79)有關當代臺灣斬雞頭儀式的意義,請參見Paul R. Katz/Towl Play: Chicken-beheading Rituals and
Dispute Resolution in Taiwan,” in The Minor Arts of Daily Life: Popular Culture in Taiwa小 eds.
David K. Jordan. Marc Moskowitz and Andrew Morris(Honolulu: University of Hawaii Press,
2004), pp. 35-49.

 上記後段は地蔵庵の3つの性格についてです。
──①創始段階では決して官側の認可を受けるような寺廟ではなかった。──
──②新莊のとある純粋な「義塚」的宗教施設であり,そこには無名あるいは祀られない人たちが埋葬された。──
──③日治時代の初期にようやく発展して「普通の廟宇」になった。──
 ①②は慈裕宮の公的性格を反転させたような色彩です。にも関わらず,③日帝統治下で発展し,慈裕宮に比肩するようになった。
 けれど,③日治下で「普通」になったとはどういうことでしょう?

地蔵庵主神・地藏王菩薩の祭壇〔後掲新莊地藏庵(公式HP)/認識眾神〕

※地蔵庵祭神一覧            ◆ 正殿主神:地藏王菩薩( 挾祀:道明和尚、閔公 )
◆ 正殿同祀:境主公、註生娘娘、韋馱神、伽藍神
◆ 北殿二樓:三寶佛( 釋迦牟尼佛、阿彌陀佛、藥師琉璃光佛 )、十八羅漢
◆ 南殿二樓:觀世音菩薩( 挾祀:善才、龍女 )
◆ 北殿一樓:目蓮尊者、十殿閻羅、董大爺、福德正神、開山功德廳           ◆ 南殿一樓:文武大眾老爺、文判官、武判官、增/損二將軍、謝將軍(七爺)、范將軍(八爺)、虎爺

1.頻繁に伝染病が爆発

1 .1890年代和1900年代頻繁爆發傳染病,導致了新莊地區非常多人死亡。1912年,地藏庵的信徒們遂成立了一個名為俊賢堂的神明會組織來因應這樣的危機,並且在夜晚舉行「暗訪」這個儀式。之後,每年農曆四月的最後一天,新莊都會舉行暗訪儀式;而這同時也是在為農曆五月一日大眾爺生日的遶境出巡做準備。〔後掲林富士〕

 理由の第一は,伝染病の爆発的拡大時に「暗訪」を中心とする儀礼を,神明会組織が整えていった,というもの。

日本統治期の「南無警察大菩薩」ポスター(1925(昭和元)年)。警察機能の一つに「悪疫予防」(右上)が挙げられていた。1929年施行の種痘法を初めとする感染症防止は保健・防疫・医薬警察と称する機関が執行した。〔後掲nippon.com〕

 日帝統治初期の台湾が,悪疫の波に襲われていたのは確からしい。

【ペスト】1896〜1916年頃 感染者3万,致死率80%
【コレラ】1919~1920年(華南発の船舶によると推定) 感染者3836人,致死率70.2%
〔後掲nippon.com,原典∶二二八国家記念館「特展傳染病與⼆⼆八事件」冊子〕

 1920〜45年にはこれらの伝染病は鎮静化しており,右寄りの人は日本の防疫政策の成功と語る素材になってる。ただ日本総督府の行政努力が相当にこの分野に注がれたのは否定しにくい。
 地蔵庵の暗訪儀礼の勃興が,この時代に重なっているのは,直接の協力関係があったとは思えないけれど,清代とは転換された日本主導の防疫戦とイメージ的なリンクがあったことが想像されます。

地蔵庵正面の祈りの光景〔GM.〕

2.台湾版電通の儀式工作

 新荘ローカルの成語に「新莊有三熱 火燒厝 拔龍船 五月初一」──新莊には3つの賑わいごとがある,火燒厝,拔龍船,五月初一〔訳∶後掲RIE〕──というのがあり,最後の「五月初一」が文武大眾爺祭典に当たります。
 林富士さんが指摘するのは,近代の新荘地蔵庵の「儀式工作」(儀式の企画・運営)が巧みだった点です。

(上)「新莊大拜拜」文武大眾爺祭典の光景〔後掲新莊地藏庵(公式)〕 (下)同祭での巡回経路〔後掲RIE〕

2 .新莊地方菁英和其他不住在新莊的人,例如辜顯榮(1866-1937),對地藏庵擴大支持。兩個不同的地方菁英組織藉由「儀式工作的分工」 來負責管理廟宇及其慶典,寺廟的委員會負責日常管理和定期維護,俊賢堂則負責暗訪和例行的遶境活動。這樣的分工在19、20世紀的臺灣相當普遍,特別是像大甲媽祖到北港(後來是新港)進香這樣大規模的活動,和三年一次的東港燒王船的儀式。這些儀式之所以能夠成功的舉行,也歸功於官將首和法師等專業人士的參與。〔後掲林〕

──新荘地方のエリート層(菁英)やその他新荘に住まない人々,例えば辜顯榮(1866-1937)などが,地藏庵に絶大な支持を寄せた。二つの異なる地方エリート組織が構成され,「儀式工作的分工」が廟宇とその他の祝い事(慶典)の管理を行い,寺廟の委員会が日常の管理と定期の維持修繕を担った。俊賢堂は暗訪とその他定例の巡行(遶境活動)を担った。──
 後半は大甲媽,鹿港や東港などの大規模遶境活動の「演出」に成功した事例との比較です。これらの演出を仕掛けた層(菁英)の中核に「分工」的なグループ(現代日本で言うと大手広告会社のような企画屋)があったというのです。
 実は,勉強不足で最初この文章を読んでも何のことやらピンと来ませんでした。周知の方にはご容赦頂いて,辜顕栄という人と俊賢堂という組織を勉強しながら読み進ませて下さい。

日帝御用紳士・辜顕栄が奔る

辜顕栄(1866(同治5)年-1937(昭和12)年)画像〔辜顕栄翁伝記編纂会「辜顕栄翁伝」〕

 辜顯榮。
 日本語読み∶こけんえい,ピンイン∶Gu1Xian3rong2。字∶耀星。日本統治代台湾の実業家・政治家。台湾彰化県鹿港出身。贈従五位。後藤新平と知己。1937年に東京で死去。
 しばしば注目されるのは,辜顯栄の「御用商人」,つまり日本統治の「手先」という性格づけです。

辜顯栄は領台当初、日本軍を道案内した人物で、治安が悪化し、混乱を極める台北に日本軍を導いたことで知られる。〔後掲片倉〕

 辜顯栄の前半生は謎が多いけれど,日清戦争段階では清軍に軍需物資を供給したともされ〔後掲wiki,原典∶静思『辜顕栄翁伝奇』前衛出版社,1999年。南洋大臣張之洞と石炭売買契約〕,何を契機にこれほど急激に立場を転換させたのかは不明です。

辜氏は日本植民当局と親しくし、協力的だったので、政府から塩、阿片などの専売特許を受け、巨富を築きました。台湾総督府評議員などの政治職にも任じられて、日本統治時代に大きな影響力を持ちました。〔後掲みんなの台湾修学旅行ナビ〕

 台湾親日派としては第一人者と言っていいようです。貴族院の朝鮮勅選議員・台湾勅選議員枠は1945年に10名になっています〔後掲Japanese Wiki Corpus〕が,朝鮮懐柔策だったのか台湾からの選出は3名に留まる(許丙,緑野竹二郎及び林献堂)。ただしそれ以前に,辜顯栄は台湾からの唯一の勅選議員として選ばれています(朝鮮からは2名∶尹徳栄子爵,朴泳孝侯爵(ともに朝鮮貴族))

1934(昭和9)年には台湾人としては初めての勅撰貴族院議員にもなっている。台湾中部の鹿港出身で、辜家と言えば、台湾人なら知らない人はいないという名家である。(略)辜顕栄は台湾統治の功労者として特権を与えられ、財をなした。台湾の歴史を調べていく上では欠かすことができない人物である。〔後掲片倉〕

「特権」というのは,1896年に日本統治側から許可された樟脳の製造・販売権,さらに後の塩田開設やアヘン・タバコ販売の権利などだという。これにより,新興台湾土着資本家として興隆,台湾五大資産家に名を連ねます。
 その子・辜振甫や辜寛敏に残された財産は,辜顕栄が前記特権による蓄財を1900年以降に投資して行った開墾事業による土地不動産で,これは台中・二林や鹿港,屏東などの広大なものでした。 

1920年代に、台湾島人による台湾議会設置請願運動が盛んになると、辜顕栄は台湾公益会を設立し、植民地自治を求めて台湾議会設立運動を推進する台湾文化協会に対抗した[14]。この際、当時の台湾総督府警務局長から、公益会の設立と引き換えに辜の債務を軽減する働きかけをすると持ちかけられた、とも伝わる[15][16]。〔後掲wiki/辜顕栄〕

※原典 [14]涂照彦『日本帝国主義下の台湾』東京大学出版会、1975年。432頁。
[15]許世楷『日本統治下の台湾 抵抗と弾圧』東京大学出版会、1972年。221-222頁
[16]辜自身は議会の設置自体には反対していなかったものの、設置請願書には、総督と議会との関係、議会の対象範囲、議員選挙法などが明確にされておらず、それらの不備を理由に反対に回ったとする見方もある。野口真廣『台湾人から見た台湾総督府――適応から改革へ向かう台湾人の政治運動について』2007年1月、5-6頁。

台湾五大家族※の本拠地〔後掲台湾経済〕
※基隆の顏家,板橋の林家,霧峰の林家,鹿港の辜家,高雄の陳家

 もちろん後代の国民党政府の史観では日本協力者として批判され,「御用商人」視されている訳で,単純に歴史を捉えようとするならその部分のバイアスを除去しなくてはいけません。要するに清→日本の統治者交代をその当初から利ありと見て,露骨にアピールし,蓄財に成功したクレバーな新興財閥だったわけです。
 さてこの辜顕栄が大稲埕を拠点(巻末補論参照)に淡水河系交易路を独占していく過程で,新荘の台北最古の経済勢力群と対峙することになったと推定します。この旧勢力群は慈祐宮を拠点に歴史ある半独立状態を有している。これへ対抗するなら,さらに古くからの新荘土着勢力たる地蔵庵及びその檀徒の農民層と連携するのが得策,という計算は辜顕栄のクールな政経感覚からすると当然だったのではないでしょうか。
 さらに背後のパトロンたる日本統治サイドからしても,最古の移民地・新荘のディープな漢族組織は台北統治の安全上,どうしても切り崩したい標的だったでしょう。
 地蔵庵はこうした時勢の追い風を受けて,かつての闇の領域から日帝統治代に一気に「普通」の,つまり現世のパワーに転換したのです。
 なお,辜一族が光復後は「御用商人」=日本協力者として抑圧された,かというとそうではないらしい。

戦後も、息子の辜振甫が台湾大手金融機関の「中国信託」を創設して経営するなど、辜家は影響力を持ち続けました。〔後掲みんなの台湾修学旅行ナビ〕

対外行動専門集団・俊賢堂

 では林富士さんが暗訪その他定の巡行,械闘はなやかなりし時代には多分に対外実力行使となったであろう分野の専門企画・運営組織と紹介する俊賢堂とは何でしょう?
 狭義には土地公の宮らしい。台灣好廟網によると,清道光年間に中港区所に田頭田尾土地公を祀ったのに始まる宮だけれど,1989(民国78)年に「不肖賭徒抱走神尊,只留下空廟」──不肖の賭徒(道楽者?奇行者?)が神尊(神像?)を抱きかかえて逃げたので,ただの空の廟になってしまった──とある謎の小廟です〔後掲台灣好廟網/俊賢宮〕。
 調べると,何と公式HPらしいものと文化部「新莊地藏庵文武大眾爺祭典」記事内の記述がありました。逆にそれ以外にはないのが不気味ですけど……他に材料がない。バイアス(さらに巻末補論参照)を承知で読んでみます。

俊賢堂成立於日大正元年(西元一九一二年),由杜逢時等人發起,當時在大稻埕、艋舺等地的迎神賽會極為興盛,新莊人本著「輸人不輸陣」的心理,由新庄街、中港厝庄、頭前庄三個角頭的頭人(仕紳)共議,以文武大眾爺為主神,發起農曆四月三十日的「暗訪」與農曆五月初一的遶境(新莊大拜拜)活動,並組成「俊賢堂」來負責整個活動的事宜。〔後掲俊賢堂的歷史〕

──俊賢堂は日・1912(大正元)年に杜逢時(人名∶別レポ参照)らが発起し成立した。当時,大稻埕・艋舺などでは神を奉ずる巡行(賽會※)が極めて興盛しており,新莊人が元来持つ「輸人不輸陣」(≒移民は容れるが他勢力(陣)は容れない)心理に基づき,新庄街・中港厝庄・頭前庄の三エリアの親分衆(角頭的頭人(仕紳))が協議し,文武大眾爺をもって主神となし,農暦四月三十日の「暗訪」と同五月初一の巡行(遶境(新莊大拜拜))の活動を発起し,その活動全般の責任を負う業務を行うために「俊賢堂」を組織した。──
※迎神賽會∶儀仗・楽隊で神を迎えて町を練り歩くこと。∴≒巡行
「輸人不輸陣」の信念で地元の,本来分立していた 角頭(自治勢力の長。しばしば黒社会的傾向を持つ。)が大同団結した経緯は分かりません。ただ,辜顯栄の参画のタイミングから考えると,こういう形で日本統治側が黒社会の再編を企図した可能性はあります。
 最後に俊賢堂の当初組織に触れた一文です。結成時の角頭,新庄街・中港厝庄・頭前庄の3地域がそのまま受け継がれて「組」に改組されたらしいのですが──

昔日的俊賢堂共有三組陣頭:第一組是化成路,第二組是中港路,新莊街則是第三組。這些陣頭裡的成員也多以自己的居住地為主而組成該地區的陣頭,因此,中港俊賢堂的子弟就多來自中港地區,現在它成為新莊地區碩果僅存的一個陣頭。〔後掲俊賢堂的歷史〕

 含みのある表現です。「碩果僅存」は大きな実が僅かに残る,転じて淘汰を経て残った貴重なもの,という意味で,それが二組・中港についてだけ使われています。緩い連合だった俊賢堂が最終的に中港勢の支配に服したということなのか,単に一組・三組の自壊を意味するのか判別しにくい。
 何より不明瞭なのは,ならば,現在の地蔵庵の祭事運営が現在なおも実質的に中港俊賢堂が行っているのかですけど……この点は流石に確認を取りようがありません。
 後掲俊賢堂的歷史HPの末尾は次のような苦しい現状を訴えて終わっています(50〜60歳代がほとんどで新規加入者(新芽)がない)。役所向けのポーズなのかもしれませんが……これを信じるなら,現在の企画運営をどういう集団が担っているのでしょう?

目前,俊賢堂也為了缺乏新血的注入而憂心忡忡,成員中的年齡以五、六十歲的老年人居多,而三、四十歲者只有三、四人。
眼見老葉凋零,新芽不發(略)〔後掲俊賢堂的歷史〕

 ただ,少なくとも興隆期の中心企画だった巡行を支えた,ややきな臭い専門組織が存在したこと,その背後に「御用商人」ひいては日帝統治側の影がちらつき,それが地蔵庵の近年の躍進の追い風になった可能性は否定できないのです。

正面祭壇左端の龍柱から繋がってるような髭の神様〔GM.〕

3.死者,カミ,あるいは生者との和解

 第3点として書かれていることは,事実としては分かるけれど理解し難い。とにかく,日治時期から紛争解決の儀式が地蔵庵で行われるようになった,というのです。

3 .用以安撫死者和解決生者間衝突的儀式經常在地藏庵舉行,這些儀式從日治時期開始,至今則變得非常普遍。除暗訪和普度外,在地藏庵最常舉行的儀式包括用來改變生者未來的改運或祭解、解決死者和生者甚至是生者間的爭執的上訴狀儀式。此外,在日治時期和戰後初期,信徒若與人發生爭執,也會到地藏庵前立誓、斬雞頭,不過時至今日,廟方已不再允許這樣的儀式在廟内舉行。有許多專業人士,包括道士、法師、乩童和筆生都受雇於廟方來負責舉行這些儀式。〔後掲林富士〕※下線は引用者

 後の方の下線に出る「斬雞頭」は「毒誓」のうち最も主要なものの一つらしい。
「毒誓」は,もし破ったら失命する誓い。
 神前で誓いを書いた黃紙を供え,声高からに吟誦した後,廟內の執事が準備した菜刀で雄雞一羽の頭を一刀のもとに斬り捨てる。その雞血をたらした「毒誓」の黃紙を焼く,という儀式です〔後掲維基/斬雞頭〕。

桃園錫福宮で「斬鷄頭」を待つ3羽の公鷄〔後掲自由時報〕

 誓いを立てるのは,相互に約定した複数の人のこともあれば,神と生者のこともある。例えば疑獄事件などの際に,政治家が身の潔白を明かす事もあるそうです。時には,死者と生者の約定のケースも。
──(後半∶前半のほか)日治時期と戦後初期には,若い信徒の争いごとの際,地藏庵の前で誓いを立てる「斬雞頭」が行われ,それは今日まで続く。廟の側はもうこのような儀式の廟内での挙行を許可しないが,廟側に免責された道士・法師・乩童(憑依した子供)・筆生(記録者)を含む多数の専業業者がこうした儀式の挙行を請負う。──
 なぜ日本統治以降なのかは分からない。地蔵庵自体が権威づけられたのがその時代だからなのか,日本時代に不安や利害関係が増したからなのか。
 前半はさらに不明瞭です。
──死者の安撫,さらに生者間の衝突を解決する儀式がしばしば地藏庵で挙行された。こうした儀式は日治時期に開始され,今でも非常に普遍的である。暗訪や普度以外にも,地藏庵で最も頻繁に行われるのは生者の未来を変え,運を開き,あるいは「祭解」し,死者と生者の,または生者の間の争いを訴える儀式が行われる。──
 こうなると,部外者にはそれがどういう儀式なのか見当がつきません。とにかく地蔵庵は様々な闇の儀式が行われる場所らしい,というほどしか理解できません。
 という訳で,ストンと飲み込める消化の良い理由では,どれも全然ないのです。
 ただこう見ていくと,台北最古の漢族開拓地・新荘において,台湾人のドロドロした観念の部分が近代・地蔵庵に結晶化したという手触りはハッキリと感じ取れます。
 慈祐宮の公・光の性格に対する地蔵庵の非公・闇の領分の豊かさ。宗教観念的にはこの両者が混交した場所に,慈祐宮の媽祖は怖ろしくも微笑んでいる──というのが台湾の原風景のように感じられるのです。

■補論:ボーリング調査2件

 以上の文脈の中で幾つか出てきたポイントを,2箇所ほど古地図を使わせて頂き掘って補論としていきたいと思います。

地点1=辜家塩館(大同区歸綏街303巷9号)

※同地→GM.∶地点
 新荘地蔵庵興隆のフィクサーだったかもしれない「御用商人」辜顕栄の邸宅・辜家塩館が,大稲埕に残っています(現・榮星幼稚園→GM.∶地点)。

この建物では、かつて当時の専売品であった塩が取引されていたことから、「塩館」と呼ばれていました。この立派な建物が淡水河に面して建てられていたため、船は直接邸宅前の岸につけることができました。かつて河を使って数々の物資が、このあたりの貿易商で取引されていたことがうかがえます。〔後掲TaipeiTravel〕

 何でもないタッチで書いてあるけれど……専売品たる塩の荷揚げをする施設で,かつ私人の家屋に直接接岸?
 日露戦争(1904~1905(明治37~38)年)後,日本が中国から関東州を租借すると,台湾には関東塩が安価で輸入されます〔後掲林敏容〕※原典∶小澤利雄『近代日本塩業史: 塩専売制度下の日本塩業』、大明堂 、2000年9月、122頁
 辜顕栄は故郷・鹿港沿海(具体の開設許可は油車港塩田)の塩田開設計画を提出,1900(明治33)年に当時の児玉源太郎総督※※から同氏を官塩売捌組合長とする塩田開発許可を得ています。けれどもこの塩田の生産は延び悩み,二年後に廃止されています〔後掲林敏容〕※原典∶『辜顕栄伝』(1939年刊本、辜顕栄翁伝記編纂会)、成文出版社、2010年6月、91~92頁。 盧嘉興「鹿港塩灘興衰史略(二)」、『塩業通訊』第一三九期、財政部塩務総局台湾製塩廠、1963 年3月25日、23頁。
※※第四代総督。なお,辜顯栄が終生知己だった後藤新平は,児玉総督時の民政長官。

 つまり,辜家塩館に接岸し荷揚げした船は,大陸から来た可能性が強い。日本当局が辜顯栄に付与した塩の専売権(→前掲引用)とは,税関機能を通さずに直接の対外貿易を行えるほどの包括的権限だったのでしょうか?

1895年台北・大稲埕・艋舺略図〔後掲台湾歴史地図〕

 1895年の同地の位置です。何もない淡水河畔です。
 ただ,台湾歴史地図搭載の最古の地図で,位置がややズレている可能性がある。一つ東の区画を見ると──
上記東側部分・1895年台北・大稲埕・艋舺略図〔後掲台湾歴史地図〕

 中央右手(東側)の逆L字に注目したい。次の地図と見比べると,この地点の東奥が辜家塩館だった蓋然性が高いと考えます。
 1895年地図を信じるなら,この時代にはまだ豪邸があるだけだったと思われます。けれど──
1903年最新実測台北全図〔後掲台湾歴史地図〕

 1903年地図には,はっきりと河沿いの構造的区画が描かれています。
 辜顯栄が塩業専売権を得て大陸からの塩の荷揚げを大規模に行ったと考えられるこの頃の構造だと考えると,ここは私有港湾だったと想定していいと思います。
 しかも南北が細い路地以外は遮断されています。東西の道があるのが自然に見えるのに。
1928年大日本職業別明細図第156号台北市〔後掲台湾歴史地図〕※この地図のみ辜家塩館位置を中央にズラした。

 1928年地図は現在で言う住宅地図に近い形式です。
 陳・林両筆の間,辜家塩館位置(と思われる位置)だけが空白です。
 また,その西に「港」という文字が見えます。これは一見「○○港」という記述の一文字のようですけど,拡大してどう探してもそう読める続きの文字はありません。ただ「港」と書いてある。
同広域・1928年大日本職業別明細図第156号台北市〔後掲台湾歴史地図〕

 従って,1928年段階では外部からもここに船が頻繁に入るので「港」であるとは書かざるをえなかったけれど,誰の何の港かは記したくなかった,あるいは言ってはならないことになっていた,という可能性があるのです。
 けれど,次の1945年地図では,辜家からは細い道が河畔に延びるだけで,河堤側も港湾には見えません。小さな出っ張りがあるので港湾の痕跡のように見えますけど……。
1945年米軍航空写真〔後掲台湾歴史地図〕

 これを各地図の記載を信じて総括するなら,1928〜1945年の間に辜顯栄私有港は概ね撤去されたと考えられるのです。
 一代で台湾屈指の財閥を築いた辜顯栄が,おそらく日本側からの半ば「治外法権」エリアとして有した港湾では一体どんな交易が営まれたのでしょうか?
辜顕栄一族所有及び投資企業(1930年) 〔後掲林敏容〕
※原典 林富士が,史明『台湾人四百年史』(漢文版)、蓬島文化、1980年9月、318頁から引用。
※※1935年創業の国策会社「台湾合同鳳梨」は,これを逃れて石垣島に拠点を移した林発らと争った経済勢力(名護編/1935年の台湾パイン産業再編 参照)

地点2=中港俊賢堂(新莊区中港里1鄰中港路483巷8号)

※住所は後掲廟宇通記載のもの。→GM.∶地点
 こちらは新荘地蔵庵の対外行動専門集団の拠点だった中港俊賢堂の,宮としての所在地です。
 この宮は道光年間(道光(1821-1850年)に中港区所(役所?)に祀られた田頭田尾土地公が初めと言います(現・主神は福德正神)。先述のように1989(民国78)年に神像が盗まれてから,現在の宮のように鉄筋コンクリの構造下に窮屈に収まってます〔後掲廟宇通〕。
 なお,1992(民国81)年には正式名を「新莊中港厝俊賮宮」としています。1999(民国88)年には「廟側購屋作為文教會館辦理廟務及提供里民文藝教育」,つまり附属学校のような活動を始めており,これとの関連で「賢」字に置き換えたのかもしれません。

現在の中港俊賢堂〔後掲廟宇通〕
 この地点だけを頼りに,やや無謀ながら以下古地図を見ていきます。
 まず1904年の地図ですけど──
日治二萬分之一台灣堡圖(1904年),透明度20%〔後掲台湾百年歴史地図〕

 完全に何も書かれてません。集落も,道すらもない。
 中港厝尾という集落と厝頭(斜線部)との間の野原,という立地です。1912年の「俊賢堂」組織創設までの祠は,日本の野の地蔵のようなものだったと推測されます。前述のように建物名にすら統一がなかったとすれば,「俊賢堂」組織の方が先行した可能性すら疑えます。
 日本でこの位置にある祠は,間違いなく境界神でしょう。
 それと,この野原を少し広域で見てみますと──
地蔵庵〜中港俊賢堂付近広域∶日治二萬分之一台灣堡圖(1904年),透明度50%〔後掲台湾百年歴史地図〕

 地蔵庵地点を経由して,河跡がはっきりと浮かびます。別にGoogle街景涵蓋圖(おそらく高低差を強調した図)で見てもこの河筋は明確に出ます。
中港俊賢堂周辺広域図〔後掲台湾百年歴史地図/Google街景涵蓋圖〕
 
 大漢渓には少し下流に疏洪芦堤と呼ばれる河跡(二重・三重沿線→關渡西で淡水河に合流)がありますけど,この上流に同様に北側へショートカットする河筋が存在した蓋然性が強い。そうなると,中港の位置も新荘(前頭)に比肩する交易港たりえたわけですけど……それにしては物証がありません。
臺灣五萬分一地形圖(1956),透明度40%〔後掲台湾百年歴史地図〕

 さて上図は1956年です。やはり集落らしきマーク(■)はないけれど,この位置に東西の道が出来ています。しかも東へ結ぶ道は南北に乏しく,ある程度重要な道に見えるのですけど──なぜこの位置なのでしょうか?
 この13年後,1969年の航空写真が下図です。この画像にははっきりと俊賢堂らしき建物が写っています。1956年図には何かの理由でドットを打たなかっただけでしょうか,それともこの13年の間に建物が建った(改修された)と素直に解するべきでしょうか?
Corona衛星影像(1969),透明度25%〔後掲台湾百年歴史地図〕

 総合して言うと,まず俊賢堂の位置には,祠程度のものはあったにせよ,ごく最近,1960年代頃までは地図に記されるような建物らしきものはなかったと考えられます。
 それなのに,地蔵庵の対外行動部隊の精神的支柱になってきた。なぜか?
 この位置は「大排親水」と書かれる大漢渓故道の屈曲点の北に当たっています。それが何らかの霊的な,あるいは風水的な優越と捉えた集団があったのではないでしょうか。
 あるいはもっと現実的に──故道が生きた河だった時代に,現実の船着場だったことがあるのではないでしょうか。
 水の絶えた河の沿線に今でも集落が並ぶ情景は,過去のそうした栄華を引きずるもののように想像されるのです。

■補論2:俊賢堂に関わる未確認情報群

 その他,俊賢堂については分からない点が多すぎます。上記レポでは到底焦点を結ばなかった諸点を,以下列記しておきます。

俊賢堂組織に先立つ地蔵庵祭事

 後掲国家文化部は,俊賢堂が通説としている1912年の自組織設立と同時に巡行が始まったとする主張を,下記の日本側史料に基づき,後者(巡行)の方が先行したとしています。

明治四十三年舊五月一日之大祭節,以百數十圓於福州新購入大、小之人形物,加入祭典日行列為餘興,人在其內舞動行進,有數十人結會,並於祭典時募集資金支應。〔後掲文化部文化資產局/新莊地藏庵文武大眾爺祭典〕

※題名から日本語文献のはずだが,原文未入手。 原典∶臺北庁庄寺廟宇関スル調査(制作責任者・年代等属性不詳)中,辜顯榮致贈地藏庵之范謝將軍老祖的記實
 つまり遅くとも,堂設立に二年先立つ1910(明治43)年には,「五月一日之大祭節」が挙行されています。
 また,この時の祭事に用いたらしい「大,小之人形物」は百数十円で福州から新たに購入したとされます。一応現在価格に換算すると57万円になります〔後掲man@bowまなぼう 「明治30年頃の物価と、今の物価を比べると、今の物価は当時の3800倍」〕。「有數十人結會」──数十人が会盟を結び祭事を立ち上げたとするなら,各自ざっと一万円ずつを負担した計算になります。同時代の日本の神社の寄進額と比べると,この宮子衆がいかに裕福だったかの想像がつきます。
 ただ,それならばなぜ,どういう契機で,黒社会的と思われる俊賢堂に祭事運営の実権が移るに至ったのか,という謎については考える材料がないのです。

杜逢時 行書《小雪》

俊賢堂発起人「杜逢時」とは誰か?

 俊賢堂の発起人として伝えられる杜逢時は,書道の大家。当時の台湾三筆の一人に数えられます〔後掲松篁収蔵品。三筆∶杜逢時・洪以南・許鈞〕。
 1865年頃生,1913年没(後掲隨意窩∶1922年没)。台北人。字∶子書,号∶蘭舟〔後掲宇珍國際藝術〕。(淡水)新莊の出身で,1895年の甲午戦争(台湾民主国独立戦争)時に台北師範学校の習字教師だったとも伝わる〔後掲隨意窩〕。
 子の杜清傑(生没年不詳)は本章の主題・慈祐宮と地蔵庵にそれぞれ対聯を書いています〔後掲隨意窩〕。
(慈祐宮)
慈昭聖德物阜民康
祐著神庥波平浪靜
(地蔵庵)※「匡之直之」扁額のほか
執掌持珠昭靈台司地府
度冥救世了佛願體天心
※同時期に,民国政府海軍の軍人で,「登瀛洲」運艦管帯(≒軍艦艦長,1909〜1911年),北京政府參謀本部第七(海軍)局科長(1912年1月〜)だった「杜逢時」があるが,経歴上,台湾に全く関わりがないため同姓同名の大陸人と推測する〔後掲百度百科/杜逢時〕。
 ただ,この人も新荘との関わりをこれ以上追えません。

俊賢堂発起人に行商人と餅屋

 では結局,地蔵庵の文武大眾老爺聖誕祭なる謎の祭を立ち上げたのはどういう人々なのでしょう?
 国家文化部は,その主要メンバーを列挙しています。

而大正元年(1912)地方士紳為了擴大文武大眾老爺聖誕祭典遶境之需求,成立俊賢堂,主要發起人有張長懋、張角、杜逢時、李登國、洪其山、陳火寅等二十餘人。〔後掲文化部〕

 前述の杜逢時のほか,張長懋,張角,李登國,洪其山及び陳火寅。
 後掲林富士は次の表を自前で整理しており,文化部の発起人とも合致(文化部が後掲林富士を引用していると予想される)します。よって,俊賢堂HPはこれらの具体的人名を出さない目的で,名目上の名義人として杜逢時を掲げたものと想像されます。

日本統治代の新荘地方エリート層に係る個人別の地蔵庵/俊賢堂との関係一覧(日治時期新荘地方菁英與地蔵庵/俊賢堂的関係)〔後掲林富士〕

 張長懋∶塩商
 張角 ∶飲食物行商
 李登國∶木材商
 洪其山∶餅製造
 陳火寅∶米篩(ふるい)製造
 全く普通の,おそらく土着の市井の人々で業種もばらばら。それぞれの分野の親玉格なのでしょうか。
 とすると,少なくとも創始時の俊賢堂は「利益代表会議+地域おこしNPO」のような団体だったことになります。それか外部との実力闘争を求められるに至って黒社会化したのでしょうか?

俊賢堂下部組織・「結」と「撿緣錢」財源

 先に新庄街・中港厝庄・頭前庄の三地区代表が協議して俊賢堂を結成した(「由新庄街、中港厝庄、頭前庄三個角頭的頭人(仕紳)共議」→全文)との由来を紹介しましたが,文化部の書く俊賢堂の下部組織は全く別の構成になっています。

俊賢堂成立初期以「十二結」為組織,分別為「天、地、日、月、山、川、河、嶽、風、與、雷、電」字號,各結選出爐主負責該年度遶境「撿緣錢」之責任。此十二結中新莊街內佔十結,中港厝為「電」字號,頭前庄為「嶽」字號,此組織持續運作至約民國六十三年分區遶境後,才打破各結之組織。〔後掲文化部〕

──俊賢堂は初期には「十二結」をもってその組織を成立させたが,それは「天、地、日、月、山、川、河、嶽、風、與、雷、電」字の各号に分かれていた。各「結」は爐主を選出し,その年度の巡行の「撿緣錢」の責任を負った。この十二結は中新莊街にあったものが十結を占め,中港厝は「電」字号,頭前庄は「嶽」字号だった。──
「結」というと,日本語の「ユイ」,沖縄などでは立派に機能してる風習を思い出すけれど,自治会と考えると似ているのかもしれません。
 けれど,そのほとんどが商業地・中新莊街にあったということになると……商業ギルドのようなものも想定できます。
「撿緣錢」の「撿」は「(落ちている物などを)拾う」,「縁銭」は慶事などに用いる古銭です。隠語なのだと思うけれど……広く「募金」のような意味でしょうか?

台湾系のネット上の「縁銭」

──この組織(「結」)は1974(民国63)年の「分區遶境」まで持続して運営された後,ついに各結の組織は「打破」(解散?瓦解?)した。──
 1974年の出来事を調べても「分區遶境」の背景と思われる事象を,どうしても見つけられません。とにかく50年前頃までは「結」は存在し,(それが元で「打破」したというのだから)巡行の主体だった,と文化部は書きます。
 けれど,だとすると巡行を運営していたのは対外行動部隊・俊賢堂だとする中城俊賢堂の記述とは,ニュアンスが異なってきます。先の文化部の記述だと,巡行の運営は結の持ち回りだったというのですから。──それとも,中城俊賢堂の支配的時代と持ち回り時代とが段階的に訪れたのでしょうか?

(続)臺灣光復後則改由各里里長收取緣錢,而遶境費用支出即以該年度向各家戶所收取之緣錢張羅遶境事宜,民國九十年起改由地藏庵補助費用予各組俊賢堂,結束為期九十餘年撿緣錢之慣習。〔後掲文化部〕

 さて最後の段がまた難解です。
──臺灣光復(≒独立≒中華民国首都時代)の後,則ち改めて各里の里長は緣錢を徴収し,而して巡行の費用を支出した。その年度(結の「打破」後?)から各家・各戸からの緣錢の徴収の手筈を整え,2001(民国90)年から改めて地藏庵から各組俊賢堂へ補助費用が支払われた。90年余の「撿緣錢」の慣習(を維持すること)のために結束した。──
 このように新「撿緣錢」の支払い先として「各組俊賢堂」が機能しているのならば,かつての結に近いものが地蔵庵の「紐付き」で復活しているとも言えます。ただ,「各組俊賢堂」の現在の状況と,彼らがこの「補助金」財源で何をしているのかが全く分からない。
……といった具合で,断片的情報しか蓄積されていきません。俊賢堂組織が集権的なのか各里の連合体なのかすら不明瞭なのです。
 媽祖が代表する正史に明記される光の陽神に対する,闇の隠神を祀る台湾。

<神>/<祖先>/<鬼>対比イメージ〔後掲三尾裕子「王爺信仰の歴史民族誌-台湾漢人の民間信仰の動態」東京大学,2004,資料編表13 先行研究に見る<神>/<祖先>/<鬼>〕

文武大衆爺∶平時・戦時の数多の祖霊

──明清二王朝代の閩粵(福建・厦門)からの移民が台湾に渡り荒地を拓くに際し,多くの単身者が,寄る辺もなく(舉目無親∶成語),水路(の工事現場)に死に,穴を掘って葬られもしない。風吹き雨打つ中に,露に倒れて屍や骨となって久しい。(※迄)──
 文武大眾爺の神様としての性格を,最後に確認しておきます。

緣由明清二付閩粵移民渡台拓荒,多單身隻影,舉目無親、死於溝壑,無人孜葬,`風吹雨打,日久屍骨敻露※,部份善士收埋枯骨,又恐其戎鬼魅作祟,乃建祠祀之,俗禒「大眾爺」,一般大眾爺又分文武,文為貧病屍骨,武為械鬥或戰爭亡魂,合禒文武大眾爺,屬於陰神,具有支配其他鬼魂,孚護地方,被比喻為陰間的警察局,凡有疑難雜症者皆可向大眾爺祈求,趨卲避兇。〔後掲台灣好廟網/蘆洲市文武大眾爺廟 ※は引用者〕

蘆洲市文武大眾爺廟の名称記述
──(※以降)一部の善人が朽ちた骨を埋葬し,その怨霊が祟らないよう,祠を建てこれを祀った。それを俗に「大衆爺(大眾爺)」という。一般に大眾爺は文と武に分かれる。文は貧しさや病いに倒れた屍の骨,武は械鬥(部族間武力闘争)や戦争で亡くなった魂を祀り,その総称を文武大眾爺という。陰神に属し,その他の鬼(幽霊)の魂をも支配する。その地方を守るので,陰間(闇世界?)の警察局に例えられる。おおよそ不治の病が疑われる者は皆,大眾爺を祈求すべし,不吉を避け吉を呼ぶだろう。──
 神の由来はまるで分からない。でもとにかく,平時・戦時を問わず野に倒れた全ての「行き倒れ」を祀る社です。そのような姿が記憶されるほどの過去に幾多あったであろう台湾で,この神が特に新荘,それから続いて訪れる蘆洲にあるのです。
 一見不思議に見えますけど……台北始まりの地には,台北で最も怨念が積もってる。割と当然の事象なのかもしれない,と考えるようになりました。
蘆洲文武大眾爺廟の祭壇脇〔後掲森〕

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