m19Km第三十波m龍の玉龍の時間の環き島m3楚辺の路地裏@B面 (ニライF71)

■レポ:那覇の古・海岸線再考(ガーブ川):B面【解決編】

 前々章(後掲リンク参照)で触れた古波蔵一・二丁目付近の旧集落の位置は,与儀・寄宮エリアから徒歩圏です。
 観光客感覚だと,国際通りの奥のその先という感覚で,現地の住人からは当たり前かもしれないのですけど……これは城岳から船増原を訪れた際の実感でした。

船増原〜古波蔵一丁目間は約1kmしかない〔国土地理院地図〕

▼内部リンク▼(m19Km第三十波mm2古波蔵迷宮 (ニライF71)) ■レポ:古波蔵とはどこだろう?〔展開〕
戦後の古波蔵から奥武山方向の写真。埋立が未了なので1950〜60年代と推定される。手前の岬は古波蔵三丁目23辺り(→GM.)に当たる。〔後掲那覇市歴史博物館/古波蔵方面からみた奥武山〕

 両地点間には,北に城岳,南に沖縄大の丘があるから感覚的には高地で隔たってるんですけど──実際走った感じは,かなりなだらかでした。それで今回,地理院のアナグリフに落としてみましたら──

プロト那覇港最奥・シカンダーと古波蔵,第二の「浮島」の位置〔地理院地図/アナグリフ〕

第二の浮島と与儀-古波蔵地峡

 北から雪崩落ちるような谷が,与儀・寄宮から古波蔵交差点方向に走っています。
 古い時代に,この谷が水没していたという記録は見つかっていません。ただそうだったとしても,城岳以北は半ば那覇湾に浮く島……のような地形に,与儀や古波蔵の住人からは見えていたのではないでしょうか?
 この島を「第二の浮島」と捉えるなら,与儀〜古波蔵のベルトはひとつながりの湾岸,ではなくても地峡を成していたと考えられます。
 つまり,プロト那覇湾奥のシカンダー又は船増原まで来た山原船から降ろした荷は,陸路で簡単に古波蔵まで運び,現・国場川を経て内陸へ,漫湖・奥部島を経て沿海海路で南部へ容易に運送されたと想像されます。

長崎港と茂木港の位置関係〔地理院地図〕
 これは,長崎港と茂木港の関係になぞられると理解しやすい。この両港の場合は慣れた人でも片道で半日近くを要したようですけど(→実験:やまと編005-4若菜川\茂木街道完走編),交易の表港の裏口というのは,船乗りにとっては(おそらくは表裏を使い分ける上で)かなり有用だったようなのです。実際,薩摩人は茂木から上陸して,長崎港への途中に秘密交易場を設けます(→m145m第十四波mm南京寺/薩摩秘密屋敷への潜入路)。
 琉球の場合,あまり密貿易じみた事をやる必要もなく,久米からの往復路で補給を装っての交易は相当行われたでしょう(→前掲大城城/船舶補給基地としての儀間の風景)。




……と,大分店じまいする気になってたんですけど,もう一つ,古波蔵編で存在に触れた古波蔵阮氏のことがどうも気になりました。
 毛国鼎とともに第二尚氏の交易を盛り立てた盟友に「阮維新」という人がいます。中国語文献では「阮・毛二人」などと書かれ,時には毛国鼎より前面に出て活動したらしい。与儀の毛氏,古波蔵の阮氏という近世後期の支配氏族と,これがカブる事実は偶然なのか──この点はどうしても線を結びません。
 そうこうしているうちに,別の議論の発展性も考えついてしまったので……も少し,さらに強引に論を広げます。

彼方より国場に寄れる十二氏

 古波蔵の国場川上流隣は国場になります。
 国場というと建設会社のそれを連想しますけど──この家と国場集落との関係ははっきりしません。

嘉靖三十年〔1551〕三月三日生、万暦二十八年(1600)十二月二日、柔遠駅にて卒す。
享年五十。
遺骨は故郷の地に葬った。
立思は福建州府龍渓県人なり。
万暦十九年(1591)、聖旨を奉じて始めて中山に還し、三十六姓を補う。〔後掲国場家の興りと盛衰〕※原典 
大宗・國場家の家譜

 この国場氏は,はっきりと久米を本拠にしてるらしい。発祥が,とかある時代には実は……という可能性は否定できませんけど。
 では,国場集落には,国場氏以外の誰が住んでいたのかというと──21Cに入って「国場誌」という地誌が新たに発行されてて,与儀・古波蔵よりはるかに明瞭でした。

12の門中は、いずれも来歴すなわち、どこから来たのかがはっきりしている点が大きな特徴であり、国場村が集落として形成された過程を知る上でも興味深いものがある〔後掲レキオ・島唄アッチャー〕※原典 国場誌編集委員会「国場誌」国場自治会,2003

 根拠はないけれど……与儀・古波蔵も記録がないだけで,同様かもしれません。
 12門中(むんちゅう)がそれぞれ遠方から国場に移住してきた──その由緒が12全てについて語り継がれているのです。

国場12門中の渡来元伝承
東利江門中 ←玉城ミントン
稲福門中 ←中城村字和宇慶又は伊集 ※読谷にも拝みに行く
上里門中 ←西原町字棚原 ※仲井真経由
上嘉数門中 ←高麗 ※陶工・張献功(俗称・一六)を祖とする
大屋門中 ←豊見城村嘉数(ムートゥヤー有) ※豊見城村(現在市)長嶺城主長嶺按司の三男・真玉橋大屋を祖
城間門中 ←玉城ミントン(明東城) ※13Cに移住したアマミキヨの子孫を祖(伝)。国場集落のニーヤー(根屋),最大の門中。
名嘉門中 ←那覇湧田村。大宗は今帰仁から首里平良へ移った新垣家(伝)。
新屋敷門中 ←豊見城村字金良 ※大里村(現南城市)字島袋の高嶺家がムートヤー
新屋門中 ←豊見城村字金良
松尾門中 ←大里村字目取真
前ヌ識名門中 ←今帰仁間切上間村(現・本部町具志堅) ※第二尚氏尚円王の縁の同上間村・上間子(伝)
※(別伝)中城間切・喜舎場子が津堅島経由で渡来
大嶺門中 ←読谷山(現・在読谷村)波平村
〔後掲レキオ・島唄アッチャー〕※原典 前掲国場誌 ※※引用者が略記

 過半は本島中部一帯だけども,南部海岸や今帰仁,さらに朝鮮半島までがあります。
 不思議なのは,これら名家のみならず中国から庶民層の移住があったらしいことです。次に挙げる渡嘉敷三良の例は,前後関係から16Cと考えるしかない。国場では当時,彼を「唐大主」(うおうふすー)と呼んだと伝わります。そもそも現代も,渡嘉敷家は国場・登野城御嶽のすぐ下の赤瓦の家で生活されてます。

古老が伝えるには、中国の人が沖縄に来て、国俗(気候・風土・人情・習俗)を慕い、国場村に住みついた。やがて、妻をめとり、子をうんだ。後に、真玉橋の東で陶舎(焼物小屋)をつくり、瓦を焼き、資用(資材)にした。そのゆえに御検地帳(慶長検地・1610年)によって、琉球王府は、その土地を渡嘉敷三良(トカシキサンラー)にたまわった。これが我国(琉球)での焼瓦の初めである。その子孫は、今でも国場に住み、12月24日(旧暦)には祭品をおそなえし、紙を焼いて先祖をまつっている。〔後掲レキオ・島唄アッチャー〕※原典 国場誌による「琉球国旧記」(1731年編)和訳

 記述中には全く書かれないけれど,沖縄が気候がいいから,という程度の理由で移住するはずもなく,まして国場である必然性はない。外地の人が惹かれたのは国際色と賑わいを持った港町だったから,と考えるのが最も自然なのです。
 だから──

真珠道の道筋と沿道の文化財分布〔後掲沖縄県立埋蔵文化財センター※※〕※第4図 ※※以下「県埋文」と略

 国場の中世の社会的位置は,こんな風に首里からの真珠道の途中,と説明されることが多い。でも,その説明は,本稿で今問題にしてる「そこから人と物はどこへ運ばれたか?」という問いにぶつかって止まるのです。
国場川くねくね公園。男気のある子どもは育ちそうにない。

真珠道の由緒の常識を疑ってみる

 首里から国場を結ぶ真珠道は,真珠湊碑文(後掲展開参照)によりその設置年と目的が実証されています。

第二尚氏王朝、尚真王により着手され、次の王となった尚清王の時代に那覇港まで開通した。
 当時の順路としては、首里城を起点として、金城坂(首里金城石畳道)、識名坂(シチナンダビラ)、国場を通り、真玉橋、豊見城城、宇栄原、田原、垣花、屋良座森城(ヤガザムイグスク)を結ぶ、南回りの街道で、有事の際には南部方面の軍勢がこの道を通り、海洋からの外敵に備えるといったものである。〔後掲那覇市観光資源データベース〕

 主な記載の契機は真珠橋架橋で,
①嘉靖元年(1522年)という年代と
②その主目的=軍事展開の機動性向上 と
※「ま玉はしお わたり、下しましり ともに かきのはな※※ちに せいそろい。」
※※垣花→GM.

③副次目的=民間交通インフラ整備
※「くにの あんし けすの ため、又 世の御さうせの ために」
が記されています。
 ②の記述は文字数も多いので,軍事目的が主のように書かれることが多い※けれど,碑文の飾文的な筆致からして,これは嘘ではないけれど多分に虚勢ではないでしょうか。当時の大陸・明朝はかなり内陸にまで対倭寇の防衛施設を築いていましたから,「宗主国」明への統治能力のアピールです。王権の権威を集結軍勢の規模で高らかに唄う表現,と解した方が妥当です。
※軍事主目的説は沖縄県教育庁が1980年代には定説として採用している模様。

仲原善忠氏は、真珠道をつくった目的を、「首里城正門から真玉橋にいたるいわゆる真玉路を作ったのも、城の守備兵の一部を、迅速に送るのが目的であった。」としている。(略)国王尚真が首里城ならびに那覇港を防御する目的でつくった。当時の国を挙げての一大土木工事だった。〔沖縄県教育庁文化課「沖縄県歴史の道調査報告書-真珠道・末吉宮参詣道-」沖縄県教委,1984年 p38-48 :後掲レファレンス協同データベース/那覇市首里金城町の石畳道についての資料はないか。 より〕


 だから,②軍事目的の記述を重視するあまり垣花の地名を殊更に強調するより,先に記される③民間インフラ整備を実際の主目的と見て,首里からの接続先は碑文名「真珠港」=漫湖側那覇湾 だと捉えた方が実情に即していると思います。
 なお,真珠湊碑文(正確な表記は「眞珠湊碑文」,読み:まだまみなとひもん)の原文がなかなか見つからなかったので,以下にデジタル化しておきます。


迷宮集落の偏在と首里へ伸びるベルト

 もしかすると──ワシも観光客並みに那覇-首里間の「正面」について,とんでもない勘違いを鵜呑みにしてきたのかもしれない,と気付きました。そうだとすれば,おそらく鵜呑みにさせた張本人は第二尚氏,正確にはこの王朝の指導層だった久米出身の官僚集団でしょう。彼らが描いた「首里正門180度転換」以後の騙し絵に惑わされているのです。

【ツール】楚辺周辺の迷宮街路群

 まずはツールとして専用レンズを準備しましょう。
 前章本文で迷い込んだ島ちゃん脇の路地が,どのくらいの広がりを持っているんだろう?という興味から,主に自分の次回用に作成したのが次の図です。判定しやすい縮尺が合わなかったので地理院地図4枚を接合しています。

楚辺〜古波蔵にーちぇ付近の迷宮街路配置〔地理院地図〕

 前章で実際に歩いて通った道が,薄赤丸のゾーンです。では薄黄丸は,というと,細い道が不規則に湾曲しながら続き,その交点がT字路を成しているような街路区域で──言葉で書くと酷く恣意的に思えますけど,画像のイメージとしてははっきりと色付けし得る,いわばパターンの違いが,ご理解頂けるでしょうか?──逆にこのパターンが現代街路に比して乏しいのは,直線路と十字交差です。
 与儀十字路西から「にーちぇ」西まで,このゾーンは連なっています。
 ちなみに……同じエリアを「沖縄X」(航空写真)で見ても,全く判定できませんでした。上部構造物は他と差がないからでしょう。道の配置だけを純粋に抽出した図でないと,クリアに出来ないようです。
 さて,この迷宮パターンが楚辺に特異なものかどうか,もう少し範囲を広げて調べていくと,寄宮の……番地数が百番代の付近にも見つかりました。

迷宮パターンを定義してみる

寄宮百番代番地付近〔地理院地図〕

 この迷宮パターンは,壺屋で見かけた道の感じに似ています。あるいは,知念・志喜屋の感じです。現代のような土木機械の力がない時代に,微地形に沿って道を伸ばすと,直線と十字は形成されにくい。

 つまりこれは,後掲高橋(上記壺屋編参照)の言う格子形集落に対する「迷宮」形集落のイメージに近いのではないかと思います。

(再掲)最も注目すべきは、壺屋の集落形態が、曲線の道路網と円形や楕円形などの不整形な区画によって形成されていることである。 前章では「迷宮」という表現を使用したが、まさに「迷路」によって形成されている現在の壺屋の形態は、相当に古い時代にまで遡りうると推定しても大過はないであろう。 このような集落形態は、先述の名護市の真喜屋集落や今帰仁旧集落、さらに与論鳥の城周辺に残されている古い集落形態に通じるものと考えられる。要するに、沖縄島では首里王府の指令によって、かつての細胞状に区画された古い集落形態は、「格子状」の形態へと改変されていったが、このような格子状集落形態が壺屋集落へ導入されることはなかったと考えてよい。〔後掲高橋〕

 高橋さんの表現でも,格子状と迷宮状の明確な定義はない。けれど現実には人間の視覚パターンのレベルでははっきりした差別化は可能なツールだと感じますし,おそらくは現在破竹の勢いで進むAIの画像認識技術は近い将来その数値化を実現させると想像しますけど……現段階では人間の認識感覚に頼ったパターンの類似性を頼りにすることにして先へ進みます。

迷宮は与儀-寄宮から北東へ

与儀-古波蔵-寄宮付近の迷宮状集落配置の連なり

 今度はレンジに寄宮全域を含めてみます。青が迷宮パターンの所在です。
 黄色は,この連なり方から考えて,迷宮パターンが存在する(した)はずの●●●● ●● ●●●位置です。左上の与儀公園〜壺屋は農連市場地区防災街区整備事業(→前章参照)により,中央下の古波蔵北は与儀タンク(→前々章参照)跡でそれぞれ街区そのものを再開発された経緯を既に確認したエリアです。
 上地図の右端中央に文字がかかっている通り,寄宮の先(那覇市立真和志小学校→GM.の東)は住所表示が識名に変わります。ここから北東へ,さらに迷宮パターンは続いています。
識名-繁田川-首里付近の迷宮状集落配置の連なり

 連なりの方向は少し北へ回り込む様相なのは,繁多川の山陵と首里城のそれとの間には地図上で感じにくいほど大きな谷がある(→後日訪問:繁田川編)からです。何の材料もなければこの谷を跨ぐゾーンを想定しにくいですけど,現実に真珠道は跨ぐラインに設けられたし,今見ているパターンの連続も縦断しているのです。
このルートの首里城直下には民謡「赤田首里殿内」(→崎山御嶽/メモ)の赤田やその南の雨乞御嶽が含まれます。以前迷い込んで「??」を感じた土地です。首里の裏側にあたるこのエリアになぜこんな伝統地域があるのか──。

 以上二つの地図を並べると次のようになります。

与儀公園-首里とを結ぶ朽ちた糸

国土地理院地図(左右2枚貼合せ,首里〜那覇中心部)上の「迷宮状集落」の配置

 真珠湊碑文が「首里の王おきやかもいかなし天の ミ御ミ事に、(略)ま玉ミなとのミち つくり、はしわたし申候 時の ひの もん。この はしハ(略)くにの(略)けすの ため」と書く時の下衆(けす:庶民)とは,与儀〜古波蔵〜国場のプロト那覇港の集団のことだった──これが本稿の結論になります。
 当時の「首里の王」尚真王(下記展開参照)が,久米の「那覇」(ブラタモリ説に言う「オールド那覇」)ではなく,この時代の那覇(プロト那覇:与儀〜国場)と王都・首里を直結する道を拡張・整備した事業が,「真珠道整備」だったと考えます。



 前掲高橋さんの研究も,実は上記推論の傍証になりえます。高橋さんの作業は格子状集落の配置をマッピングしたものでした。この図には反転させると迷宮状集落配置と重なるものがあります。例えば,上記与儀〜首里のスケールで高橋さんの地図を切り取ると次のようになります。
 琉球王朝時代の「薩摩風」格子状集落は,琉球古来の迷宮状集落の新市街部分を拡張する際に採られた都市計画だったのではないでしょうか。

1920年代地図上の「格子状集落」〔後掲高橋誠一2008〕※図4 ※※凡例 ○:高橋による「格子状集落」位置 色塗:作成者追記による「迷宮状集落」ベルト

補論1:守礼門と逆さを向いた首里森御嶽

 もう一つの傍証として,首里側のアクセス痕らしきものがあります。アクセスというか,ゴール地点です。
 首里城最奥,首里城御嶽の中の「京の内」と呼ばれる森です。

(上)観光名所・首里城及び金城町石畳 (下)首里城御嶽及び京の内

 ここは本当に,清々しいほどに何も分かっていない場所です。
 にもかかわらず,アマミキヨが最初に造った琉球開闢の九御嶽の最後に数えられます(首里森・真玉森,原文は下記リンク参照)。また,おもろそうしにも多くの記述があるのです(後掲リンク参照)。格式だけがあり実在は確かなのに実態がない。

中でも城の南西側に位置する「京の内」は巨大な聖域となっていて、いくつかの御嶽が点在していた。京の内は首里城発祥の地との説があり、歴史的空間の構成上、最も重要な場所と評価されている。しかし、京の内の歴史性や空間構成などについての究明はまだ不十分であり、各方面からの学術的な調査・研究が必要とされている。〔後掲国営沖縄記念公園〕



 後掲県埋文の図などを見ても分かるけれど,何と位置さえはっきりしません。
 古文書にないというけれど,都城のこれほど大きな領域が文字にされないのは,「書かないことになっている」からとしか思えません。

京の内の範囲
 京の内には、前述したように広義、狭義の意味があること、グスク時代(12世紀前後~15世紀前半)の首里城がどのような範囲のグスクであったのか不明であること、城における京の内の範囲を示す古文書や古絵図、平面図がないことから現時点では一概にどの場所であるとは言えない。〔後掲国営沖縄記念公園〕※「広義、狭義の意味」については前掲展開最下部に引用した(→「京の内」語源解釈諸説)。

 ただ,研究者は首里城御嶽「本神」が京の内最南端●●●にあると見ています。後掲「追跡アマミキヨ」が「私たちの知る首里森御嶽は、遥拝所だったのだ。」と書くように,あれだけ首里城に押し寄せてる観光客が通常寄り付かない(ように誘導している)場所です。

首里城平面図に書かれる首里森御嶽本神〔後掲追跡アマミキヨ〕※画像は後掲県埋文の報告書原文より抜いた。
百人御物参(ももそおものまいり)で京の内を巡拝する神女たち〔後掲琉球王国の栄華を物語る 世界遺産 首里城〕

 データがない(発掘調査による現・判明点の詳細は後掲)ので,単純に考えてみます。この位置は──奇妙です。城内の拝所としては広過ぎるし,主軸から外れ過ぎてる。上記に「首里城発祥の地との説」とあるけれど,説どころか御嶽が首里城より前に出来たとしか思えません。でも,御嶽を城が飲み込んだとしても,城の構成上,御嶽があまりに無視され過ぎているのです。
 御嶽だけだった頃の●●●●●●●●●首里城●●●」が本稿で想定する与儀方向ルートにどんな意味を持っていたか……の仮説にはたどり着けていません。でも,京の内の配置が近世に想定された首里城の機能より明らかに南を志向●●●●している,ということまでは言えると思います。
 逆に言えば,南を向いていた※首里城以前の「首里城」は,ある時点(≒後掲1522〜34年?)から南からソッポを向いてしまったことになるのです。次のとおり,その頃までは京の内からの斜面に集落が栄えていたかもしれないのに,です。

時代くだって11世紀〜12世紀。首里城の南に位置する織名シーマ遺跡からは徳之島のカムィ焼きの須恵器が出土しており、グスク時代初期の遺跡と考えられている。
 また、首里城のすぐ南にある崎山御嶽遺跡や御茶屋御殿跡からは、13世紀後半〜14世紀の大和系瓦が出土している。
 いっぽう首里城の西、天界寺跡には、寺の造営前
の14世紀後半に、大規模な集落が展開していた。(略)天界寺の建立は、15世紀後半、第一尚氏の第6代国王・尚泰久王によるものという。
 つまり、その百年前、14世紀後半に大規模な集落があったということは、察度王が築いたグスクの城下町だった可能性が高いのでは…?〔後掲追跡アマミキヨ〕

イメージ:ヨーロッパの山城(ドイツ・マルクスブルク城)〔wiki/山城 険阻な山を利用して築かれた城〕
補論2:16C前半の首里城正面逆転の訳

 第二尚氏後期,概ね薩摩侵攻以降に,首里城はそれまでの南向きの構えを,北西向きに急激に転じていきます。
 観光的には王都第一の道路と称される綾門大道(あやじょううふみち)は,現・県道50号線(→GM.)と重なります。この西行道は1534年来琉の冊封使記録により16C前半には整備されていたと目されています〔後掲やんばるロードネット〕。真珠湊碑文に記される真珠道整備が嘉靖元年(1522年)。
 西方向:綾門大道へのインフラ整備の志向と南方向:真珠道へのそれを,琉球王府が同時に構想した──例えば漫湖側那覇港-首里-松川を縦断させようとした──とは考えにくい。
 尚真王は上記2時点の間・1527年に没しています。何かの事態が,それまで連携していた首里-与儀ラインを突如断ち切ったと推測するのですけど──

「識名坂を登りきり、風が抜ける丘の上で『ハ~』となってる戦前のオバさま達」〔後掲沖縄の風景/識名坂の石畳〕

 この転記を海域アジア編的に読み解くならば……という前提で,まあお聞きください。
 この時期は1553年以降とされる後期倭寇最凶期・嘉靖の大倭寇の一世代前です。──戦後の大密貿易状況が1950年代になってから問題視され,あたかも50年以前はなかったように語られるように,海賊の実際の興隆は秩序側が問題視するよりかなり早い時期です。
 琉球王国を「国家形態を持つ穏健・安定化倭寇」の裔と捉えると,16C前半の時代は,海上海賊が自分に比べどんどん過激化していく時代だったでしょう。いわゆる海洋王国琉球は,倭寇を排除●●して交易を行ったのではなく,微妙なバランスの上に倭寇を下部化又は周辺化●●●●●●●●して成功した経営体だったと考えるのが自然です。

15世紀初頭における尚巴志王統成立後、琉球は暹羅(シャム)・三仏斉(シュリービジャ)・爪哇(ジャワ)・満刺加(マラッカ)・蘇門答刺(スマトラ)・巡達(スンダ)・仏太泥(パタニ)・安南(ベトナム)等の各地と多彩な交易活動を展開した(『歴代宝案』)。これら諸地域の物資は直接間接に倭寇の手に渡ったに違いなく、倭寇は琉球と接触することによってその影響範囲を拡大することになった。〔後掲田中〕

 従って,正規交易港・久米にはいなくても,自由交易港・与儀〜国場には時と場合により海賊化する海民で満ちていたはずです。

密輸用の仕切りの中に貨物を積み込む密輸業者ハン・ソロとチューバッカ
「広い銀河だ。いつだって、どこかの誰かが探してるぜ…密輸業者を」byハン・ソロ
 国家形態の強化に自信を持てた尚真代,王国は後に後期倭寇と呼ばれる過激さを増しつつある海民に対し,下部化を強化しようと企図しました。それが首里と漫湖側那覇港の陸路移動を機動化させる真珠道整備(嘉靖元年(1522年))だったのでしょう。
 けれど,これに敏感に反発した勢力が二つありました。一つは被支配を嫌った海民,もう一つは非正規港の活性化を危惧した正規交易港・久米の商人群です。漢族を主体とした後期倭寇の場合,不幸にも両者の実態は非常に近かった。
 前者の,真珠道を逆登っての首里方面荒らしか,王宮官僚層を通じた後者の政治的圧力か,あるいはその両方かで,彼らは,真珠道の物流を露骨に妨害したのではないでしょうか。──後者は巧妙さ故に,前者は宗主国・明に琉球統治の不全を報告させないために※,絶対に記録には残らないはずです。

※この観点に立つと,例えば1453年の志魯・布里の乱によるとされる首里城焼失なども,倭寇集団の襲撃によるものを,政治的騒乱に絡めて隠蔽した可能性も考えられます。

 この時,綾門大道が大々的に正規ルートと喧伝され,国費が正式投入されたことで,首里城正面は西北に固定されます。南ルートは間道となり,その先の与儀〜国場の民間港も久米港の従属港湾として勢いを失い,やがて港だったことも忘れられるに至ったのではないでしょうか。その証拠に,真珠湊碑文が豪語してような「垣花湊に(軍船が)勢揃い」するような壮挙はついに実現することなく,翌世紀の薩摩・大倭寇による武装放棄に追い込まれます。
 真珠道整備は,土木工事としては偉業ではありながら,インフラ構想としては逆風を受け,物流の偏向を助長させる大失敗に終わった──という見方も出来るのです。

資料:首里城京の内発掘成果概観

 京の内では,1994〜97(平成6〜9)年に沖縄県による大規模な発掘調査が行われました。この時の出土品は膨大で,まだその整理と研究が継続中(2018(平30)年現在)。
 以下,2018年同出土品展資料から現段階での主な成果を抽出します〔後掲沖縄県埋文〕けど,前述部までで触れなかったとおり,本稿の議論を決定的に実証する材料はありません。

※後掲「追跡アマミキヨ」は,この発掘調査の際に発見された高楼(高ヨザウリ:高世層理殿)の建物が北向きに建てられていたとし,重視した議論をしています(北へ備える防衛施設と推定)。ただ「北向き」の事実は,①少なくとも前掲2018年県埋文報告書には記載されていないこと,②火災焼失が推定される倉庫から「南側の入口から北に向かって下りる階段も3段確認」されたことから,本稿では建物群の方向については断じる材料が乏しいと捉えています。

京の内跡出土品の「集合写真」(2000(平成12)年)〔後掲県埋文〕
首里城京の内関連年表・前半〔後掲県埋文〕
首里城京の内関連年表・後半〔後掲県埋文〕

【紅釉水注】中国磁器のバリエーションと希少性

 出土陶磁器の数は518点。うち中国産は427点で,点数で総数の8割を越えます。
 これは数だけでなく,バリエーションが凄い。元代の八宝文大合子(はっぽうもんおおごうす)や龍文高足杯(りゅうもんこうそくはい)が出ているし,明代の紅釉(こうゆう)水注は世界で四例を数えるのみ(他は故宮(北京)2,景徳鎮1)。

紅釉水注〔後掲県埋文〕

このような大型製品や希少な器種製品は、今帰仁グスクや勝連グスク、久米島の具志川グスク等、他の大型グスクでも見られますが、京の内跡の物量とバリエーションは圧倒的です。〔後掲県埋文〕

 当時にあっても高価だったと思われるこれらの陶器は,何のためにここにストックされたのでしょう?
 王の権威の象徴,中国使節への顕示,御嶽への供物,いずれの意味でも過大に思えます。喜界島の城遺跡のように海賊の宝物庫としてストックされたか,あるいは旧使用者の「穢れ」として地に封じたかのように解されます。

【大型備前焼】岡山の巨大壺はなぜ埋められたか?

 琉球での出土例は14世紀末~16世紀初め頃に生産された擂鉢(すりばち)が多い。ところが京の内では,大型の甕(かめ)や壺が出土しており,これは他では首里城跡や天界寺跡(第一尚氏菩提寺)に限られます。

京の内出土の備前焼

 琉球での備前焼の用途の定説としては──

出土量は首里城跡やその周辺寺院に集中しており、各地のグスクや集落遺跡ではわずかであることから、王城を中心とした文化的ステータスを示す道具であった可能性も指摘されています。〔後掲県埋文〕

というのがあります。ただそうならば,それはなぜ京の内に埋もれた●●●●状態だったのでしょうか?

【ブリラム窯壺】壺はイサーン 中身は琉球古酒?

 出土陶磁器の点数で中国産に次いで多いのは,タイ産。特に黒褐釉陶器の四耳壺(しじこ)が目立つといいます。産地は中北部のシーサッチャナライ窯や中部のメナムノイ窯の製品が大半ながら,東部ブリラム窯産の壺が1点確認されています。

日本国内におけるブリラム窯製品の出土例は、現在までのところ首里城京の内跡以外では確認されていません。〔後掲県埋文〕

京の内出土のタイ産の壺類

これらの製品は、大中小の3サイズに規格化されており、お酒など、なんらかの物資を収めて運搬した容器(コンテナ)と考えられます。『歴代宝案』(琉球王国が1424年~1867年に亘る外交文書を編集)などの文献には、タイの「香花酒」(こうかしゅ)というお酒が琉球に運ばれていたこと、また、冊封使を接待する席で、タイのお酒が提供された記録などが残ってます。〔後掲県埋文〕

 東恩納寛惇の持論に,琉球泡盛は同じくタイ米と黒麹菌を原料とするこのタイのローカル酒※が発展したものというのがあります(「泡盛雑考」「南洋各地との交渉」など)〔後掲琉球泡盛とラオロン〕。

※現在のタイでのシェアは少なく,北部(≒ラーンナー)や東北(イサーン)に局地的な食文化という。最も近い「ラオロン」酒のうち最もメジャーな銘柄は「ルアンカーオ」で,値段は80バーツ(約250円)。この酒を,なぜ当時の琉球人が好んだのか,まるで想像できません。

【兜鉢立物飾】県埋文呼称「瑞雲日月星文」

兜鉢立物飾(かぶとばちたてものかざり) (上)兜鉢の立物,発掘ママ (中)県埋文による図上復元 (下)推定復元の兜鉢立物飾りの解釈〔後掲県埋文〕

 上記は県埋文が29点の破片から復元したものです。実用性が薄いのはもちろん,日本でも中国でも全く見かけないデザイン。これを何と首里城内で「量産」していた可能性があるという。

この意匠は、本土での類例が確認されていないことや、首里城西のアザナ地区の発掘調査で京の内出土品と同一サイズで鍍金(めっき)のある立物飾り金具破片が出土している状況などから、城内で独自に製作されたものと推定されます。本土から輸入された鎧や兜の中には琉球独自の意匠を追加して儀式などで使用したり、あるいは中国へ琉球王国の製品として輸出したものがあったことが考えられます。〔後掲県埋文〕

 祭祀目的だとは見当がつくけれど,それを複数制作していたというのはどういう意味なのでしょう?
 県埋文はおもろから首里城内の祭祀は武具を多用するものだったと推定し,この武装を「祭具」に位置付けてます。

一きこゑ大きみきや/あけのよろい めしよわちへ/かたなうちい/ちやくに とよみよわれ/又とよむせたかこか/又月しろは さたけて/又物しりは さたけて
一聞得大君ぎや/赤の鎧 召しよわちへ/刀うちい/大国 鳴響みよわれ/又鳴響む精高子が/又月しろは さだけて/又物知りは さだけて〔後掲wikisource あおりやへが節No.1-5(5)〕

 おもろ冒頭のこの「あおりやへが節」群は,ひたすらに
聞得大君=「鳴響む精高子」
の権威を唄う。ここに前記の武具(武威?)に加え,「しま まるく」(平和?平定?)とともに「けよのせち」(京(の内?)の霊力(セヂ))や真玉森が連なるのは,朧ながら京の内の性格を物語っているようにも思えます。

一きこゑ大きみきや/けよのせち やりよわは/しま まるく/みこゑしやり おそわ/又とよむせたかこか/又しよりもりくすく/又またまもりくすく
一聞得大君ぎや/京のせぢ 遣りよわば/島 丸く/御声し遣り 添わ/又鳴響む精高子が/又首里杜ぐすく/又真玉杜ぐすく
〔後掲wikisource あおりやへが節No.1-8(8)〕

【チョウセンサザエ製埋納容器】カリオストロの首里?!

 以下の点は,研究者にとっても純粋な謎らしいのです。
 曰く,1996(平成8)年の京の内発掘場所の一つ,「御嶽跡の基礎石直下」から中国銭貨が6枚出土(嘉祐元寶:北宋ほか)。同じ場所から「2つのチョウセンサザエが組み合った状態」のものが発見されます。
 当時の琉球では銭貨が宗教的意味を持ったと推測されるけれど(県埋文は地鎮の趣旨を想像),そこになぜ貝殻容器があったのか,よく分からないまま──18年後,2014(平成26)年になって出土品整理の作業員に「誰かがいたずらして貝殻に金紙を入れていますよ!」と笑いが起こったという。精査して初めて貝殻の穴の奥から金銭(厭勝銭)8枚が取り出されるに至ります。

(上)チョウセンサザエ製埋納容器 (下)内部に埋め込まれていた金製厭勝銭(上列:釘孔銭 下列:方形孔銭)

 これらの銭貨は何を意味するのでしょう?他の調査報告に

石敷きSS03からは「皇宋通寳」(こうそうつうほう 北宋:1038年初鋳造)の銭型が発見されており、首里城内で模鋳銭(もちゅうせん)が造られていたことを示唆する貴重な資料と考えられています。〔後掲県埋文〕

というものもあります。模鋳銭と書くと聞こえがいいし,近世までの東アジアにその禁制は実効性を持ってなかったとはいえ──私鋳銭,現代的に言えば偽札です。
 私鋳銭を国家規模で容認するケースは,特に日本銅貨が流出した18C以降の東南アジアが有名です。

ベトナムの歴史において最初に鋳造された銭貨は、丁朝(968年)の「太平興寳」であり、以降、ベトナム最後の王朝阮朝の保大帝までの各王朝では方孔円形の銭貨を鋳造、使用すると同時に、中国銭や日本銭も流通していた。ベトナムの史書『大越史記全書』では、1460年代から私鋳や撰銭を禁ずる記事がみられるようになり、私鋳銭が相当量流通するようになる。〔後掲阿部〕

京の内出土の皇宋通寳の模鋳銭銭型〔後掲県埋文〕

 ベトナムでは相当後代(18C頃)までの私鋳銭が相当量に上り,長崎でも貿易銭が鋳造されたことを考えると,この琉球産中国貨幣が交易に使用された,あるいは使用しようとした可能性は考慮に入れる必要があると考えます。
ベンチェー省フックミーチュン村の畑の中で発見された一括出土銭中の銭貨の時代別明細〔後掲阿部〕

【前首里城遺構】14世紀前半から中頃の築造痕

 第一尚氏,あるいは察度王朝による首里城建設以前の遺構について,報告が存在をほのめかしつつ具体的成果に触れていないところから,この部分の研究は今も継続されていると思われます。

京の内の遺構全体図(西半分のみ)〔後掲県埋文/2012報告書 図版26p第6図〕

京の内跡からは首里城が王城となる以前の14世紀前半から中頃のものと考えられる遺構(土壙SK03及び野面積みの石積み)や遺物が発見されており、グスクとしての歴史を考える上で大変重要な成果も得られています。〔後掲県埋文〕

京の内北地区第Ⅰ期(14世紀前半〜後半)遺構の推定復元・拡大〔後掲県埋文2012 図版30p第7図〕

 本稿の立場から興味深いのは,後代の久米官僚群ですら「王朝」にカウントできないようないかなる勢力が,首里城の基となる建築群を築いたのか,という点です。
 海上勢力がその根拠地を港に連なる山上に置く,という発想は瀬戸内・村上氏の例を見る限り決して突飛ではないと考えるのですけど──この点は,本章で追った漫湖側那覇港との朧な糸を除き,補強材料が流石にありません。
芸予諸島の村上氏城郭位置図(上)と青影城域の拡大図(下)〔後掲お城散歩〕

{余談}真玉森グスクの洞窟のジェノサイド伝承

 後掲県埋文は,月に二度の「お供え」の儀式をしながら発掘作業を行ったと書いています。さもありなん,と思わせるこの「怪談」を最後に転記させて頂きたい。
「真玉森グスク(真玉森御嶽か)」とキャプションのある写真に添えられた「怪談」なので,記述はないけれどおそらくここの洞窟のことなのでしょう。
 第一尚氏王家が京の内で殺害された,とする伝承は確かに伝わっているものらしい。

その洞穴は、壁面に漆喰が塗られ、床面は塼せん瓦敷きで、西側には切石積みの入口と階段が確認されました。ある日、洞穴の側で休憩をとっていると、女性の作業員が「Kさん、洞穴の側に着飾った子供と女性が立っていてこちらをみていますよ。」と言ったのです。これを聞いたとたん私は青ざめてしまいました。なぜなら、この洞穴は第一尚氏王統末期の革命の際、尚しょうとく德王の世子・王妃・乳う母ばが避難したが、追っ手に見つかり殺害された場所と言われているからです。
 それ以来、私たちは旧暦の一日と十五日は調査現場で線香とお供えをし、無事に発掘調査を終えることができました。〔後掲県埋文〕※記載者個人名はイニシャルとした。

2019.09-20.01ぐぶり
さびら

「m19Km第三十波m龍の玉龍の時間の環き島m3楚辺の路地裏@B面 (ニライF71)」への4件のフィードバック

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