m19Jm第二十九波m寂然と座するも妈祖でありませうm3香港通り (ニライF70)

戦後沖縄最後の名残り 香港通り

「香港通り」最盛期の住宅地図

*香港通りはどこなのか?(2) 金城カネさん | 沖縄の風景
URL:http://coralway.jugem.jp/?eid=3927#gsc.tab=0

港通り」はもちろん俗称です。ここは戦後の大密貿易時代に香港からの交易者とその携えた品々が流れ込み,米軍基地からの「戦果」(盗難品)と交換するマーケット……だったと語られる場所です。闇市場なのでその名しか出掛かりがない。マーケットの実態はもちろん皆目,闇の中です。

EEokinawa」(後掲)に目標地点から約150m北西の戦後画像がありました。
 国際通り側から来ると,桜坂通りの西入口を過ぎた先になります。
 さて,ゆっくり歩きたい。自転車を停める。

(上)撮影位置図※ (中)2015年現在景観 (下)戦後すぐ頃の同地点古写真
※ひやみかちマチグワァー館(現在廃業。桜坂劇場への西登り口付近)の2階から撮影〔後掲DEEokinawa〕

三和荘に帰ってきてしまう

355。T字に立つ。
 東は道向こうにセンタービルを挟んで壺屋焼物博物館。西への道はステラリゾート前で平和通り商店街のアーケードに入って右手北側に湾曲,桜坂通りに出ます。北真後ろに平和不動産商事の入ったビル。北後方天空を突くのはハイアットリージェンシー那覇沖縄。
 そして南のその道,南東角にシーサー工房・不羁,南西角は陶宝堂。道の南の行く手には文化堂の文字。
 間違いない,ここです。香港通り。って──えっ?ええっ??

▲香港通り北入口〔GM.アース〕※地点∶GM.

もや……三和荘の筋???
 沖縄通いの最初の頃,常宿にしてた漢族経営の宿です。ここへ帰ってきた,という訳か……。
 お?三和荘の対面左手に「ふんわり洗濯」のコインランドリーできとる!
 ad壺屋一丁目7-12。
▲1409(前方北方向)みつや繊維前

はかすかに下る。桜坂劇場の丘の南斜面に当たる訳です。
「みつや繊維」の先で車道。ここから先も「香港通り」だったのでしょうか……と問う相手ももちろんいません。
 対面に「自然食品店わかば」。車道を渡ってさらに南進。1410。
▲1411(前方南方向)右手西方「わかば」の位置

香港通りの南端はどこだったか?

手に琉球舞踊衣装販売「てんぐ屋」。
 この対面左手は空き地になってます。三味線太鼓「文化堂」にぶつかって道は尽きる。
▲1415(前方北方向)民宿「やすらぎ」※前
※現(2022)・宮古そば 製麺所 SAIGA 那覇壺屋店の地点

化堂の建物は新しくはないけれど,戦前のものではないでしょう。
 このブロックの南東側には,かつて那覇劇場があった場所です。1949年に収容所への慰問公演劇団(松・竹・梅)の常打ち館として開館,1969年の閉館まで20年稼働しました。

1959年那覇劇場前の光景を写した古写真〔案内板〕

って,文化堂以南のブロックは戦後早い時期に再開発されています。もう一つ南は農連市場(現・のうれんプラザ)です。
「香港通り」と呼ばれた闇マーケットが,このブロックまで伸びていたか否かは不明です。でも都市政策的には,伸びていたから文化行政の名目で再開発して「健全化」を図るという発想は自然です。だから行政上の状況証拠としては,逆に香港通りの傍証ではありえます。

微かにハイセンス 香港通り西通り

▲1417(文化堂右手東側)突き当たり
※現在(2022)は舗装され駐車場
直に言って,何も見つからない。
 一つ西の路地を引き返してみる。1417,北へ。
▲1419香港通り西通り

コード屋と服屋。どちらも最近の店,しかもかなりセンスいい。どうやら古い構造の店舗をうまく改装してるようです。
 右手に「GARB DOMINGO」という謎だけどやはりセンスはいい店を見て,車道を今度は北へまたぐ。
 洋服直しの店。
▲1420香港通り西通りと車道の交差点

トルアジア」という以前泊まった宿のブロックの中央は,最近撤去された建物跡でしょう,駐車場になってました。何があった場所でしょうか?
▲1423平和通りが向こうに見えてる駐車場

香港通りの金城カネさん

港通り西通りは,要するに金壺食堂の道でした。
 そうか金壺って「素食」の店だったんだな。
 琉球ステーキ「KIWAME」にぶつかる三叉路で元の道へ。
▲1424金壺食堂前。すぐ北がT字路。

あそうだとは思ってたけど──いやはや,全くかつての痕跡はありません。雰囲気だけです。
 でも,沖縄に来はじめた当初,つまり三和荘を常宿にしてた頃からこの場所が「何か違う」と思い続けて,やっとそれが何だったのか腑に落ちたスッキリ感がありました。
 日本の古い市場のほとんどは戦後闇市が発祥と言うけれど,ここはさらに何か空気が違うんです,確実に。

「沖縄の風景」著者が推定した金城カネさんの商店位置(上)と戦後当時の古写真(下)〔後掲沖縄の風景〕

縄の風景」著者が,香港通りに店を構え,戦後当時に最も羽振りのよかった「糸満三羽ガラス」の女傑たちのことを記していました。

昭和26年に大東糖業(宮城仁四郎社長)が戦後真っ先に操業を開始。その翌年には琉球製糖(金城金保社長)が設立された。

金城カネさん画像〔同著「私の戦後史」表紙より〕
 この2社の砂糖を独占的に扱ったのが“糸満三羽ガラス”と呼ばれていた糸満の三人の女だった。幸陽商事の金城慶子氏と照屋商店の照屋ウシ氏、そして私である。香港通りで私の店の両脇にこの2つが並び、3店で競い合っていた。〔後掲沖縄の風景〕※原典 金城カネ「私の戦後史(第5集)」沖縄タイムス

 ここに書かれた「糸満三羽ガラス」の面子は物凄い(巻末参照)。「競い合っていた」というのは日本・沖縄の感覚で,香港・中国の「幇」のように本質的に抗争したのではなく,かの女傑たちを神輿あるいはノロ的な象徴に仕立てたネットワークの三類系というほどの意味でしょう。

名物∶国際通りトランジットモール

那覇のトランジットモール規制概略図。国際通りは那覇でも唯一,全面バスレーン規制を実施している。

際通りトランジットモール交通規制」というもので12~18時の車両通行規制されてる国際通りを……自転車を押してれば歩行者だよな?……とキョトキョトしつつ過ぎる。まあ怒られはしませんでした。
 那覇のトランジットモール(歩行者ゾーン形成のための時間別車両交通規制)は,2022現在日本国内ではかなり先進的な事例です。特に街最大の繁華街(国際通り)への車両侵入を時間的に完全排除するのは──。
トランジットモール違反を(制度も分からず)ネットで御自慢

から,チョロい観光気分のナイチャーの方はこの規制で捕まれば,上記のような写真をアップできてお得です。……こういう軽いのを見てると,ますます国際通りに近寄る気がしなくなって来るさあ。
 さて,そんなツラい思いまでして今回初めて訪れた国際通りエリアの裏手に入ると──おおっ!開いてた!

やっぱりそばは大東島じゃ!

▲大東そば

441大東そば
お得セット(大東寿司,三枚肉とソーキ入りそば)400
 もちろんここのゴーヤチャンプルが目的だったんだけど……何とあのメニューは廃止になったらしい。うちなんちゅは,この位のゴーヤチャンプルを他の秘所で食えるんだろか?それともあれは「やまとんちゅ」好みの味だったのか?

  なので仕方なく頼んだはずのメニューでしたけど……これが旨かったのです!沖縄そばを初めて美味いと思った……。
 中国浙江辺りの小麦粉っぽさばかりでも,うどんのようなコシの強さばかりでもない。かと言ってバランスと書いてしまうにはパワフル過ぎる。何がこんなに凄いんだろう……。
 後に名護市大東で同じ味が喉を通るまで,ここの「大東」とは大東島だと思ってました。この頃までのワシは,その位に「そば」音痴だったのでした。

mr.kinjoから那覇租界の眺め

▲街区を塀で区切る福州園

510。KINJOへチェックインして,まず洗濯ものを干す。
 物干し場から福州園が見渡せました。これはやはり围そのものです。那覇のこの区画に,福建人たちは「租界」を創ろうとしたらしい。
 1538,県立図書館5階へ再訪する。郷土資料エリアで夜まで籠りました。
▲1909県立図書館の「本の福袋」

幻の沖縄鉄道「けーびん」

退館したのは19時を回ってました。
 停めてた自転車をこぎ出しかけて,案内板を見つけました。
「那覇駅跡 ナハエキアト」
▲那覇の鉄道路線図

るほど。この旧BTは,戦前にあった那覇駅の跡地利用だったわけか。
 北は海沿いに嘉手納まで,これは容易に想像できます。概ね現・R329ラインで与那原まで,というのも納得。問題は南です。
 国場で与那原線と分かれ,東風平経由で糸満。なぜまっすぐ海沿いにではなかったのでしょう?小禄や豊見城を抜けるのはそんなに困難な工事だったのか?
🚞 らに──稲嶺から分岐した細い線が百名まで走ってる。これがいわゆる軽便線らしい。
 与那原からは斎場御嶽辺りの地形が厳しくて,直達できなかった。それでも百名や具志頭を結んだのは、当時,この方面に馬天港のクジラ漁など漁獲運送などのニーズがあったからでしょうか?(巻末参照)
見えてるものが全てじゃないから

■レポ:香港通りと糸満三羽ガラス

 どうも情報の残り方の手触りに違和感があります。
 そもそも痕跡を残さない,1950年頃には米軍から執拗な摘発を浴びたはずの密貿易拠点が,なぜこの一箇所だけ名付けられて残っているのでしょう?現地を見て,それは確信的になりました。

1 糸満三羽ガラスのあと二人

 三羽ガラスの残る二人のうち「金城慶子」さんとは,「幸陽商事」という会社名も一致するから,与那国島で「密貿易の女王」と呼ばれた「ナツコ」その人に間違いない。

「ナツコ」画像

た,場所が分からないけれど那覇にあった幸陽商事ビルを継承したのは照屋敏子だったという。高木凛「沖縄の独立を夢見た女傑 照屋敏子」(小学館,2007)で描かれる,途方もない女傑です(1915生1984没)。照屋姓の多い沖縄なので断定出来ないけれど,これらの前後関係からすると,金城カネさんの書く三羽ガラスの「照屋ウシ」と関係がある人でしょうか?
照屋敏子 画像

2 香港通りは密貿易の核心エリアか?

 本編冒頭から頻繁に引いている石原昌家「戦後沖縄の社会史 軍作業・戦果・大密貿易の時代」(ひるぎ社,1995)の「香港通り」記述を確認します。

 台湾にヤミ取引のためにきていた香港・マカオの商人たちが沖縄の密貿易人と接触することによって、さらに、香港・マカオの密貿易ルートが開拓されることになった。そのルートは、与那国経由のみならず宮古や沖縄本島にまで拡大され、密貿易ミニ中継基地が各所に形成されていった。
 さらに、中国本土と沖縄間においても密貿易ルートが形成されつつあった。そして、那覇市のヤミ市では、香港通りという異名がつくほど香港・マカオからの密貿易品が集積している場所もできた。新聞には、密貿易出港地としてインドや朝鮮の国名まで掲載されている。
 米軍の放出物資や軍需物資、戦場の跡に散乱している砲弾・薬キョウ、各種兵器類、米軍倉庫からの「戦果」類などが物々交換のいわゆるバーター品として出ていき、衣食住のあらゆる物資が欠乏している沖縄にとって、すべてがバーターの対象になりえた。〔後掲石原「戦後沖縄の社会史」〕

 史料上は那覇の闇市の国際色を「まるで香港のようだ」と例えてるだけのようです。壺屋一丁目は,正確には,その中で最も著名だった「糸満三羽ガラス」の店舗所在地,というだけです。
 店舗がはっきりしていて商売していた,ということは,彼女らはそこで少なくともすぐに違法を摘発されるような経営はしていなかったでしょう。いわば表経済との調整窓口,裏-表経済界の国境のような役目の場所だったろうと想像されるのです。
 先述したように,与那国島での密貿易に限界を感じたナツコが,足を洗って表経済に進出したのが香港通りの幸陽商事です。
 結論として,本編で見た場所は那覇国際闇市の「最もキレイな場所」だったと推定します。ここが中核どころか,香港向け市場の表経済の窓口だったのでしょう。
 戦後沖縄の密貿易時代の闇はもっと深く,捉え難い場所だったはずです。

密輸用の仕切りの中に貨物を積み込む密輸業者ハン・ソロとチューバッカ
「広い銀河だ。いつだって、どこかの誰かが探してるぜ…密輸業者を」byハン・ソロ

■レポ:戦前南部鉄道網と爆発事件

那覇駅に停車中のケービン鉄道。〔後掲fun okinawa〕※原典 那覇市歴史博物館提供

 百名分岐線については到底分かりません。ただ,糸満線そのものが非常に政治的に造られた路線だという話は残ってるらしい。これとの因果は明確でないけれど──
 1944(昭和19)年12月,この鉄道で「戦前の国内最大の鉄道事故」が発生しています。
戦前の那覇駅,戦後は那覇バスターミナルとなった場所〔wiki〕

 糸満線
 ケービン鉄道の中では最も遅い大正12年に開通し、那覇→古波蔵→真玉橋→国場→津嘉山→山川→喜屋武→稲嶺→屋宜原→東風平→世名城→高嶺→兼城→糸満の全14駅を約1時間程度で結んでいました。

戦前の沖縄本島鉄道路線図〔後掲波浪規定の部屋〕※原典∶鉄道路線図古書
 糸満線といえば極端なU字形状のカーブ路線=下図=が特徴です。俗に「幸之一カーブ」と呼ばれ、当時県議であった大城幸之一氏が故郷の玉城方面へのアクセスを考慮して、働きかけをした影響だと言われています。〔後掲fun okinawa〕

極端なU字型のカーブが特徴的の糸満線

 いくつか分かることがあります。一つは,玉城に地縁を持つ政治力の強い人が,少なくとも戦前にはまだいたということ。もう一つは,逆にそれが糸満地方にはなかったということです。
 自動車輸送が主力化してくる時代まで,那覇-糸満間の距離は意外に遠かった。沖縄南部のイメージマップは,現在とは相当異なっていたようなのです。

馬車鉄道は馬車か鉄道か?

 先に斎場御嶽南の安座真集落が,戦前は馬車鉄道の終点であったと伝わる旨を紹介しました(下記リンク参照)。

 本文中で示した鉄道路線図は,沖縄県営鉄道,つまり公営部分だけのものらしい。
▲(再掲)那覇の鉄道路線図

戦前沖縄の「私鉄」網 ※橙線(ゆいレール)を除く〔後掲泡瀬誌〕

 ここにもやはり,機械動力でないものは「糸満馬車軌道」しか書かれていない。
 拓殖会社は政府出資を受けた国策企業です。以下の西原への製糖資源輸送という主用途は安座真の記述とも一致するので,本島東岸方面はこの拓殖会社の輸送網が支配的だったことになります。

沖縄人車軌道株式会社 (大正三年:1914年3月那覇東町で設立)
上記の会社は、沖台拓殖株式会社が当初、西原工場への甘蔗(さとうきび)の搬入を拡げる目的で敷設した軌道を、さらに泡瀬までの貨客輸送を見込んで設立した軌道会社である。
泡瀬の県道南入口が終点(駅舎のようなものはなかった)になっており、すぐ近くにきゅう舎と営業所(民家)があった。 〔後掲泡瀬誌〕

 要するに,中距離の路面電車のようなものが走っていたらしい。
 東海岸には,糸満より短距離の馬車軌道が設置され,しかもその時代は短かった。この点が,県営鉄道よりさらに後代への情報が少ない原因と推測されます。

中頭東海岸の主要な交通機関として登場した馬車軌道は、泡瀬・与那原間に乗合バス(昭和5年)が乗り入れられると、スピードの違うバスに乗客を奪われ、交通の主役を明け渡す運命となった。〔後掲泡瀬誌〕

 本文中で確定しなかった上記鉄道路線の稲嶺からの細線も,こうした馬車軌道の一つだった可能性はあります。ただし,これら馬車軌道の全貌を図示又は一覧にした資料をまだ見つけることが出来ません。
 なお,この交通機関は,軌道上の貨車を馬力の動力で運んだものらしい。お馬さんは線路の枕木で躓かなかったんでしょうか?

馬車軌道客車のスケッチ〔後掲泡瀬誌〕※原典∶写真集ふるさと泡瀬

1944.12南部鉄道某重大爆発事件

 南部の鉄道事情を総括すると,政治的に捻じ曲げられた無理な路線設定,馬車鉄道と思われる無秩序な分岐と,乱開発の様が見て取れます。
 この貧弱なインフラを使って,1945年4月の米軍上陸前には軍の配置転換が頻繁に行われている中で,戦前最大の列車事故は発生しています。

第24師団歩兵第89連隊(山部隊)第二中隊陣中日誌(1945(昭和20)年11月24日)中の大隊長口達「島尻郡ニ移駐ヲ命セラレ」〔後掲内閣府〕

①事実関係:神里東原に積まれていた軍弾薬

 事件発生は1944年12月11日15時半頃。事象の状況は概ね次の通りです。

列車爆発
 1944年(昭和19)12月、県内に駐屯する日本軍の部隊配備の変更があり、第24師団歩兵第89連隊(山部隊)は沖縄島南部に移動することになりました。兵士や弾薬・資材の輸送に県営鉄道(軽便鉄道)を使用していたところ、12月11日午後3時30分頃、大里村の稲嶺駅付近で列車が爆発する事故が起こりました。
 乗車していたのはほとんどが山部隊の日本兵でしたが、同乗していた女学生や男子中学生、県営鉄道職員も事故に巻き込まれています。事故現場には憲兵隊と兵隊が駆けつけて事故調査にあたっていましたが、民間人が事故現場に立ち入ることは許されませんでした。また、「事故のことを他言するな、口外するな」という、「箝口令」が敷かれました。そのため、亡くなった学生たちや県営鉄道職員の葬儀はどのように行われたのか、また補償があったのかについて、詳しいことはわかっていません。〔後掲なんじいと学ぶ南城市の沖縄戦〕

2016年に西原に新設された第八十九連隊(山三四七六部隊)顕彰碑。沖縄戦の主力部隊,満州で創設,兵力補充元は旭川。
「駅付近」です。主要ジャンクション駅だった稲嶺駅で停車しないとは思えないので,スピードを上げていたとは推測し辛い。
 また,この派手な事故にも関わらず箝口令が出されたというのもよく分からない。事故発生自体はすぐ口コミで広がったと思われるのに,何を隠せというのでしょう。

嘉手納駅で無蓋貨車(屋根のない貨車)六両に第二十四師団(山部隊)の弾薬が積み込まれ、兵士約一五〇人も乗り込んだ。(略)那覇駅ではガソリンが入ったドラム缶が無蓋貨車一両に積まれ、もう一両の有蓋貨車には衛生材料を積み、女学生も五人ほど乗り込んだ。こうして横関車は、ドラム缶を積んだ無蓋貨車を一両目、衛生材料や女学生を乗せた有蓋貨車を二両目に伴って那覇駅から古波蔵駅に戻り、うしろに嘉手納駅からの無蓋列車六両を連結して発車し、糸満方面に向かった。(略)
喜屋武駅を過ぎ、登り坂にさしかかると黒煙を吐きゆっくりと進んだ。列車は登り坂を過ぎ、もう間もなく稲嶺駅にさしかかろうとする南風原村神里集落の東側のワイトゥイで突然大轟音を起こし、爆発した。一両目に積んでいたガソリンのドラム缶に、機関室からの火の粉が引火したことが爆発の原因であった。その後列車に積載した弾薬にも引火し、炸裂音とともに燥弾の破片が飛び散った。さらに事故現場周辺に集積されていた球部隊の弾薬にも引火したため、辺り一面が火の海になった。
〔後掲南城市教委〕※四章3節p410

戦後の米軍写真。手前の線路に置かれたカービン銃の大きさと機関車の車台を比較できる。カービン銃は全長800mm以下,沖縄県営鉄道の軌間は762mm。〔後掲鉄道ニュース〕※原典∶沖縄県公文書館 米海兵隊写真資料21/撮影日:1945年5月/撮影地:記載なし
 爆発は一度だけ起こったのではなく,二度三度と誘爆を繰り返したらしい。
 機関からの火の粉が一両目のガソリンに引火,という事態だけでも信じ難い。そんな場所に,小さな火の粉で引火するほど無防備な状態でガソリンを積むでしょうか?
 さらに,その爆発が沿線に蓄積された弾薬に引火した,とされます。通りかかった列車が,その地点でたまたま爆発する。……ありうる事態でしょうか?
 この辺りからは,安易に米軍の破壊工作の可能性も疑いたくなりますけど……実証材料のない見方なので,ここではひとまず謀略説は採らずにおきます。
神原東〜GM.稲嶺地形図〔後掲歩鉄の達人〕※赤丸線は引用者,○15は現・軽便駅かりゆし市(→)

田圃と小川を横切り稲嶺駅へ向う切通し附近に差しかかるや突如として轟音を発し一帯は火の海と化した。その爆発音は那覇市をはじめ島尻全域に響き渡った。時計の針は午後四時三十分前後を指していた。大音響と同時に乗り込んでいた二百数十名の人間はこなごなになって飛び散り、あるいはガソリンと火薬の火によって焼き尽くされた。(略)字神里の東原は畑に積まれていた日本軍の弾薬に誘爆を起し数時間も火災が続いた。そのために二、三百メートル離れた村の民家が数軒燃え上がり、村人達は混乱の中を近くの壕や隣村の山川方面へ狼狽しながら逃げた。〔後掲棒兵隊〕※原典∶川端光善「弾薬輸送列車の大爆発」:『那覇市史資料篇』第3巻7 沖縄の慟哭 市民の戦時戦後体験記1

 素人の読みではあるけれど,「字神里の東原」の「畑に積まれていた日本軍の弾薬」が真の原因のように見えます。例えば,その弾薬の山から転げ落ちた弾丸が線路にまで至り,これを列車が踏みつけてしまったとか,そういうどうしても軍が暴露されたくない事態が発生したのではないでしょうか?

第32軍八原高級参謀in映画「沖縄決戦」仲代達矢

②公式の原因:軍規弛緩による爆発説

 第32軍は逐次の兵力増強に加え直前の第9師団の台湾引抜きに対応するため,配置変換を繰り返す中で,内部の不満は相当に高まっていたといいます。

混成旅団は昭和十九年七月沖縄上陸以来、大本営の五回に及ぶ沖縄守備兵力の変更に起因し、その守備地域を転々とすること、実に五回である。自らの死所と定め、精魂を傾けて築いた陣地を弊履の如く放棄しなければならぬ将兵の心中を察すれば、真に情において忍び得ないものがある。(略)知念国民学校で、独立混成第十五連隊井上大隊の全将校と会食をした。彼らは口を揃えて、混成旅団が転々として陣地を移動する不満を訴えた。〔後掲八原〕

 さらに10・10空襲で見せつけられた圧倒的な米軍の戦力差など,厭戦と絶望と精神主義が混沌となった精神状況下です。現実の軍規はかなり緩んでいた,という説もあります。
 ただ,そうした「軍規弛緩説」は,そこに現代ニッポン人がいたら感じたであろう感覚論に過ぎず,根拠がほぼない。さらに加え,その後の沖縄戦での日本陸軍が最後まで組織的な戦闘を継続した事実と完全に矛盾します。

前年の夏にノルマンディを防御した一部のドイツ軍部隊は、極めて多い死傷者にも関わらず、持ち堪え、逆襲すら行って、連合軍指揮官に強い感銘を与えた。しかし、ドイツ軍の兵器の多くは日本軍のものと違って、対抗する連合軍の兵器より優れていた。暗い見通しに関わらず、優れた戦術と忍耐で戦ったドイツ機甲師団も、沖縄で日本軍が示した離れ業には匹敵できなかった(中略)このような状況にくじけることなく、多くの死傷者が出るという悲劇にも耐える事ができたのが日本陸軍だけであったろう(中略)驚くべきことは、組織や軍紀が低下せず、これほど長く保持されていたことである〔ジョージ・ファイファー「天王山―沖縄戦と原子爆弾」下,小城正(訳),早川書房,1995〕※後掲wiki

 現代ニッポンからの観測より,敵をドライに判定するアメリカ側の観測の方が有効のようです。その中から,南部鉄道爆発に関連して特に有効な観点を抽出してみます。

日本軍が準備された防御陣地に布陣し補給が受けられる所では、我がアメリカ軍の最優秀部隊が、従来になかった強力な航空支援・艦砲射撃・砲兵支援のもとに攻撃しても、遅々たる前進しかできないような強力な戦闘力を発揮する事が沖縄の実戦で証明された。〔デニス・ウォーナー「ドキュメント神風」時事通信社,1982〕※後掲wiki

 上下の軍事評論とも,日本軍に米軍が優越しうるのは,兵站・補給(ロジスティクス)であることを看破しています。ロジの弱さを抱えた状況下でなら,それを日本軍の戦闘能力の卓越がリカバーできない,という観点です。

日本軍の攻撃は創意に満ち、決死的であった。これに対しアメリカ軍が防衛に成功し、沖縄攻略に成功したのは卓越した補給、作戦計画およびその断固たる実施によるものである。〔ハンソン・ボールドウィン 「勝利と敗北 第二次大戦の記録」朝日新聞社,1967〕※後掲wiki

 先に結論を言うと,日本軍組織の兵站軽視とその管理能力の欠如が,南部鉄道爆発事故の原因だったであろうという点です。

第32軍長勇(ちょう いさむ)参謀長in映画「沖縄決戦」丹波哲郎

③軍訓示:長勇参謀長「戦力ガ半減セリ」

 第32軍参謀長の長は,爆発事件の後,関係者に広く訓示を発しています。

第九四号石兵団会報
十ニ月十四日 一二〇〇 浦添国民学校〈中略〉
七、軍会報中必要事項
軍参謀長ヨリ左ノ如キ注意事項アリ(略)
山兵団ハ上里附近二於テ列車輸送中、兵器弾薬ヲ爆発セシメ莫大ナル撰耗ヲ来セリ 一〇、一〇空襲二依リ受ケタル被害二比較ニナラザル厖大ナル被害ニシテ国軍創設以来初メテノ不詳事件ナリ此レニ依リ当軍ノ戦力ガ半減セリト言フモ過言ナラズ〔後掲南城市教委〕※四章3節p417 ※※参謀長∶長勇

「戦力ガ半減」したことを公言しています。おそらく同訓示の後半であろう次のものでも,(下線一つ目)同様の「半数ヲ減ジ」た旨を示し,これにより(同二つ目)「戦闘方針ヲ一変」させたと言っています。

戦ハ大和魂ノミニテ勝チ得ルモノニ非ズ。兵器弾薬ハ戦勝上欠クベカラザルモノナルハ言ヲ俟ズ。軍ハ該被害ニヨリ戦力ノ半数以上ヲ減ジ如何ニシテ之ガ前後策[善後策カ]ヲ講ズルカニ腐心シアリテ軍ノ戦闘方針ヲ一変セザルベカラザル状況ニ立到レリ。今、敵上陸スルトセバ吾レハ敵ニ対応スベキ弾薬ナク玉砕スルノ外ナキ現状ニシテ今後弾薬等ノ補給ハ至難事ナラン。将来兵団ニ交付シアル兵器弾薬、其ノ他ノ軍需品ヲ消失爆発等セシメタル際ハ軍ニ於テ補給セズ、其ノ余力ナシ。〔後掲棒兵隊〕※原典∶「石兵団会報」第94号:JACAR〔アジア歴史資料センター〕Ref.C11110068900

 最後の下線部では,今度戦略物資を失った部隊には補給をしない,とまで言っています。軍の内部的に,兵站軽視の思想を抜本的に転換するよう要求している訳ですけど──。
 外部的には,つまり当時もいたであろう米軍の諜報者の目にはどうでしょう。32軍中央でも爆発=米軍謀略説は少なしゼロ否定ではなかったでしょうし,本当に戦略物資が半減したならそんな情報をここまで公言するでしょうか?
 長訓示はある程度は,米軍諜報者への陽動又は挑発だったはずです。──隠し難い爆発事件を逆利用して,米軍の油断を誘おうとしたのでしょう。だから,長訓示を百パーセント鵜呑みにするのは危険です。
 さて問題は,事実としてこの事件が32軍のロジスティクスに与えた影響ですけど──物証,特に数値はかなり徹底して消されているようです。その上で「半数」と公言し,それがおそらく誇張だとすると,不測の事故を全くの嘘でない程と看破されない位の数字だったのではないでしょうか。その辺りからするとそのさらに半分,2割程度を損失した可能性があると推測します。
 戦後に本島沖縄県民の大多数を支えた米軍の重厚な補給能力に比べるのは,いささか可哀想なほど,戦前の日本軍の兵站軽視は,その果敢な士気とは別次元で,かなり蔓延していたのではないでしょうか?それが配置転換の繰り返しでさらに助長された後,沖縄戦を迎えてしまった。
 前掲デニスの言の通り「準備された防御陣地に布陣し補給が受けられる」状況で日本軍が戦えたなら,沖縄戦の帰趨はどうなったか。沖縄戦はロジスティクスの戦いでもあったわけです。

占領した那覇で県営鉄道の列車(那覇市内を走った路面電車とも)を運転するポーズをとるマーウィン海兵隊3等軍曹 45年撮影:沖縄県公文書館【写真番号79-39-3】

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