保全第五日
Range(佛山
陳村龍母&陳村邓地直街&石壁).Category:広東シン壱次(51&2&3) Phaze:五天陈村
西の高架下を再び目指す。
高架下で丁度よく人目が無いので立ち小便。北岸へ戻り西行。十字路で──北行かなあ。1231
怡寶を購入し生き返る。北東路へ。1235
「横岭苏一支涌和苏地/基旧街巷改造工程」2018.5.30の金属板。五年前か。
遅かったパターンかも。
ad.桂华路横[田/令]坊
1242川を渡る。横[田/令]村とad.。でも工場多し。
1247樹下の小公園。士多。
道の名が桂华路に変わりました。
1254社区警務室。店舗多し。
1259Y字。长塘路に入り東行。振り向いて一枚。
基督教陳村堂。1306
T字を右手へ南行。すぐのT字を左折東行。
この辺りが繁華街らしい。
1317潮珍排骨飯
咸魚花肉飯+青菜(白灼靚油菜) 450
いつかも食べた爆弾的塩辛さの「咸魚」が、多分五花肉のアクセントになってる一膳飯。バランスも流石にうまくコントロールされてます。
かつ、3元の青菜にぽとりと落とされた青緑の不気味なソース──これがまた美味い。突飛ながら韓国のチュオタンに付いてくる野菜のつけ汁を想起します。やはり塩辛いんだけれど程度に生臭い。陈村らしいのかどうかはともかく、12元にしてこの感動はちょっと予想外だったのでした。
橋(→高德地图)を渡って「内城」へ。岸には僅かに石積残るか。1336
正面の15m左手から路地へ。1338
ad.竹桥巷。一つ右手の路地、盐埠三巷に古い壁の家屋が僅かにある。
1343川沿いに出る。1344振り返り南南東を一枚、北東を一枚。
1346家屋から川辺への階段。
ad.白门口坊。
石橋「酿泉桥」。
酿泉桥,俗称”細桥头”,始建年代不詳,嘉庆 七年(1802年)重建,2008年陈村镇人民政府抢修加固,全桥由花岗岩石构築。 陈村镇人民政府二〇一六年十月重立〔案内板〕
QR URL:https://www.sdmuseum.com.cn/handCultural.html?id=1892&typeId=27&page=1
1354上から北東を一枚。
そのまま左岸を進む。
家奥に舟一艘浮く。その地点から橋を振り返り一枚。1358
道の名は邓地直街になった。
邓地一巷。「旧圩社区邓地一巷/街巷改造工程」金属板は2018.4.26記名。1401
1402二巷に10mだけ入る。
新しい橋。西岸をそのまま進む。
川辺への階段に柵が付いてる。
ad.村心路に。
1409川辺に仏の祠。像は新しいけれど供物多し。ここは駐車場みたいになってる。
川辺の椅子で一分だけ休む。ここの橋の手前に川辺に突き出た煉瓦の小店があるけど貸家になってる。
家が無くなってきた?
左に数百の神像、橋元に白髭神の祠。左に元君古廟とあるけどどうも新しい。右の橋から東行。1424
正面のマックへ歩く。
左折。A口から地下へ。1432
陈村站(城際)というのがある?どこへ行く列車をここから出すのじゃ?
地鉄の画像ではハーリー 龍船競争みたいな行事があるらしい。
陈村鎮河[ㄇ〉水]密布、水乡文化濃厚。鎮龙舟争覇賽在陈村文海河挙行。〔案内板〕
これは沖縄と共通しているのではなく、沖縄側に中国からの伝来説が通説として存在してます。また、海民の平時の「演習」だと考えるなら全く不思議な発想ではありません。
琉球王府ガ1745年に編集した正史『球陽』巻一附記(龍舟競渡説)や、1713年に編隼した『琉球国由来記』巻十二(豊貝城閤切)に記述(ママ)、『豊貝城村史』九巻なとに、汪応祖や龍船について記述されています。〔後掲豊見城市商工会青年部〕
現地では食えなかった陳村粉については──
陈村粉是中国广东地区常见的食品。是一种用大米制成的米制粉类。(略)
1927年,顺德陈村人黄但借鉴了南海西樵人制河粉的经验,创制出一种以薄、爽、滑、软为特色的米制粉,当地人称之为“黄但粉”、沙河粉,外地人则以“陈村粉”。(略)
〔維基/陈村粉〕
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1450広州南站。もう少し時間がある。ちょっとだけ寄り道しようか。
要するに陳村がやや空振りっぽく終わった、その欲求不満を振り向けたのがこの夕方の、石壁行きだったのでした。
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