009-3金田城(帰)\対馬\長崎県

目録

ふらっと寄っただけなんで許して!

?ここで家族連れとすれ違いました。
 声掛けしてみると,二ノ城戸まではやはりこの道だという。海側のルートはキツいから,山側を通って来られたらしく,つまりそれならファミリーでピクニックするルートなわけで……それなら帰れんじゃろ!
 ええい,どうなとなれ!!1244,二ノ城戸へ!!

(再掲)金田城攻略マップ!! ──だからふらっと寄っただけなんで,許してくれえ。。。
ビングシ山および周辺地形図①〔後掲長崎県美津島町教委「金田城跡」2000〕

ングシ山,1249。東屋あり。すぐビングシ土塁・門跡。
──とは案内板が出てるけど……単なるちょっとした尾根にしか見えない。
 道は良さそう。二ノ城戸へと下る。
ビングシ山および周辺地形図②〔後掲長崎県美津島町教委「金田城跡」2000〕
▲1258ピングシ土塁
と難なく着きました。1303,二ノ城戸。
 観光用の構造物と,古代からあったものとが判別しにくいけれど──

城戸と砂防ダムと密林と

▲1305二ノ城戸
戸」地名は口承されてきたものっぽいけれど,その中では海への谷を塞いだ風体がもっとも濃い位置です。現代であれば砂防ダムと推測してしまうような……。

等高線入り金田城一〜三ノ城戸付近地図〔後掲お城散歩〕※正確な位置ではなく「お城」作者の推測によるプロット

垣あり。野面積みと言い切るには整形が行き届いた岩で,本当にこれが古代からのものなのか,現代の補修によるものなのか,よく分からない。
……何となく,きっちり調べ尽くしてから観光化した方がいい気もするけど,この面積だから深部まで調査しきりにくいのでしょう。
▲1305二ノ城戸壁面
どなくして一ノ城戸。二ノ城戸からは尾根をとことこと上がっただけに見えます。
 何かがドカンとある,というのではないんですけど,ここは確かに石垣や人工物としか見えない地形が目につきます。後世,この位置が,とにもかくにも「一ノ城戸」と特記されて伝わったのは納得できます。

残念だけど千数百年前のなら

▲一ノ城戸案内板のマップ

ノ城戸案内板。1309。
 南側の出っ張りには望楼があったと見られている──とある。湾への突出部の,湾口から見た影に当たりますからそういう位置でしょう。
▲1311一ノ城戸の石垣

この石垣は,古代城のもの,と言われても,なるほど説得力があります。
 戦国の石垣をイメージしてると残念な感じに取れなくもない土と樹にまみれた景色だけれど,千数百年前のならこうなっていて当然でしょう。

▲1313一ノ城戸の石垣

もくっきりと,ある意味で地味に石垣が続いてたのは一ノ……と二ノ……の間の小径でした。海側に延々と伸びてます。この道が二つの砦の連絡路であった,その否定し難い物証を,実にさりげなく突きつけられます。
▲1317一ノ……と二ノ……の間の道の石垣道

原生林の一本道をゆっくりゆっくり下ってく

度こそ引き返す。
 石垣連なる気持ちのいい小道へ。でも膝は小刻みにガクガク来てて……自転車と山歩きのセットは,ヘタレてる身体には結構キます。
 1329,休憩所三叉路。今度は迷わず下への道へ。これで南門に着くはずだけど……。
▲南門の案内板

K!!1335,南門。
 礎石に水抜の溝が掘りこまれているのは古代山城では初めての発見,と案内板にある。ただ実物は,カバーで覆われその箇所までは見えません。
 南門から先の道は,観光用整備が行き届いてて,石畳ながら歩きに支障はありませんでした。
▲1348山道を下る

山口に帰りつく。さて,ここから南へ,つまり自転車を置いてきた尾根までの登りにつきます。
 うっ。右股がツッてきたぞ。うーむ。
 1405,峠。自転車回収。下りたくないけど……下る。
🚲
わったことのない爽快感で原生林の一本道を下る。
 1411,車道別れの看板まで戻ってきました。──さあ……問題はこっからやね。大丈夫か,ワシの足?
 1424,州藻バス停。なぜか押さずにいけた。あれ,割と平坦なのかな?でもここから鶏知※までは流石に違うぞ。

※正しい漢字は「雞知」。当時「鶏知」と思い込んでました……。

▲1427雞知の小さいけれどどこか雄大な川辺にて

海照らしアサヒおしるこ ケチがつく

倉坂トンネル。1431。
 最初から,押して入る。車両はまばらです。円柱の闇に靴音響く。
 1444,鶏知。自販機で「アサヒおしるこ」を購入。死ぬほど旨い172cal。
 1450,R283に入りました。厳原表示は8.9km。いつもの自転車なら鼻で笑う距離だけど──重量級ママチャリが拷問具に見えてきました。
▲鶏知集落

角なんで鶏知集落を通っていく。
「雞知」地名もまず間違いなく音が先にあった地名と推定されるけれど,角川日本地名大辞典を含めヒットがない。1908(明治41)年に下県郡雞知村が成立した合併村の中に既に雞知村の名がある〔wiki/雞知〕から,幕末には存在した,という程しか分からない。
▲鶏知集落の川

道端にすくんでしまった わはははは

い町,という感触のある水の多い街並みですけど,確証のおける光景には当たらない。地名からして何かありそうだけど……という匂いだけをこの自転車行では嗅いでました。(→009-5豊玉(帰)/雞知再訪)
 ちなみに雞知の読みは「けち」。どうも出し惜しみされてる気がする……と逡巡してますと……おおっと!!
▲1456鶏知集落の道より
ははは。両足ツッて道端にすくんでしまった。わははは。
 1508。歩けもしない。3分ほど立ちすくむ。
 1511。再走。
 ハンバーグ屋には既に「準備中」の札。あと6km!!持ってくれ!騙し騙しペダルをこぐ。
 残り行程には根緒坂と厳原手前の坂の2つ。いつもならどーってことない距離なのです。
🚲
走。1522。
 平地はリズムで,登りはゆっくり押してで,とにかく進む。
 1535,根緒坂を登りきりました。トンネルのある下り坂へ──1538,厳原に入った!!もう一応,合法圏です──実はこの自転車を借りる時,「一応,市内だけで乗ってもらうことになってます」と言われてました。だから,市内ならレスキューを求めても違法性はない。
 1549,厳原トンネル。延長1102m。入口は緩い登り。でもこれが……下りになりさえすれば!
🚲

まあ割と予定通りに帰還

602,トンネルを出た。最高部直前で再び両太腿にキたけど──何とかやり過ごしてる。
 1619返却。「疲れたでしょう」とカウンターのお姉さん。いや,誘導尋問にはかからないぞ。「いや本気で坂多いですね,ははは」
1627 ダブルモス野菜バーガー489
 こんなん久しぶりに食った。でもこんなに外食ないとは思わなかった。ようやく人気がつきました。
▲1709東横INN裏

まあ,ちょっとズタズタになったけど……割と予定通りに完遂できました。金田城そのものは途方も無さすぎたし,途中もパッとした集落ではなかったけれど,とにかく対馬の雰囲気は身に染みて分かった。
 東横INNの裏にも平気で石垣が残ってる。歪な石を巧みに組み合わせてます。
▲厳原市街の石垣アップ

本の田舎にも,これはあまりないと思う。──巨大で原始の自然と,あまり過去に拘らないサバサバした気質です。
 さっきのモスの隣席で,韓国人の親子がワイワイ騒いでました。韓国から見て,今ここにある対馬ってどう映る「くに」なんでしょう。
▲対馬せんべい。卵をたっぷり含み,端にちょっと焦げ味があって,全体としては軽い歯応えの──江戸仕込みの煎餅とは異質な「せんべい」。

■レポ:天智帝は金田城を築いたか?

 この日にちょっとお出かけしてみた金田城,ずっと「かねだ」城と思ってたけど……「かなだ」城又は「かなたのき」と読むらしい。一から無知でした。
 どうやら「日本最強の城」にも選ばれて平気で観光資源に転じつつあるけれど──後で調べれば調べるほど,まだまだ謎,というより,本質的な疑念に満ちた存在らしい。
 疑念というのは──ここにあるのは本当に金田城なのか?ということです。

日本書紀に書かれた金田城及び同列の軍事施設群

 金田城の築城年:667(天智天皇6)年は,日本書紀の次の記事に依っています。その年の少し前から広めに引用します。

六年春二月壬辰朔戊午、(略)
 三月辛酉朔己卯、遷都于近江。是時、天下百姓不願遷都、諷諫者多、童謠亦衆、日々夜々失火處多。六月、葛野郡獻白䴏。
 秋七月己未朔己巳、耽羅遣佐平椽磨等貢獻。八月、皇太子幸倭京。冬十月。高麗大兄男生、出城巡國。於是、城內二弟、聞側助士大夫之惡言、拒而勿入。由是、男生、奔入大唐、謀滅其國。
 十一月丁巳朔乙丑、百濟鎭將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等、送大山下境部連石積等於筑紫都督府。己巳、司馬法聰等罷歸。以小山下伊吉連博德・大乙下笠臣諸石、爲送使。是月、築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城。〔後掲日本書紀巻第廿七 天命開別天皇 天智天皇〕※天智天皇6年≒667年 ※※朱書は引用者

 667(天智天皇6)年3月,近江(大津京)遷都。でも誰もついて来ず社会は混乱。
 8月,天智帝が倭京(旧都=飛鳥)へ行幸。
 10月,高麗の「男生」さんが唐に亡命し高麗滅亡を謀る。
 11月,百済の将・劉仁願が熊津都督府(旧百済植民地政府)から司馬法聰らを筑紫都督府に派遣。──この月に,倭国(現・奈良県平群町〜大阪府八尾市)高安城,讚吉国(現・高松市)屋嶋城とともに,対馬・金田城が築かれたと記されます。
 ただ,対馬に軍事施設が構築されたのはこれに先立つ三年前にも記事があります。現代の考古学者が金田城山頂に探し求めて未だ発見できていない「防與烽」(≒のろし台)です。対馬–壱岐-筑紫(現・福岡)の通信手段です。これは筑紫の水城と同時期の建設と書紀は記します。

三年春二月己卯朔丁亥、(略)
是歲、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城。〔後掲日本書紀巻第廿七 天命開別天皇 天智天皇〕

 さらに,築城としては金田城ほか3城に先立って,長門城・大野城・椽城※の建設に着手しています。
※現・福岡県筑紫野市〜佐賀県三養基郡基山町
 軍事施設構築の推移をまとめると次のとおり。なお,丸付き番号は引用者が一連の軍事施設について同番号をふったものです。

金田城築城関連年表
年月/出来事
天智天皇
2年(663年)8月
/白村江の戦い
3年(664年)
/対馬①・壱岐・筑紫②等に防人・烽設置,水城②築造
4年(665年)8月
/長門城③・大野城②・椽城②築造
6年(667年)3月
/近江大津宮遷都
同11月
/高安城④・屋嶋城⑤・金田城①築造
9年(670年)2月
/高安城④補修+兵糧入れ
 長門城③・大野城②・椽城②完成
〔wiki/金田城〕※原典 田中淳也「金田城」『季刊考古学 -特集 西日本の「天智紀」山城-』第136号、雄山閣、2016年、37-39頁。

 書紀引用の最後として,長門・大野・椽城の建設及び完成記事を,故あってやや広めに掲げてから,本題に入ります。

四年春二月癸酉朔丁酉、(略)秋八月、遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。耽羅遣使來朝。九月庚午朔壬辰、唐國遣朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等。等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。。〔日本書紀 天智天皇4年〕

 九年春正月乙亥朔辛巳(略)二月、造戸籍、斷盜賊與浮浪。于時、天皇、幸蒲生郡匱迮野而觀宮地。又修高安城積穀與鹽、又築長門城一・筑紫城二。三月甲戌朔壬午、於山御井傍、敷諸神座而班幣帛、中臣金連宣祝詞。
 夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。五月、童謠曰、
于知波志能 都梅能阿素弭爾 伊提麻栖古 多麻提能伊鞞能 野鞞古能度珥
伊提麻志能 倶伊播阿羅珥茹 伊提麻西古 多麻提能鞞能 野鞞古能度珥

 六月、邑中獲龜、背書申字、上黃下玄、長六寸許。〔後掲日本書紀 天智天皇9年〕

※「天智天皇○年」には元号がなかった。形式的又は超短期運用だった大化・白雉・朱鳥の3元号の後,実質的に元号が常用されるようになったのは701年:大宝(たいほう)から。それまでは独自元号は隋唐への「対抗」行為と目されるのを恐れたという説がある。
663年 白村江戦
701年 大宝律令制定
702年 遣唐使復活,「日本」国号を初使用
という流れから,663年以後38年間は,和戦両用で唐と決死のネゴを重ねた結果,一応の「日本」の独自称号と独自年号を持つ「朝貢国」という妥協点が見出されたと思われます。
主な古代山城分布と書紀天智3〜9年(白村江戦7年以内)に記述される築城

放射性炭素年代は450-655年

「日本最強」金田城がその機能を発揮できる姿を保ったのは,けれども7Cいっぱい。8C初には廃城するという,図体と投資に見合わない非常なる短命が考古学的に推察されています。

城域での発掘調査によれば、7世紀中頃に築城されたのち、7世紀末頃に修築、8世紀初頭以後には廃城化したと推測される[6][7]。文献上では奈良時代にも壱岐国・対馬国に防人が配置されたことが知られるが、上記の事実から同時期の金田城には防人が駐屯していなかったことが示唆される[7]。〔wiki/金田城〕

注6 『金田城跡(美津島町文化財調査報告書 第9集) (PDF)』長崎県美津島町教育委員会、2000年。 – リンクは九州国立博物館「西都 太宰府」資料観覧ライブラリー
7 向井一雄 『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン(歴史文化ライブラリー440)』吉川弘文館、2017年→後掲原文参照

 この運用状況は,にわかには信じ難い。逆に,事実関係としては非常に重要と思えます。
 根拠となる美津島町教委2000の原文を押さえておきます。これは地質学的な相対年代ではなく,理化学的な絶対年代(放射性炭素年代)での測定で,長文になりますけど──

 測定結果より7世紀前後の年代を示した試科のうち,68%の確率を示すとされる1σの結果をひろいあげると下記のようになる。
615〜655 (平成8年度試科No 2)
600〜650 (平成8年度試料No 3)
540〜630 (平成9年度試料No 1)
590〜650 (平成9年度試料No 2)
550〜645 (平成10年度試料No 1)
450〜600 (平成10年度試料No 2)
 これらの数値をみるかぎり,放射性炭素年代は「日本書紀」に記された築城年代(西暦667年)より古い数値を示している。実年代ではないが,参考として放射性炭素年代を考慮した場合,「日本書紀」に示された年代は築城開始年代というよりは,金田城がひとまず機能的に完成した年代を意味しているのではないかという推測ができる。
 また金田城から出土する遺物の年代観では,ほとんどが7世紀後半の資料であり,6世紀や8世紀の遺物を含まない。したがって遺物からみるかぎり,金田城の築城開始年代は,7世紀を遡るものではないと考えられる。7世紀後半の出土遺物が多いことは築城後.まさに城としての機能を果たし始めた金田城の状況を反映したものと考えられる。〔後掲長崎県美津島町教委第9集/第4章 自然科学分析/4 測定結果の評価〕

 さらに驚かされます。7C中とするのは後半に記される相対年代による控えめな判定であって,前半の絶対年代では655年が最も新しい。多くは650年以前という数値が出たというのです。
 日本書紀の667年(天智天皇6年)3月の築城記事を一応疑わないならば,金田城は築かれてすぐ廃城●●●●●●●●されてる。おそらく地元島民が強いられたであろう巨城構築課役は,シーシュポスの岩のような故なき作業だったことになります。

平成10年度美津島町 金田城における放射性炭素年代測定〔後掲長崎県美津島町教委〕

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ: シシュポス (ティツィアーノ) ,1548-49。神々を欺いた罰に,巨石を山頂近くまで押し上げては転がり落ちる果てしない徒労を課せられたシーシュポス(ギリシャ神話)。

金田城=黒瀬城山説の定説化は戦後以降

「城山」という地名は伝わったらしい。
 でも,次のような話からして,日本書紀に書かれた金田城があったから「城山」なのだ,ということすら,江戸時代には陶山訥庵先生一流の「奇説」と目されてたらしい。

江戸時代中期,国学者藤斉延(たうまさのぶ)は著書「本州武備談」(ほんしゅうぶびだん)に金田の地名が残る厳原町佐須の金田原(かんだばる)に金田城はあったとし,後世まで受け入れられていた。これに対し儒学者陶山訥庵は,「津島紀略」の中で城山の遺跡が金田城であると説いている。前者は地名を根拠に比定し,後者は現存する遺構によって判断している。〔後掲長崎県美津島町教委2000〕

対馬三聖人・「農聖」陶山訥庵(1657-1732)。怒り肩だったらしい。

 ても陶山訥庵が金田城を「再発見」者なのかと言えばそうではなく,藤斎延が偽説の主かと言えばそうではない。訥庵先生は城山を書紀の金田城とする説と,神功皇后基地説を併記してるし,藤斎延も仲哀天皇築城説を併記してる。黒瀬城山=書紀金山城たる説は,いろいろの可能性の一つでしかなかったのです。

『津島紀略』では、天智紀山城とする説のほかに神功皇后の新羅征伐時の城とする説も挙げる[4]。類似の説として藤斎延の『本州武備談』、藤定房(藤斎延の子)の『本州編年略』、藤仲郷(藤斎延の孫)の『武本談』、『津島紀事』では仲哀天皇の築城とする説を挙げている[4]。〔wiki/金田城後掲 原典:『日本歴史地名大系 43 長崎県の地名』平凡社,2001年 「金田城跡」「大吉刀神社」〕

 訥庵・黒瀬城山説の再評価がようやく大正期。それをさらに再発見したのは東亜考古学会※で,この組織が考古学的的調査も併せて行った結果,ようやく昭和28年。
 黒瀬城山は,戦前までの1300年近くの間,金田城跡ではなかったのです。しかも,現在に至るも黒瀬城山から「金田城」と記した石柱が見つかったりしたわけではありません。

※外務省が19世紀末に起こった義和団事変の賠償金を基金に行った対支文化事業の助成で,大正15年(1926)に設立。主な実績に次のようなものがある。
1927(昭和2)年 関東州貔子窩・石器時代遺跡調査
1933-4(昭和8-9)年 上京東京城(龍泉府:渤海国の中心的都城)調査
1940(昭和15)年 河北省・郁鄲趙王城調査

 その後大正11年,考古学者後藤守ーの調査報告「対馬瞥見録」(つしまべっけんろく)の中で,陶山訥庵の黒瀬城山説を支持している。報告書の中味は各城戸の写真や,測量図及び門礎石の位置を記録している。
 昭和28年には東亜考古学会が「対馬」を発表し,黒瀬城山を調査して後藤氏の発表を裏付けた。その後,学会に黒瀬城山が金田城とする説が定着し,その間十分な調査の結果,朝鮮式山城としての遺構もよく遺る本史跡を,貴重な文化遺産として認め,昭和57年3月23日付をもって国の特別史跡に指定された。〔後掲長崎県美津島町教委2000〕

 事実と推定を確認しておきます。

事実a)書紀667年記事に「金田城」築城が記される。:背景・工程等の付随記述無
事実b)黒瀬に城山の地名が伝わる。:「城戸」地名も残る。
事実c)黒瀬城山には土塁・石垣・詰所・柱などの遺構される。:絶対年代は655年以前
▼∴▼

推定) 黒瀬城山が天智・金田城である可能性が高い。
LPG「ゴーストオブツシマ」のカット。設定は小茂田付近で,浮船は蒙古の高麗船。

黒瀬城山は完成したか?

 美津島町教委算出の絶対年代(-655年)と書紀記載の築城年667年の逆転については,前掲向井一雄さんが次のように否定しています。簡単に言えば,土塁の材料の年代が土塁構築(「考古学的イベント」)年代より少し古いことはあり得ることなのだ,ということです。

金田城では出土土器に7世紀中葉と7世紀末のものがあり、各々創築期と修築期が想定され、8世紀以降の出土遺物がないことから廃城となったと考えられる。(※略)
 対馬金田城のビングシ山土塁中の炭化材の炭素年代測定値から「(最初の金田城は)6世紀末から7世紀初めごろにかけて築造された」とする著作や新聞報道を見ることがある。ビングシ山土塁が新旧二時期あることは事実としても、それを土塁中の炭化物で年代推定することは問題がある。土中には様々な時代の炭化物が混入しており、考古学的イベント(この場合は土塁の構築)に伴わない炭化物を年代測定しても意味がない年代しか得られない。
 金田城では、ビングシ山の掘立柱建物内部の炉跡炭化物や南門から出土した加工材(板材)など、考古学的イベントに伴う試料(確実に遺構に伴う炭化物一火焚き痕跡、土器付着の煤、人工的な加工材など)の測定値はAD670年前後やAD650年前後とほぼ築城年代と整合している。〔後掲九州国立博物館/向井一雄「第3章 日韓古代山城の年代論」/4 日本古代山城の新年代/炭素C-14年代 ※以前は/土器〕

 その主張自体は説得力がある。けれど,統計的にはどうでしょう?こういう微妙な逆転が他では問われないのに,金田城でのみ問題になる。それは,要するに前掲のとおり金田城の使用期間が極端に短かった点を傍証していると言るのではないでしょうか?
 例えば金田城が25年使われていれば,稼働から四半世紀を経た修復跡が見つかるはずです。でもそれは発見されてない。
 それに,絶対年代の終期だけが●●●●●問題になり,始期は全然気にならないほど古い,というバランスの悪さには,何の意味もないのでしょうか?
 また,黒瀬城山の築城期間も問われます。白村江敗戦(663)以後の防御施設だったなら,4年程度でこの「日本最強」城郭が完成するでしょうか。土木技術はまだ拙く,離島のため動員人力も少ないはずです。──(豊臣)大阪城は15年工期,更地から作った広島城で10年工期です。
 工期と言えば──天智9年(670年)2月の「又築長門城一 筑紫城二」は4年8月の長門城・大野城・椽城の記事に対応したもの,つまり天智4年着工→9年竣工と解されています。筑紫域はともかく,長門に複数の城を造るとは思えないので,おそらくそう読むしかない。建造に5年かかっています。ただそうなると,金田城と屋嶋城のみ竣工記事がない●●●●●●●ことになるのです。


天智天皇  
     □665年
      □667年
        □670年
①金田城  ■→ ?
②筑紫群(大野城・椽城)
     ■  →■
③長門城 ■  →■
④高安城  ■→■
⑤屋嶋城  ■→ ?
      (■近江遷都)

 これらの記述の矛盾を整合させるには,

推測b)金田城は667年以前に相当部分が既設されていた。
推測c)にも関わらず,金田城は完成しなかった。(あるいは,完成前に施工目的が失われた。)

という仮定を付け加えるのが妥当と考えられます。でもそれだと,①白村江戦後に②急造した防御拠点の一つが金田城である,という通説とは完全に矛盾するのです。

金田城はなぜあんなところに?

 ところで,金田城に関して,Yahoo!知恵袋に面白い問答がありました。おそらくワシと同じく素人の率直な疑問です。

sup********さん 2011/7
金田城はなぜあんなところに建っているのですか?
kak********さん 2011/7
対馬の金田城なら、当時の重要な外国が地理的にかなり近くにあった事から、国防の最前線として山城がきづかれたのでしょう。もしも、外国が攻めてきても、対馬のまわ(り)は海流が激しく島全体が自然の要塞になったのだと思います。城はドラマで観るような華やかさより防衛目的で造られたものが多いのではないでしょうか。〔後掲Yahoo!知恵袋〕

 金田城は,小さくはこの黒瀬湾口を押さえる砦です。即ち,万一,浅茅湾に敵水軍侵入を許した際にも,黒瀬湾に我の水軍を容れての抵抗拠点となし得ます。また,大きくは下島北部の山嶺の防衛ラインの北端拠点でもあり,リアルな進攻を想定した城塞です。
 前掲向井さんの言葉を借りるとこうなります。

 嶮山城類と緩山城類について、単に立地する山地の高低と捉えては「城郭」の縄張りを読み解いたとはいえない。嶮山城類といっても全て独立した高山に占地しているわけではなく、縄張りという点では特色がみられる。
 金田城も鞠智城※も城壁最低点が平地近くまで下るという点では緩山城類に一見似ているが、周辺地形まで含めると緩山城類とは全く異なった占地を取っていることが判明する。金田城は城山北端と対岸の鋸割岩間の細り口を塞げば黒瀬湾への侵入はできない。黒瀬湾を外城として取り込んだ複郭的構想が窺える。〔後掲九州国立博物館/向井一雄「第3章 日韓古代山城の年代論」/4 日本古代山城の新年代/占地論〕※:引用者

※参照:鞠智城の位置(現・山鹿市菊鹿町米原 歴史公園鞠智城)

 古代の軍団の攻撃力を想定すると城塞としての強度は確かに高い。けれど,知恵袋の質問者が問いたかった真意は,こういうことではないでしょうか?
「浅茅湾のこんな奥を死守して,それが何で嬉しいの?」
──確かに,定説の如く白村江戦後の勢いを駆って唐・新羅が来攻するのに備えるなら,少なくとも対馬西岸が妥当です。また,彼の最終目的は対馬占領ではなく日本制圧であるからには,東岸でもまだ蓋然性がある。浅茅湾のこんな奥地は,いわば長期滞在向きの拠点です。
 浅茅湾を海峡と間違えて西へ抜けようとする可能性以外,「日本侵攻軍」が黒瀬城山を狙うケースはあり得ない。ただし,海東諸国紀でも対馬の形は無茶苦茶なのに浅茅湾だけはきっちり描かれ,この湾が袋小路なのはよく知られていたと思われます。

※この点は太宰府周辺の山城群にもある程度言えます。例えば,上記鞠智城の位置は,朝鮮半島側からの侵攻に対する防御地点として選定されるには合理性が全くない。
※※鞠智城の史料記載は「続日本紀」の文武天皇 二年 五月の条(「令 大宰府 繕治 大野、基肄、鞠智 三城」)であるが,発掘調査の放射性炭素年代測定では7C後半~10C中頃と推測され,水城・大野城・基肄城と同時期の築城と目されている〔後掲西住〕。なお,九州王朝論者からは,八角形建物跡や銅造菩薩立像の出土など,百済からの亡命者が関与した痕跡も指摘される〔後掲吉村〕。

▲(再掲)海東諸国紀の地図中,対馬島付近

6C唐軍水軍は浅茅湾を攻めたいか?

 この点から,刺戟的な試論を展開している方がおられました。

そもそも外敵が今日でも“細り口"と呼ばれている狭陰な湾口をくぐり、退路を塞がれたら袋の鼠になることが自明の、しかも両岸から容易に矢を射かけられるほどの狭い袋小路に自ら死地を求めて進んでくるような愚行をするはずがない。さらに、対馬攻略を果たしたうえで筑紫、大和へ侵攻する場合でも、対馬に上陸するには、大船団を停泊させやすく上陸しやすい海岸線の広い地点を選択するはずである。〔後掲野田〕

 試みに,対馬が実際に受けた四度の侵略:刀伊・元寇・朝鮮(応永)・露(幕末)※の上陸地点をマッピングしてみます。
 刀伊・元寇は西岸(椎根付近),朝鮮・ロシアは浅茅湾ですけどいずれも湾口から脱出し易い場所です。

※刀伊の入寇:1019(寛仁3)年(推定)女真族
 元寇:1274(文永11)年,1281(弘安4)年元朝(モンゴル帝国)
 応永の外寇:1419(応永26)年 李氏朝鮮
 ポサドニック号事件:1861(文久元)年3月14日 ロシア(ロシア中国海域艦隊) なお,仲裁のため浅茅湾に入ったイギリスも対馬占領を本国政府に提案していたとされる。

刀伊・元寇・朝鮮(応永)・露(幕末)の進攻地点と金田城〔地理院地図〕※赤ラインは金田城〜白獄〜黒土山

 野田さんは,この観点から,日本防衛拠点としては●●●●●●●●●椎根の吉戸神社とその後方の黒瀬山が妥当として,天智金田城=椎根説を展開してます。椎根集落東方に金田地名(ex.金田小学校)が確かにあり,個人的には説得力があると感じています。
対馬市厳原町下原(椎根)付近,金田小学校〔GM.〕

 ただし,本稿では,野田説が前提としている金田城が日本防衛のために築かれた,という目的の方を疑いたいと思います。以下中村修也さんの白村江戦後ビジョンに沿って話を進めます。
 このビジョンは,白村江戦と太平洋戦争をダブルイメージにして,類似の敗戦処理が行われたとする非常に理解しやすいものです。

中村-白村江戦後処理ビジョン概要

昭和   天智
1945(昭和20)年
     663-(天智2-)年

〇(1941(昭和16)年)
 12.1
 真珠湾攻撃
   ∝ 8月27-28日
     白村江戦

Ⅰ8.9
 ポツダム宣言を受諾
   ∝ 9月24日
     日本船団帰国(送還)
Ⅱ8.30
 連合国最高司令官マッカーサー元帥,厚木に到着
   ∝ 664(天智3)年
     4月
     郭務悰(上柱国,
     劉仁願配下)来日
     665(天智4)年
     9.23
     254人進駐
     669(天智8)年
     二千余進駐
Ⅲ9.2
 降伏文書調印
   ∝ 665(麟徳2)年
     7-8月
     劉仁軌と新羅・
     百済・眈羅・
     倭国使者,泰山
     で会祠
Ⅳ9.3
 多摩陸軍飛行場引渡し
 (現・横田飛行場)
 10.3
 GHQ総司令部設置
    ∝ (667(天智)6年)
      3月近江遷都
      11月金田城築城
Ⅴ(1950(昭和25)年6月25日–1953年7月27日)
 朝鮮戦争
    ∝ (667–668年)
      第三次高句麗
      出兵
Ⅵ(1947(昭和22)年)
 2・1ゼネスト(未遂)
    ∝ (672(天武元)年)
      7.24-8.21
      壬申の乱

〔後掲中村〕※体裁は引用者調整。黄色部は引用者追記

中村-白村江戦後処理ビジョンとその増改築

 上記は,左半に太平洋戦争,右半に白村江戦以後の戦後処理を,同種の内容毎に連ねたものです。中村さんの3項目に,中村論文中の初戦マター,さらに引用者追加の3項を加えました。
 白村江の戦い自体については,本稿の目的でないので深入りしませんけど──663年8月末,倭軍が新羅に対する百済軍に助勢しようと錦江※河口(郡山湾=現・群山と舒川の境)に入ったところに,唐水軍が横槍を入れる形となり,倭軍は全滅します。

※금강 クムガン。当時の呼称は白江。忠清南道扶余より下流を白馬江 백마강 ペンマガンと呼ぶ。日本側記録の「白村江」がこの河であることは確実ではないけれど,同一と見るのが通説。

 隋唐帝国は,高句麗遠征の失敗を主要因に滅びた煬帝以来,朝鮮族に苦戦を強いられています。その一連の戦史中,やや珍しいほどの完勝を収めた一戦です。

「白江戦」記録への有り得たバイアス:在日百済遺民

 白村江の戦いについては,戦闘そのものが無かった,あるいは倭国の存亡を危うくするほど大規模ではなかったとする論があります〔後掲中島〕。
 この仮説の最大の論拠に,旧唐書が戦いの年次を662年,つまり書紀や新唐書以降の中国史書が記す663年の前年としている事実かあります。この点から,新唐書以降の史料はまさに日本書紀の「誤記」を転記しており,その時に「無かった」白村江戦も転写されて史実になってしまったのだ,とする説です。
 確かに,史料の白村江戦の描写は,後の唐-高句麗戦のそれに比べ妙にリアルさに欠けます。
 これについて,少なくとも「白村江の戦いはなくてはならなかった」というバイアスが働いている可能性は否定できないと思えます。その後の日本史に,百済遺民が果たした役割は相当に大きく,その母国の滅亡時に,大国・唐に逆らってまで日本が百済と共闘したというストーリーを,書紀編纂者は削れなかったでしょう。百済が滅亡したのは事実だから,その共闘で日本も破れなければならないけれど,それでも「倭-百済連合軍」は存在しなければならなかった。
 ただ,だからと言って「戦争は無かった」前提に立つと,壬申の乱直前の倭国の混乱と,金田城以下山城群を築かせた戦慄は説明がつかなくなります。7C朝鮮動乱は,倭を震え上がらせた何物かであった,という一時は,否定しきれるとは思えないのです。

Ⅴ:唐の対日目的は倭の衛星国化(羈縻)

 中村ビジョンを先に補正しておくと,現代アメリカの呵責のない支配と古代中国の中華思想は少し異質です。勝利の容易さもあってか,強敵・高句麗の遠方背後に親和勢力を欲したのか,次の史料に見るように,幸いにも日本を属国化する発想を漢民族は持たなかったようです。

37 麟德元年(略)
48 冬十月庚辰,檢校熊津都督劉仁軌上言:上,時掌翻。「臣伏覩所存戍兵,疲羸者多,勇健者少(略)陛下留兵海外,欲殄滅高麗、百濟,高麗舊相黨援,倭人雖遠,亦共為影響,若無鎮兵,還成一國。今既資戍守,又置屯田,所藉士卒同心同德,而眾有此議,何望成功!(略)故臣披露肝膽,昧死奏陳。」
49 上深納其言,遣右威衛將軍劉仁願將兵渡海以代舊鎮之兵,將,即亮翻。仍敕仁軌俱還。〔後掲資治通鑑〕※緑字は原典添書。番号は中國哲學書電子化計劃採番。以下同原典について同じ。

 664(麟德元)年の熊津都督・劉仁軌さんによる,皇帝への上奏です。白村江に近い熊津は新植民地・百済の軍政中枢で,さながら劉仁軌はマッカーサーというところ。この人が,要は兵の帰国を求めてるわけですけど,「今既資戍守」今すでに辺境守備は供せられ(≒完成され)た,皆はもう帰りたがってる,と目標達成をアピールし,これが長安中央で一応認められてます。

※下線部のみ後掲蒋による現代語訳
陛下が海外に兵士を駐留なさったのは高句麗を滅ぼそうとするためでした。百済、高句麗は以前からお互いに連携し、倭人も遠くにあるとはいってもやはりお互いに影響し合っているので、駐屯兵がいなければ国を作るおそれがあります。すでに駐屯兵に援助し、屯田をつくれば、心を一つとするでしょう(ママ)。しかし、こうした苦情がでるようではどうして成功をのぞむことができるでしょうか!

 日本に関して,唐軍が目標とするレベルとは──
❝α❞ Not「亦共為影響,若無鎮兵,還成一國」状態──(反抗的な朝鮮各国の)影響を受けないよう,(唐の)鎮兵がいて,(独立)国ではない状態
❝β❞今既資戍守,又置屯田──屯田が置かれ守備が十分な状態
 つまり,日本には(α)政治 ・ (β)軍事的に「朝鮮化」しないでもらえればそれでいい。中華の衛星国でなくても,非・敵対的緩衝圏であればよい,と言っているのです。
 そのための投資としては,α)鎮兵とβ)城塞があればよい,とも解せられます。
 最大の違いは,上記でⅤ朝鮮戦争に比定した高句麗出兵が,既に644年から,つまり白村江戦の20年前から始まっていたこと。唐にとって白江戦(白村江の戦い)は24年間・三次に渡る高句麗戦争の終盤の局地戦であって,WW2に置き換えれば,いわば戦後日本の(朝鮮にとっては大迷惑ながら)復興への転機となった隣国全土を焼く朝鮮戦争が,戦前から継続されていた訳です。
 百済を一挙に滅ぼした唐は,倭を自身に親和的な緩衝地帯とし,その目的の範囲内で半・属国化する行動に出ます(→史料:後掲資治通鑑龍朔3年麟徳二年参照)。


羈靡支配下に置かれた倭

「羈縻」は「きび」と読みます〔wiki/羈縻政策〕。中華思想の中に位置付けられるほどメジャーではなく,中華の指導体の自治体,という実質と捉えられます。自治と書くと響きはよいけれど,要するに現代ニッポンの国に対する地方自治体,米に対する日本国に似た,洗練された占領形態です。
 厳密に言うと,唐が倭を位置付けようとしたのは,「筑紫都督府」を置いたことから考えて,この羈靡であったようなのです。

 中国王朝の周辺国支配には、領域化(内地化)・羈靡支配・冊封の3タイプがある。領域化が最も強く、冊封は弱い。羈靡支配はその中間に位置するもの。領域化はその地域が正州県となり中国の官人が統治者となり、住民は王朝の国法下におかれる。それに対して羈靡とは都督府がおかれ、その地域の異民族首長や有力者が統治長官に任じられて、国王朝の地方官制のようなものであるが、異民族の社会はそのまま認めてその地域を統制するものである。つまり、周辺諸国を間接統治することである。在地の首長に唐の官職名を与えて、その自治を認める代わりに、都護府を設置して軍事的支配下に置くものである。〔後掲飯田〕

 時代的にはかなり限定されます。唐代の太宗,そしてまさに白村江戦の高宗の時代の都督府制。それと明代,女真・西蔵・苗族の多い地域に「羈縻衛(きびえい)」を置いたもの。──制度史上の位置付けは未だ流動しており,府兵制などとの関連付け,単に冊封と直接支配の中間形態とする見方があります。
 まして,半端に終わった唐の日本「統治」をどう捉えるかはかなり難しい問題ですけど──先を急ぎ過ぎました。白村江戦自体を最低限押さえていきます。

白村江戦の位置関係図と両軍進路〔wiki/白村江戦 添付図に引用者追記〕

〇:真珠湾で返り討ち 日本軍むしろ全滅

 書紀の筆致は大変に強がったものだけれども,それでも酷さは隠しきれません。
 二年三月の段に記す六将軍・27千人は,常備軍のない当時の全日本軍と考えられています。170隻(元年五月)を陸戦水兵1万,二年八月段の「健兒萬餘」を別計と捉えて,五万足らずの軍勢は「日本不利而退」不利にして退くに至る。「發船始向日本」──総退却時には将の名も兵員数も記されず,退却先もただ日本と書かれます。
 中村さんは,この引揚げ船団が唐・新羅の妨害なく,ただ日本へ向かった情景から,この時点以前に「ポツダム宣言受諾」相当の「降伏」があったと見ています。ただ,この負け方は,ひょっとすると降伏する責任者すらおらず,単に敵から無視されただけかもしれません。

元年春正月辛卯朔丁巳(略)
五月、大將軍大錦中阿曇比邏夫連等率船師一百七十艘、送豐璋等於百濟國。(略)
二年春二月(略)
三月、遣前將軍上毛野君稚子・間人連大蓋・中將軍巨勢神前臣譯語・三輪君根麻呂・後將軍阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄、率二萬七千人打新羅。(略)
秋八月壬午朔甲午(略)大日本國之救將廬原君臣、率健兒萬餘、正當越海而至。(略)
戊戌、賊將至於州柔、繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘、陣烈於白村江。戊申、日本船師初至者與大唐船師合戰、日本不利而退、大唐堅陣而守。己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。(略)
九月辛亥朔丁巳、百濟州柔城、始降於唐。是時、國人相謂之曰「州柔降矣、事无奈何。百濟之名絶于今日、丘墓之所、豈能復往。但可往於弖禮城、會日本軍將等、相謀事機所要。」遂教本在枕服岐城之妻子等、令知去國之心。辛酉發途於牟弖、癸亥至弖禮。甲戌、日本船師及佐平余自信・達率木素貴子・谷那晉首・憶禮福留、幷國民等至於弖禮城。明日、發船始向日本。〔後掲日本書紀全文検索,日本書紀巻第廿七 天命開別天皇 天智天皇〕

 日本軍の「戦術」の拙さを象徴すると指摘される「我等爭先彼應自退」我ら先を争えば彼は応じて自ずから退く,の部分に続き,実際の戦況も書かれます(上記下線部)。
「更率日本亂伍中軍之卒,
 日本士卒が乱軍のまま
 進打大唐堅陣之軍,
 堅陣を敷いた唐の軍に打ち進むと
 大唐便自左右夾船繞戰
 唐はさっと左右から挟んで焼き討ちしてきた。
 潰走した生存兵からの伝聞と思われますから信頼度は薄いにせよ,かなり初歩的な戦術にモロにハメられた感じです。 
 唐側の記録は資治通鑑にあります。
「四戰皆捷」四度戦って皆勝利した。
「焚其舟四百艘,煙炎灼天」そ(日本)の船四百艘を焼き,煙の炎が天を焼いた。
「海水皆赤」海水は皆(倭人の血で)赤くなった。

卷二百一
14 {龍朔(661年-)}三年春正月,(略)
28 九月戊午,熊津道行軍總管、右威衛將軍孫仁師等破百濟餘眾及倭日本兵於白江锦江(略)
29 初,劉仁願、劉仁軌既克真峴城,克真峴城,見上卷二年。詔孫仁師將兵,浮海助之。將,即亮翻;下同。百濟王豐南引倭人以拒唐兵,仁師與仁願、仁軌合兵,勢大振。(略)遇倭兵於白江口,四戰皆捷,焚其舟四百艘,煙炎灼天,艘,蘇遭翻。炎,讀曰燄。海水皆赤。百濟王豐脫身奔高麗,王子忠勝、忠志等帥眾降,帥,讀曰率;下之帥、皆帥同。降,戶江翻;下同。百濟盡平,唯別帥遲受信據任存城朝鲜半岛大兴城,不下。帥,所類翻。尉,紆勿翻。〔後掲資治通鑑〕

 劉仁願と劉仁軌が「遇倭兵於白江口」──白江(白村江)に於いて倭兵と遭遇した,という表現は「旧唐書 劉仁軌伝」にも書かれます。この「遇」という表現について──

唐・新羅連合軍は綿密に計画を練っており、本来は水路の要衝である加林城を迂回し百済復国運動の中心地となっていた周留城を伐とうとしていたのだが、結果として思惑が外れ、逆に加林城付近の白江口で倭の水軍との間に大きな戦いが起こる。この海戦は、唐の水軍にとってあきらかに思いがけないものであった。唐軍にとっては、白江口で倭軍と戦闘が起こったことは全くの予期せぬ事態であった(それは史料が「遇」という字を用いてこの事件を記している理由でもある)。〔後掲蒋〕

 なぜ「偶然の出会い」になったか,蒋さんの見解は後に再度触れます(→後掲資治通鑑・旧唐書参照)けど,唐と倭にとってはそれが「幸運な偶然」になるか「不幸な……」になるか,大きく分かたれました。組織的戦術の蓄積を含むいわゆる国際戦争の実力が問われたのでしょう。
 先のビジョンに記したように,太平洋戦争で言えば,緒戦の真珠湾で逆に全滅させられた,という悲惨な敗北です。戦場の凄絶さももちろんですけど,大化の改新からやっと18年経った船出間際の倭にとって,東アジア最強国に歯向かっての緒戦での完敗は,途方に暮れるしかない対外戦争の末路だったでしょう。

沖縄に上陸する米軍〔1945.3.31付〕

Ⅱ:中国帝国軍 九州進駐

 実は先に引用した書紀の天智4年条(→原文参照)にも,既に劉仁願配下の来日が記録されています。
 この254人は「七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫」──つまり対馬経由で筑紫(九州)に入っています。
 さらに4年後,戦後6年目に二千人「余」が来ています。どこに来たのか書紀は記さないけれど──

八年春正月庚辰朔戊子(略)是歲、遣小錦中河內直鯨等、使於大唐。又以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡。又大唐遣郭務悰等二千餘人。〔日本書紀 天智天皇8年是歲条〕

その直前に「佐平餘自信・佐平鬼室集斯等」とあるのは百済人らしい。避難民を近江の蒲生に移動させた,という記事の後ということは,その跡地に入ったか,あるいは亡命百済人の管理権を委ねるか,いずれかに読めます。
 天智10年にも追加の二千人来日が計画されたらしいけれど,書紀はえらくまどろっこしい伝聞表現でこれを伝えています。──中村さんはこの二千の来日は,朝鮮半島での戦況悪化から,実際にはなかったと見ています。

十年春正月己亥朔庚子(略)
 十一月甲午朔癸卯、對馬國司、遣使於筑紫大宰府、言「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐四人、從唐來曰『唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻、倶泊於比智嶋、相謂之曰、今吾輩人船數衆、忽然到彼、恐彼防人驚駭射戰。乃遣道久等預稍披陳來朝之意。』」
〔後掲日本書紀巻第廿七 天命開別天皇 天智天皇〕

 つまり,史料で覗える限りでも四千人以上の唐使節の来日が企画されたようなのです。
 まだ戦火の絶えない朝鮮半島の東まで来たこの規模の集団が,文人使節であろうとは推定しにくい。中村さんが言うとおり,軍隊としか思えません。

筑紫都督府∝GHQ司令部

 
 では彼ら唐部隊は,どこを拠点にしたものでしょうか?
 先述の書紀天智6年11月条に「筑紫都督府」という機関名が出てきていました。(→前掲書紀原文参照)
「十一月丁巳朔乙丑、百濟鎭將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等、送大山下境部連石積等於筑紫都督府。己巳、司馬法聰等罷歸。」
 繰り返しですけど「熊津都督府」は百済遺領の植民地官庁です。そこから頻繁に官僚が行き来する「筑紫都督府」は,その支庁のような出先機関か,あるいは同等の「日本植民地庁」だったと考えるしかありません。

 この筑紫都督府には,郭務悰が引き連れてきていた254人の部下が常駐していたのであろう。司馬法聰に同行してきた境部連石積らは,道案内兼通訳として連れてこられたと考えられる。
 11月9日に来日して13日に帰ったというから,わずか4日間の滞在である。滞在期間も短く,饗応記事もないところを見ると,司馬法聰らは実務的な仕事をするために訪れたということがわかる。
 天智たち一行が筑紫を去り,近江遷都の準備を始めた時期の都督府は,純粋に唐人たちの府庁となっていたであろう。ようするに司馬法聰たちは,同国人たちの都督府での仕事の進捗ぶりを監督にきたのであろう。〔後掲中村〕

 筑紫都督府の場所は次節で推定するけれど,白村江から四年後,唐の役人が当たり前に朝鮮と九州を忙しく往来してる情景が想像されるのです。
 日本一般,なかんずく九州で,中国大陸域の人全般を「唐人」と呼んできたのは周知の通りですけど……古く日本の常民にとって,一番中国がリアルに接近してきた姿が「唐」だったのでは?とまで考えてしまうとまた抜けれなくなるので,そろそろ金田城に話を戻してみます。

Ⅳ:金田城と山城群∝米軍基地

 この辺りで,教科書通りの「白村江戦後の厳戒防衛体制」イメージはもう捨ててかかるしかなくなります。
 書紀にある金田城記述は,まさにこの二千人が来日した月の記述だからです。

 この月に,大和国に高安城を,讃岐国に屋島城,対馬国に金田城を築き始めるのも,この時の視察団の指示かもしれない。日本にも五部制・都督府制を敷くためには,さらに西方に拠点となる山城が必要になる。讃岐国屋島城は瀬戸内海航路の拠点ともいえる。終着地としては大和国に高安城を築いている。これによって,対馬─讃岐─大和というラインが山城によって結ばれた。着々と唐の日本占領支配の準備が進められている。〔後掲中村〕

東京都内の現・7つの米軍基地〔後掲東京都都市整備局〕
※総面積約16百ha(東京ドーム約340個分,令和3年現在)。終戦後,昭和20-25年にかけGHQが接収したもので,例えば旧多摩飛行場が米軍横田飛行場(横田基地)として使用された。なお,昭和28年3月段階ではこれが144か所(全国1,282か所)あったが,例えば同じく旧陸軍立川飛行場を接収した米軍立川飛行場(立川基地)は現在返還済。

 WW2での日本の場合,本土防衛用の陸軍基地が稼働していたので,米軍はこれを接収し厚木や横田の基地に転用しました。
 なので金田城と山城群の築城は,沖縄をイメージすると想像しやすい。摩文仁でまだ日本軍が戦闘を続けてる段階から,米軍は旺盛な建築力で基地建設に着手し,沖縄の地表を造り変えていきました。

United States Army Air Forces in Okinawa 1945年12月31日時点で建設済の米軍飛行場〔後掲シリーズ沖縄戦〕
沖縄の南寄り普天間の西海岸沿いのくずで覆われた丘を切り取って作られたB-29スーパーフォートレス専用滑走路。長さ7,500フィート、幅200フィート、石灰岩で覆われたこの重爆撃機滑走路は1945年6月15日に第806工兵航空大隊によって建設された。(1945年6月30日撮影)〔後掲シリーズ沖縄戦〕

 大国のドライな軍事ほど,大軍を頼まず地道な兵站と戦略施設を重視します。唐軍は対馬から瀬戸内海を経て日本側拠点・大和盆地に至る主兵站ラインの要地に,城塞を築いていったことになります。
(再掲) 主な古代山城分布と書紀天智3〜9年(白村江戦7年以内)に記述される築城

 こうした大情勢を見ても,また665年の254人が対馬を経由して来ている点からも,金田城の位置に対大陸の防衛施設を築けたとは到底思えない。それどころか日本制圧を盤石にするためのインフラだったとしか考えられないのです。

Ⅲ:アジアのみんなで泰山お参り

 次の書紀記事には,唐の劉仁軌と一緒に新羅・百済・耽羅(済州島)・倭,さらに高麗からも太子か来て「會祠泰山」泰山にお参りした,と書いてあります。

54 {麟徳(664年-)}二年春正月丁卯(略)
63(略)八月壬子,同盟于熊津城。劉仁軌以新羅、百濟首都泗沘、耽羅济州岛、倭國日本使者浮海西還,耽羅國,一曰儋羅,居新羅武州南島上,初附百濟,後附新羅。會祠泰山,高麗首都平壤亦遣太子福男來侍祠。〔後掲資治通鑑〕

 これは一体,泰山で何をしたという記事でしょう?
 先に挙げた対比表では,中村説のとおり降伏文書調印式に比定しました〔後掲中村〕。でも,「泰山お参り」の通常の意味を考えると,それが後代の「毒誓」──裏切った者が死ぬような契りの場というような事例には乏しい。

 一方,時の皇帝・高宗は,唐代では玄宗と並び数少ない封禅の実施者であることが確認されています〔wiki/封禅〕。何より,書紀の「泰山お参り」の前年※664年にまさに封禅を執り行ってます。
※この1年の取り違えは,前掲の白村江戦の年代の旧唐書と日本書紀及びその他の中国史書の差に対応したものと考えられます。

1(略)麟德一年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國會長赴會高宗甚悅(略)〔售唐書巻八十四 劉仁軌邢處俊裴行儉子光庭〕

 ここで「封泰山」という聞き慣れない語句が出てきて,泰山を封ずる,と普通には読めるけれど,泰山で諸皇帝が行ってきた儀式を考えると封禅と解釈すべきでしょう。
「仁軌が領く(=劉仁軌の支配下にある)新羅及び百濟,耽羅,倭の四か国の會長(=酋長)が一堂に赴いたので,高宗は甚だ悅んだ」と読めます。
 つまり,劉仁軌の頼みだから断われない,という立場の弱さは汲み取れるし,高宗の「天下平定」(この場合は朝鮮以東の服属)儀礼にガン首揃えて祝わされた悲哀は感じられますけど,それ以上に「降伏」や「服属宣誓」の儀礼だったとは考えにくい。劉仁軌の点数稼ぎに担ぎ出された,というところに見えますけど,あるいは神前でのこうした神儀は古代においては我々現代人の感覚とは次元の異なるものと感覚された可能性もあり,断じにくい問題ではあります。
 ただ,本稿の目的は天智帝が唐に命じられ唐のために金田城を造った,という点の確認ですから,泰山でのお参りを強いられるほどなら城も建てたのでは?という類推は十分できるので,それ以上を掘らないことにします。
 なお,倭を含む諸国から参列があったという記録は,他の史書にもあります(原文は下記展開参照)。


Ⅰ:白村江にマッカーサーはいなかった

 というわけで白村江戦後の倭の降伏は,セレモニーとしては一応無かったと考えられますけど──もう一つ,中村さんが現地軍レベルでの降伏があったとする根拠に,663年9月24日と書紀の記す日本引揚げが,唐水軍の妨害を受けなかった点があります。
 この点は,まず,唐が敗残倭兵を掃討する余裕が,当時の戦況からそもそも無かったのではないか,とする考え方が通説化しています。

当時高句麗はなお「辺境の強国」であり、疲弊した唐軍は百済に駐屯し、その勢力に及ばないことを恐れているのに、わざわざ遠方の倭の国との間に波風を立てるわけがないではないか。
 実際、唐朝中国の倭国についての理解には限界があり、倭国を上手く経略することはまったく不可能だった。(略)『日本書紀』の記述の通り白江口の戦いの後に唐の使者が頻繁に倭を訪れたということが、仮にあったとしても、やはり百済の故地に駐屯していた唐軍の、虚勢を張って己れを守らんとした示威行為であるにすぎないだろうし、滅亡した国から倭国に逃げた百済の難民があおりたてたことも、敗戦側の倭国の過敏な反応を後押ししただろう。総じて、唐朝中国の史籍にまったく記載がないということを考えると、唐朝と倭国の関係における重要な問題点について倭の側の一方的な言葉だけを鵜呑みにすることはできない。 〔後掲蒋〕

中国側に残る劉仁軌肖像。西田敏行に似てたらしい。〔後掲壹读〕

史料:唐の戦略目的に倭制圧は無かった ▼展開


 ただ,事はもっと単純かもしれません。
 熊津都督府のトップとして日本へ度々訪れた劉仁軌という人は,そもそも白村江戦直後,外交権限を有していない可能性が高いのです。
 この人は優秀又は幸運な軍人だったけれど,政治的には波乱万丈を経たようで,前半生に咸陽県丞から給事中※に昇進した後,政争に敗れ青州刺史に左遷。660(顕慶5)年に参加した遼東征伐で罪状を着せられ,59歳で一兵卒に降格という悲運に見舞われます。

※貴族の世論を受けて上奏文や天子の詔勅を審査駁正する権能を担った官僚〔ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「給事中」 コトバンク/給事中〕

〔wiki/劉仁軌〕
 資治通鑑記載の劉仁軌伝に,高宗がよく分からない理由で「加仁軌六階」劉仁軌に六階(位階)を加えて「正除帶方州刺史」正規の帶方州刺史に除した。
 この「大復活」人事の記事には時点がないけれど,前後の記事の日付から,白村江戦の直後,九月中の出来事のはずです。

3 高宗天皇大聖大弘孝皇帝中之上
4 龍朔二年八月壬寅(略)
14 三年春正月(略)
28 九月戊午(略)
29 (略)遇倭兵於白江口,四戰皆捷,焚其舟四百艘,煙炎灼天(略)
32 劉仁願至京師,上問之曰:「卿在海東,前後奏事,皆合機宜,復有文理。復,扶又翻。卿本武人,何能如是?」仁願曰:「此皆劉仁軌所為,非臣所及也。」上悅,加仁軌六階,勳有級,官有階。正除帶方州刺史,為築第長安,厚賜其妻子,遣使齎璽書勞勉之。為,于偽翻。使,疏吏翻。勞,力到翻。上官儀曰:「仁軌遭黜削而能盡忠,黜削,謂白衣從軍自效也。仁願秉節制而能推賢,皆可謂君子矣!」
33 冬十月辛巳朔(略)〔後掲資治通鑑 巻201〕

(後掲蒋による現代語訳) 劉仁願が都に到着すると、天子が尋ねた。「卿は海東にいたとき、上奏は全て時宜に合しており、また文章も理路整然としていた。武人なのに、どうしてこのようなことができたのか」と。仁願は答えて「これはすべて劉仁軌のしたことであって、私の手柄ではありません」と言った。天子はこれを聞くと喜び、仁軌に六階を加え、正式な帯方州刺史に除し、長安に邸宅を築いてやり、その妻子にも厚く褒美をやり、使者を遣わして璽書によって勤労をねぎらった。上官儀は「仁軌は官位を剥奪されたにもかかわらずよく忠を尽くし、仁願は節制を秉って賢人を推挙した。いずれも君子というべきだ」といった。〔後掲蒋〕

 要するに,白村江戦の時点で,劉仁軌は正式な帯方州刺史ではなく,それは「平社員降格の刑」が続いていたからだと考えられます。日本軍撤兵の663.9.24段階で,少なくとも正規に敗残日本軍代表との休戦協定を結んだりする権限を,劉仁軌は持たなかったはずです。
 また,蒋さんの次の読解でも,劉仁願(劉仁軌部下。親族ではないとされる。)が日本に派遣した「郭務悰」という人も,位階上は矛盾が見られ,「朝散大夫」を詐称したと推測されています。

 三年春二月己卯朔丁亥(略)
 夏五月戊申朔甲子、百濟鎭將劉仁願、遣朝散大夫郭務悰等、進表函與獻物。〔後掲日本書紀27〕※天智3年≒664年 (下線は引用者)

朝散大夫は唐朝の文散官従五品下の官名。唐制において、散官で無職事の者は必ず兵部吏部に当番で出仕し、その後、初めて職事官の選考にあずかることができた(『唐六典』巻2吏部郎中員外郎条を参照のこと)。ここで郭務悰はわずかに散品の位で出使しており、また無職事のまま派遣されており、出使の名号もなく、たいへん疑わしい。〔後掲蒋 p12注1〕

 無冠の劉仁軌ら率いる唐軍は,予定外の場所で倭に出くわして予想外の圧勝を得てしまったので,外交的にそれを収拾すべき権限も,植民地政府としての官僚組織も持ち合わせていなかった。だからポツダム宣言を草案する権能に欠けたけれど──久しぶりの官職で復権を確実にしようと,やたら派手にぶち上げた高宗お気に入りの羈縻政策もどきが,倭での筑紫都督府設置だったのかもしれません。
 この郭務悰は前記664(麟徳2・天智4:254人随行)年の前に,
664(麟徳元・天智3)年(5月):130人随行※とも
671(咸亨2年,天智10※※)年(1月):2000人随行
※海外国記664年(天智3年)の4月記事
※※書紀に天智8年として記された来日記事があるけれど,天智10年のものとの重複と見るのが通説

の2回来日しています。
 この3回目の来日では駐屯軍と共に長く滞在し※,天智帝崩御の翌年672年5月30日にようやく帰国します。その後一か月を経ずして(6月22日)古代最大の内戦・壬申の乱が起こります。



天武天皇(?-686年,第40代天皇在位:673(天武天皇2)年-没年)肖像
眉間の皺が戻らない人らしい。

Ⅵ:壬申の乱という民族主義への大逆流

 周知のとおり天智帝の王権は,壬申の乱を経て弟の天武帝に継がれます。
「日本」国号と「天皇」称号を初めて用いたとされる天武帝は,その強力な親政中,一度も唐に使いしていません。新羅や耽羅(済州島)とのみ使節をやり取りしています。
 682(天武11)年には南西諸島の多禰(種子島)・掖玖(屋久島)・阿麻弥(奄美大島)の禄を下しています。これが698(文武2)年の南島覓国(べっこく)使の奄美諸島への派遣にも繋がります。
 682(天武11)年と言えば,先の章で触れた隼人相撲奉納の年でもあります。つまり──天武天皇は,直接的は反攻はせずに,「日本共栄圏」または「日本小中華」の構築を企図しています。まるで囲碁のような直接対決なき領土確保戦で,清帝国に対する徳川幕府の姿勢に似ています。

 つまり,天武天皇は,天智帝の唐服属(羈縻化)姿勢から外交姿勢を反転させています。──唐と日本は直接の外交関係がなく,唐に敵対姿勢を強める新羅の友好国となることで,「対唐連合」のような圧力を与え,一方で日本の国際的立場をジリジリと上げていく。
 ここから逆算すると,親・天智帝派を引き継いだ大友皇子と皇弟・大海人皇子の対決は,親・唐派と反・唐(親・旧百済)派の武力衝突だったことが想像できます。前掲の近江大津京遷都時の「天下百姓不願遷都,諷諫者多,童謠亦衆,日々夜々失火處多」(→前掲書紀引用参照)──天下の誰もが遷都を希望せず,風刺・諫言する者多数,(風刺・諫言の)童謡を皆歌い,日夜付け火が甚だ多い,という総スカン状態に天智天皇は追い込まれてた。絶対的に多数派となった反天智勢力は,天智の死と唐軍引上げで一気にタガが外れて逆流した──という内戦が,壬申の乱だったと考えます。

壬申天武軍の主体出身地 ▼展開

壬申の乱期の東国の軍事的構造とその主体出身地



 幕末の攘夷派さながらですけど──幸いにも7C中は新羅,8Cになると高句麗遺民の再編制された渤海が唐に対抗し,親唐勢力の波が百済滅亡・白村江戦当時より日本列島に近づくことは元寇までありませんでした。例えば玄宗(在位712- 756年)は北西塞外に征服の矛を向けたけれど,朝鮮には手を出さなかった。
 さて,こうした外圧への反動としての壬申の乱に相当する事象を,WW2敗戦期にあえて探すなら──1947年2月1日に計画された二・一ゼネストでしょう。

(上)2・1直前のデモの盛り上がり (下)同ポスター

 1946年11月26日に結成された全官公庁労働組合共同闘争委員会(全官公庁共闘)を,1947年元旦の年頭の辞で吉田茂首相が「不逞(ふてい)の輩(やから)」と非難。これに激昂した労組が1月15日,全官公庁共闘を含む空前の巨大組織・全国労働組合共同闘争委員会(全闘:30組合・400万組合員)を結成,2月1日のゼネスト突入を宣言。このストは無期限で,鉄道・電信・電話・郵便・学校の全てを停止するものでした。
 当時の労働運動はほぼ共産党の影響下にあり,既に11月の時点で日本共産党書記長・徳田球一は「労働者はストライキをもって,農民や市民は大衆闘争をもって,断固,吉田亡国内閣を打倒しなければならない。」と政治闘争姿勢を公言しています。
 1月28日に皇居前広場で開催された前夜祭・吉田内閣打倒・危機突破国民大会は,30項目のスローガンを掲げます。──この原文がどうしても入手できません。この中に「社会党中心の民主政府の樹立」〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「二・一スト」←コトバンク/二・一スト〕が含まれていたと,複数の記事が書いています。
 前日1月31日16時,スト中止のマッカーサー指令が発令されます。

日本の都市は荒廃し、産業はほとんど停止状態にあり、国民の大部分は飢餓をようやく逃れている実状である。運輸と通信を不具状態にするゼネストは、国民を養う食糧と基礎的な公共事業の維持に必要な石炭の移動を困難ならしめ、現に運転中の産業を停止せしめるであろう。これによって必然的に生ずるマヒ状態は、日本国民の大多数を事実上の飢餓状態に陥れ、恐るべき結果を生ずるであろう。(略)余がこれ以上の負担を連合国民に要求することはほとんど不可能である。〔wiki/二一ゼネスト〕

 二一ストは,これに全闘が従うことで収拾されます。具体的には──伊井・全闘委員長が当日9時15分にラジオ放送します。

(略)私はいま、マッカーサー連合国軍最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官吏、公吏、教員の皆様に、明日のゼネスト中止をお伝えいたしますが、実に、実に断腸の想いで組合員諸君に語ることをご諒解願います。敗戦後の日本は連合国から多くの物的援助を受けていますことは、日本の労働者として感謝しています。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。(略)〔wiki/二一ゼネスト〕

私は声を大にして日本の働く労働者農民のため万歳を唱えて放送を終わることにします。労働者農民万歳、われわれは団結せねばならないのだ〔後掲NHK〕※映像有

 当時,当の共産党がGHQを解放軍と規定していました(32年テーゼ)※。吉田内閣は5月末に戦後昭和唯一の非自民政権・芦田内閣に変わりますけど,その次の1948(昭和23)年3月発足の芦田内閣は,マッカーサー指示により同7月に国家・地方公務員のストライキを禁止する政令を発し,全闘の中核だった公務員労組は(合法組織としては)潰されます。

※征服軍に洗脳されたかった戦後日本

ニューヨークの新聞掲載のマッカーサーの政治マンガ


もし二一ストが実行されていたら?

 
──というネット上での議論がありました〔後掲Yahoo知恵袋〕。ほとんどの回答が「100%ありえない」等としながら,もしそれでも実施されていれば「占領軍によって暴力的なスト破りが行われていたのは確実」と見ておられます。ただ,米軍が本性を現した場合のリアクションも当然予想され,「この場合スターリンの命令で共産党が決起していたかもしれません」。
──というより,この時点では共産党こそ「神輿」だったでしょうから,神輿をかなぐり捨てた嫌米の「本体」が現れた方が怖い。……世論操作に長けた米軍は,だからこそあくまで「飢餓回避」をスト潰しの理由にしたのでしょうけど……。

国会で自民党が安保条例改正を強行採決した後,国会前に連日押し寄せた抗議デモ。1960年5月19日には30万人に拡大。この行動を戦後すぐの400万人が行っていたら,どうなっていたでしょう?

 さてこれに対し,1200年余前の倭は,国土内に城を築かれ遷都まで行われつつ,国際情勢が変わり降伏を受諾した天皇が死ぬまで,じっと待ちました。──当時の日本人こそ,複雑な朝鮮半島の情勢なぞ数十年先は見透かせなかったでしょうし,唐軍の戦力比較もできてたはずはないけれど,それでも待った。そうして,「日本」の実体が初めて創造される時代を迎えたわけです。

半島の震える季の金田城

 そういえば,本題は対馬の最強山城のことでした。
 前掲のように概ね中村・WW2準拠ビジョンを容れて位置づけ直せば,

シン・対馬金田城史
これ7C半ば以前 原型形成
ex.神功皇后三韓出兵基地
663年 白村江敗戦
664-5年 唐軍による金田城接収
(ex.郭務悰の対馬通過時?)
667年 唐軍基地として認定,改修開始
672年 唐,改修未完成のまま放棄
(天武天皇以降の対外侵攻方針は消失,日本側も城管理を承継せず)

(再掲) 刀伊・元寇・朝鮮(応永)・露(幕末)の進攻地点と金田城〔地理院地図〕※赤ラインは金田城〜白獄〜黒土山

「プレ金田城」がいつの時代に誰の主導で造営されたかは,手がかりがありませんけど,次のような黒瀬城山の地勢を考えると朝鮮への軍事侵攻が頻繁だった時期,即ち「三韓征伐」として語られる時代の可能性が高い。
 陶山訥庵が黒瀬城山を書紀金田城と推定するほか,神功皇后基地説も併記(→前掲wiki参照)したのは,そのいずれもであったからではないかと考えます。朝鮮侵攻のためのやや秘密の,つまり水兵団の集結や準備状況が外海から察せられにくい港湾としては,浅茅湾奥はベストな選択です。そのことは,朝鮮側の推定によると前期倭寇の発進地と目されていたこと,旧日本軍・現自衛隊も部隊中枢を置いていること※とも整合します。
 つまり,金田城の位置は,朝鮮侵攻を想定した発進港として選定された。
※現・海上自衛隊の対馬防備隊(佐世保地方隊下部組織)が本部を置く竹敷位置図
旧海軍の竹敷要港部跡地にある。竹敷要港は陸軍・対馬要塞と戦略的に連携していたと考えられる。なお,戦後は水中固定聴音装置(対潜水艦)の情報中枢でもあると言われる。

 そこに城を築いたのは,前期倭寇時の朝鮮同様,朝鮮側水軍が倭の発進地を攻撃する可能性があったからで,その場合には黒瀬城山から南西に伸びる丘陵全体を防衛陣地として「籠城」することが可能です。
 海上の小競り合いは通常は史料に書かれません。おそらく小規模な「侵攻」,つまり海賊行為は,歴史上互いに無数にあったのではないでしょうか?
 だから,白村江敗戦後にも唐軍はここを接収したはずです。それが日本撤退直後だったかどうかは定かでないけれど,郭務悰が対馬を通過する段階では確実に唐軍の管理下に入ったと思われます。
 元々,唐軍の侵攻目的地は朝鮮です。倭には,朝鮮の後背地として軍事利用できれば,羈縻支配程度以上の必要性を感じていません。
 百済都督府の劉仁軌の頭には,高句麗や新羅が反攻に転じた場合でも一定規模の陸水軍を秘密裡に収容しうる「保険」的基地として,金田城を改修する構想が描かれていたかもしれません。
 ただ,そうした予想よりも早く朝鮮情勢は悪化し,かつ倭の(対天智の)反動勢力も勃興し,「唐立」金田城は完成しないままに終わる。
 天武以降,朝鮮侵攻を実行に移したのは前期倭寇と豊臣秀吉,そして大日本帝国だけで──秀吉は名護屋城,日帝は長崎を基地にしたし,その時代には朝鮮側からの反攻を想定してなかったので──金田城はその後,(WW2で本土決戦が準備された期間を除き)使われることなく原野の中に眠ったのでしょう。
金田城(黒瀬城山)と浅茅湾遠景〔後掲対馬市〕

「009-3金田城(帰)\対馬\長崎県」への2件のフィードバック

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