油煳干青∈5貴陽:電台街1∋糟酸麻蒜


[前日日計]
支出1500/収入1600
負債 100/
[前日累計]
     /負債 206
§
→一月二日(三)
0954腸旺面250
1045金沙牛肉粉200
1207蒸好吃500
1245天心把把匠150(1200)
1747湘湘飯店500
[前日日計]
支出1500/収入1700
負債 200/
[前日累計]
     /負債 6
§
→一月三日(四)


貴陽四度目の老城歩き。初回にあてずっぽうに歩いた東側にこだわってみました。
~(m–)m 本編の行程 m(–m)~
GM.(経路)

NOVOTELから藤原静香

▲0802ノボテルのお部屋から見る朝の,とても涼しげな貴陽

豪華ホテル(まだ言うとる)から,朝,リュック引っさげて分相応な七天に移る。
 ここは,あの郵電前の常宿の移転地なんだろか?高架下の都司路と中華路の交差点北西角,マップでは中都大厦でヒットする新しいビルの中。
 0833。七天のカウンターでチェックイン手続きを求めと,コンピュータへの何かの登録に時間を要した。パスポートの入国スタンプを見て「AUGって何月だ?」とか訊いて来る…ってのは初めてです。今だけなのかもですけど,一般に,七天と速八のカウンターはちょっと怖さがある。
 交通事情は良さそうですけど,周囲にあまり店舗はない。

▲「藤原静香」ふりがな付き。このふりがなだけで日本風「tea&coffee」とアピールできとるのか?

都士路,炉国路,指月路

んなこんなで遅くなった。0854,歩き始め。
 寒い。とうとう首巻きを装着する。
 やはり百度地図は位置を拾ってくれてる。条里の升目と湾曲する河川と城壁のラインが入り乱れる貴陽の歩きには,これ強い味方です。
 全くの勘ですけど…万東橋方向へ東行しよう。
 道は都司高架橋路。やや登ってます。

▲0905都司高架橋路。寂しい通りなのに,どこかシブい。

ういう界隈だろう。旧城南端壁内側のはずだけど,地形が妙にアップダウンしてる。
 道や家屋もそれに自然に連なる。配置が古いのだろう。
 0906,バス停炉国路口。その名の通り炉国路が現れました。少し華やいでるので入ってみる。左折北行。
 道は左へ緩い湾曲。僅かに下ってる。
 貴陽市第二十一中学。向かいの指月路へ右折東行。

▲0913指月路。やはりシブい。でもやはり何もない。

スタバ,ピザハット,ユニクロ

昌南路。0914。
 当面目指した大通りです。左折北行。
 急坂を登る。スタバ,ピザハット,ユニクロ?なぜここが外資に注文されとるの?
 バス停東門。なるほど旧城東出入口か。観光地,あるいは候補だった時期があるらしい。
 中山東路を北へ渡る。交差点全体に傾斜あり。北西角に公園。百度地図には東門旧址と表示がある。

▲0915文昌南路。雪かきしてる店の人。てことは,降雪は珍しくはないらしい。

貴陽=雪ダルマ説

て,いい加減この辺で,目論見をオープンしときます。
 貴陽の城壁は,今はない。
 かつて存在したそれは,下図のような「8」の字,あるいは雪ダルマ型を描いてた。
 文昌南路は雪ダルマの左腰から足の辺り。
 この左腰部は,貴陽城の特徴である二つの円環城の接合部であるとともに,不自然に道が途切れてる。つまり居住域か,さもなくば特殊な軍事領域だった,と推測できる。

▲貴陽城内外壁位置図

みにこの二円環,もちろん最初からの設計ではない。腰から下が元代,上が明代の城。
 雪ダルマを作る要領で,○に○を継ぎ足した訳です。なぜ継ぎ足しにしたのか,明記したものはないようですけど,一般には手狭になったからとされる。

▲(百度地図)同内城壁北端相当地域

も──明代の早い時期に整備したのだから,清のような実際の敵襲を想定してではなく,平時の治世を目的とした拡張と考えるのが自然です。
 実際は,旧城の基礎インフラのキャパが追い付かなくなりスラム化に向かった,とかでしょう。東半分の道の途中中断(円通路など)や,中心地と推測される省府路界隈の道の交錯がそれを窺わせる。
 明代円環を北に継ぎ足したのは,南半円弧の城濠代わりになってた南明河を引き続き障壁として利用したかったから,それと方位相上でしょう。

▲0923東門石垣の広場で太極拳する人々

電台街,四枚

はりお決まりなので,石垣に登ってみる。
 真東,遥か高みに五重塔と鉄塔の山。これは昨夜も見えてた。
 手前眼下の広場では太極拳。
 ここの城壁は古いものとは思えない。観光用の建造です。一応上がってみると,「武勝門遺跡」と1998年の貴陽市人民政府名の石碑がありました。
 ただまあ,ここが旧城壁ラインというのは本当でしょう。なぜなら,この西に細道が伸びてるからです。名は電台街と表示あり。
 なぜか,この細道は中山路に接続してない。この観光東門の工事時にあえて接続を絶つ障壁を新たに造ってる。

▲0933電台街。南入口で振り返る。

い道です。0927ゆるゆると北行。
 いきなり登りになる。
 いつ途切れてもおかしくない蛇行路なので,百度地図で一応事前確認。地図上は北で途切れてる。つまり公式には南北が絶たれてる道。隠したい意思が働いてると見た。

▲0934電台街(2)。

陽市省府小学がある。わざわざこんな路地裏に?でもこれは地図にもちゃんとある。
 写真の「苗家点穴療法」は苗族風ツボ療法。聞いたこともないけれど,苗族の,と付けると何か秘密のパワーが,みたいな風になってんだろうけど,とにかく…怪し過ぎる。
 抜けれそうな気配です。

▲0934電台街(3)

び登りになった。坂の上は,どうやら地図上は途切れてるポイント。
 うーん?どーゆー道なんだ?古い道でもないのに生活感だけは満点。
 東門北に自然の岩盤でもあって,そこの城壁内側に無理矢理拡げたような居住区…つまり悪地の庶民地区のような所なのか?
 坂の上から,道は東に90度湾曲してガタガタの下りに。そして0941,再び文昌北路へ出た。
 左折北行。

▲0940電台街(4)。湾曲先の出口辺り。

■小レポ:貴陽 RADIO STREET

 電台街というのは,もちろん今はどこにもないけれど,「電台」(ラジオ局),具体的には「貴州廣播電台」(1950年「貴州人民…」に改称)があったから,という場所。
 では最近の創建かと言えば,史料「黔記」に君子亭という建物があったと記載され,それは王陽明の活動拠点の一つらしい。つまり遅くとも16世紀初めに端を発してる。
 城壁のある時代の地図にもある。
 陽明の好きな花にちなんで「蓮花坡」と呼ばれた,という記事もあるけれど,それが電台街になる直前の名称かどうかははっきり書いたものがない。
 そもそもここに置かれた「ラジオ局」というのは対日帝戦の「秘密通信局」だったようなので,この立地を選んだのは位置を秘匿しやすいから。つまり庶民の居住区最奥といった場所だったと思われます。
 分かるのは,①東城壁下の傾斜した悪地だったけど②ラジオ局が出来て久しぶりに名を得て③東門の観光化で注目されるに至った,という程度。
 むしろ分からないのは,君子亭を初め,ここになぜこんなにも古廟寺が集まってるのか,という点。霊地とされる理由が見当たらない。
 何か特別なのに,何が特別か分からないんである。
 強引な解釈すら浮かばない。
※ 每日頭條/貴陽電台街——很本土的文藝氣息
「君子亭,恐怕就是老街最古老的文物了。據文史資料記載,李宗昉《黔記》云:『省城外東南近城垣,新建君子亭,為陽明也。』又因王陽明愛蓮花,因此在亭前有池塘數畝,種有蓮花,這也是「蓮花坡」這一地名的由來。」
「大覺精舍是明末清初貴州最大企業家華之鴻的私家供奉禪院。俗稱華家閣樓,建於1923年。
抗日戰爭時期,貴州創立廣播電台,租用藏經樓底層及右廂樓房為辦公室及播音室,精舍所在街道,因之叫電台街。」

※ 每日頭條/沒走過這條街的人,永遠只是貴陽的過客!
「1938年4月,貴州廣播電台籌建,1939年1月1日正式播音,當時租用華家閣樓作為台址。
1949年11月15日貴陽解放後,人民政府接管了貴州廣播電台,並於1950年1月1日更名為貴州人民廣播電台」
「楊婆婆烤肉、楊老五烤肉、小胖烤肉,電台街「三足鼎立」的三家烤肉店,好口碑、好味道不用多說貴陽人都知道。」

※ カラフル貴州/陽明文化の起点―貴州
「明代の著名な思想家王陽明(1472年~1528年)は貴州ではある時期非常に重んじられた。貴陽や龍場(現在の修文)には多くの王陽明の遺跡がある。修文陽明洞の玩易窩、陽明小洞天、君子亭、賓陽堂、龍岡書院、三人墳。これらは王陽明が当時活動していた名所旧跡である。」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です