観音編
GM.(経路)
目録
解放感に任せて飛び乗っ……
1442,ミャンマー編のWP(WordPress)移行を終える(→モバスペ移行編/7日目)。
最後に保存した写真はスーチーさんのご本カバーになりました。全モバスペサイト移行完了。ひとまず……だけどね。
▲ラストページはスーチーさん
解放感の赴くままに,バス停へ。1511,丁度入ってきた茂木行きバスに飛び乗ってしまいました。
1534,茂木着。まず裳着神社の元の場所,と聞いた場所へと向かってみる。S マート裏へ。
けれどもこれは行き止まり。登りらしい道も見当たらない。
1540,茂木郵便局。「ここに長崎代官アントニオ村山等安別邸跡という看板がある。1619年処刑。『壕で囲まれ,まるで城郭の様であった』と記載」──とメモしてます……けど!等安は,おそらく茂木に「交易拠点」を私設していたのでしょう(巻末参照)。{→內部リンク:010-4諏訪神社/【長崎の創造者Ⅰ】村山等安}
ローソン,港。「長崎-天草ライン」という謎の表示があります。
──謎というか,知らないだけでした。上記地図だと明白ですけど,天草・苓北町は南東へ25km海を渡るだけです。その船がここから出るのです!──と解放感に任せて飛び乗ってしまいそうになったけど,正気を保って1545,恵比寿神社到着。
天正の恵比寿神
恵比寿「神社」……なのか?
本堂がないぞ?──祠は一応ある。でもごく素朴なのが二館。正面のに恵比寿像,翁っぽい風情です。
その手前に,鳥居も一応ある。しかもよく見りゃ天正十二年の文字。──て……天正??1584(天正12)年って,本能寺の変の二年後たぞ?1580(天正8)年の大村純忠の瞬間的な「長崎イエズス会領」化の四年後?しかもまだ秀吉のバテレン追放(1587(天正15)年)の前です。「ポルトガル領」だった茂木に,なぜ神社,少なくとも鳥居が建ったのでしょう?
005-5転石の谷\茂木街道完走編/長崎・茂木のイエズス会寄進の目的

小さな方には,何体もが縄で繋がれてる。盗難か倒壊の防止でしょうか?
右手の影にもそういう恵比寿さんがいくつもある。
何て不思議な「恵比寿神社」でしょう。「天正」字に拘るなら,キリシタンの隠れ教会的なものにも思えますけど……。
▲山手
左手側には,さらに山に入る段があるけれど──この荒れようは誰も踏み込んでない。
やや逡巡する。でも……何かあっても信仰対象とは思えない。
引き返す。
港越しに観音堂の岬が見えてます。
▲海手
茂木十一面観世音菩薩十一面の会
オロンに寄ってから南側へ。
集落内に直接の水路。石垣はやや新しいけれど古い風情もある。
何と!ここ銭湯があるのか? ※今確認しても確かにある。→GM.:高崎湯
越中哲也(長崎地方史研究家)さん曰く「茂木は長崎市内の中で昔からお風呂屋さんが多い町だったんですよ。漁師さんが潮風を浴びて朝帰ってくるでしょう。それで一風呂浴びるんですよ。」〔後掲ナガジン/旧茂木街道〕
1012。茂木中心部と異なり,所々に風情のある街角が顔を出してきました。
▲1612茂木湾南側の集落風景
バス停・観音下。1614。「下」か……。
ふいに右手に階段※と鳥居。
鳥居には大正六年の文字。形もえらく変わってます。
鳥居左手には「水神」と書かれた石柱のある井戸。
鳥居横のお堂は薬師如来。これも古めかしい。
信仰は確実に篤い。掲示板を願文が埋めつくしてる。──後掲仲久保は,茂木で平成代になってからの複数の観音目撃譚をレポしてます。願文が効くのも信じられている点で,例えば患部を「何回も書き壁に貼っている。腎臓を治したいのなら『腎臓腎臓腎臓』と書く」のだそうです。
▲願文の掲示板
新興宗教というには吹っ切れてる。でも今も「奇跡」を疑わない集落民が多いのは事実らしく,この時ワシは気づかなかったけれど,仲久保さんの聞取り対象者を含む「茂木十一面観世音菩薩十一面の会」が益々盛んに活動してて,神社にも集合写真が貼ってあるそうです。
直角の曲がりの階段脇に,これまた好いお顔の仏様。
▲1624夕陽に映える吉相の仏
風もなし十六夜月の蒼衣
さらに次の角にもお堂。
何れも記名はない。記されないのが,ここの空気に何とも似つかわしい。
次の次の角にもお堂。ここは本尊聖観世音菩薩と書かれてる。なぜか中央二柱は心臓部がくりぬかれてる。──廃仏毀釈でしょうか?
▲1627くりぬき
でもコレ──無闇に壊すのでなく,石仏の胸に,おそらくノミを当てて背まで彫り抜くのは相当な苦労です。何のためにこんなことを?
▲1643お堂全体
1629,登りきる。
無人。残照が落ちる前の静寂の時間。三面に海。
好い岬です。
左手,海側に燈籠らしきもの。
▲彼岸花と燈台跡
「月見台」と呼ばれる灯籠という。「行き交う船の灯台代わり」であるとともに,観月の名所としてかつては宴会場でもあったといいます。ここから観る月は「布引きの月」と呼ばれたという〔後掲仲久保〕。風なき月夜の海面を蒼の衣と見紛えた,というイメージです。けれど月見えぬ今は海はまだ明るい青で──
▲正面の海
観音も恵比寿も海を向いている
観音堂正面に島原の絶景。
思えば「観音」──音を観る,とは玄妙な語です。空気の震えを観る,即ち空を色として認知するとは。
観音堂の扉を押してみると──?
入れた。
本尊様を拝む。「これは──媽祖だろう。左は壁を隔て僧形,右は鏡。」
▲主神像
──と解放感に任せて当時は断じてしまってるけど……確かに女性的だし,仏具の類も身につけてないけど,今落ち着いて観る限り……装飾具や胸部や随神など,長崎の媽祖にしては中性的過ぎます。
▲焼香より見上ぐ主神像
只,だとしてもあまりに飾り気がない。それこそ媽祖のような随神らしきものもない。
一神教的な祀られ方です。
下記のもう一歩引いた画像でも,日本の仏像のようなゴタゴタした装飾は,一応あるけれど酷く間を置いて,神体に遠慮して配置してある風情です。
▲正面から主神像
観音も恵比寿も正面は外海。両者は向き合ってはいない。
入口の石柱に対聯らしきものはある。読めないけれど行書,清字ではない。
▲1641観音堂から海側に咲く彼岸花
長崎になくて茂木には在るものは
下山。1648。
一番下の祠に隅の一体がやや中国風の翁。でもこの風体の神は,大陸でも台湾でも見たことがありません。
▲唐様っぽい像
微妙な違和感をこもごも感じつつ,茂木港岸を歩く。
島原の乱でキリシタンの弾圧の功績によって玉台寺に長尾安右衛門の墓がある事から茂木ではキリスト教の影響は江戸時代には全くほとんどなかったようだ。だからこそ伝統的に仏教色が強い地域なのかもしれない。〔後掲仲久保〕
穏当に現状から考えるとそうなる。でも個人的には──茂木には他にない,また長崎にもない何事かがあった可能性がある,とまだ感じ続けてます。
けれどそれを手繰るホールドがない。今回は潮見崎観音をホールドにしようとしてみたんですけど……やはり消化不良のままです。
▲今年は疫病退散もやるよ by裳着神社
■レポ:茂木湾に向き合う二つの聖地──潮見崎観音と旧・裳着社
茂木の古地形を図に落としたものは見つかりません。
見つかりませんけど,現・バス道より海側は筆の形状から埋立地でしょう※。バス道の橋(弁天橋)の南の半円状の土地は,実際歩いてみた限り(內部リンク→017-1茂木街道のぼり(茂木)/裏道),古い地区です。対して,そのさらに西の平地部は,筆形状・実見のいずれからも埋立地に見えます。
山門の階段下は砂浜で、大正12(1923)年からの埋立て前は、海岸だったことがわかる。また、当時、大潮の満潮時に新田方面に行くには、山門下は通れず、玉台寺の中を通っていたとのことである。」〔後掲長崎市役所茂木支所③(以下「古写真」という。)38.玉台寺山門〕
従って大まかにはこんな感じの海岸線があったはずです。
茂木湾は,今より遥かに大きかった現・弁天橋の西の内湾と,東の外湾(以下単に「茂木湾」)に分かれていました※。「埋立て前の茂木港内は遠浅の砂浜で,潮見崎方面の海岸は岩場であった」という〔後掲古写真31海岸(3)〕。
前述のとおり,潮見崎観音は伝・1706(宝永3)年開基。対する村山等安邸宅は,村山等安が1619(元和4)年に処刑されているから,それ以前,17C初です。その後は庄屋宅。この庄屋宅が,茂木湾を挟んで潮見崎観音と睨み合っていたことになります。
聞書(仲久保):昔の潮見崎観音堂
史料や考古学的知見に乏しいため,民俗資料を当たってみます。後掲仲久保さんが茂木住人の濱浦正昭さんから聞き取った話に,以下のような記述がありました。
約5,60年前の潮見崎観音堂の祭礼の日には観音堂までの階段に茂木のおばあちゃん達が座っており子供たちは階段を登りお菓子を貰っていたという。濱浦氏の子供の頃には何回もお菓子を貰おうとして何回も階段を上り下りしていたら、おばあちゃんに「あんたはもうあげたでしょ」と怒られたと語っていた。〔後掲仲久保〕
ちょっと聞いたことのない話です。「おばあちゃんたち」は子どもに菓子をただで配るために観音の階段に座っていた,のでしょうか?市場もどきとは思えないし,そのような「善行」をする恒例があったのでしょうか?
次の二つは茂木で行われたペーロン(≒沖縄:ハーリー)の関係記述です。
6月上旬には茂木の中でペーロンの大会があり茂木の4つの地区、橋口、中、寺下、新田で争う。その時、新田は観音ーという名で出場していた。茂木のペーロンの漕ぎ方はストロークを長くとり回転数より多くの水を掴んで一気に進んでいく漕ぎ方で短い距離ではほかの地域よりも速かったが、逆に長距離では体力が尽きてしまうので向いていないとの事だった。〔後掲仲久保〕
出場は橋口,中,寺下,新田の四地区。これは後で見ます。
茂木の船漕法が他と異なり「短期決戦」型だった点,これも面白い。どういう生活形態がこんな操法を常態化させるのでしょう。あるいは,かつては「長期継続」型の操法も並立していたけれど,時代とともに短期決戦型だけが残存したのでしょうか?
新田の人達は大会早朝にドラをドーンドーンと鳴らし潮見崎観音堂にまで登っていく。そこで藁で作った紬先に藩けるものを一緒に持っていき、観音様にお参りをして下っていき船の紬先に藁を着け本番に挑んでいたという。濱浦さんによると一番強かったのが観音ーであったという。〔後掲仲久保〕
「船の紬先に藁を着け」る願掛け,これもあまり聞きません。ただそれを観音堂で,お供え後に「お裾分け」のように持ち帰るのでしょうか,何らかの念を入れる祭事を行うということは,この観音は海事,特に海の武勇に霊験のあるものと信じられたことになります。
また末尾部ですけど,「観音一」=新田がペーロン最強だった。先の短期決戦操法と観音願掛けの藁の紬先着けはいずれも新田の文化であったわけです。話者が新田の人のみなので偏りは否めないけれど,潮見崎観音信仰圏中で新田が特に突出あるいは旧態を保持した地域と,少なくとも自認されていたことは窺えます。
茂木をエリアで分割する
「6月上旬には茂木の中でペーロンの大会があり茂木の4つの地区、橋口、中、寺下、新田で争う。」との記述を確認します。現・茂木の住所表示は「長崎市茂木町xxxx」と字がなく,このエリア区分を明示したマップが見当たりません。
ただ少なくとも,この4エリアは茂木全体ではなく,弁天橋を隔てた北岸を含まないようです。
茂木には大きく分けて四地区の新田、寺下、中、橋口という漁業を主な生業とする人達が住む場所、若菜川を渡った商人たちが集まる片町という場所で分かれていた。〔後掲仲久保〕
土地勘がないので,以下はこのエリア名を先の地図に荒くマッピングしたものです。
すると,四地区以外の「若菜川を渡った商人たちが集まる」片町とは,弁天橋北岸でしょう。これは現地の歩きでも「片町集会所」とバス停「片町」の表示を確認してます。実見した商人町風の風情も相応します〔內部リンク:005-4若菜川\茂木街道完走編/若菜川河口:好い集落じゃないか!〕。
従って,この間,弁天橋以南の地区に寺下・橋口・中があったはずです。
これまでの現地の歩きで,「中町自治会看板」をバス停・茂木近くの路地で,そこから先の橋(若菜橋)を東詰を,橋を渡らず過ぎた先の「もぎさんかく公園」で橋口自治会掲示板を見つけてます〔內部リンク→017-1茂木街道のぼり(茂木)/裏道〕。このことから,橋口の「橋」とは弁天橋ではなく若菜橋※のことで,「中」エリアは橋口の東から南側辺りと推測できます。
残る寺下は寺の下。即ち「お宮の銀杏は雄銀杏,お寺の銀杏は雌銀杏」〔內部リンク→017-1茂木街道のぼり(茂木)/裏道〕と謳われた玉台寺しか,地区名になるほどの寺はありません※。ただ,「山門の階段下は砂浜で,大正12(1923)年からの埋立て前は,海岸だった」(→前掲)訳ですから,「下」というのは海(東)側ではなく弁天橋(北)側だったと思われます。
なお,現・裳着神社と庄屋(旧・村山等安邸-現・郵便局)のエリアには,これらに並列されるような字名は見つかりません。
裳着くんちの六地区制
傍証を得ておきます。
前々章にて長崎市内でキリシタン対策としての全地区の諏訪神社の強制宮子登録制,これは長崎内町と同様にイエズス会に一度は寄進された茂木でも実施されてます。茂木の場合,宮子の所属は裳着神社。厳島神社方面にあったとされる裳着社が現在地に移動(→再掲)したのは,だから幕府の宗教政策の一環ですけど──現・裳着神社ではおそらくは諏訪神社を倣って「くんち」が実施されてます。
裳着神社のくんちは、10月18・19日の両日行われていたが、近年は10月18・19日前後の土日曜日に行われている。
初日のおくだりは、神輿が午後2時に裳着神社を出発し、若菜橋を渡り橋口の商店街を通り、玉台寺の前から新田を回り茂木バス停前のお旅所までの行程で行われ、後日のおのぽりは、神輿が午後3時にお旅所を出発し、裳着神社までおくだりと逆の行程で行われる。
神輿は1体で、神輿を担ぐのは、片町、南川・河内、新田、寺下、中、橋口の各地区が交代で当番町となり6年に1回廻ってくる。当番町は、神輿の担ぎ手16名、鉾4名、天狗1名の21人の人数を揃える。
くんちでは、地域や商工会、小中学校の児童生徒などの奉納踊りがあり、お旅所周辺には出店が出て賑わっている。〔後掲長崎市役所茂木支所④裳着神社のくんち〕※下線は引用者
「おくだり」のルートは①若菜橋→②橋口の商店街→③玉台寺の前(寺下)→④新田→⑤茂木バス停前(お旅所)。片町の商人街は①→②ルート中に通るけれど,郵便局(旧・庄屋)を全く通らない。なのに最南の地点としてわざわざ新田を回る。この点は留意しておくべきですけど──ここではまず当番町六地区についてです。この六地区は,くんちの宗教政策としての趣旨から,キリシタン炙り出しの対象としての茂木の全地区を網羅するはずです。
ここには潮見崎観音のペーロンの四組に加え,片町と南川・河内の二組の名があります。
片町の範囲を確認しますと,茂木小学校の現地点を探ると分かりやすかった(同校は1874(明治7)年に南川の個人宅を借りて開校した後,数回場所を変え,1895(明治28)年に現在地に新校舎建設)。古写真〔後掲古写真17旧県道(9)茂木小学校付近〕に,同校地点(No.17)撮影写真の記述として「田上の峠を越えた橘湾に面する茂木町の旧小字の片町」とあるから,これによると同校付近までが片町になります。一方で,同資料内の地図(下記)の茂木小学校北に「南川橋」という橋がある。境界に若干のブレがあるけれど,若菜川の支流に河内川というのがあるから,いずれにせよ南川・河内のエリアは片町の南側,茂木小学校辺りより南を指すと思われます。
茂木における「庄屋」
では,この六組に含まれない「庄屋」(旧・村山等安邸,現・郵便局付近)は,茂木の中でどのような位置にあったでしょう。
上の図は大正12(1923)年からの埋立て工事の平面図で、茂木ホテルの建物の場所が記載言されている。
右上に明治34(1901)年に築造された、桟材用突堤がある。〔後掲古写真26茂木ホテル〕
地図上の庄屋の位置は,南への斜面沿いです。北は見えない。この点でも,専ら南半面を監視する位置です。裏山(厳島神社の付近)に登れば,さらに眺望は効いたでしょう。
海岸に目を移します。明治末に東側に突堤を築造し,これが画像に残っている。これが現在の茂木港の基礎になったと推定されますけど,ということは,庄屋近くの海岸はそのままでは近代船舶が着岸できなかったことが推量されます。古写真には次の記述もある。
大正12(1923)年からの埋立てにより,当時の砂浜が埋立てられ,背後の山も当時に比べると木が繁っている。〔後掲古写真25.庄屋〕
庄屋前は砂浜だったわけです。内湾の出口,若菜川河口に当たるこの場所は,堆積の進みやすい地勢にあったのでしょう。
次に「庄屋」の利用状況です。次の絵は19C半ば頃のオランダ人の筆によるものです。
右(引用者:上)の絵画の解説には,「茂木村長の家は、島原湾岸に位置する一つの高台にあります。それはいかにも瀧洒(しょうしゃ)な住居で、日本の家がみなそうであるように、中の部屋はいろいろな屏風の仕切で作られています。私たちはこの家の食堂のような部屋で夕食をご馳走になりました。そして両側とも開け放たれたその部屋から、一方には海、他方には村の美しい風景が心地よく望まれました。」とある。
リンデン伯は、オランダ国王の侍従長で、安政2(1855)年に国王から長崎に派遣され、出島に4ヵ月滞在した。この絵は、1860年に絵20枚、説明文15枚が出版されたものの中の1点である。
つまり庄屋は,茂木の迎賓館だったことになります。
この文化を引き継ぐように,1906(明治39)年に庄屋屋敷跡に純洋館の建物が建ち,道永えいが「茂木ホテル」として開業(1922(昭和2)年砂田ツイが引継:ビーチホテル)。
茂木集落のダブルイメージ
これらの状況からも生ずる迷いに,以前もぶつかっています。茂木の「中心」がどこにあったものか,どうもブレが生ずるのです。
以前のまとめでは,時代とともにあちこちに中心が移動したように認識しています。
左手の片町付近から集落が右手・寺下辺りに続いている。どちらかと言えば寺下側の方が家屋の密度は濃い。
村役場が,旧庄屋跡(現郵便局裏)から片町に移されたのは明治22(1889)年。
裳着神社は古代(神功皇后渡海)に由緒を持つけれど,この時代の裳着神社は元々,現厳島神社辺りにあったらしい。つまり茂木の中心は,中世まで旧庄屋辺りの湾口にあり,それが江戸期に川南の寺下に移った後,明治末期に川北の片町に移行。しかし現代の埋め立て後,再び寺下に戻って今に到る,という複雑な経緯を辿ってるらしい。〔內部リンク:005-4若菜川\茂木街道完走編/■小レポ:ワーグマンの寺下水彩画〕
けれども,概ね若菜川両岸に別種の茂木があったと考えると,中心が右往左往したと考えずに済みそうです。つまり──大枠として,「観音一」新田から寺下・中・橋口の南岸側に古くからの海民が居住してきた。けれどイエズス会寄進(1580(天正8)年by大村純忠)以降,宗教政策上の危険視と併せての外航船対策上,村山等安邸(庄屋)から片町の北岸エリアが新興され,他地からの移住者や外部資本による富裕者居住域が形成された。後者は前者を政治・経済的に(時には軍事的にも)監視し,前者は後者の富のおこぼれに預かり,隙あらば経済的主導をも狙っていた。
このように考えると,茂木の集落配置がやや分かりやすくなると思うのです。
茂木の海岸形状の偏在
僅かに上記傍証たりうる材料としてですけど,茂木各エリアの海岸形状の違いに着目してみます。
若菜川下流の淵頭海岸に桟橋がつくられていたが、水深が浅く乗降は端艇によらなければならなかったため、明治34(1901)年8月桟橋用突堤(長さ約82m、幅約3.6m、高さ平均約4.5m)が築造され、この突堤から浮き桟橋として、長さ約11m、高さ約0.9mの箱舟を造り、これを3隻並べてつないでいた。
この桟橋は、昭和8年8月に茂木港中央に新桟橋ができるまで使用され、昭和30年2月、砂防堤築造の際に突堤が取り壊されたため、現在は残っていない。〔後掲古写真30桟橋〕
先に,「埋立て前の茂木港内は遠浅の砂浜で,潮見崎方面の海岸は岩場であった」点に触れました。さらに上記のように「水深が浅く乗降は端艇によらなければならなかった」とすれば,1901(明治34)年の築堤以前,江戸期から明治中期までの船舶の乗員はどうやって茂木に上陸したのでしょう?
今,深度の問題も出たので,海底地形図も見ておきます。
この地形だと,自然状態での茂木は港としては不適格です。停泊した船から上陸できるのは,潮見崎観音から南の海岸のみです。つまり,土木工事を行えない時代の茂木に海民がいたとすれば,船をつけ易かったのは観音付近だったはずです。
現在の茂木港は,その地形内で突堤を一定深度の海域まで長く突き出すことで,かろうじて潮見崎と同様の状況を造ったものです。
ただし,上記の写真を見る限り,観音付近に家並は非常に薄い。このことから単純に考えるなら,茂木は自然状態で古くから海民に利用されてきた土地とは考えにくいのです。
では,より悪条件に置かれたと思われる茂木の内港ではどうだったでしょうか?
茂木内港の海岸線と船舶の利用状況
上記地図の4地点から見た5枚の写真を,以下確認していきます。矢印が記してあるものは視線の方向を意味しています。
上は片町中央にあった旧・茂木役場です。
1mほどの築堤が見えます。小舟が繋いでありますから,この規模の船舶から直に乗降できる状況です。
年代が分かりませんけど,戦後のかなり遅い時期までこの状況だったことが想像できます。
役場の特徴的な屋根の形状で,最初の写真との対照が分かります。
茂木唯一の商人町だった片町へ,来航船舶は茂木湾外に停泊した後に,写真中のような小舟で,石垣に乗り付ける形で荷を積み下ろししていたと推定されます。石垣に筆に合わせたような継ぎ目も確認でき,その築堤は,各商人が利益の再投資として私費で成されたものでしょう。
上下の写真は若菜橋を東側から撮影したもの。上は外国人※が記録用に撮った,年代がはっきりしたもので,明治初年のものです。
下の写真の撮影者※も明確です。両方とも,先の片町側の写真とは異なる帆柱のある小船,つまり帆走航行可能な船が写っています。
この対照から考えて,これらの船からは橋口(南岸)側に上陸したことが推測できます。
後掲古写真はこの小川写真に次の解説を付します。
中央の船は当時小回し(近距離)用の荷船であり,イサバ船と呼ばれた。〔後掲古写真23若菜橋〕
イサバ船については別に触れました。長崎ではやや稀なことのようですけど,家船系海民の姿が若菜川南岸にはあったことになります。
[ワード①イサバ]家船の進化形:大分甑島ヒアリングで多数聞かれる牛深イサバ

※ 幕末・明治期日本古写真超高精細画像目録番号:1281 撮影者:F.ベアト 撮影地区:長崎市内 撮影年代:明治以前
次のが最後の写真になります。若菜橋から東側を望んだもので,ぎりぎりですけど南北両岸が写っています。南(橋口)側は砂浜,北(片町)側は石垣です。
以上の知見をまとめると,こうなります。
②次の三箇所は例外的に着岸が可能だった。
②-1(自然状態)潮見崎②-2(江戸期・私設)片町②-3(明治期・公設)現・茂木港
③若菜橋周辺にはイサバ船が停泊していた。
そうなると,決定的に見えてくるのは,近世まで片町(若菜川北岸)側が利用されていなかった,という点です。庄屋や厳島神社はもちろん新田から潮見崎観音付近にも集住の痕跡がない。
集落形成は橋口・中・寺下でしか進まなかった。この三地域の名称から考えて,橋口は若菜橋の後,寺下は玉台寺の後の名称でしょうから,中地区が最古と推定されます。
このエリアにのみ集落が形成されたのは,その住人が砂浜の存在を必須としたからとしか考えにくい。それは彼らが,漁民又はイサバ船などの小規模海上民だったからでしょう。先の2色の集落区分を想起すると,先に砂浜地域に住んだ海民がいて,後から空いている砂浜以外の地域に入り込んだ淕人が来た,というのが茂木の歴史の基本構造と考えられます。
以上を,時系列に展開して整理しましょう。
結論:海民の標識地域から常時停泊地へ
~中世:海神の独り棲む土地
古代から中世の橘湾の海人が,茂木へ寄港する際,海上からの目印としてその高地地形に名を付し,これを神に見立てました。
すなわち,まず二点,茂木湾の入口南の潮見崎(観音)の尾根と,入口北の郵便局上(厳島神社)の山──つまり村上等安邸→庄屋→茂木ホテルと推移した場所の北側,伝・裳着神社所在地。近づけば,若菜川上流(湾口から西)の現・裳着神社と,玉台寺の高地の二点も舵取りの目標になったでしょう。
特に近世以前の航海では,視認目標地形は非常に重視されます。この点は既に湄洲島──媽祖信仰のメッカの島東端にある牛头尾で,顕著な例を確認しました。

※主要なもの:济公醉酒、达摩行动、唐僧诵经、玉蟾望月、海狮浴日、花狗戏水、蜗牛晒日、杜鹃啼月、蟒蛇出洞、饿狗扑食、锣鼓通潮、玉柱擎天、落剑残阳、白云仙踪、千面人、武士岩、老人头、迎客龟、鹰王峰、青蛙石、烟狼鼻、蟹夹洞、海月岩、双各杯、雷劈岩、鸣泉洞、镜台石、试剑石、凌云顶、聚仙台、笔架山、犁头岩、珠帽峰、照天镜、一线天、石鳖、珠山、石火、石帆、石棺、石门、石镜〔陈嘉明【山水福清】滨海风景——目屿岛风景区_传说〕
つまり,茂木には人が住み着く前に,航海神が棲み始めたのだと想像します。
また自然の海地形(浅瀬・砂浜が多い)から,上陸するのは小舟を用いる零細漁民で,やっと寄り着いた船人もなかなか住もうとせず──これは現・長崎市や対馬,鹿児島笠沙,あるいは先の湄洲島も同じだと想像しますけど,永らく
この時代に僅かに人が身を寄せ合って集落を成したのが,中地区だったのでしょう。
織豊期:「独立キリシタン国」からの転落
ところがその「聖地」をある時代に人が突然侵し始めた。その端緒は明らかに──1580(天正8)年の大村純忠による長崎・茂木のイエズス会寄進(→前掲)でしょう。初めて日本国権を脱した「キリスト教国」に,まず西日本各地のキリシタンが集まり,そのリアクションとしての秀吉の(国際法的には無法な)「没収」と国際港化に伴い,商業資本と商人群が雪崩込んだ。
ここは全くの想像ですけど……「神の軍隊」イエズス会は,長崎市内に「サン・パウロ教会(岬の教会)」という名の「要塞」を築きました。茂木にも同様の要塞を築くのは,彼らにとって自然な発想に思えます。等安邸が『壕で囲まれ,まるで城郭の様であった』(→前掲案内板)とすれば,それは「茂木要塞」の基礎工事の上に建っていたのではないでしょうか?──この発想も,実は,長崎のイエズス会本部「岬の教会」を西区役所,つまり幕府支配の役所として象徴的逆転を図ったのに酷似するのです。

Ⅰ「岬の教会」→長崎奉行所西役所→海軍伝習所→長崎県庁
Ⅱ 旧六町→現・万才町
Ⅲ 旧長崎村→東奉行所→現・市役所
Ⅳ(東)現・築町市場
(下)同地域の日本地理院地図
(再掲)陸地に続く方面は,石垣と堀(baluartes y cave)によって要塞化しており,この岬の先端に,我等の修院(casa)があり,それは町の他の部分から離れて要塞のような状態になっている。
*後掲安野訳 A.Valignano∶Sumario de Japan∶monumenta Nipponica Monographs No.9 Tokyo 1954
村山等安は長崎シスマ(教会分裂)の仕掛人で,1610年代には反イエズス会の立場を明瞭にし親・スペインに立った人です{內部リンク→【長崎の創造者Ⅰ】村山等安 ▼展開}。イエズス会の象徴的建築又は予定地がここにあって,それを奪う形で反イエズス会の自分が入居する,という行動だったとすれば非常に納得できるのです。
江戸期:上流・陸人商人地区と下流・海民漁民地区
村山邸が庄屋に転じ,それを強力な後ろ盾として若菜川北岸に商人が流入します。商人,というより資本がと言った方が現実に近いらしい。
以下は江戸期茂木の人口記述です。統計として大変にブレがあるけれど,その分,所々に混入する情報にもドキリとします。
①正徳4(1714)年
584軒(百姓153 名子(なご)215 漁師216)
3,512 人馬57疋 牛2疋 御番所lヶ所
※ 名子とは、一般農民より下位に置かれ、主家に隷属して賦役を提供した農民。
②寛延3(1760)年
6,424人(男2,766人 女2,659人)
内ころぴ切支丹(男110人 女20人 計130人)
渡海船30~40 作船36 漁船37 威鉄砲44 挺酒屋2軒(各8石宛つくる)
※ ころび切支丹とは、江戸時代にキリシタンの信者が弾圧を受けて仏教に改宗した者。これは過去帳にも明確にされ、浄土宗の場合、元来浄土宗としたものからの仏徒と区別し、ただ浄土宗として死後まではっきりさせていた。
※ 威鉄砲とは、鳥獣などをおどして追い払うために撃つ空砲。
③ 明和7(1770)年
689軒(本百姓153 名子313 水呑168 漁師55)
5,859人(男2,959人 女2,900人)
威鉄砲44 挺酒屋2軒 浦見御番所2ヶ所 門番2名
(この時は、本郷・飯香浦名・木場名・田上名・宮摺名・大崎名・千々名の7地区)
※ 水呑とは、田畑を所有しない貧しい小作または日雇いの農民。
④ 元治元(1864)年
687軒(本百姓153 名子311 漁師223)
7,493人(男3,823人女3,670人)
〔後掲長崎市役所茂木支所①茂木の歩み 4 茂木の人口等の変遷〕
②1760年のみ少し別の体裁ですけど,威鉄砲(空砲)の数44が③1770年と同数です。鳥獣対策ではなく,外航船への威嚇用に規定数があったのでしょう。
同数と言えば,①1714年-③1770年-④1864年の三時点の本百姓数が,完全に同数153軒です。
そう見ると①③④の漁師数もほぼ同じ約223軒。③1770年は水呑と漁師の合計が223ですから,①④の漁師と同定義と推定されます。つまり,茂木の「漁師」とは半農半漁の下層民と見られていた疑いがある。──これは海民,あるいは海上生活者の陸上統治者による扱いによくある形です。
この「漁師」が,後の糸満のような組織的漁業を行い,多量の雇用をしていた記録はありません。残る名子は,だから片町の商人町の雇用人でしょう。この名子層のみが①1714年から③1770年の間に約百人増えてます。増加人数のきりの良さ,④1864年人数が③と今度はほぼ同数であることから,①→③の百増は商人層の申請による人為的なものと推測されます。またこの人数:百は,②中のころぴ切支丹の男子人数≒推定世帯数と近似し,転向者を雇用した可能性があります。
これらから,江戸期の茂木には幕府側にガチガチに管理された社会が存在したと推測できます。
具体的には浦見御番所とその守備兵,長崎代官下部機関たる庄屋,片町のこれらの御用商人を上流とし,その直属配下としての名子(約三百),先住民たる本百姓(約150)と漁師(≒海民:約二百)を下流とした。ちなみにこの人数配分は,仮に先住民3.5百が総結集して反乱しても守備兵+名子約3.5百で抑え込めるよう計算したように見えます。
本百姓+漁師=約350戸
けれども,この茂木の支配体制下にあっては,本百姓+漁師の約350戸が比較的自由に行動出来た層だったことは否めません。
「本百姓」と漁師は田畑の所有の有無の違いのみで,現実の生業にはそれほどの差異はなかったでしょう。先に若菜橋の画像に見たイサバ船らしきものが,他と同じく小口売買に西九州を往来していたならば,その売り物の一部は若菜橋の対岸にある片町から流出したはずです。
②1760年の資料中の「渡海船30~40 作船36 漁船37」というほぼ1:1:1の数量関係は,荒く言って長・中・短距離の交通インフラについて階層的分業ができていたと考えられます。渡海船数が概数なのは片町居住でない外部の不特定の船主所有だからでしょう。すると特定できている「漁船」は②「漁師」の所有,つまりイサバ船と推定されます。
この小口の中には,長崎の例※からして少量分散の密輸品も混ざっていた,あるいは後代には混ざってきた可能性が高い。片町商人からすると,万一発覚しても「漁師が勝手にクスねた」ことにすればよい。
茂木先住の海の民と庄屋=幕府側との実質的な妥協点が,こうした形で導かれていったのかもしれないのですけど──そのシーソーゲームが,かなり古代にセットされたであろう裳着古社-潮見崎観音の地理的な対称関係を,なお踏襲しているように見えるのを大変興味深いと感じるのです。
■メモ:音 風 波 空
「観音」という菩薩名は,考えてみると大変に不思議です。
音を観る?
「観る」を漢字の字義通り「観察する」「認知する」のように置換えても,単なる「聞く」とは違うニュアンスです。聞こえる,という受ける側主体の事象でなく,発する側主体の事象の捉えに思えます。
私たちの観る音の実体,ということをまともに考えると,次のように考えるなら,不思議なことに「実体はゼロ」ということになります。従って,音とは「ゼロの振動」だとも言えるのです。
人の耳やマイクロホンは音波の音圧を検知して音の存在を知る。したがって音圧は重要な量であるが、これは時間的にプラスとマイナスの間を変動しており、単に平均するとゼロになってしまう。〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「音」,比企能夫←コトバンク/音〕
音という主体の捕まえ方
科学的手法としては,総和ではゼロになる音を,自乗することで無理矢理に実数化しています。これが音圧(単位:デシベル(dB)),つまり普通に言う音の大きさです。
(続)そこで通常は実効音圧として、音圧の2乗の平均の平方根が用いられる。正弦音波については、これは振幅Aの約0.7倍となる。一般の音波の場合、実効音圧がpであるとき
20 log(p/p0)
で計算される量を音圧レベルとよぶ。これは音の強さを示す量の一つである。ここでlogは常用対数であり、p0は正常な聴覚をもつ人が聞くことのできる振動数1000ヘルツの最小の音に対する実効音圧で
p0=2×10-5 Pa
を選ぶ。ここでパスカル(Pa)は圧力の単位である。音圧レベルの単位としてはデシベル(dB)を用いる。〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「音」,比企能夫←コトバンク/音〕
古代の仏教学者がこんなイメージを持てたとしたら,驚嘆すべきですけど──仏教では頻繁に現代科学と通ずる見解があり,ひとまず古代人がそうしたイメージを認知していた,という前提に立ちます。上記の算式を理解できなくても,とにかく音は,ある程度恣意的かつ複雑な数値処理を経ないと,数学的には捉えられない事象だということで──空即是色の最も身近な事象だとも言えるのです。
物理学的にはどうかと言うと,音は波,つまり総和がゼロのものが表わす規則的濃淡です。
いま、太鼓をたたく場合を考えると、空気の疎密の状態が水面の波のように広がっていく(疎密波)。すなわち、音の伝播は波の形をとるので、音は物理学的には音波といわれる。疎密波の場合、密の部分は空気の圧力が高く、疎の部分は低い。したがって空気中の音波は圧力波であるともいえる。疎密波は媒質を構成する粒子(気体分子など)の運動の方向と波の進む方向が一致している縦波である。気体および液体中の音波は通常は縦波であるが、固体中では縦波のほかに横波も伝播しうる。〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「音」,比企能夫←コトバンク/音〕
物理学での波の変数は,振幅,つまり空間的な揺らぎの大きさと,周波数,つまり時間的な揺らぎの頻度の二つ。時空,即ち三次元と四次元にどれだけの影響力を持つかで測定されます。
もっとも単純な音波は正弦音波とよばれるもので、空間のある点xでの時刻tにおける音圧、すなわち音波の圧力pは,
p=A sin(2πx/λ-2πft)
と表される。Aは振幅、すなわち音圧の最大値、λは波長、すなわち音波の山から山までの距離である。また、fは振動数または周波数とよばれ、1秒間に繰り返される回数であり、ヘルツ(Hz)という単位で表される。〔日本大百科全書(ニッポニカ) 「音」,比企能夫←コトバンク/音〕
医学的に言うと,おおむね振幅は「強弱」,周波数は「高低」に当たります〔後掲widex〕。このクロス軸での音の種類は,定期検診での音のテストを思い出して頂くとすんなり理解できます※けど──日常感覚,特に音楽的に考えると,もう一つ「音色」という要素が加わります。
これは基となる波形(=基本波)に、その2倍(=第2高調波)、3倍(=第3高調波)、…の各高調波がどのような割合で含まれているかによって、固有の波形が作られているからです(=合成波形)。〔後掲widex〕
つまり,数学的又は物理学的な単純波が,現実世界では「混ざる」(濁る)のです。混ざり方は,一つは二次関数的な単調な波が三次,さらに多次関数的に複雑化する。もう一つは複数の波が重なる,つまり波同士が影響し合う。
この次元の音は,現在のアプローチとしては,モデル(模式)的にはともかく,現実には音楽(厳密には音響学)しかまだ存在していないようです。
阿縛盧枳低濕伐羅 avalokitasvara 音を観る
さてそろそろ真面目に「観音菩薩」の話をしましょうか。
観音の由来については,全くと言っていいほど定説がありません。性別すら諸説ある。ただ,ここでの興味は「観音」名の由来なのでそこには引っかからずに──。
語源のサンスクリット語は,割と通説が絞られます。というのは,唐・玄奘法師が大唐西域記巻三に次の文を残しているからです。
27 石窣堵波西渡大河三四十里至一精舍。中有阿縛盧枳低濕伐羅菩薩像唐言觀自在。合字連聲。梵語如上。分文散音。即阿縛盧枳多。譯曰觀。伊濕伐羅。
28 譯曰自在。舊譯為光世音。或觀世音。或觀世自在皆訛謬也威靈潛被神迹昭明。法俗相趨供養無替。觀自在菩薩像西北百五十里至藍勃盧山。山嶺有龍池〔後掲玄奘〕※冒頭番号は中國哲學書電子化計劃採番
「阿縛盧枳低濕伐羅」がこの菩薩様のお名前で,これはサンスクリットのアヴァローキテーシュヴァラ(avalokiteśvara)の漢訳と解されています。
玄奘はこれを「阿縛盧枳多」avalokita(観察された)と「伊濕伐羅」īśvara(自在者)の合成語(「合字連聲」)と捉え,「観自在」と漢訳しました。かつ本解釈に基づき,を従来の菩薩名「光世音」や「觀世自在」はもちろん,鳩摩羅什訳の「觀世音」まで誤訳(「舊譯」)だと一刀両断してます。
「観音」菩薩という呼び名は,唐の太宗皇帝の忌み名が世民だったので,「観世音」から「世」を削ったものらしい。日本での「かんのん」という読みは,この「観音」の呉音をそのまま受け入れたものと言われますけど──
当面の問題は,玄奘説語源の「avalokiteśvara」に「音」が含意されない点です。太宗死去時点でも日本伝来時にも「音」を含むのに,です。
この点は,次のように説明されます。
中央アジアで発見された古いサンスクリットの『法華経』では、アヴァローキタスヴァラ(avalokitasvara)となっており、これに沿えば「観察された(avalokita)」+「音・声(svara)」と解され〔山中行雄「ガンダーラにおける阿弥陀信仰についての一考察」(PDF)『佛教大学総合研究所紀要』第17号、佛教大学、2010年3月、115-126頁←wiki/観音菩薩〕
──つまり観察されたのは「īśvara(自在者)」か,それとも「svara(音・声)」か,という問題で,玄奘は前者とするけれど,史料は後者に肯定的だということです。
この論戦に決着をつけるほどの力量は私めにはございませぬけれど……単純には「観察された」客体が「自在者」という文章は,どうも変です。対して,音が上記のような不思議さを持つことを前提としたとき,観察された対象は音である,という名前の方が遥かに深い。従って,一票を投じよ,と勧められればやはり「音」かなあ,という気がするのです。
辛嶋論文:その菩薩は音を観たか?
……というところで力尽きかけたんですけど──この問題について,サンスクリット文献学からの現段階での権威書として,辛嶋静志 「法華経の文献学的研究(二)-観音 Avalokitasvara の語義解釈-」『創価大学国際仏教学高等研究所年報』v.2(1999)があります。
もちろん本稿でこの観音に取り組んでいるのは,媽祖との関連性を期待したからですけれど……とてもそんなところまでは到れず,観音そのものの謎の前でこのように立ちすくんでしまっているのです。それでも,辛嶋論文で前述より掘れる部分がありますので,蛇足として追記します。
まず,観音の名前ですけど,「音」字を含むものには「光世音」「観世音」「観音」の他に「[門<規]音」※「現音聲」というものがある。前述のようにこの他に「自在」字を含む「観世自在」「観自在」,両者を共に含む「観世音自在」がある訳ですけど,さらに最も古い表記として「[厂+盍]樓亘」というのがあり,Avalo... svarという純粋な音写と見られています。
次にwikiが書く「中央アジアで発見された古いサンスクリットの『法華経』」とは旅順博物館蔵の「コータン出土法華経梵語断簡(B写本)」のことらしい。
Mironov(l927)が発見し、最近、蒋忠新(1997)が明確に世に示したように、六世紀のものと推定される旅順博物館蔵のコータン出土法華経梵語断簡(B写本)には、Avalokitasvaraという形が五例ある。Mironov(l927)はこの語形こそが「観世音」など「音」という字を含む古い漢訳語の原語であると推定し、それはすでに多くの学者の検証を経て定説になっている。なお、このAvalokitasvaraやそれに類した語形は、旅順博物館蔵梵語断簡以外の文献にも見える。すなわち、Bailey(1955:15)が指摘したようにHarvardにある梵語写本断片にもAvalokitasvaraという形が三例あり(3)、さらに、キジル(Qizil)から出土した写本断片に(Apa)lokidasvaraという形が見える(4)。したがって、Avalokitasvaraが旅順博物館蔵梵語断簡だけに出る特異な語形ではないことが分かる。〔後掲辛嶋 1.1古い漢訳語とAvalokitasvara-1.2[門<規]音〕 ※原文引用元:Bailey, H.W. 1955 “Buddhist San血krit”,Journal of Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland (1955), pp. 13-24, with one plate.
蒋忠新Jiang,Zhongxin 1997 『旅順博物館蔵梵文法華経残片影印版及羅馬字版』,大連・東京,旅順博物館・創価学会(Sanskrit Lotus Sutra Fragments from the Lushun Museum Collection,Facsimile Edition and Romanized Text, ed. by JIANG Zhongxin, Dalian and Tokyo 1997 [Liishun Museum and Soka Gakkai]).
Mironov, N. D. 1927 “Buddhist Misellanea: Avalokitesvara—Kuan-yin”, Journal of the Royal Asiatic Society of Great Britain and Ireland (1927), pp.241-252
つまり,現在までに発見されているサンスクリット語の法華経原典の表記は,avalokitasvaraであって,玄奘漢訳の原語と推定されるavalokiteśvaraではない。だから後者・玄奘の「自在者」isvaraは誤訳で,前者・鳩摩羅什らの「音」svaraが正しい(古形である),と定説化されている,ということです。
ただし,玄奘「誤訳」の理由も想像できます。それは奇しくも辛嶋さんも代弁してます。──「しかし,音は聞くものであって,見るものではないことは,古今東西同じはずである。一体どうやって『声を観る』ことができるのであろうか。」──これは本稿の発端となった疑問であり,議論は元に戻ります。玄奘は「声を観る」という事象を解し得ず,「音 svara」ではないはすだ,と考えざるを得なかったのでしょう。
玄奘の力不足を責めるべきではなく,伝承上,「声を観る」問題は釈迦本人に直弟子が訊いたことになっています。
『法華経』普門品の散文部分(33)の冒頭で、無尽意菩薩は世尊に「なぜ観音菩薩大士は観音と呼ばれるのですか」と問いを発し、世尊がそれに応えて観音の語義とその威力を述べる。(略)
(Ⅲ)また、衆生が河に流されても、観自在菩薩大士を大声で呼べば(akrandarp √kr)、河は彼らに浅瀬を与えるだろう。
(Ⅳ)また、たくさんの人々が金や宝石を求めて航海しているとき、暴風によって羅刹の島に打ち上げられても、彼らのうちの誰か一人が観自在菩薩大土を大声で呼べば(akrandaqt√kr)、彼らはみな羅刹の島から逃れるだろう。(略)
上に引いた『法華経』普門品梵本の記述から、この菩薩の名前とlsvara(自在天)との結びつきが本来なかったことは明らかである。上記、観音の語義と威力のリストのうち、(Ⅲ) 〜 (Ⅷ)はこの菩薩を「大声で呼ぶこと(akrandaqi √kr, a√ krand)」やその「名をとなえること(namadheya-grahar,a,nama-gr゜)」で救済されると述べている。すなわち衆生が菩薩の名前を声(Skt.svara)に出したとき、それに応えて菩薩が救済してくれるというのである。この菩薩の名前の意味を説明する個所(とくにⅢ,Ⅳ)で、菩薩名と声が結び付けられている以上{35)、菩薩名は本来、中央アジア出土の普門品梵本断簡のようにAvalokita-svaraとあったと考える方がよい。〔後掲辛嶋 3.1なぜ観音は観音と呼ばれるか-3.2声を観る菩薩〕
……。客観的に見て,苦しい論理です。「大声で呼」ぶと応える菩薩という,おそらく常套句が用いられるから観「音」なのだ,と釈迦は本当に説明したことになるのでしょうか?
ただ,この菩薩が「観自在」であると釈迦が認識していたとすれば,上記説明には「自由」とか「無執着」に関する語句が入るでしょう。その意味で,玄奘説を否定する要素は含まれていると言えます。
反面,ではこの菩薩が観る「音」,又は「音を観る」所作の謎を釈迦が説明したと解される表現もまたありません。釈迦が,この菩薩が観る「音」を,日常的な大声以上に深淵な意味で捉えていたとは思えません。
辛嶋さんは,訳者の中には玄奘と同様に悩んでか,菩薩の観る「音」を「念」と解釈した気配を示唆しつつ,次のように結んでいます。
おそらく、普門品の偶頌が成立した地方の言語(おそらくGandhari)ではAvalokitasvaraのsvaraは「声」とも「念」とも解釈でき、偶頌の作者は「念をみるもの」と理解していたであろう。しかし、後に、このsvaraが「念」を意味するということが分からなくなったとき、このsvaraを文字どおり「声」と理解するようになったのではあるまいか(70)。それが普門品散文部分に見られる解釈であり、「闊音」「現音贅」「光世音」「観世音」と訳した漢訳者たちの理解でもある。
偈頌の作者が、Avalokitasvaraを「念をみるもの」と理解していたことまでは推定できても、その原義が本当に「念をみるもの」であったかは私には確信がない(71)。「念をみるもの」以外の解釈もまた不可能ではなかろう(72)。あるいは、その土地の信仰の対象を仏教に取り入れて、名前を梵語らしくした可能性も否定できまい。〔後掲辛嶋 まとめ〕
「念」解釈については,辛嶋さんのサンスクリット語観では否定されるようです。
「土地の信仰の対象を仏教に取り入れ」たとする説は,「インド土着の女神が仏教に取り入れられた可能性を示唆」した岩本裕説※や,ゾロアスター教のアフラ・マズダーの娘・女神アナーヒターやスプンタ・アールマティとの関連を指摘する関根俊一説※※を指すと思われます。ただこれらにも,「音を観る」所作の謎の手がかりはないようです。
坂本幸男・岩本裕訳注『法華経』岩波文庫下巻[要文献特定詳細情報]の注釈
※※同 関根俊一 編『仏尊の事典 – 壮大なる仏教宇宙の仏たち』学習研究社〈New sight mook. Books esoterica. エソテリカ事典シリーズ 1〉1997年 62頁
結局,辛嶋さんも両手を挙げています。玄奘の仏教見識や辛嶋さんの語学観でも辿り着けなかった謎「観音」に,我々は一種の禅語として向き合うべきなのでしょう。
(続)私が上に纏々述べてきたことも、Avalokitasvaraという語の解釈の歴史に過ぎないのであり、その原義はなおも二千年の星霜のヴェイルに包まれたままである。〔後掲辛嶋 まとめ〕