本編の行程
本編の行程:Googleマップ(経路)
楊梅竹斜 桜桃 桜桃斜:大柵栏街道官庁街
楊梅竹斜街を東行。1335。
観光客がまだいっぱいおる。
いや?瑠璃厂とはまた次元が違う客足だぞ?自転車の侵入を警備員が止めてるぞ?
──止めた,どんなに良くても観光地はスルー。桜花百合園とあるゲートの路を南西行。道名は桜桃胡同。
で,ここが何だったのかと言うと──
「北京の人気スポットと言えば、北京五輪以降、南鑼鼓巷(ナンルオグーシャン)のひとり勝ち状態が続いていましたが、やっと新しいスポットが出てきました!」
最新スポットがどこでもあまり興味ない。ただ,ぎらぎらの文化街じゃなく,こういうところが好まれる感覚って,韓国とか,日本なら長崎とかのそれに似てきてる印象です。
※ abroad/北京に行くのなら、一気におしゃれになった楊梅竹斜街に行ってみよう! 2017/07/30
※ 北京観光/おしゃれでモダンな街、北京・楊梅竹斜街
※ 楊梅竹斜街 @ 老北京胡同小巷、咖啡廳、服飾、文創書店 [北京胡同散策](中国語)
三叉路。1343。
左折東行でいいはず。桜桃斜街に入る。観光客の姿は失せた。
道の北に西城区公安消防支隊大柵栏中隊。確かに火が出たら大変な地区です。→巻末小レポ:大柵欄
1349,北に西単飯店。東単と対照するこの地名はもっと北西の地区です。それがここになぜあるのかは分からない。
さらに進むと西城区大柵栏街道政務服務中心が見えた。要するにこの道は,街の官庁街らしい。
大柵栏西 朱家 青風 大力:不思議な交差の道
大柵栏西街に合流。1354。もっと観光客だらけです。
おそらく楊梅竹斜街の門前町みたいな場所なんでしょう。結構ホテル街らしい。
とりあえず東行するけど,うーんどう進もう?南東へ動きたいんだけど,覗きこんでも,南への道はどうも途中で西へ折れていく道ばかり。
1359,徳縁烤鴨店の対面,朱家胡同を南行。速8ホテル西側。灰皿が皆無なのでホテルの軒先で一服とする。
ここまで来ても,観光客多いなあ。ここでこうなら北の終点集中地区は──想像がつく。道行きを工夫せねば。
1408,東行。道は青風巷。
T字。突き当たりに大柵栏司法所。南行すると,またすぐ再びT字。東行。道は大力胡同。北に愛心互助浴池。
地図を見ればより明瞭ですけど→GM.,酷く不思議な交わり方をしてる道です。何があったらこういう道の付け方になるのか,想像つきません。
煤市 掌扇:ソウルで言えば北村
車道に合流。1416。煤市街とある。
北に石头社区宣侉栏。バス停大柵栏。観光客はこの辺りから入ってきてたらしい。
▲煤市街の中烟零售 CHINA TOBACCO。がっちりした洋館です。
煤市街のその辺を歩いてみたけど,どうもピンと来ない。どうやらこの2つ目の目的地・八大胡同というのはこの辺りの総称らしく,そのものズバリの名称は見つからない。
北行。
1430,右折東行。道は掌扇胡同。
写真を見ていて今覚える印象は,胡同は胡同なんだけど妙に端正。品の良い感じを受けるわけです。
この辺りは清朝当時,相当に裕福な漢族の棲家だった。ソウルで言えば北村のような場所なのだと思います。
地図で見ると,掌扇胡同に並行して何本も東西の道。覗き込む限り,これらは似た感じの「リッチな路地道」らしい。
T字に至り北行。1438。
道の名は粮食店街。──北京には意外に「解放路」「勝利路」チックな取って付けた地名じゃない地名が多い。この章の道の名はどれもそうでした。この粮食店街という名も思わせ振りです。→巻末小レポ:粮食店街と六必居
観光客がかなり歩く。東のもう少し先からは,そこまでとは打って変わった繁華街の喧騒が伝わってきてます。
支出1500/収入1590
負債 90/
[前日累計]
/負債 409
§
→九月二十三日(天)
[101天津発北京東四行]⇒
1211护国寺小吃
ぶっかけご飯15元550
(白米飯,卵スープ,青瓜とキクラゲの卵とじ,インゲン豆と豆干の炒め,茄子とジャガイモの麻辣煮)[102胡同1/10=瑠璃厂街へ南行]⇒[103胡同1/10=瑠璃厂街前へ迷走]⇒[104胡同1/10=瑠璃厂街を南へ]⇒[105胡同2/10=八大胡同清真寺]⇒[106八大胡同実験小学]⇒[107胡同3/10=西交民巷]⇒
1720新橋三宝楽面包店 XINQIAO SAPPORO BAKERY
ミルクフランスみたいなの
ロールケーキみたいなの500
[108胡同4/10=東交民巷と教会]⇒[109胡同からの帰還]
1838面兑
老坛酸菜面15元550
[前日日計]
支出1500/収入1600
負債 100/
[前日累計]
/負債 309
§
→九月二十四日(一)
■小レポ:大柵栏(大柵欄)
「大柵栏」(ピンイン:da4shi2lan4r)というこの地名は,要するに大きな「柵」のこと。
何の柵か?とさらに調べてみれば,明清の北京は治安が悪くて,清末には1700もの防犯木柵があったそうな。柵だらけです。
日本の垣根のような,何となく「ここからはうちの庭だよ」といった観念的な境界じゃない。私兵による防御もなされたというから「この線を越えたら命は保証しない」という本格的な軍事境界線。香港の围の集合体みたいな町でした。球遊びでボールが塀を越えてしまったらどうしてたんどろう?
北京の胡同は,これだけの都会にしては,何と言うか自治単位の小エリアに核があると言うか自律したまとまりがあるというか,日本なら島で感じるような自己完結性のようなものを感じる。外的には防敵を目的とした柵は,内的にはそういう「小宇宙性」の触媒になったのかもしれない。
財貨の集まるこの場所には,その柵の最大級のものがあった。ただし当時のものは20世紀になる前に焼け,2000年に市が修築したもの。つまり,地名だけが残って,それが商店街の名として定着した後で「そういえば何でここ大柵欄なの?」ということになってか,あるいは純粋に名所造りとしてか建造した伽藍らしい。
※ 百度百科/大栅栏
「大栅栏的设置在明代就有了,明孝宗弘治元年(1488年)就下令在北京城内大街曲巷设立栅栏,并派士兵把守,以防盗贼。到了清代,这里已成为主要的商业中心,因为买卖多,为了能够有效地防止盗贼,栅栏建得比其他地方都大,也都好看,所以才叫“大栅栏”。」
※ 維基百科/大栅栏
「明弘治元年,为治理京师社会治安,在北京各条街巷门口,设置了木质栅栏,栅栏由所在地点居民出资修建,从此以后直到清朝末年在北京的街道上共修建了一千七百多座栅栏。其中廊房四条的栅栏由商贾出资,格外的大,因而被称为大栅栏,久而久之大栅栏就取代廊房四条成为这条街道的正式名称。
光绪二十五年(1899年)大栅栏发生火灾,木质栅栏被烧毁,从此以后大栅栏只存其名,直到2000年北京市政府又在大栅栏街口修建了铁艺栅栏,真正的栅栏才又回到大栅栏。」
■小レポ:粮食店街と六必居
中国語系のサイトが妙に記載を避けているような感触なんだけれども,この通りの由来は多分こうでしょう。
醤菜で高名な──と言ってもワシは当時完全に見落としてて食べてもいませんけど──六必居という店の繁盛した通り。
六必居の店舗は瑠璃厂にあるし,博物館はもっと東にあるけれど,どうやら元の所在地がこの通りらしい。
あまりにも資本主義的な命名だから,と記述を避けてるのでしょうか?
で,食べてないから全然説得力ないけど──北京人がこのタイプの「漬物」を「伝統食」と認識してる,このこと自体が興味深いことです。朝鮮半島に唐辛子が入って来る前の「水キムチ」に通じるような気がするからです。「醤」の漬物文化みたいな共通した食文化が,あるいは日本にまで及ぶ広がりを持って存在したのでは──と言っても説得力ないから,今後の作業仮説としてメモるに止めます。
※ 中国のおすすめ情報/北京の魅力③老舗の集まる街/六必居(Liù bì jū)
「六必居は「酱菜」(jiàngcài)と呼ばれる、この店独特の方法で精製・発酵させた醤油味や味噌味の調味料で漬けた野菜などで世にその名を知らしめました。
とりわけ十二種類の伝統的な商品があり(略)」
「「六必居酱园店」は明王朝中葉、嘉靖九年(西暦1530年)に始まったと伝わっています。もとは山西省临汾(línfén)西杜村出身の赵存仁、赵存义、赵存礼という兄弟が始めた小さな店でした。」
「六必居の「酱菜」は清王朝時代には宮廷御用達として納められるまでになったのです。」
※ 前门粮食店街的六必居酱园 2019-01-13 11:23 美丽新世网
「现在普遍的说法是始自明代,由山西临汾赵姓三兄弟创建,店家宣传资料上也是这么说的,其现在最有特色的商品就是各式酱菜。」
「虽然现在的六必居总店还在粮食店街原址,但早已不是前店后厂,看看小包装上的产地就都明白了。」
「目前店铺边上的六必居博物馆还在筹备中」