005-1ヘイフリ坂登る\茂木街道完走編\長崎県

(リンク集)05長崎茂木街道踏破編
08/10土
11ヘイフリ坂登る
12愛宕神社到達 13愛宕山下る
21若菜川 22転石の谷 23真夏のピントコ坂
08/11日
31変電所の坂
41立山下り道 42旧六町横断
51大浦東発 52館内町まで▼
08/12日
61六町北西縁▼62六町南東縁▼
前回の宿題はヘイフリ坂~愛宕山と,茂木街道の茂木側。これをどちらも歩き切った暑い初日でした。
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
Googleマップ(経路)

「旧六町」位置図!でもこれどこよ?

暑です。
 報道では,昨日,長崎市内で熱中症の死者ありとのこと。
 08/10,開店時間0630にちゃんとブレッド・ア・エスプレッソに並び,アールグレイで朝ご飯を頂いて──二泊入れた浜の町「てんねん」に荷物を預ける。
 0829。既に酷暑の気配を示す真っ青な空。ほぼ雲のない空に蝉時雨が響く。
 まず左手へ東行。前回引き返したヘイフリ坂を登りきる企画でした。→004-2ドンドン坂から
 正気かよ?と思われるかも,ですけど,いや申し訳ない。この夕方には輪をかけたような狂気の企画をやってます。
 いや,何せ長崎ですから。

▲初めて目にした旧六町位置図

古川通りを歩き始めてすぐ,ししとき川通りに入る前にこの看板「まちぶら案内図」に出会したのは,どういう因縁だったんでしょう?
「1592文禄元年内町23町(写真白色)が長崎奉行支配下に」
「1597慶長2年外町(写真赤色)が長崎大官支配下に」
 木村純忠が「長い岬の台地」に「町建て」したのは1570年,とある。その直後に出来た「旧六町」という存在が,ちょうど読んでた本の中に出て来て気になってたところでした。→参考文献:旧六町
「旧六町」ってどこよ?
 それがこの看板に,町の名前だけ書かれてた。──大村町,嶋原町,平戸町,横瀬浦町,外浦町,文知町。
 ただ,この時点ではどの町も全く聞いたことがなかった。恥ずかしながらこの図を見ても,六町を指すらしき白い部分が現在のどこなのかピンときませんでした。──皆さんは分かりますか?
 これが二日目,三日目で主テーマになりました。章を改め006シリーズをご参照ください…ということで本編では先に進みます。

イネの墓を知らぬまま登りにかかる

▲階段面の石積から知れる微かな傾斜

しとき川通りへ左折北行。0844。やっぱ,ここは特別な道。
 すぐ東古川通り。
 よく見ると,ここにも既に段差があります。家の地盤が1m弱高い。
 Ad(住所表示。以下同じ)鍛治屋町4。
 もちろん左折北行,すぐ右折東行してヘイフリ坂を登りにかかる。楠本イネの墓と矢印。
 ここに出会いの井戸というのが出来てました。

▲ヘイフリ坂。イネの墓の看板

夏」という映画のラストシーンがここで撮られた,という紹介看板のあるヘイフリ坂。
 登る。
 0854,晧臺寺。
「花ガラもなきがら やさしく大切にこの中へ 晧臺寺山主」
 奥には児童用公園もあるらしい。カラフルな遊具が見え隠れしてます。
 登る。前回未踏の辺りに入りました。
 車道がLに折れる。朝から家族に経済論をぶってるハチマキ親父。
 直進する石段へ。左手は墓地,右手は石垣。
 さらに登る。
 0908,楠本イネ墓に着く。

楠本女三代記にハマった半時間

▲諭吉イネ推薦状

から何度となく見てきた名前でしたけど,「楠木いね」さん,それは誰?
 調べたこともありまへんでした。だからこの日も単なる目標地点だったんです。
 ところがこのお墓の説明書き群,結構ハマります。今見ると,25分近くメモ取ってます。
 最初に惹き付けられたのは,上の写真の諭吉書簡にあるこの一節。「蘭人シーボルト娘伊篤通称おいね」???

▲イネ宮内省辞令

ーボルトとおっしゃると,教科書に出るあのシーボルト?
 もう一つ,掲示された一次史料。宮内省辞令 明6.7.31「楠本いね 権典侍葉室光子妊娠ニ付御用掛り申附候事」?
 シーボルトの娘が宮内省の助産師に?
 でも驚くのは早かった。何とこの「いね」さん,メーテルのお母さんでした。長くなりそうなのでここからの話,巻末に譲ります。→巻末:メーテルの祖母・瀧と母・いね
※れきしじょうの人物.com/シーボルトを5分で!楠本イネとの子孫がメーテルのモデルに?

神域の高台

▲地蔵の行列

931,再登開始。
 0934,右手に休石という石椅子2つ。そして左手には,地蔵がえらくずらずらと並んで登場してきました。
 ここまでも墓が多かったけれど,この緩い高台のような場所は,神域の空気です。紛れもなく。

▲藪影の墓地


馬像へ最短ルート」と看板?
 0941。緩い高台の脇に道を見つけ,迷う。結構時間を使ってしまってるけれど…でも寄ってみたい魅力を感じて,少しだけ,と入ってみる。

▲航海舵のような家紋

墓の多い高台です。蚊も滅法多い。
 一段奥の手,門構えの奥に,舵のような家紋の墓域がある。どこかの特別なエリアだろうか?
 この舵のような家紋は,悪く見れば海賊めいた,良く言えば海の生業を誇りとした海商のモチーフに映ります。

▲凄い年代表記

そうだ,とは分かるけど,どのくらいのものなんだろう?
 うっすら年代の見える墓を見つける。
「文化10年没」??
 ──1814年!!
 黒船の30年前?

長崎要塞第三地帯

▲ここにも地蔵。女人講中祠。


石また2つ。
「従是南大音寺境内」とある石碑。所有権表示そのものが史跡になりかけてる。→巻末小レポ:大音寺と晧台寺
 0951,「女人講中」とある像の祠。マリアらしい。横手には銀屋町中とも刻んである。

▲長崎要塞碑

うやく人家が現れました。0955。
 Ad風頭町8。
 十字路。迷う。左手は風頭公園。「かざがしら」と読むらしい。龍馬像があると看板。──こんなこと書くとここで頁閉じられちゃうかもですけど,さして龍馬ファンじゃないので右手を選ぶ。→巻末メモ:男風頭と女風頭
 方向は磁針では南。左手石垣上に「マツヤ万年筆病院」と表示。
「長崎要塞第三地帯標」というのが現れました。「明治三十二年六月十日」とある石柱。→巻末参照:長崎要塞

右手には行かず鞍部に到る

▲江口石材

叉路。1004。
 風頭・寺町風致地区の看板の後ろは笹山。
 右手は「八坂神社」とある下りの道。方向が違わなければ歩いてみたいルートです。
 左手は少し登って鞍部を越えるようです。左を選ぶ。
「江口石材」という看板。「石碑再生(みがき)・戒名柄」と分野を表記。そんな詳細が売りになるほど墓だらけなわけです。

▲草繁る階段

手に円柱碑。文字は「幣振坂ヨリ風頭火葬場到ル道路修繕 明治四十四年…」と読める。この草深い道がその「道路」だろうか。→巻末メモ:沖見町
 Ad風頭町10。
 休石2つ。というかこの「休石」なるものは必ず2つ並んでる。
 対面に「6-1」標識のある方形祠。
 1017,風頭さくらパーキングという表示を過ぐ。鞍部は意外に遠い。傾いた台地のような地形。

▲昼顔の垣と自販機

頭町自治会の掲示板のあるパティオめいた三叉路へ。
 右手北側に向け「亀山社中跡666m」の矢印。ここからが風頭公園への最終分岐になるらしい。断固として,行かない。1020,左手へ。
 脇道に花ばなの中に途切れる山道。
 1024,風頭町公民館を過ぎる。まだ登り?
 スーツケースの男女。
 Ad風頭町3。

■転記集:メーテルの祖母・瀧と母・いね

 時系列順に血縁だけ先に記す。やや生々しい話になりますけど,非常にリアルな女系三代記です。
 1807年~1869年楠木瀧。没落した商家の娘で,丸山町のオランダ人専門の遊女,源氏名「其扇」(「そのおうぎ」又は「そのぎ」)。シーボルトお抱えとなり,私生児としてイネを出生。シーボルト国外追放後,俵屋時治郎と結婚。
 1827年~1903年楠本イネ。俗称「オランダおいね」は差別色も含んでいる。シーボルト姓を表現した「失本イネ」とも。シーボルト門下・二宮敬作から基礎医学を,石井宗謙から産科を,村田蔵六(後・大村益次郎)からオランダ語を学んだ後,ポンペ,さらに再来日したシーボルトから当時の最新医学を習得。このうち石井宗謙に「関係を強要され」(高子手記)高子を出産。1861年,幕府外交顧問。宇和島藩主・伊達宗城の庇護を受けた後,東京で開業。福沢諭吉の推薦で宮内省御用掛に。
 1852年~1938年楠本高子。出産経緯から「タダ子」と呼ばれる。芸事に熱心で,医学の道を推していたイネを悲しませたという。1865年,宇和島藩奥女中に。1866年,シーボルト門下の医師・三瀬諸淵(三瀬周三)と結婚。三瀬の死後,医学を志すも,強姦により男児(前夫に因み周三。後にイネの養子,楠本家を継ぐ),芸事の道に戻る。医師・山脇泰助と再婚,3子をもうける。東京で没。
※ wiki/楠本高子 同/楠本イネ
コトバンク/
楠本瀧
※Bakumatu.org/楠本高子
※王子のきつね/どこで楠本高子に会ったのか?
「 私の父は石井宗謙でございますが、母いねは石井を大変嫌っておりました。これには深いわけがございますが、ここでは立ち入った事は申し上げられません。
 ただ申しあげたいことは、石井とは一度だけで私をみごもったのでございます。
 何事も天意であろう、天がただで私を授けたものであろうとあきらめまして私を「ただ子」と名づけましたことで御推察お願いいたします。」(高子手記)

 さてこのヘイフリ坂上の説明書によると
「シーボルトは,瀧をお瀧さんと呼び,その発音は「おたくさ」であった。シーボルトは,出島の植物園に長崎のある寺院からもらったアジサイを植えていたが,これを「おたくさ」と呼び,後に学名をハイドランゲア・オタクサと命名した。オタキサンバナである。」
 要するにベタ惚れしてる。で,このベタ惚れがこの三代の波乱の根元になったわけです。
楠本タキ(1807-69)「現在,シーボルト記念館にはシーボルトが愛用していた合子(国指定重要文化財)が所蔵されているが,この合子の蓋の表にはタキの顔が,裏にはイネの顔がそれぞれ長崎特産の青貝(螺細細工の一種)で細工されている。」

 隣にシーボルト年表もあった。
「文政11(1829)シーボルト,国外追放となる。」
「弘化2(1845)イネ,二宮敬作,さらには石井宗謙などのもとで医術の修業(ママ)にはげむ。シーボルト,ヘレーネと結婚」

楠本イネ(1827-1903)碑「イネの履歴書には,明治3年(1870)2月から同10年(1877)2月まで東京府京橋区築地1番地で産科医を開業とある」「イネは,よくわが国最初の女医といわれる。」

 二宮敬作(1804-62)碑も併設されてた。
「伊予国宇和島郡磯崎浦(現在の愛媛県八幡浜市保内町磯崎)の六弥と茂の子として生まれた。」
「墓碑は,楠本イネによって晧臺寺後山に興立されたが,後に同寺後山の楠本家墓地内に移設された。愛媛県西予市宇和町卯之町の光教寺には遺髪塔がある。」
 瀧・イネ母娘の宇和島との因縁は,この二宮敬作を通じてのものであるらしい。
 三代記いずれにも非常に不透明な部分が多い。どうも,他人から伺い知れない愛執が絡んでいた雰囲気です。ただその中で,それぞれ必死な生きざまは伺える。
 評論家・羽仁説子が晩年の高子に会って話を聞いていた記録が「シーボルトの娘たち」として出版。2007年には山脇タカ子の手記が東京慈恵会医科大学によってまとめられ,2016年から閲覧に供されている。今後の研究が楽しみな三代です。

■メモ:長崎要塞

「明治32(1899)年,長崎は要塞地帯法によって長崎要塞地帯区域に指定され,佐世保より佐世保要塞砲兵連帯(ママ)の一個大隊が長崎入りし竹の久保(現・長崎西高)に駐屯します。翌33(1900)年には竹の久保に司令部を置きますが,明治36(1903)年,大黒町(現・西坂町の一部)にあった長崎兵器支廠築城部長崎支部と合併し長崎要塞司令部を移転します。しかし,明治39(1906)年,平戸小屋町に移転しました。」(長崎遊学シリーズ13ヒロスケ長崎のぼりくだり,2018,長崎文献社。以下「ヒロスケ2018」という。)

■小レポ:大音寺と晧台寺

「大音寺」は先のL字を右に曲がった辺りの寺。江戸期1614に創設,長崎奉行の庇護を受けた寺です→大音寺。ヘイフリ坂の西が晧台寺,東が大音寺所有ということか。民と官のような色彩でしょうか。
 ただこの「従是南大音寺境内」とある石碑。この書き方は,漢文あるいは中国語です。
 1613年の禁教令後5万人近くが檀家となった笠頭山洪泰寺(現・晧台寺)と,その同時期に作られた大音寺。隣合った双方の因縁が何かしらありそうです。
 これらを調べてるうち,長崎三大寺という成語にぶつかる。大音寺と晧台寺,それに筑後町の本蓮寺をカウントするらしい。キリシタンの改宗の受け皿として考えても,この配置は明らかに偏ってます。市街を三分割してそれぞれに,というのが行政的発想として自然です。
 あるいは寺町に仏教施設を集めて管理しやすくする,という発想だったんでしょうか?本蓮寺は教会系のサン・ラザロ病院が破壊された跡地に出来たというから,こちらの方が見せしめとして特別で,残り2つが原則通り,ということでしょうか?

【解決編】
 晧台寺が後から大音寺隣に移転させられた,というのが真相みたいです。
〔ヒロスケ2018〕にあった飛び飛びの記述を時系列順に並べるとこうなります。
「慶長13(1608)年,女風頭山麓に笠頭山洪泰寺を建立」
「当時の洪泰寺は聖福寺と永昌寺の間付近と考えられます。」
※根拠が挙げられてないけれど,この記述の隣に「寛永長崎港図」が掲げられており,この位置関係からと推測される。
「寛永3(1626)年には,現在地に移転し晧台寺となります。」
「正保3(1646)年,豊後府内(現・大分市)の城主・日根野氏が幕府の命で来崎します。日根野氏は豊後西寒田から八幡宮を長崎にお祀りしようと適地を探しますが見つかりません。そこに日根野氏と関わりがあった晧台寺開山・一庭禅師から賛同を得て,晧台寺の旧敷地だった岩原村笠頭山の地を譲り受けて八幡宮を開くのです。」
 この経緯を政治的に読めば,肥後松浦から来崎入りしてバックアップのなかった洪泰寺が,敷地を譲ることまで日根野氏に恩を売った,ということになろう。
 しかしこの原名「洪泰」は,また何と中国的な語感でしょう。洪泰寺を開いた亀翁の出身寺が松浦の「洪徳寺」で,ここから一字もらってるらしいけれど,和寇本拠地にして鄭成功の生地・松浦の背景色がどうにも匂えて来る。
 また,その「洪泰」を「晧台」に改めなければならなかった理由,これもどこにも記述が見つからない。
 ──何か全然解決編じゃないけれど,三大寺の偏りはこの晧台寺の特異な立ち位置と動静による,というところまではまあ何とか。

■メモ:男風頭と女風頭

「長崎市街地の東に連なる風頭山と北に連なる立山は江戸時代から市民に親しまれた山です。ともにふもとからのびる先には海岸があり,市街地が形成され,寺院が並び,山腹には墓地がひしめき合う,同じような雰囲気を持っています。長崎人にとって目印の山です。また,ともに向かい合っている二つの山は,俗に風頭山を男風頭,立山を女風頭(または北風頭山)とよんでいました。」〔ヒロスケ2018〕

■メモ:沖見町

「風頭山頂付近からは長崎市街地や長崎港が一望でき,ときには五島列島までみえるため,以前までは俗称で沖見町とよばれていました。また,昭和30年代(~1955)ぐらいまでは山頂付近にはほとんど人家はなく畑地が続いていたためか,現在の渕町の火葬場が出来る前はこの風頭山頂下付近にありました(旧自動車学校付近)。」〔ヒロスケ2018〕

■文献紹介:旧六町

「教科書的な視点のみで長崎を訪れ,理解をしたつもりになることは,結果的にかなり実態と離れた『誤解』を生んでしまうのではないかと危惧している。
 その最たるものが『鎖国・出島』というキーワードに代表される,限定された窓口というイメージの過度な強調である。観光産業の演出もあるのだろうが,過度にこのイメージが定着した結果,その前史としてさらに濃密な海外との関係があったことを,長崎の人ですら知らないという場合が多い。元亀2(1571)年の町建て後,イエズス会へ寄進され,日本・中国・朝鮮・東南アジア・ポルトガル・スペインなど諸民族の雑居の場であった初期の六町周辺が,歴史的舞台としては忘却され,出島のみが『海外交易を学ぶ場』となっている現状がそのことを物語っている。」
「長崎は歴史的文脈から説明できる考古資料が充実しており,今後の学術的研究が期待される。また,そうした努力により,長崎が旧六町を中心として発達した港市であることが,訪れる人々に正しく理解されることにつながるであろう。」
※桃木志朗編「海域アジア史研究入門」川口洋平・村尾進『第19章 港市社会論──長崎と広州』2008,岩波書店

「005-1ヘイフリ坂登る\茂木街道完走編\長崎県」への2件のフィードバック

  1. I am a student of BAK College. The recent paper competition gave me a lot of headaches, and I checked a lot of information. Finally, after reading your article, it suddenly dawned on me that I can still have such an idea. grateful. But I still have some questions, hope you can help me.

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