外伝17-048 魯の道や紆余曲折の果ての青/中山路

~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m本編の行程:Googleマップ(経路)~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m~~~~~(m–)m

総督府とコンニャク・モツ・煮卵のおでん

▲夕焼けこやけの総督府旧址(日帝時代の青島守備軍司令部。現在は「迎賓館」と書いてるものもある。)

島徳国建築群」という表札が現れる。
 確かにそうだけど…これは,建物は凄ンごいんだろうが,町並みの味わいはそれほどじゃないか。
 総督府旧址の前で,一応,って何が一応か分からんけどタバコを一服。
 まあこーゆー建物好きな方には,やっぱり青島物語が容赦ない詳しさなので,どうぞ。→ 青島物語/総督府と総督官邸
 ただ今この道の配置を見てると,何ちゅうか,直角三角形のコンニャクを串刺しにして,その間にモツ,先っちょに煮卵が刺さったおでんみたいである。青島物語的に言えば「総督府建物を扇の要として,あたかも放射状の庭園が,山手から海岸に向かって広がっている」。何か風格が全然違う文体で,すみません。

老舎先生と監視カメラの学校

▲五叉路から湖南路へ

しはと言えば,総督府に尻を向けスタスタと明水路を南へ。
 1704,突き当たりの五叉路。
 湖南路を西行。人民芸術家老舎先生とある銅像。観光バス多数。
 誰よそれ?と思いつつ,一応調べてみたら──なぜか無料で読めるページがあったので見てたら,ちょっと気に入った。簡単に言うと,こんなふざけた中国人もいるんだな,と。文革被害者の代表格でもあるそうです。…と,それ以上はも少し勉強してから語りますね。
 それはそうと,この老舎公園,南北に長い。道があったら名古屋の久屋大通の緑地帯みたい,と思って江本論文のドイツ地図を見ると元はホントにアルベルト通りという大通りだった。後述三宅論文のマップでは都市建設前は蛇行する川,というか湿地帯だったようです。日帝時代の地図にはまだあるので,中国が道をブッ潰して公園にしたみたい。

▲老舎銅像の辺りの湖南路。街路樹が多いだけじゃないオーラがあります。

方の中国で何が弱るかって,下校する子どもの送り迎えのラッシュほど弱るものはない。
 湖南路のこの学校も,丁度ガキを吐き出したばかりの校門が,有名判決の出た裁判所の出口みたいな混雑になっとります。
 けど?何か雰囲気が異様過ぎる。親の比率が妙に高いし,子どもが全くはしゃいでない。
 それに加えて…何だ?このものすごい数の監視カメラは?しかも校内を向いてるぞ?
 つまり管理教育の手段として?
 後から調べると──青島百花苑特徴発展培訓学校?なるほど,あれが民間資本を注入した培訓学校なのか。

▲青島百花苑特徴発展培訓学校の監視カメラ

蟹と中山旅館を背に北へ向かう

が嫌いである。
 上海蟹というのはあるけど,青島蟹なる言葉は聞いたこともないから安心してたら──あるらしい。
 ググると,そんなにはないけどそこそこヒットする。
 青島ビールで蟹を摘まんで,クウ~!…という気分にはやはりならない。繰り返すけど嫌いである。

▲カニ?

714,バス停中山路湖南路に到る。南東角に中山旅館という洋館。あ,もう中山路との交差点なのか。
 安易に行くなら中山路北行だけど?北の旧市街っぽい場所の中心は,この道らしい。時間も押してきた。中山路を安易に北上する。

▲ひときわ目立つ中山旅館の洋館

島物語の写真には,当時から目立ってたんでしょう,この現中山旅館の洋館を入れた絵葉書が掲載されてました。
「独逸統治時代,久留米町は大村町(安徽路)とともに住宅地として開発が進んだ。日本統治時代にも,日本高級官僚や大会社幹部はこの界隈に居住していたと思われる。」
 東の総督府辺りの官庁街に対し,この西の一角が居住区で,それが次第に北へ伸びたという推移でしょう。

▲ドイツ時代の現中山旅館及び湖南路・中山路交差点

山路を進む。
 今回の行程では,初めて,普通の中国らしい景観かもしれない。
 ただここにもさりげなく洋館が立ち並んでます。次の写真の左手洋館なんか,中央部のベランダといい,この建物だけあったら感激するかも。でももうかなり慣れてきてました。

▲指が入ってるけど中山路と行き交う公共バス

720,百盛超市。
 バーガーキングあり。
 行く手にICBC。
 武漢の旧租界を思わせる景観が,そのまま中国の機能を持ってる。
 何より歩きやすい!3mほども、あるでしょうか?観光的には京都の四条通りみたいにしようとしてるのかも。

下町風情からブチ壊しまくっとるエリアへ

▲湖北路との交差点前辺り。左の豪勢な石造りは何なのか不明。

723,大沽路跨ぐ。
 1726,西に保定路,東に徳県路。道が下りに入る。ここまでが繁華街みたい。
 ──と当時メモしてますけど,まさにまさに。ここから先はしばらく元からの漢人地区,東西南北の格子状の町割りになり,下町らしい空気に転じます。この急変が青島ですけど,それにしてもこの交差点の歪な交わり方は凄い。

▲道に品物並べるな。それと…視覚障害者誘導ブロックって中国で初めて見た気がするぞ?

▲小洒落た土産物屋。「千遇千尋」なる店名も好い。

色の小洒落た店で土産買う。
 品揃えが充実してて物凄く迷う。結局,青島の絵葉書にしましたけど,この絵葉書類も多種多彩。そりゃこの町だと撮れちゃうよな,なんぼでも。
 1743,西に北京路,東には即墨路。この辺りが北の市街中心です。でもこの辺は…ぶち壊しまくっとるな。
 そろそろ曲がるか?

▲北の交差点。下町風情はこの辺りまで。

その時は感じてましたが──
 青島物語によると,北の日本人街だった辺りはもう百~二百m北らしい。
→青島物語/日帝時代のマップ
 実見からも,地図での見かけがハイウェイの橋桁みたいなのからも(→GM. ),現存してる気はしませんが──
「物語」の回顧する往時の光景の記述を引用し,本章の締めといたします。

「⑩ 所沢町(堂邑路)と新郵便局 
 この場所は5叉路で、画面後部方向は山東町、正面方向は所沢町(堂邑路)、右方向は市場町三丁目、左方向は早霧町(冠県路)、左斜め後ろ方向は済南町(済南路)である。
 右角の建物は新郵便局で、佐賀町(広西路)の野戦郵便局から郵便業務を全て移設してきた。
 この郵便局に隣接して所沢町沿いに朝鮮銀行、伊藤忠商事、三井物産、江商、正金銀行が立ち並んでいた。
⑪ 市場町2・3丁目(市場二・三路)と新市場
 新郵便局と並んで、市場町3丁目(市場三路)に新市場が建設された。二階には日本人小売商が多く店を開いていたが、一階には生鮮食料品を中心とした中華人商人が多く開店していた。
 独逸時代には、中華人を含め市内住人は大鮑島区より南側に集中していたから、当時の魚菜市場は濰県町(濰県路)の四方町よりに、多くの露天商を集めて開かれていたのだ。
 なお、市場町三丁目を正面方向に進むと丘陵があり、その上に中野町、新町という遊興・飲食店街があった。この市場の裏側には多くの日本商店街が並んでおり、この地区はまさに日本人居住区であった。
⑫ 薄雲町(莱州路)と 葉桜町(館陶路)
 所沢町(堂邑路)を北進するとこの交差点に出る。
 左側は薄雲町(莱州路)で左側の鉄道線路沿いに直進すると大港駅前に出る。
 右側の道路は葉桜町(館陶路)で、この道路の両側には青島の主要日本企業が店舗を構えていた。
 大正9年、日本守備軍の発令で官営の “青島取引所” が葉桜町に設立された。取引物件は「落花生実、落花生油、錢鈔、証券」であった。
⑭ 中野町(聊城路)、新町東・西通り(清平路・臨清路)
 新町東・西通り(清平路・臨清路)は、日独戦役後に流入し青島各地に乱立した飲食・遊興業者を統制する目的で、守備軍がこの地区を三業(料亭、待合、置屋)の指定地域と定め、1年以内に全ての関係業者をここに移動させたという経緯で生まれた、いわゆる遊郭地区である。」

■参照プログ:青島物語続編/日本が建設・維持した主要な青島の建物 ほか

(前掲同)
▲日帝時代の青島中心部マップ ※番号毎に以下当時の町名等が記されています。

・青島区 (青線で囲んだ範囲)
 旧欧米人居住区であるが、日独戦役後は誰でも居住できるようになった。しかし建築基準が厳しく、家賃も高かったので欧米人、日本人上級役人・会社幹部が主に居住した。
・市場地区 ー (日本人居住区 赤線で囲んだ範囲)
 独逸統治時代にはここは窪地で河溝が流れ、かつ煉瓦製造所があった事から ”大窯溝” と呼ばれていた。日独戦役後ここは青島区部に接した地区であったことから、青島守備軍はここを日本人居住区と定め、最初に開発を進めた。
 日本人小売商店街、及び遊興・飲食街が中心であったが、中華人小売商店もここで多く営業していた。
① 青島守備軍司令部
② 青島日本第二小学校(旧独逸総督府学校)
③ 福音教会(略称:時計台)
④ 青島病院(旧独逸膠澳政府野戦病院)
⑤ 久留米町(湖南路)
⑥ 馬関町 (曲阜路)
⑦ 深山町 (河南路)
⑧ 山東町(山東路北段)
⑨ 北京町 (北京路)  
⑩ 所沢町(堂邑路)と新郵便局                       
⑪ 市場町2・3丁目(市場二・三路)と新市場
⑫ 薄雲町(莱州路)と葉桜町(館陶路)
⑬ 青島病院新町分院
⑭ 中野町(聊城路)、新町東・西通り(清平路・臨清路)
⑮ 呉淞町(呉淞路)
⑯ 青島日本第一小学校
⑰ 小港地区(中華人居住地区)

■小レポ:ハインリッヒの青島行程

 ハインリッヒ王子の青島訪問は,当時相当のニュースバリューがあったらしい。いずれも断片的ですけど…ヒットは多数あります。
 ただ,青島前後の記録はヒットがない。この後あったはずの中国朝廷入りも具体には分からない。
 主な写真をまとめてみました。

▲「図1 1898 年「青島城市規划图 青島城市青島市档案館編『青島地図通鍪』p.53. 」
※三宅晶子「青島・烟台をめぐるドイツ・日本・中国の文化的記憶 <I> ドイツの「模範的コロニアル都市」チンタオ」Cultural Memory of Tsingtao and Yentai in Germany, Japan, and China <I>“Deutsche Musterkolonie “ Tsingtao

▲総督府の前にて
青島物語/総督府と総督官邸
「1898年に青島を訪れた独逸皇子ハインリッヒ夫妻も、暫くここに仮寓した」

▲信号山付近を視察
「1899年、ハインリッヒ皇太子夫妻は青島を訪れ、山東鉄道の起工式に臨席した。この写真は皇太子夫妻が現地視察した際の写真で、背景に信号山と信号所が移っている。」

▲「図5 青島 1 ドル紙幣 徳華銀行(ドイツ・アジア銀行)発行」※前掲三池論文

▲「図2 群衆の中、中国兵に担われた輿で移動する皇太子ハインリヒ 1899 年
Das Bundesarchiv, Digitales Bildarchiv. 」※前掲三池論文

[前日日計]
支出1500/収入1100
     /負債 400
[前日累計]
     /負債1319
§
→九月十七日(一)
[41青島駅] [42海水浴場][43金口路][44龍華路]
1053金麦園快餐
トマトと卵のスープ
餡入り焼餅,漬物(筍塩辛,昆布の塩辛)370
[45平原路]
1203沂蒙山全羊湯
全羊湯,餅(1)21元300
[46黄島路]
1556姐一家特色鍋貼
牛肉鍋貼(小)20元500
[47観海山][48中山路]

1758生活林
月餅,桃ス400
[49河北路]
[前日日計]
支出1500/収入1570
負債 70/
[前日累計]
     /負債1249
§
→九月十八日(二)

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