目録
本文で全然読み取れなかった本浦、及び広く黄金山北麓の仁保島集落の構造に、再度チャレンジ、あるいは多少の知見を残してみます。
次の地図を見ても、この本浦地区は尾根の東西で全く町の造りが違います。これが原爆による被害度の差──とも断じ難い。
(冠無)本浦
まず住所表示を確認してみます。
邇保姫神社周辺には西本浦町・東本浦町の他、冠のない本浦町の住所区分があります。
通常なら冠無・本浦町が「元町」的な表示なんですけど──邇保姫神社は「西」にある。ちなみに番地も「1」ではない。
冠無・本浦町の区域は「半べえ庭園」以南。ちなみに、東本浦町のそれも東側道路以東です。つまり、邇保姫神社の信仰圏は、どこが「本集落」というわけでもない。
前掲の仁保・大河・楠那國民學校の寄進碑や七前の分布を考えると、邇保姫神社の信仰圏は少なくとも黄金山北麓全域にまたがるはずです。おそらく同様の状況は、その全域に共通しています。
前章で予想した戸坂氏等武田氏家臣団のような意図的な「烏合の衆」状態が、ごく最近まで、もしかすると現在も継続するのが、仁保だと考えられます。
ただ、その状況は非常に不思議です。ここまで見たように、仁保は歴史的に辺地だったわけではなく、戦国期には激戦地でした。他の海民の地が自己防衛上、糾合のベクトルを呈するのはこのタイミングです。実際、仁保島村という緩いまとまりは存在したと見られるわけで──
仁保島連星系仮説
仮説を先に掲げると──仁保島海民群は「連星系」だったのではないでしょうか?特殊な予備知識から怖くて近寄れなかったけれど──大河(おおこう)と本浦が、旧来から二つのコアとして均衡を守っていた、という考え方です。
大河の歴史民俗についての研究は、ほぼ後掲中道(2020)のものしかありません。中道が大河について記す民俗事象のうち、三つの概略を紹介していきます。
(中道2020の論考は相当詳細であり、史料根拠は原則省くので、必要な読者は巻末リンクから原文を参照)
Haken▷御茶屋山
まず「御茶屋山」というポイントについてです。本浦町の西隣・北大河町にあったとされるこの山には、不思議な物語が伝わります。
御茶屋山洞院の事績
京都では徳川時代に発砲してはならない事になっていたにもかかわらず、安永年間(二百年前)浅野候はこの禁を犯したので掟によって自殺せなければならなくなった。その時に八幡の八幡神主洞院と言う人がいて、候に代って自殺した。其の後神主家代々其の義心に感じて墓参を怠らず、以て明治の初年に至り因にこの墓は、村上徳三郎の祖先がお守りをしていたが、今■家の所有なるこの山に登って見れば広陵の富貴を一眸に集める所桃李の木の間に小さい庵の中に、三個の碑があり、中央の大きな碑は真の墓石にして左右のものは彼の義心に感動したものが後から立てたものであり、その石碑の文字から推定したものである。〔後掲中道2020〕※原典:後掲 大竹嘉治『廣島大河郷土史』大河文化財保存会 昭和50 P17
安永年間(1772-1781)に藩主がなぜ京都で発砲しなければならなかったのか、まず不明です。同種の伝承は確認できない(前掲中道2020も同見解)。
後掲煙石は碑文を視認し慶安(1648~1652)の誤伝を疑うけれど〔後掲煙石,p61〕、そもそも京都での発砲は大名でも死罪、という規制が確認できません。
仮に上記の点を疑わなくとも、八幡神主洞院という仁保の人の自殺で、なぜ藩主を切腹から救えたのかが分からない。
ハッキリしているのは、仁保の人がこの身代わり自殺を義行と見て、永く讃えてきたことです。下記の中道推定が正しければ、藩主側も「こっそり」感謝し続けてきたことになるけれど、おそらく仁保側の「義」を尊ぶ集団が作った物語でしょう。どうも、他にないパーソナリティ、又は価値観が感じられます。
「令和2年現在御茶屋山は存在しない」「現在の住居表示でいうと北大河町9番地に存在した」「年代など検討する要素はあるが、浅野候の代わりに命を失った八幡神主洞院の墓があったとの伝承がある」「明治時代までは山城国から片岡家が年に1度墓参に来ていた」「八幡神主洞院の墓は大正時代に京都宇治に移された」ちなみに黄金山周辺地域には、藩主の訪問する潮風呂があった。風光明媚な当地の景観や、潮風呂の効能による点が大きいと思われるが、こうした藩主と地域の関わりも伝承を吟味するうえで注意を払う必要があろう。この点については煙石が『大河十軒屋誌』で十軒屋に藩主が休息するための特別な建物があったという伝承、藩主がたびたび西福寺に遊びに来た伝承を伝えている(18)。〔後掲中道2020〕※原注18)煙石雅男 『仁保島 大河十軒屋誌』平成3P35
もう一つ分かるのは、上記のような景勝地が、山が削られる前には邇保姫神社の西南西500m余の地点に推認される、という点です。この掘削・開発行為の記録がどうしても見つかりませんけど、この日に至った本浦第一公園の西側団地が丸々山塊だったとすれば、邇保姫神社の本浦と大河集落は少なくとも陸路では現在の感覚以上に隔絶されていたことになります。
またそれならば、案内地蔵の案内文(→前掲)にあり、その一部を歩いてきたはずの「大河峠」という地名の語感が、やっと納得できるものになります。
さて、この御茶屋山の北麓に「堅石」という聖地がありました。
竪岩大明神
「竪岩は大河が生まれる前から、御茶屋山の山麓北側に存在していた」聖蹟で「大男が海を見つめて立っているような姿であったと聞く」〔後掲中道2020、原典:後掲 大竹嘉治『廣島大河郷土史』大河文化財保存会 昭和50 P27〕。
①竪岩が存在
→②寛延2(1749)年、竪岩とは別に祠を設け市杵島姫命を祀る
→③明治42(1909)年に市杵島姫命を祀る祠を解体し、神体を比治山神社に移す
→④その後、古前秀松の祖父が不動明王のお告げを受け神社跡地で丸石を発見
→⑤丸石を祀る竪岩大明神〔後掲中道2020〕※改行は引用者
つまり、竪岩大明神信仰は創始もそもそもの神名も不明、その後に御神体も位置も移されたにも関わらず、細々と続いている。
知新集(1822(文政5)年成立の広島城下地誌)・皆實新開「竪岩社一宇」の項に以下の記述があります〔後掲中道2020 出典:広島市『新修広島市史 第六巻』広島市役所 昭和34(1959) P302〕。今のところ最も詳述される史料のようなので、長文ながら転記します。
竪岩社一宇 面九尺入二間未申向鳥居有
比治山御茶屋谷下村支配屋敷地(五畝二十一歩米九斗一升二合、其頃明地なり)の内に竪岩といふ神石ありしを寛延二己巳年村人願いて小祠を建て當村の鎮守とす、則祭る神市杵島姫竪岩大明神と号す、尾長天満宮神主渡部播磨勧請す、祭日毎歳八月十七日なり、今もかの播磨か子孫豊前守祭主をつとむ、今もかの播磨か子孫豊前守祭主をつとむ
石燈龍二基社の左右にあり、左臺石に、
自往古岟有靈石出潮池封 市杵島姫命奉祀
竪岩大明神恭祈国家安全郷中豊穣也
寛延二己巳季夏 奉寄付御神燈一基松村氏信宣拝
かくの如くほりつけ、右臺石に
奉寄付御神燈一基
竪岩大明神御寶前 稲井氏(21) 村谷氏 村隅氏 岩尾氏
寛延三庚午臘月
かくの如く記せり、(略)〔前掲知新集〕
寛延二年は1749年、三年は1750年。
国泰寺新開は、「藩政時代初期」には「白神社の南端の岩礁」まで海だったところを、「藩政期を通じて」埋立てが進められた土地〔wiki/国泰寺町 (広島市)〕。前々章「きりしたん新開」の隣接地です。「右臺石」に記載の「稲井氏」(前記原注21)や、前掲大竹の記す村上氏との関係性、続く村谷・村隅という村上氏類似の姓などの事実は──村上水軍末裔が「国泰寺新開の生みの親」、つまり異教徒から民間軍事力を行使して取り戻した寺域を自力で干拓していったとの記述と整合します。
「稲井彦右衛門芳春」という人のヒットはありません。ただもし福島氏の支援を受け大河地域に入り庄屋役を務めたなら、事実上の代官から実効統治の実力を得たことになります。その後さらに村上氏残党を吸収した、という想像は割と容易い。
Haken▷堅石:北を指向
原文をそのまま解釈すると堅石は「比治山御茶屋谷下村支配屋敷地」にあった訳ですから、大河とは無関係と解せるんですけど──
この記載について煙石雅男は『大河十軒屋誌』(平成3)で、竪岩が比治山御茶屋谷にあると記されているのは『知新集』の誤りで、正しくは大河御茶屋山にあると指摘し、『大河地域誌』(平成8)も同じ立場をとっている(22)。〔後掲中道2020〕
13 大河地域まちづくり協議会基本問題専門委員会 『大河地域誌――歴史と文化――』大河地域まちづくり協議会 平成8
16 煙石雅男 『仁保島 大河十軒屋誌』平成3(前掲書)
かく無理に解釈されるのは、後掲中道(2020)による経緯まとめの②1749年段階で堅石が大河に所在し、大河住民の鎮守となった事実と矛盾する、という理由からです。要するに、堅石が大河の内外に転入転出する説明が付きにくい。
ただ、②1749年段階の勧請者は「尾長天満宮神主渡部播磨」です。この土地は矢賀・牛田編(特論)で触れました。現・広島駅裏からはるばる神主を呼んでる。
またいずれにせよ、経緯まとめ③1909(明治42)年段階で、堅石は比治山神社に合祀されてます。
つまり、堅石にまつわる歴史は、北、それも比治山を向いています。
1909年の合祀で「県の命令」とされてるのは、比治山神社と大河側とで争いがあったとも想像されます。比治山神社は明治神宮や靖国のような官営ゴリゴリの社じゃないけれど、土地は国有と思われます※。県命令は争論の元を自所管地で管理するという懲罰的な裁定の趣旨でしょう。
※原典[4] “広島の歴史的風景” (PDF). 広島県立文書館. 2014年5月6日閲覧
[5] 原田敬一. “「万骨枯る」空間の形成” (PDF). 佛教大学. 2014年5月6日閲覧
この神社は、明治四十二年二月、県の命令により、比治山神社にご神体の市杵島姫命のみ持帰り合祀された。あとは鳥居を始め全部解体したらしい。〔後掲中道2020〕
13 大河地域まちづくり協議会基本問題専門委員会 『大河地域誌――歴史と文化――』大河地域まちづくり協議会 平成8(前掲書)
以上の解釈だと1909(明治42)年の県命令は、大河側からすると単なる横暴になります。その後、鎮守を奪われた大河側は経緯まとめ③④の丸石発見譚を……客観的に見て、おそらくでっち上げてまでして鎮守を復活させているのです。県と大河住民は当時「戦争」状態になったはずで、そこまでして県が突っ張ったのにはある程度の合理性があったはずです。
そこで本稿は堅石の当初所在地「比治山御茶屋谷下村支配屋敷地」を、文字通り「比治山の御茶屋谷の下村が支配していた屋敷地」と捉えたいと思います。
Haken▷比治山御茶屋谷
大河の「御茶屋山」とは別に、比治山にも「御茶屋谷」があったのだろうか?という疑問にまず当たります。
1699(元禄12)年までは存在したようです。茶寮で藩主が遊んだということは、江戸期に入ってですから約百年間はあった。
比治山の一溪に茶室を新築し、花木を植え……その眺望を佳ならしめ、藩主在国の時はしばしば此処に遊び幽邃閑寂の気を養う、元禄十二年閏年九月朔日に至り不用に帰し比の亭を崩解す、後世此の茶寮跡をお茶屋谷と称す、 広島市史・大正十一年刊〔広島市役所/編「広島市史」名著出版 大正11-14年刊(1922年復刻前版)←後掲こひちろうの独り言〕
御茶屋谷という地名が現存しないのがまた面倒ですけど、前掲「こひちろう」によるとその場所は比治山貝塚の付近、「段原交番の柳の西側」という。
該当する「谷」は、現・比治山下公園(→GM.)北のそれしか考えにくい。──ちなみに前章で触れた「比治山のドン」の鳴らされた陸軍墓地の直下です。
段原交番の柳の西側、近年造成された住宅地に、以前比治山女子学園があり、そば南側に庭のある古びた壊れそうな床がきしむ料理も酒も安い料理屋があって、運動部の学生たちの飲み会の会場に使われていた。
その庭の奥まった谷に(上記引用)〔後掲こひちろうの独り言〕
さてこの御茶屋谷なんですけど──古代に貝塚を遺す集落があり、近年まで小さな歓楽地があっただけでなく、比治山神社の原形になった社があった場所=黄幡谷と同じ場所と思われます。
比治山神社はもと黄幡大明神(おうばんだいみょうじん)と称し、比治山南の谷(俗称・黄幡谷)に鎮座されていましたが、江戸時代の正保3年3月(西暦1646年)現在の地(比治山麓)に移して鎮守社となりました。
藩政時代には稲荷町三組、東柳町、下段原村、竹屋町南裏、平塚、竹屋村などの産土神として祀られ、毎年正月には当時の藩府より門松を添木され、九月の祭礼には湯立ての薪木を寄附されるなど崇められていました。〔後掲比治山神社〕
「黄幡谷」名も地名には確認できません。というか、結論から言うと、この地名が消し去られていることこそ黄幡谷の実在証明でもあります。
整合していると思うのですけど……その説明をしてみます。
Haken▷黄幡神:羅睺 ラーフराहुः
前記中道(2020)経緯まとめ③1909(明治42)年の堅石の合祀先が、この比治山神社でした。かつ前掲のとおり、御茶屋谷にあった頃の比治山神社は「もと黄幡大明神」と呼ばれていた、ということは「黄幡」を祀っていたと考えられます。
謎の神、としか言いようがない。──通説では境界神、「万物の墓の方」又は兵乱の神という。神道ではスサノオと習合し、仏教での本地は摩利支天王とされる〔wiki/黄幡神〕。確実なのは、インドのラーフ (Rahu、ヒンドゥーराहु、漢訳「羅睺」) を始原とし、これはインド占星術の九曜(9つの占星惑星)のうちの架空惑星です。星野之宣も宗像教授伝奇考(第三集)file.14:彗星王・羅睺(らごう)編 (コミックトム 1995年11月号、12月号)で挑戦してますけど──宗教学的にはあまりに曖昧模糊なので、本稿ではこれ以上神性は論じず、当面、単にXとして扱います。
比治山神社の位置に話を戻します。同社が元あった比治山南麓から現位置・北麓へ前記のように移動した理由は、奇妙なことに比治山側由緒には語られたものが見つかりません。ところが広島市安佐南区山本の地誌にはそれが書かれています。
当東山本には徃昔より黄幡大明神を鎮祭したる黄幡神社といへる小堂あり。
然る所その後(年時不詳)何者か社内の御祭神たる黄幡大明神の御神体を盗みて廣島の比治山の上に持ち帰り祭る、而るに夜な夜な御神体より「山本へ帰る帰る」との聲ありて実に奇瑞現はる、遂に神社を東山本の方向に向けて建て祭りしかば山本へ帰るの声止みしと、此の神社即ち比治山の黄幡神社にて今日尚存す。比治山の黄幡神社の古記録にも当社の祭神は元東山本より遷座したる旨記しありと、而し年時は其記なし。〔武田庸全(立専寺住職)「敬神並宗教史」『山本史』昭和14(1939)年←後掲上西〕
つまり、比治山神社が比治山の北に移ったのは、山本から盗んで同神社に置かれた黄幡神が「帰る帰る」と騒いだのを宥めるためだった、という物語です。
ここで言う山本とは、神社としては仁保・比治山から約6km北北西の現・眞幡神社(→GM.:広島市安佐南区山本九丁目20-2)です。
前掲上西は、次の点から太田川デルタ北域・山本周辺エリアを、全国でも黄幡神信仰の最も顕著な地域と捉えます。
①広島市安佐南区に今でも黄幡と名のつく神社が何ヶ所かある(最大のもの:広島市安佐南区緑井五丁目25-5→GM.)
②姓「黄幡」が集住する地域は全国でほぼ広島市安佐南区東野(JR古市橋、アストラムライン駅中筋・古市の東側地域)しかないこと
※他同HP情報「広島県広島市安佐南区東野の堤平神社(旧:黄幡神社)から。同社は戦国時代の武士である福島元長が創建して1868年の神仏分離後に改名したと伝える。同地に分布あり。黄幡は広島県では「王番」とも表記して牛、馬、稲の守護神として信仰する神。」
──以上が主な論拠です。なお、その由来に係る上西の主張はこのすぐ西の銀山城を本拠とした武田氏が関わったとするものですけど──
③広島市安佐南区川内二丁目30(→GM.):黄幡神社の事例から、この地を拠点の一つとしたと推測される川之内水軍衆との関わり
も指摘します。
創建の時期は記述資料に乏しくて不明であるが、安芸国守護職である武田氏所属の川内水軍の総帥・福島大和守親長が、川の内堤防守護神として、北の庄堤防寄りに創設鎮座されたものと伝えられ、爾来(いらい)「おんばんさん」と呼ばれ崇拝されてきた。〔同神社社伝・案内板←後掲上西〕
ただし、例えば「黄幡神社」ワードでシンプルにググるとすぐ分かりますけど、この神自体は太田川流域ないし広島県でない地域にもポツポツ祀られています。
だから本稿では上記③に注目したい。というのは──ようやく話が戻ってきますけど──広島市南区北大河町23-17(→GM.)、まさに御茶屋山の推定地の北麓にも、黄幡神社(地元呼称。公式名:真幡神社)が存在するからです。
Haken▷大河の黄幡神と三代十郎兵衛
大河・黄幡神社は伝1617(元和3)年に大河住民勧請。
主祭神・泉津道守神(相殿神:塞座三柱神(八衢彦神・八衢姫神・久那戸神)と金山彦神)で〔後掲中道2020ほか〕、これは畑賀・黄幡社(地元呼称、正式名:大原神社、広島市安芸区畑賀町寺迫132番地)、福田・黄幡神社(広島市東区福田町→GM.)と同様の類型と後掲上西は確認しています。
即ち、仁保島が、とは言えずとも大河は黄幡神の信仰圏内です。かつ、比治山の南側にあった比治山・黄幡神社はその時代、大河方向を向く谷にありました。当時、比治山と仁保島の間700mほどは海で隔たっていたわけですから、この海域の海民が南北にまたがる信仰圏を持っていた、と解釈するのが自然でしょう。その域内に堅石も存し、かつ明治には比治山神社に合祀されたのです。
さて、この黄幡神信仰圏に一つだけ「海民神」という属性を帯びさせる必要があります。──この点は、大河・黄幡神社に建つ三代十郎兵衛之塚という碑から読み取れます。この「義人」の事蹟を記す碑文全文は後掲広島ぶらり散歩/三代十郎兵衛之塚 で確認できますけど、概略しますと──
三代十郎兵衛は寛政期(1789-1800)に大河に出生。始め水主町の御水師方の養子なるも、成人して身の丈2mを越し膂力も抜群、ついに藩のお召しで御手廻り御道具役。さらに籠夫となり参勤交代時に上った江戸で、将軍御前での角力で安芸藩力士が大敗した際に代打出場、将軍家お抱え力士ほかに完勝。本人は復讐を恐れ大河に身を隠していたところ、藩主に呼び出される。
「そちの望みのものは何でも適へる」との御言葉に十郎兵衛は夢見る心地して「別に望みはありませんが私の生地大河近海の海上権を下され」と申しました。候はこれを承知せられ佐伯郡地御前鰯浜より安芸郡坂村松ヶ浜に至る間の海上権を許可せられました。
爾来大河住民はこの海から多くの利益を得たのであります。(続)〔前掲碑文、大河文化財保存会昭和46(1971)年10月吉日〕
話が急に変な方向に進みます。天下無双の豪放な力自慢がいきなり海上権を欲します。
それにしても「地御前鰯浜より安芸郡坂村松ヶ浜」とは強欲です。試みに両地点間に線を引いてみると、太田川デルタの河口ほぼ全域を指すのですから。
この物語はまず間違いなく、海上権を独占しようとした大河の漁民が、三代十郎兵衛の有名にかこつけて、でっち上げとは決めつけないにせよ尾びれをつけてます。それはその後に続く、突然くどくどしくなる記述からも読み取れます。
(続)この時浅野候から賜った海上権の証文(御墨付)は金屋町の広寂寺に所蔵してありましたが火災の為焼失したと言われておりますが、又一説には後年になって浅野家に没収されたとも言われております。
この後、江波村等との争いが起こりますが肝心の証文がない為漁区がはっきりせず江波との紛争がたえなかったといわれます。
安政二(1855)年の大阪屋庄助の事件もその犠牲者の一人と云えるでしょう。爾して十郎兵衛のこの偉業によって大河住民は百有余年の間生計を支えてこられたことは実に大河の一大恩人と云うべきであります。〔前掲碑文〕
「大阪屋庄助の事件」がどんな事件かはヒットがなく、分かりません。ただここで江波の地名が具体に出るので、大河漁民集団の仮想敵は、上記図のように大河側が自主的に引いた海上権ラインでは完全に操業を否定された形になる江波だったのでしょう。
また、「金屋町の広寂寺」は現存します(→GM.)。現在地は稲荷町なので移転再建されたか、大河側の誤記の可能性もありますけど、前に触れた保田八十吉さんの墓がある寺で、京町通りのすぐ北です。当時の商業の中心地に大河側が持っていた事務所のような場所でしょう。
以上から抽出できる事実は二点です。
①堅石は旧・比治山黄幡神社=現・比治山神社の管理下にあった。(だから明治に本社が引き取った)
②大河の海民は江波その他海域の海民と烈しく争っていた。
山本から比治山に移された(盗まれた)黄幡神御神体は、その経緯や強硬度合いは想像する材料がないけれど、単なる信仰圏内の内部抗争と言うより海上(水利)権の争いを想像すべきでしょう。──没落するローマ帝国から宗主権を継いだ(と自己規定する)フランク王国、イングランド、神聖ローマ帝国をイメージすると近いかもしれません。──その結果、太田川デルタで優位な立場に立った比治山-大河海域の集団が、黄幡神の総本山(海)になった。
「比治山御茶屋谷下村支配屋敷地」、つまり旧・比治山黄幡神社の土地が海をまたいだ対岸の大河にあることは、比治山-大河が一つの海上勢力を成していた状況下では、何ら矛盾はないのです。
Haken▷安芸灘に海上権争いはあったか?
比治山-大河海民が山本から黄幡神の「宗主権」を奪った年代は、武田氏滅亡後の戦国末期かもしれないけれど、江波と海上権を争ったのは間違いなく江戸中期です。
多くの藩で漁民が浦に縛り付けられたと言われる江戸期、漁業権を巡る争いは全国で普遍的です。でもこの時期の
宮本は、安芸での海上権は要するに広域・公営的で、それが安芸各浦の高い移動性、ひいては明治以後の対馬・朝鮮に及ぶ躍進を準備した、と説明しています。
ところが中には加子浦の制度をやめたものもあった。広島藩や松山藩などがそれであった。広島藩にはもと加子浦があったが参勤交代が陸路を行くようになってからは、漁民たちがその水夫として狩り出されることは少なくなった。そのかわり今まで夫役として徴用せられていた加子役をお金でおさめることにした。そして広島藩では島や浦に住んでしかもちゃんと一戸前の屋敷を持つ百姓からこれを取り立てることにしたので、加子役料をおさめる者には一様に漁業権が与えられることになる。このような家を役家と言った。家屋敷を持たず、他人から借りて住んでいるようなものは、加子役はおさめなかったが同時に漁業権も持たなかった。
一方加子役をおさめる者は加子浦というような特定の浦の者ではなく、島か海岸に住んでいる屋敷持ち、土地持ちの百姓ならばすべて漁業権を持つのであるから、漁業についても、浦々を地先毎に小さく区切らず、広島湾ならば広島湾というようなかなり広い海域をその沿岸に住む役家たちに共同で使用させたのである。だから広島湾北岸の玖波、大野浦などのイワシ網はずっと南の倉橋島あたりまで、網をひきにいってよかった。つまり、その行動半径はかなり広いものであった。〔後掲宮本〕
安芸灘方面は広く「海の人民公社」のような状況だった、ということです。藩はその中での各浦又は地域集団の私有権的権利を認めなかったはずで、三代十郎兵衛が大河にもたらしたとされる大河漁民のみの地御前-坂全域の漁業特権など、藩が認めるはずがない。
三代十郎兵衛碑にある「後年になって浅野家に没収された」というのは、藩主が戯れに許可したこの特権が、後に藩政上問題視されて「なかったこと」にされた、という可能性もあります。
ただ時代状況を大局的に眺めれば──そもそも広島・松山藩がこんな全国的には突出した「社会主義的海上政策」を採らなけなければならなかったのは、それまで何百年と太田川デルタと安芸灘で海民の抗争状態を統制するためだったと予想されます。藩の過激な公式政策の裏側で、実態的な抗争が継続されていた、と想像することは出来るのではないでしょうか?
──という理解をとりあえずはして、議論を進めていきます。
mysterium 謎の大河民俗
と、ここまでは考えつきましたけど……その先に広がる事象の解釈は全く想像を絶しています。なので、以下は基本、事実あるいは謎の列挙になります。──ケイパビリティ(謎を謎のまま凝視する力)のある方向けです。本稿は「断章」のまま終わらざるを得ません。
mysterium1:はまりんだい、ちゃちゃぶこちゃん
堅石大明神は、地元・大河では「はまりんだい」と呼称されます〔後掲上西〕。──「奢りなさい」という意味だという。この地方では「筆者の祖父も同じ意味で『はまりんさい』という言葉を用いていた」〔後掲上西〕……と言うんですけど、相当広島弁がキツいと自認するワシは、この方言を知りません。
はまりんだい祭りと称して昔しは賑やかな祭りが行なわれていたと聞く。祭りの当日は誰れ彼れなくはまりんだい(金をつかって人にごちそうする)と云って大河浦内を歩いたとも聞く、一説には潮の満ち退きの運勢の神であると云い伝えられている〔後掲 大竹嘉治『廣島大河郷土史』大河文化財保存会 昭和50 P28←後掲上西〕
大竹さんが郷土史を著した1975(昭和50)年段階で、既に祭りがあったこと自体が伝承になっているらしい。開催時期などの詳細は分からない。
それにしても「誰れ彼れなくはまりんだい」と言って練り歩く、という行為は、果たして祭りなのでしょうか?「奢る」「ごちそうする」という語義は、この場合は命令又は依頼形でしょう。「お前のモノは俺のモノ」という語感だとすれば、かなりプリミティブな祭祀空間を幻視させます。
大河の祭りとしてもう一つ、やはり存在だけが語り継がれているものに「ちゃちゃぶこちゃん」があります。これはもう「七夕の川祭り」で舞われた、ということしか分かっていません。この名称も、広島弁として理解できるものではありません。
なお、以下の記述から思いついて調べてみると、次の出雲方言が見つかりました。「はまる」の方はほぼ音と語義が重なります。
共通語 おごる、奮発する、ご馳走する
用例 きょはおらがはまってやー わ。
用例訳 今日は私がおごってやる よ。〔後掲出雲弁の泉/は行【は】〕
【ちゃちゃこもちゃこ】
共通語 めちゃくちゃ
用例 縄をそげんちゃちゃこもちゃこね しーと、どげだい なー しぇん がの。
用例訳 縄をそんなにめちゃくちゃに すると、どうにも なら ない よ。〔後掲出雲弁の泉/【ち】No3〕

mysterium2:鬼舞
もう一つ、大河の民俗行事として有名だった舞踏に「鬼舞」があります。これは「亥の子」(いのこ)に先立って行われる清め、邪悪に対する祓いの意味だったものが、次第にイベントとして主体になっていったものらしい。
亥の子は、主に旧暦10月の亥の日に行われるが、その4~5日前の夜から色々な舞が舞われたという。舞の種類としては、鼻高「天狗」の舞、世の中が平定され東西南北をお払いする神楽舞、世の中をかき乱す大鬼小鬼の前にきずき大明神が現れ勝負する舞、鬼縛りと呼ばれる武士が鬼を退治する神楽舞などが挙げられている。〔後掲中道2020〕
地域によっては全く知らない日本人もおられるであろう「亥の子」というのは、主に西日本の各所に局地的に残る祭りです。
後掲「いちぞう」さんが「調査隊」と名乗り各地から投稿を募っておられましたけど、広島・岡山など山陽を中心に愛媛・滋賀まで広範な地域に、しかもかなり多様な形で残ります。古い「御玄猪」行事〔精選版 日本国語大辞典 「御玄猪」←コトバンク/御玄猪〕に根をもつらしく、この際に食べる亥の子餅は源氏物語※にも書かれます。
なお、漢典の関連記事としては賈思勰「齊民要術」(544(東魏武定2)年)に「雜五行書曰十月亥日食餅令人無病」とある。〔中國哲學書電子化計劃/齊民要術 卷第九(《欽定四庫全書》本) 同付番88 URL:https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=880118
※※宮本常一らは、亥の子が真宗信仰圏に普及したのは、報恩講と偶然時期が重なり同一視されたから、という説を唱えています。
後掲久保注17)宮本(宮本常一.1970.『宮本常一著作集9 民間暦』未来社 p282)は、「真宗地帯において亥の子の行われないのは、一つにはこの宗旨が雑修雑行を忌んだことによるのであろうが、この時期にこの宗派では丁度報恩講が行われるので、正月は祝わなくても報恩講は祝えといわれるほど、真宗徒にとって大切な祭りであった」としている。文化庁(編)(前掲書:527)によると、奈良県(五位堂)では、亥の日を「真宗の家ではホンコ(報恩講)といい御開祖に報いる日だという。浄土宗の家では亥ノ子といっている」とある。
少なくとも広島では、本質は子ども祭りだったらしい。
第2次大戦が始まってまだ間もない昭和16年頃、町の小学生にとって一年中で最も楽しい想い出に残る行事は、お正月と亥の子祭であった。その中でも上幟町、上柳町の亥の子祭は盛大で、鬼面や衣装や太鼓など競って、自分の町を自慢し合ったものである。〔注18) NHK広島放送局『わがなつかしの広島』(広島地域社会研究センター、昭和 55)P68~69 ←後掲中道2018〕
ところが。1813年、亥子祭に関する御触書が出されます。曰く──大人も混じって、「快く思っていない家に雑言を浴びせかけ言い争いをしたり、獅子舞になぞらえ人の家に勝手に上り込んだり」〔後掲中道〕するようになったという。なお雑言の戒めなど訓令的なものを除くと、具体明確な禁令としては「家之内江這入候事」なので、家宅侵入の上狼藉、という行為はかなり頻繁だったようです。
毎年町方子供相集り、亥ノ子祭りいたし候處、其内ニ者近年大人も相交り町内軒別石つきいたし、銘々心ニ不叶家々ニ而祝言ハ相唱、都而聞苦敷雑言等相唱、町境ニ而ハ爭論いたし、幷獅子舞なそらへ猥ニ座上へ舞上り、不行儀ノ趣ニ相聞へ候、殊御家中近邊之町々者、屋敷内舞歩行、座上江上り不敬不埒之次第茂有之趣相聞候ニ付、此已後ハ右躰之不行儀も於有之ハ、〇之役方兼而相廻し直ニ召捕セ候間、子供を持親ニハ別而厚ク申聞せ、已來ハ全十五才以下之子供斗り相集り、獅子舞等ハ戸口之外ニ而取扱ひ、決而家之内江這入候事不仕、往來斗舞歩行可申候、石つき等家々繁盛ヲ祝い可申、心懸り之雑言少シニ而茂相唱申間敷、若不埒之子供於有之ハ無用捨可申出候㕝 注15) 〔文化10年(1813)発「亥ノ子祭に関する觸書」(『御觸帳(堀川町)』)←後掲中道2018〕
祭の熱気に任せた騒乱に、ある程度の秩序を備えさせたのが現代の祭だというのはどこのものでも共通するかもしれませんけど──次の文章でも亥の子祭は子どものもの、と公には語っています。
大正五年頃(一九一六)、大河には十三の講があってそれぞれに亥の子祭の衣装と仮面が保管されていた。子供たちは祭りの数日前から、夜になるとその衣装を着け仮面を被って鬼舞いをしたり、太鼓を叩いて町中を回ったりした。太鼓を叩くのは亥の子の日までに病魔を払い出し叩き出すという意味である。
鬼舞いは家の前の広場にござむしろを敷き、そこで見る者も舞う者もすべてを行った。〔前掲大河地域誌「亥子祭」項←後掲中道2020〕
けれど次の聞書によると、少なくとも戦前の鬼舞は大人が踊っています。
司会者 戦争中はいつ頃までお祭りがあったのですか
(略)
船井(照) いいえ、祭りはありましたよ。私も甲種合格で担ぎました。そして、いつも鬼の舞ばかりさせられております。
(略)
船井(照) この鬼の舞は、父がやっておりましたが、教えてもらったことは一度もありません。
(略)
田村 一度や二度ではとても覚えられないと思いますよ。特に鬼の口上は紙に書いて残すぐらいにして下さい。〔大河小学校創立百周年記念事業実行委員会『おおこう』(昭和60)収録←後掲中道2020〕
同じ戦前期の小鷹狩丙吉さんの、これは亥子祭の記録では「ちょっとだけ気の荒い面もあったよ」(多少気荒の所あり)と認めてます。
當時家中と唱へたる、士分の内にも之催しを爲す家ありて、其行樂は前陳の市中に於けると同一なれど、多少気荒の所あり、他の團體と行逢へば、撃つや叩くの騒擾となり、殺風景を現出す。我白島にては一本木の、亥の子の賑ひ頗る盛況にして、夜中となれば身が入りて、大人達の遊びとなりし様に覚ゆ 注13)〔後掲中道2018〕
注10)「小鷹狩元凱翁略伝」(小鷹狩丙吉『小鷹狩元凱翁』京屋印刷所、昭和13)
「他の団体と行き交うたびに撃ったり叩いたりの騒ぎになる」(他の團體と行逢へば、撃つや叩くの騒擾)のを「多少」と記すのは、やはり戦前の感覚でしょう。
鬼舞と亥子前夜をゴチャ混ぜに書いてますけど※、要するに亥子前夜の騒乱で他團體に負けない、あるいは圧倒させるべく踊られたのが大河の鬼舞──としかワシには思えません。
ちなみに現在広島の自治体が観光用に復活させようと躍起の「亥の子突き」※は、この文脈で読めば単に「威嚇合戦」でしょう。勝った証拠に金品をせびった様が容易に想像されます。
何より、亥子の夜の広島市街には「鬼」が多発したらしいからです。大河の鬼はワンオブゼムに過ぎなかったと思われます。
あのころの胡町で忘れられないのは、秋祭りの「オニ」である。筆者がこどものころ遊んだ堀川町勧商場にも祭りのオニがいたが、せいぜい赤オニ、青オニ、それにキズキの三匹で、それをこどもたちがかわりがわり被って、沢園といわれた勧商場 の広場や女義太夫の定席八千代座横の、竹藪小路 をでたドブ川の流川筋まで近所のこどもを追っかけたが、一歩ナワ張りの堀川町をでて天満屋小路 を通って胡町筋に顔をだすと、もうイケマセン。というのは、この胡町には十匹ぐらいのオニがいたからである。〔原注10 薄田太郎『がんす夜話』たくみ出版 昭和48 P177←後掲中道2020〕
土地勘がない人のために書くと、胡町(→GM.)は現・電停だと紙屋町から3つ、広島駅から5つの市街ど真ん中です。保田氏の繁盛した京橋通りからは京橋を渡ってすぐです。亥子前後の広島の夜は鬼が山程、沖縄の耳切坊主みたいに「三ちゃい四ちゃい立っとんどー」状態でした。
そもそも亥子はそんな祭り
……と、この論調のままだと10月の広島には怖くて観光客が来なくなるかもしれないから──亥子は全国的にそんなものだったかも、という論を紹介して、少しフォローしときましょう。
京都府の口丹波では、11月の中の亥の日、子供は藁でいわゆる猪の子を造り、部落の家々を廻る(下図)。特に新婚の家を目指すそうだ。家々では牡丹餅を用意しておいて、子供たちに与える。またこの日は、子供たちは柿やわらの盗みを公認された。(垣田五百次「口丹波口碑集」『日本民俗誌大系』第4巻 1975)〔後掲おおたのページ〕

現代の警察視点からは反社会的だからなのか、点的にヒットがあるこの「子どもの悪事容認週間」が一定の網羅性をもった論考や図にまとめられたりしたものは見当たりません。ただ手応えとしては、下記事例も含めると滋賀・岡山・愛媛・広島と、つまり西日本に多い。
この事例に見られる様な子供の悪事は、岡山県などにもイノコアラシと称して、大根畑を荒らしまわる風があり、それらをことごとくに放免している点が興味深い。悪いことをしても咎められることはない、ということは言い換えれば、この日の子供たちは特別な存在であるということである。〔後掲おおたのページ〕
民俗学の視点からは、この慣習が「子ども」に限っていることに着目して、こどもの神性、脱社会性から説明することがあるようです。ただ、先の安芸での御触書や下記の記述からすると、年齢を問わず行なわれた「悪事容認週間」が警察統治側の規制を受けるうちに、大人が除外されるようになった、つまり引き算で子どもに限定されるようになった可能性もあるでしょう。
千ケ畑では、亥の子の日に、若者たち(青年会)が、畑を荒し回ったという。特に、村内で憎まれているような家の畑を荒らすのである。ところが、この日は亥の子の日なので、荒らされた家は、何も言うことは出来ない、とされている。子供達が亥の子をする日に合わせ便乗した若者の悪戯、という説明だけでは理解しがたい行為である。これは、実際悪さを行っているのは子供達より世代の違う若者となっているが、亥の子行事を広角的に捉えた場合、行う世代は大きな問題ではない。〔後掲おおたのページ/第3章/第1節 畑野町の民俗〕※京都府亀岡市畑野町(同公民館→GM.)。大路次川に沿って点在する土ケ畑、広野、千ケ畑の三村よりなる。
ここで「おおた」が語る点は重要で、悪事容認週間中の翌朝、所有者が例えば盗まれたと気付いた際、それが子どもによるものかどうかは断定できなかったであろうことです。容認されたのは犯人の子どもそのものではなく、「この時期だから子どもがやったんだよ」と悪事を問題視しない社会的認知だったと考えられるのです。
神事において神話が再現されるように、悪事容認週間には、過去の全面的な脱社会的状況が再現されたのではないかと考えます。大河鬼舞と、それを嚆矢とする近世太田川デルタに跋扈した鬼は、そのような民俗事象ではなかったでしょうか?
はまりんだい口上に語られる「出雲」
亥の子の祭の形態があまりにも多様なのは、先の宮本説(→前掲)にあったように、既存の悪事容認週間のような既存慣習が亥の子のペルソナ(仮面)を被ったからだと解釈できます。
宮中などの言葉が、民間に波及することはあっても、逆に民間の習俗が文献等に取り上げられるようになるのは、さらに後の時代、江戸になってからのことである。したがって、イノコという言葉については、もともと民間にあったものではなく、時期的な合致により、既に何らかの農耕儀礼または祭りを行っていた事が、イノコという言葉を伴う行事として変容し、定着していったものであろう。〔後掲おおたのページ〕
もう一つ。宇陀郡では亥子神を10月に祀る理由を、神々が出雲に集まる(各地方を不在にする)神無月(10月)に、この神だけが地方に
奈良県宇陀郡では、辨天のことを亥子神(イノコガミ)といい、出雲に行かぬからといって十月に祀る。すなわち居残り神だと説く者もある。(民俗学研究所編『総合日本民俗語彙』平凡社 1956)〔後掲おおたのページ〕
①「はまりんだい」(→前掲)の出雲弁類推に加え、②出雲に帰らない亥子神と、ベクトルも性格も違う二つの出雲色が抽出できました。
この前提で、関係者が重視していた鬼舞での口上の貴重な文字起こしを、長文になりますけど最後に紹介しておきます。
非常に戦闘的な荒神であると同時に、既存神道に敵意を剥き出しにする典型的な出雲神です。だから──ここでの「きずき大明神」(五箇所)とは出雲大社の古称しか考えられません。また四箇所も「出雲」が語られます。最も太田川デルタの海民の色彩を残す土地の一つ・大河で、なぜ、これほど出雲イメージが交叉するのでしょう?
口上 きずき大明神
出雲の国の大社きずき大明神とは吾ひとりのごとし
口上 大鬼
うおゝおーつきわく伝来いわつく伝来髪は御山 額はしゅせん山の草のごとく口広く鼻高き もののかたはいを草に聴く眼は明礬 鏡のごとく 鬼の大将とは吾れひとりなり
口上 きずき大明神
吾は年久しく伊勢の国天照皇大神宮に仕え申せし者 いま鬼ども多くはびこり世の乱れ鎮めんためにさしつかわされし出雲の国の大社きずきの宮 きずき大明神とは吾れひとりのことなり口上 大鬼
恐しや恐しや 口惜しやくちおしや この山で この山で長年住んで苦に勝る者はなし十年も住みつき ひとは酒呑童子と呼びてこのあたりの山々吾れに勝る者なしと言われし大鬼の大将とは吾れひとりのことか。
口上 大鬼
うおゝゝこの棒はこの棒は細き片割れ細き片割れ この棒は伊勢皇太神宮を御迷わす御棒にてこの棒をもって四方八方を招けばあたり四面の山々から四萬の宝がポッポッと飛んでくる。
口上 きずき大明神
出雲の国の大社きずき大明神とは吾れひとりのことなり 十日 十日に死体(屍)をとりにゆくぞ。
口上 大鬼
うおゝゝこの国はこの国はこの山はこの山に 十日十日に死体をとりにきたりきたりしてこの由来をもってして 小鬼の命がないとは あれれ口惜しや残念や命ありたし ありたし。
口上 大鬼
うおゝお口惜しや口惜しや 丹波の国は大江山近江の国は伊吹山に世々住居をなせし酒呑童子のむかしより、この国この山を支配して鬼ども多くしたがえて海内四方にかくれなく吾が威厳に伏さざる者なし。
口上
いま出雲の国のきずき大明神と調伏とは嘆かわしや猪口オや。近在の山々国々にこの鉄の棒、この棒に伏さざるものなし叶わざることなし。この鉄の棒は宝を打ち出す宝の棒にてこの鉄棒を麻幹のことに三度振れば四方の宝の山から宝がパッパッと飛んでくる〔後掲中道2020〕

①坂西 ②矢野 ③海田 ④府中 ⑤矢賀・牛田 ⑥中山・戸坂 ⑦仁保
【中間総括】残る、というか全然分からない諸点
戦国期以前の広島デルタ多島海は以下の点で、他の海人居住海域とあまりに差異があり、その理由が未だ判然としません。
この訪問を終えた後、その疑念を5点ほどにまとめています。記録をまとめた段階でこれに答えうる部分を連ねて自問自答FAQに仕立てる格好で、安芸編のとりあえずのまとめとし、筆を置きたいと思います。
1 外港の不在
Q1「広島」成立≒広島城域を中心とする干拓が進み、江波港が外港となる毛利時代以前、プレ広島多島海域の外港は全くなかったのか?
・仁保、牛田、草津?
・朝鮮通信使その他の記録でジャンプしているように見えるのはなぜか?
・神武東征勢力は十年以上滞在した後で西へ退去している。
A1
「コノセカ」で描かれる江波~草津間には、一面の遠浅の浜があります。
三兄妹が転げる場面の手前にはカブトガニまで泳いでます。また、その直前の夜の場面ではその浜が一面の海です。
これが、江戸期の干拓以前には広島湾一円に広がっていました。
かつ瀬戸内海の東西往来からは北に外れているから、あまり港を求められることなく、多くの船は蒲刈・音戸から周防大島へ直行した。
──というのが定説です。つまり自然状態では外港に不向きだった、とすればQ1・2・4は片付いていきます。干拓が進み、江波港や宇品港が出来て初めて海運上意味を持った土地である、と。
けれど、それだけでは矛盾する点が複数あるのです。──ならばなぜ、神武帝は十年以上も滞在したのか?大内氏と武田氏はなぜ草津・仁保・府中の争奪戦をしたのか?太田川は、濃尾平野の木曽川や大阪の淀川より、それほど致命的に扱いにくい川か?
だから、開拓前の太田川デルタに海民は相当数いて、内陸河川交易以上のことをしていたと考えるのが妥当です。何よりそうでなければ、多家神社だけでなく宮島や速水社が古くから栄え、清盛が本拠にした理由がない。
すると元の疑問に戻ってくるのです。
ただ、岩鼻(→015-5矢賀・牛田/岩鼻、猿猴川砂州、船津を所望した田所氏)や仁保島など、外港として使われた形跡のある土地も確かにあるのです。この点は、仁保島衆(→前頁/邇保姫神社-黄金山の大湾曲)のような水域をよく知った集団なら、江戸期の千石船は無理でも中規模船は入港できたのかもしれません。あるいはだからこそ仁保島衆について語られるように、水先案内を業とする集団も成り立ったのかもしれないのです。
2 主拠点の不明
外航交易の旨味を知っていた大内氏が当主自ら獲りに来るほどの場所なら、瀬戸内海の貿易港、特に大内氏の使用した港はどこだったか?
A2 ここまで見てきた田所氏(→015-5@矢賀・牛田【特論】/Haken2-1:田所氏──天湯津彦命から厳島国府上卿役まで)、戸坂氏(→015-6@戸坂【特論】/Haken03:中世に戸坂の武家の浮き沈み)や白井氏(→015-5@矢賀・牛田【特論】/安芸府中出張城白井氏小史)らの動静、また佐東廿日市(→015-6@戸坂【特論】/※「佐東八日市」の実証性)や戸坂船着(→同/Haken4-3:戸坂の船着はどこだったか?)の想定から、外港と内水港の位置はある程度割り出せました。太田川変流(→015-5@矢賀・牛田【特論】/一応の総括:17C初に大反転した太田川デルタ多島海世界)の前後で変化してるので大変読み取りにくいけれど、大内氏が絶え間なく触手を伸ばした方面を追うと明確です。中には府中出張城のように拠点を押さえた事蹟もあるのですから。
中世 :岩鼻
中世末〜近世:仁保島
(内港)古代:牛田?
中世:佐東八日市?
中世〜近世:戸坂
※北端:可部亀山
というところでしょう。
ただほとんどが毛利氏の文書を史料にせざるを得ないので、特に戸坂氏に見えるように、偏向を計算する必要もあります。
3 居住民の不可視
広島デルタの多島海域に海賊又は家船はいたか?
・その活動が史料上に全く残らないのはなぜか?
・いたとしても村上や蒲刈に比べ極めてマイナーなのはなぜか?
・八幡を祖とする神社だけが多いのはなぜか?
A3 毛利水軍の初期構成員は、五箇庄(中世太田川デルタの中洲群)に根拠を置いた川之内衆です(→015-5@矢賀・牛田【特論】/Haken4-1:毛利天文年間急造水軍)。その始原は出雲系だった可能性があるけれど(→本章:はまりんだい口上に語られる「出雲」)、定かではない。やや確かなのは、彼らはまず武田氏配下に緩く糾合され(→015-6@戸坂【特論】戸坂海民概史/武田元繁外九名連署状)、これを新興・毛利氏が厳島合戦までの短期に再編成した。山縣・福島・福井・飯田・熊野・世良といった勢力が知られ、戸坂氏もその色彩が強いけれど──元々階層化して大勢力を築く傾向が薄く、小勢力の烏合の衆の状態を積極的に維持し続けたため、史料的には極めてマイナーな存在になっていると思われます。
三原を領有し、村上水軍と連携して初めて形成されたのではありません。太田川デルタの元の村落・五か村も(出典が定かでないけれど)水夫が中心となって住んだと書くものもある〔後掲和田竜、広島県〕。史料に明らかなところでは、江戸前期に広島移封になった浅野氏の水軍雇用例があります(015-6@戸坂【特論】戸坂海民概史/浅野氏が雇った三百人)。
彼らが家船生活を営む海民であったとか、実態を語る史料は、全く無い。ただ砂州の広がるデルタという生活環境から考えて、それ以外に想像しようがないのも確かです。
4 海路の拒絶傾向
府中港最奥から戸坂(中山越)や温品(三田往来)の使用の形跡が、なぜこれほどくっきりと残るのか?
・遠浅で着岸に不利だったとしても、太田川の内陸水運がなぜ主流でなかったのか?
A4 記されたものは無い。でも理由は、そこが陸人にとって
危険という意味は、自然と人為の二面においてです。前者は太田川変流(1607(慶長12)年)まで西から市街への接続路が不安定だったこと。後者は、毛利氏が太田川デルタの海民を掌握するまで、海民が人と財に害を成した、ということです。──前者はかろうじて地学的に推測されるけれど、後者については実証は無い。例えば、海東諸国紀(申叔舟:1471(成宗2)年刊行)の安芸蒲刈海賊譚(→m19Pm第三十五波mm御手洗2/蒲刈の海賊首領の朝鮮語)の類の記録はありません。
なお、太田川内陸水運の記録が、無いことは無いけれど大々的でないのは、上記前者の自然条件、つまり太田川変流に相当する流域変動が中流域でも起こったからでしょう(→015-6@戸坂【特論】/Haken04-1:デルタ北部の古川と新川)。
5 広域神の希薄さ
地元神と思われる地域限定神がこれほど多いのはなぜか?
・その中でも住吉・宗像はほぼ皆無なのに、金比羅・天神が局所的に濃厚。ただし八幡(再掲)は普遍的に存在する。
A5 この点は非常に不明確です。全般状況としては、Q3に書いた小勢力乱立状況が長く続いたからでしょうけど、安芸灘周辺の地域限定神は土着神の色彩が濃い※。つまり、沖縄や西九州のような他地から絶えず異邦人の集団が住み着いてきた土地ではなく、人間集団の新陳代謝が極めて悪かったと思えます。
(矢野姫宮:大直日神→015-2矢野/おおなおび 港を記憶する風景
鶴羽根神社:朝櫻大神→015-5矢賀・牛田/鶴羽根社の朝櫻大神
邇保姫神社:邇保姫→015-7仁保島/逆さ征矢の突き立つ聖域)
だとすれば、平易に言うと安芸灘地域は長い間「入り込たくない面倒な地域」だったことになります。
けれども、にも関わらず、八幡神はかなり例があります。天神を、おそらく冠するものも多い。これを本章の亥の子に見たように、土着神が異端視されないようメジャー神のペルソナを被ったと見るべきなのか、海民に限っては他地からの流入があったとみるべきなのか──あるいはきりしたん新開(前々章「きりしたん新開」)の例に見たように、流入は激しかったけれどそれを疎外するパワーの方が強かったと見るべきなのか──判定がつきにくいのです。
とにかく現存の史料や研究に、どうにも中途半端さがまとわりついています。
日本史の中で、近畿と九州の橋渡しをして来た地域としてその解明が非常に重要と思われる地域なのに、その歴史がこれほど曖昧模糊としてる。
この地域には、いずれ再び挑まなければならないことは確かっぽいです。