Range(疍歌).Category:広東シン壱次(A2) Phaze:十天初めての対岸【兼m511m第五十一波m】

保全第十日

Range(南関風凰&疍歌&南関躍龍).Category:広東シン壱次(A1-3) Phaze:十天初めての対岸

献句
日経つ 初めて向こう岸に立つ
~(m–)m 本旅行の行程 m(–m)~
四鎮編四獣編対岸編
~(m–)m 本編の行程(再掲) m(–m)~
高徳地図(経路:六圣宫~水上居民文化馆)
:途中経由点は登録不能のため下記実行程と異なる。始点・終点のみ参照


1017十四巷から出て西行
▼▲パティオ。西から見ると「新鳳凰」とある門がある。1020

最終日の大発見!公衆トイレの探し方!

そうか!
「公共厕所」を高德地图で検索すれば出るのか!

1039「新鳳凰」門付近の市場

1041「新鳳凰」門付近のビル街

このエリアの西に海珠涌の河口
これの西岸口がバス停・滨江東路。東岸を行こう。
高級海鮮レストランを何軒か見かける。

1052海珠涌を渡る(北方向)

1052海珠涌を渡る(西方向)

1103北の工事現場を迂回する

「健全公共卫生体系」──やたら五月蝿いエリアらしい。

行けない。巨大な工事現場。西へ行くと──水上居民文化館?
月曜日休館なのになぜか二階はよいというので──

疍家又被称为”海上遊牧民族”(略)民国时期、亦有学者將”北蜑”和”南蜑”视为同一族类、但近年来又有学者认为两者并非同源。〔案内〕

多数の蜑民が河岸にいた時代のモノクロ写真(1893)

(上)蜑民の家舟 (下)その接舷する河岸(1900)

同時代の河岸光景(1906)

「疍歌」展示

广州咸水歌
咸水歌是疍家先民们世代流传的口头艺术、又称”疍歌””蜓歌””蛮歌”等。(略)〔案内板〕

多分現在この一冊しか無い「疍歌」刊行本

現在は非物質文化遺産になっているという。
水上居民大事记(一)を二分割撮影。(二)同。
水上居民大事记1/4

水上居民大事记2/4

水上居民大事记3/4

水上居民大事记4/4

後で起こした全文が以下のものです。

水上居民大事記(一)
1949年11月、广州市委、市政府着手建立各区人民政府、为疍家专设了一个管理区──“珠江区” 、辖区为东起猎徳 、西至白鹅潭、包括今夭荔湾、海珠、越秀三区所辖的部分珠江水面部分。 1950年11月9日、在广州市第三庙各界人民代表会议
上、根据市长叶剣英的提议、全会一致通过決议、宣布取消帯岐视性的”疍家”称号、一律称珠江区的蛋家为在「“水上人民”」 。
1951年、广东省人民政府下发 《关于召开广东省第二届各界人民代表会议的決定》、规定“水上人民”的代表应占一定的比例。
1953年、珠江区迭抜了近百名‘‘水上人民”青年进入了政府部門工作、当时颇有轰动效应。
1953年7月、广东省政府发文要求將已上岸定居的‘‘水上人民”、与仍生活在水上的‘‘水上人民”,一并统称为“水上居民”。
1954年1月15日、珠江区全面开展普选工作,全区参加选举人数为37182人、占选民总数的95.98%,、选出区人民代表89人、同时调整健全了水上居民的基层组织。

 1953年に政府内への「水上人民」参加が実現されました。これが急がれたのは、現・日本の女性や障害者の目標割合のような差別論ではなく、現実に相当の軋轢が発生しており、新政府樹立の過程で一定の沈静化が不可欠だったからと推測されます。
 この博物館のような建築物が存在するのは、陸人化の進行に関わらず戸籍管理上の「水上居民」タグが明示され続けているからでしょう。その意味で現・日本の同和政策とは異なり「人種」として意味を持ち続けてるらしい。
ところが、1954年に周恩来が来てから、「陸人化」が既定路線になります。

水上居民大事記(二)
1954年6月30日、周恩来兑理视察广州、在了解了水上居民的生活情況后、指示做好水上居民的上岸定居工作。
1954年7月15日、珠江区选出广州市首届人民代表大会代表。
1956年9月、 广州市政府成立了水上居民上岸工作领領导小组。20世紀50年代中后期、广州市政府分批在珠江两岸兴建住宅、水上居民陆续上岸定居、从而成为在陆地上生活的 “水上”居民。
1959年、广州市撒销<“珠江区"'但安排水上居民上岸定居的工作并没有停下来。 1959-1960年、国家计划委员会又专门拨出约1700万元、数百吨钢材和2000多吨水泥,专门用于建设水上居民新村。猎徳、东望、大沙头、二沙头、滨江东等近二十処漁民新村相継落成、水上居民汗始大規模上岸定居。 1966-1987年、广州市又陆 续投入百万元、帮助剰余的水上居民上岸定居。至此、历时30年的水上居民上岸定居工作终于画上了句号。

「珠江两岸兴建」の住宅が、川の北では北京路七天ブロック、南ではこの時に歩いた中山大学西辺や江南大橋南口から前日の同福西までの住宅街だと思われます。
ただし、珠江北から進行する再開発の波が旧景を払拭しつつあり、南岸の方がそれを残しているというのが現況と想像されます。

前掲1893年画像拡大

1138昼時のバス停・珠江泳场付近は賑わってます。

1140→バス停・珠江泳场
131Aにする。(121路)
北対岸にも古い街区は薄く出没しているように見えます。ただやはり中心部のプレッシャーは南の方が少ないし、加えて海珠の川の存在があって蜑家は長く留まれたわけです。
→→石涌口→大元帥府→1150草芳园→
(→海珠桥底→堑口马头→宝岗大道北→宝岗大道中→海珠区妇幼)
1143珠江岸の車道

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
高徳地図(経路:草芳苑小区~旅店后街19号)
:途中経由点は登録不能のため下記実行程と異なる。始点・終点のみ参照

1150珠江南岸歩道。右手川向うが北京路付近

とりあえず南へ渡る。十日目にしてようやく天字码头対面に来れました。
1152纺织码头

来一杯というアメリカーノの飲めるコーヒー屋があるけど先月から休業中。纺织码头は完全に沈黙。渡し船の不存在を最終確認。
1154纺织码头の珈琲屋の休業表示

1156纺织码头の待合室と施錠

対岸北京路天字码头

1158南行。ad.草芳围?
道が右西方に湾曲。1204
1203草芳围の右西方湾曲地点

南へ。駐車場の隙間から西へ右折。1214
1210湾曲地点南が花園入口でした。

1211南に大きな駐車場。その西縁に居住区入口

1213蚤科一巷への入口

左折。ad.蚤科一巷?──蜑家という住所表示?
1214蚤科一巷

1215「蚤科一巷」住所表示

1215蚤科一巷

1218蚤科一巷

1218-2蚤科一巷。建替え中家屋多数

1219蚤科一巷の外壁拡大

西へ出た。ad.蚤科直街2。半ば取り壊されてる区画。南行するしかないか。1219
1221东莞街へ西行

左へ东莞街。1221西行。日差しが強烈に。
1221东莞街

1222右手の东莞后街を覗く。鍋で炒める音。
1222东莞街

1222东莞后街を覗く

1223 北行。高みにビルディング。

T字を右折北行
1225南华东路へのT字地点手前

1227車道・南华东路。左折西行。
潘荣大排档の両肉両菜(揚げ魚、ミルクフィッシュ煮込み、ジャガイモ辛辛漬、ニンニク芽?炒)

1236 潘荣大排档
両肉両菜(揚げ魚、ミルクフィッシュ煮込み、ジャガイモ辛辛漬、ニンニク芽?炒)450
潘荣大排档の揚げ魚

揚げ魚は、ギザミより少し分厚い、イワシほどの大きさでしたけど白身。頭からバリバリでイケました。煎餅として美味い魚。
潘荣大排档のミルクフィッシュ煮込み

対しまして──煮込み魚は驚きました。こんな魚料理が中華なのか?四川の酸菜魚の麻辣と浙江〜香港の清蒸しかないものと信じ込んできましたけど──やはりそんなことはあり得ません。この煮込みは、怪味ほどではないけれどドロドロの、ただ酢豚(古老肉)ほど輪郭の明瞭でない、何料理とも決めつけにくいものでした。もちろん、塩胡椒や肉脂はもちろん強い油も麻辣も感じません。
潘荣大排档のミルクフィッシュ煮込み どアップとジャガイモの千切りの辣子漬

 魚は骨の長さからして多分間違いない。ミルクフィッシュです。大陸でどのくらい食べられてるのか知りませんけど──この強めの味覚の煮込みが、ミルクフィッシュの臭みをピタリと昇華してしまってます。
それと、久しぶりに食べましたけど──ジャガイモの千切りの辣子漬みたいなのは、日本ではありそうでない味覚。結構本気で辛い。最初の先味では芋の甘みで中和されてる唐辛子が、後から亡霊のように立ち上がってきて二口目と出会うという、たちの悪い辛味です。
ちなみにあの小エビの麻辣炒めは「香辣虾」というらしい。
出てから気付きました。海珠桥脚站後方の騎楼内の店でした。
潘荣大排档──海珠桥脚站後方の騎楼内

西ブロックに渡ろう。1306西行
1311海珠桥脚站付近の商店軒先

1313干してるのか売ってるのか分からん

1313多分南路地を覗いて

1315「釣具」店。アマ用だとすればそれで儲かるほど客がいるものでしょか?

1318屋上花壇ならぬ屋上竹林と遠方ビル街

橋からの道・ad.江南大橋北を高架で越える。1317
江南大橋北高架から南方

もう少し先の気でいたけれど──南华东路口の福仁社区1号门からが面白そうです。▼▲1326南行。ギャップ
橋下壁面に「广州人口智能」(AI)から始まる漢詩

1326福仁社区1号门北東入口

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