m19R_2m第三十七波mあわあわとわだつみ鬻ぐくろのしまm甑島m平良往路

目録

晴れたなら東に見える桜島

良へのバスの発車時刻は1245でした。正午のチャイムを聴いた後、その時間まで港で休憩。
 港のレンタサイクルの返却時間は1820と確認。天気が良ければ今日でもいいけれど……明日以降かな?
港からは東対岸の九州の山並みが見えています。──前頁巻末にも挙げたけれど、この方向には運が良ければ霧島山や桜島が見えるようです。

(上)地理院地図:3D (下)甑島から遠望する桜島〔後掲かごしまの旅〕

橋渡る 見えてきたのが平良港

が出来てから迎えも大変になったよ」と、下甑からミニバスで出っ張ってきてるらしき旅館の人たちが笑い話。──上下甑島を完全に連ねることになった1,533mの甑大橋は2020(令和2)年8月末開通。つまり陸人にとって「一つの島」になったのは一昨年(2022年当時)からなのです。
 フェリーニューこしきの入港を見る。帰路はこれを予定してます。と?──その入港と同時にバスが入ってきました。そうか、船とバスが完全に連動しとるのか。ワシが先に乗車したバスに、フェリーからわらわらと客が乗り込む──かと思いきや、ほとんどに迎えがあるらしく、初めて乗るらしい手打のおばあさん2人のみ。つまり客は3人で終了。……こりゃあ、島内バス路線は危機だな。この路線で旅行できるの、今だけかもしれんな。
 1245、もちろん定刻発車。
🚌
ずは港際を走って八幡宮前。ケイダストアーから再び海側を走る……のかと思うと折り返す。「トバシラドン」という場所を経由した。
 え?八幡宮からも引き返すの?港入口のT字路から左折……しない?里商工会前。1人乗車。
 ええッ?また引き返す?ここでやっとT字路を右折南行。バス停・里支所前。
──要するに集落を一周して客をかき集めてから南行するらしい。まあ鹿島まで150円均一だからいーけどね。
 園上。すぐち三叉路。当然のように片側一車線。路側も狭い。──これは、自転車では危険かな?
 次バス停・ふりんセンター前?そんなのの中心センター作っていいの?──これは「クリーンセンター」を聞き間違えたのかもしれない。
 結構な山だらけ。
 ちゃのき?──これはホントでした。「茶之木」と書く(→yahooマップ)。
 診療所前。脇道の車庫みたいな所に入ってすぐ出る。バス停・中甑。さらに中甑港。中甑郵便局。──島としてはまだ上甑島だけど、地区としては平良からこの上甑島南岸付近の「海域」を中甑と呼ぶ感覚らしい。
 港。観光船「かのこ」が出てるとこです。コシキテラスがある。1人降りて2人乗る。
 バス停・おおたの浜。なぜか大日本帝国旗が翻る。
大明神橋。
 ちょっと予想してませんでした。──左右に絶景。岩の形が凄まじい。その中の、ところどころに鳥居がある。歩くには広いけれど、想像を百倍超える凄まじい地峡でした(→GM.)。──この景観は、後に何度か通った折の画像を後掲します。
 鹿の子大橋。
 トンネル。出てすぐ、集落が見えてきました。もうここがそうか?
 バス停・岩屋──え?ここにも天岩戸伝承があるの?(岩屋については巻末参照)
 見えてきたのが平良港らしい。1312、平良たいら下車。

ず帰路バスの時刻をチェック。
 1620。滞在3時間弱となる。
 過疎地はこの点、気楽に受け身に諦めざるを得なくて、好い。

~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

平良港の光景(西方向)

ずは……東へ。でも、集落を通って行きましょう。
 猫だらけ。しかも猫、だらけ切っとる。

黄雀風 隠れ門徒の正浄寺

だらけてる猫だらけ
ひょいと家屋を覗き込む

手東方に平良郵便局を見る十字路。
 まっすぐ南、お寺らしき場所へ。1317。
原発からの距離表示

発からの距離表示。でも川内の海岸からこの程度しか離れてないんだな。
 お寺は正浄寺でした。
 住職さんの帰島日時が掲示されてる。しかも帰るフェリー便まで……田舎あるあるではあるけれど、徹底的です。
住職はツラいよ

石碑に「正浄寺のあゆみ 1880(明治13)年 平良説教所として設立」──思いついてググると、こちらは2022年から「からいも」というHPまで立ち上げられてます。1881(明治16)年の平良説教所から始まる歴史も丁寧に整理されてるページです。※URL:https://www.xn--n8jat5f8hobe13g.com/
「再建前の本堂」(∴1980(昭和55)年以前の平良集落写真)〔前掲「からいも」HP〕


薩摩藩時代には300年にわたって浄土真宗を信仰することは禁止されていました。しかし、島の信者たちは密かに講を組織して、隠れて信仰し、子々孫々へと護り伝えてきました。〔前掲HP〕

 薩摩藩はキリスト教以上に真宗を弾圧しました。上記を信じるなら、「隠れ門徒」の集団があったことになる。
 ただ、当時は寺の左手の湾曲路に惹かれ、進んでおります。ごめんなさい。1323。

路地裏の道を縁取る石並び

寺左手の湾曲路
平良集落路地裏道その1

おっ!なかなか好い路地があります。
──今見ると、道を縁取る石の並びは、後から置いたと言うより元々の敷地境の目印だったようにも見えます。
平良集落路地裏道その2

地。
 その南裏手から、石垣が見えたので──多分こっちは抜けれないはずだけど、さらに南への道へ。

平良小のQRコード銘板

校門の石垣


 家屋ではなく、平良小学校校門でした。
 1329。
 造りは古く見えるけど……何の跡でしょう?百年の碑というのが建つ。
平良小学校校歌〔後掲平良小学校〕

文「ありがとう平良小学校 まなびのさと」に、平23に閉校──と書かれてました。
 校歌が流れるマシンを設置。
──だけじゃなく、今HPを見ると、記録映像が流れるYouTubeのQRコードが設置されてるみたい。

平良小学校閉校碑
校門から東への湾曲路

333、校門から東へ。
 道が丸い。舗装されてるけれど古いままの道です。──ただGM.上はどの道なのかよく分かりませんけど。
湾曲路から西の光景
湾曲路からの路地裏道

し!海に出れました。1339。
 この湾が江戸期に掘られた場所のはずです。はずなんだけど……どうも古みは感じないなあ……。

三島社に甑菊咲く丸石塚

江戸期平良港

折、東側へ。
 側溝の中を、猫が走り抜けて行った、らしい音。
三島神社

島神社(→GM.)。1342。
 鳥居右手の高台に丸石が集められた壇。記名なし。──推測不能。
高台の丸石塚

寄進碑は相当古い。記名は……全く読めない。
 とりとめがないなあ。
 1347。もう一つ鳥居があるぞ?横手から登ると──水神社でした(→GM.)。

水神社より鈍きエンジの倉庫

水神社階段上からの江戸期平良港

こは、江戸期平良港に南東から突き出したような部分に当たります。ただし……ここから眺めても、湾内の岸壁はほぼコンクリ化してて、痕跡をとどめるような風はありません。
水神社

れた階段。記名のない赤祠。外周のコンクリは後付けで、元は中の塔のみでしょう。カップの供えあり。
 何だか、怖い社です。
水神社右手の石積みの湾曲

方の石積みは、丸石。
 古くはないけれど、配置が湾曲してて面白い。こんな複雑な台座を持つような建物が、ここにあったのでしょうか?
水神社鳥居とその先にある開口部

りる時気付いたけど、この祠の向く方向は、湾に開いた外海からの通路に向いてる。──霊的な護り、でしょうか?
 1356、さらに先へ。1〜6の番号を付す、くすんだエンジ色の倉庫。

愛宕社の鳥居は外海を向く

平良港の船。瀬戸内のような大きな目はないけれど,上部に類似の紋様

良の島の船には舳先脇に目がついていないらしい。──いや?ツバメのようなラインが、3割ほどの船にはある。あれが目の代わりなんでしょうか?
愛宕神社の先の海岸から向こう岸

404、海際。
 外海に向いた鳥居。
 愛宕神社とある(→GM.)。海を一枚。これは北東、つまり上甑島方向になります。軍事的に見れば、見張り場所には最適な場所です。
黒く尖った剥がれ石

の石を探ってみる。
 尖った、黒い岩が多い。層を成した岩が剥がれてできたもの、のように見えます。知らんけど。
──この岩の名は、なぜかどうしても見つかりません。火成岩のはずですけど……。
愛宕神社鳥居と江戸期平良港

愛宕の宮の爺と婆

へ登ってみる。──ここも階段は大層荒れてる。宮近くには石段はなく、単なる斜面。
 何だろう。どうも日本神道の臭いがない。

斜面奥手の愛宕神社本殿

神社に似て、コンクリの祠内に沖縄型の元祠。
 ただ元祠部分の屋根以外は新しく、祠内の箱も最近の木箱。
 爺婆の小っちゃな陶器が供えてある。
爺婆陶器のお供え物

の祠は、湾の円環の開口部を向いているようです。この三神社は、各宗派による同一目的の呪術装置でしょうか、それど構造的な連環があるのでしょうか?
 1425、舳先まで行ってみたがもう網置き場ばかり。開口部は20mほどであたかも地続きのよう。
 戻る。
江戸期平良港の割と複雑な構造〔地理院地図航空写真〕

■レポ:平良の薄き残り香

 平良の地歴情報をまとめた書籍は、ほぼ見つかりませんでした。──池山一美さんという著者の「平良沿革誌」という本があるらしいんだけど、到達できませんでした。
 鹿児島市の図書館で見つけた郷土史編集委員会「郷土史 上甑村平良」(平良小中学校PTA会長,昭45)の関連情報を、以下にストックしておきます。著作者は、ここまでも何度か触れた平良小学校の歴史記述を書かれた方だと想像しますけど、お名前にはやはり到達できてません。

富裕者の残り香

 本文中でチラと見かけてる墓について、まず見逃しがあったらしい。
 遠隔地の死亡者例として最も分かりやすいものは、元禄代の御影石。

当地の墓地に,元禄時代前後に建てられた古い墓石が数基ある。当地方のものと型も石質も違い良質の御影石であり,大阪方面から運ばれたものと推測される。墓石は大型であるので,大型船で運搬されたものとすれば,相当な財力がなければできないことであり,当時の富豪の豪勢さがしのばれる。
(略)当地の共同墓地には,大阪方面の人の墓石が数基ある。(略)この内二基は泉協新村,元禄十年(名ははっきりしない)と泉州佐野浦住人,板原勘兵衛,享保五年と刻まれている。(続)[郷土史編集委員会「郷土史 上甑村平良」平良小中学校PTA会長,昭45。以下「郷土史」という。p7 ※引用者注]

 享保代のものは泉州の地名表記かあるという。これらだけからすると大阪(大坂)市場とのルートが想定されるけれど、墓石競争が大坂系商人の間だけにあった可能性も否定できません。
 次の墓石は、地質の専門家の判定をみてないようです。

(続) この頃当地に,鰹節の元締で鰹漁業製造等で巨万の富をなした富豪があって数代も続いたといわれる。その墓石も二百年内外経過しているのに,今でも字が読めるのからみると,相当良質の石材である。〔後掲郷土史p7〕

 次の記述も、基本は言い伝えです。ただ、1827(文政10)年の留帳が存在しているらしい。──ただしこれも調べた限り、所在情報は不明。

 港の工事が竣工すると,本県西海岸唯一の良港となり貿易船の出入並びに大型鰹船やその他の漁船も入港して次第に活気をおび,年々繁昌していった。また当地の鰹船も文政十年の留帳によると七隻もいて賑わったという{。}そのうえ,薩摩の貿易,殊に琉球あるいは,長崎に通う所謂殿様船の寄港地として,また密貿易の中継地として栄え,料亭などもあって,非常に繁昌したものである。(続)[郷土史p16]

──サラッと「密貿易の中継地として」栄えたと記すけれど、書き方からしてこれも実証性は欠く感じです。
 次のパートには具体の豪商名が出てきます。ただし、「千兵衛」という「南九州屈指の財閥」が誰のことか非学にして特定できません。三島・愛宕両社の鳥居寄進者というから、単なる外資でなく平良に馴染んだ人みたいなんですけど……。

(続) 当時,当地には南九州屈指の財閥といわれた千兵衛氏が居を構えて,鰹漁業や貿易によって巨万の富をなし,千石船で北九州方面や大阪方面まで進出したという。(略)
 千兵衛氏は,甑島の各地の神社に石の鳥居を寄進しているが,今も残っているのは当地の三島神社と,愛宕神社のものだけである。[郷土史p16]


 次の情報も、元禄十四(1701)年、泉州河内屋、善十郎氏とデータは揃ってるんだけど、ヒットする情報はありません。

元禄十四年,泉州河内屋善十郎氏の寄進による御影石の手水鉢があるが,石質の優秀さを誇っている。当地に明治時代まで,河内屋という屋号が残っていたが,この人と関係があるのではないかと,いわれている。[後掲郷土史p83]

「御影石の手水鉢」というからには、数が限られる神社のどれかのはずです。──後掲記事(→後掲上甑誌)から、これは三島神社だと推定されます。
 とかく、この位に建造物群が残ってるのに、書籍類が全然残らない、というのはどういうことなのでしょう?疚しいから書いたものを残さなかった、というレベルではない。商家の帳面位は残ってもよさそうですけど……。

□ミニレポ:1842(天保13)年異国船薪水令書附

 先に書いておくと──平良に残る天保異国船薪水令の原典書附は最も保存状態が良いと評されます。
 まずこの外交政策ですけど──ペリー来航11年前の江戸幕府のスピード感ある外交政策の変遷は、とても「鎖国」をしていたとは思えない、とつくづく思います。

1806年(文化の)薪水給与令
 (文化の撫恤令ぶんかのぶじゅつれい)

1825年 異国船打払令
1839年11月3日 英(EIC艦隊)、広州で清国兵船を攻撃(川鼻海戦:アヘン戦争開戦)
1842年春 増強を受けた英艦隊が北航再開
同5月 対日貿易港・乍浦陥落
 ▽(揚子江口・呉淞要塞陥落)
同7月21日 鎮江陥落→京杭大運河封鎖、北京への補給遮断
1842年7月23日(天保の)薪水給与令
1842年8月29日 英清両国、南京条約調印
(第一次アヘン戦争終結)
※出典 wiki/アヘン戦争、維基/鸦片战争ほか後掲木村
※※上記維基によると、鎮江陥落の詳細情報の出典は下記のとおり。うち清史稿の記述は下記の内容のみなので、少なくとも一次史料性は低い。
[12]镇江府立青州驻防忠烈祠碑
[13]《清史稿·卷三百七十二·列传一百五十九·海龄》
該当部「英兵既陷吳淞,由海入江,六月,犯鎮江,提督齊慎、劉承孝敗退,遂攻城,海齡率駐防兵死守二日,敵以雲梯入城屠旗、民,海齡與全家殉焉。」〔維基文庫/清史稿/卷372/列传159海龄〕
[14]骆承烈. 《鸦片战争中镇江抗英的史料 》. 《历史研究》. 1978年, (4期).
[15]《鸦片战争》第5册. 上海人民出版社. 2000: 305页.
British troops capture Chin-Keang-Foo 英軍攻佔鎮江,1858〔維基/镇江之战 (1842年)〕
※原典:Thomas Allom; G. N. Wright (1858). The Chinese Empire Illustrated. Volume 2. London: London Printing and Publishing Company. p. 126.

 即ち──上記の日付を信じるならば、天保の薪水給与令はアヘン戦争敗戦後に結ばれたものではありません。同戦役の最終戦──つまり運河南端、首都北京の喉元に当たる鎮江陥落の、僅か二日後●●●●●に発布されているのです。
……流石にこれは豪傑・水野忠邦の運の良さに多分に原因するとは思いますけど──それにしても北京の長江側出口を戦略目標とする英国側のロジスティクスと、同戦役におけるその意義を、江戸城の中で判断出来たのは高度で冷徹なインテリジェンスと言うしかありません。少なくともWW2時の大本営には、絶対に持ち得なかった知性です。

内部リンク▶/※5442’※/Range(淮安).Activate Category:上海謀略編 Phaze:河下古鎮は良い処/■小レポ:もう少し正確に「邗溝」のことを語る
(再掲)淮安河下を通る邗溝の位置
(1)〜(4)が大運河。青は文帝が建設した大運河、赤は煬帝が建設した大運河。
(1)=永済渠 (2)=通済渠 (3)=山陽瀆(邗溝) (4)=江南河 ★(4)長江出口が鎮江
※ 百度百科/京杭大運河

アヘン戦争交戦地域〔後掲sinojapanesewar1894〕
アヘン戦争交戦地域詳細地図A〔後掲sinojapanesewar1894〕
アヘン戦争交戦地域詳細地図B〔後掲sinojapanesewar1894〕

奉還の四半世紀前に見た予知夢

「大清国の二の舞いになっちまう」と夜の場末の酒場で鳥居耀蔵が語る場面が、映画「駆込み女と駆出し男」にありましたけど──天保薪水給与令の出た1842年は維新(1868年)までまだまだ四半世紀もある時代。
 天保令を発したときの幕閣老中首座は、悪名高き水野忠邦。つまり超有能なこの官僚は、アヘン戦争情報を厳格に秘匿したらしい〔後掲松尾〕。ただ現実には、アヘン戦争ネタの巷説本は爆発的に出回ったらしく、この辺りの情報戦の実態は様々に推測可能です。

(再掲)水野忠邦肖像画〔水野家文書〕

 この時期の庶民層への海外情報の浸透には、何と、かの理論家・吉野作造も魅惑されたという記録がありました。

 吉野氏は、古書として『海外新話』を購入し、読んでみると日本の幕末に書かれた鴉片戦争に関する書物であり、興味を感じたという。それで同じ幕末に鴉片戦争を描いた通俗的な古書も買い集めたが、他の古書はすべて『海外新話』を基本としているので、『海外新話』の著者のことが気になった。そのうちに宮武外骨の『筆禍史』を買うと、 そこに『海外新話』の著者楓江釣人が嶺田右五郎であり、『海外新話』の刊行のために押込め(禁固刑)、ついで江戸追放の処分を受けたことを知った。やがて『嶺田楓江』(明石吉五郎編)、『楓江遺稿』(山田烈盛編)などの本も入手した。それらによれば、江戸追放後、嶺田楓江は房総半島を歴遊し、ついに居を千葉県君津郡請西村に定め、教育家として三〇年余を送り、明治一六年一二月に死去したことがわかった。また楓江は詩人としても知られ、軸物も東京周辺に多数残されていることもわかった。吉野氏はこう述べて、『新話』には東洋漁人編『清英阿片之争乱』という、きわめて僅少なる部分に拙い手入れをしている、明治になってからの復刻本もあると記している(1)。〔後掲奥田〕

※原注(1)吉野作造『閑談の閑談』(一九三三年・書物展望社)原載:筆者(奥田)が見たのは、吉野作造『閑談の閑談(抄)』(一九九八年八月・日本図書センター)。 

嶺田楓江の伝・写真画像(原典:明石吉五郎「嶺田楓江」大正八年刊)

 上記によるならば嶺田楓江さんは、自慢の蘭学をふるってアヘン戦争本を書いた咎にて江戸を追放されてます。吉野作造の見立てによると数々のアヘン戦争本のタネ本は嶺田さんの「海外新話」らしく、これらを全て信じるならば維新への旋風を起こしたジャーナリストの鏡とも言える豪傑です。奥田が「彼の『籌海の志』(海防の志)に基づく啓蒙」〔後掲奥田〕と記すものですけど──ただそのイメージは、戦前の日本人がいかにも好きそうなそれなので、創作部分がかなりあるような臭いがします。
「海外新話」と嶺田楓江の実情如何に関わらず、それらは下記「海国図志」と魏源、さらに林則徐らの前説のようなものだったろうからです。
海外新話〔後掲文化庁〕

※原典:嶺田楓江(みねたふうこう)著 五雲亭貞秀(ごうんていさだひで)か 江戸時代、嘉永2年/1849年 木版墨摺 26.0×18.0 5冊 序欄江釣人(嘉永2年)

海国図志を製作した怪人・魏源

 嶺田楓江個人のヒーロー説に乗っかることなくクールに考えた時、本当に驚異的なのは海外新話の購読層、嶺田の著作を読み漁った吉田松陰ら志ある庶民や下級武士層でしょう。ただし海外新話は俗本なので、教科書的には吉田松陰ほか佐久間象山、さらに西郷隆盛に影響を与えたとされるのは──魏源「海国図志」です。
 魏源は宝慶府邵陽県金潭(現・湖南省邵陽市隆回県司門前鎮)出身、1794(乾隆59)年生-1857(咸豊7)年没。本名・遠達(号:良図)を黙深・墨生・漢士と如何にも思想家らしい筆名に転じており、由来の詳細不明の「魏源」名も何か思索に基づくハッタリでしょう。
 中国清代の「思想家」と記されることが多いけれど、何者なのかはよく分からない。アヘン戦争特命大臣・林則徐(簡体字:林则徐)が敗戦が立て込んで新疆イリに左遷された際、かつて欽差大臣の時に英書「世界地理大全」【更に後掲ミニレポ】を漢訳させた「四洲志」を与え、西欧対策一連の研究を委ねた学者だけど他の実績が皆無※なので、林則徐が抱えていた食客の一人──とする想像が自然です。ただし、諸資料はなべて「1841年7月,在镇江与林则徐相遇,纵谈时事和今后对策」鎮江で初めて林則徐は魏源と出会い今後の対策を議論した、ということになってます。それらの書にも、なぜ魏源が見出されたのか分からない書き方になってる。

※後掲国立公文書館は、魏源を「アへン戦争では、浙江方面(長江下流平野の南部)で実際にイギリス軍と交戦した人」としており、これを信じるなら魏源は軍事的指揮官であることになるけれど、史料を含め他でそのような記述が見つからない。

《清代學者像傳》第一集之魏源肖像,清葉衍蘭摹繪。(圖/取自維基)

「海国図志」は、中国ではさほど注目されなかったけれど日本の志士たちに注目された、という安易にイデオロギー的な書き方をされることがあるけれど、そんなことはあり得ません。元本の「四洲志」と違って1843年1月に揚州で出版(初版五十巻のみ)された訳だし、半世紀後の洋務運動に影響を与えたことは広く認められてます。すぐに政権中枢に取り入れられなかったのも、洋化論が政治的に利用されたのも日中とも相似してます。


海国図志の「輸入」劇

「海国図志」の日本流入は1851年頃。中国商船「亥二号」に1847年版六十巻本(修訂第二版)が三冊積まれており、これを書物改役※※・向井兼哲※がキリスト教関係字句を見つけ禁品として没収した〔後掲王旭/澎湃新闻〕※※※。これが元で広まったと言うんだけど──

※長崎聖堂の祭酒(≒責任者)を務めた向井家の、第八代祭酒・向井雅次郎兼哲(1792生-1867没)。なお蕉門十哲の向井去来は、長崎聖堂初代祭酒・向井元升以順の次男、2代・向井元成兼丸の兄。この2代元成が中国輸入書物中にイエズス会司祭が漢訳した禁書(相当物)を発見し功により、向井家は譜代の書物改役※※(≒世襲)となった。〔後掲hiraoka〕
※※書物改役は江戸期に常にあった職名ではなく、確実なのは寛文(1661-1673)年間になってから。「書物改──〈国史〉江戸時代に長崎におかれた中国書の調査役。書物改手伝・書記役などが属した。幕府はキリスト教禁制政策を遂行するため、中国船が舶載する漢籍の内に含まれるキリスト教関係書を取り締る必要上、舶載書の内容検査を行った。最初は春徳寺住職がこれにあたり、寛永16年(1639)から紅葉山文庫へ納める書物を選ぶ目的で向井元升も加わった。文政5年(1822)の長崎の「諸役人始年号」(長崎歴史文化博物館蔵)に「書物目利 寛文年中の頃 延宝2年(1674)」と見える。また渡辺庫輔「去来とその一族」、377-378頁によると、「禁書が寛永七庚午(1630)年になされたことは、天保12丑年4月改御禁書目録に、この時の禁書の記載があって明らかである。(中略)しかし、この時、書物改という行動はあったに違いはないが、書物改という役職名はなかったと思われる。そしてこの行動をなしたものは、書物目利であったとおもはれる。(中略)通航一覧に「寛文中、書籍をはじめ、書目利役を命じすべてその年代今詳ならずをの/\印署を呈せしむ」といつてあるから、この職の設けられたのは寛文年間である。」」〔後掲京都大学[5]〕
※※※向井兼哲の取締記録に「此项内有御禁制文句,向井外记为此向御役所报告,御所令全部交出。向井外记于子十一月十八日告知商人,并将信函附于账籍之上。」との記述があるという〔後掲王旭/澎湃新闻〕。

 キリスト教禁書が町中に流布したら、いくら幕末でも大問題です。ましてその漏洩元が長崎の世襲検察官なら、向井家は譜代の権限を剥奪されるでしょう。もちろん向井家は断絶なく幕末まで書物改役を相続してますから※、全てが事実とは思えません。①向井家経由譚自体が虚構か、②向井家の「禁書」が建前だったか、③実際に「禁書」として没収された書籍が別の重要度を帯びて量産されたか──ありそうなのは③ですけど、幕府側の密命を帯び、あるいはそれを忖度した向井家が、特定の中国海商に「注文」した海国図志を禁書没収という建前で輸入した、というのも様々な小口密輸ルートが発達し、それへの倫理性が麻痺した当時なら、さもありそうなことです。
 ただ、この「没収」は長崎奉行、つまり幕府側の取締の一環です。それがこうした実質の小口輸入ルートをとったこと、さらにその輸入物が民間に出回ったことは、何かの思惑あるいは操作が働いているようにも見えます。単に混乱の中で漏れた、とは考えにくい。

※「向井元升―〈国史〉1609-77 江戸時代前期の医家。諱は玄松(のちに玄升)、字は素栢、以順。観水子・霊蘭堂と号す。慶長14年(1609)2月2日、肥前国神崎郡崎村の生れ。(略)寛永16年(1639)より書物改役の春徳寺住職を助けたが、主に唐船の持ち渡る書物を選んで紅葉山文庫に納めることを担当した。(略)次弟元淵は俳諧の向井去来である。三男元成は長崎に帰り聖堂祭酒となり、貞享2年(1685)書物改中に『寰有詮』が禁書である旨を指摘したことで譜代書物改めに取り立てられ、のち向井氏は江戸時代末まで同役を相続した。」〔後掲京都大学[4]〕

シンクタンク・魏源は何を目指した集団か?

──お気づきの通り、既に本サイト恒例の沈没モードに入ってますけど……恐縮ながらワシは面白いので、さらに沈みます。
 魏源がどういうシンクタンクを経営していたのか窺い知れません。けれど、林則徐から託された四洲志を海国図志50巻に編み直した1842年の同年中●●●に、清朝一代の政治経済史ともいうべき聖武記14巻も著してます〔世界大百科事典(旧版)【魏源】内の聖武記の言及←コトバンク/聖武記〕。だから、魏源とは個人というより、林則徐とは別に存在した相当規模の「機関」を想像した方が近いと考えられますけど──この聖武記そのものも既にかなり日本で読まれたらしい。

そのうち巻十一以降は 「武事余記」となっており、
「兵制兵餉」(巻十一)、
「掌故考証」(巻十二)、
「事功雑述」(巻士二)、
「議武五篇」(巻十四)
という構成から成り立っている。わが国ではこの四巻がとくに注目され、『聖武記附録』と題して翻刻され、吉田松陰などはこの翻刻本の方を読んだようである (翻刻者不明(4))。〔後掲源了圓〕

※原注(4) 増田渉 『西学東漸と中国事情』三九-四〇頁。
※※引用者が改行を挿入
※※※中國哲學書電子化計劃で聖武記を書名検索すると、デジタル4版・画像のみ5版がヒットし、デジタル中1つにのみ「兵制兵餉」等の語句がヒットする。うち、上記4章該当部は以下のとおりで、要するに相当に版毎の差があるようです(附番は中國哲學書電子化計劃)。「《一》(略)61卷十拱曹旋 62武事除記兵制兵餉 63卷十州 64武事餘記掌故考證 65卷十一 66武事除記事功雜述 67卷十四 68武事餘記議武五簫」

 私本清朝史とでも言うべき聖武記のうち、末尾部の軍事論部分のみが幕末に熟読されたのは興味深い。この点は海国図志が読まれた理由と通じ合います。
「アヘン戦争後の民族的危機を鋭く意識して、富国強兵のための近代的軍備の創設、殖産興業の必要などを説いている。」〔ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「海国図志」←コトバンク/海国図志〕
 海国図志は中國哲學書電子化計劃上に搭載されてました。どれだけカフェインが強い書物なのか、ちょっと読んでみましょう。

海国図志拾い読み

4 愚昧之見,各海口用戰船數十隻,雇漁人之素習風濤,慣駛船舵者,以充水勇,在船訓練。每船以百人為斷,以武弁數人領之,巡防海洋,自是有備無患之勝算,何也?(略)以防守無益之費,作造船練兵之資,當時之所費相當,後日之所省甚大。如曰造船,必待時日之久,緩不及急,則一面修造戰船,一面雇大商船以應之。(略)奉天天津、粵之虎門、閩之廈門,皆最大海口也,各宜二十隻。浙之定海宜十五隻,其乍浦宜十隻,以為策應。江蘇之崇明宜十五隻,其上海宜十隻以為策應。福建之福州,山東之登州一處,海口最狹,防守猶易,各宜十隻。幾十處共船百五十隻,無事各巡海口,一有警報,福州廈門相近可以互援,江蘇浙江可以互調赴援,山東天津奉天亦可以互調赴援,外洋乘風乘潮,行船瞬息千裏,應敵者相與暫阻於前,赴敵者不難隨蹴於後。〔後掲中國哲學書電子化計劃/海國圖志 卷八十四〕

「作造船練兵之資」造船と練兵に予算を投じて、十か所の港に計150隻も軍艦を配備すれば、敵に応じこれを蹴散らすことができるのではないか。
 他に、「火輪」(≒蒸気機関)ワードが多発したので、これでの検索結果を挙げてみます。ここには少し、近代戦争的な語句が登場してきます。――――なお、火「輪」というのは、外輪船 paddlewheeler又は外輪式蒸気船 paddle steamerなど(外車船・パドル船とも)の姿を当時に漢訳したものなのでしょう。

火器亦不徒配戰艦也,戰艦用攻炮,城壘用守炮,況各省綠營之鳥銃火箭火藥,皆可於此造之。此外量天尺,千裏鏡、龍尾車、風鋸、水鋸、火輪機、火輪舟、自來火、自轉碓、千斤秤之屬,凡有益民用者,皆可於此造之。是造炮有數,而出鬻器械無數,此火器局之可推廣者二。古之聖人刳舟剡楫,以濟不通,弦弧剡矢,以威天下,亦豈非形器之末,而睽渙取諸易象,射禦登諸六藝,豈火輪火器不等於射禦乎?指南製自周公,挈壺創自周禮,有用之物,即奇技而非淫巧。今西洋器械,借風力水力火力,奪造化,通神明,無非竭耳目心思之力。〔後掲中國哲學書電子化計劃/海國圖志 卷二 5〕

 既に訳せない語も多いですけど、千裏鏡≒望遠鏡、龍骨車≒揚水装置……。
「古之聖人刳舟剡楫……以威天下」古の中国の聖人たちも新兵器を開発して天下を取った。だから西欧の新兵器も「奪造化」――――製造法を取得してしまえばよいのだ。
 西欧の近代文明が、技術的な進歩に留まらないパラダイムの跳躍であることは言及されていないように読めます。それは海国図志を読んだ日本人たちが「和魂洋才」という心理防衛でかろうじてアイデンティティを保ちつつ、西欧文明を身に着けたのと類似しています。
 パラダイムの跳躍というのは、科学的思考法ということで、例えばまさに上記記述での「古之聖人」の言行の振り返り、つまり未来に起こりうる全ては過去に既にあったという発想から、論理を重ねれば過去に起きなかったことが未来に起こるという発想への跳躍です。そうした根源的な爬行は、アジアの各文化ともその後の膨大な犠牲を経てなされることになりますが――――今は、かくも不完全な西欧との接触下で、幕末の江戸及び南西九州がどうふるまったかに話を戻していきましょう。

幕閣の見たアヘン戦争終結

「鎖国」の二百有余年は、ある意味、世界最強帝国・清との江戸幕府苦心の対処策だったわけですが、その仮想敵国をより危険なパワーが敗戦させる様を、江戸の幕閣はオランダから聞いたようです。

 天保12年(1841)夏のオランダ船は台湾沖で引き返し長崎に来なかったことから、在留唐船船主に長崎奉行所は事実確認をして唐風説書を作成した(10。この時得られた情報のなかには誤報も含まれていたが、すぐさま長崎から江戸へ伝えられている(11。
 オランダ船は天保13年(1842)6月19日に長崎へ入港した。この船は、前年分と合わせて2ヶ年分のアヘン戦争情報のみをまとめた別段風説を提出した。これで戦況、広州和約に至る経緯が伝わる。そしてこの時、幕府を当惑させる情報が長崎に伝わった。広東でイギリス人の軍人がオランダ人に語ったところによると、イギリスはアヘン戦争後日本に赴き通商を要求するが、日本側が不当な対応をとって要求を拒んだ場合は戦争を仕掛けるという情報、であった(12)。天保13年7月23日、幕府はそれまでとっていた無二念打払令を撤回するので、この時のオランダからの情報が幕府の打ち払いという強硬策の撤回に関係したことは間違いない。〔後掲松尾,原p60〕

※原注(10) 森睦彦(1968年)前掲書。
 (1)森睦彦(1968年)「阿片戦争情報としての唐風説書―書誌的考察を主として―」『法政史学』第20号(略)
(11) 加藤祐三は、オランダ風説書の情報に関して、比較的に事実にそっているが速報性に欠け、臨場感が少ない。一方の唐船からの情報は、ニュース・ソースが不確実な面もあるが速報性と臨場感にとむと評価している(加藤祐三(1985年)前掲書、264ページ)。
(12) 藤田覚(2005年)『近世後期政治史と対外関係』東京大学出版会

 もちろんオランダの情報も、対外的に耳を塞いだ江戸日本に対する情報操作という面は持っていたでしょう。ただし、1841夏の後の長崎入りが1842.6.19、即ち英軍揚子江入りの一か月後、かつ鎮江陥落の一か月前(→前掲)という、アヘン戦争の決着を占う上でベストタイミングだったという幸運があったことも否めないと思います。
 また、状況から考えて、長崎に入ったオランダ船発情報は最速で江戸にもたらされています。江戸幕閣中枢が極度にアヘン戦争情報に希求しており、多分その指示が徹底されていた結果、長崎のオランダ通詞らがベストプライオリティとして処理したことが想像されます。
 しかも、この「次期戦略目標=日本」説への対応は、時の幕閣が水野忠邦の専制下にあったためか、ごく少数のエリートで決定されたらしいのです。

(再掲)水野忠邦肖像画〔水野家文書〕

 藤田覚によると、この方針転換は水野忠邦とほか二人の三人による専断であるが、詳細は不明とのことである(40。こうした経緯だからこそかもしれないが、大目付から大名家に薪水給与令廻状が出された際、アヘン戦争やイギリスに関することに触れない(41。また、長崎奉行からも諸大名家の聞役へ御達として薪水給与令が伝えられたが、つぎのようであった。(続)〔後掲松尾〕

※原注(40) 藤田覚(1986年)前掲書、209ページ、同(1987年)前掲書、379ページ、同(2005年)前掲書、277・278ページ。
 (2)(略)藤田覚(1986年)『天保の改革』吉川弘文館(略)
(41) 「異賊防禦備記録 寛政九丁巳年より弘化三丙午年 表書札方」県立対馬歴史民俗資料館。

天保の薪水給与令・原文

 以下が「天保の薪水給与令」──つまり平良に原文が残る史料の推定文面となります。

異国船渡来之節、無二念打払可申旨、文政八年被仰出候、 然處、当時万事御改正ニ而享保・寛政之御政事ニ被復、何事ニよらす御仁政を被施度との難有思召ニ候、右ニ付而者、外国之者ニ而も、逢難風漂流等ニ而食物薪水を乞候迄ニ渡来候を、其事情不相分一圓ニ打払候而者、萬国江被為対候御處置とも不被思召候、依之文化三年異国船渡来之節、取計方之儀ニ付被仰出候趣ニ相復し候様被仰出候間、異国船と見受候ハヽ得与様子相糺、食料薪水等乏敷帰帆難相成趣ニ候ハヽ望之品相応ニ相與へ与帰帆可致旨申諭、尤上陸者為致間敷候、 併此通被仰出候付而者、海岸防禦之手当ゆるかせに致置宜敷様心得違、又者猥ニ異国人に親ミ候儀等ハ致間敷筋ニ付、警衛向之儀者弥厳重ニ致し、人数幷武器手宛等之儀、是迄よりハ一段手厚く、聊ニ而も心弛ミ無之様相心得可申候、若異国船ゟ海岸の様子を窺ひ、其場所人心得の動静を試ミ候為抔と鉄砲を打懸候類可有之茂難計候得共、其等の事ニ動揺不致、渡来之事実能々相分り、御憐恤之御趣意貫候様取計可申候、去共彼方より乱妨之始末有之候歟、望え品相與候而も帰帆不致及異儀候ハヽ、速ニ打払、臨機之取計ハ勿論之事ニ候、 備向手宛之儀ハ、追而相達候次第も可有之哉ニ候〔後掲松尾〕


 最も注目すべきは、「鎖国」後おそらく初めての歴史的緩和措置に際し、その理由としてアヘン戦争が全く記されてないことです。国際情勢の変化さえ臭わされない。「御仁政」、つまり将軍がお優しいからとして、「萬国江被為対候」という訳の分からない表現で戦闘回避の方向性を示してます。これは当時の幕府文書がそんなものだったとか、研究者の解釈とかではなくて、実際

長崎奉行に召された島原松平家の聞役も、「享保、寛政の旧典に復するを以て専ら仁政を行い、推して夷蛮におよぼし偏ねく休澤を被らしめんと欲す」と説明を受けた(43)。〔後掲松尾〕

※原典43『深溝世紀 巻十九 平公 巻二十 匡公』(2004年)島原市教育委員会、6ページ。

「休澤」の意味が分からないけれど、「沢」には他人への恵み一般の含意があるようなので、西欧人に優しく≒刺激しないようにする、といった態度軟化の要請のようなもののようです。
 なお、文書上はこれとは全く別のものとして、同年9月に大目付を介して次の指示が出ています。

蛮夷之諸国戦闘之仕組、和漢之制度とハ相違ニ付、利方之軍器、別段用意も可有之候間、参勤之面々其覚悟ニ而、防禦之仕方兼而心掛置可被申候 右ニ付参勤之節、是迄より多人数召連候儀者無用ニ致し、江戸表有合之人数ニ而相心得候様可被致候〔後掲松尾〕

原注44 石井良助・服藤弘司編(1995年)『幕末御触書集成 第六巻』岩波書店、34ページ。

 これは明確に「軍備強化」を指示してます。最後の段では参勤交代時の兵員増にも触れてますけど、具体の規模は記しません。また、西欧の「利方之軍器」(便利な兵器:ゴチック部(下記同))に対抗すべく「防禦之仕方兼而心掛置可」──防御方法を心掛けておくのがよい、と言うけれど、そんなもの心掛けでどうこうなるもんじゃありません。
 水野忠邦のアヘン戦争情報管理を、松尾さんは次のように総括してます。だから、おそらく上記の軍備強化指示は、国内統制●●●●、つまり大名層の「ざわざわ」感を収めるための対症療法に思えます。


アヘン戦争ニュースはダダ漏れ

 以上の状況から考えて、天保薪水給付令発令当時には、江戸又は長崎発のアヘン戦争情報は完全にオフレコだったはずです。

幕府はというよりも、水野忠邦はと見た方が良いように考えるが、アヘン戦争情報を秘匿した。これに関連して、岩下哲典は天保13年(1842)段階で「幕府要路以外にもかなり多くの者がアヘン戦争を知るに至り、その情報を求めるようになっていった。」(45)、「次第に情報が漏れ、尾張藩のような大藩の陪審クラスにも情報が漏洩し、その情報が分析されつつあった」と指摘する(46)。この指摘で注意すべきは、御三家や老中といった限られた範囲であって、島原松平家の事例を先に紹介したもののあらゆる外様大名、譜代大名まで急速に拡がったのか、というとそこまでではなかったと理解したい。外交や長崎警備に関わる大名家の記録に、幕府が得た程度の情報が同時代史料に残っていないのである。
 こうして限られた幕閣でアヘン戦争情報が秘匿されたなかで、水野忠邦は無二念打払令といった強硬策から薪水給与令という穏便策への変更を断行した。この水野は、長崎で得られた情報だけで判断したが、その後アヘン戦争の状況把握を積極的に試みようとしていない点に留意する必要があろう。
 例えば幕府はキリスト教の布教活動や宣教師の日本潜入などの情報を、対馬宗家を介して朝鮮・清から入手することを試みた。また台湾で起きた朱一貴の乱の場合、長崎や江戸での風聞をふまえて対馬宗家は朝鮮側に情報の提供を求めている(47)。アヘン戦争に関して、こうした動きは確認できない。〔後掲松尾〕

※原典45 岩下哲典(2008年)前掲書、31ページ。
46 岩下哲典(2008年)前掲書、37ページ。
47 松尾晋一(2017年)前掲書。
:3 松尾晋一(略)同(2017年)「近世日本における海外情報の入手ルートと質―朱一貴の乱(台湾)情報を事例に―」『長崎市長崎学研究所紀要 長崎学』創刊号 ほか。
:9 岩下哲典(2008年)『幕末日本の情報活動 改訂増補版―「開国」の情報史―』雄山閣。

 松尾さんの興味はここに集中してるらしいけれど、「幕府が得た程度の情報が同時代史料に残っていない」(下線部)という「不存在の確認」を根拠にされており、間違いなく徹底的に同時代の大名史料を精査されたものと予想されます。
 ここで、ようやく話を平良の買附けに戻します。

平良に残った四カ国対応書附

 文政八年,幕府は外国船打払令を下し,外国船はいっさい日本の港に立寄ることを禁止したが,天保十三年,打払令を改め,異国船薪水令を出し,薪水食料品を供給させるよう指示している。(略)この書附は,各地を調査して回った先生たちの話によれば,山川港と平良に残っているだけであるという。山川にあるのは和文だけであるが,当地にあるのは和文のほかに,英文,オランダ文,フランス文で書いたものである。
[郷土史p17]

「此節従公儀格別之以思召被作渡候に付我領内之海岸に至る各江申諭」上:和文 下:英・蘭・仏文

 若波涛之愁二而薪水に乏敷且其余之食用等入用ニ而此地方江繋留したならば此役船に申可早束入用之品相調可遣候(略)
[同申諭,下線は正確には判読しがたい字]

 天保薪水令の書附自体は、さほど重視されなくても仕方ないものです。背景が記されず薪水の補給程度も明確でない。──他地の実例として、松前口では、薪水令後の沿岸防衛強化の方が注目され、海防の一策(≒穏便に引き取らせる手法)として補給が捉えられたようです〔後掲新編弘前市史〕。
 軽視されて然るべき書附が、なぜ甑平良は、四カ国語訳を添えて重視したのか?
 恐らくは、甑には現実の外航者とそのもたらすナマの情報が到達しており、独自に激しい危機感を感じていたのでしょう。かつ、長崎や琉球のように自律的な回避策の選択が許されない地政的位置から、幕府による歴史的緩和策のありがたみを最も予定通りに感じた土地だったのではないでしょうか。──逆の見方をすれば、水野忠邦は、日本の全港口が微妙だけれど一斉に外交姿勢を回頭することを想定していた。でもその予想は、甑のような特殊な地政を持つ最前線でしか実現しなかった。既にこの時期の多くの外航港は、「鎖国」の欺瞞に愛想をつかして自律的に咀嚼した対応に踏み出してしまっていたからでしょう。
 禁書「海国図志」に幕末の志士が耽溺したのは、それを著述した林則徐や魏源の危機感に、かくして遠く共鳴したからでしょう。彼らの間に薄くとも伝導率の高い海民の情報系導体が連なっていた──と換言してもよい。

世界地理大全 An Encyclopaedia of Geography 表紙〔後掲Google ブックス〕

□ミニレポ:世界地理大全を漢訳した林則徐機関

 世界地理大全は(イギリス人)ヒュー・マレー著。中国語では「世界地理百科全书」とも。また単に「地理全書」とも。原語の英語表記ではHughMurray, An Encyclopaedia of Comprising a Complete Description of the Earth, Physical, Statistical, and Political. London, 1834. 3 Vols.
 1838年末に欽差大臣(≒特命大臣:清の官職名)に任ぜられ、1839(道光19)年3月に広州に入った林則徐は、外語に通じた袁德辉・梁进德ら幕僚に「澳门新闻纸」(澳門新聞紙)という中国初かもしれないメディアを立ち上げ、アヘン戦争直前の国際経済・軍事情報を収集しつつ、将马辰・彭凤池らを広州以南に派遣してます〔維基/林则徐,林则徐与澳门的禁烟抗英斗争_手机搜狐网〕。後者の将・彭はどうしてもヒットがないけれど、想像するに、当時の全体的に非合法な南方交易の情報屋か交易組織自体──それは相当の確率で海民のはずですけど──を何かの形で掌握・提携したのでしょう。つまり、当時の中国では珍しい情報機関を組織してます。林自身も英語・ポルトガル語を学び、外国人と直接接したというから本気かつ実務的です。──この点、史料としては、アヘン密輸業者の筆頭にして対清戦争工作者、怡和洋行(ジャーディン・マセソン商会 Jardine, Matheson & Co.:後掲リンク参照)がその英語等のレベルを賞賛したという記録があるらしい(「竟听到林则徐口吐英葡两语而啧啧称奇」:維基/林則徐 原注[5]C·W·金著,《鸦片危机》)。つまり、林則徐本人が密輸業者の頭領と英語で(≒通訳を介さずに)直接交渉した情景が見えてくるのです。アヘンの廃棄などの対策も、単に警察的威圧だけでなく、裏取引と並行して進められたはずです。
 結果的には、ジャーディン・マセソン商会側の対本国政策の方が項を奏し、多分……林則徐の情勢の読み違え、というかジャーディンの怪物的政治力を過小評価により、英国艦隊が派遣されてしまうのですけど。


そしてJMが君臨する

 世界地理大全も、この情報収集の網にかかり、欽差大臣の急設シンクタンク──前掲の澳門新聞紙を発刊する袁德辉・梁进德らの半公開エージェントが、林の特別指令を受けて訳したものと考えられます。
 なお、さらに具体的に、元本の世界地理大全の入手を1840年、モリソン学校 Morrison School/Morrison Memorial Schoolのアメリカ人牧師・S.R.ブラウンからと特定する記述もあります(「于1840年从马礼逊学校的美籍校长鲍留云(Samuel Robbins Brown)牧师取得此书」)〔同原注[3]Brown, Samuel R. Chinese Culture: Or Remarks on the Causes of the Peculiarities of the Chinese. Journal of the American Oriental Society. 1851, 2: 183页.←維基/四洲志〕。
 これは、版を重ねてる世界地理大全を書誌的に研究すると分かることらしい。維基百科によると、林則徐チームが元本にしたのは、1837年にアメリカで増補された「The Encyclopædia of Geography」という版であるらしい。──これは米人牧師・S.R.ブラウンからの移入という説と整合します。このブラウンという人は、老獪な英国「海賊商人」にまさに喰い荒らされようとする東洋に倫理的な「情報漏洩」を行った、心音好いアメリカ人だったのかもしれません。
 なお、袁徳輝等に命じて翻訳した「四洲志」は、魏源が「海国図志」として編む前には印刷されていなかったわけですけど、研究用の用途か、1931年には上海で石印されています〔後掲源、維基/四洲志〕。
 また、アヘン戦争で林則徐が対したJM商会は、前掲銅鑼湾を「領有」する一方、戦勝年1842年に中国語名を従来の「渣甸洋行」(渣甸:ジャーディン)から広東十三行の雄「怡和洋行」に変更。2年後1844年には上海の共同租界・外灘(バンド)の「怡和洋行大楼」(ジャーディン・マセソン商会ビル)に本拠を移します。以前、蕪湖の外灘をレポートした際にもこの怡和という社名は出ました。19Cの同社の影響力は計り知れません。例えば──幕末の死の商人・トーマス・ブレーク・グラバーの「グラバー商会」は、JM商会≒怡和の長崎代理店でもありました。
 率直に言って、林則徐も魏源も幕末の個々の志士たちも、信じられない知性と根気で同時代に楔を打ちこんでます。ただこの時期に東洋を襲っていた津波のような帝国主義マネーは、個人でどうこうするにはあまりにも桁が違い過ぎました。

▶〔内部リンク1〕→/※5495’※/Range(蕪湖).:そして上海へ/■小レポ:蕪湖天主教堂と蕪湖租界/② 蕪湖租界:移転された木筏係留地
▶〔内部リンク2〕→m152m第十五波mm小菅船場/■小レポ[2/2]:裏経済の具現 グラバー,薩摩,龍馬/[日本赴任]21歳のグラバー/[マセソン社]東シナ海の大英海賊団
(再掲)スクープ!「アヘンマネーと明治維新」の秘められた深い関係!

■レポ:薩摩川内市上甑町平良中甑島岩屋

 まず、GM.にもない岩屋のバス停名の聞き間違いを疑いましたけど──どうやら間違いではなさそうでした。
 というのも、平良で歌われる磯節に「平良で名所は愛宕の公園、岩屋の小松……」という歌詞があるという記述を見つけたからです〔後掲平良小学校〕。
 厳密な位置はやはりよく分かりません。でも平良の地名で確かにありました。おしまい。
……という事にしたかったんですけど──どうしても二匹ほど、「?」の虫が蠢き始めてしまいました。さらっと書いたけど「磯節」って何?──という件は、巻末に回しまして……。
 これらの重い軌跡を残す岩屋は、どうやら何事かがあったのでは?と疑わせるに十分な場所だとは、一応付記しときます。

【A】岩屋には何がある?

 平良の手前にある「岩屋」についての希少なる情報の中に、「梶原墓」の存在がありました。名前の如く梶原さんの墓みたいです。

梶原墓〔後掲平良小学校〕

梶原墓 岩屋の県道横にあり,梶原墓として言い伝えられている。梶原景正という人が大阪の陣(徳川氏と豊臣氏の戦い)に参加したという文書が残っていることから,この人の墓ではないかと言われている。しかし,墓碑銘がないのではっきりしない。梶原氏が甑島に来たのは約500年前と言われるが,その後梶原氏は小川氏より平良島を得て支配し,さらにこの梶原墓にもつながると言われている。〔後掲平良小学校〕

 梶原景正の記された大阪の陣の時代の文書、というのを探したけれど見つからない。ところがその中で、「梶原墓」と呼ばれるものは上甑町中野(現在。下記引用※と同じ)にもあり、よりメジャーで、かつ字名にもなってるのを見つけました。

上甑町中野の梶原墓

上甑町中野の梶原墓〔後掲こころ〕

 位置は、やはりGM.になく確定できないけれど、下記に「里との峠」(ママ)、他プログ〔後掲古代文化研究所/上甑村郷土誌:梶原源太景季終焉の地〕に「中野から江石へ向かう道」沿いとあるからこの辺でしょうか(→GM.)。案内板は「梶原源太景季終焉の地」と出ているという。

 上甑村中野部落字梶原※に、梶原墓がある。源頼朝の重臣梶原景時は頼朝の死により、北条の権力争いで失脚し、駿河の清美関で敗死。その子景季(宇治川の合戦で、池月に乗った佐々木高綱と先陣争をした)は播磨を経て上甑・里に着船。のち中野部落に。
 ここは、里との峠・西は中甑の海を警戒するのに格好の地
 景季、正治二年没後、承久の乱の戦功で小川季直が地頭・島主として着任。景季の甥・景明の子景衝を当主とする梶原一族と小川との激しい戦いで、梶原一族は海を渡り中甑・矢島(平良)に落ちてゆく。のちに梶原景明の未亡人と弟はひそかに中野に移り、景季景明・郎党の冥福を祈り、梶原墓を祭った。  〔上甑村史 「甑島物語」松竹秀雄著←後掲上甑島歴史〕

 源平合戦序盤の石橋山合戦で頼朝の命を救う梶原景時は、誰もが知る鎌倉幕府草創期の重臣です。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では中村獅童が演じましたけど、内部統制、悪く言えば「チクリ魔」だったらしい。頼朝の死後に始まる「13人」の内訌の初手はこの人の、いわばリンチから始まります。まさに死去同年の1199(建久10)年、鶴岡八幡宮の回廊で66人の御家人が景時弾劾状に署名、駿河の合戦で一族もろとも討死、というのが定説。

鶴岡の回廊で弾劾状に署名する御家人たち(星月夜顕晦録 初編 巻之二,国立国会図書館所蔵)〔後掲小林〕

 ところがこの梶原景時を祖とする梶原姓が、現在も全国にある。小田原北条氏家臣の水軍衆には、景時の末裔と伝わる梶原氏がおり〔後掲森〕、秀吉の関東征伐時には小田原城の海上防衛主力だったようです。梶原景宗という水軍の将が、北条氏直とともに高野山に蟄居してます〔wiki/梶原景宗〕。
 ネット上の各所に書かれるには、その梶原姓が、甑島、殊に中甑付近に多いといいます。──この点につき、史料と統計から実証しておきます。

中甑には梶原さんが多い

 地誌・麑藩名勝考※には、同地付近で梶原姓が登場する次の二つの逸話があります。状況からして、中甑水域の首領格の家でしょう。

※げいはんめいしようこう。1795(寛政7)年成立の鹿児島藩の国学者・白尾国柱(1762生-1821没)による地誌。「三国名勝図会」などの先駆けと評される。10巻8冊。鹿児島大学附属図書館玉里文庫・東京大学史料編纂所・鹿児島県立図書館に所蔵。薩摩・大隅・日向三ヵ国の分(巻一―八)が鹿児島県史料「麑藩名勝考」にある。〔日本歴史地名大系 「麑藩名勝考」←コトバンク/麑藩名勝考〕
1.眺浦
瀬上村の東海濱にて第一勝處とす。爰に潮汐池二ありて海鼠を生ず。慶安元年の夏、寛陽公當所遊覧の時、梶原某が宅に次し、江中の小島を遊臨し玉へり。小島入海あり。一里許風景多し。土風御縁曲は此時に始れりとぞ。〔後掲古代文化研究所/上甑村郷土誌:梶原源太景季終焉の地〕
※寛陽公=島津光久(みつひさ:1616(元和2)年生-1695(元禄7)年没)。島津氏19代当主、薩摩藩第2代藩主。
∴「眺浦」「瀬上村の東海濱」≒現・長目の浜の「潮汐池」≒潟(クリーク)で海鼠を産していた。慶安元年=1648年に島津光久がこの地を遊覧した時、梶原さん宅に泊まった。

2.頼国は甑島にて、現地の士人・梶原宗政の女を妻とし、春という名の女子1人が生まれた。春は島津忠恒に仕え、26歳の時に甑島の本田親豊[注釈 2]に嫁いだという。〔wiki/大炊御門頼国〕
※大炊御門頼国(おおいのみかど よりくに:1577(天正5)年生-1613(慶長18)年没)は
[注釈 2]慶長16年(1611年)に甑島地頭に任ぜられ、甑島移地頭となって元和5年(1619年)4月に甑島に移住した本田親政の親類か。薩摩本田氏は平忠常の末裔。

 翻って現代の姓の統計で見ると、次の具合です。

上甑町中甑およそ 20人
上甑町平良およそ 70人
/薩摩川内およそ 200人
/鹿児島県およそ1,200人
/全国およそ 58,200人〔後掲名字由来net〕

 梶原姓全体を鹿児島なり甑島なりが独占している形勢ではありませんけど、平良の人口は186人、世帯数は111世帯(2020年10月1日現在国調データ)。即ち37%、3人に一人以上が梶原さんの集落ですから、構成比では突出していると言えます。
 これだけを重視するなら、梶原落胤伝説は全国各地にあるけれど、梶原落胤が集落形成に与えた影響度では、中甑は他に例を見ない濃厚さを持つことになりそうです。

磯節道場の活動風景〔後掲ひたちなか市〕

【B】磯節は海を越える?

 淡白な名称なのでスルーしてたんだと思います。「磯節」というものの存在をよく知りませんでした。

 茨城県の民謡。舟歌の一種。もとは東北の三陸海岸一帯から関東の沿岸部にかけての漁師たちが唄っていたものが、那珂湊や大洗周辺で唄われるようになり、それがさらにお座敷唄として三味線などと一緒に唄われるようになったという。
磯で名所は 大洗さまよ
(ハァ サイショネ)
松が見えます ほのぼのと(松がネ)
見えます イソ ほのぼのと
(ハァ サイショネ)

ゆらりゆらりと 寄せては返す
(ハァ サイショネ)
波の背に乗る 秋の月(波のネ)
背に乗る イソ 秋の月
(ハァ サイショネ)

水戸をはなれて 東へ三里
(ハァ サイショネ)
波の花散る 大洗(波のネ)
花散る イソ 大洗
(ハァ サイショネ)

三十五反の 帆を巻き上げて
(ハァ サイショネ)
行くよ仙台 石の巻(行くよネ)
仙台 イソ 石の巻
(ハァ サイショネ)
〔後掲葛山幻海〕

磯節研究史とその論点概観

 磯節が学術研究として取り上げられる契機は、①週刊「てんおん」昭和38年春〜39年夏誌上に連載された郷土史家・民謡研究者等による論議「磯節の成立」で、これが「磯節のはなし」(上下巻、筑波書林「ふるさと文庫」)として発刊、これに並行し②茨城県教育委員会が1987(昭和62)年に「民謡緊急調査報告書」を発行したことで、地域の理解で民俗事象としては理想的な過程でドキュメント化されるに至ってます。

※参考:国立国会図書館サイト情報 URL:https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001863460
国立国会図書館請求記号 KD319-153
国立国会図書館書誌ID 000001863460
国立国会図書館永続的識別子 info:ndljp/pid/12434613
著者:茨城県教育庁文化課 編
出版者:茨城県教育委員会
出版年:1987.3
※※デジタル版なし

 茨城県教委による説明は次のようになってます。

(茨城)県の代表的民謡。江戸時代に海で働く男の櫓漕ぎ歌が発生といわれるが、塩汲み歌、那珂川の舟歌等の説もあり、詳しいことは不明。いずれにせよ、永い時代の伝承のため、歌い手、地域によって旋律、リズム(間)変わり、詞も100位作られてきた。
現在は郷土芸能のお座敷歌として考える向きも多い。言葉に順序性は無いが、主に歌い継がれてきた水戸、大洗、那珂湊では、それぞれ当地の特色を生かした詞でも歌われている。〔茨城県教委←後掲磯節百科事典〕

磯節道場の活動風景〔後掲ひたちなか市〕

伝播民謡由来説:磯節渡来説

 後掲磯節百科事典は、磯節創出段階の微妙な論旨を以下三説に分類してます。

伝播民謡説
水戸市で発行されていた週刊「てんおん」で、論議の口火を切ったのは湯浅五郎氏の投稿で、「磯節は、浜の漁師の間に歌われ、生まれたものではない。往古の湊村には諸国の多くの廻船が出入りし、船頭衆が対岸の祝町遊郭に遊び、彼らが歌った船歌がもとになって生れた。」という説を述べられました。

発生民謡説
これに対して、「磯節は原始粗野な歌詞やフシが自然に水戸藩領東方の海岸の海人、浜人の間に生まれ、年月とともに多少の変化、進化をたどり、ゆったりした大ぶりな男性的な強い節調の歌になったものである。」という説を披歴したのが関孤円氏でした。

制作民謡説
さらに、「水戸藩第9代藩主・斉昭(烈公)が湊村へ客を招待したとき、客を接待するため、特に歌詞を作らせそれを歌わせた。これが磯節のもとであり、客は大いに嘆賞し、公も船べりを叩いて褒めた。」という説があります。これは関氏の論文にも紹介されていますし、茨城県磯節保存会(代表・福田佑子)のホームページにも一つの言い伝えとして触れられています。

※三説の分類のため、題名等の整理を引用者が行った。

 茨城県教委の言う「櫓漕ぎ歌」というのは、舟歌又は船頭歌という言い方のブレはあれ、全国的に存在します。舟の櫓を漕ぐリズムを取るための歌です。また「塩汲み歌」は単なる塩作りの作業歌ではなく、松風類似の謡曲・潮汲み※とすれば、根拠地不定の舟人由来か、謡曲の伝播か、いずれにせよ湯浅五郎さんの伝播民謡説にかなり近い立場を採っていると言えそうです。

※[ 2 ]
[ 一 ] 謡曲。散佚曲。田楽の亀阿彌(きあみ)作で、謡曲「松風」のもとになった作品という。
[初出の実例]「松風、昔、しをくみ也」(出典:三道(1423))
[ 二 ] 歌舞伎所作事。長唄・常磐津。二世桜田治助作詞。長唄は二世杵屋正次郎、常磐津は三世岸沢古式部作曲。初世藤間勘十郎振付。三世坂東三津五郎の七変化舞踊「七枚続花の姿絵(しちまいつづきはなのすがたえ)」の一つ。文化八年(一八一一)江戸市村座初演。能「松風」によった曲で、海女(あま)の松風が在原行平を慕い、形見の烏帽子(えぼし)、狩衣(かりぎぬ)を着て汐汲みの振りをする。現在は長唄だけが残る名曲。他に、「みるめの汐汲」「半四郎の汐汲」「勇次郎の汐汲」「松風の汐汲」「団之助の汐汲」など同種の作が多い。〔精選版 日本国語大辞典←コトバンク/潮汲み〕

 各論者は、県教委の識者や郷土史家の方らしく、関係図書に著者名が幾つかヒットするけれど、プロフィール等は今ひとつ明確ではありません。
 後掲磯節百科事典は湯浅五郎さんの論拠を紹介しているけれど、説得力を感じるものは以下の一つしかありませんでした。

(ウ)磯節の歌詞の中には、他の浜で歌われているものをそのまま或いは一部を変えたものもあり、廻船船頭衆のもたらした歌が元歌という証拠になること。例えば、「三十五反の帆をまきあげて、行くよ仙台石ノ巻」という歌詞がある。仙台藩牡鹿半島の太平洋岸に面した東浜一帯の船乗りが石ノ巻にある藩の米蔵の米を江戸送りしていたが、その出港に際して「さらば、行ってくるよ、我がふるさと仙台、石ノ巻」と歌ったものである。それを廻船の船頭衆が那珂湊に寄港中歌ったものがいつの間にか磯節の歌詞になったのである。〔後掲磯節百科事典〕

 つまり、歌詞の中に遠方の、茨城の当地に対する航路始点と思われるものがある。
 それと、次のものは谷井法童さんという方が同調して記した論です。──この人は「磯節の父」と呼ばれる有名な普及者でした。同氏の息子さんが、現在「ひたちなか市」でこの歌謡の伝承を進める母体「磯節道場」の初代代表〔後掲茨城県〕。

(エ)磯節は、節調といい歌詞といいあまりにも格調が高い立派なもので、とても浜人・漁人の間に生まれたとは思えない。(谷井法童)〔後掲磯節百科事典〕

 この点は専門的知見なので、ワシら素人には判定できません。ただ感情的には茨城発祥と考えたいであろう地場の伝承者が、客観的に抱く感想ではあります。
 なお、水戸藩9代・徳川斉昭(烈公)制作説は、おそらく単なるゴマすりでしょう……ということで当面除外します。

発生民謡説からの伝播説批判

 対して、発生民謡説=茨城から自力で創造されたとする論拠は、数は多数あるんだけれど感情的又は卑近過ぎて、弱いものが多いと感じます。やや論理的と言えるものに──

(ウ)磯節の尻上がりの調子は、当地方の漁夫の日常語のアクセントによく似たところがある。(大久保)〔後掲磯節百科事典〕

というものがありますけど、言語学者の専門的知見ではありません。なお、以下は論理的には、「地元では茨城発と言われてる」点の同義反復のような主張に過ぎないとも言えるけれど──

(イ)昔当地の漁師は「オキアガリ」と称して、分け前の時には必ず酒を飲む習わしがあった。飲めば必ず歌が出、それは磯節だったり、船甚句(三陸沿岸の遠島甚句と酷似するが、テンポは遅く、むしろ磯節に近いもので、明治までは櫓に合わせて歌われた)だったり、網曳木遣だったりしたものである。(大久保氏)
(エ)磯節の普及に功のあった関根安中に生前に質問したところ、「父の京助に習い、磯の魚を取りながら覚えた」と答えたし、後日未亡人に同じ質問をしたが、答えは同じだった。(大久保氏)
(筆者註:安中は明治10年生まれで、幼時は幽かに見えていたので、父親から磯の魚を取ることを習ったのです。また、父親は「金波楼」主人所有の鰯船の舟方だった人ですから、知らない歌を習い覚えるほど頻繁に祝町遊郭にあがることができたとは考えられません。ということは父親も浜人が歌っていた歌を自然に身に付けていたものということを言いたいのでしょう。)
〔後掲磯節百科事典〕

 先に湯浅さんが示したような外地からの被伝承を拒む、当地の気風が窺える「主張」ではあります。
 また、遠隔地の地名の多出について次のような「反論」があるという。でもこれは、どちらから教わったかは別にして、遠隔の海民との文化的交錯が頻繁だったという意味では同義ですらあります。

(ク)浜の間では漁師の出稼ぎもあり、人の往来の極めて多かった旧・磯浜地区にはその昔漁夫として他から移住した名残として、仙台屋、銚子屋、紀州屋、越後屋等の家号(やごう)が沢山あった。これら他国の漁夫が本町に住み着き、本町固有の磯節のフシで故郷である他国の歌詞を歌ったとしても不思議ではない。(大久保)
(筆者註:元歌である船歌があって、それにいろいろな歌詞が後から付けられたと言いたいのでしょう。また、旧・磯浜地区には、苗字の他に各戸に「家号」というものが付いているのが普通で、先に紹介した「鬼坊裏別荘」という本には、街並みに沿って家号が紹介されています。「鬼坊」もそうですし、「茶釜」「サバ」「上ヨリキ」「成田や」「南部や」等々です。)〔後掲磯節百科事典〕

磯節道場の活動風景〔後掲ひたちなか市〕

 以下は、発生民謡説サイドが伝播民謡説を否定する論拠の一つですけど、まず次の主張は上記同様、方向はともかく交錯自体はむしろ補強する材料です。

(オ)「三十五反の帆を巻き上げて…」という歌詞は仙台方面から来たという説があるが、逆である。これは往古仙台藩が飢饉に見舞われた折、常陸から救援米を輸送した際の感興を歌ったものである。民謡が西から東へ、南から北へと伝播した例が多くあることが分かっているが、この歌詞も関東沿岸の民謡歌詞が海路北上した一例であろう。〔後掲磯節百科事典〕

 さてそろそろ立場を明確にしないと、論として卑怯になりそうです。本稿は伝播説も発生説にも与しません。
 牛深ハイヤ節は、まず間違いなく沖縄エイサーの影響を受けてます。でも、ハイヤ節はエイサーそのものではない。沖縄民謡という圧倒的な異物と核融合を起こしたからこそ、ハイヤ節という際どい(当時の)サブカルチャーが各港の海民を魅了したのです。

▶〔内部リンク〕→m17f0m第十七波濤声mm熊本唐人通/熊本県 012-0唐人通\熊本\熊本県/■論点3:ハイヤ節はなぜ、どこから来たか?

 そのように、文化的な「冠進化」は一方向の「伝播」ではなく双方向の衝突-融合として発生するものです〔後掲ネオマグ通信〕。磯節は、南北からの海民の音楽が宴席で衝突して核融合した民謡でしょう。その意味では、伝播でもあり発生でもあると思います。争う必要があると感じるのは、文化形成に対する理解がやや不足してると思います。
 これは、より流動性の高い食文化の融合では、もっと明確に実例を見ることができます。進化論では冠進化の跳躍力では両生類から鳥類へのような大進化は想定されませんけど(別途の茎進化が必要)、文化論では冠進化、つまり「文化が混ざり合う」だけ ●●●●●●●● ●●でとんでもない核融合が起こる可能性は既に実証されてると思ってます。

▶〔内部リンク〕→外伝02-5중국집:《第五次準備》食のグローバル化概念集

 海民の、つまりマティスの知の創出源は、要するにこの流動性そのものだと考えます。中沢さんの言うレンマとロゴスと差も、同様の位相の違いでしょう。
 したがって、次の方向の反論は意味を持ちません。単一の異文化が変化を起こすのではなく、複数の異文化が衝突して大変化を成すのです。

(ウ)船頭衆が文句を移入して磯節が生まれたとするなら、彼らが寄港する江戸でも、仙台でも、小名浜でも、また遊郭のある潮来でも、イソブシが生まれたり、歌われたりしている筈である。それが大洗町の祝町だけに存在し、他所他港に一つもない。〔後掲磯節百科事典〕

磯節道場の活動風景〔後掲ひたちなか市〕
磯節の東京進出からの全国区入り

 次に、磯節が全国的に拡大した状況を確認しましょう。
 茨城県内には630曲近い民謡がある〔後掲磯節百科事典〕というけれど、磯節の変化は相当な多様性があるようです。明治に東京で流行ったものは「新磯節」と呼ばれたらしいし、地方に伝わったものも「◯◯磯節」と辛うじて呼ばれてるものもあるけれど、別の名になったものもあります。実際に、磯節はどのくらい全国区なのか、単純には図り難いけれど──
「磯節全国大会」というイベントがあります。公益財団法人日本民謡協会が原則毎年開催してきた「磯節全国大会」は、コロナのため3年ぶりで、2022年2月に第44回大会が開かれてます〔後掲朝日新聞/「磯節」全国大会〕。この決戦会(決勝)出場者30名の登録住所を確認しますと──

(茨城県外 15)
09:栃木県 4
 ∋宇都宮市 3、那須塩原市
12:千葉県 2
 ∋柏市、松戸市
13:東京都 2
 ∋葛飾区、豊島区
14:神奈川県 3
 ∋大和市、横浜市2
17:石川県羽咋市
23:愛知県刈谷市
43:熊本県菊池郡大津町
44:大分県日田市
※「:」前は都道府県番号
(茨城県内 15)

 県内外がきっちり半分ずつ、というのは偶然には見えません。調整して県外を半分に増やし、全国大会の体を保ってると見るべきでしょう。
 再びハイヤ節を比較対象にしてみます。日本三大民謡と称されるのは磯節に加え郡上おどり、阿波踊りと言われるけれど、阿波踊りは牛深側からは広義の「ハイヤ系」と考えるなら、この比較はある程度妥当です。

▶〔内部リンク〕→m17f0m第十七波濤声mm熊本唐人通/熊本県 012-0唐人通\熊本\熊本県/■論点3:ハイヤ節はなぜ、どこから来たか?
「牛深ハイヤ節」をルーツとする「ハイヤ系民謡」の伝播先
牛深ハイヤ祭りの歴史

 もちろん、舞踏の影響度を伝播範囲で比較するのは、厳密さには欠ける方法でしょう。ハイヤ、カチャーシー、阿波踊りのような派手な舞踏は、類型を認定しやすいはずで、これに比べると地味な磯節がこの規模の拡大を見せているのはむしろ稀有な感じもします。
 また逆に──磯節が他地に伝播していると認知されるのは、ドライに言えば、明治中期に東京で「新磯節」が流行したから、と言えなくはありません。磯節に賑やかな囃子をつけ早い調子で唄う「アップテンポ」版で、東京からの伝播はほぼこの新磯節だったようです。
 もう一つ、磯節の全国伝播についてよく語られるのが、常陸山と安中の逸話です。

常陸山谷右衛門(出典:幕末明治文化変遷史【210.6-To591b2-t】)〔後掲国立国会図書館/常陸山谷右衛門〕

 大正昭和頃に、茨城県磯浜町(現 大洗町)出身の按摩(盲目)の民謡歌手・関根安中(せきねあんちゅう)を、同県出身の横綱・常陸山が気に入り、地方巡業の際には必ず連れ歩いて旅館で唄わせたことにより、全国的に広まった。〔後掲葛山幻海〕

ジャケット「磯節」(関根安中、茨城県民謡、1988)

 ただ、wikiにある各情報を総合した記述との整合からすると、明治中期以降には磯節は全国マーケットのものになってことになるようです。これを信じるならば、渡辺竹楽坊や藪木金太ら編曲者又はエンターテイナーの力量こそが、全国デビューの力の源泉だった可能性もあるのです。

明治時代初期に渡辺竹楽坊によって歌詞や囃子言葉が補われたほか、那珂湊の芸妓屋・藪木万吉の娘・金太による三味線での伴奏(および編曲)により洗練されたものとなった[3][5]。渡辺が磯節を座敷歌として芸妓に教えたことなどにより、明治中期以降には遊郭を通じて全国へと広まっていった[7]。磯節は各地の遊郭で歌われるようになり、1902年(明治35年)の『東京風俗史』では東京で「山で赤いのが躑躅に椿、咲いてからまる藤の花」の詞で歌われたと伝えている[8]。磯節が変化したものに磯節に賑やかな囃子をつけ早い調子で唄う「新磯節」がある。磯節・新磯節ともに広く唄われたが、明治中頃、東京で流行したときにはこの新磯節が多く唄われた[9]。〔wiki/磯節〕

※原注[3]“郷土の音楽:茨城”. 教育芸術社. 2021
[5]仲井 幸二郎、丸山 忍、三隈 治雄『日本民謡辞典』東京堂出版、1972年、45-46頁。
[7]「茨城県大洗町における海浜観光地域の継続的発展要因」『地域研究年報』第38巻、筑波大学人文地理学・地誌学研究会、2016年、1-29頁、 p.4
[8]飯島 一彦「向い山に咲く花 -日本の歌謡と中国の少数民族彝族の歌謡とにおける花の表現-」『マテシス・ウニウェルサリス』第19巻第2号、獨協大学国際教養学部言語文化学科、2018年3月、21-33頁。, p.30
茨城を遠く隔てても磯節

 さて、先の磯節全国大会の参加者中、最も遠隔地の熊本の磯節を見てみます。

「八代おざや節」は、「大鞘節」または「潟切節」と言われていますが、地元では「大鞘名所」と呼ばれています。熊本県八代の護岸工事をしながら唄った作業唄でしたが、今はお座敷化しています。
 茨城県の「磯節」が変化して「新磯節」ができ、明治中期に東京の寄席などに持ち込まれて大流行しました。それが各地で土地化して今では「南部磯節」や「五島磯節」「隠岐磯節」などが伝わっています。この「隠岐磯節」も「磯節」の曲調を残しながら、隠岐独特のものとなっています。〔後掲日本伝統文化振興財団〕

南部磯節の譜面〔後掲fue〕

 南部、五島、隠岐?調べてみると隠岐はやはり島根県のあの隠岐で、「島根県民謡」というラベルでヒットがあります。けれどそれがなぜ、さらに熊本で芸能化してるのでしょう?
 ハイヤ節ほどの感染力はなかったとは言え、磯節の伝染力は海を簡単に越えるほどの強さを持っているらしいのです。
 そこで、海路では最遠と言ってよい石川県の事例をもう一つ見てみます。白峰地区桑島は、何と山間部です(→GM.)。
白峰の街〔後掲ラム〕→同HPに他の画像も有

白山市白峰地区桑島に鍋蓋なべぶたを持って滑稽な踊りが保存されている。この唄は、茨城県の新磯節とよく似ている。新磯節は、戦中戦後に全国に流行った唄である。もちろん石川県内の町や村にも流行った。宴席では欠かせない唄であった。白峰地区では、他の唄で鍋蓋をもって唄われてきたが、新磯節で鍋蓋踊りを踊るとぴったりだったようだ。以降、この唄で鍋蓋を持って踊りだすことになって定着した。新磯節が流行ってから半世紀、歌詞がほとんど変わってないが、はやし言葉が「サイショネ」から「ヨイヤサー、ハットネ」と変わっている。鍋蓋を持って踊ることから通称「桑島なべぶた踊り」ともいう。〔後掲桑島いそ節〕

 なぜこのような場所に、茨城県の磯節との関連が疑い難い名称の歌謡が、こういう形で残ったのか、想像もできません。──上記では鍋蓋踊りの風があって、その音楽に新磯節が合った、と冗談混じりで解説してるけど……そうだとしてもその程度には磯節が伝わってきてたわけで。
 歌詞は次のような、奇天烈かつ現代的なものです。

1 一里二里なら自転車で通う(ハヨイヤサーハットセ)
  十里二十里は自動車で通う  百里千里は どうせ流行はやりの飛行機で通う
(ハヨイヤサー ハットセ)
 (以下はやしことば略)
2 月にむら雲 花には嵐 主に浮気の癖さえなけりゃ
  わたしゃどんなに嬉しかろうと 目に持つ涙
3 雨は天から縦には降れど 風の吹きよ出横にも降るが
  わたしゃあなたに縦に振れども横には振らぬ
4 度胸定めて奥山住まい 恋もりんきも忘れていたが
  鹿の鳴く声 聞けば昔が恋してならぬ
5 三味になりたや芸者の三味に 膝に抱かれてさお握られて
  へその辺りをなぜりゃ ピンコロシャンと鳴る身じゃないか
6 写真片手につくづく眺め 顔や姿に変わりがないが
  もしや心に変わりないかと 目に持つ涙〔後掲桑島いそ節〕

 歌詞に飛行機が出るほど歌謡が変化に変化を重ねる間、その担い手も人を変えて受け継がれたのでしょう。かつて台湾・阿里山からの木材排出に流送(放木排)を想定し、その担い手に広義の「海民」を想定しましたけど、白川山中にそのようにして入り込んだ舟人もいたものでしょうか?

▶〔内部リンク〕→m103m第十波mm啓天宮/■小レポ:啓天宮×黄廟の複眼で見える風景――――阿里山材,放木排,大甲渓/阿里山深部からの鉄道以外の木材搬出法
四川での木材流送
※美国人西德尼·戴维·甘博,1917年-1919年在中国共拍摄了

 磯節の伝播路は不明瞭で、その言い訳と同義ですけど、伝播の担い手はハチャメチャな移動者たちだったと思われます。茨城ひたちなかから甑島平良への磯節伝播は、その一例だったのでしょうけど、こちらはもちろん一歩も近付く材料がありません。

磯節道場の活動風景〔後掲ひたちなか市〕

■レポ:九州の南米・笠野原台地

「九州の南米」という語は、下記文中の出典・吉田主計さんの書名にありました。ただ他でのヒットは皆無です。戦前の書なのでその頃の謂いなのか、吉田さんだけが言ってたのか。
 大隅半島中央、鹿屋市と高山町(現・肝付町)にまたがる九州南部最大のシラス台地。南北16km、東西12km、総面積6,300ha〔後掲水土の礎〕。

笠野原で明治頃の井戸水を手作業で運ぶ光景〔後掲水土の礎〕

笠野原台地中央部の開拓は、1704(宝永元)年に伊集院郷苗代川(現在の東市来町美山)から30余戸男女60人を笠野原に移住させたことに始まる。これは、文禄の役(1592年)に出陣した島津義弘が連れ帰った朝鮮人の子孫を坪屋に移住させ、開拓させたものである(吉田,1937) 。その後の80年間は、新しい入植の記録は、今のところ見つかっていない。天明の大飢饉の時の1784 (天明4)年に、甑島の下級榔士47家族が、現在の串良町富ヶ尾に入植した。続いて、1781-1789年(天明年間)から幕末にかけての90年間に、 花岡堀・垂水堀・市太夫堀•平良堀・矢柄堀・鎌田堀などの新田集落が誕生した。さらに、幕末までに開墾された畑は約2000haに達した(寺園,1986) 。〔後掲竹部〕

※原注 吉田主計 (1937) : 所謂九州の南米笠野原に於ける開拓過程の概報.郷土の地理2 (地理教育増刊号), pp. 529-545.
寺園貞夫 (1986) : 笠野原における畑かんの効果. シラス地域研究4, pp. 21-31.

 朝鮮半島から連行された朝鮮人たちの入植は、1725(享保10)年には集落北方に「玉山宮」なる祖国の神霊を祀る神社が建てられたほどだったという〔wiki/笠野原台地〕。

※原典

三国名勝図会に収録された笠野原台地の挿絵〔原典『三国名勝図会(復刻版)』(1982年)〕

 従って、ここに同規模以上の甑島移民団が入ったのは、朝鮮人たちによる入植の順調なるを見ての追加移民であり、元の朝鮮人集落と平和的に融合したものとは思えません。
 かつ、そこまでして甑島から入植したということは、少なくとも天保期の甑島が極めて凄惨な飢餓にさらされたと想像されています。また、上記の新集落名にある「平良堀」は中甑の平良を指すと考えるのが自然ですから、平良もその飢餓の例外ではなかったと考えられます。
「密貿易の港」として裕福だった、という平良のイメージは、この事実で一定程度は否定されることになります。あるいは貧富の差が激しかった、とする見方も可能ですし、移住に抵抗がないパーソナリティを読み取ることもでき、一概に判断するのも難しいけれど──

シラス台地というフロンティア

 笠野原(→GM.)は現・鹿児島県鹿屋市。読みは「かさのはら」「かさのばる」「かさんばい」と、多分時代によってより訛ってる。典型的なシラス台地ですけど「火山灰」とは関係ないらしい。
 国家事業として国営笠野原畑地灌漑事業が行われ、現在は農業県鹿児島を代表する畑作・畜産地帯ですけど、土木技術、特に灌漑技術を欠く江戸期にはまさにフロンティアだったらしい。

大隅半島には、笠野原台地に代表される広大なシラス台地が拡がっている。同様に、シラス台地を深く刻んで流れる諸河川によって形成された谷底平野も、薩摩半島側と比較して広い面積を有している。現在見られる水田は、谷底平野だけにとどまらず、濯漑によって河岸段丘上やシラス台地上にまで及んでいる。しかし、土木技術が飛躍的に発達する以前は、たとえ水田適地があったとしても、水を制御することができなかったために、谷底平野の開発は決して順調に進んでいたという状況ではなかった。1633 (寛永10) 年と 1888 (明治21) 年の約 250年間に、大隅国・日向国諸縣郡(1)の水田面積は約4300町増加しており、同じ期間の薩摩国の水田面積が約 16000町増加したことと比較すると、増加率が鈍いことになる。〔後掲竹部〕

※原注1) 薩摩藩の大隅半島側の領地は大隅国以外に、日向国諸縣郡が含まれる。この日向国諸縣郡は、現在の曽於郡に相当する。本稿では、大隅国と日向国諸縣郡を合わせて、大隅国として以下に表記する。
笠野薬師跡

大隅建国前に拝まれた笠野薬師

 もう一つ、非常に興味深いのは──笠野原の地名の由来が、現・肝付町富山地区にあった笠野薬師によるとされる点です。
 この薬師は、何と大隅国設置前(日向国の一部であった時代)の708年に創建されたと伝えられます。日向三薬師(他には高岡法華薬師・帖佐米山薬師)のひとつとも。──この伝えは、「鹿屋市史 上巻」(鹿屋市、1967年、564-565頁)のほか、「三国名勝図会」にも記されているというのです〔wiki/笠野原台地〕。
 大隅隼人の祠、という意味でしょうか?

井上雄彦(鹿児島県出身)の描く薩摩隼人