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城壁を探す勿れ。 重慶城は高低差の 中に隠れてます。 ここ,地理好きには 堪らない古城です。 |
1230二1寛窄巷子 2春熙路 3文殊院 4重慶入り
1231三1通遠門まで 2馬啼街の階段 3解放西路 4元通寺の階段 5下洪学巷 6白天の小什子 7江北城
0101四1嘉濱路 2公園路 3磁器街 4貴陽入り
0102五1電台街 2三民路 3中山西路 4蔡家街-炉国路線 5貴陽夕刻
0103六1普陀路から余家巷 2虎門巷から余家巷 3余家巷黔灵路以南 4長沙入り
0104七1学宮街 2接貴街 3藩城堤街 4一周目 5二周目 6二周目豆鼓園巷 7二周目衣铺街 8三周目 9長沙之夜 [特]道別写真集
0105八1四周目 2五周目 3五周目無名檳榔
0106九1北巡 2南巡
0107十1長州
支出1500/収入1700
負債 200/
[前日累計]
/負債 306
§
→十二月三十一日(一)
0906老麻抄手重慶小面
老麻抄手250
1135洪記特色面
精品肥腸面300
1505長寿面
特色肥牛面(二両)300
1713秦雲老太婆摊摊面
碗雑面300
2300沁元 桃酥300
[前日日計]
支出1500/収入1500
負債 0/
[前日累計]
/負債 306
§
→一月一日(二)
GM.(経路)
※ B地点はここのはずがないけど自信がないのでそのままにしてます…。
目録
どういう選択だったんだろう?
結論めいた感想から言おう。
これまで歩いた中で,坂の面白さでは,長崎の次にエキサイティングな町でした。
ポイントは高低差。中洲の中央部が,周囲を巡る川の水面から50m近く高い──という点だけなら長崎以上です。
0818。宿を連泊にした。
世貿ビル一階,好利来holilandの前に立つ。
▲0820世貿前交差点から,既にぐおんと登る坂が見えてます。
想像以上でした。ここから見るだけでも面白い地形です。
交差点に入る道が,どれも傾斜も幅も湾曲度もバラバラ。
どういう選択でここを新市街の中心にしたんだろう。
なのでいきなり迷う。でも武者震いに近い迷いです。
大世界酒店前のこの道は邹容路ZOURONGLU。難しい,謂れのありそうな字。なぜこんな字がここにある?
──邹は鄒(すう:ピンインはzou1)の簡体字。漢姓の一つ,つまり表意文字ではなく固有名詞。由来は,何と不明。同名の佳人の意だろうか。
これは…とにかく歩き始めるしかなさそうです。手始めに対面の坂を登ってみよう。
とにかく激戦地を目指そう
当座の目標地点は通遠門に据えてました。
重慶城には17の城門があったと伝わる(→巻末小レポ:重慶の門)。世貿のある解放路の商業圏辺りが臨江門。地勢からしてこれが北側中央と見る。
中洲東端,秦が最初に築いた城砦の辺りが朝天門。
これに対する西側,中洲の頸部が外敵のほぼ唯一の侵入路でした。つまりどの防衛戦でも激戦地となった最前線の門が,通遠門です。
重慶二十九中学の行き止まりと大井巷
さてこの日の初っぱな,取り付いた坂は──
ええっ?行き止まり?
重慶二十九中学と書かれてる。それはいいけどこのままじゃ朝から縁起悪いので…
見渡す。邹容広場と書かれた方へ行けばどうじゃ?ゲートをそっと抜けて私道っぽい湾曲路を進むと…大井巷社区委員会。妙な曲がりに妙な煉瓦の跡。けれど…
ほら抜けれた。でもここは普通に見れば庭先だな。
ほら出れた,はいいけど…既に分からん。どこだこの道は?
臨江路であろう。そういうことにして左折南西行。
この道に公厠を見た途端催して,結構キレイで個室型のトイレなので座る。かなりな下痢ピーです。──とこの時はあまり原因に思いを巡らしてないけど,まず間違いなく重慶麻辣の内臓への刺激ゆえです。
出てきたトイレの北対面に大井巷という表示のゲート。
気になる。
人の往来もある。
少し入ってみたけど,もろ社区。抜けられそうにない。
鳥瞰図を頭に描いてみる。
この位置関係は…?
さっき道を塞いだ59中学が出来る前には,最初の坂道がこの巷に続いてたんじゃないだろうか?そしてそうなると,社区以前には北にも道が続いてたのでは?…古道の疑いが残ります。けれど後で見ても,既にGoogleマップ上ですら追えないような細い道。最早その謎を追うことも難しそうです。
そのまま南西行。
老麻はホントにものすごく辛い!
▲トイレに貼ってあった古写真。キャプションが無くて分からんけれど,この辺りの斜面をこういう民家が埋めてたらしい。
民生路に出たのか名前が変わったのか,とにかく歩いてる道が民生路になった。
0857西行。
緩い下りとなる。南にはJW MARRIOTが聳える。
けれども北には庶民店並んでる。どれも半地下の家です。つまり古い町並みで,道路の盛り土が高い。
その中に,客足のある店を見つけた。これを見逃す手はない。
0906老麻抄手重慶小面
老麻抄手(二両,老麻)250
小さいけれど店内はパッと清潔感ある白基調。
「老麻」が大辛みたいな意味らしいのでそれを注文。「老麻是特別辣」(ものすごく辛いよ)と言われたけど…ここは男子である。強気に「可以!」
と勢いで答えた後で昨夜の味覚記憶が蘇る。やや緊張気味に碗を待つ。
ちなみに「炒手」は馄饨,つまりワンタンの四川での謂いです(→ワンタンの呼称変化)。
旨い!皮もプリプリ,肉汁も鮮やか──なんだけど,コ…コレはあ~!ア~!!
辛いなんてもんじゃないぞ。痺れが頭のてっぺんまでジンジンと来るぞ。そのうち唇まで痺れてきたぞ。
いいのか?これホントに食い物なのか?
──結構な人気店らしい。皆さん淡々と食ってる。常連さんは担々麺を頼んでる人が目立つ。抄手は観光客が多いみたい。
でもこれは…これは痺れの中に,きちんと味覚は来てます。痺れの中の味覚は,何というか異次元世界でこの世の日常を見るが如くに少し違う旨さになる,そういう感じです。確実に,初体験の味覚世界でした。
…ヤバい味覚という自覚はあります。
あと豆乳は無料で飲み放題。でもこの豆乳の甘味がまた辛さを一層新たにして──ヤバいぞこの味覚は!
バス停・七星岡
炒手の前は既に登り道だったと記憶してます。
0929。何がある訳でもないけど好い木陰の坂道です。軽快に登る。歩道の幅はやや広がって,通行人も増えた。丘の上が居住区なんだろうか。
奈落へ落ちていくが如き坂が道の右手,北西に出現する。
降りてみたい階段道です。
でもこの時は,通遠門のある丘へ登りきる方を優先しました。
ただ急坂への下降は,この後たんまり味わえることになります。
七星岡のバス停に着いた。
地下鉄駅の七星岡はまだかなり西にある。移転前の地名なんだろうか?──とすると逆に,「七星岡」に変わる前の地下鉄駅付近は何だったんだろう?
とにかく南に渡ろう。
…あ,あれなのか?ちょっと首里城の感じに似てる丘上のごちゃごちゃしたグレイの建造物が見えてきた。
あった!看板には「通遠門及城墙」と書いてある。
■小レポ:重慶の門
重慶地下鉄七星駅から捍卫路(→GM.)という道が弧を描いて北へ伸びてます。この東側地中には石黄隊道(トンネル)。
このトンネルの通る丘が通遠門のある西の要地。捍卫路の弧がかつての重慶城の西側城壁ラインでしょう。
この城壁が南北の川沿い崖上を辿り,中洲東先端の朝天門に到っていた。
攻撃側は西しか攻められない。通遠門の丘がいかに凄絶な攻防の地になったか,容易に想像できます。
「七星崗」は現在,「鬧鬼」(騒がしい幽霊)の地として重慶七大心霊スポットに数えられているそうです(下記每日頭條参照)。開発の際の移転を経ているけれど,無縁仏墓があるらしい。恐らく,攻防時には通遠門陣地の最前線砦だった場所です。
「每日頭條」は,重慶人は乾杯の音頭に「七星崗鬧鬼!」と発声するそうです。つまり,通遠門での兵士は今も英雄視されてる。地下鉄駅名にもなっている地名は,この四語に続く「上清寺鎮邪」からなる成語から来ています。
当時の地獄絵を今に伝えるものでしょう。ただ,かの地獄絵は有史以来,少なくとも3回繰り返されてる。
※ exiteニュース/<コラム>面影がほとんどない重慶日本人租界地
「重慶本城(江州城)は北東部「朝天門」から西部の「通遠門」間の岩山を利用した要害の地である。江州城は朝天門、東水門、太平門、通遠門など17の門から成り、支城として嘉陵江対岸になる江北城と西部の山城の三つから構成されていた(地図1)。この岩山を長江や嘉陵江の河側から攻めるのは不可能に近く、西側から攻めるしかない。」
※ 大陸西遊記/重慶市渝中区
▲重慶城平面図(門名入り)
※ 每日頭條/號稱重慶七大鬧鬼之地之一「七星崗鬧鬼」的來歷
「重慶人喝酒的時候喜歡划拳,有一個耳熟能詳的酒令叫「七星崗鬧※※鬼」。其實這是一句重慶言子兒,而且只是上半句,下半句叫「上清寺鎮邪」。據說七星崗以前鬧鬼,後來不鬧了。為啥?就是因為修了菩提金剛塔。」
※※ 鬧:
1形容詞 騒がしい,やかましい,にぎやかである.
2動詞 騒ぐ,騒ぎ立てる,面倒を起こす.
※※※ 同/重庆老人都知道的七大灵异之地,据说闹鬼传闻都和它们有关!
■小レポ:ワンタンの呼称変化からの怖い推論
「ワンタン」の広がりと呼び方の違いは色んなところに書いてあるけれど,概要,こんなところらしい。
餃子
≒ワンタン
=(北方~浙江)餛飩 ※簡体字:馄饨
⊃大馄饨
⊃小馄饨
=(広東)雲呑 ※漢字の違いのみ。粤语。
=(福建)扁食 ※扁肉とも
≒(福州)肉燕
=(四川)炒手
=(湖北)包面
=(皖南※)包袱 ※安徽省南部
=(江西)清汤
=(新疆)曲曲
=(インドネシア)パンシット (pangsit)
≒(ベトナム)ミーバンタン
※ワンタン麺
≒(タイ)バミーキアオ
「面」というのは広義には小麦粉を練った固形食全般を言うので,ワンタンも面の一種。ただ,細切りにする加工前という点で,面の最も原初形態でもある。日本の「すいとん」や韓国の「スジェビ」が同列の食法でしょう。
逆に言えば,漢族食文化圏でのこの馄饨系諸料理は,明らかに吸引力のある一体的な料理です。
(1) 呼び名だけがこれほど拡散しうるのか?
福建の扁食もそうですけど,四川のこの炒手もはっきりと馄饨に類似してる。
なのに字も音も類似しない。
同時多発的なものではあり得ない。でも,ある場所から伝わる時に呼び名の音は少なくとも一緒に伝わるはずです。
例えば「炒手」の由来には,広げた手のひらのようだ,とか,四川の伝統音では馄饨は発音し辛かった,とか様々な説がある。でも伝わった時に元々あった名前を差し置いて,そんな名付けがされることってあるのか?
(2) 名前のない料理
そう考えると,この料理には元々名前が無かったのでは?と想定するとしっくり来ます。あるいは,名付けるべきでない料理。
それと一番符号する馄饨系料理の由来話は,北京で最も巷説に登る,この奇妙な伝承です。──昔,毎年北から襲ってくる匈奴の首領に「浑」(ワン)親分と「屯」(タン)親分がいて,実りの秋に散々略奪された後,すっからかんだけどもう奴らの来なくなった冬至に恨みをこめて食ったものが馄饨と呼ばれ初めた…という由来。
この話のポイントは2つあります。冬至に馄饨を食べる習慣が「呪詛」に原型を持つ点。もう一つは,馄饨が人間あるいは人体を象徴していたという点です。
ここまで来ると,もう仮説のプロットは見えたと思いますので,悪い予感のする方,お食事中の方,あるいは可愛い女の子は次章にお進みください。
(3) なぜ冬至に食べるのか
冬至の食べ物は,日本ではこういう発想です。──日が最も短い,即ち死が近い季節だから厄除けの物を食すべし。
中国の発想はもう少し「前向き」らしい。──ここから先は日が長くなるばかり。つまり運気の上昇局面に入る。
饅頭が「生首」を象徴していたのは,諸葛孔明の饅頭創始譚でも有名です。同じく肉を皮で包んだ小振りな馄饨は,だからそれが山を築いてるようなイメージになります。
漢民族は,冬至に馄饨系料理を食べることで,血みどろの反撃を誓ったのではないか?
「前向き」な呪詛として,当初は相当本気で考えられてたのがこの料理だった,とすれば──そういう裏料理に名がないのはありうることに思えます。名がないまま広まり,呪術的な色彩が薄れた後に各地でてんでバラバラな名前が付された。
こんな共通項の多い料理が,これほどバラバラな呼称を持つ理由は,そういう形しか考え付きませんでした。当然根拠資料に乏しいですけど,どう思われるでしょうか?
いや何せこの前日の成都で,兎ちゃんの頭の話に出会してたもんで,ついグロい話題になっちゃいました。
※ 冬至に食べるものはかぼちゃだけではない!こんにゃくやうどんも [2020現在ページ消失確認]
※ tenki JP/饅頭の由来はかなり怖ろしい!?「三国志」とお天気と中華まんじゅう
【その他全般資料】
※ 8oc haochi/餛飩(フントゥン)|地域によって様々な呼び名のワンタン
※ 知乎/豆果美食/云吞、炒手、馄饨,傻傻分不清?
※ 百度百科/龙抄手
「未曾考较过“抄手”一名是如何由来的,但是从巴蜀一带发音的韵律来看,“抄手”一词显然更符合巴人的习惯。因“馄饨”一词用四川话发音乃是降调,而“抄手”的发音不仅是升调且余韵悠长,可以在川人的腔调中无限地延伸上去,高妙之处尚有余力自由地转上几转,收梢处依稀听得出那么一点点川剧的花腔调。」
※ 百度知道/扁食的由来
※ 第一星座网/文化风俗/带你了解馄饨的由来
「过去老北京有“冬至馄饨夏至面”的说法。相传汉朝时,北方匈奴经常骚扰边疆,百姓不得安宁。当时匈奴部落中有浑氏和屯氏两个首领,十分凶残。百姓对其恨之入骨,于是用肉馅包成角儿,取“浑”与“屯”之音,呼作“馄饨”。恨以食之,并求平息战乱,能过上太平日子。因最初制成馄饨是在冬至这一天,所以在冬至这天家家户户吃馄饨。」