009-4豊玉(往)\対馬\長崎県

如月初めの対馬の寒さ
バイクで走ると
身に沁みました……

船越の地峡の襞の万華鏡

830,シャッターが開いた直後の「畑島」さんでバイクをレンタル。
「いつも乗ってます」と虚言は吐いたけど──
🛵

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)


908,鶏知。今24号別れを通過。北へ。
 昨日ヘバッた行程をすんなりクリアしていくのは小気味よいけれど……久しぶりのバイクでやや怖い。
 それに……まだ二月です。本日は少し肌寒い。歩いていればその程度だけれど,バイクで風をきってると,割とガツンと寒い。
 本日,とりあえず目指したのは豊玉町仁位の和多都美神社。行程は40kmない。内地なら自転車で行ける距離です。──ところが!

うち船越付近

の島」とはよく言ったもの※で,上島と下島の間,継ぎ目部分の地形は一種凄まじい。
 引きちぎられたようにズタズタなのです。
 それは本来,天から見下さないと分からないのだけれど,ここまでズタボロだと走れば分かります。

※対の島だから対馬,という語源説は通説には一切ない。「日本から新羅に渡る際の津であったところから〔日本釈名・類聚名物考・蒼梧随筆・古事記伝・和訓栞(増補)・黒甜[王●]語=長流筒翁〕。馬韓に相対する位置にあるところからツシマ(対馬)と書くか〔日本釈名・和訓栞〕。」〔日本国語大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典/対馬←ジャパンナレッジ/対馬〕

地理院地図をアナグリフで見ると──何かの幾何学紋様のような図柄になって浮かんできます。

し,地形の凄絶さを体感できるのと,見晴らしよく爽快,というのは全く異なる。というか,ここまでリアス式だと全然,海が……いや海どころか視界が全然ないんである。
 自動車乗りには分からないけど,原付にはヘアピンカーブの連続する車両の多い道は大層オットろしい。
 ここにさらに……手の震えが加わってきました。空は曇天,じわじわと寄せる寒気にハンドルがカクカク震えると,さらに車輪がおぼつかなくなり──

海幸と山幸の海に震えてる

万関瀬戸辺りの景観〔GM.より〕
🛵
豊玉主邑・仁位中心部〔後掲対馬全カタログ/仁位〕

時直前に豊玉町に入る。
 まず通りかがりの店でカイロを求め,インナーに貼りまくる。
 震える手で,開店したばかりの「ファミリーショップ」という洋服屋のドアを開ける。工事現場で着るらしき風を遮断する長袖シャツを見つけ,一も二もなく購入。これを身につけてようやく和多都美神社へ向かいました。
▲和多都美神社の配置図(玉ノ井にあった案内板)

神は二柱。
 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)──瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子で,神武帝の祖父。火折尊(ほのおりのみこと),火遠理命(ほおりのみこと)とも。一般にも山幸彦と同視されますけど,由緒にもこれが書かれます(→次章特論由緒全文参照)。
 豊玉姫命(とよたまひめのみこと)──神武帝の父方の祖母,母方の伯母で,夫は前掲彦火火出見尊。
 つまり夫婦ですけど,天童信仰の母子を如実に想像させます。
▲海中へ伸びる三鳥居の列

の入江に三重の鳥居。不思議な眺めだけど,考えてみれば──宮島の鳥居とかも本来はこの形なんじゃないだろか?
 海中の鳥居という造形は大洗磯前神社(茨城県大洗町)などの例があります。水中ということなら箱根の芦の湖の鳥居もある。後掲オグラさんによると「島全体がいわばご神体であり、神聖なもの」なので「島の上を避けて社殿が造営された」ことの流れだという説があるらしい。
 鳥居も建てられないほどの神威ある土地,ということでしょうか?

つつじ咲く海の拝みの続く土地

▲磯良恵比寿

中にも鳥居。これは何と三本柱です。磯良恵比寿とある。
「背面に鱗状の亀裂がある岩」を祭ってると書かれてます。──「巡礼」(後掲内田・釈)によると,この三角鳥居は最近のもので,元は竹を立てて注連縄を張っただけだったという。あくまで「亀裂岩」が主体,つまりかつての和多都美神社は豆酘の多久頭魂神社のような,海岸の自然景観が剥き出しの聖地だった可能性があるのです。
 そこが「御嶽」と言われなければ気付かない場所。

❝内部リンク❞m19Cm第二十二波m奥武島m4世持井(ニライF68)/■何度も見過ごしてた龍座

m19Cm第二十二波mまれびとの寄り着くは真夜 奥武島m4世持井(ニライF68)



(再掲)前御願(ハーリー前日)に区長・神人・海頭らが竜宮浜で行う拝み(2022年6月1日∶(上)拝み方 (下)供物)。焼き魚,刺身米,茶,団子,スク(アイゴの稚魚)などを載せた豪勢な盆が供される。
※なんじょうデジタルアーカイブ/【地域行事の”いま”】②奥武島の海神祭
URL:https://nanjo-archive.jp/feature/1007/

▲左手の水路奥の船

良恵比寿の水辺から奥へ伸びてる水路の先に,舟が置かれてました。恵比寿の手入れ用のものかもしれないけれど,何かの象徴かもしれません。これも海民らしい装置です。
 第四鳥居を潜ると左手に土俵。ここを巡るよう水路は長く続き,神社右手にまで廻り込んでる。
 おそらく,古くはこの水路ラインが海岸線か内港を成していたのではないでしょうか。

瓊の海や波良波の宮の湿る森

▲もう一つの三角鳥居

の林に進みます。
 途中,もう一つ三角鳥居がある。記名はない。
 正面の三角鳥居が聖地視されてることの兼合いから考えて,ここもおそらく本来「重い」場所のはずです。なぜか画像を残す気になれませんでした。
▲裏手の巨木

殿の右手奥には波良波神社。
 左手奥に豊玉姫之墳墓と書かれる場所。
 岩塊の山側陰にどうも……何というか空気の湿った場所がある。御嶽っぽい。
 一礼して去る。
──後日,この辺りに,地元の伝えでは厳重な禁足地がある,と書く記事がありました。さもありなん,という記憶が残っています。

昼日なか こがねうなぎのとぐろ巻く


りがけ,東へすぐ。神社の浜側入口辺りにあったのが「玉ノ井」という場所でした。
 豊玉姫と瓊瓊尊の出会い場とある。──鹿児島には瓊瓊尊を祀る神社が実に30を数え,その幾つかはやはり豊玉姫との邂逅伝承を伝えます〔後掲八百万の神〕(例→次章霧島神社由緒書)。この逸話は一体何を意味するのでしょう。

※指宿市開聞にやはり「玉の井」という井戸があり,ここにも豊玉姫と瓊瓊尊の邂逅伝承があります。〔後掲鹿児島観光ガイド〕

 これも沖縄っぽい。ガー(井戸)を祀るなんてヤマトで普通はないと思います。
▲玉の井

島先にぐるりと廻り込んで,お昼にありつこうとしましたところ──結構な人気店で席が空くまで少し待ちました。
1155あなご亭
並せいろ550
「長崎県対馬西沖産黄金(こがね)あなご」を売りにしてる。材木積み降ろし港の奥の店だけど観光客もわんさか。
 やや歯応えに欠けるけど芳香は上品でまずまず。隣の博多の家族が感動しまくってたけど……それなら宮島とか三原のを食べてほしいね。
 1250,帰路につく。寒気は何とか収まったけど……この距離をナメて出発前に狙ってた峰まではとても無理。──この日,バス停から和多都美神社まで歩いてる旅行者を見かけた記憶があります。バスの時刻をギチギチに調べたなら,公共交通機関で回る手もあるのでしょうか?

神代周辺キャラ勢揃い 皇統を除く

▲1311和多都美御子神社

役所支所まで戻ってきました。1257,支所対面,サイキバリューから左折。
 1300,和多都美御子神社。祭神・鵜茅葺合尊(うがやふきあへずのみこと),神武天皇,應神天皇,菅原道真公。
「もと『天神宮』と称していたもので明治初期に和多都美御子神社と改称したけれども和多都美としての由緒は無いのである。」(→後掲全文)と正直に書いてる。
 神様がたくさん登場されるので,一度系図を掲げておきます。

皇祖系図(鵜茅葺合尊周辺)

瓊杵尊(ニニギ神)はアマテラス神の子孫で,その子が火折尊(彦火火出見尊),その子が鸕鶿草葺不合尊,その末子が神武帝──という辺りで訳が分からなくなってきて,とうとうまたしても別章建てになってしまいました。
 ただここの境内社の宝満神社は祭神・豊玉姫命,玉依姫命,豊姫命。南護神社は道主貴命,瀧津島姫命,湍津島姫命,市杵島姫命とある。これと新霊神社(祭神・神武天皇御兄弟神)の「三社を昭和十七年氏子の合意に基づき合祀」したとある。皇統を除く周辺キャラを勢揃いさせてる,珍しい神社です。
 少し登る。かなり参道は荒れてる。倒木がそのまま。
▲1313鳥居下から本殿方向

皇紀2600年の神社発掘

や?荒れているのではないぞ?
 ここは,豆酘の多久頭魂神社の上を行く,元々山野のような社であるらしい。
 鳥居をくぐると狛犬。狛犬だと思う。そのアフリカを思わせる猛々しい面。
▲狛犬

一の鳥居脇に,皇紀二千六百年鳥居建設記念とある碑。ということは,1940(昭和15)年まで鳥居は無かったか朽ちていたわけです。
 境内社は,本殿左手に確かに合祀した一社しかない。それが昭和17年,つまり大東亜戦争開戦直後ということは,その頃ににわかに「発掘」された神社らしい。
 なぜでしょう?
▲皇紀表示の碑

重力の濃さに髪を引っ張られるけれど

うも……一つの土地としての感触が,他と全く違う集落です。軸線がつかめない,というのか……(本章巻末及び次章特論参照)。
 聖観音を本尊とするという清玄寺に寄ってみた。1331。けどこれは的外れ。天台宗だし,中を覗いてみても本尊も普通に観音様。少なくとも天童又は媽祖信仰らしき痕跡は認めず。
▲清玄寺から集落

339根津菓子舗
かすまき300
ついでに豊玉集落をサクッと回ってみました。みましたけど,雞知と同様,どうしても特色がつかめません。町の顔の中心線が捉え難いというか……。
▲豊玉集落

並みは厳原よりはるかに疎らではありますけど──石垣などはかなり勇壮なものも散見されます。
 重力の濃い土地だ……とは感じるんですけど,やはり咀嚼し難いのです。
 後ろ髪を引かれつつ,去る。
▲集落の居宅

小船越位置図
万関瀬戸及び大船越位置図

■レポ:鼬殿 越すに越されぬ大船越

 対馬上下島の継ぎ目には三つの地峡があります(上図参照)。まず,はっきり人工と判明している万関瀬戸の沿革を見ますと──

東の対馬海峡から湾入した三浦湾と,西の朝鮮海峡から湾入した浅茅(あそう)湾の地峡部を,軍事上の要求から掘り切った人工の瀬戸万関に,南北に通る陸路をつなぐため,両側の丘に架橋したもので,明治33年に完成した島内唯一の鉄橋であった。水面よりの高さ約30m,橋長80余mの橋であった(略)島内第一の大橋であったが,現在は湊大橋・三根大橋に次いで島内第三位の橋長。万関瀬戸の急流と,橋の長さと風景のバランスがよく,対馬観光の名所として推賞されている。〔角川日本地名大辞典/万関橋〕

 万関地点の工事前の地形はよく分かりません。ませんけど,対馬海峡がにわかに緊張した日清・日露期に,対馬を迂回しない短縮水路を造ろうとしたものです。

久須保水道ともいう。(略)東から湾入した三浦湾と,西から深く湾入した浅茅(あそう)湾の間の地峡を掘り切った人工の瀬戸である。日清戦争後,竹敷が海軍要港となり,浅茅湾は艦艇の泊地となったが,大船越瀬戸は艦船を通すことができないことから,海軍が当瀬戸の開削を計画,明治33年に開通した。大型艦船は通れないが,水雷艇の通路として利用され,日本海海戦にも水雷戦隊はここから出撃して行った。〔角川日本地名大辞典/万関瀬戸〕

「日清戦争後,竹敷が海軍要港とな」っていて,ここが現在の海上自衛隊対馬防備隊(長崎県対馬市美津島町竹敷4-191→GM.:地点)に引き継がれたものでしょう。「水雷戦隊」は秋山真之(連合艦隊参謀)がバルチック艦隊を全滅させるために用意した「七段構え」の第一・三段で主力となる予定だった奇襲水雷艇群です。「出撃していった」というのは,実際に戦われた第三段の掃討戦のことでしょう。 
 同じニーズは,古代から,特に白村江戦前後や豊織期の朝鮮出兵時には存在したはずです。その際,大小の船越地名の残るこれらの地点は,どういう生活の情景を文字化したものだったのでしょう。

船が越さない船越なんて

 対馬の船越村を角川日本地名大辞典で引くと,元は10か村に分かれていたとあります。
 上記地図の大船越に頻発するカタカナ地名(シャガタン山・ムツロ浦・オキビラ山)を見ても,漢字のない時代からの古い地名と推量されます。

(近代)明治41年~昭和30年の下県(しもあがた)郡の自治体名。(略)大船越・久須保・緒方・犬吠・大山・小船越・鴨居瀬・芦浦・賀谷・濃部の10か村が合併して成立。旧村名を継承した10大字を編成。
〔角川日本地名大辞典/船越村(ふなこしそん) JLogosID : 7222694〕

 壱岐,佐世保湾及び島原半島にも同地名があります。対馬船越と同じく,古くは船を担いで越した場所と伝わっています。
 次に掲げるのは石垣島の船越の事例です。ここでは実際に船(サバニ)を担ぐ行事が行われています。

沖縄県石垣市の船越漁港の位置図

旧暦5月4日の「ユッカヌヒー」に合わせ6日、石垣島北部の船越漁港で第22回船越屋(フナクヤ)ハーリー(主催・北部漁友会)が開かれた。地元住民らが2隻のサバニを漁港まで担いで運ぶ「船越」の伝統行事や、にぎやかな競漕を多くの人たちが楽しんだ。(略)船越地区は東西の陸地幅が数百㍍しかなく、昔の漁師は天候により、船を担いで東西の海岸を往来し、出漁したと言い伝えられる。〔後掲八重山日報〕

──というのが分かりやすい船越地名説だと思いますけど,所詮,このプログはひねくれてまして,折角ここまで爽やかに語ってきたのを転調させてまいります。

鏡味完二の「船越≠曳舟」説

 鏡味完二さんは1909年生,1963年没。名古屋市立工芸高校の教諭で専門分野を「地名学」と自称してきた方という。
 もうお一方,araki minoruという人が,全国の「船越」地名を角川日本地名大辞典からマッピングしておられました。

全国58の「船越」地名〔後掲araki minoru①〕※同著者が角川日本地名大辞典で検索したもの

※凡例(再掲)
地峡での船陸送・地峡での船乗継
地峡での船陸送(9) 岩手県山田町、三重県志摩市、島根県西ノ島町、愛媛県宇和島市・愛南町、愛媛県愛南町、福岡県糸島市、長崎県佐世保市、長崎県対馬市、沖縄県南城市
地峡での船乗継(1) 長崎県諫早市
渡船場・舟運(船着場)・人名由来
由来未記載・地名未収録

 まず簡単に押さえることができるのは,地名「船越」の土地中,船を担いで地峡を越えた(以下,鏡味さんに準じ「曳舟」と書く。)事績が伝わるのは,半数ほどでしかないことです。
 鏡味さんが重点フィールドとしたのは,三重県志摩市大王町の「船越」です(→GM.:地点)。

鏡味完二は志摩半島の船越(地元発音 フネコシ)における曳舟について次のように記述しています。
「平素は漁業用の船が表海に、農業用の小船が裏海にのみあった。ところが真珠の仕事が忙しくなると、表海の大きい船を裏海(英虞湾)へ移し入れる必要が生じてくる。それには現在の船越の町を横切る2筋の道路の何れかを通って船を曳いた。手漕ぎの1ton.程の船であれば、5~6人で吊って歩いた。それより大きい船になるとコロに用いる横木(この地方ではスベリという)を船の下側に差入れ乍ら動かした。」昔はこの地峡はもっと狭かったこと、昭和6~7年に深谷水道という運河が設けられてから曳舟はなくなったことも記述しています。〔後掲araki minoru②〕

※後掲鏡味参照
 だから,鏡味さんは船越≠曳舟と言っているのではありません。志摩船越には,対馬船越や石垣船越と同様に曳舟伝承は確かにあることを確認されています。その上で──以下はaraki minoruさんによる要点筆記です。

1-2 地名「船越」が曳舟に由来しない理由
ア 船越村役場所蔵「志摩国英虞郡船越村地誌」(著者及作年不明)を繙くと、「海岸ハ岬湾出入シ渡船海路ノ要津ナルヲ以テ船越ト名ク可シ」とあって曳舟由来を説いていない。
イ 以前この集落は「大津波(オオツバ)」といったが、忌字をさけて「船越」と改めた(年代不詳)。(同村助役談)
ウ 近くに、尾根に舟形の窪みのある峠道の通ずる場所の小字名に「船越」がある。
 以上の情報から、鏡味完二は曳舟の社会慣行のあるこの場所にもともと船越地名はなかったことを明らかにしました。(略)
 曳舟の行われる所に船越の地名が元はなく、返って丘の上の峠地形のことばとして存在していたことから、「船越」という古語は曳舟の意味ではなかったと推論しています。
 峠地形の語としての存在が古いということと、同一地域社会で同時代に、2つの同音異義の言葉が併用される望みは薄いから、そのように推論できるとしています。〔後掲araki minoru②〕

 実は鏡味さんの論文原文に到達できてません。以下はaraki minoruさんによる孫引きになります。

船越の分布図をみると、「その位置からいえば海岸にあるものよりは、寧ろ内陸のあるものの方が多数である。更に海岸にあるものも、その半数は地峡部に存在しない。更にもう一歩進んで地峡部に位置するものも、その地峡部が数十mあるいはそれ以上の山岳丘陵になっていて、到底そこを曳舟など不可能なものが多い。」〔後掲araki minoru②〕

 鏡味さんの結論は,曳舟否定説なのか否かが判然としない書き方になっているようで,そこをaraki minoruさんは次のように解釈されています。

「船越」を「舟利用における引っ越し」と考えると、海岸や平野部の「船越」名のほとんどについて説明できると思います。
 つまり舟を利用しているなかで、乗越えたい障害物(海岸の陸繋、地峡、平野の急流部、川を遮る峠等)のある場所で、一旦舟を降りて荷物と人が陸行し、再び別の舟に乗る行為(舟の引っ越し)を「船越」と考えることもできるのではないかと想像します。
 曳舟ではなく、舟から降りて陸行し、再び別の舟に乗ることを「船越」と呼ぶならば、たとえ標高が高い峠をそう呼んでも、不思議ではありません。〔後掲araki minoru③〕

 つまり,船越の「越」は,語順から単純に読める「船を越えさせる」,主語を船とする読みではないのではないか。あくまで主語は人間で,「船で来て地峡を(人間が)越える」場所を指しているのではないか,という読み方を古来の人々はしていたのではないか,という考え方です。
「船越」をしていた昔の人は,曳舟イベントをしていた訳ではありません。生活としての舟運が目的なのであって,その地峡の地形,地峡の両側に船を持てる(又は借りれる)財力,あるいは運送するのが人なのか物なのか……といった状況によって,船越なる地峡を越す方法は多様だったと考えられる訳です。
 以上の立場を総括し,曳舟否定説ではないことに鑑み,以下,鏡味説を船越=「船人越●●●説」と言い換えて話を進めます。

(再掲)石垣島船越漁港の旧暦5月4日「ユッカヌヒー」での曳舟光景〔後掲八重山日報〕

検証:曳舟は何人力を要するか?

 船は結構重い。
 曳舟という作業は,どの程度に負担だったのでしょう?先の石垣島の画像(上記再掲)で数えると,舟としては最も軽いはずのサバニを30人ほどで担いでいるように見えます。
 人役換算は,算術的には極めて簡単です。船の重さを一人当たりの荷重可能重量で除せばよい。
 まず,分母ですけど──

Ⅰ2 人力による重量物の取扱い (2) 満18歳以上の男子労働者が人力のみにより取り扱う物の重量は、体重のおおむね40%以下となるように努めること。満18歳以上の女子労働者では、さらに男性が取り扱うことのできる重量の60%位までとすること。 〔後掲厚生労働省/職場における腰痛予防対策指針〕

 2019年国民健康・栄養調査〔後掲e-Stat〕での日本人の平均体重は68.7kgだけど,成人男子と見て70kgと捉えると,×40%は28kg。
 年少者については,腰痛負担を考慮し,継続作業で16-18歳の重量上限を20kgとしています。

○ 労働基準法(昭22法律49)
(危険有害業務の就業制限)
第六十二条 使用者は、満十八才に満たない者に、運転中の機械若しくは動力伝導装置の危険な部分の掃除、注油、検査若しくは修繕をさせ(略)、又は厚生労働省令で定める重量物を取り扱う業務に就かせてはならない。
○ 年少者労働基準規則(昭29労働省令13)
(重量物を取り扱う業務)
第七条 法第六十二条第一項の厚生労働省令で定める重量物を取り扱う業務は、次の表の上欄に掲げる年齢及び性の区分に応じ、それぞれ同表の下欄に掲げる重量以上の重量物を取り扱う業務とする。〔後掲e-Gov法令検索/年少者労働基準規則〕


 昔の人,特に海人は逞しかった,と荒く想定しても,継続的に担げる重量は25kg/人とするのが妥当のようです。
 次に,分子となる船の重さですけど──やはりサバニを復元作成しようとされた荒木さんという方のプログがありました。
500kg:「二隻のサバニを組んだ海人丸一号は総重量1トン以上ありますので、一人で簡単に陸にあげられません。」〔後掲荒木2013.05〕
240kg:「一隻240kgと想像以上に良い出来のサバニが誕生し」〔後掲荒木2013.11〕
 かなり誤差があるけれど,次の記録によると,サバニは製造から5〜10年で使用に耐えなくなり,その理由は重量が増すからだとされます。新造で250kgと考えましょう。

漁船に使用する夫ふの刳り舟(サバニ)は、杉或あるいは松を用ゆ。其元材は大抵之を薩隅地方に仰ぎ、本県地方より出すは絶へて之れなし而しこうの其杉を以もって製つくる者は、凡そ十年間を維持し、松材に係る者は五,六年を過くれば、著しく船体の重量を増加し遠く出漁するには堪たえずと云う。〔明治政府「沖縄群島水産史(国立国会図書館所蔵)」明治20年←後掲大城〕

 以上から,250kg÷(25kg/人)=10人
となります。つまり,最軽量の状態のサバニでも10人がかりでしか運べない。これは,浜へレールで船を上げるのを人力でやった人なら実感のある数字でしょう。
 例えば,対馬船越へ九州から玄界灘を渡ってきた外航船を,人力で曳舟して浅茅湾に入れ,そこから朝鮮半島を目指す,というのは,いかに丸太やレールを使ったと想定しても,数十人単位の人力を要したと思われます。

横須賀と佐世保船越 越ゆらむ▲

 二つ事例を見ます。いずれも船が越した船越とは考えられない例です。では何をもって船越地名たるのか推定すれば,「人が越えれる地峡の地点」さらに転じて「人が越えられそうな地峡の地形」なのではないかと鏡味さんは見ていたらしい。

横須賀市船越町〔GM.:地域〕

 鏡味完二は横須賀市の「船越」地名について、「曳舟など全然考えられない地形であり、これも恐らくその背後の峠のスカイラインの形態からくる船越地名であろう。」としています。
 私は、この「船越」が東京湾と相模湾を隔てる狭い地峡部(三浦半島)に位置していて、古代の舟運ルートと関係してつけられた地名であると想像しています。
 縄文海進時代には地峡部の幅は現在よりもはるかに狭く(特に逗子市側の田越川[※]の谷底平野のほとんどは海面であったと思われます)、古代にあっては舟を利用できない陸地部は大変狭かったと考えます。
※甚だしい空想ですが、田越川(タゴエカワ)のタゴエはタオ(=峠)コエ(越)ではないかと疑っています。〔後掲araki minoru③〕

 縄文海進期の横須賀市近辺の海岸線ははっきりした推定図を確認できないけれど,横浜付近の海岸線推移を見る限り,確かに現在より相当地峡が狭かった可能性はあります〔後掲横浜市ふるさと歴史財団〕。

横浜付近の現在の海岸線(実線)と縄文海進期の海岸線(色付部)

 転じて佐世保市南西部の船越ですけど──地形的には,半島部で最も狭隘です。
 ただ確かに地形は急峻で,曳舟が行われたとは考えにくい。
佐世保市船越町の位置図(地理院地図アナグリフ)

参考 長崎県佐世保市
「佐世保湾の西側の半島の1部分(ママ)で、その地峡部に近く『船越』の集落名がある。所が地峡部には40mの丘が連なり、現在では村道がここにトンネルをうがって通じている程の、険阻な地形であるから、この部分を船が通れる道理はない。地形図によればこの地峡あたりに、その横からのプロフィルで2~3の船形に窪んだ地峡があり、そこを船でなく、人が越えた意味の『船越』という地名が附けられたものと思われる。」〔後掲araki minoru② ※括弧内は後掲鏡味〕

 上の地図では判然としないけれど,この地点を拡大すると確かにトンネルが造られており,迂回していたと見られる旧道もない(下図)。古来から,ここを通っていた形跡はないのです。

(上)船越の地峡部〔GM.〕 (下)同地点のトンネル

 GM.アースが出ないけれど(2023.3現在),この状況では鏡味さんの言う「人が越えた意味」での船越すら根拠を欠く。横須賀と同じく「背後の峠のスカイラインの形態」を指したように思えるのです。

❝内部リンク❞015-4安芸府中\安芸郡四町\広島県

安芸船越 いひし橋間の船ごしに

 こうなると,広島人の当方としては避けられないのが安芸の船越(広島市安芸区船越町→GM.:地域)です。
 安芸郡海田町から広島市安芸区船越町経て府中町へ入る地峡が,この地域に当たります。長さからしても,感覚的に曳舟できる行程ではありません。

古代の府中周辺(右下・南東端地峡部が船越)〔後掲安芸の船越から〕※赤線:古代官道経路 赤四角:安芸駅跡とされる「下岡田遺跡」

 ところがです。安芸の船越にお「越」しになったのは初代天皇・神武帝である,とする記事を記す資料があります。ここには曳舟も書かれます。
※神武帝が安芸に7年(古事記)滞在した記事の原文→(前掲)古事記/神武東征

1 船で来たから船越
『神武天皇が埃宮(エノミヤ)に御駐蹕(チュウヒツ=天子の小休止)あらせられし際は、・・略・・時折、天皇も(船越に)御清遊を試みさせ給いしとのことである。船越の地名はこれにより起こったもので“天皇の御船がお越しになった”との意である』
2 船を担いで越したから船越
『神武天皇御東遷の際、広島湾に軍船を進め給ふや、時に風波非常に荒く、遂にこの有の浦海岸に御着船遊ばされて御上陸になった。而して御注蹕あらせられる適地を探求遊ばされたが、当所には思召しに適する地なく、遂に府中八幡の松ヶ崎に到らせられ其処に御注蹕あらせらるることとなった。それで軍船を陸揚げして今の船越峠を担ぎて御運び申し上げ、天皇は府中松ヶ崎に到らせられ給ふた。これに因みてその峠を“船越峠”と呼び、“船越”の町名は起こった』〔「神武天皇聖蹟誌」S16年廣島縣編←後掲船越合戦〕

 ただ,この曳舟物語は,すぐに看破できるほど無理筋です。「戦船」が如何なる形状・重量のものであろうと,府中八幡方面に着船するのに,陸路で担ぎ上げるよりは南から海路を迂回した方が百倍楽です。だから,この曳舟物語は,おそらく神武帝の神威を強調する架空のものです。
 それに対し,前段の“天皇の御がおしになった”から船越,というのは分かりやすい上,意外に当時の浦人の感覚にも近いように思えます。

船越〜古・府中湾の高低差〔後掲安芸の船越から〕

 古・府中湾にも居たであろう浦人にとって,神武帝とその「東征」軍は──畏れ多い言い方をするならば,大規模海賊団と区別出来るものではなかったでしょう。
「聖蹟誌」を信ずるならば,彼らは海田から標高40mの船越峠を越えて古・府中湾に侵入したことになります。これを浦人側の領域意識に立って一般化すると──「我らの海」である海域へ侵入してくるのは,常に,隣接海域との間を最短で結ぶ地峡だったでしょう。
 浦人にとって「船越」とは,外部海域からの異質な,又は海域意識そのものを持たない異次元の海民が,不意に訪れる場所だったのではないでしょうか?
 こういうモデルで捉える時,次の辞書的な解釈が意外に大きな意味を持って参ります。

〘名〙 (「ふなごし」とも)
① (船をかついで越したところから) 半島などで、陸地の幅が最も狭いところ。
② 船から船へ板をかけて、その上を越して渡ること。また、船を越して向こうに渡ること。
※長唄・両国八景(1876)「船なればこそ涼ぞと、いひし橋間の船ごしに」〔精選版 日本国語大辞典 「船越」←コトバンク/船越〕

人口・世帯数の推移〔国勢調査←後掲長崎県〕
〔後掲長崎県〕※上記原典注記
(参考)江戸時代の人口は32,725人(元禄12年,西暦1699年)が最高との記録がある。 (新対馬島誌より)

豊玉の対馬船越 過ぎてまた海

 さてようやく話を対馬・船越に戻します。
 明治・大正の頃の船越村は,人口3.3千人。上記対馬全体の人口中,6%が居住した地域ということになります。

(続)役場ははじめ大船越に置かれ,大正15年に小船越へ移転された。大正4年の「長崎県大観」によれば,戸数658・人口3,290,官公署には村役場・大船越郵便局・大船越巡査駐在所,神社は能理刀神社・和多女御子神社{後掲画像参照}・恵比須神社・乙宮神社・胡籙島神社・乙宮神社・天神神社・若宮神社・乙宮神社・恵比寿神社・阿麻氐留神社,寺院には大通庵・高山寺・梅林寺があった。また特産物として鯣23万8,000斤・海参2,000斤・その他真珠若干,名勝旧跡として大船越の迫門・万関・紫瀬戸が記される。〔角川日本地名大辞典/同上・船越村〕※{}は引用者

津口和多女御子神社(対馬の住吉神社)
場所:美津島町鴨居瀬
海から直接登る階段がある。豊玉姫を祀るけれど,主神は住吉とされる。
〔後掲ぼくが思うカラスの子,GM.→地点

 どうも数字を検証しにくいけれど……神社の数は異様だし,スルメ(鯣)約24万斤はニッチではあれ巨額だと思える。何より,大正末〜昭和10年代には対馬人口比で一割を上回るところまで拡大してます。

(続)世帯数・人口は,同(引用者注:大正)9年1,395・6,333,昭和10年1,210・5,687,同25年921・4,970。昭和30年美津島町の一部となり,村制時の10大字は同町の大字に継承。なお,現在でも大船越・小船越・万関を含む当地域を総称して船越と称する場合がある。〔角川日本地名大辞典/同上・船越村〕

 総称としての「船越」という記述は,よく考えると重要な意味を持ちます。対馬船越が曳舟ルートを指すならば,それはほぼ一次元の線でなければならず,二次元のエリアの名称になるはずがないからです。
 なお,軍事上の切通として紹介した「万関」について,旧名を「万関越え」といい,ここは曳舟でなく人が越えたと書かれます。

万関という名称は,旧来万関越えと称した地名によるもので,それは船を東西の浦に着けて,山の鞍部を越えて往き来する近道だったといわれている。〔角川日本地名大辞典/万関瀬戸〕

 以上から推測される対馬船越の,ごく最近,戦前までの情景は,東西に着岸した船人同士が,行人を含む荷を交換し合った場所,と想像されることになります。それは玄界灘⇋浅茅湾の海域接点,もしくは両交易ルートの継ぎ目と捉えてもよいと思います。
 こうした複数の別ツールによる交易ルートがタペストリーのように編まれた,広義の交易ベルトについて,先に福建-広州の章で触れました。それは,河川水運と地峡の陸路越えを何重にも組み合わせた交易路でした。

関連:m077m第七波mm(漳州)美食街/■外伝の外伝:武夷山茶の通った道

m077m第七波m泡立つ昏みを妈祖と呼びませうm美食街


▲(再掲)武夷山~広州鎭行程(GM.)▲「上質茶葉の輸送」スケッチ

 そもそもです。なぜ船越の「越」字を船の「越し」と読むのでしょう?音読み「えつ」でも連体形「こえ」,終止形「こゆ」でも良いのに。
 連歌に「打越」(うちこし)という作法があります。ある句と前句の付け合いの趣向が,前句と前々句のそれと似ていることで,転じて①(江戸期の街道歩きで)次の次の宿まで歩くこと,②(同じく江戸期の商取引で)江戸の問屋を通さず上方と奥羽が直接取引することも指す〔デジタル大辞泉 「打越し」←コトバンク/うちこし〕。
 ここで問うているのは,我々現代に棲む陸人の目ではなく,海民の視点からは,隣接する海域との接点たる地峡=船越が何と見えるか,という点です。そこから神武が来襲することもあれば,交易利益を生む財物や騙し易い駆け出しの商人が漂着するかもしれない。陸の国境と同じく,緊張と駆引きと営利の可能性を孕むアジールとして,つまりそのような濃い地点として「船越」は視覚せられていたと思うのです。
 だから,船越を実際に船体が越えたかどうかは,上記の視線からはどちらでも良い。地形・距離・人役はもちろん,向こうの海域の海民集団と自らの友好度や,場合によっては戦力比や経済力差によって,越える方法は複数の選択肢から選ばれたでしょう。その一つが曳舟だったわけですけど……より重要なのは,全国無数の船越の地で,海民が発揮したかの地峡を挟んで智謀を尽くして交易が営まれたであろうことなのです。
 けれど,対馬船越が賑わった頃の情景を伝える記述は,僅かに前記の品数のみです。
「鯣23万8,000斤 海参2,000斤」


■レポ:今ここにある瓊の光景

 この前日(金田城行き)の朝,厳原の浜殿神社に立ち寄っていますけど(→金田城(往)),豊玉行きでは,知名度は遥かにある浜殿神社を見逃してしまってます。
 ここは豊玉彦命(古事記:大綿津見神)を祀る社で,参道脇にその墓と伝わる場所があります(豊玉彦之御陵墓)。
 和多都美神社の式内社「波良波神社」が元は浜殿神社内に鎮座したけれど,天平年間(729-749年)に和多都美神社の境内に遷座したと言われます〔後掲神社と古事記〕。つまり,和多都美神社のプロトタイプは現・仁位集落内にあった可能性がある。何らかの理由で仁位から引き離されたのが和多都美神社で,それはかつて仁位にあった仁位館を核とする旧勢力の没落と機を一にすると思われます。

お館様:正史から消えた仁位宗氏の祠

南北朝期の居館名。故地は下県(しもあがた)郡豊玉町仁位中村。島主(宗氏)の館。仁位は島内の要衝で,宗氏の有力な一族がいた。貞和年間襲封した宗経茂(宗慶)は,小弐氏の守護代として筑前にいることが多く,弟頼次(宗香)を代官として仁位に置いたが,宗香の子澄茂は永和年間に守護職となっていたことが永和4年の木坂八幡宮棟札,その他の古文書によって確認される。「宗氏家譜」にはないが,澄茂の子頼茂より,経茂の孫貞茂が奪権して守護職となり,府を佐賀(峰町)に開くまで,仁位に島主の館があったことは疑いなく,その後も仁位の宗氏は守護代として続いた。現在県立豊玉高校の裏に「お館(たて)様」と称する祠があり,仁位氏(宗氏の裔)がこれを祀っているのが屋敷神に違いない。高校建築の際,掘り起こした土中から中世の陶磁片※が採集されたのも傍証となる。〔角川日本地名大辞典/仁位館〕※は引用者

※後掲九州旅ネットは「豊玉高校運動場から,中世の布目瓦が採取された」としており,いずれが真であるかは確認できなかった。
「仁位館」跡とされる「お館様」の跡地碑を後掲九州旅ネットは掲載しているけれど,後掲城郭放浪記はこれを発見できておらず,これまた現存が確認できません。

お館様の画像〔後掲(上)九州旅ネット,(下)城郭放浪記/仁位館〕

 いずれにせよ,峰・厳原の宗氏が正史から徹底的に抹消したと見られる仁位・宗氏が,現・豊玉の土地にはいたらしい。それを時期的に見ると──

1378(永和4)年 宗香の子・澄茂が守護職
〔木坂八幡宮棟札,その他の古文書←前掲角川日本地名大辞典〕
1408(応永15)年 八代・宗貞茂,現・峰町に佐賀館築城
1468(応仁2)年 十一代・宗貞国,中村屋形を築く(府中へ本拠移転)
〔後掲城郭放浪記/佐賀館〕

 私見ですけど,「本家」宗氏が,治世上はあまり条件の良くない佐賀(現・峰町)に当初の本拠を置いたのは仁位・宗氏への牽制でしょう。そう仮定すると,府中への移転は仁位・宗氏を完全に駆逐したからで,逆に言えば15C半ばまでが仁位が対馬の中枢だった時代だったということになります。
 14-15Cを山とする前期倭寇の活動期と,仁位・宗氏の衰亡期が重なることは,大きな意味を持つと考えます。

「和多都美としての由緒は無い」とは何か?

 さて,本節のテーマは和多都美御子神社のお話です。
 豊玉彦命の孫,和多都美神社主神・ホオリ神の子に当たるウガヤ神を,仁位の和多都美御子神社が祀っている。これは,豊玉彦命やホオリ神を和多都美神社に(おそらく宗氏本家に奪われ)移動させられたから※,「御子」しか残らなかった,あるいは全てを奪われたからウガヤ神を「御子だから見逃してもらえるよね」と祀ったかだと考えられます。

※浜殿神社にあった「波良波神社」が和多都美神社に鎮座させられたのは天平年間(729-749年)(→前掲角川日本地名大辞典)で,宗氏本家の佐賀移転より7百年以上前ですけど,熊襲(前々章参照)と同じく既にこの時代,(その実体や実証的論拠はないけれど)浅茅湾の海民は皇祖神の出身地たる由緒を剥奪される処遇を受けていたことが考えられます。

 そう考えると「和多都美としての由緒は無い」という由緒は,別の痛みを伴った記述として受け取れます。

 当社は仁明天皇の承知7年に官社となり延喜式神名帳に名神大と記載された名社である。
貞和5年(1349)筑前国大宰府より天満宮を勧請す。後当宮に合せ祭る。
 当社はもと「天神宮」と称していたもので明治初期に和多都美御子神社と改称したけれども和多都美としての由緒は無いのである。しかし天神宮時代の当社は木坂八幡宮,府内八幡宮に次ぐ社格を有しその祭禮には藩主の御名代が参詣する名社であった。往年の仁位祭とは和多都美神社でなく天満宮であったのである。〔案内板〕

 ウガヤ神は,実体の乏しい,つまり存在しなかったと推測される皇祖神です。
だから「和多都美としての由緒」とは,実体神・ホオリ神,或いは「大綿津見神」豊玉彦命又はその娘にしてホオリ神の妻・豊玉姫を指すと思われます。さらに次のような記述を見ると,ホオリ神の父・瓊瓊杵命も含むのでしょう。

湾内に大石・嵯峨・佐志賀・貝口・佐保・卯麦・糠・仁位の諸浦があるので,仁位浦は狭義に限定して,全体を呼ぶときは仁位湾という。(略)湾岸には弥生時代から古墳時代にかけての遺跡が多く,特に仁位浦・佐保浦・貝口浦の集中度が高い。分布密度の濃厚さは島内に並ぶ所がなく,出土資料の貴重さにおいても他に比類がない。殊に大量15口の広形銅矛を一括出土した黒島遺跡,多種多様の舶載青銅器を一括出土した佐保の遺跡が知られ,その他にも国産品と舶載品を共伴した例が多いことから,「魏志倭人伝」にいう「南北に市糴」した対馬の中心が,この湾岸にあったことが考察される。なお延喜式内名神大社和多都美神社と同式内波良波神社があって,現在不明の大島神社(同式内社)も仁位にあったといわれるなど,この入江の辺に倭の水人の本拠があったのではないかとみられている。仁位は「和名抄」にはないが,古代仁位郷があったことは確実のようで(地理志料),中世には仁位郡があった。南北朝期には,対馬の守護となった宗(惟宗)氏が仁位にいたが,室町期には守護職は佐賀(峰町)の宗家に移り,仁位は守護代となっている。応永の外寇に際し,浅茅(あそう)湾に攻め入った朝鮮軍が仁位を目指したことから,糠岳の合戦が行われ,その戦況は「宗氏家譜」と「李朝実録」の双方に,それぞれの立場から詳述されている。(略)仁位の名義は瓊(に)とする説が有力だが,この音がニイとなるのは,紀(き)の国が紀伊となったことに類似する。〔角川日本地名大辞典/仁位湾〕

 即ち,14C頃までの「対馬」とは浅茅湾,中でも「仁位湾」だった疑いが濃厚なのです。
 また,仁位の古字と伝わる「瓊」が瓊瓊杵命に通じることは明白です。難漢字「瓊」の意味は(読み:ぬ)「赤色の玉」又は(読み:に)「美しい玉」〔精選版 日本国語大辞典 「瓊」←コトバンク「瓊」〕〔精選版 日本国語大辞典 「瓊」←コトバンク「瓊」〕。これが「豊玉」と同義であることも疑いにくい。
 これをそのまま信じるならば──神武帝系譜は,少なくともその曾祖父・瓊瓊杵命から祖父・ホオリ神までは仁位(=瓊)湾に居たことになります。

※皇祖の固有名詞の一部のため記紀が編集し得なかった「鵜」の羽という点について,とっさの屋根材として使用するほどふんだんにあったものと考えられるけれど,近現代の対馬に多数生息するのはウミウの冬季渡来鳥しか考えられない。〔後掲山口・鴨川,原文後掲展開内〕古代の生息状況は不明ですけど,本州に広く分布する(越冬しない)カワウが対馬にいないのは,玄界灘を隔てる地理的な理由である可能性が高く,古代においても同じく存在しなかったと考えられる。従って,この観点からは対馬はウガヤ神の出生地たりえない。



 かくも日本神道上重要な神話的由緒を持ち,「往年の仁位祭とは和多都美神社でなく天満宮であった」にも関わらず,現在の地元のこれらの神社に対する対応には,どうも素っ気なさを感じてしまいます。仁位は,特に対馬の中では,決して過疎村の雰囲気ではないのに──という点が気になったのですけど,それはある意味江戸期から継続する「国防の島」たる由縁からのようです。
 というのは,仁位の人口の相当部分は,現代の防人たちであるらしいのです。

そして自衛隊とワニの街

 次の記述は,地元の有志が地域の将来戦略をKT法で議論したもののまとめのようです。概観として,都市周辺の住宅町みたいなことが書かれています。

観光資源の活用推進
◆和多都美神社のような歴史的に由緒ある名所や、烏帽子岳展望所のように景観を望めるスポットなどがあるが、接続する道路などの周辺整備を進める必要がある。
全体的に歴史文化を学ぼうとする意識が低く、地域の歴史文化を観光客等に説明することができる住民が少ない。(略)
伝統芸能継承が困難な状況
後継者が育っていない状況で、盆踊り、命婦の舞などの伝統芸能を継承していくことが困難となっている。
◆仁位地区の氏神様である和多都美御子神社の大祭(通称:仁位祭り)の継承・充実、また、仁位地区で開催されて大きな賑わいであった豊玉夏祭りの復活を望む声がある。〔後掲仁位区,3歴史・文化〕※下線は引用者

上:命婦の舞(無形民俗文化財)〔後掲長崎県/命婦の舞〕
下:対馬の盆踊り(無形民俗文化財)〔後掲文化庁〕

 妙な書き方です。これほど古い集落が継承されてきているのに「伝統芸能継承が困難な状況」と言い切るのは,あまりに弱気です。でもこの書き方は,弱気と責められるような気配がしません。
 さらに調べる。何と,対馬主邑から山と海を隔てたこの集落は,戦後に比べ1/3も増加していました。

■仁位地区の人口のピークは平成7年の1,334人 対馬島の人口は、昭和35年の69,556人をピークに減少の一途をたどり、平成26年にはピーク時の約半減となる33,164人となっています 仁位地区の人口は、昭和35年は852人で、昭和45年までは減少しておりましたが、その後は増加に転じ、ピークは平成7年の1,334人で、その後、現在まで減少が続いています。 対馬島内の多くの地域では昭和35年のピーク時の人口を下回っている状況の中で、仁位地区の平成26年の人口は1,101人で、近年は減少傾向にあるものの昭和35年の人口から約30%増加しています。〔後掲仁位区,Ⅱ2人口〕

仁位地区の人口推移(昭30-平成26)〔後掲仁位区,Ⅱ2人口〕※国勢調査ベースと思われる。

 あり得ません。この日に見る限り,臨海コンビナートとか巨大な工場は見当たりません。ここの人口が増える?
 その原因こそが「防人」でした。

国家公務員(≒自衛隊)
 対馬市の就業者構成の特徴は国家公務員数の多さである。その人数の推移を見ると、06年757人(うち男753人)、09年753人(同726人)、14年735人(同712人)で、非農林水産業の全就業者が大きく減少している(-14.1%)中で、国家公務員は3%しか減少していない。国家機関の従業者751人のほとんど(735人)は国家公務員で、その97%は男性である。また、15年国勢調査によると対馬市の保安職業従事者1,103人のうち、1,002人は公務産業で、つまり自衛隊員、海上保安庁、警察官、消防士等の公務員である(警察官、消防士は地方公務員で、その数は市のデータによると240人程度である)。このことから、500人弱が自衛隊員と海上保安庁の職員であると思われる。
 現在、対馬市には、陸上自衛隊対馬警備隊(設置1980年)、海上自衛隊対馬防備隊(同1970年)一本部、3警備所(上対馬、下対島、壱岐)、航空自衛隊第19警戒隊(同1961年)一海栗島分屯基地(レーダーサイト)が設置されている(なお、レーダーサイトのある海栗島は自衛隊専用で一般人立ち入り禁止となっている)。
 対馬は、すでに見たように、「戦略的海上保安体制構築、自衛隊部隊の増強等」を図る特定有人国境離島地域に指定された。特に最も国境(朝鮮半島)に近い有人島として昨今注目されている。
 長崎県は、この特定有人国境離島指定を契機に、対馬、五島を念頭に「国境離島」の「自衛隊部隊の体制強化や増員」、および「海上保安部(海上保安庁)の増強」を政府に要望することにしている。そこには隊員とその家族が住み込むことで、人口減を抑制する効果も期待している<西日本新聞2017/06/08朝刊>。これ以前09年に対馬市長と議会は、「現在の部隊規模では侵攻に対して抑止効果が不十分」として、部隊増強、設備充実の要望を防衛省に「要望書」を提出している<産経新聞2009/01/27>。
 今後、長崎県の特定国境離島、特に対馬は「戦略的海上保安体制構築、自衛隊部隊の増強」が図られていくと思われる。つまり、対馬は自衛隊の島でもある。〔後掲柴田2017〕

 当然ながら軍組織の常として,組織人員数やその配置は公表されていませんから,上記柴田さんの記述も推定です。ただこれほどの規模なら大要として間違いはない。
 旧海軍から引き継がれた竹敷の海自基地の勤務者でしょう。GM.で確認する限り「対馬防衛隊」といういかにも!,な名称がヒットします。

1966((昭41)年撮影 海上自衛隊対馬防備隊本部〔後掲SSブログ〕※同著者が地理院データを加工作成

 自衛隊以外がどうなのかというと──次の写真が見つかりました。
海上保安庁巡視艇「なつぐも」の乗組員が確認したイルカ〔後掲長崎新聞 対馬市、浅茅湾(対馬海上保安部提供)〕

(2023年)2月25日午前11時20分ごろ、パトロール中のなつぐもが、対馬市美津島町竹敷付近から南方の樽ケ浜方面に向かっている際に、イルカを確認。〔後掲長崎新聞〕

 まあ可愛いイルカ!はともかくとして,竹敷は海上保安庁も利用している施設のようです。仁位に居住しているのは自衛隊員だけではない可能性があります。
 仁位集落は,彼ら外部者ながらある意味で同じ土地を守護する集団と,どのような「文化」を築いていくのでしょう。
 それにしても──豊玉姫の実の姿だった「鰐」という動物が何だったのか,という問題は,その分類学が存在するほど諸説※が並立しています〔wiki/和鰐〕。

※黒沢幸三の三分説が著名。①サメ説と②爬虫類のワニ説,③「舟」説〔黒沢幸三「ワニ氏の伝承 その一: 氏名の由来をめぐって」『奈良大学紀要』第1号、奈良大学、1972年12月、97–104頁〕
 他に西岡秀雄は6説を挙げる。:1)ワニザメ説、2)国内ワニ説、3)ウミヘビ説、4)舟説、5)南洋民俗説、6)国外ワニ説を挙げる。〔西岡秀雄「兎と鰐説話の傳播(上)」『史學』第29巻第2号、三田史学会、1956年8月、130–149頁〕

 古事記が伝えた鰐が,もし浅茅湾のイルカのことだったとすれば──現代の防人たちは一瞬,神話の古代皇祖神の物語と接触していたのかもしれません。

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