目録
山羊さんにお会いできなかつた仲地

1356、仲座変則交差点。R250からR17。
間に合いそうじゃ!──とバイクを停めてみれば……。
天啊!!「仲地山羊料理店 9/21-30 臨時休業」!!!!

──止むを得ぬ。
雄樋川を越え南城市。
1424。南に奥武島の十字路。ここを左折、続けて左折、これで北行路です。

1439、南部運転代行の先を右折して糸数バス停前。
台地の北東側に入り、そこから曲がりこまなきゃならんらしい。

(略)築城年代は不明ですが,玉城按司が二男を大城按司に,三男を糸数按司に任じたという伝説があり,おそらく「三山分立時代」の初期14世紀前半の築城であろうと思われます。
城壁は野面積と切石積と両方用いられ,切石積の部分がもっとも高く約6メートルで,この上に立つと太平洋と東支那海が眼下に望めます。(続)〔案内板〕

(続) 構造的には比較的単純な城で,西側は断崖を利用し,東北東に城門をひらいています。城内の随所には遺物包含層がみられ,そこからは土器に混じって中国製品の陶磁器類が発見されます。また,「琉球国由来記」にも記載された「糸数城之殿」も城内の一角にあります。
沖縄県教育委員会昭和53年3月31日〔案内板〕
うーん。導線が見つからない。とりあえず……案内板に向かって左手、城壁の方へ。
南部最大城郭・糸数城

正直、ネームバリュー的にナメてました。それに南山城のことがあったので──でも、石垣は桁外れの本格度でした!

石積は、南山城と同じく新しい様式に見えます。
琉球石灰岩だという点を考慮すると、石材自体もそこまで古くは見えません。

構造的にはかなり精巧な箇所もあります。
下の箇所はやや目的が分かりませんけど……騎馬を想定した上部への坂道でしょうか?

周囲には、崩れた石垣か祠か分からない感じに荒れた場所もあります。

拝所・糸数グスク
1504、案内板に向かって右手の道に「糸数城跡(神名・モリテル御イベ)」という……何とも言えない構造物群。日本の神社の参道と石灯籠のようにも見えますけど……?

設置銘があるけれど元号・干支とも判読できず、推測もできませんでしたので──分かる人のために画像のみ。


他他に、周辺には丸くサンゴ石で囲んだらしきストーンサークルのような場所がいくつもあるけれど……想像がつきません。


突端から海。
知念半島だと思う。左手の佐敷付近の湾入に対し、右手にも海が見えます。とするとまっすぐが斎場御嶽と久高島?遙拝所?──まさかね。

城では何と誰一人、人間を見ませんでした。
駐車場の対面、アブチラガマには平和学習で大盛況らしい。──まあ、分からなくもありません。ガマで平和をご指導した先生は、糸数城をどうにも説明てきないでしょうから。
帰路、やぎ自販機を発見!千円投じる気になりました!(→次章参照)

1556、軽便かりゆし駅、という看板を見てつい立ち寄りました。
大型店舗が隣り合う中でかなり善戦してる……と言っていいのでしょう。この時間だから、広い駐車場がガラガラというのはどうも……だけど品が出てしまってる感じもします。沖縄は結構こういう地場産農品持ち寄りショップは少ない。
(というか、もやいとか共同売店とか、より本格的な企業形態になってる、とも言えるけど。)
鉄ちゃんではないが軽便かりゆし市の「駅」とは?
さて本プログで何十回と繰り返してきたが、ワシは鉄ちゃんではない。万一鉄ちゃんであれば、ここで沖縄県営鉄道・軽便とは何か、舌なめずりして情報収集するところであろうが、そんなことは一切興味がない。

ネット上には上記のような古い路線図が落ちていることがありますが、目を輝かせることは毛頭ない。まして、これらの駅がどこにあたり、かつ、そのうち軽便かりゆし駅の「近くにあった駅」とはどこなのか、調べる気は全くなかったのである。ホントである。
路線図〔後掲まな兵衛〕-246x300.jpg)
唯だ、鉄道愛好家の方が作成したらしい上記の路線図を見つけてしまった。こういうものを作ってしまうから鉄ちゃんは困ったものである。この図で、「かりゆし駅」とは、どうやら喜屋武~稲嶺~屋宜原~東風平の辺りだろうということは想像がついてしまいました。
かつ、何度か参考にさせて頂いた「沖縄てくてく歩記」の「88歳」さんが、軽便・那覇~糸満路線跡を現在地形上で踏破した記録を迂闊にも見つけてしまいました〔後掲沖縄てくてく歩記〕。全く羨ましくはないけれど、手が滑ったので転載しておきますと--
ケイビン稲嶺駅舎があった近くに、軽便の名を遺した市場がある。南城市の青果直売所で、かつて存在していたケイビン駅のように、大勢の人が交流できる場所になることを期待して「軽便駅 かりゆし市」と名付けられたという。近隣農家が栽培した新鮮な野菜や果物が早朝から届けられ、種類も豊富で低価で販売されている。〔後掲沖縄てくてく歩記〕

稲嶺駅らしい。鉄ちゃんではないが、駅の画像まで見つけてしまったので、載せる気はさらさらないけど嫌嫌ながら載せておきます。
ところで、この沖縄てくてく歩記さんの記事を以前見たことがあるのに気がつきました。自分のプログを見返しますと、大変遺憾なことに、既に稲嶺駅について、1944年12月の爆破事件を調べた際に次の引用をしている旨思い出しました。ワシは鉄ちゃんではないけど、痴呆気味ではあるらしい。
1944年10月の空襲後、米軍上陸前夜の緊張した沖縄本土で発生した爆破事故は、米軍の謀略が疑われたのでしょう、準戦闘扱いとも言える厳重な管理下に置かれました。
列車爆発
1944年(昭和19)12月、県内に駐屯する日本軍の部隊配備の変更があり、第24師団歩兵第89連隊(山部隊)は沖縄島南部に移動することになりました。兵士や弾薬・資材の輸送に県営鉄道(軽便鉄道)を使用していたところ、12月11日午後3時30分頃、大里村の稲嶺駅付近で列車が爆発する事故が起こりました。
乗車していたのはほとんどが山部隊の日本兵でしたが、同乗していた女学生や男子中学生、県営鉄道職員も事故に巻き込まれています。事故現場には憲兵隊と兵隊が駆けつけて事故調査にあたっていましたが、民間人が事故現場に立ち入ることは許されませんでした。また、「事故のことを他言するな、口外するな」という、「箝口令」が敷かれました。そのため、亡くなった学生たちや県営鉄道職員の葬儀はどのように行われたのか、また補償があったのかについて、詳しいことはわかっていません。〔後掲なんじいと学ぶ南城市の沖縄戦←このプログ/m19Jm第二十九波mm3香港通り (ニライF70)/■レポ:戦前南部鉄道網と爆発事件〕
「軽便かりゆし市」のネーミング時に、多分元の駅名「稲嶺駅」を命名する案は浮上したでしょう。普通は過去の駅名を用いた方がリアリティがあるからです。ただ、稲嶺という特定の集落名を用いる案には、南城市広域のファーマーズマーケットとしては反対を呈する方があったのでしょう。また、他に考えられる点としては、軽便×稲嶺から今になっても、1944年の「戦前の国内最大の鉄道事故」を想起したくない、拒否反応のようなものがあったということです。
もし後者であるならば、ワシは鉄ちゃんではないけれど、嫌な過去をほじくり出してしまっているのかもしれませんが--良くも悪くも、これが生生しい沖縄の一面ではありますので、メモだけは残させていただきまして本論へ戻ります。
今日はこーゆー日なんか!
まんぷく食堂定休日!
まあ「軽便」でゆし豆腐を買ってしまったし……夕飯はこいつにしましょ。明日がキツいし。
既に、明日のバイクレンタル返却時間は、3時間延長を電話してます。

──このゆし豆腐が、トンデモなく旨かった……。
けしからん!うちなんちゅは観光客には黙って、こういうホンモノのゆし豆腐を当たり前に食っとるんじゃないか?これ以降、街角で数丁だけ売られてるような沖縄豆腐を見る度、つい買っちゃう癖がつきました。
沖縄糸満線とほほ発見!
1624、(まんぷく食堂前の十字で)道を間違えて……兼城交差点?これを左折(国道329)で那覇だよな?こんな道あるんだ?
──うちなんちゅには当たり前なんでしょけど、まんぷく食堂を中継地にとることが多くて、上与那原十字から糸満与那原線(県道77号線)を南行するルートしか知らなかったのでした。那覇から大里(まんぷく食堂)方面には、この時の那覇糸満線(県道82号線)を通ると遥かに近いことに、ようやく気付いたのでした。とほほ。
コンドミニオマキシ裏の工事現場に「おはなあふれるこえじげんば」(→次頁画像)。那覇市立壺屋こども園(幼保連携型認定)協力という。──建築ラッシュが続く那覇で「何かやらねば」という憂慮が感じられる企画です。「変な」と思いつつ心痛を感じます。
帰り着いて、洗濯機のスイッチを入れると17時になっていた。──ここは乾燥機まで無料で各部屋にある。この後、常宿になってく宿でした。

■レポ:平18-25(-2013)年糸数城跡の南城市教委調査報告
見栄えのするお城で、撮影者の技術より良い写真が撮れてますね。
後掲余湖さんの言葉を用いると「西洋の城のよう」な曲線的な折れや張り出しがあります。最も目を引く東側城壁は「万里の長城のよう」な見事さです。
ただ余湖さんは、総合評として「それ(引用者注:東側城壁)以外の部分はあまりぱっとしないグスクである。一点豪華主義と言ってもよさそうな割り切り方である。」としています。「沖縄本島南部で最大規模の城郭」と記す観光ガイドも多いのですけど、それはインスタ映えする、という意味で、軍事施設としては非常に疑念の多い遺跡なのです。
以下、標題の南城市教委報告を並び替える形で確認してきます。

変なお城ナンバーワン 糸数城
南城市教委報告は、平18-25(2013)年発掘を平成29(2017)年にとりまとめたものですけど、ここの「まとめ」で全体的な論点にされているのが次の点です。
現地イメージがないと最初喉につっかえますけど--城壁が何を守っているのか分からない。東側の「蔵屋敷」地域が高所であり防御対象のはずなのに、そこから低地側になる西側との間にあるのが名高い「城壁」です。壁又は自然障壁が「蔵屋敷」の全周を囲むのでなければ意味がないはずなのです。(もちろん、蔵屋敷を囲む城壁の破壊跡も発見されてはいません。)

(続d) 糸数城跡は、東側に高い城壁を積み上げ、その前方に堀切を設けることで、防御性の低い地域であり、糸数城跡の弱点ともなっている東側の防備を固めていたことを確認することができた。しかし、堀切を南側と西側では崖まで延ばし、地続きとなる平地を切ってはいるものの、北側の平地が続く地域について、糸数城跡への進入をどのように防いだのかという問題を確認していくことが今後の課離である。一つの可能性として、堀切状遺構が延びるとされる北側には、現在使用している道路脇の高い石積みまで延びていたと考えられており、その道向かいには根グスクが所在していることから、現在の道路がグスク時代の頃より使用されていた場合は、石積みと根石グスクを利用して、糸数城跡への進入者に対応したとも考えられる。今後、根石グスクを含めた周辺地域の調査を実施することで、糸数城跡の東側からの進入者の防御方法を確認していくことが必要となる。
蔵屋敷跡については、集落が形成された時期と石積み囲いの関連性について、さらなる調査の必要性が考えられる。集落が形成された平地の多くは、戦後の機械力による耕作地の転地返しによって、堆積層や遺構を含めた埋蔵文化財が壊されているため、集落の全容を確認することが難しい状況である。〔後掲南城市教委124-125枚目p130-131〕
指定範囲図及び周辺遺跡図〔後掲南城市教委〕-300x264.jpg)
ネックになっているのは、「堀切」と呼ばれる地形部が戦時に日本軍が「いい加減に」手を加えたらしいこと。そのために南城市教委も報告時点で上記の「糸数城の基本構想」問題を解決できなかった、と言い訳しているわけです。
(続a) 本地域(引用者注:蔵屋敷地域)は、糸数城跡が城本来の機能が失われた後から戦後までの間、集落地が現在の糸数城跡の西側丘陵中腹に移転した後は、畑地として使用されていた。また、堀切状遺構については、別称として戦車壕とも呼ばれており、太平洋戦争時には米軍の戦車の侵入を防ぐために改めて造成されたとの証言も残っている。(続b)〔後掲南城市教委14-15枚目p6-7〕
即ち南城市の対糸数城分析の戦略は、堀切状遺構のうち、どこまでが日本軍によるもので、どこまでがグスク時代のものかを丹念に切り分けていくことに焦点化されています。記載がありませんが、日本軍の糸数城での「工作」は極秘のもの又は最終期のヤケッパチで、記録は多分ないのでしょうが、万一公式記録か手記が出れば一気に前進するのでしょう。
石積み周辺に関しては、機械力を用いた転地返しの影響があまりみられないことから、戦前に建設されたことが確認されており、調査の結果、石積みの建設時期はグスク時代まで遡る可能性が想定されているが、現在残る石積み囲いが糸数城跡とともに存在していたかを判断するまでにはいたっていないので、その点を確認するための詳細な調査の必要性があり、この結果に基づいて、集落の形成時期と石積み囲いの関連性が明らかにされていくものと考えられる。〔後掲南城市教委125枚目p131〕
政治史も訳分かんないイチカジ城
考古学的ミクロで見ると、もの凄く「変な城」なので、ぐっと目を引いてマクロ視点から再出発してみます。
山南「統一」前の段階で、玉城城(→GM.)を本拠とした玉城王が、南山城の大里按司と対立した時代、糸数城は玉城側に西の最前線だった。しかし、大里按司側により陥落した、という前史です。まあ、定説的な見方でしょう。
『中山世鑑』や『中山世譜』によれば、玉城王の治世下に国が三つに分かれ、大里按司が大里・佐敷・知念・玉城・具志頭・東風平・島尻・喜屋武・摩文仁・真壁・兼城・豊見城を討ち、自らを山南王と称したとあることから、玉城城跡からの西の守りとして築城された糸数城跡は、その役割を担うことができず、大里按司の侵攻を許し、三山鼎立の頃には山南王の支配下にあったと推測される。また、伝承によると兵頭役の「比嘉ウチョー」という人物が、グスク増築のため、国頭へ資材を購入しに行った際の隙を狙って、上間按司が大軍を率いて攻撃してきたため落城したという話が伝わっている。(続c)〔後掲南城市教委15枚目p7〕
奇襲陥落譚が残されているということは、堅城だと評されていたということでしょう。
上間(→GM.)は現在の那覇市域の地名と推定されますから、「上間按司」は時系列によっては中山王又は尚巴志の配下の可能性があります〔後掲Nishie〕。背景を決めつけずに「上間」とだけ仮称するとすれば、玉城-大里-上間の鼎立状態の中で、大里と上間が連立したから玉城側最前線・糸数城が陥落した、という「三国時代」があったことになります。
政治史的にもやはり訳が分からない時空に、糸数城は建っているのです。

聖地・根石城之嶽
民俗的にはどうでしょう?この場合、霊力(せじ)の高い場所は、前・糸数城と目される西側の「根石城」で、ここが拝所としての根石城之嶽です。この訪問ではスルーしていますけど、後掲グスクへの道標によると相当荒れていて石積みも確認しづらいようです。
(続b) 糸数城跡は、糸数城跡の東側に所在する玉城城跡に居られた玉城按司が玉城城跡を守るため、西の守りとして、次男を大城城跡(大里字大城)に、三男を糸数城跡に派遣して築城させたといわれている。(略)糸数城跡の東側に隣接する形で蔵屋敷跡のひろがる平場があり、佐南村と呼ばれていた。この地には先述した糸数城跡築城までの居城であったとされる根石グスクが所在しており、その麓に佐南村の村立ての祖霊を祀る拝所である「根石城之嶽」がみられる。「根石城之嶽」は現在でも糸数集落が村落祭祀にあたって最初に拝む拝所であることから、糸数集落の最高の聖地といえ、本地域が現在の糸数集落の基礎をなしていたことが確認できる。〔後掲南城市教委14-15枚目p6-7〕
この地点を糸数の民俗的中心と見なして拡大すると、そこから谷(堀切)をはさんで東側の平場が「蔵屋敷跡」と呼ばれる場所です。
本市を東西に横断する標高120~150mの琉球石灰岩丘陵上には、北西端に島添大里城跡が位置し、そこから東に大城城跡、糸数城跡、玉城城跡、佐敷城跡、知念城跡などが点在し、東端には、世界遺産「斎場御嶽」が所在する。また、稲福遺跡、垣花遺跡などのグスク時代の遺跡も台地上や尾根筋、あるいは中腹に数多く形成されている。
本市に所在するグスク群の中で、糸数城跡は上述の石灰岩丘陵上のほぼ中央部、南城市玉城字糸数小字竹の口原及び西赤津川原に所在している。今回報告する調査地区については、本城である糸数城跡の東側にひろがる平場であり、通称蔵屋敷跡と呼ばれている地域である。当地域は、平成8年1月22日に史跡糸数城跡に追加指定された地域であり、糸数城跡が使用されていたときの集落がひろがっていたとされている。
地形は、若干の起伏がみられるものの、概ね平坦面を呈しており、広い平場には石積みで囲まれた2つの区域がみられる。この2つの石積みで囲まれた区域が蔵屋敷跡であったと考えられていることから、当屋敷を蔵屋敷地区と呼称している。
蔵屋敷地区の南側は崖状をなしており、北側には根石グスクや佐南グムイが、糸数城跡を望む西側には堀切状遺構が所在する。根石グスクは、糸数城跡築城前の居城であったとされており、堀切状遺構は糸数城跡と平坦面でつながる本地域からの防御のために築かれた可能性が指摘されている。(続a)〔後掲南城市教委14枚目p6〕
すなわち、時系列的に最初に糸数で起こったのは、この蔵屋敷地区に集落が出来たことのようです。
調査の成果として、蔵屋敷跡と堀切地区については、同時期に成立したと考えられ、蔵屋敷地区は14世紀頃、遅くても14世紀後半には集落としての営みが行われていたと考えられる。
蔵屋敷地区の成立時期と糸数城跡のそれを比較すると、若干遅れる形で成立したことになることから、より詳細な成立時期についての調査が今後も望まれる。しかし、堀切状遣構がグスク時代に帰属する可能性がより高くになったことは(ママ)大きな成果といえ、戦車壕については既存の堀切を活用したものであったと考えられる。(続d)〔後掲南城市教委124枚目p130〕
「蔵屋敷」と呼ばれた旧糸数ムラ
下記によると、明治19年に防疫のため避難したのが現・城西側の集落だと伝えられるといいます。これによると、それ以前には蔵屋敷地域こそが「糸数集落」だったのです。
そうすると、余湖さんの言う「一点豪華主義」、つまり工事費はかかっているけれど軍事的に有効性の薄い「陶犬瓦鶏」※建造物を造ってしまう組織のイメージに、マッチしてくるのです。
(続c) 蔵屋敷地域には、サナン・クルーク・イトウカジ・メーバル・シキナ・アダン口・ヤカンなどの血縁小集落が存在しており、それらを糸数按司が束ね、グスクの城下集落としていた。落城後、城跡が使用されなくなった後も集落はそのまま営まれていたが、明治19年の天然痘の流行により多くの人が命を落としたため、当地域を放棄し、現在の城跡西側に転居したといわれている。〔後掲南城市教委14-15枚目p6-7〕
この場所に集落があったとすると、以前伺った(南城市)大里大里の「海を恐れるような」高地集落にそっくりです。→FASE75@deflag.utinaR311withCOVID#与那覇うさん嶽/傾斜面に樹一本
また、「蔵屋敷」という名称は、財を保持する意図を感じさせます。その意味では、喜界島の城久遺跡の配置、さらに今帰仁城や首里城を連想させます。つまり財宝蔵を守るための城と政・軍事権力、という構図です。その色彩は、前章の南山城よりもむしろ濃い。
かつ、それが糸数の集落だったとすれば、相当に裕福な人々の集落だった可能性があります。彼らがその財を守るための自衛防御施設。それが糸数城だったと考えるならば、前章の「南山=交易都市群」イメージには非常に馴染む南山都市が、中世糸数には存在したと幻視できるのではないでしょうか?
遺物については、グスク土器、カムィヤキ、中国産陶磁器、沖縄産陶器などが出土している。最も多数出土したものが中国産陶磁器であり、続いて沖縄産陶器、グスク土器の順となっている。その多くが小片での出土ではあるものの、実数との差異は少ないと考えている。中国産陶磁器の中では青磁が最も多く、続いて褐釉陶器、青花と続いている。青磁は上田編年のⅡ類以降(14世紀後半~15世紀前半)が多数を占めており、褐釉陶器、青花も15世紀前半から出土するようになってくる。〔後掲南城市教委123枚目p129〕
なお、先述の糸数集落最高聖地・根石城之嶽の神名は「嶋根富国根富御イベ」〔後掲グスクへの道標〕。
蛇足を連発しますと──糸数の古名「イチカジ」は石垣を見上げて「最終城壁」と呼んだのに由来するというのが通説。つまり、蔵と壁がアイデンティティだった都市です。
方言ではイチカジといい,イチカジとは弥果のカチ(垣)の転訛であり,垣とは台地と海岸低地との境界点を意味する言葉で,当地が石灰岩台地の西端に位置していたことから,東部の住民が名付けたものと思われる。〔角川日本地名大辞典/糸数【いとかず】〕
〔後掲グスクへの道標〕-300x225.jpg)
〉〉〉〉〉参考資料
がるでん 2008-11-12 18:24:57 沖縄軽便鉄道路線図 URL=https://ameblo.jp/nav-sub/entry-12550294009.html
(ぐすく)グスクへの道標 沖縄本島のグスク案内サイト/根石グスク URL=https://gusukumitisirube.jp/about3/neisigusuku/02.html
なんじぃと学ぶ 南城市の沖縄戦 (発行:南城市教育委員会文化課市史編さん係「南城市の沖縄戦」編集事務局) PDF:https://www.city.nanjo.okinawa.jp/userfiles/files/leaflet_web.pdf
(なんじ)沖縄県南城市教育委員会文化課 2017 「糸数城跡」『沖縄県南城市文化財調査報告書』19
※全国文化財総覧 URL=https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/70300
(にしえ)Nishie.M/糸数グスク URL=https://legendofgusuku.web.fc2.com/tamagusuku/itokazu/itokazu.html
まな兵衛 沖縄県営鉄道(軽便) URL=https://manabey.nobody.jp/okirail/keibin/index.htm
(よごく)余湖くんのお城のページ/糸数城 知念城 玉城 大里城 佐敷城 斎場御嶽
URL=https://yogokun.my.coocan.jp/okinawa/nanjousi.htm



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