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0810長崎駅発
久しぶりに乗った長崎近郊の鈍行からの車窓は,驚くほどに草深い。それに雲が厚く暗いのも手伝って,山を縫うかと思えば海沿いに出て,と万変する景色に混乱する。
0920頃大村に着く。のっぺりした町です。とりあえず正面に向けて歩く。
ad.東本町。
「ウインドロジイ下駅通り」のアーケード。
すぐ抜けた。ad.本町。アーケードは左手にも続いてるけど開けてる店も少ない。直進。
ad.西本町。左折してみる。0940。
「夜のオアシス パブロード」という小さな飲み屋街。プリン倶楽部?
0945車道に出た。そのまま跨ぐ。
港に出た。南にAEONとYAMADAの大看板。
0949恵比寿宮に唇の厚い神像。
船虫がものすごい数でうようよしてる。沖のジェットみたいな船が何かと近寄れば,てん新のいけ洲でした。
ただ「OCEAN LINER」と船腹に書かれた暖色縞の船,同じく「たいよう」というやや大きな船もあるから定期便はあるらしい。
線路の東裏は小高い傾斜地が伸びて,彼方にはかなり高い山。
港から海の向こうにのっぺりした島がある。そうか,長崎空港はここにあるんだった。てん新の窓からは,思いっきり離着陸の光景が見えたのでした。
1010 てん新
(本日のおすすめ)鯛煮つけとあら汁定550
今回の長崎でようやっと食べれた本格的な煮付けでした。魚料理の技術を求めるなら,長崎市外へ出た方がいいのかもしれません。
刺身は美味いけれど,長崎で言う普通。ブリがややイキがよかったかも。
やや温めだったアラ汁は,けれど出汁は極めて上品でスッと鼻孔をくすぐる旨さ。汁も汁だけど,がっつり入ってるアラそのものもプリプリの歯ごたえ。
それでもって鯛の頭が──ちょっと信じられない弾力,生生しさ,蛋白な旨味でした。
醤油がほとんど使われてない感じです。出汁の旨味だけで煮付けてある,なんてことはないはずだけど,例えば王丸と比べてもはるかに軽妙な味付け。
これは魚の身の新鮮さに自信があるからでしょうか。確かにこれほど生生しい魚肉の本来味を生かすなら,これ以上濃いと調味に隠れてしまうでしょう。
市外での煮付け,もう少し経験値を積みたい。
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そのまま南へ
1134市役所前バス停
スタバがあったけど客もぐれなので雨宿りだけして先へ
前方がやや丘じみてきた。
1138大村公園。花ちゃりが見えたけど,雨。台数も少なそうだし,借りなくてよかった。
公園内へ。
1145玖島崎樹叢。
「玖島城の林は,江戸時代に已に大きな樹木があったようで,大村を来訪した文人の日記にもお城の建物が見えないというエピソードが出てきます。」
「諫早が北限とされていたヒゼンマユミが樹叢内でいくつか発見された」
これが大村神社か玖島稲荷の神林でもあるらしい。
登るしかない。両社の矢印のある左の道へ。1152。
城壁が見えた。野積みに近いが整っています。
1155城壁から下りになった。
浜田弥兵衛の碑。末次平蔵配下の船長,タイオワン事件の当事者です。
「この碑は,語り継がれた弥兵衛の活躍に対して大正十四年従五位を贈られた時に建立されたものです。弥兵衛の子孫は代々大村藩に仕えており,戊辰の役で戦死した少年鼓手浜田謹吾少年もその一人です。」
弥兵衛重武本人の出自は案内板に記されていない。
裏面の漢文によると「発揚国威者其人義烈」とある。
1207三の丸跡の杭
「空堀の西側で御船蔵を併設する曲輪です。土蔵や焔硝小屋のほか,北側には米蔵番人屋敷がおかれていました。」
この城址にちなむ「クシマザクラ」というバラ科の樹木がある。
筆の形が変わっていないならおそらくこの先の長崎県教育センター敷地が三の丸の立地と考えられます。
梶山御殿(大村氏別邸,大村男爵家(分家)隠居地,昭38県有移管)
ad.玖島一丁目。海にぶつかったT字を左折。
あった。1219、大村藩お船蔵跡
▼▲後掲「昔に出会う旅」に平面模式図がありました。これには各部の仮称が付されているので,本稿でもこれを流用して話を進めていきます。
案内板「 この船蔵は,もとは外浦小路(ほかうらこうじ)の入り口にあったことが記録に出ており,元禄年間に板敷(いたじき)浦(現在の場所)に移ったとされています。また,板敷櫓下の発掘調査で船蔵跡が発見されています。
このお船蔵の後ろ(現在の教育センター付近)には,米蔵や硝煙小屋があり,海を挟んで正面には船役所がありました。
当時は,風雨を避けるため,石垣の上に柱を建て,屋根で覆っていたと思われ,柱穴の跡が石垣に残っています。」
1227柱跡
1228中央のみ先が低く尖っている。
1230乗降場所か?
前傾「昔に出会う旅」でも,柱の排水機能から荷揚場2をメインの堤と見て,屋根のある建物はここから荷揚場1に跨ぐように,つまり最も横幅の大きいドックBを覆うように存在したと仮定します。
人間向けでは荷揚場2が,船向けではドックBがメイン機能,又は大型船耐用のもので,他は小型船耐用だったと考えられます。
1233奥の直角構造がそのまま。やはり野積みなのに極めて精巧かつ強固に建造されています。
確かに荷揚場1の柱跡は「後から追加設置した」感じで既存突堤の上に載せられたように見えます。屋根が先の仮定通りとすれば,元々,屋根構造で覆おうとしたのは荷揚場2だけで,後にドックBを丸ごと覆う案又は必要性が浮上して,結果として荷揚場1に有り合せで柱を設置したのてはないでしょうか。
もやいを繋いだ岩柱がない,と探すとやや沖側にありました。フナムシだらけの突堤の先。1241
コンクリでガチガチに補修してあり歴史的価値はともかく,基部は古いし位置も確実っぽい。
帰りに歩測するとドック三艘分のうち,最も小さいドックAが約25m✕7m。Bが10m,Cが8mほど。
南側の高台に丸い曲輪が石垣ともども残ってる。石垣の積み方が整っているから後代のものかもしれないが,立地は物見台のように見えます。
1254ドックAとCの石垣のみ,中段が一段出っ張って煎る。両側ともです。
後掲「昔に出会う旅」では「深い大村湾内の高い潮位差や,積荷による船べりの高さの変化に対応するための足場」と推測しています。
最も大きいドックBより,ドックCの方が奥行きが長いのは,こんな細長い船を想定しにくいから,「ドックC」はドックの機能よりも荷揚場としての機能に特化し,例えば沿岸用小船が多数入って荷積み・荷降ろしをするような場所だったのではないでしょうか。おそらくドックAが次第にそうした使われ方をするうちに,ドックCには初めからそちらに特化させる設計を施した,といった経緯が想像されます。
これらを考えると,この「ドック」群はかなり実用的に運用され,そのためにハイレベルに維持されつつ,さらに実用度を上げるべく改良されてきたものだったことが予測されるのです。
大手門、この脇の石垣はキレイに継ぎ目なく積まれてる。
1312公園入口発3番∶坂口行。1314乗車。
シーハットおおむらとAEON大村のどちらにも停車する。余程の重要施設らしい。
ミライon手前の砦のようや神社は八幡神社?元の三城城の1km南?
バス停・裏馬場。10番長崎空港行きなら「乾馬場」が最寄りでした。つまり馬場が複数,あるいは馬場からの方向が地名になるような場所,武家屋敷エリアです。
1340佐古川という小さな水路。石垣あり。ただ積み方は新しい。ad.古町一丁目
本経寺対面ブロック内の道にはこの水路に沿う形で配置されたものが幾つか見受けられます。つまり,川の方が早くに出来ていたことになります。17C大村家の武家屋敷がここにあったなら,川はそれ以前から存在していたことになる。
何ということのない車道だけれど段差が何段となくある。
1347本経寺。大きい。
「墓所には,初代藩主喜前から(略),筆頭家老の松浦家の墓が建ち並んでいます。」
松浦家墓所
五輪塔
1408君の家食堂
ちゃんぽん510
豚の臭みが残っている,というより残しているという感じで,面白い食文化だと思う。おそらく一軒限りではなく食文化だと思うけれど,もう一軒回るには腹が張ってしまいました。
1432本経寺の対面,セジュールステラ横の細道へ。人と車の流れからして抜けれるはず。
T字路。右手カーザヴィオラ側は行き止まり。左手は右折して続いてた、1437
ややそれっぽい石垣
途中小さな未舗装地区。大樹の根本に公園と売店,公民館。
ダメだ。川を渡る。1447。
1509大村駅ホーム。1515区間快速乗車
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