/※5475’※/Range(合肥).Activate Category:上海謀略編 Phaze:東菜市でお買物

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.※東三里井北方
GM.(経路)
※合肥島中心部

袋小路 天下に遍在せし福音

目の端に,強烈にディープな路地裏が焼き付きました。
 推定・南陵街の夕暮れ。人通りは少なくない。さりげなくスマホをいじって位置を確認。間違いない,第二Xのポイントです。
 もう一度覗きこむ。老街奥におばあの視線,とはよく言ったもので(ワシが言っとるだけだけど)さっき目の端では分からなかった奥の暗がりに溶けるような婆さんが一人。ここを入るとまっすぐその方向へしか歩けない。
 この視線とディープさに圧倒され,一度離れて道端で一服する。
 吸い終えてから諦め悪くもう一度覗く。あれ?なぜか婆さんの姿無し?──反射的に突入してました。
 ということで,時間的には3分程度ですけど……それなりの覚悟で侵入した時のものが以下3枚なのです。

▲1723おばあの姿なきその路地

ッとするような凄みです。
 最初の西へ真っ直ぐの路地は,左右に古びたアパートらしき建物が並ぶ。二階の渡り廊下を走ってる姉弟が,奇妙な大声を発してる。

▲1724「福音遍天下」──キリスト者の住居だろうか?

様の見えたはずの突き当たりで,路地は右折。北へ曲がったところが上の写真だったと思う。
 急に人気が消える。
 真っ直ぐ向こうにビル街が見えているのに,静寂。
 この奥でさらに左折。そこにパティオのような場所があり,道は途絶えてました。──途絶えてなくてもそれ以上進めたかどうか自信はありませんけど。

▲1725Z字路地からの帰路

る。
 上の写真を撮ってる最中,再び二階を走り回る姉弟の高い声を聞いたのを覚えてます。故もなくゾクリとして,足早に路地を出る。
 何かに化かされてたのでしょうか。ただ,南陵街に戻ると先と変わらぬ夕方の雑踏が流れておりました。

不良街区封鎖スキル


上。
 1729。長江路手前の社区の中に東菜市という市場があって,結構な人出。でも日没までもう間がない。侵入は諦めて──たんだけど入口辺りで買い食い。さっきのでどうも小腹に入れたくなってました。
1735皖北大餅 土家醤香餅150
(→巻末参照)
 旨ッ!──長居してる場合じゃないんだけど,屋台売りのこの小吃にシビレる。そのついでに
1741九品香茶行
霍山黄芽
 茶葉の卸に入る。聞いてるとこの土地のお茶が新茶で出てるという。べらぼうでもないので半斤購入。渡された袋詰めの大きさに唖然──中国での茶葉購入は重さで測るのは他と同じだけど,このフワフワした茶葉は体積にすると結構かさ張ったのでした。
 でも強烈に旨かった!帰国後暫くハマッてました。
※ 恋する中国/霍山黄芽

早に長江東路を渡る。1747……って既に18時??
 対面の道はないので少し東へ。定远路を北行します。
 1801。瑶海酒楼という料理屋の向かいの道に西行して入る。
 この定远路の西側ブロックが第三Xでした。雰囲気は,まさにそれっぽい。なのに,全く侵入路がない。この西行路もすぐに北側へ,弾かれたように出るだけでした。
 北側に回る。表通りのホテルや商店で,完全に蓋がしてある感じで,隙間の路地が皆無です。西に回ってみる。こちらは2本ほど入れましたけど,いずれもすぐに途絶えてしまいます。
──この10か月後のコロナ(新冠)流行下,後淮安の老西門ブロックで窺われた「不良街区封鎖」スキルを,中国当局は日頃から定例処理として習得してるのかもしれません。→Phaze:老西門バザール/■記録:新冠肺炎「疫情防控的路障」破壊事件
1816宮廷桃酥王 銅陵路店
半月形のあれみたいなの150
 18時半,やむ無く東五里井站から地下鉄で帰路につく。西へ。

▲三孝口の交差点にて

はり島内は歩いておきたい。中心部なら町に灯はあろう。下車を,宿の一つ西側の三孝口に決める。
 下車した駅構内で,明日のために始発電車の時間をチェック。0620か──ギリギリだな。やはりタクシーを考えるか。
 1846……ともう7時近い。近いけれども金寨路を南行。

合肥だけど愛知の書店

▲1900M&Y 風尚

尚」とは①気高いありさま,あるいは②人々の好み(=好尚)。
 上の写真の2階に並ぶ店舗は,小物屋らしい。ファンシーショップというところか。
 合肥島の夕暮れは,美しかった。これは想定をはるかに外れてました。

▲1905路地に灯る屋台の明かり

腐な言い方になるけど,自分の町を良くして行こうという思いが滲み出てる町,という感じを受ける。
 そういう勢いで「三孝口面館 老合肥文化主題面館」で注文しかけて,止める。「合肥文化がテーマの麺」なんて合肥らしいっちゃあそうなんだけど,素の味わいはここにはなさそう。

▲1907合肥,とあるアーケード街。好い陰影を創るものです。

にはない手触りの市街です。
 作りものっぽい。でもその作りものの作り方が合肥っぽい。日本で言うと,岡山あるいは播磨人みたいな変調した合理みたいなのを感じます。

▲1908これは「愛を知る」書店でしょうか,それとも名古屋ゆかりなんでしょか?

魔術的川魚

ので,町歩きが出来なくなった時点で晩飯には入るつもりでした。
 前回にあやかり老乡鶏,と弱気な考えも浮かびましたけど──いや?こっちの方が選択肢は多いぞ?
1920斗米楽大食堂
川魚を八角とニンニクとで辛味煮しました
長インゲン豆を秘密の豚肉とちょい唐辛子で炒めました
トマト入り卵スープ
白米飯550
 客は多いけど満杯じゃない。合肥の普通の味かな?それとも「安かろう」かな…と思ってたら!

魚,だと思う。
 脂ののってないさばさばした食感。なので一口目は失敗したと思ったけど,あれはニンニクと八角が徐々に効いてくるまでの助走だったのか?
あるいは味わう方の舌の共振までの時間差だったか?
 大方食べ終わった際の汁や食べ残しを摘まむと,ニンニクの欠片がとんでもなく美味い。箸で摘まむと崩れるほど柔らかい,ニンニク・ゼリーとでも呼びたくなるような状態で,味覚も独特の激しい辛味は失せてまろやかな香りだけになってる。
 対して八角は,これは幾つも出てきました。だから残り汁を飯にかけるなんてとんでもない。汁そのものはどぎつい味なのです。
 この両者が,魚の身にじんわりと染みこんでる。かなりの時間をかけて漬け込んである,あるいは弱火で煮込んでるんでしょう。特に八角の作用は,豚肉の場合よりはるかに強いはずです。でもなぜか,身を食べてる分には嫌味を全く感じず,本来バサバサのはずの川魚に蕩けるような旨味を与えている。
 魔術的な一品です。

▲斗米楽大食堂の自助

インゲンの方にも──いやここんとこ毎回ですけど,参ってしまいました。
 鶏皮か?と思える食感ですが,明らかに豚肉です。頭の皮か,どこかの軟骨なんでしょうか?どうも分からない柔らかな筋っぽい肉に,インゲン豆の重い豆味が途方もなくマッチします。シンプルな唐辛子の辛味も合わさって,名優の共演するドラマのような渋い完成度。
 スープは西柿西和鶏蛋を湯にしたような,これ流行ってるんでしょうか,シンプルさ。これだけは安心して食べれた感じです。
 うーん,さりげなく凄い。いい店を見つけてしまったものですが…既に夜も押しております。

どうせ何も分からんのです

▲2005長虹大飯店の淫靡なネオン

西へも少し歩いてみたけど,やはりこの島の現代化にはスキがなさそうです。それはこの短い歩きでも納得できた。合肥は……何か変な精神文化がありそうです。
2009MAAN COFFEE
美式珈琲

▲2019ホリデイ・インの窓から見下ろす長江路

の写真を8時半前に撮ってるから,ホテル内は9時間余のビバークとなりました。
 ところで?まだチケットを未手配なのは芜湖から上海まで。この区画の列車って…こんな具合だと取れるんでしょうか?──連休最後の日曜日です。
 最悪バスで行くことも想定した方がいいかもです。所要4時間。もっと最悪は硬座で所要6時間ですけど…それなら上海泊を捨てるという方法が現実的でしょう。まあ,着いてから悩もう。どうせ何も分からんのです。

▲宮廷桃酥王のロール!

■小レポ:土家醤香餅十年史

 魔界の路地から現世に還った後,人心地を得た「土家醤香餅」は,貪り喰った状況からでしょう,写真はおろかメモさえしてません。
 ピンインはtu3jia1jiang4xiang1bing3。
「香醤餅」と逆転しても読むそうで,それは歴史の浅さを暗示してもいます。まだ中国人の頭には語順が定着しないうちに人口に膾炙したのでしょう。
 通称「中国披萨」中国ピザとも。

① 流行

 2019年春に湖北省から始まった流行だという記述がある。他にも2010年前後と書かれたものは多いから,有名になってからは10年以上は経ってません。

它香中有香,甜中带绵,辣而不燥,外脆里软。2009年春在湖北开始流行,现已普及全国各大中小城市。

酱香饼是一种与千层饼外貌相似,但口感和味道有天壤之别的一种新饼,刚推出市场的时候,相当火爆,数十人排队等候成为一道城市的风景线

※ 百度百科/土家酱香饼

 簡単に言うと甜面酱と豆板醤を用いたお好み焼き。甘味と豆味が複雑なふくよかさを出すところに,大抵は辣子(唐辛子)を効かせてあるから,辛くて甘い,何とも言えない味覚が出来上がる。

土家酱香饼,又称土家香酱饼、湖北酱香饼、恩施酱香饼,简称酱香饼或香酱饼,是湖北恩施土家族苗族自治州的一种特有的小吃,又号称“中国披萨”。制作材料有面粉、甜面酱、郫县豆瓣酱等。

※前掲百度百科/土家酱香饼

② 出自

「土家」という冠は,創始者の姓かと思ってたけれど,よく考えたらあまり印象の良くない「土」名の姓は珍しい。
 これは民族名でした。

 この中華風ピザ(?)のようなモノは、トゥチャ族と言う中国の少数民族の食べ物だからなのであります。
 トゥチャ族とは、湖南省・湖北省・重慶市の境目に住む民族で、約2,000年もの歴史を持つ民族で、その人口は600万人とも800万人とも言われているようですが、母語であるトゥチャ語を話せるヒトは既に1%程度しかいなくなってしまっている

※ おおたまの「内モンゴル、時々北京的生活雑記」-teacup.ブログ“AutoPage”/中国のC級グルメ「土家醤香餅」

▲土家酱香饼の買い食い状態

「捜狐」にこの土(トゥチャ)族の人と親しかったという方の記述がありました。
 土族の家庭には,酱香饼に類するものは全く見当たらなかったという。そこから,「湖北省恩施长阳土家族的一种特有的小吃」湖北省の恩施长阳土家族だけに特有の料理が元だったのではないかと推定されてます。

吃辣帮小编记得大概是2010年左右,全国各地的小吃市场上突然就出现了土家酱香饼的身影,而且深受大众喜爱,供不应求,经常要排队等候。小编当年读大学时有个土家族同学,小编也去他老家玩过几天,见过不少土家族的风俗文化,也没发现当地有土家酱香饼这一食物,后来深入了解才知道原来是湖北省恩施长阳土家族的一种特有的小吃,后来被北京谭师傅引进推广,改进成大众口味,火遍全国。

※ 捜狐/“中国披萨”土家酱香饼是怎么风靡全国的?

③ 民族

 このトゥチャ族という人々について,全く知らなかった。調べると,民族としてはかなり大きい。人口8百万,スイスや香港に並ぶ規模です。

人口約800万人、中国の民族の中で8番目に多い。言語はチベット・ビルマ語派に属する。長く漢族と交わって暮らしてきたため、現在ではトゥチャ語を母語とする人口は10万人程度とされ、ほとんどが中国語を母語としている。

※ wiki/トゥチャ族

 解するに──越族より,もっと漢族に融和した集団,もしくは越族のそういう一部勢力を指した名称ではないでしょうか。
 言葉は無くなりかけている。従って固有の文化というものも既に希薄になってる。──だから,「酱香餅がトゥチャ族固有か否か?」という問いは,厳密には既に目的語を欠いている嫌いがある。
 ただし「ビッカ」という自称があるらしい。そうである以上,アイデンティティはまだ存在してるのである。漢族の中国大陸南部への拡大の波に完全に飲まれながら,ギリギリのところで完全にはそこに溶けずに踏み留まっている,そういう誇り高い民族です。

その祖先は2000年前から現在の湖南省西部、湖北省西部一帯で生活し、その他の少数民族のように「武陵蛮」「五渓蛮」と軽蔑されていた。宋代以後「土丁」「土民」「土兵」などと呼ばれた。漢民族の人たち(ママ)多数移住してきてからは、「トゥチャ」が民族の称呼として現れた。トゥチャ族の人々は、自らのことを「地元の人」を意味する「ビッカ」と称している。

※ Record China/トゥチャ族

④ 土民

……という語が日本で差別用語としてはっきり定着したのは,2000年の「水と原生林のはざまで」(アルベルト・シュヴァイツァー,岩波書店)が「土人」表現を含んだために市民団体の抗議を受け出版停止してから。1960年代からじわじわと進んできた認識だけど,一般に認知されたのは割と新しい。
「土民」又は「土人」はそれまで普通に「外来の支配層に対する在住の住民」の一般名称として使われてきた。その一番古い表現は,次の2つだという。

猩猩在山谷中,行無常路,百數爲羣。土人以酒若糟設於路

※ wiki/土人/『後漢書』

隋開皇初、相率遣使貢獻。文帝詔其使曰:「朕聞彼土人勇、今來實副朕懷。視爾等如子、爾宜敬朕如父。」

※ wiki/同上土人/勿吉伝、『魏書』

「庶民」と同じ程度の普通の用法です。
 何が言いたいかというと──中国も日本でも一般称だった「土人」が,古代中国南部で庶民の大多数だったトゥチャ族の固有名詞に転化したか,あるいはトゥチャ族の固有名詞が,彼らが当時庶民の大多数だったために「庶民」の一般称に転化したか,いずれかの可能性はないか?という点です。
 どちらにしても,中国南部の被支配層≒土民(土人,トゥチャ族)であったような時代があったのではないか,という仮想ができるように思います。

⑤ 偶像

 龍夢柔(片仮名表記:ロン・モンロウ,日本名称:栗子)が日本デビューしてる。
 2018年7月にヤングジャンプ表紙に掲載。その前月に日本に拠点を移している。
※ モデルプレス/<話題の中国人美女“栗子”こと龍夢柔(ロン・モンロウ)が日本デビューするまで>一度は諦めた夢、でも再び訪れたチャンスを逃したくなかった

 彼女はトゥチャ族出身であることを公言してる。経歴も全く粉飾してる気配はない。なのに「中国の新垣!」と騒ぐ割には,どのサイトでもこの民族のことは考えられてない。
 確かに可愛いけど,それはともかく,だからここでは彼女をサンプルにこの民族に迫っておきたい。
 龙梦柔(簡体字)は中国湖南省湘西土家族苗族自治州古丈県断龍山鎮(断龍山郷)百家村出身。

わずか160世帯しかない山村で育つ。村には伝統の山歌があり、常に歌の聞こえる環境で育った。

※ wiki/栗子

 上海に出る直前の学歴は民族中学。
 この州は270万の人口中,土家族105万,苗族86万。wiki掲載のGDP/人は2006年と古いけれど,この時点では中国平均の半分です。
 歴史も少し見てみます。

明代には永順、保靖州宣慰司が設置された土司(少数民族首領)支配地域であったが、清代に永順府などが置かれて直接支配地となった。

※ wiki/湘西トゥチャ族ミャオ族自治州

 それだけでは理解が難しい表現ですけど,wikiで古丈県をさらに見るとこうあり,「宣慰司」という土司から直接支配への移行,「改土帰流」とは,つまり自治権が剥奪されたことを意味しています。

1727年に改土帰流が行われて土司が廃され、永順県に属した。

※ wiki/古丈県

 明代まで,つまり漢族人口の並行期までの少数民族政策は,漢代の言い方で言えば一種の「群国制」で,支配下に置くけれど自治を認める形式だった。けれど,主に清代の人口急増期(18C頃の百年で1億→4億)に漢族がこの自治域に入植し,これに抵抗する自治政府側を抑えるために自治権の剥奪がかなり露骨に進められた。
 ここで,前述の土家族の文化的現状が思い起こされる。「土家族」とはこの時期に漢族に半・同化された苗族など越族系列の人々を指すように思えるのです。つまり,中国における「平埔族」のような民族です。(→台湾/再六訪 大風起兮/■小レポ:平埔族から考える「民族」概念 参照)

比較的内地に近く、早くから「土司・土官」の置かれた地方では、中国人(漢民族)の移住者が増加し、中国化が進んだ。これにつれて、中国人(漢民族)の経済的圧迫が強くなり、そのため「土司・土官」を先頭とした少数民族の反乱が数多く起こるようになった。

乾隆期になり、貴州省の「改土帰流」が達成されてから、中国人(漢民族)による移民を通じて、「化苗為漢(ミャオ族を漢民族に変えること)」も計画された。ミャオ族に対して漢民族の姓を強要し、漢人戸籍として登録させた。

※ wiki/改土帰流
※※引用部分の多くの出典は王柯著「多民族国家 中国」岩波新書,2005年
※※※中国の人口の歴史--人口推定の方法、人口崩壊のサイクル、など(広島大学総合科学部助教授 加藤徹,平成11年)

 話が「土家酱香餅」から遠く離れてしまったようにお思いでしょうか?ワシ自信も「そうです,ごめんなさい」で終わろうかと思ってたんですけど,実は(偶然にも)そうではありません。
 ロン・モンロウ(龙梦柔)出身地・湘西土家族苗族自治州は省境で,幾つもの自治州・県に隣接しています。うち西北に接するのが湖北省恩施土家族苗族自治州。
 土家醤香餅の発祥地です。
 ちなみに「龙梦柔 醤香餅」ではヒットはありませんでした。栗子は醤香餅を食べていたのでしょうか?

■小レポ:合肥人の傾向と対策

 県民性ならぬ中国の「城民性」というのは,時折話題にはなるという程度です。ただ合肥人についてはやや明瞭らしく,「百度知道」にこんな記事がありました。

通过自己的学习、创业,在合肥立足,这部分人基本上素质较高,刻苦,吃苦耐劳精神很好,值得钦佩,……

──学習,創業の面で合肥人は高い資質を有する。苦難して,食に窮し,労働に耐える精神は誠に得難いものがある。

另一部分是合肥本地土生土长的人,合肥这个城市大家知道在新中国成立之前就是一农村,基本没有什么特色,……

──他方,合肥人は「土生土长」田舎臭い面も有する。合肥という町は,誰もが知るように,新中国成立前は一農村であり,基本的に何の特色もなかった。

论文化底蕴不及安庆地区一般,论消费思想、消费理念,不及芜湖一半,论经济发达又赶不上马鞍山,论人民富裕程度又比不上铜陵,这样一来决定了合肥的本地人眼界不高,小市民味很浓,思想不开放

──文化では安庆(安慶)に及ばず,消費では芜湖(無湖)に及ばず,富裕では铜陵(銅陵)に及ばない。これらの状況から,合肥人は視野が狭く,(性格が)「很浓」(濃厚)で,思想が解放的でない。
※ 百度知道/合肥人的性格

 本文で播磨人に例えましたけど,この記述からすると,中国の名古屋人みたいな自己認識を持ってるみたいです。
 でも,個人的に感じた印象はもっと創造的な,例えば東欧におけるスロバキアみたいな感じを受けました。
 ここで,この旅行でもどうしても迫れなかった合肥の町形成がどうしても気になり,次の域まではまとめてみています。

■レポ:四つの合肥城とその浮沈

「合肥島」と本文で呼び続けた合肥中心域を囲む環状水域が,中国語で「合肥城池」と呼ばれることを知るまで,相当時間を要しました。
 最初からの疑問はこの,はっきりとした城濠の正体と,その非中国的な規模です。まるで日本の城のようです。中国にはこんな小さな,しかも還状の城は珍しい。
 なぜこんな「城」がここにあるのか?
 あちこち読み漁った挙げ句に見つけた次の2点が,現段階での研究の最先端らしく,この文献でひとまずの納得を得ました。以下[四]又は[劉]と略します。なお,幾つかの記述から察するに,ほとんどのものがこの刘彩玉論文を底本にしているように見えます。
[四]新浪网/合肥城池的四次变迁
[劉]刘彩玉「历史上的合肥城」

① 基礎知識:肥河(肥水)と合「肥」

 マイナーな川です。けれど元の漢字「淝」はこの川の名前だけに使われる漢字。表意のない固有名詞専用漢字,これは漢字発祥時期におけるこの川の重要さを意味します。
「百度百科」を直訳します。
 東肥河と南肥河の総称。 東肥河は別名「金城河」,西北へ流れ寿県を経て淮水に流入する。南肥河は古名を「施水」,俗称を「金斗河」といい,東南に流れて合肥市を経て巢湖に流入する。
※ 百度百科/肥水

 容易に予想されるとおり,合肥の「肥」とはこの肥河から来ています。合肥の地名は史記(貨殖列伝)に既にあるから,その頃からこの町と肥河はセットだったことは確かです。──一文字目の「合」についてはまた後に触れます。
 南肥河は,現在,合肥島の北側水域になっています。
 けれど,唐~元の時代にはそれより南を流れてました。

唐杜刺史作斗门,引肥水入金沙滩,故名。由西水关东注,汇诸池圩水,迤南为筝笛浦,过谢家坝为藏舟浦,又东过蜀源桥、惠政桥、镇淮楼桥、九狮桥出东水关。

※ 下記百度百科引用/嘉庆合肥县

 古名続出で全く分からないけれど,今の地名に直すと──大西門→杏花公園→市府広場→鼓楼商厦・中菜市→穿城而→九獅橋。
 現在の长丰路から淮河路が相当する。ここに流れる川に幾つもの橋が渡され,川辺に柳が揺れていたという。

一千多年前,南淝河水从今天的大西门引入,流经今天的杏花公园、市府广场、鼓楼商厦、中菜市,穿城而过,最终从九狮桥流出。大致路线相当于今日合肥城区的长丰路至含山路所截的淮河路段,几十座石桥横跨河面,两岸杨柳依依。

※ 百度百科/金斗河

 淮河路というのは,もちろん,今は歩行街になってるあの道です。→GM.
 そして百度が挙げる地点を繋ぐと,こんなルートになります。

▲百度百科の地点を繋いだ推定・唐~元代南肥河流域:GM.経路

 つまり唐~元の時期には,現・円環を南北に割るように南肥河(の前身たる金斗河)が流れていた。
 この直径ラインは元代に閉鎖されました(出典:闭水西关记)。

元朝时期庐州知府徐钰担心合肥城西北水闸难守,于是下令将水关堵塞——六安人潘镗的《闭水西关记》有所记载。此次闭水,导致南淝河水由城北经拱辰门向东南流,经威武门向东南直接流入巢湖。

※ 前掲:百度百科/金斗河

 この閉塞工事により,南肥河が今の円環北部を流れるようになり,現在の円環状水域が出来上がったわけです。
 でももちろん,流れている河の途中部分を塞き止めただけでうまく流れが変わってくれるわけはありません。溢れるだけです。
 元代のこの閉塞で円環が完成できる,流れてそこまでの歴史がさらにあるのです。

② 合肥旧城と新城

 合肥は遅くとも漢代から続く町です。
 それは事実なんですけど,これだけだと現・合肥島の理解を妨げてしまう。
 前掲[四]の冒頭のこの一文が,その答えそのものでした。

 历史上的合肥城不大,其范围只限于现在的环城马路以里,面积只占到庐阳区管辖区域的一部分,而且这并不是合肥最早的城池。[四]

──歴史上の合肥城は大きくはなく,その範囲は現・环城马路内に留まる。面積は庐阳区の管轄区域の一部を占めるのみだし,何よりこの水域は合肥で最も古い城濠ではないのである。

 ……では,「合肥で最も古い城」とはどこにあるのか?
 まず全体像をイメージ頂きたい。

合肥城池经过了最少4次变迁,直到南宋以后才基本上奠定了我们今天看到的老城池的规模。在此之前,还有汉城、新城、唐城等。[四]

──合肥城濠は最小で4回の変遷を経ている。今私たちが見ている城濠の規模は,南宋以降に基本設計されたもの。これより前に「漢城」「新城」「唐城」があった。
▲合肥城四代の変遷:①漢城→②新城→③唐城→④現老城

 え?現在の円環状は元代に出来たんじゃないの?という戸惑いもあろうけれど,それは後に譲らせて頂き,まず漢城と新城についてザッ見ておきます。
 というのは,この2つの城は円環の外にあったからです。つまり現合肥島とは直接は関係ない。ならば飛ばしても良さそうに見えますけど,ただ,これらを踏まえないと唐城の設置理由が分からない,というのがこの話の嫌らしいところです。

初代合肥城:漢城

 
「太平寰宇記」(北宋の地誌)に曰く,漢代の合肥城は今の県城の北にあった。

据《太平寰宇记》记载,汉代合肥县城“在今县(城)北”,具体位置即今天的四里河附近,面积很小,为合肥侯鉴镡所筑,史称“汉城”。[四]

 この遺跡は合肥市庐阳区亳州路街道辖区内のものがそれだとされています。
 まだまだ謎の多い遺跡らしい。BC16Cにまで遡れる「庐人」と呼ばれる民族の最大の部落群体だったとされています。城は夏の時代の「巢氏」の末裔が築いたものとされている。
 場所はよく分からない。色々出てくる地名からすると大体この辺り,現在の2つのダム湖の東岸だと思われます。→GM.

华夏人文始祖之一有巢氏的后裔,由高台巢穴迁徙至淝河岸边,由于此地少山,为避水患、野兽和外族侵扰,人们择高邻水、聚族结庐而居。因居庐,故被称为“庐人”、“庐氏”。公元前16世纪以前,这里就居住着“庐人”的最大部落群体。

※ 毎日头条/合肥历史:“汉城”合肥

第二代合肥城:新城

「新城」というのが三国時代,というのも悠久の中国史っぽいですけど,それまで二千年近く続いた旧城を捨てたのですから,当時の合肥人の印象はそうだったのでしょう。
「庐州府志」に曰く,漢末の献帝のとき,老朽化した漢城に代わる城を西方二里の地に造った。曹操が揚州刺史の劉馥に命じたものとされています。

公元200年,扬州刺史刘馥单骑赴任,在“汉城”基础上重建合肥城。这一段历史在《庐州府志》也有记载:“献帝时,曹操表刘馥为扬州刺史, (刘馥)单马造合肥空城,立州治。今合肥县西二里,故城是也。”[四]

 この新城は観光化されてるから位置が明確です。ダム湖の西にある合肥三国新城遺跡公園です。→GM.
 孫権が五度攻めて落とせなかったというのはこの城です。→Phaze:徐州肚子痛行/予習:合肥情報/② 孫権の5度の合肥出兵
 今は三十岡郷(三十岗乡)と呼ばれる場所。スイカが有名らしい。
 ということで,ようやく話は現・合肥島に場所を戻します。

③ 肥河の水利と円環の連結

 ところで合肥の「合」についてです。肥河の何が何に「合」したのか?
──合肥の古称に,「庐州」と並んで「合州」というのがあるという説もあるから,「肥」よりさらに古い何かの表現という説もあるけれど……。
 北魏の「水经注」が出典というから史料性は高い。ここに,夏水が洪水を起こして肥河(東肥河とされている)に合流してしまった,だから夏水が「肥」河を経て淮水域に「合」する地,即ち合肥と称された,というのです。

北魏郦道元《水经注》云:夏水暴涨,施(今南淝河)合于肥(今东淝河),故曰合肥。这是一种说法。

※ 百度知道/合肥地名的由来

 夏水とは漢水の古称です。現在,武漢で長江に合流するあの河です。
 漢水中下流域は低地で氾濫を起こしやすい。とは言え,遠く東進して合肥まで流れて来るなんてことが──あったのでしょうか?
 いつの時代のことかも分からない。ただ確からしいのは,この黄河-長江の間の淮水ベルトの低地帯というのは,そのくらいに河川が簡単に入れ替わり,考えられないような水害を起こしてしまう場所だということです。

第三代合肥城:唐城(金斗城)

 三国の新城は,孫権の敗退に象徴されるように軍事的には大成功してる。それがなぜ捨てられ,今の市街が今の位置にあるのか?
 この唐城への助走辺りの事情は,底本劉論文の記述に当たらないと分かりにくかった。
 原典史料が明らかにされていないけれど,その後の三国新城の状況を劉論文はこう語る。

自梁天监五年(公元506年)合肥县城被南肥河水冲溃后,日渐淹废。[劉]

──506年(梁代),つまり三国時代から3百年後,南肥河が決壊,合肥県城は日を追って浸水により破壊された。
 南肥河の増水理由は分からないけれど,夏水を初め上流域の変動は起こりやすい土地です。この時期,合肥域の低地は広く水に漬かった。
 地図上で合肥地域の水域をもう一度見て頂ければ,実感できます。西方,三国新城との間の2つのダム湖の歪な形状。現合肥島の南西・西山景区,西北・杏花公園,東北・逍遥津公園の水塊の乱雑さ。いずれも氾濫の残址と思える地形です。
 そうなると──

自此以后,历代封建统治者,再也不愿在南肥河北岸低洼的旧址上营建城治了。[劉]

──これ以降,歴代の統治者は,南肥河北岸の標高の低い沼地の旧城を建て直すことは考えなくなった。
 平均水位の慢性的な上昇で,2千5百年間に築いてきた新旧両合肥城は,いずれも捨てざるを得なくなったのです。──やはりこの時期の環境変動は何か狂暴なものだったようなのですけれど,この異変の正体は全く分かりません。
 けれど演繹的理解はともかく,帰納的な解決が問題でした。劉論文は当時の統治層の頭の中を如実に描写してます。

他们必须重新选择新的城址,其先决条件是:地势高,水运便利。前者可以防止河水漫城,后者可以解决航运交通和城内军民的饮水问题。[劉]

──新しい城域を新しく選択しなければならなかった。その場所の前提条件は①高所であることと②水運の便が良いことであった。前者により町への河水は防げる。後者により交通と軍民の炊飯や飲み水の問題を解決できる。
「後者」の「軍」の文字がギラつきます。水運と言っても元明清のような内陸商業インフラということではなく,住民が生存でき,軍兵が長期に籠城できる場所,ということでしょう。
 この問題を解決したのは,唐代に入ってから。年代が正しければ,水害から百年かかったことになります。
 

唐太宗李世民统一全国后,由右武侯大将军尉迟敬德根据以上的两个条件,审度地形后,便在南肥河的南岸高亢的台地上,营建新的合肥城池。[劉]

──唐初の統治者が,両条件を踏まえ,南肥河の南岸の高度と面積のある台地に新たな城濠を造った。
 その場所が──

▲金斗城(金門城)推定位置図 ※ 維基百科/合肥城

 現・合肥島の南東端です。
 この場所は,迂闊と言えば迂闊ながら二度の訪問で一度も歩いてません。航空写真を見る限りあまり雰囲気がありそうにないけれど……省委大院の巨大な建築がそこに建つのは,ここが合肥中心域の核であることの心理地形的な反映なのかもしれません。

唐代合肥县城,名叫“金斗城”。 城的形状和范围,虽不甚清楚,但位置是约略可知的。南宋、元、明三代还存在着唐城的北门城楼和部分残存的夯土城,名为“金斗门”和金斗岗。金斗门位于今合肥城内,时雍门西二里,即今十字街中菜市。[劉]

──城の形状・範囲ともはっきりとしない。しかし,南宋・元・明に渡って唐城の北門の楼閣と土城の残存部分が存在し,それぞれ「金斗門」,「金斗岡」と呼ばれていた。金斗門は時雍門の西二里,即ち今の十字街中菜市に当たる。
 これは,その名の通りの中菜市路と北含山路の交差点辺り,淮河路歩行街からワンブロック南の場所です。→GM.

 この唐城の城域と,先に見た元代に塞き止められた河の流路から考えて,唐城は北と東の濠として現・淮河路を通っていた南肥河を利用していたことになる。南は現在と同じ含河。西がよく分からないけれど,この辺り,このつまり現・合肥島南西角も元は湖水域だったのだろうか?
 つまり唐代の城域は,現・合肥円環の四半分強の範囲だったことになります。

第四代合肥城:現老城域

 現城域への拡張が行われたのは南宋末。北の異民族王朝・金,そしてそのさらに北から迫るモンゴルからの圧迫に耐えるための拡張だったらしい。
 この拡大城郭を「斗梁城」という。
 問題は,この拡張がどう設計されて,この特徴的な円環が出来上がったか,です。
 劉論文は宋史(卷三八六 金安节传)を参照しているらしい。このように記してます。──これが本レポの核心になります。

斗梁城的扩展是:南截唐代金斗城一半,北跨金斗河,西括九曲水,将原来在金斗城外东北角的小湖泊——“逍遥津”和西北角的洼地——“金斗圩”一块儿括入斗梁城 内。顿使合肥县城改观,范围扩大了几倍。[劉]

──斗梁城の拡張は以下のように行われた。南辺は唐代の金斗城の一部を流用。しかし北は(唐城の北限だった)金斗河(訳注:当時の南肥河)を跨ぎ,西辺は九曲水を用いた。さらに,元々は金斗城の東北にあった小さな湖「逍遥津」(訳注:現・逍遥津公園域の湖水),西北角にあった沼地「金斗圩」(訳注:現・杏花公園の湖水)を一括りにして斗梁城 内に入れた。これにより合肥県城はその範囲を数倍に拡大することができた。
 つまり,唐城から思考を切り替えた点は大きく2つある。一つは,北の南肥河を城内に入れた点。南宋末のプロト・合肥城は,いわば二つの高台を繋ぎ合わせた城域を構想したわけです。
 もう一つは,既存の湖水──これらは6世紀の大氾濫期の水害の爪痕だったと推測されます──を連結して濠にした点。南宋末に設計された城域の形状は,決して円環ではなく,高台域を取り囲むように残された湖水が災害地形としめまずあり,これを応急的に繋いだために出来た「歪な方形類似」だったと考えられます。

④ 南肥河の人為的移動と円環の完成

 ここからは素人の推量ですけれど,まあ単純な物理的帰結になりますからそれほど突飛なものではないはずです。
 かくも北を恐怖し,歴史的な大拡張を行った合肥も,元帝国の前に陥落する。その後に元が行った先述の南肥河の移動は,どういう意図からだったかは不明です。
 ただ,南宋が実現した大・合肥城によって繋ぎ合わされた城域北辺の湖水の連関を,南肥河の移転先と捉え直すことによって,元代の人工移転は実現されたのでしょう。
 現在の北の濠は,南宋が繋ぎ合わせたけれど,元によって南肥河の本流に位置づけられた。これで初めて現・老城域はひとかたまりの陸になった訳です。
 そうするとどうなるか?湖水の連関は,流水により次第に滑らかな流域を描き,最初から河だったような弧を成すようになっていったと考えられます。
 結論として──誰も円環を設計した訳ではない。ないけれども,自然の流水とそれへの対抗としての人為が繰り返される中で,円環が形作られていった。
 この低地ベルトにおける水と人との,長く荒々しい会話の結果として形成されたのがこの円環である。そういう捉えに落ち着きました。

 覚悟してましたけど長文になりました。どうお感じになりましたでしょうか。